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2-9-8:漁師料理 [峠◇第2部]

味も評判になり、常連客が増えていったが、鉄三は、浮かぬ顔をしていた。
今はもの珍しさも手伝って繁盛しているが、献立がひとつではすぐにも飽きられるだろう。もっといろんな料理を食べてもらいたいと思い始めていた。そのころには、『お休み処』の定食を作る傍ら、料亭の仕事も随分増えてきた。何かもっと料理を増やせないかと、仕事を終えた後にも、厨房に残って料理の研究をした。厨房で作られる料理の一つ一つを手帳に書き写し、味を覚え、とにかく料理の献立作りに没頭する日々だった。それでもなかなか新しい献立は生まれなかった。

ある日、厨房主任の加藤が、みんなを集めて、話をした。
「この週末に、大きな宴会が入った。駅前のビルが完成して、現場の人たちを労う会らしい。・・どうやら、『お休み処』の評判が良くて、是非にもとのことだ。」
「そりゃすごい。・・和美ちゃんのお手柄だな。」
板前の章吾が、鉄三をつついてそう言った。
「ただ、これまでのお客様と違って、皆、力仕事に精を出している男達だから、上品な料理じゃなくて、美味くて力のつくものを出して欲しいと言うことだ。」
「それなら、肉料理ですか?」
もう一人の板前の原田が訊いた。
「いや、それでは余り面白みが無い。もともと、お休み処の定食の評判が良いんだからな。やっぱり魚料理だろ。・・・それで、浜の漁師料理という趣向でいこうと思う。」
それを聞いて、板前の章吾が口を出した。
「そりゃ、どういう料理なんですか?」
「いや、俺にもまだはっきりとはないんだが・・・・潮風定食をもっと広げられないかと考えているんだ。鯛汁は是非にも入れたいんだが・・他は、これからみんなで考えてみようじゃないか。」
副主任の吉井が、
「鉄三!お前、昔、そういう料理を作ってたんだろ。どうだい。今回の献立、お前が仕切ってみたら?」
と振った。
鉄三は、躊躇った。確かに、以前は、そういう料理を作ってはいたが、自信はなかった。都会の人が言うほどに、漁師料理なんてものがはっきりあるわけではない。皆、それぞれに取れた魚を美味く食べるだけの事で、綺麗な魚ばかりではないための料理に過ぎないからだ。
鉄三が返事をしないので、主任の加藤が強引に言った。
「それがいい。まだ、時間もある。やってみろ!」
「ですが・・」
「存分に、楽しもうじゃないか。みんなで、力仕事の男どもを唸らせるような料理をだしてやろう。」

次の日から、鉄三は、魚市場に行く事にした。名古屋の魚市場にはどんな魚が入ってくるのだろう。まずは、そこから始める事にした。名古屋の魚市場には、鮪や鰤、鯵、秋刀魚、伊勢海老など豪華な料理を作る食材は豊富だった。
その日の夜、鉄三なりに考えた献立を皆に見せたが、それはどれも、日頃から松屋で出している料理と似ていて、皆、不満そうだった。板前の原田も、
「これじゃあ、今までの料理と変わらない。いや、今までの料理の方が喜んでもらえます。やっぱり、鯛汁だけでもいいんじゃなないでしょうか?」
と否定的だった。主任も同意見で、もう少し考える事になった。

次の日には、見習いの大野も、勉強のためにと、市場に同行する事になった。
大野は始めてみる市場に夢中で、一人であちこち見て回っては、卸し商の親父さんたちに怒鳴られたり、冷やかされたりしていた。鉄三は、いくら見て回っても、良い考えが出てこず、そんな自分に苛立っていた。

「鉄三さん、やっぱり、大きな市場は面白いね。全国からいろんな魚が集まってくるんだね。」
陽気に話しかける大野に、鉄三は、不機嫌に答えた。
「そうかい?・・良い魚はあるけどな。・・・漁師の料理となると・・いまひとつ何かぴんと来ないんだ。」
「ふーん。じゃあ、鉄三さんは、田舎でどんな魚を食べてたんですか?」
「どんなって言われても・・・獲ってきた魚は、大概、市場に出して金にする。金にならない雑魚を家では食べてたな。」
「雑魚って、ここにはないんですか?」
「そりゃあ、ここにはないさ。市場に出せないからな。」
「じゃあ、何処に行けば手に入るんでしょう。そいつを料理できれば、面白いじゃないですか。」
「何処って言っても・・・漁港に行かないと無理だなあ。」
「じゃあ、行きましょうよ。」
「行きましょうっていったって、何の当てもないよ。」
「松屋で皆に訊いてみれば、誰か一人くらいいるんじゃないですか?」

二人はすぐに松屋に戻った。
そして、加藤主任に、近くに漁港はないかを尋ねてみた。主任は、すぐに思い当たるところはなく、仲居に尋ねてみることにした。しばらくすると、部屋係の桂子がやってきた。

「あの、お役に立てるかどうか判りませんが、私の実家が、知多の豊浜という港町で、祖父が漁師をやってます。」
それを聞いた鉄三が、桂子に
「悪いんですが、そこへ案内してもらえませんか?」
「ええ、先ほど、女将さんから、すぐに案内するように言われましたから・・」
二人は、店のトラックを借りてすぐに向かった。

名古屋市内を抜けると、すぐに海岸線が見えてきた。
海は、埋め立て造成が進んでいて、大きな工場がいくつも作られていた。
2時間ほど走ると、急に景色が変わった。緩やかな丘陵地とわずかな平地。街道沿いに並ぶ民家。家々の切れ間から、見える海岸は波も穏やかで美しかった。途中にもいくつか小さな漁港があった。

車を運転しながら、鉄三は、遠い故郷の向島を思い出していた。桂子の実家がある豊浜は、知多半島の先端近くだった。

2-9-9:豊浜 [峠◇第2部]

「もうすぐです。・・・ああ、そこです。」
防波堤の切れ間に、船着場が見えた。鉄三が、漁協の前に車を停めると、桂子が家まで案内してくれた。
狭い道を入っていく。高い塀に囲まれ、低い軒の家が狭い集落に寄り添うように建っている。
「ただいま。じいちゃん、いる?」
桂子が玄関先で声を掛けると、
「何だ、こんな時間に。帰るなら連絡しろよ!」
中から、日に焼けて、髭面で、深い皺が刻まれたおでこ、いかにも漁師という風情の男が出てきた。
「ああ、じいちゃん。元気だった?あの、こちら、松屋の鉄三さん。ちょっと、じいちゃんに相談したい事があって・・・」
「初めまして、松屋で板前をしています。鉄三です。」
そう挨拶すると、鉄三は、ここへ来た経緯を話した。そして、
「漁師料理というのを出す事になっているんですが、何か教えていただけませんか?」
「そんな、料亭で出すような、しゃれた料理なんてのは知らないが、浜に出れば、何か見つかるかもしれないな。」
桂子の祖父はそう言って、二人を浜に連れて行った。先ほど通ってきた狭い路地を戻り、漁協の前の広場に戻った。
港には、ちょうど、漁船が帰ってきていた。漁師仲間に次第を話すと、中の一人が、それならばと、獲れたばかりの魚をトロ箱に入れて持ってきた。
「市場には出さないが、うまい魚ばかりだ。そうだ、皆で、浜焼きでもやってみっか。」
そういうと、波止場に、大きな石を組み始め、倉庫の横に置かれていた金網を載せた。
他の仲間が、漁協の裏あたりから壊れたトロ箱を持ってきて、乱暴に壊して、薪にした。
火が起こされ、網の上に魚が並べられる。何の飾りも無く、とにかく、魚を焼き始める。
港辺りにいた漁師たちも、浜焼きの煙を見つけて集まってきた。
子どもたちも、臭いに釣られたのか、どんどん集まってくる。あっという間に、港の広場は人だかりとなり、そのうち、良い焼き加減になったところで、皆が手を出し始めた。ここでは、皆、誰彼無く、遠慮なしに魚に手を出すのだった。

「まあ、俺たちがやる料理と言えばこんなもんだ。だが、魚が新鮮じゃなきゃ、やっぱりうまくない。町の魚屋あたりのものじゃあ、同じことをしても多分美味しくないだろうぜ。」
鉄三は、勧められるまま、食べてみた。鉄三は、向島に居たころに、兄が時々作ってくれたものを懐かしく思い出し噛み締めた。

「ああ、美味い。本当の魚の味がする。・・うん、これならいけるかも・・」
「どうだい。鉄三さん。料亭じゃこんな料理は無理だろう。もっと上品なものが良いんじゃないのかい?」
「いえ。これならきっと喜んでもらえるはずです。ありがとうございました。・・・週末に松屋でこの料理を作ってみたいんです。ただ、さっき言われたように、市場の魚じゃあ、駄目なんです。それで、その日、獲れた魚を届けてもらうわけにはいかないでしょうか?」
漁師たちはちょっと面食らった。運ぶとしても、そう簡単にはいかないからだ。
「獲れた魚って言ったって、何が入ってるか判らないんじゃ料理も難しいだろう?・・大丈夫なのかい?」
「ええ、いや、むしろその方が喜んでもらえるはずです。お願いします。」
「じいちゃん、お願い。・・・きっと、松屋さんへのご恩返しにもなるから・・・」
桂子も鉄三と一緒に頼んだ。
「仕方ないな。日ごろ、桂子がお世話になっている松屋さんのためになるなら・・・・」
そこに居たほかの漁師が言った。
「でもよお、どうやって運ぶんだい?まさか、船ごと港まで行くわけにもいかねえし・・」
「トロ箱に積めてトラックで運んだって、名古屋に着くころにゃあ、魚もおかしくなっちまってるぜ。」
皆、思案した。美味い魚を届けてやりたいが、そう簡単ではなかったのだ。
そんな話を聞いていた婦人がぽつりと言った。
「ほれ、醤油屋にゃ、大樽があるじゃないか。あれに、潮水ごと入れて運んじゃあ、どうだい。」
「そりゃあいいや。ちょっと訊いてくっか。それと、トラックだな?組合に訊いてみよう。」

ちょうどそこに、漁協の組合長が来ていた。桂子の祖父はなにやら組合長と話をしてから、戻ってきた。
「わかった。漁協がトラックを貸してくれるそうだ。朝一番に上がったやつを、大樽一杯、届けてやるよ。その代わり、全部たいらげてくれよな。」

