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2-7-3:料亭『松屋』 [峠◇第2部]

 銀二は、『松屋』の前に着いて気がついた。油に塗れた洋服のまま、来てしまった。こんな身形じゃ、快く迎えてもらえないかもしれない。どうしようか迷っていたところに、ハイヤーがやってきた。二つほどクラクションを鳴らすと、その車は『松屋』の前で停まった。
「あら、まあ、銀ちゃんじゃないの?どうしたの、突然。」
そう声をかけながら、車から降りてきたのは、松屋の女将だった。
「ご無沙汰してます。その節は・・」
と銀二が挨拶しようとしたら、
「何、他人行儀な挨拶してんのよ。さあ、入って!ちょっと、誰かいる?」
そう女将が言うと、店の中から数人の仲居が飛び出してきた。
「この人はこの店の恩人なの。決して粗相のないようにね。さあ、お部屋にご案内して。・・あ、それより、お風呂に入る?何だか、仕事を終えたばかりって感じだから。さあさあ、遠慮はいらないから。ほら、あんたたち、ご案内して!」
そう言われ、案内されるまま、銀二は店の中に入った。仲居の案内で、店の奥にある大浴場に行った。
3日ぶりの風呂だった。エンジンの故障で負った火傷がまだそのままで、湯船にゆっくり浸かる事は出来なかったが、湯をたっぷり浴びて汚れを落とした。風呂から上がると、若い仲居が待っていた。仲居は、銀二の火傷を見て慌てた。
「そのキズはどうされたんですか?まだ、傷むんじゃないんですか?」
そして、キレイな包帯を取りに行き、優しく巻きなおしてくれた。着替えが用意されていた。別の仲居が、部屋に案内した。

部屋に入ると、女将が待ち構えていた。
「済みません。突然押しかけて、お風呂まで入れてもらっちゃって。」
「また、他人行儀な事、言ってないの。それで、何か恩返しできそうな事持ってきてくれたの?」
「いや、そんなつもりじゃなかったんですが・・・」
「じゃあ何?近くに来たから寄っただけっていうの?わざわざ、向島から名古屋まで遊びに来るほど銀ちゃんは遊び人じゃないでしょう?」
「済みません。実は、ひとつお願いがありまして。」
「良いわよ。銀ちゃんが言うことだったら何でも・・この店が欲しいって言うんなら、上げても良いわ。」
「そんな、自分が欲しいものなんてありません。いや、実は、弟の事なんです。」
「弟さんって・・ああ、確か、鉄三さんよね。料理人の修行中だったわね。以前に一度、村田屋さんでお話した事があるわ。けっこうしっかりした料理を作ってたわね。主人も褒めてたわ。」
「ありがとうございます。・・・それで、無理を承知でお願いなんですが、弟をこちらで預かってもらえないでしょうか?出来れば、ここで修行して一人前の料理人にしてやって欲しいんです。」
「そんな事、うちは構わないけど・・何か事情があるの?」
「ええ、実は・・・」
銀二は、鉄三と和美の話を女将に洗いざらい話した。

一通り、事情を聞いた女将は、あっさりと応えた。
「良いわ、よくわかったわ。良いでしょう。ここで住み込みで、3人とも預かりましょう。」
「ありがとうございます。一生恩に着ます。こちらなら安心なんです。・・・ただ、もうひとつお願いが。」
「何?まだあるの?全部引き受けるわよ。何?」
「こちらにお世話になるのは、俺がお願いしたというのは伏せておいて欲しいんです。数日後に、弟が俺のところに相談に来ます。その時、弟からこちらへお願いするよう仕向けます。一旦、断って欲しいんです。」
「あら、何故?」
「いえ、弟が本気で真面目に働く気持ちがあるか試したいんです。断られても食い下がるようじゃなきゃダメなんです。女将さんも、弟の気持ちが本物かどうか試していただきたくて・・。」
「そうね。中途半端な気持ちじゃ、いずれダメになるだろうから。良いわよ。しっかりそのお役、務めましょう。」
「ありがとうございます。」

話が終わったところで、女将は仲居を呼んだ。そして、料理を運ぶように言いつけた。
しばらくすると、料亭ならではの見事な料理が運ばれてきた。
「さあ、召し上がって。銀ちゃんはいつも他人の心配ばかりしてるんだから。たまには贅沢も良いものよ。さあ。」
そう女将に勧められたが、銀二はその料理を見て、
「女将さん、こんな料理、俺には、もったいないです。・・・それに、すぐに戻らなくてはいけないんで。ここに来るのに、知り合いにお願いして貨物船に乗せてもらってきたんです。」
「え?電車できたんじゃないの?道理で、油まみれだったわけね。」
「電車なんてどうも性に合わないんです。ぼーっとしてるのは苦手で・・船ならいろいろ仕事もありますし・・」
「何なのよ。突然来てお願いだけしてとんぼ返りなの?主人だって、夜にならないと戻れないのに。」
「本当に済みません。・・・それならって訳じゃないんですが・・・この料理、持ち帰れませんか?船で一緒にすごした奴らに食べさせてやりたいんです。こんな店に来れるような身分じゃないですし、礼になったお返しにもしたいんで。・・・わがまま言って済みません。」
「あら、お安い御用よ。何時なの?帰る時間は。」
「夜7時には出航なんです。」
「ああ、そうなの。じゃあ、まだ時間はあるわね。あなたはこの料理を食べてちょうだい。すぐに、別のお重を用意するわ。それから、港までは、うちの車で送っていくから、それまでゆっくりしてって。判ったわね。」
「ありがとうございます。本当になんてお礼を言ったら良いのか・・・。」
「何を言ってるのよ。あなたから受けた恩と比べればこんな事は大したことじゃないわよ。また、いつでも遊びに来てよね。」
銀二は、目の前の料理に少し手をつけた。どれも美味しかったが、それよりも、女将さんの優しさが有り難かった。

『松屋』の女将は本当に優しい人だった。まだ、銀二が二十歳の頃、向島で出会った時は、切羽詰って夫婦で心中するつもりだった。銀二と浜で会い、心中するのを引き止められ、心機一転、夫婦でやり直して、店をここまで大きくしたのだ。銀二との出会いがつないだ今の人生。そう思うと、松屋の夫婦は、銀二を命の恩人と思っているのだった。そして、自分の欲で無く、他人の幸せのために、奔走する銀二を知って、ますます銀二の役に立てる事なら何でも叶えたいと思っているのだった。

6時近くになって、銀二は帰り支度を始めた。女将さんは重箱を三つ、風呂敷に包んで銀二に手渡した。そして、運転手に言って、港まで送らせた。


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