SSブログ

2-6-1:鉄三の困惑 [峠◇第2部]

翌朝、鉄三は朝餉の支度を終えてから、主人に、
「すみません。ちょっと用事で出かけてきます。ええ・・昼の準備もあらかた済んでいますから・・はい、ちゃんと戻ります。それじゃあ済みません。」
そう言って、店の自転車を借りて、病院へ向かった。
問屋口の大木総合病院までは自転車で30分ほどのところだった。行く途中、和美にどんなふうに話をしようかと考え続けていた。
昨日、銀二に言われたように、和美がどうしたいのかをしっかり聞き出せれば良いが、果たして、ちゃんと話をしてくれるだろうかと不安になっていた。

病院の前に着いた。病院の玄関はまだ診療前で開いていなかった。
塀沿いにぐるりと回ってみた。高い塀と生垣に囲まれた敷地は思ったより広かった。裏手に回ると、屋敷が見えた。通用門があって、呼び鈴が付いていた。

鉄三は、緊張でどきどきしながら呼び鈴を押した。しばらくすると、屋敷の玄関が開いて、お手伝いさんのような人が出てきた。小さな通用口を少し開けて、「あの、どちら様でしょうか?」と尋ねた。
「朝早く、済みません。福谷鉄三と言います。昨日、先生から電話をいただいて伺ったんですが・・」
お手伝いさんは、「少々お待ちください。」と言ってまた屋敷に入って行った。
少し開いた通用口から、そっと中を覗いてみた。
門の右側に、広い庭が見える。築山のようになっていて、見事な庭園だった。池もあるようだった。左手には車庫があり、黒塗りの乗用車が入っているのが見えた。
「医者ってのは儲かるんだな。」と呟いた。

玄関が開き、先ほどのお手伝いさんが、「こちらへどうぞ」と手招きをした。
鉄三は、辺りを見回しながら、そっと家の中に入って行った。
広い玄関は、旅館を思わせるような風格があり、広い廊下が奥に続いていた。お手伝いさんは、スリッパを並べ、どうぞと案内してくれた。静かに後を付いて行くと、リビングルームに案内され、「少しお待ちください」と言われ、ソファに座るように勧められた。
なんだか落ち着かない雰囲気の中、鉄三は、借りてきた猫のように大人しく座っていた。
ドアがガチャリと開いて、また、お手伝いさんが入ってきて、お茶を並べた。そして、
「もうすぐ、ご主人が参ります。」と言って出て行った。

じっと待っていると、大木医師が白衣で現れた。鉄三は緊張した面持ちで直立不動となった。
「いや、済まないね、わざわざ来てもらって。午前中の診療が始まるところで、ちょっと忙しくて・・ああ、今、和美さんを呼んでくるように言ったから、よく話を聞いてやってくれ。済まないが、私は仕事があるので失礼する。まあ、ゆっくりして行ってくれ。」
それだけ言うと、また部屋を出て行ってしまった。

また、しばらく時間が過ぎた。なかなか和美は現れなかった。
30分も待っただろうか、先ほどのお手伝いさんが現れて、
「済みません。和美さんが、会いたくないから帰って欲しいと言われているのですが・・」
と済まなそうな面持ちで言った。鉄三は戸惑った。来る途中も予想はしていたのだが、やはり、和美はかなり悩んでいるとわかった。それに、もう村田屋に戻る事など考えていないのだとも判った。
「和美ちゃんは、元気にしていますか?」
とお手伝いさんに尋ねてみた。
「ええ、体のほうは大丈夫でしょう。食事も摂られていますから・・ただ、昨日は一日ぼんやりされていて、部屋から出ようとはされない様子でした。私もお世話させていただくにしても、何をどうしたらよいのか・・」
「あの、どこに居るのでしょう。」
「ええ、向かいのお部屋にいらっしゃいます。」
鉄三は、そう聞いて、すぐに廊下に出て行った。そして、ドア越しに声をかけた。
「和美ちゃん、鉄三です。先生から連絡を貰ってね。・・あの・・うん・・直子さんもセツさんも、兄貴も心配してる。とにかく、和美ちゃんの気持ちをしっかり聞いてこいって兄貴が言ってたんだ。だから、今、和美ちゃんがどうしたいのかを教えて欲しいんだ。何か聞いて帰らないと、また、兄貴にどやされる。ねえ、和美ちゃん。話を聞かせて欲しいんだ。」
返事は無かった。そこへ、診療中の大木医師が現れた。
「済まないね、和美さん。昨日の君の様子を見ていて、鉄三さんに来てくれるように勝手に頼んでしまって。僕は君にここに居てもらえば良いと思うんだが、どうも、君はそう思っていないようだったからね。今の気持ちを鉄三さんに話してみたらどうだい。」
そう言うと、ドアが開いた。中から、うつむき加減で和美が顔を出した。
「良かった。まあ、まだ、気持ちは定まっていないと思うが、思ってる事を鉄三さんに話してみなさい。」
そういうと、大木医師は、鉄三の背中を押した。
「ごめんね。和美ちゃん、僕が守りきれなくて。本当にごめん。」
鉄三は頭を下げて詫びた。
「そんな。鉄三さんのせいじゃないわ。・・・」
和美はそう言うと、鉄三の手を握った。和美の手は温かかった。