鉄三と桂子は皆に礼を言ってから、帰路を急いだ。
「鉄三さん、魚は良いけど、どこで料理するの?」
「うん、それが問題なんだ。・・・あのさ、広間の前は庭園になっているけど、裏側はどうなんだい?」
「ああ、それなら、空き地になってます。私たちが時々、茶器やおわんなんかを洗って干すのに使っているんです。」
「そこは、広間からは出入りできないかい?」
「大丈夫です。襖戸を全部取れば、一続きになるはずです。・・ああ、あそこで浜焼きをやるんですか?」
「そうしようかと。やっぱり、外で豪快にやらなくちゃ駄目だろ?」
「でも、石組とか網とかはどうするんですか?」
「それは大体の当てはあるんだ。大丈夫さ。」

鉄三は、松屋に帰ると、早速、厨房主任に相談した。
「ふーん。浜焼きか。良いじゃないか。浜焼きに鯛汁なんてなかなか良いよ。任せとけ、裏庭を使うことは俺が了解を取ってやる。好きなようにやってみろ。」


2-9-10:宴会当日 [峠◇第2部]

いよいよ宴会当日となった。
約束どおり、豊浜から、桂子の祖父が大樽一杯の獲れたての魚を持ってきてくれた。ついでに、漁師仲間でいつも飲んでいる、地酒も持ってきてくれた。

昼ごろになると、宴会を申し込んだ会社のトラックがやってきた。
「ここで良いんでしょうか?」
トラックの運転手が尋ねた。鉄三が出迎えた。
「お願いしたものはありましたか?」
「ええ。もう工事もほとんど終わりましたから、残っているものですから、ご自由にお使いください。」
そう言って、荷台から、建設現場で使われている、ヒューム管と金網、建築の柱の端材などを裏庭に運び込んだ。鉄三は、他の板前たちにお願いして、半分のヒューム管を何箇所かに並べ、上に金網を載せた。
仲居たちは、裏側の廊下を綺麗に掃除し、庭に降りられるよう履物を並べた。

持ち込まれた樽を開くと、何種類もの魚が泳いでいる。随分沢山入っていた。中に、蛸も紛れていた。和美は、鯛汁つくりを手伝っていたが、蛸を見つけて、思いついたように「蛸メシ」を作ったらどうかと言い出した。鉄三はそれを聞いて早速調理に取り掛かった。

中居たちの中には、生きている魚を見るのは初めてのものもあって、会場作りをしながら、樽の中を覗いては楽しんでいた。
ご主人と女将さんも、店をあげての宴会準備で皆生き生きと仕事をしている姿を喜んでいた。

時間になり、工事現場の職人たちがぞろぞろとやって来た。
現場監督と紹介されたのは、以前、剛志の紹介で『お休み処』に食事に来てくれた人だった。
監督は、和美の姿を見つけて、
「先日はご馳走様でした。あれ以来、皆、ここの料理の話ばかりしていてね。工事も終わったんで、慰労会をやることになって、それなら是非松屋でやりたいっていうんだよ。ただ、高級料亭で俺たちみたいなのが宴会ができるかどうかって思っていたんだが、ここの大将は太っ腹だね。二つ返事で受けてくれたんだ。今日はみな腹を空かしてくるように言ってあるから。」
そう言って笑顔で店の中に入って行った。

皆が座敷で席について、乾杯の音頭で宴会が始まると、裏庭に繋がる襖戸が一斉に開けられた。
裏庭には,篝火が焚かれ、野趣満点であった。
そこに、浜焼きの火が入った。豊浜の漁師が、樽の中から活きの良い魚を大タモで掬い上げる。それを受け取り、鉄三が捌いて、網に載せられる。脂が落ちるたびに燃え上がる炎と立ち上がる磯の香りに、職人たちは目を見張った。料理なのに、なにか演劇を見ているようでもあった。自然と盛り上がった。
「料亭で宴会だって聞いたから、ちょっと、気を張っていたけど、これなら良いや。何だか、現場で酒盛りしてるみたいだ。」
「俺、はやくくにへ帰りたくなったよ。」
広間で始まった宴会が、いつの間にか、裏庭へ場所を移し、みな、地べたに座りこんで、コップ酒に魚を頬張り、思い出話や故郷の話で盛り上がっていた。板前たちも、浜焼きの加減を見ながら、職人たちと一緒に楽しんでいるようだった。
蛸飯も好評だった。もちろん、鯛汁も大鍋一杯作って用意した。
食べて騒いで、飲んで騒いで、松屋はその夜お祭りのように賑やかであった。

夜も更けて、宴会も終わった。
片付けは明日にしようとご主人が言い、仲居たちにも、蛸メシと鯛汁、浜焼きが配られ、みんなで食べた。
そんな中、青森から来ている澄子が、蛸メシを抱え、泣いていた。そんな様子に気づいた和美が声を掛ける。
「澄子さん?どうしたの?」
「・・・ああ、和美さん・・・私、ここに来てから、一度も、故郷へ帰ったことが無くて・・この料理を食べたら、何だか急に帰りたくなっちゃって・・・」
「どんなところなの?」
「んだなあ。海がちかぐで、冬はつらいけども、ええとごろだあ。魚もたくさん獲れる。米もうめえ。・・春にはりんごの真っ白い花で一杯になる。けえりたいなあ。」
澄子の頭の中には遠く津軽の風景が広がっているようだった。

女将が、立ち上がって、
「今日は皆さんご苦労様でした。とても良い宴会になりました。普段とは勝手が違って皆も疲れたでしょうが、お客様は皆さん、喜んでいらっしゃいましたよ。鉄三さん、ご苦労様でした。」
皆、その言葉を聞いて拍手をした。

「いや・・今日の料理は、私だけのものじゃありません。智と桂子さんのおかげで生まれたものです。ありがとうございました。」
その言葉を聞いて、厨房主任の加藤が、
「これで、松屋の看板料理がひとつ増えたってもんだ。これで、鉄三も一人前の板前だ。いいでしょう?旦那さん?」
「ああ、これで看板の板前が3人になったね。これからは、松屋はますます繁盛まちがいない!それ、乾杯でもしようかね。」
もうすっかり宴会になってしまった。
皆の輪の中で、立派な板前になった鉄三を、和美は嬉しく思い、じっと見つめていたのだった。
そして、同じように、女将も鉄三をじっと見つめ、何かを考えているようであった。


2-9-11:銀二の頼み [峠◇第2部]

鉄三と和美が松屋に来て2年半。
鉄三は、厨房で板前として一人前になっていた。漁師料理の宴会の一件から、松屋は、豊浜から新鮮な魚が欲しい時にいつでも届くようになり、名古屋だけでなく、遠く岐阜や浜松のほうからも客が来るようになっていた。
『お休み処』は、見習いだった晴美とまゆみも加わっていた。夜は、居酒屋風に一品料理も出せるようになっていた。

そんな頃に、突然、銀二が名古屋にやってきた。
今回は、鉄三や和美には内緒で、ご主人と女将さんに会うためにやってきたのだった。
銀二は、松屋に顔を出すと鉄三や和美に会うことになるからと、駅前で落ち合う事にした。
名古屋の駅前には、大名古屋ビルヂングが完成し、すっかり、様子が変わっていた。

「銀ちゃん、どうしたのよ。店に来れば良いのに。」
駅前にポツリと立っている銀二を女将が見つけて声をかけた。
「どうも、ご無沙汰しています。・・鉄三と和美の様子、女将さんからの手紙でよく判りました。何とか、裏切らずに二人とも真面目に働いているようで安心しました。本当にありがとうございます。」
「何だか、水臭いわね。・・こんなところじゃなんだから・・行きつけの喫茶店があるからそこに行きましょう。」
女将さんはそう言って銀二を駅の近くにある喫茶店に案内した。

小さなビルの1階にある『純』という名の喫茶店に入った。テーブル席が5つほどの店で、無愛想なマスターがサイフォンでコーヒーを煎れてくれた。
「この店ね、私が若い頃から通ってるのよ。実は、ここで主人とも何度もデートしたの。その頃は、こういう店に若い娘が出入りするとね,不良娘って怒られたけどね。でも、ここのマスターのコーヒー、天下一品なの。・・ね、マスター!」
眉間に皺を寄せ、神経質そうな風貌のマスターが、二人のほうを見て、にやりとした。そして、コーヒーと角砂糖とミルクを運んできた。
女将さんは、角砂糖とミルクを入れて、スプーンでコーヒーをかき回しながら切り出した。
「で、鉄三や和美さんに内緒なんて、どういう用件かしら?」
銀二も、女将さんのやり方を見ながら、同じようにスプーンを回しながら答える。
「実は、二人のこれからの事なんです。もうそろそろ3年近くになります。随分お世話になりました。きっと二人もなんとか生きていける自信もついたころじゃないかと・・」
「そうね。鉄三さんは、今じゃ、板場に無くてはならない存在ね。魚料理なら、鉄三さんが一番・・いや、主人には叶わないから2番ね。」
お上さんはそう言って笑った。
「それに、和美ちゃんも、・・まだ、仲居にはしていないけど、若い子たちの中じゃ、お姉さんって呼ばれて、頼られてるわ。幸ちゃんだって、皆に可愛がられて・・ええっと・・何だけっけ?・ア・・アイドル?っていうのかしら。ねえ。」
「ええ、きっと今、二人は松屋で随分幸せを感じてるはずです。でも、今のままで良いのかって。」
「どういうこと?幸せに楽しく居られるんだからいいじゃない。」
「ええ、そうなんですが・・・でも、どこか、女将さんたちに甘えてるはずなんです。・・まあ、本人に聞いてみないことにはいけないんですが・・・俺としては、自分の力で生きていくことを考えてもらいたくて・・・」
「ふん・・・で、銀ちゃんはどういう考えなのかしら?」
「二人で店を出させてやりたいんです。選ぶのは鉄三と和美です。ただ、駆け落ちして逃げてきて、松屋の中に隠れるように生きているのじゃなく、世間に堂々と生きているって思えるようにしてやりたくて・・・」
「もう、充分なんじゃないの?また、苦労するわよ。お金だって大変だし、まだ、幸ちゃんだって小さいんだし・・」
「そうですか。」
銀二は、ここまで話をするとコーヒーをぐいっと飲んだ。何だか、苦いんだか甘いんだかよく判らない味だった。

