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2-9-7:お休み処 [峠◇第2部]

 松屋に来て、1年が過ぎた。
鉄三は、祝言で鯛汁を出して以来、汁物の料理を負かされるようになっていた。ご主人に言われたとおり、あの日から『鯛汁』だけでなく、いろいろな汁物を勉強している。ただ、概して、ここに来るお客さんは、御酒の席が多いせいか、濃い味が好みらしく、鯛汁以外の汁物は、不人気であった。

一方、松屋では、『お休み処』を改装して、ぶらりと立ち寄り、気楽に食事もできる場所に変えていた。以前からも、「料亭は敷居が高い」と言われている事を何とか変えたいとご主人は考えていたのだが、鉄三と和美が来たのをきっかけに、思い切って始めたのだった。

料理の仕事を本格的に始めた鉄三と、奥の仕事にも慣れてきた和美に、『お休み処』の仕事を任せる事にした。最初、二人はそこの料理で、松屋の評価も受ける事になるから、半人前の人間には荷が重いと躊躇していたが、女将さんが、「ならば、献立もひとつに絞ってみたらどうか」と薦め、ご飯と鯛汁を中心に季節の揚げ物の付いた『潮風定食』だけになった。もちろん、『お休み処』なので、お茶を飲むだけでも立ち寄れるという約束はそのままであった。

この頃、名古屋の駅前の開発が進んでいて、駅裏には、地方からの出稼ぎ者が多かった。少ないお手当ての大半を故郷に送り、わずかな生活費で暮らす人にとっては、松屋は縁遠かった。だから、大きな案内の貼紙をしても、皆、チラッと見ては通り過ぎるだけであった。煌びやかな概観の松屋はやはり敷居が高かったようだった。

ある日の午後、和美が、店先の掃除をしていると、御婦人が、松屋の前で大きな荷物を抱えて立ち止まっていた。どうやら、誰かのお宅を訪ねるところの様だったが、道が判らず難儀をしている様子だった。
和美が声を掛ける。
「こんにちは。どちらかお探しですか?」
ご婦人は躊躇いながらも、一枚の紙を広げた。その紙には、駅からの道筋が書かれていたのだが、どちらが北か南かも判らなず、かなり大雑把に書かれたものだった。
「ここへ行きたいんですが、ちっとも判らなくて。・・私の息子が住んでいる所です。私は字が読めないので主人が地図を書いてくれたんですが、いい加減なもので、もう2時間くらいこのあたりを歩いてるんです。」
「それは、お困りですね。もしよろしければ、少し、お休みされたらいかがです?店のものなら、住所を聞けば判るものもいるでしょうから・・どうぞ?」
と案内した。ご婦人は、随分遠慮されていたが、かなり疲れた様子で、『お休み処』へ入っていった。和美は、仲居たちに事情を話した。副主任の和子が、尋ね先の住所に心当たりがあるからと言って、出て行った。
ほどなく、戻ってくると、
「息子さんがもうすぐこちらにお見えになるそうです。」
と伝えてくれた。

「あの・・おふくろがこちらにお邪魔しているとお聞きしたんですが・・・」
まだ、10代と思しき青年が現れた。
「ああ、剛司。」
その後婦人は立ち上がって、その青年に抱きついた。
「なんだよ、母ちゃん。突然来るなんて・・びっくりするじゃないか。」
「・・・だって、ちっとも電話もしてこないし・・・病気にでもなってるんじゃないかって・・」
中学を出て、すぐに、名古屋の建設会社に就職した。故郷を出てから、一度も帰郷できずにいたのだが、少し前に体調を崩してしまっていて、電話もできずにいたのだった。音信が無いのを心配した母親が、尋ねてきたということだった。
「さあ、うちへ行こう。ここは俺たちが来る様なところじゃない。本当にご迷惑をお掛けしました。」
青年は頭を下げる。それを聞いた和美が、
「そんな事ないんですよ。ここは、ご近所の皆さんに、気軽に立ち寄ってもらいたくて開いているんですから。」
青年の母親も、
「この人が声を掛けてくれて、あたしゃ,ほっとしたよ。・・久しぶりにお前に会うんで、田舎の土産もたくさん持ってきて・・もう重かったんだから・・ちょっとくらい休んでいたっていいじゃないか。」
「田舎のお土産ってどんなものなんですか?」和美が尋ねた。
「ああ、これさ。」
持っていた鞄を開くと、何重にも包れた袋から、漬物を取り出した。田舎の畑で取れた白菜や大根等を漬けたものなのだろう。
「まあ、おいしそう。みんなお母様が?」
「まあね、田舎じゃみんな自分でこさえるからね。・・漬物は自信があるんですよ。・・良かったらどうぞ。」
「ありがとうございます。・・それなら、今、ご飯をお持ちします。ここで、ご一緒に夕飯を済まされたらどうですか?汁物もありますから。」
それを聞いた青年が、
「あの、お高いんじゃないんでしょうか?」
「あら、何をおっしゃるんです。お代なんていただきませんよ。お母様のお漬物を少しいただければ結構ですから・・」
「それなら、お願いします。まだ、稼ぎが多くないですが、せっかく田舎から出てきてくれたお袋にも何かしてやりたいとは思っていたんです。こんなお店で食事が出来るなら・・」
「判りました。すぐご用意しますからね。」
厨房にすぐ連絡し、二人前のご飯と鯛汁が用意された。
二人はゆっくり味わいながら、田舎の事、名古屋での暮らしの事など語り合っていた。
「ご馳走様でした。何だか、田舎に帰ったような気分でした。お袋も、随分喜んでいます。ありがとうございました。」
二人は、うれしそうに店を出て行った。

数日が過ぎて、急に、『お休み処』を訪れる客が増えてきた。昼には仕事休みの作業員が数人連れ立ってくるようになった。

ある日の昼の事。
「おお、ここだ、ここだ。鯛汁が美味しいって、ほら、剛司のやつ、宣伝してたじゃないか。寄ってみよう。」
「鯛汁なんて、懐かしいなあ。」
そう言って、客が二人入ってきた。
和美が、お茶とお絞りを持っていくと、
「あんたが、和美さんかい?剛司が世話になったんだってね。ありがとう。」
と、中年の男性客が話しかけてきた。
「そいつが、ここの定食、涙が出るくらい美味しかったって、会社で話していてね。何人か、来たらしいんだが、やっぱり皆、そう言うんだよ。で、来たんだって。」
「まあ、それは、ありがとうございます。剛司さんにも、またおいでくださいとお伝えください。」
「ああ。・・・鯛汁なんて、ここらじゃなかなか無いからな。俺の故郷じゃ普通だがな。」
「え?どちらのご出身なんですか?」
「俺は、山口さ。こいつは、福岡だ。今、駅前のビルの工事で、来てるんだよ。あそこの工事現場、九州や山口から出稼ぎに来てる人間ばっかりでね。ここの話を聞いて、皆、懐かしがってるんだ。・・板前さんもあっちの方の人かい?」
「ええ、山口からきています。」
「それじゃあ、きっと美味いはずだ。楽しみだね。」
「少々お待ちください。すぐにお持ちします。」
急に客が増えたのは、剛司が宣伝してくれたためだった。
それからもしばらく、客足が途絶えることなく、『お休み処』は繁盛した。客からも、昼だけでなく、夜もやってほしいと言われ、夜にも開くようになっていた。
和美は、朝は奥の仕事、昼と夜には『お休み処』の仕事と、一日中働くようになっていた。その合間に、幸一の世話もこなしたが、手が離せない時には、松屋の娘の恵がみる様にもなっていた。


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