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2-8-4;返答 [峠◇第2部]

10円玉を握り締めて、港に向かった鉄三は、真っ暗な中にぽつんと立つ公衆電話に取り付いた。
手帳を広げ、松屋の電話番号を回した。ダイヤルが戻るのがじれったいくらいだった。

夜の忙しい時間なのか、呼び出し音は、何度も響いたが、なかなか返答がなかった。ようやく、10回目の呼び出し音で、
「はい、ありがとうございます。松屋でございます。」
仲居だろうか、営業用の声で受話器をとった。

「あ・・お忙しい時間に済みません。私、向島の福谷鉄三と言います。ご主人か女将さんいらっしゃるでしょうか?」
急いてしまって、相当早口になってしまったが、仲居はちゃんと聞き取って、
「福谷様ですね。少しお待ちください。」
そう言って、受話器を置き、呼びに行ったようだった。
そうしている間に、10円玉がどんどん落ちていった。

少しして、ばたばたという足音の後、返事があった。
「はい、松屋の女将です。福谷さんと言われましたか?」
「はい、向島の村田屋で、料理人をしていました、福谷鉄三です。お久しぶりです。お忙しい時間だとは思うのですが・・」
「ええ、大丈夫ですよ。随分、遠くからのお電話で・・で、何か御用でしたか?」
「はい、不躾ではありますが、私をそちらで雇っていただけないかと・・。」
「え?でも・・そんな急なお願いをいただいても・・・今、人手は足りてますしねえ・・」
「それは、承知の上です。どうしても、ここを出て、暮らさなければいけない事情がありまして・・私にできる事は料理の仕事くらいです。それに、以前に、私の料理を褒めていただいた事があって・・何とか、そちらにお世話になれないかと思いまして・・」
「急にそう言われても・・・向島の料理宿とは違って、こちらは料亭.料理の格も違えば、客層も違う。いきなり料理人というわけにもいきません。申し訳ないですが、このお話はお受けできませんわ。」
「そこを何とか、・・・いえ、料理人じゃなくても良いんです。厨房の下働きでも良いんです。とにかく、ここに居られない事情がありまして・・」
「そんなこと言われても・・・男ひとり、どこでも生きていけるでしょうに・・」
「いえ、一人じゃないんです。子どもも妻も・・いるんです。何とか、二人が立っていけるよう稼がなくちゃいけないんです。死に物狂いで働きます。贅沢は言いません。毎日のご飯が食べられるほどで結構です。何とか、そちらにお世話になれないでしょうか・・お願いします。」
鉄三は、電話機を握り締めたまま、地面に伏してお願いした。松屋の女将には見えていないはずだが、女将は、その様子を受話器越しに感じ取っていた。そして、心の中で<もう良いかしら。銀二さんの頼みで少し意地悪な言い方をしたけれど、ちゃんと真面目に働くでしょう>と決めて、
「判りました。そこまでお願いされるのなら、とりあえず、こちらにお越しください。詳しいお話は逢ってからにしましょう。」
「ありがとうございます。すぐに・・・いや・・数日中には参ります。ありがとうございます。ありがとう・・」
松屋の女将の承諾を得て、鉄三は、胸の奥から感謝の気持ちがこみ上げてきて、涙が止まらず、言葉にならなかった。
そこで、最後の10円玉が落ちて、数秒で電話が切れてしまった。

鉄三は銀二の家に急いだ。松屋の女将が承諾してくれたことで、いよいよ行動に移せる自信が湧いてきた。少しでも早く、銀二と和美に知らせたかった。

銀二の家に着くと、鉄三は、入り口で叫んだ。
「松屋の女将さんが、承諾してくれたよ。これで、もう大丈夫だ!」
ふと見ると、部屋の中には和美と幸一だけが居た。銀二の姿は見えなかった。
「あれ?兄ちゃんは?和美ちゃん、兄ちゃんはどこだ?」
「さっき、酒のコップを持って浜へ出て行ったわ。」
「まあいいや。和美ちゃん!松屋の女将さんが、承諾してくれたんだ。これで、3人で安心して住めるよ。」
「そうなの・・」
和美は、鉄三の笑顔とは反して、冷ややかといえるような反応をしていた。その様子を感じて、鉄三は少し冷静になった。
「ごめん。松屋の女将さんは、とりあえず来ても良いという返事だった。調理場の下働きでも何でもやるからとお願いしたんだ。俺と一緒に、名古屋まで行ってくれるよね。」
「ええ。・・・幸一と3人で住めるのね。」
「ああ、そうだ。・・・でも・・・」
その会話を聞きつけて、銀二が入ってきた。
「良かったな。それじゃあ、すぐにでも支度をしな!明日朝一番にここを出るんだ。」
銀二の言葉に、和美が、
「そんなに急にじゃなくてもいいでしょう。皆さんにも挨拶してから・・」
「ダメだ!一体、誰に挨拶するんだ。村田屋に駆け落ちする事が知れてみろ、幸一を取り上げられて一生逢えなくなるかもしれないぞ。挨拶なんてのは、良いから、すぐに旅立てるようにしておくんだ。」
「幸ちゃんはどうするの?」
「そんなの決まってる。このまま、お前が抱っこして、セツさんの家に戻れ!鉄三も、そっと村田屋に戻って、支度をしろ。夜明け前には、向島を出るんだ。良いな。」
兄の段取りに、鉄三も和美も戸惑った。今日、1周忌を追え、さっき幸一の誕生祝をしたばかりだった。そんなに慌ててこの村を出なくてもと思っていた。だが、兄の言うとおり、駆け落ちする事が知られれば、きっと幸一を隠されるだろう。そうなったら、駆け落ちをする意味が無くなる。
時間はもう夜の10時を過ぎていた。

鉄三は兄に言われたとおり、村田屋に戻り、必要なものをまとめた。2階の幸一の部屋に入り、幸一に必要なものを、村田屋に気付かれないようにそっと集めた。途中、アキの様子を見に行ったが、戻っていないようだった。荷物は鞄一つになった。そして、これまで働いてコツコツと貯めてきたわずかばかりの現金と、使い慣れた包丁を手拭に包んで鞄にしまった。それらを、枕元に置き、布団に入った。

和美も、幸一をセツさんの家に連れて帰り、寝かしつけてから、支度をした。眠っていたはずのセツさんが、様子に気付いて、必要なものを工面してくれた。そして、そっと、和美の荷物の中に、封筒を忍ばせた。

「明日、早く行きます。セツさん、ごめんね。行ったりきたりして迷惑ばかり掛けてしまって・・・。」
「良いんだよ。どうせ、もともと一人暮らしさ。時々、お客さんが来て楽しい時間を過ごしたと思えば・・なんて事はない。それより、これでここへは戻れないだろうからね。今日は、ゆっくり休むと良い。幸一もぐっすり寝てるじゃないか。」
「本当にありがとう。なんてお礼を行ったら良いのか・・・落ちついたら、必ずお手紙書きます。」
「ああ、そうしとくれ。じゃあ、朝早いんだろ。もうお休み。朝は、見送りはしないよ。そのままそっと出ていきなさい。」
そう言われ、支度も整えて、和美は横になった。久しぶりに、幸一と二人で枕を並べた。


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