銀二はカバンの中から小さな包みを取り出した。そして、それを女将さんの前に置いてから、こう言った。
「判りました。・・実は、二人が店を出したいと思った時に、入用になるだろうからと、少しなんですが金を貯めていたんです。これ、女将さんに預けておきます。それで、鉄三がそういう事を言い出した時に、女将さんから金を渡してやってほしいんです。いや、ただでくれてやるんじゃだめです。もちろん、女将さんが元手の資金を貸すという事にしてほしいんです。本気でそういう気持ちがあるなら、ちゃんとお金を返すよう頑張れるはずです。・・・・返してくれた金は、幸一のために貯金をしておいていただけませんか?・・これからは、大学くらい出とかなきゃいけない。その時の足しになれば良いんで。」
「銀ちゃんから渡せば良いじゃない。」
「それじゃあダメなんです。俺からじゃ鉄三はきっと受け取らない。まるっと借金してでも一人の力でって頑張りすぎるでしょう。そうなると、和美がまた苦労する。そんなつもりじゃないんです。そこは、女将さんに何とかお願いしたくて・・」
「仕方が無いわね。・・・一芝居打ちますか。そんな上手くは行かないかもしれないけどね。・・」
「お願いします。女将さんから勧めてもらえばきっと上手く行きます。恩にきます。」
そう言って、銀二は、包みを女将さんに手渡した。包みを開くと、お札の束が入っていた。新札ではないが綺麗に揃えられていた。30万円ほど入っていた。この頃、公務員の初任給がまだ2万円にも満たなかったので、軽く1年は暮らしていける額になる。
「こんなにたくさん。どうしたのよ?」
「いえ、漁で稼いだり、貨物船の手伝いをしたりして貯めた金です。俺一人生きていくなら、そんなに金は掛かりませんし、持っていても使い道はないんで、二人が幸せになれるようにと思って・・」
そういう銀二をじっと見つめて、女将さんはため息をつくように、
「銀ちゃん。もっと自分の幸せを考えたらどうなの?しょうがない人なんだから。わかったわ。銀ちゃんの頼み、ちゃんと全うできるようにしましょう。」
「ありがとうございます。」
銀二は笑顔で女将さんに礼を言い、コーヒーを飲み干した。カップの底に溜まった角砂糖の甘さが、銀二を驚かせた。


2-9-12:幸一の怪我 [峠◇第2部]

銀二の頼みを胸に秘めたまま、女将さんは数日を過ごした。
銀二の言うとおり、鉄三たちがこの店にいる事自体は、故郷から逃げるように出てきた負い目をいつまでも抱える事になるのか、今の二人を見ているととてもそんな風には思えなかった。鉄三は、厨房の中で立派に役割をこなしているし、和美も仲居たちからも慕われている。何より、幸一を見ている自分たちも、まるで孫を見ているようで幸せになれるのだった。やはり、銀二の頼みごとをそのまま受け入れることができないでいた。


ある朝の事。いつものように、和美は、『お休み処』の準備をしていた。幸一も、もうじっとしているような赤ちゃんではなくなって、少しでも目を離すとどこかへ行ってしまうことが多かった。
松屋の店の中は自分の庭のようなもので、仲居たちが、どこでも幸一に気を掛けてくれていたので、居なくなってもすぐに見つかった。その日も、和美が、厨房に行っている間に、姿が見えなくなった。和美は、いつもの事と気にも留めず、準備を続けていた。ようやく、支度も整い、開店前に、幸一を探しに松屋へ行ってみた。仲居たちに尋ねてみたが、その日に限って、夜の宴会の準備で、皆、裏庭に居て、幸一の姿を見ていなかった。ご主人や女将さんも見ていないと言い、店の中が騒ぎになった。宴会の準備もそこそこに仲居たちは、皆で幸一を探し回った。厨房の板前たちも一緒になって探した。だが、店の中には幸一の姿はなかった。もしや、通りに出て行ったのではと、皆、不安に感じていた。

その頃、松屋の界隈も、都市整備が進み始めてきた。雨が降るとぬかるんでいた前の道路も、道幅が広がりアスファルト舗装となった。板が乗っていた溝も,コンクリートの深い排水路に作り変えられ、舗道の整備も進んでいた。町のあちこちで工事の車両が行きかうようになり、以前と違って、かなり危険な場所も増えていた。

しばらくすると、近所の駐在所の警官が、慌てて松屋に駆け込んできた。
「失礼します。・・こちらに、幸一と言う名前のお子さんはみえますか?」
ちょうど、和美が玄関に居て、応対した。
「ええ、私の子どもです。・・先ほどから姿がみえなくて・・・・」
「ああ、お母さんですか。良かった。すぐに、一緒に来てください。」
「あの・・何か・・事故でも・・」
「とにかく、・・今、駅の傍の加藤医院にいます。すぐに・・」
病院に居ると聞き、和美は卒倒しそうになった。居合わせた仲居主任の輝子が、
「しっかりして!和美さん。・・ねえ、おまわりさん、何があったんですか?」
「ああ、ええっと、幸一君だったか。そこの工事現場で、穴に落ちてしまって、ちょっと怪我をしているんだが、・・いや、命に別状は無いんだが・・・まあ、とにかく、病院で詳しい事情は訊いてもらいたい。」
そう聞いて、和美と輝子はすぐに病院に向かった。

病院は歩いてすぐだった。幸一が落ちた穴は、道路工事で掘られていたもので、1メートルほどの深さがあった。工事の機械に見とれて、歩いていた幸一が脚を取られて落ちたのだった。

病院に着くと、頭を包帯でぐるぐる巻きにされた幸一が、治療室の前の長椅子にちょこんと座っていた。和美の姿を見て、戸惑った顔で「かあちゃん!」と言った。
和美は、そんな幸一の姿を見て、ぼろぼろと涙をこぼして、ぎゅっと幸一を抱きしめるほかできなかった。

医者が診察室から出てきて、挨拶をした。
「良かったね。お母さんが来てくれたね。」
「あの、幸一の怪我は・・?」
「ああ、落ちた時に、おそらく下に石でもあったんだろう。おでこが3センチほど切れていた。4針ほど縫っておいたからね。まあ、大きくなればそれほど目立たなくなるだろう。怪我はひと月もすれば完治する。男の子だから大丈夫だ。それにしても、それだけの怪我をしたのに、泣く事もなく、治療中もずっと愚図ることもなかった。なんて我慢強い子だと感心したよ。・・でも、こんな程度で済んでよかった。このあたりは今工事で大変だから、できるだけ目を離さないようにしないと・・」
「本当に済みませんでした。ありがとうございます。」
医者に言われて、和美は強く反省した。同行した輝子も、幸一の痛々しい姿を見て、
「幸ちゃん、痛かったね。でもよく我慢できたね。えらいよ。」
そう言って、包帯に巻かれた頭をそっとさすった。

病院からの帰り道、和美の胸には、医者の言葉が突き刺さっていた。
幸一と一緒に暮らせるために、全てを捨てて、ここにきたはずなのに、結局、仕事にかまけて、幸一を一人ぼっちにしていた事を改めて気づかされ、深く反省していた。我慢強い子供だと医者は褒めていたが、そうではない。一人ぼっちの時間が長くて、自分の気持ちを正直にだせないようになったのだと和美は感じ、自分は今まで何をしてきたんだろうと考えていた。

その日、『お休み処』は他の仲居が切り盛りをすることになり、和美は長屋に戻って、幸一と一緒に休む事になった。
幸一は、包帯頭のまま、部屋の中で大人しくしている。以前に、店のご主人が誕生日のお祝いにとくれた図鑑を取り出してきては、一心に見入っていた。
「幸ちゃん!頭は痛くない?」
「うん。」
「じゃあ、お母さんと何かして遊ぼうか?何が良い?」
幸一は、しばらく考えたようだったが、
「いい。僕、本、読んでるから。」
そう言うと、また図鑑を見入ってしまった。
ただ静かな時間が流れていった。思い返すと、昼間の時間のほとんどは、幸一が傍にいても遊んでやるような事が少なくなっていた。鉄三も厨房の仕事だけでなく、料理の勉強で、長屋に居る時も、幸一と遊ぶ事はなかった。ひとり遊びが上手になった幸一を見て、和美は、これまでの日々に深く後悔し、悲しみと寂しさが一気に噴出してきた。
なんだか、全身の力が抜けていくように感じた。いや、実際、全身の力が抜けてしまい、卓袱台の上に突っ伏してしまった。

図鑑に見入っていた幸一が、母の異変に気付いた。いつも、ちゃんと正座している母が、だらしなく卓袱台に突っ伏して、横にあった湯飲みをひっくり返しても動こうとしなかったからだ。
幸一は、母に近寄り、声をかけた。身体を揺すっても反応がない。まだ、3つにもならない小さな幸一にも、この様子は尋常ではない事はすぐにわかった。どうして良いのか分からず、ただ、ただ、声を上げて泣いた。
「母ちゃん!母ちゃん!」

ちょうどその時、幸一の様子を見るために、女将が長屋に入ってきた。幸一の叫びのような泣き声を聞きつけて、慌てて、玄関の戸を開けて入った。卓袱台に突っ伏し正体を失くしている和美と泣き喚く幸一の姿が目に飛び込んできた。
「和美ちゃん!和美ちゃん!」
女将も、和美の体を揺すって呼び掛けた。意識を失っている事は確かだった。
女将はすぐに店に戻り、そこに居た仲居に、救急車を呼ぶようにいった。そして、すぐに長屋に戻った。
和美の様子がおかしいと厨房の鉄三にも知らされた。支度の手を止め、鉄三もすぐに長屋に戻った。
しばらくして、けたたましいサイレンとともに、救急車が到着し、和美を乗せ、病院へ向かった。


2-9-13:病室 [峠◇第2部]

和美が、病室で目を覚ましたのは翌日の昼頃だった。脇には2本の点滴が立てられていた。
まだ、意識はぼんやりしていた。自分の身に起きた事が良く判らなかった。
ちょうど、看護婦が点滴の交換に部屋に入ってきた。
「あら、目が覚めましたか?お加減はどうですか?」
「あの、私・・」
「詳しい事は、担当医からお聞きください。丸一日、眠ってらしたんですよ。しばらく、入院になりますから。ご家族の方、呼んで来ますね。」
そういうと看護婦は部屋を出て行った。
しばらくして、鉄三が幸一の手を引いて病室に入ってきた。
鉄三は、和美の顔をじっと見つめて
「大丈夫かい?」
と心配顔で言った。
「ごめんなさい。こんなことになっちゃって・・」
「いや・・いいんだ。・・さっき、医者から、過労と神経の衰弱じゃないかって・・・それで、1週間ほど安静のために入院した方がいいって言われたよ。・・ゆっくり身体を休めた方が良い。」
「すみません。本当にすみません。」
ベッドの中で和美はボロボロと泣いた。そんな母を見て幸一が心配そうな顔で、「母ちゃん」と一言言った。
「幸ちゃん、ごめんね。ダメなお母さんね。・・ねえ、ここに来て。」
和美はそういうと、幸一をベッドの横に来させて、頬をそっと撫でながら、何度も何度も「ごめんね」と言った。

