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2-8-6:駆け落ちの朝 [峠◇第2部]

約束どおり、港前で落ち合った二人は、幸一を胸に抱いて、向島大橋を渡った。
橋の真ん中で、鉄三は振り返り、村田屋に向かって深々と頭を下げた。
これまでに受けた恩とそれを裏切る形になった事を詫びると同時に、幸一を立派に育てるという約束をしていたのだった。
和美もその様子を見て、振り返り、村田屋に頭を下げた。そして、遠く、肉眼では確認できないセツさんと銀二の家のほうを向いて、同じように頭を下げた。

二人は、無言のまま、問屋口まで急いだ。そして、そこから駅に向かうバスに乗りこんだ。
バスの窓から、大木総合病院が見えた。僅か数日だったが、あそこで過ごした思い出は、今でも夢物語のように和美の心の中にあった。あんな暮らしをしている人も居るのだと思い、大木医師の優しさに改めて感謝していた。

国鉄の駅は、まだ早朝とあって、人影もまばらだった。
窓口で、銀二は、二人分の名古屋までの片道乗車券を買った。改札を抜けると、いよいよこの町ともお別れである。
二人は、右側の席に座った。向島を出てから、まだ、二人は満足な会話をしていない。むしろ、息をするのも憚るようで、故郷を捨て、人知れず逃げていく事はやはり罪深いものだと感じていた。

まもなくすると、発車のベルが響いた。ゆっくりと汽車は走り出す。ここから大阪までは、蒸気機関車の旅である。
駅前の商店街や官庁街が通り過ぎる。住宅地の広がる町の東を抜け出ると、進行方向の右手に向島が見えた。随分小さく見える。和美の生まれ故郷、玉浦は遥か後方にあってみる事もできなかった。
しばらく走ると、瀬戸内の海原が広がっている。
朝日に輝く海、波の穏やかな瀬戸内の海、いつもより増して、水面が穏やかに見えた。
向島を出てから、ずっと背を丸め、息を殺すようにしていた二人が、ここに来てようやく安堵の気持ちが湧いてきていた。

隣町の富海を通り過ぎる頃、ふと、和美が海を見て気付いた。見覚えのある漁船が見える。そう、銀二の船だった。海岸線を走る汽車からは、意外に船が近くに見えた。顔まではわからないが、船の人影が手を振っているように見えた。鉄三も、船に気付いて、急いで窓を開けた。そして、汽車から身を乗り出して手を振った。
おそらく声などは届かないはずだが、鉄三はとにかく絞り出すような声で叫んだ。
「兄ちゃ~ん・・・ありがとう・・・頑張るから・・」
後半は涙声で何を言っているのかわからないほどだった。
和美も、
「銀二さ~ん・・ありがとうございます。幸せになります。」
次第に汽車は海岸線から離れていく。徐々に、銀二の船が見えなくなっていった。

汽車は、登坂線へと入っていく。この先にある、『椿峠』を越えると、もう故郷の町は遠く見えなくなる。

家を出てからずっと抱かれた胸で大人しく眠っていた幸一が目を覚ました。きょろきょろと辺りを見回し、様子が違う事に気付いたのだろうか、急に泣き声を上げた。
「あら、幸ちゃん、目が覚めたの。おなか空いたかな。」
和美はそう言うと、おっぱいを出して飲ませた。もう1歳を過ぎた幸一だが、ずっとミルクだった事もあり、とても恋しそうにおっぱいにむしゃぶりついた。ごくごくと音を立てて飲んでいる。和美は、久しぶりの感覚で体の芯がじんわり温かくなるように感じていた。そんな様子を見ていた鉄三が、しみじみと言った。
「やっぱり、幸一には和美ちゃんが居なくちゃいけないんだ。これからはずっと一緒だよ。」
「そうね。ずっと一緒にいましょう。」
和美が答えた。二人はようやく言葉を交わし、これから共に生きていく事を確かめあった。

車窓の風景は、見知らぬ町。今度の辺りなのかもわからない。ただ、名古屋までの道のりは遠かった。二人は鈍行に乗ったため、途中何度か乗り換えた。そのたびに、故郷からどんどん遠ざかるのを強く感じていたのだ。

二人は、朝から何も口にしていなかった。和美は、岡山を過ぎた辺りで、カバンを開け、セツさんが昨夜、途中で腹の足しにすると良いからとくれた蒸かし芋を取り出した。冷えてはいたが美味しかった。鉄三も、夕べの残りで、握り飯を作っていた。二人は、幸一にも少し食べさせながら空腹を癒した。鉄三は緊張の糸が切れたのか、座席で体を折り曲げて眠ってしまった。

食べた後の片付けながら、和美はカバンの中にある封筒に気がついた。
夕べ荷造りの時に、きっとセツさんが忍ばせたに違いなかった。

封筒は二つあった。ひとつは、セツさんの文字で、『和美ちゃんへ』と書かれていた。
中には、便箋が1枚入っていた。取り出して広げると、セツさんの丁寧な文字が並んでいる。

『和美ちゃんへ  
幸せにおなりなさい。銀二に救われた命を大事にしてね。
鉄三は真面目な男だから、きっと和美ちゃんを大事にしてくれる。
時間が経てば、昔の思い出はきっと美しく思えるはず。落ち着いたら、手紙ちょうだいね。』

独学で字を覚えたセツさんが、一文字一文字、しっかりと思いを伝える手紙だった。

もうひとつは、古封筒で、表には何も書かれてはいなかった。
封を開けると、中には1万円札が3枚ほど入っていた。
そして、お札には小さな紙片が挟まっていて、
『少ないが餞別だ。困ったら使え。鉄三には内緒だ。』
と走り書きの文字が読めた。
封筒の中からは、僅かに潮の香りが漂っていた。銀二からのものだとすぐにわかった。
銀二は、二人の駆け落ちの決心を、すでに察していて、夕べの早い時間にセツさんに渡してもらうよう手配していたのだろうとわかった。和美は、二つの封筒を胸に抱え、声を殺して涙を流した。そして、カバンの一番底にそっとしまい込んだ。
二人を乗せた汽車は東へ東へと向かっていった。


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