和美と鉄三は先ほどの部屋に戻って、ソファに座って二人きりで話すことにした。

「昨日は、皆、戸惑っていたよ。急に居なくなったから。居場所がわかって、兄貴のところに行ったら、直子さんとセツさんが居てね。出て行くといってもどこに行ったのかって、皆、心配していたんだ。僕が、村田屋に連れ戻しに行くって言ったら、兄貴にすごく怒られたよ。また、和美ちゃんを傷つけるつもりかってね。」
「そう・・皆さんに心配かけて、済みませんでした。」
「いや、あの夜のことを思えば、和美ちゃんが出て行ったのはよくわかる。女将さんに言われなくても、あんな怖いところには居たくないのは当然だよ。」
「ええ、怖い思いはあります。でも、何だか、私が居るせいで、皆さんが言い争ったり、けんかになるのは嫌なんです。」
「そうだね。アキさんさえ帰ってこなければ・・・」
「そんな!アキさんの家なんですもの。そうじゃないのよ。私が、幸一の母親代わりなんてしなければ良かったんです。大体、自分子供を亡くしてしまった女が他人の子どもを育てて幸せを味わっているのがそもそも罰当たりだったんです。」
「そんな事はない。和美ちゃんが居てくれたから、幸一だってあんなに元気に大きくなったんじゃないか。それはみんな感謝してる。僕だって、和美ちゃんが居なければどうしていたか・・」
「いえ、いけないんです。私は幸せになる資格なんて無いんです。」
「馬鹿な事言うんじゃないよ。兄貴が聞いたら怒るよ。君を救った事も全て聞いた。今、きっと、兄貴が一番伽しい思いをしてるはずだよ。ようやく幸せになりかけてたのにって。兄貴は、とにかく、これ以上、和美ちゃんが傷つく事はダメだ、なんとしても幸せにならなきゃいけないって言ってたんだ。」
「銀二さん・・・もう、しばらく、会ってない・・・せっかく命をつなぎ留めてもらったのよね・・・」
「そうだよ。兄貴は言ってたよ。きっと幸一を育てている時は生きてるって実感があったはずだ、だが、村田屋に戻るとまた傷つく事になる。だから、怖くて何も出来なくなってるだろう。しっかり、和美ちゃんの気持ちを訊いてこいって。」
「そう・・・銀二さんが・・・私の気持ち・・・銀二さんに逢いたい・・・」
和美の答えは鉄三には意外だった。村田屋に居た時はまったく面識が無いものだと思っていたし、銀二から一連のいきさつを聞いたときも、和美がそういう感情を銀二に対して抱いているとは予想もしていなかったのだった。
「和美ちゃん・・兄貴の事・・」
鉄三はそう言い掛けたが、急に、その後の言葉を口にするのが怖くなった、答えを聞き、もしそうだと言われた時のことを想像しただけで、何か、胸の中がざわざわとしてくるのだった。そんな時に不意に、直子の言葉が浮かんできた。