午後、担当医が回診に来た。鉄三と幸一は一旦店に戻っていた。
「過労が第一の原因。それと神経の衰弱・・・・いわゆるストレスという事でしょう。念のため、いくつか検査をしてみようと思いますが・・」
そう言われて、和美は、
「実は、以前住んでいた町の病院で検査をしてもらった事があるんです。」
「そのときは?」
「ええ、内臓が随分傷んでいると。特に肝臓が良くないから無理はしないようにと言われていました。」
「そうですか。・・・もし良ければ、その病院に検査結果を照会したいんですが、病院、わかりますか?」
和美は、大木総合病院の名を告げた。
「山口の大木総合病院?大木先生なら、僕も面識がある。すぐに連絡してみよう。」
担当医はそう言って病室を出て行った。
翌日、一日、血液検査やレントゲン検査、内視鏡などを使って身体のあちこちの検査をした。
2日ほどして、検査結果が出たと言う事で、鉄三も一緒に話を聴くことになった。

診察室の机前には、検査結果の紙やレントゲン写真等が広げられていた。
担当医は、しかめっ面をしながらじっとそれらを見入っていた。
「あの、検査の結果はどうなんでしょう。」
神妙な顔つきで鉄三が切り出した。担当医は、椅子の向きをゆっくりと変え、二人に向かい合った。
「・・・どう言ったらいいのかな。・・・・とりあえず、今、何処かが病気になっているというわけではありません。ただ、いろんな臓器の機能が低い・・ちゃんと動いていないと言うべきなのか・・普通の人と比べて半分くらいしか働いていないという方が正しいかもしれないんだが・・・とにかく、無理は出来ない体なんです。」
「病気じゃあないんですね?」
鉄三が改めて確認する。
「いや、特定の病気ではないが、・・言葉は適切ではないが、半分くらいもう動かない状態なんです。とにかく、無理はダメだ。・・・・それに、このことは、以前に、大木先生からも同じことを言われているはずだね?」
和美はこくりと頷いた。鉄三は、和美の顔を覗き込んだ。昔の記憶を掘り起こすように、大木医師との関わりを思い出していた。階段から転げ落ちたあと、精密検査に行った。確か、その時はそれほど深刻な話はしていなかったはずだった。
「あの、、先生。命にかかわるような状態と言う事なんですか?」
鉄三は、また尋ねた。
「今すぐどうと言う事ではないから。・・・ただ、無理をすると寿命を縮める事には間違いない。それに、調子が悪いと感じたら、できるだけ早く診察を受ける事。今回のような状態になると、そのまま意識が戻らなくなるかもしれないからね。ご主人、どうも奥さんは何でも自分の中に隠そうとするようだ。もっと、しっかり話をして、体調の変化にも注意してあげないとね。」

医師の言葉は、鉄三は突き刺さっていた。向島を出てから、とにかく、和美と幸一の幸せのために身を粉にしてきたはずだったが、独りよがりな生き方をしてきたのではないかと強く後悔をしていた。今更ながら、駆け落ちした事が正しかったのか判らなくなっていた。それでも、鉄三は医師の注意を真剣に受け止め、
「判りました。これまで以上に注意します。」
と答えたのだった。

1週間ほどで和美は退院した。
和美の体調の件は、松屋の夫婦にも知らされていた。当分の間、和美は、『お休み処』の仕事も、奥の仕事もせず、長屋で幸一と過ごす事になった。
朝から晩まで、母親と過ごす日々は、幸一にとっては幸せなはずだった。今までの孤独な日々から解放され、母に甘える時間がたっぷりできたのだし、和美にしても、幸一と一緒に居る事で幸せを感じることができていたはずだった。
だが、実際には少し違っていた。和美は、じっと家に篭るようになり、幸一も長屋から一歩も出ないようになったのだ。明らかに、二人とも元気を無くしていた。鉄三も、仕事を終え家に戻ると、今まで以上に和美に気を使うようになっていた。少しでも不調な様子を感じると、すぐに横になるように言い出すようになっていて、そのたびに、和美は大丈夫だからと拒否するようになり、次第に夫婦の会話も以前よりも減ってしまったようだった。

鉄三と和美と幸一の3人の関係が少しずつ狂い始めているようだった。
そんな様子に女将は一番に気づいていた。このままではいけない。そろそろ、銀二からの頼みを実行する時ではないかと考えた。そして、主人に相談をしたのだった。

2-9-14:のれん分け [峠◇第2部]

「鉄三はいるかい?」
朝早い時間、珍しくご主人が厨房に顔を出した。
「はい!」
鉄三はすぐに主人のところへ飛んでいった。
「ちょっと、お前に相談があるんだ。朝の仕事が一区切り付いたら、和美ちゃんと一緒に・・ああ、幸ちゃんも連れて・・私の部屋に来ておくれ。」
「はい。わかりました。」

ちょうどその頃、女将は、鉄三たちの家の前にいた。
「和美ちゃん。ちょっと相談があるんだけど・・いいかしら?」
「はい、おはようございます。どうぞ。」
女将は玄関を開けて部屋に入った。そして、幸一を見つけると、
「あら、幸ちゃん。早起きねえ。朝ご飯は食べたの?」
と笑顔で話しかけた。幸一も、笑顔で「うん」と言って返事をして、いつものように、気に入った本を抱えて部屋の隅でじっと見入っていた。そんな様子を女将は少し淋しげに見つめていた。

「あの、女将さん。私からもご相談が・・・身体の具合も良くなってきましたので、もうそろそろ働かせていただけないでしょうか?」
和美は、じっと家にいる暮らしで少しずつ鉄三や幸一との関係が狂い始めている事を感じ、自分が以前のように働く事が一番いいのではないかと考えていた。
「そうねえ。奥の仕事なら大丈夫かもね。・・・でも、ちょっと私の話を聞いてもらってからね。実は、あなたたちに新しいお店をやってもらえないかと思ってね。」
「え?・・そんな・・。私たちはまだ未熟ですし、それだけの器量があるとは思えません。もうしばらく,ここで・・」
「そうね。きっとそういうんじゃないかと思っていたんだけどね。・・・まあ、いいわ。あなたにだけは本当の事を話したほうがいいわね。・・実は、銀ちゃんから頼まれてしまってね。」
「え?銀二さんが・・何を・・」
「いえね。半年ほど前だったかしら、銀ちゃんがこっそり訪ねてきて、鉄三と和美に自分たちの店を出させて欲しいって言うのよ。私もびっくりしたわ。だって、松屋にとって大事な人たちだし、これから本格的に松屋の仕事を覚えてもらいたいと思っていたくらいなんだから。」
「銀ちゃん・・なんてことを。一体、どういうことなんです?」
「銀ちゃんが言うには、二人は向島から逃げてきた身だから、いつまでも松屋にいては、世間から隠れるような生き方しかできなくなるんじゃないかって。世の中でちゃんと生きてるって思うには自分たちの店を持つのが良いんだっていうのよ。」
「それは、私たちだってそういう夢がないわけじゃありません。でも、それにはもっともっと勉強しなくちゃいけないし、お金の事だって・・」
「そうなの。銀ちゃんも、その事を考えて、これを私に預けたのよ。」
女将は、包みを取り出し、和美に手渡した。
和美がそっと包みを開くと、大金が入っていた。
「こんなお金、銀ちゃんが?どうして?」
「きっと、銀ちゃん、毎日の稼ぎをこつこつと貯めたんでしょ。一人身じゃお金は要らないって言ってたけど、そうとう働いたはずよ。こんなお金、預けられたら、私だって困るわよ。」
「済みません。なんて勝手な事を。すぐに銀二さんに連絡して、このお金はお返しします。」
「いいえ。いいの。私もしばらく困ってはいたんですけど・・・幸ちゃんの怪我や和美さんの体のこと・・いろいろ考え、主人とも相談してね。銀ちゃんの言うとおり、新しいお店をやってもらおうって決めたの。」
「でも、私たちじゃ・・」
「大丈夫よ。私だって、あなたくらいの年で、松屋を始めたんだから。怖いもの知らずで、とにかく、美味しい料理を作ればきっとやっていけるって主人が頑固に言ってたのよ。鉄三さんにはそれだけの腕がある。いいえ、あの頃の主人よりきっと料理は上手いはず。後は、夫婦で力をあわせてやれるかどうかだと思うのよ。」
「そう言っていただいても・・」
「それにね。自分たちのお店なら、あなたも自分の身体と相談しながらやれるでしょ。それに、幸ちゃんと一緒に居る時間ももっと大事に出来るはず。実はもう、お店は準備してあるの。ここからはちょっと遠いけどね・・私の実家があるところでね。優しい人ばかりだから、あなたたちならきっと受け入れてくれるはず。・・・まあ、この後、主人が鉄三さんに話を切り出す事になってるから、それまで考えてみて。」
「でも・・・」
「銀ちゃんの気持ちをちゃんと受け止めて上げて欲しいの。銀二さんは何よりあなたたちの幸せを願ってるのよ。そのためなら、何でもする、きっと命さえ投げ出せる覚悟かもしれないわ。ちゃんと考えてあげてね。」
女将さんはそう言うと、部屋を出て行った。

10時を回った頃、鉄三は和美と幸一を連れ、主人の部屋に行った。部屋には、女将と厨房主任がいた。
「すまないね。」
「いえ、大丈夫です。それで、ご相談と言うのは?」
「ああ、順序だてて話をするから、よくお聞き。」
そう前置きしてご主人が話を切り出した。
「実は、この店の回りも開発に入ってね。店の前の道も拡幅工事でね、今の店も少し削られる事になったんだ。それで、この機会に松屋の改装をしようと思っているんだ。」
「はあ・・」
「今まで、玄関の脇にあった『お休み処』はこの機会にやめる事にしたんだよ。」
「せっかく、常連のお客さんもいらしているのに・・残念です。」
女将が口を挟んだ。
「確かに良く遣ってきてくれたわ。だけどね、和美ちゃん、体の加減もあるし、これ以上続けるのは難しいって思ってね。」
「すみません。私のせいで・・」
和美は済まなそうに言った。
「いや、それだけじゃないんだ。時代も変わってきた。世の中、サラリーマンが増えてきて、松屋も今までのような高級料亭ってだけじゃお客さんに喜んでもらえない。お休み処の評判を考えるとね、松屋も今までとは違ってもう少しご近所さんが気軽に遊びに来てくれるようにしたいと思ってね。」
「それなら、今まで以上に精進しないと・・・」
「ただね、今、お前たちが住んでいる長屋も取り壊される事になったんだ。店の奥にも部屋はあるんだが、見習いの子たちで一杯でね。所帯持ちが住めるような住まいを探していたんだが、なかなか見つからなくてね。」
「私たち。どんなところでもいいんです。そんな贅沢な暮らしをしようなんて考えはありません。」
追い出されるのかと不安になり鉄三はすがる思いで言ったのだった。

「まあ、話は最後まで聞きなさい。実は、知り合いの不動産屋から、良い物件を紹介してくれてね。いや、ここからはちょっと離れているんだが、1階が小料理屋で2階に3部屋ほどある物件でね。その不動産屋から、どなたか店をやりたいと思っている人は無いかとも言われてね。それで、鉄三、お前はどうかって考えたんだ。」
「え?私ですか・・・そりゃ、自分の店を持つのは料理人としては夢ですが・・・まだ未熟者ですし・・それなら、主任のほうが・・」
この答えはもう折り込み済み程度に、厨房主任の加藤が、即座に応えた。
「馬鹿いうんじゃない。俺が抜けちゃあ、この松屋が困るんだよ。それに、お前も一人前の板前になったんだ。この松屋にじっといるのもお前の腕を殺す事になるかもしれないってもんだ。いい話なんだから、お受けしろよ!」
「いや、ですが、そんな自分の店を持つような準備もできていませんし・・」
「ああ、お金のことなら心配ないんですよ。私たちのお願いなんだから、もう、店は買っているんだよ。お前たちが、やる気になれば、いつでも始められるようにね。・・いや、タダと言うわけじゃない。最初はなかなか儲からないだろうから、1年間の資金は、貸付として、儲かったら少しずつ返してくれればいいというのはどうだい?」
「ですが・・・」

躊躇する鉄三の様子を脇で見ていた和美が、小声で鉄三に言った。
「部屋のついているお店なら、幸ちゃんも一緒に居られるし、私も手伝える。このまま松屋さんにお世話になり続けるよりも、思い切って自分たちの店をやってみましょう。・・・それがこれまでの恩返しにもなるんじゃないの?」
「そんな・・自分たちの店って・・そんなに甘くはないんだぞ・・・・」
「大丈夫。3人一緒に居られれば、大丈夫よ。」
鉄三は、和美の強い言葉に気持ちが少し動いた。だが、なかなか決断ができないでいた。そんな様子を見て、和美が、
「ねえ、お兄さんならどういうかしらね。」
その言葉は鉄三に響いた。祝言の前の夜、銀二が長屋の部屋で言った言葉を思い出していた。
『そうだ、一生ここに居るのじゃなく、違う形で恩返しするのが良いって兄ちゃんは言っていた』

「わかりました。ご主人のおっしゃるとおり、その店、遣らせてもらいます。」
「そうかい。良かった。・・じゃあ、暖簾分けと言う事で、・・・」
そう聞いて、和美が口を挟んだ。
「いえ・・これ以上ご迷惑を掛けないようにしたいんです。もし、悪い評判が立てば、こちらのお店にもご迷惑をおかけしてしまいます。」
「そうかい?・・・まあ、その方が良いだろう。わかった。じゃあ、早速、店の準備を進めよう。お前たちも、引越しの準備を始めなさい。」

2-9-15:転居 [峠◇第2部]

その日から1ヶ月後には、開店準備のために、鉄三たちは、新居へ引っ越す事になった。
店のほうは、ほとんど、ご主人と鉄三で準備を整えてきた。小さな店だが、厨房は本格的な設えになっていた。

店を出す決心をした知らせを、銀二も喜んで受け取った。
そして、引越しの日には、何かと手伝いも必要だろうからと松屋に顔を出していた。

「いよいよだな。鉄三。これから本当の自分たちらしい生き方ができるな。」
「うん。全て松屋さんのお陰だよ。本当にどんな恩返しをすればいいんだろう。」
「そりゃあ、美味い料理を作って、良い店にすることだろう。・・お前たち自身が誰よりも幸せになれば、松屋さんもきっと喜んでくれる。それが一番の恩返しに違いない。」
「そうだね。」
「ああ、そうだ。店を開く話、村田屋さんにも知らせといたぞ。今でも、ご主人は何かと気に掛けてくれてる。直接、連絡を取るのは憚れるようで、くれぐれも身体に注意して、良い店にしてくれっと言ってた。」
銀二と鉄三は、松屋の玄関前にいて、しみじみと話していた。

「おい、荷物はこれだけかい?」
厨房主任の加藤さんが、トラックの席から声を掛けた。荷台には、卓袱台と小さな箪笥が一つ。そして、布団と風呂敷包み、幸一が大好きな本が積まれているだけだった。
「はい。必要なものはこんなもんです。・・兄貴と私を乗せてください。和美と幸一は、バスで行きますから・・」
「ああ、わかった。だが、乗り心地は保障しないぜ。」

店の中から、板前や仲居が見送りに出てきた。皆、口々に別れを惜しんでいる。
少し遅れて、ご主人と女将さん、そして娘の恵も玄関先に出てきた。
恵は、和美に駆け寄ると抱きつくように別れを惜しんだ。
「お姉さん。元気でね。」
「ごめんね、恵ちゃん。奥の仕事、しっかりできなくって・・・。」
「いいの。これからは、私も、お母さんからたくさん教わって、お店の仕事も覚えるから。」
「えっ?じゃあ、恵ちゃん、お店を継ぐ決心をしたの?」
「ええ・・いろいろ迷ったけど、お姉さんを見ていて、いろんな人に喜んで貰える素敵な仕事だってわかったから。・・私も、鉄三さんみたいな真面目な旦那さんを見つけて、松屋をもっと良い店にするからね。」
「きっと、恵ちゃんなら大丈夫。お互い、頑張りましょう・・じゃなかった、一生懸命にね。」
「はい。」

「それじゃあ、皆で、記念写真を撮ろう。短い間だったが、鉄三も和美さんもしっかり働いてくれた。淋しくなるが、新しい店できっと一生懸命やってくれるはずだ。記念にみんなで写真を撮ろうじゃないか。」
そう言って、ご主人はカメラを構えようとした。
それを見つけて、いきなり、銀二が、
「ちょっと待った。旦那さん、すまないが、俺に撮らしてくれないか。一度、カメラに触ってみたかったんだ。頼みます。」
「銀ちゃん、大丈夫なの?」
仲居の輝子が茶化すように言った。
「うるさいよ!ほら、ご一同様、きれいに並んでください。さあ、さあ、さあ。」
銀二は、写真家気取りで皆を並ばせた。
「ご主人と女将さんは真ん中!その脇に、鉄三と和美・・・幸一は、女将さんに抱っこしてもらえ。そうそう。それでいい。じゃあ、写すぞ。みんな、とびきりの笑顔で・・・・えーっと・・・・なんだっけ?」
皆、笑顔を作って構えたのに、銀二が肝心の掛け声を忘れて、大笑いした。
「ハイ、ついーず。だべ?」
と、澄子が津軽訛りで言った。
「そうだ、そうだ。ハイ、ついーずう!」
銀二が、澄子を真似たおかしな掛け声をかけたので皆大いに笑った。写真には、皆の笑顔が収まっていた。

鉄三と銀二は、トラックに乗り込んで、一足先に出発した。
和美と幸一は、松屋の前でみんなに見送られて、名古屋駅に向かった。
ここへ来た時からそれほど年月は経っていないはずだが、駅前は随分と様子が変わっていた。開発がどんどん進んでいたのだ。幸一は、初めて見る光景に興味津々の目できょろきょろと見回している。
名古屋駅から、店のある川原通りまではバスに乗り継いでいく事になる。和美も、名古屋駅の東側は初めて来た。栄の繁華街には、たくさんの人で溢れていた。車も多かった。ビルの工事現場もたくさんあった。今池、池下と町を抜けると、住宅街に入った。低い屋根が綺麗に並んでいた。人も車も随分少なく、のんびりした雰囲気になり、まだ、あちこちに畑も残っていた。
川原通りのバス停で降りると、もう目の前に新居がある。大きな交差点から、一本裏通りで、店の前には山崎川が流れている。
和美は、ご主人が書いてくれた地図のメモを見ながら、幸一の手を引いて、新居へ向かった。

「おい、ここだ。意外に早かったなあ。」
鉄三と銀二が、店の前で手を振っていた。
「もう、荷物も運び終わった。さっき、加藤さんも帰っていったよ。さあ、新居だ。入ろう。・・幸一、おいで。」
そう言って、鉄三と銀二は、店の中に入っていった。
和美は、店を見上げながら、ここまでの日々を思い出していた。あの暗い海から救い上げられた日は、わずか5年ほど前なのに、随分、昔のように感じていた。
そして、たくさんの人に助けられ支えられて来た事を胸に刻んで、新しい人生を精一杯生きようと決意を新たにしていた。

2-10-1:開店 [峠◇第2部]

「さあ、開店にしよう。和美、暖簾を出してくれ。」
松屋で話を切り出されて、ばたばたと準備をして、その年の夏の終わりに、ようやく開店にこぎつけた。
鉄三は、厨房の中で、煮物の火加減を見ながら、ぼそっとつぶやく。
「なんで、店の名前が・・『たお』なんだ?峠の茶屋みたいじゃないか。それに、漢字で『峠』って書いてあったって、誰も、ちゃんと読んでくれないよ。なあ、和美、お前が言い出したんだから、良いんだけどさ・・・」
「だって、懐かしい言葉でしょ。判る人には判るんだからいいじゃない。」

開店日と言っても、3日ほど前には、松屋の皆やご近所の方を招いて、開店のお祝い事は済ませていた。
実は、その日は、幸一の誕生日でもあった。だから、幸一の誕生日のお祝いと開店のお祝いを兼ねて、身近なものだけでの祝いの席を設けたのだった。ただ、案内は銀二にも送ったのだが、一向に連絡もなく、姿を見せなかった。銀二が一番喜んでやってくると思っていた鉄三は、少し不満だった。兄の言うとおり、松屋の皆さんへの恩返しと心に決めて準備してきた事を、銀二も褒めて貰いたかったのだった。しかし、和美は、銀二はきっと姿を見せないだろうと思っていた。銀二は、晴れやかな場所が生来苦手であったし、きっと女将さんが銀二に事の次第を話しているだろうから、余計に顔を出しづらかっただろうと思っていた。ただ、そのうち、ふらっと突然現れて、何事もなかったかのように騒いで帰っていくに違いないと思っていた。