『自分の胸の中に大切なものがあるって気づくから』
そうだった。1年近く一緒に居て、幸一の面倒を見てもらい、昼夜ともに過ごしてきた。今、何よりも、和美は自分にとって大切な存在だったと気づいたのだった。兄貴はどう思っているのだろうと考えると、一層、胸の中がざわざわし始めた。

ぐっと胸の中の思いを押し留めて、
「ねえ、和美ちゃん。セツさんのところへ行かないか?あそこなら、部屋もあるし、以前に居たところだから勝手もわかるだろう。」
「でも・・」
「いや、セツさんと直子さんもそう言ってたんだ。それに、あそこなら、僕が幸一を連れ出して逢わせることもしやすいじゃないか。ここも居心地はいいだろうが、なかなか幸一には会わせられないし・・」
「ああ、幸ちゃんに会いたいわ。そうね。セツさんが良いって行ってくださるなら・・また、住まわせていただこうかな。・・」
「そうさ、そうしなよ。その先のことはまた考えればいいじゃないか。」

鉄三は、セツさんの家が銀二の隣で、和美が承諾したのは銀二も会えるからだろうかと、変な疑念を持ってしまう自分が嫌だった。何度も打ち消したが、なかなか消えなかった。それでも、和美がそうしたいというなら、それが一番だと自分に言い聞かせた。

「じゃあ、僕が先に帰って、セツさんや兄貴に話しをしておくよ。そうだなあ・・和美ちゃん・・甘えついでに、先生に向島まで送ってもらうことは出来ないかな・・・」
実は、廊下には大木医師が立って二人の話をおおむね聞いていたのだった。そして、ドアを開けて
「話は終わったかい?」
と入ってきた。
「すまないね。少し早めに午前の診療が終わったものだから。和美さん、向島へ帰るかい?」
「済みません。先生には感謝してます。行き場の無かった私によくしていただいて・・・本当にありがとうございます。でも、やっぱり、ここは私にはもったいないです。ここに居ると私のやれることは何もなくて・・本当に自分勝手で済みません。やっぱり、幸一の近くに居たいんです。」
「いや、僕のほうこそ、勝手に連れてきてしまってすまなかったね。そうと決まれば、早いほうがいい。鉄三さん、悪いんだが、先に戻って帰れるように算段してくれないか。今日は、午後休診だから、昼食を終えたら、和美さんを送っていくから。」
その言葉を聞いて、鉄三は、
「ありがとうございます。先生。このご恩、一生忘れません。」
そう言って、急いで、向島へ戻っていった。

鉄三を見送りながら、大木は、
「いい青年だ。まっすぐで優しくて。和美さんの周りには素敵な人がたくさん居るね。」
と言った。それを聞いて和美は、
「はい。先生もそのお一人です。本当にありがとうございます。このご恩は一生忘れません。」
と頭を下げた。
「そうかい。なら、お昼ご飯を一緒に食べよう。そうだ!もし、君が私へ恩を感じているのなら、時々、ここへ来て、一緒に食事をしてくれるってのはどうだい?」
「何だか、変な恩返しですね。でも、嬉しいです。ぜひ。それと、今度は、幸ちゃんも一緒でも良いですか?」
「大歓迎だよ。」

その日の午後、和美は、大木の黒塗りの乗用車で、セツさんの家に送ってもらった。
向島大橋を通り、港を抜けるときは、村田屋の前を通らざるを得ないため、やはり気まずくて、窓から見えないよう頭を低くして通過した。島に入り、ほんの5分ほどでセツさんの家に着いた。
「ありがとうございました。」
「約束、忘れないようにね。」
大木医師は、笑顔でそう言うと、車の向きをかえ、さっさと帰って行った。

舗装されていない道路には砂埃が舞い上がり、しばらく、辺りが見づらかった。砂埃が静まると、家の前にセツさんが立って、じっと和美を見ていた。
「セツさん・・・」
そう言うと、和美はセツさんにすがりついた。セツさんは子どもを抱くように和美を迎えた。
「何も言わなくていいから、さあ、お入り。蒸かし芋、作っといたからね。」


nice!(1)  コメント(0)  トラックバック(0) 

nice! 1

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。

Facebook コメント

トラックバック 0