「なあ、和美。幸一はどうしてる?」
「ええ、2階で大人しくしてるわ。ほら、お祝いの日に、松屋のご主人にいただいた新しい図鑑が気に入ったようで、また、熱心に見ているの。ご飯もさっき済ませたから・・」
「そうかい。それじゃあ、お客さんがみえるまでに、ちょっと風呂に入れてやってくれ。もう一人で入れるようになったらしいが・・」
「はい。」
和美はそう言われて、2階へ上がった。2階には3部屋ほどあり、窓の外にちょっとした物干し場があった。幸一は、物干し場が好きで、そこで過ごす事が多かった。
「幸ちゃん?お風呂入りましょう。幸ちゃん?何処?」
幸一は、いつものように物干し場にいたが、外に向かって手を振っていた。和美は不思議に思って、窓の外を見ると、銀二が両手を振り上げて幸一に応えていたのだった。
銀二の顔を見るのは2ヶ月ぶりだった。和美は、幸一を抱えて、階段を急いで降りた。その勢いに、店で準備をしていた鉄三が面食らって尋ねた。
「おい!幸一が何かしたか?」
和美はその問いに答えもせず、草履も履かずに、玄関から飛び出していった。
「銀二さん!」
和美は、それ以上言葉が出てこなかった。お店を開く事が出来た事をどういう言葉で銀二に礼を言うべきか、言葉に出来ないくらいの感謝の気持ちでいっぱいになっていた。もう、何も言えず、ただ涙を流すほかなかった。その様子に銀二は困った顔をした。鉄三がどう思うかを真っ先に考えてしまったのだ。

「おいおい、一体どうしたんだ。鉄三に苛められたのか?なら、鉄三をとっちめてやろう。おい、鉄三!いるか!」
銀二は、そうはぐらかすように言ってから、和美の横を素通りして、店の中に入っていった。

「なんだよ、兄貴!開店の連絡は送ったろ。おととい、みんなで祝いの席をこしらえたのに、なんで来なかったんだよ。それに、突然現れて、気まぐれにも程がある。松屋のご主人にも、兄貴からもちゃんと礼を言って貰いたかったのにさ。」
「いやあ、すまん。間に合うようにとは思ったんだが、ほれ、海が荒れちまって、ちょっと遅れた。すまんすまん。帰りにでも松屋に顔を出して礼を言っておくからさ。」
「なんだい!また、貨物船できたのかい?もう、列車に乗ってくればいいじゃないか。」
「俺はどうもあの列車ってやつが気に入らないんだよ。・・・まあ、いいじゃないか。今日からだろ、店が始まるのは。おお、いい店じゃないか。夫婦でやるにはちょうど良い。前の川も風情があっていいじゃないか。」
「ああ、この町の人も皆良い人ばかりさ。・・・そうそう、店の裏から少しのところに、川原市場っていうのがあって、結構良い食材が手に入るんだ。意外に、魚も良いんだ。魚屋や八百屋の大将もいい人でさ。安くしてくれるんだ。きっと、今日来てくれるはずさ。」
「そいつは良い。なんたって、こういう店は、ご近所さんが可愛がってくれなきゃなあ。」

店があるのは名古屋の東部、最近できた環状線で「川原通り」から一本通りを入った静かなところだった。
店の前には、「山崎川」という小さな川が流れ、すぐ裏手には小学校もあった。大学等も近くにあって、学生もたくさん住んでいた。川原市場というのは、小さな商店が10軒ほど入っている庶民の買い物の場所で、魚や肉・野菜・雑貨・衣料品等なんでも手に入る。近くに最近スーパーマーケットも出来て何でも手に入るようにはなったが、川原市場の方が、新鮮で安かった。何より、店主たちの温かい心遣いを感じられて、買い物だけじゃなく、世間話も出来て安心できたのだった。

「銀二さん」
兄弟の会話が一通り済んだところで、和美が改めて銀二に声を掛けた。
銀二は振り返って、
「おお、元気そうじゃないか。身体は大丈夫か?無理するなよ。・・お、幸一!大きくなったなあ。飯、食ったか?ああ、これ、誕生祝いだ。」
そう言って、幸一を抱き上げ、包みを幸一に渡した。包みの中身は、図鑑だった。
銀二は、和美とちゃんと会話をしようとしなかった。

「もうすぐ開店なんだろ。ちょっと部屋で休ませてもらっていいかい?夕べ、あまり眠れなかったんで。風呂、入れるか?」
「ええ、沸いてます。」
「そんなら、幸一と一緒に風呂に入らせてもらうな。」
そう言って、幸一を連れて、勝手に2階へ上がっていった。

「なんだろうね。兄貴。いつもの調子だけどね。」
鉄三は呆れた顔でそう言って、料理の準備に入った。和美もそれ以上言葉を交わせず、開店の準備をした。

夜7時を回った頃、八百屋と魚屋の大将が連れ立って来てくれた。
「ごめんよ。いいかい?」
「いらっしゃい!」
「ほう、なかなかいい店じゃないか。これならきっと美味いものが出るだろうね。」
「何言ってんだい。お前は、和美ちゃんの顔が拝めれば、それだけで満足なんだろうが!」
「お前だってそうだろ。」
そんな冗談を口にして、二人は席に着いた。
その後も、肉屋の大将も息子と一緒に顔を見せてくれたり、八百屋と魚屋の女将さんも亭主を迎えに来たのを口実に、ビールをたっぷり飲んで帰っていった。
市場の人たちは、皆、朝が早いせいか、早々に店を出て、10時を回る頃には、客足も一旦途切れていた。

風呂上りの後、少し横になっていた銀二が2階から降りてきた。
「おい、客が居ないじゃないか?ご近所の連中はどうしたんだ?」
「さっき、帰ったところだよ。兄貴、何か飲むかい?」
「おお、ビールをくれ。」
和美は、銀二にコップを渡すと、ビールを注いだ。銀二は一気に飲み干すと、
「ようやく、松屋さんに恩返しが出来そうだな。」
と言った。
「ああ、思ったより早く店を持つ事が出来て良かったよ。松屋さんには、身に余るほどのご恩をいただいた。なんて感謝したらいいのか・・思い返すと、一度、村田屋で料理を褒めてもらっただけなのに・・本当に感謝しきれない。」
鉄三はそう感慨深げに言った。
「いや、お前が真面目に生きてきたからなんだよ。俺みたいに、行き当たりばったりの生き方してたんじゃこうはならない。本当に、お前は自慢の弟さ。きっと松屋さんもお前の真面目さを認めてくれたんだよ。じゃ、なきゃ、こんな店を任せちゃくれないさ。だからこそ、期待を裏切らないよう精進するんだな。」
和美は、今日までの全ては、本当は銀二のお陰なのだと鉄三に教えたかった。遠くに居てもいつも自分たちのことを大事に考えてくれる銀二が居たからこそ、今日の自分たちがあるのだと。だが、それを口にする事は銀二の気持ちを無にする事になる事もわかっていた。

「兄貴、いい太刀魚が入ってるんだ。食べるかい?」
「お、そりゃ良いな。どうかな?俺が獲ってくるのには敵わないだろうが、まあ、出してくれ。・・焼いてくれるか?」
「判ってるよ。」
鉄三は、奥の冷蔵庫へ太刀魚を取りに行った。
銀二と二人きりになった和美は、小さな声で、銀二に
「銀二さん、ありがとうございます。全て、松屋の女将さんに聞きました。本当にありがとうございます。」
銀二は、じっと、和美の目を見て、
「お前はもっと幸せにならなきゃいけないんだ。」
とだけ言って目を閉じた。

翌日の早朝、銀二は、挨拶もそこそこに、風のように帰っていった。

2-10-2:常連客 [峠◇第2部]

開店から1ヶ月。常連客もでき、店は順調だった。
月に1度、豊浜の漁師からも魚が届くようになって、その日は、夕方から夜遅くまで小さな店に人が溢れるくらいになっていた。忙しい日々だったが、週2日は休みを取っていた。和美の体の負担を少しでも減らすために、鉄三が週2日の定休日は譲らなかった。お休みの日には、家族3人で、動物園に行ったり、港のほうまで出かけたり、映画を見たりして過ごした。

ある日の事。夜10時を回り、近所の常連客が引いた頃、見知らぬ男達が店に入ってきた。見るからに、良からぬ輩で、乱暴に玄関を開け、どかどかと店の中に入ってきたかと思うと、椅子をいくつか蹴飛ばして、どかっと座った。威圧するような声で、ビールを注文すると、コップに注ぎ一気に煽った。そして、
「景気が良さそうじゃないか!・・これは祝いの花だぜ・・ただって訳じゃねえ、花を買ってくれよ。」
「花と言われても・・こんな店ですし・・」
「いいじゃねえか。店の彩りは大事だぜ。この界隈じゃ、みんな買ってもらってるんだ。」
「いえ、結構です。」
明らかに、地元のやくざだとわかった。
花代と言いながら法外な金をせしめるやり口は、松屋の時から知っていた。松屋も毅然とした態度で断ってきたのを知っている。
「ほう、いい度胸じゃねえか。ここらで商売するんなら仁義を欠いちゃいけねえよ。ほれ、ぐたぐた言ってねえで、花代よこしな。」
「結構です!」
「そうかい、なら・・」
その男達はそういうと、テーブルをひっくり返し、皿や茶碗を投げ割り、騒ぎ始めた。

その騒ぎの最中、表に車が停まった。
車の中から、がっしりした体つきの男が二人、飛び出して店の中に入ってきた。
「何騒いでるんだ!止めんか!」
その声に、騒いでいた男達の手が止まった。
「ほう。いい度胸だ。痛い目に遭いたいのか?」
騒ぎを煽っていた兄気風の男が、にじり寄った。そこへ、白髪の紳士風の男が少し遅れて入ってきた。
「おや、お前たちは、確か・・・。」
その紳士が一言言うと、いきり立っていた男達が急に大人しくなった。
そして、兄気風の男の脇に居た男が、小声で何やら耳打ちすると、こそこそと店を出ようとし始めた。
「ちょっと待ちなさい。これだけの事をしておいて、そのまま出て行こうというのかい。それが、お前たちの仁義ってやつかい?・・親分にはしっかり伝えておこう。この界隈でまだ悪事を働いてるようなら、今度こそ容赦しませんよ。」
その言葉を聞くか聞かないうちに男達は姿を消していた。

鉄三と和美は、恐ろしさの余り、厨房の影に隠れて様子を伺っていた。あたりが静かになり、店に出てみると、先ほどの紳士と二人の警護役らしき男達が店の中を片付けていた。
「済みません。あとは私たちでやりますので。・・・申し訳ありません。せっかくお越しいただいたのに・・この騒ぎで・・。いや、・・本当に助かりました。ありがとうございます。」
「いえいえ、ああいう輩には毅然とした態度が一番なんですよ。」
「ありがとうございます。ただただ怖くて・・本当に助かりました。それで、あなた様は?」
傍にいた警護役らしき男が名刺を差し出した。そこには、ある銀行の頭取の肩書きがあった。
「あの、失礼ですが・・お客様、初めておみえですよね。」
「ああ、失礼した。いえ、松屋のご主人から、この店のことをお聞きして、一度、美味い漁師料理というのを味わいたいと思いましてね。」
「それは、ありがとうございます。・・しかし、銀行の頭取の方の御口に合うか・・。」
「それなら心配には及びません。貴方の腕は、以前に聞き及んでおります。ほら、ビルの工事職人の宴会、あれは今でも語り草になっていますよ。私は無類の魚好きでね。でもなかなか美味い魚を食わせてくれるところがなくてね。」
「それなら、腕によりをかけて作らせて貰います。少しお待ちください。」
鉄三は、荒らされた厨房を片付けながら、すぐに料理を始めた。
和美も店の中を片付けながら、
「あの、何かお飲みになりますか?」
「お勧めのお酒はありますか?」
「ええ・・豊浜の漁師さんたちが勧めてくれる地酒ならございます。ただ御口に合いますでしょうか?」
「それはいい。冷酒でいっぱい貰おうか。」
コップ酒で、テーブルに運んだ。頭取は、コップに口を近づけて、そっと口に含んだ。
「これは美味い。この粗暴さが良い。命を張って漁に出る漁師にはこれくらいの粗さが良いねえ。」

和美は、先ほどの経緯に疑問があって、つい尋ねてしまった。
「あの、先ほどの人達とはお知り合いなんですか?」
それを聞いて鉄三が驚いて
「こら!失礼だぞ。銀行の頭取さんがあんな連中、ご存知のはずないじゃないか!」
と叱りつけるように言った。
「いえ、良いんですよ。・・貴女が和美さんだね。松屋の女将さんが話してくれた通りのまっすぐな女性だ。随分、むごい目にあったと聞いていたから、もっと辛そうな顔立ちをしているかと思ったが、こんなに若くて美しいのにはびっくりしたよ。・・ああ、すまない。余計な事を話したね。・・・いや、私も戦後の混乱の中、この名古屋でいろんな商売をしてきたんですよ。そして、いろんな人と関わって、ようやくここまできたという事なんですよ。さっきのような輩の親分とも昔からの交流はあってね。まあ、昔気質の親分たちは、それなりに筋を通して、仁義を張ってるんだが、最近の若い連中はどうも弱いもの苛めをしたいようでね。時々、お灸をすえなくちゃならんのです。」
そう話す頭取の目には、優しい光とともに、長い年月で積み上げてきた深い悲しみや後悔をも湛えている様に見えた。
「お待たせしました。」
鉄三は、刺身の盛り合わせと蛸とアサリの浜焼き、太刀魚の塩焼き、酢の物等を並べた。
「おお、これはすごい。早速いただくとしよう。」
頭取は箸をつけ始めた。鉄三はその様子を伺いながら、護衛の二人にも、同じように料理を並べた。
「いえ、私たちは職務中なので・・」
その言葉を聞いて、和美が、
「仕事中ならお酒は駄目でしょうが、お食事はいいじゃないですか。この店に居らした以上、どんな方もお客様です。一口でも結構です。お召し上がりください。」
それを聞いた頭取は、
「いやあ、気が利くねえ。今まで何軒かのお店に同行させたが、みな、私の顔色を伺っては、遠慮がちに、私よりも程度を下げたような食事の支度をしたところばかりだった。それなのに、この店は。護衛と言っても私の大事な部下には違いない。大事にしていただけるというのはありがたい事だ。さあ、君たちも食しなさい。実に美味い。」
「さあ、皆さんで楽しくやりましょう。ね!」
「いやはや、和美さん。あんたは良い女将だ。松屋の女将に負けないくらいの女将だよ。」
「済みません。ちょっと調子に乗りました。いつも、松屋の女将さんの傍で見ていたので、真似させていただきました。」
「こりゃあいい。うん、実に良い。」

先ほどの恐ろしい出来事など、とうの昔の事になっていた。深夜近くには、頭取も随分楽しんだ様子で、笑顔で帰っていった。そして、帰り際に、
「また、寄らせてもらうよ。いやあ気分が良い。また、明日から一生懸命働けそうだ。・・そうだ、また、恐ろしい目に遭うようなことがあったらすぐに連絡をしなさい。この二人をすぐに寄こすから・・ああ、楽しかった。ありがとう。」

その日以来、二度と恐ろしい嫌がらせもなくなった。むしろ、頭取が宣伝をしたおかげか、庶民の小さな店に時々大きな黒塗りの車がこっそりと停まるようになっていた。そして、訪れる客は皆、笑顔になって帰っていった。

2-10-3:誕生日① [峠◇第2部]

『峠』が開店して1年が過ぎた。
幸一は、春から近くに幼稚園に通うようになっていた。友達もでき、幼稚園から戻ると、近所の公園に遊びに出る事も多くなった。その日も、公園でみんなとかくれんぼや泥警遊びをしていた。

そこへ、突然、銀二が現れた。
「おい!幸一!元気か!」
銀二は、そういうといつものように幸一を抱え上げ、肩車をした。
「銀ちゃん、何だよ。見つかっちゃったじゃないか!」
幸一は不満そうな口ぶりで言ったが、銀二のことが大好きで、久しぶりに会えたことで嬉しさ一杯の笑顔だった。
「ごめんよ。・・ほら、誕生日のお祝いだ。・・プ・・プレゼントっていうんだっけか?」
大きくて重い包みを見せた。
「何だい?」
「まあ、家に帰って開けてみよう。みんな、ごめんよ。今日は、このおじさんが幸一をさらって行くから・・じゃあな。」
銀二は幸一を肩車したまま公園を出て、店に向かった。
帰り道で、銀二は、
「おい、幸一。あれから、母ちゃん、具合はどうだ?寝込んだりしてないか?」
「うん・・・時々、疲れたとは言ってるけど・・・」
「そうか。お前ももう5歳なんだから、できるだけ自分の事は自分でやるんだ。いいな。」

「ただいまあ!」
銀二と幸一は声を揃えて言った。
「あれ?兄貴?なんだい、突然。来る時は連絡してくれってあれだけ言ってるじゃないか!まさか、まだ、貨物船?」
「いいじゃねえか。おれはお船が好きなのよっと。」
ちょっとおどけて応えた。

「おい、幸一、風呂にしよう。」
「兄貴、風呂はまだ沸かしてないよ。」
「いいんだよ。そこに銭湯があるじゃないか。あそこに行こう。家の風呂は狭くて適わん。銭湯に行こう。良いな、幸一。」
幸一は銭湯に行ったことが無かった。そう言われてもぴんと来なかったが、なんだか銀二と一緒なら楽しそうだった。
「うん、いくいく!・・ねえ、母ちゃん、タオルちょうだい!」
「こら!幸一、さっき言っただろ。自分の事は、自分で遣るんだ。ほれ、タオルとパンツ持って来い。」
そういうと、幸一を下ろして、尻を叩いた。幸一は、2階へ駆け上がっていき、風呂場からタオルとパンツを持って降りてきた。
「鉄三!お前もどうだ?」
「いや、俺はこれから店の仕込みがあるから・・・」
「母ちゃん、行こうよ!一緒に風呂に入ろう。」
「馬鹿!男と女は別々なんだ!一緒に行ったって、一緒に入れるわけじゃない。それに、お前、まだ母ちゃんと一緒に風呂に入ってるのか?」
「イケナイのかい?」
「いや、いけなくは無いな。まだ良いかな。・・でも・・羨ましいな。」
それを聞いた和美が、とがめるような口調でこう言った。
「何、馬鹿なこと言ってんのよ。銀ちゃんたら、幼稚園児だって馬鹿にしてると駄目よ。この子、頭が良いんだから。」
すると、幸一が、
「ねえ、銀ちゃん。どうして羨ましいんだい?母ちゃんの裸が見れるからかい?」
それを聞いた銀二が真っ赤になった。確かに幸一は頭が良かった。それにませてもいたのだった。
「こら、そんなことは良いから、ほら、行くぞ!」

『峠』から山崎川沿いを少し上って、左に橋を渡ったところに、銭湯『山花温泉』があった。温泉という名はついているが、れっきとしたボイラーの湯である。幸一は、銀二が暖簾をくぐって中に入り、番台に代金を置く様子をじっと見ていた。銀二は、お金を置くとき、ちらと女湯を覗いた。番台の店主が、咳払いをひとつして,銀二は首をすくめた。後を付いて入った幸一も、銀二の真似をした。店主が、その様子を見て、げらげらと笑ったのだった。

銀二がその様子に気づいて飛んできた。
「何してるんだよ!駄目だろうが、あんなに判るように覗いちゃ。ちらっと見るんだ。」
おかしなことを教えていた。
籠に脱いだ衣服を投げ入れて銀二はさっさと湯船に向かっていった。幸一も遅れないよう急いだ。
まだ、早い時間で、入浴客がほとんど居なかった。
幸一は、こんな広い風呂は初めて見た。幼稚園のプールより大きいと思った。嬉しくなって、湯船に飛び込もうとしたら、銀二に首を掴まれた。そして、湯船の脇に押さえつけられ、洗面器で熱いお湯をしこたま掛けられた。
「湯船に浸かる前には、ちゃんと汚れを落として入るのが銭湯の掟だ。みんなが入るんだ。綺麗にしてから浸かるんだよ!」
時々、銀二は至極まともな事を教える事があった。

湯船に、二人並んで、肩まで浸かっていた。静かだった。隣の女風呂から、時折、湯の流れる音が聞こえるくらいだった。
どれくらい沈黙が続いただろう。幼稚園児の幸一には何だか静かな時間が不安に感じるくらいだった。その時だった。
「ボコ・・ボコ・ボコ・・」
湯の中から大きな泡が浮かんできて、弾けた。そして、とても臭かった。
銀二が大きなおならをしたのだった。
「うわあ・・・:」
幸一は、静かさを破る音と強烈な臭いにショックを感じて、湯船を逃げ回った。
「何するんだよう!銀ちゃん!」
銀二はにやりと笑ってから、
「これが遣りたくてさあ。お前ん家の風呂でやると、自分まで臭くてたまらんからなあ。わはっはっは。」
幸一は湯船から上がり、体を洗った。何だか、銀二の屁の臭いが体中に染み付いたように思って何度も何度も洗った。

風呂から上がると銀二は体をさっさと拭いて着替え始めた。幸一は、銀二の背中を見て驚いた。銀二の体は、筋肉が盛り上がり黒光りしている。そして、背中に大きな傷もあった。よく見ると、背中だけではない。腕にも傷や火傷の跡がある。太ももの深い傷で引きつったような箇所もあった。
幼稚園児の幸一にも、銀二の体は、大人の男を強く感じさせるものだったのだ。
「ねえ、銀ちゃん。銀ちゃんて、どうしてそんなにゴツゴツの体なの?」
幸一は、自分の腕を見ながらそう言った。
「ゴツゴツ?馬鹿、これは筋肉っていうんだ。どうだ。すごいだろ。」
自慢げに、銀二は二の腕の力瘤を作って見せた。
「うん。筋肉ってどうやったら大きくなるの?」
「なんだ、幸一。お前も筋肉つけたいのか?」
「うん、筋肉があると喧嘩も強いんでしょ?」
銀二は少し考えてからこう言った。
「喧嘩はダメだ。筋肉は喧嘩をするためじゃない。仕事をするためだ。」
「じゃあ、父ちゃんも筋肉がたくさんある?」
「お前の父ちゃんは、筋肉じゃなくて、料理の腕があるんだ。目にはみえないがすごい力なんだ。お前の母ちゃんもそうだ。お前を抱きしめて守ってくれるすごい力があるんだよ。誰でもそういうすごい力を持ってるんだ。お前にはきっとお前にしかできないすごい力ができるはずだ。良いか、幸一。お前はまだ子どもだが、いずれは大人になる。その時にお前にしかできない事を作っておくんだ。」
幼稚園児の幸一には銀二の言っている事の半分も判らなかったが、ただ、いつに無く真剣に話す銀二の言葉から、「自分にしかできない事を見つける」という事が大切だという事は理解できた。

「さあ、帰るぞ。」
「ねえ、銀ちゃん。肩車してよ。」
「おう、良いぞ。ホレ。」
銀二はそういうと、幸一を軽々と抱き上げて肩に乗せた。やっぱり銀二の筋肉はすごいと幸一は思った。

2-10-4:誕生日② [峠◇第2部]

店に戻ると、もう暖簾が出ていた。店が始まったのだった。
二人は、暖簾をくぐり、そっと2階へ上がった。
2階には和美が待っていた。
「遅かったわね。さあ、早く、晩御飯、食べてね。」
二人は卓袱台に並んで、夕飯を食べた。
幸一が、いつになくもりもりとご飯を食べているのを和美が見つけた。
「幸ちゃん、どうしたの?そんなにおなかが空いてた?」
幸一は返事もせず黙々と食べている。そんな様子を見て、銀二が、
「こら!返事をしないか!」
と頭をこつんと叩いた。
「たくさん食べて、大きくなるんだい。きんにくいっぱいにするんだから。」
そう言って、幸一は銀二を睨んで、また食べ始めた。
「おお?そうかそうか。たくさん食べろ。大きくなって強くなって、母ちゃんを守ってやるんだぞ。いい子だ!」
和美は、二人のそんな様子を見て、あきれた顔でこう言った。
「ねえ、幸ちゃん。今日はあなたの誕生日だから、後でケーキもあるんだからね。食べられるの?」
それを聞いて急に幸一は、しまったと言う顔をして、食べるのをやめた。
「こいつ!現金なやつだなあ。」
銀二は笑っていた。

夕飯を終えて、しばらくして、店から鉄三も上がってきた。
「ちょうどお客さんが途切れたから、30分ほど休憩だ。さあ、幸一の誕生日のお祝いだ。」
小さいながら、バースデイケーキが卓袱台に置かれた。
5本のローソクに火が点され、幸一が一気に吹き消した。
「ようし、ほい、誕生日のプレゼントだ!」
銀二は包みを幸一に渡した。重くて大きい包みだった。
幸一がゆっくり包みを解くと、中から分厚い本が出てきた。
「幸一、これは、百科事典というもんだ。お前の知らない事がたくさん書いてある。まだ、読めない字もたくさんあるだろうが、お前は図鑑が好きだからな。」
それを見た和美が、咎めるように訊いた。
「こんな高いもの、どうしたんですか?」
「いや、今、俺の知り合いで、この本を売る仕事をしている奴が居てな。なかなか売れなくて困ってたんだ。ちょうど、幸一にいいんじゃないかと思ってな。これから、毎月、1冊届くから。多分、2年位届くはずなんだ。小学校に入る時には大体揃うから役に立つと思うよ。」
「兄貴、届くって簡単に言うけど、支払いはどうすんだい?俺たちそんな金ないよ。」
「バカ!支払いの事なんか気にするな。もう全額払ってある。何でも一括で払うと、2冊目のときにこいつを収める本棚も付くって言うからさ。」
「そんな、高いもの、いくら、銀二さんでも・・・」
「良いじゃないか。俺には、家族はお前たちだけだ。金を稼いでも使う事もないんだから・・幸一が立派になってくれればいいじゃないか。なあ、幸一、どうだ?」
そう問いかけられた幸一は、すでに、百科事典に釘付けになっていて返事もしなかった。
ページを開くたびに、綺麗な写真と文字が並んでいて、難しい漢字にはひらがながふってあって、今の幸一にも充分読めた。一つ一つ、読むたびにワクワクしていた。
「ほら、もう幸一は百科事典の中に入ってるじゃないか。あっはっは。」

誕生日の祝いを終え、幸一を布団に入れてから、銀二は店に下りていった。
そして、厨房の脇にある棚の前で手を合わせた。
「もう5年になるんだな。・・裕子さんは今のお前たちを見てどういうだろうな。」
ぼそっと銀二が呟いた。
手を合わせた棚には、裕子の位牌に見立てた小さな人形が置かれ、影膳が供えられていた。
鉄三と和美は、松屋に居た頃からずっとこうして裕子の御霊を供養してきた。幸一の誕生日は裕子の命日でもある。毎年、誕生日を迎えるたびに、鉄三と和美は、裕子への供養のためにも幸一を幸せにする事を誓ってきたのだった。

「そうだ。さっき、言い忘れたんだが、あの百科事典。実は、半分は、村田屋のご主人が出してくれたんだ。孫のために何か出来ないかって相談されてね。」
「え?村田屋のご主人が?」
鉄三は、銀二の言葉に驚いた。孫を奪い、駆け落ちをしてきた二人の事を許してくれているとは思っていなかったからだ。
「俺も、ここへ来るたびに幸一の様子を村田屋には報告してる。そうだ、松屋で撮った写真も、見せたら喜んでくれたよ。なかなか直接と言うわけにはいかないだろうから・・まあ、また報告しておくからな。」
銀二や村田屋の優しさに、鉄三も和美も嬉しさで涙が溢れていた。

2-10-5:銀二と頭取 [峠◇第2部]

「おい、何か作ってくれ。それと、酒もな。」
銀二はそう言ってテーブル席に座った。
鉄三は、料理を作りながら、ふと尋ねた。
「それにしても、百科事典なんて、よく思いついたね。兄貴は本なんて縁がないかと思っていたのに。」
「お前なあ。馬鹿にするんじゃないよ。俺だってたまには・・・いや・・良いことを教えてやる。いいか?お金や家財なんてのは人が持つのは限界がある。よく考えてみろ、どれだけ稼いだって、両手にもてる量なんて限度がある。たくさん持ってれば盗まれる事だってある。妬みも産む。だから、お金や家財は自分が必要なだけでいいんだ。だが、人にはいくらでも持てるものがある。なんだか判るか?それは・・知恵なんだ。どれだけでも自分の頭の中に詰め込めるんだ。それに誰からも盗られることもなければ、ひけらかさなければ妬みも産まない。それどころか、自分を楽にしてくれる。だから、人は知恵を溜め込むのが一番なんだよ。」
「なんだい?それ。また、誰かの受け売りなんだろ。」
「馬鹿言え!俺だってたまにはこれくらいのこと言えるんだ。」

そんな会話を聞いていた客が居た。先日、やくざ者が騒いだときに助けてくれた頭取がこっそり遊びに来ていたのだった。
「良い話だ。誠に良い話だ。」
銀二はその声を聞いて、えっと驚いて振り返った。そして、顔色が青くなったと思ったら、すぐに真っ赤になった。
「良い話を聞いたついでに、私からも一つ。金は天下の回り物と言う言葉は知ってるかね。」
と続けた。その言葉を聞いて、銀二は更に真っ赤になった。そして、
「いや、その話は・・・」と止めようとした。
すると、和美が、口を挟んだ。
「銀二さん、この方は、銀行の頭取さんなのよ。良いお話に違いないんだからちゃんとお聞きしましょう。」
「そうかい?・・・じゃあ・・これは古い友人が言ったんだが・・お金は天下の回り物というが、決して公平に回っていない。たくさん回ってくる人、まったく回ってこない人が居る。回ってこない人は善人だ。そしてたくさん回ってくる人は、少し悪い事をしている。だが、世の中にはもっと悪い奴が居る。金を回している奴らが一番悪いんだと。私なんぞ、その友人から言わせれば、世の中の一番の悪人だそうだ。」
そこまで話を聞いて、銀二が、
「どうか、もう勘弁してください。申し訳ありませんでした。」
と頭を床にこすり付けた。
その様子に、鉄三も和美も驚いた。頭取も、言い過ぎたかと少し反省していた。
「銀二さん、どういうことなの?」

顔を上げた銀二が渋々と説明した。
「昔、あることで、山ちゃん・・いや、山内さんと知り合いなんだ。さっきの知恵の話は、この人に教えてもらったんだよ。」
「じゃあ、お金の話は、銀二さんが言ったことなの。」
「そうさ。」
「でも、なんで、山内さんと兄貴が知り合いなんだ。山内さんはずっと名古屋に居らしてるんだし、兄貴だって名古屋になんか縁がないんじゃ?」
鉄三がびっくりして、更に尋ねた。すると頭取が、
「まあ、それはいいじゃないか。私だっていろいろあった。銀ちゃんもいろいろあったんだ。知らなくても良い事もあるんだよ。」
鉄三は納得いかないようだったが、和美は松屋の女将が以前に話してくれた事を思い出して納得していた。

「ああ、さっきの話は続きがあるんだが・・」
頭取は、コップ酒をぐいっと飲んでからそう言った。
「さっきの話って、悪人の話?」
「いや、知恵の話だよ。いくらでも持つ事が出来るんだが、これはもっと素晴らしい。使っても減らない、分けることもできる、もらう事もできる。そして、たくさんあればあるほど役に立つ。これほど素晴らしいものがあるかな。」
そう聞いた和美が、頭取のコップに日本酒を注ぎながら、目を輝かせて言った。
「あら、そういうものなら、他にも、私、知ってますよ。」
「ほう、それはなんだい?」
頭取は興味深げに尋ねた。鉄三も、銀二も、思い浮かばないような顔をして、和美を見た。
「そう、簡単にはお教えできないわ。」
「なんだい、勿体つけて。さっさと教えろよな。」
銀二がせっついた。だが、和美は、
「じゃあ、なぞなぞにしましょう。いい?それはね、・・結んだり、切ったりできるの。それから、切ったはずなのに繋がっていたり、良いものだったり、悪いものだったり、腐っていたり・・」
そこまで聞いて、頭取は膝を叩いた。
「なるほど・・そうか・・・そいつは素晴らしいものだね。」
一人わかったことが満足げで、注がれた酒をまた飲み干した。
「あら、頭取さん、もうお分かりになったの?さすがね。じゃあ、もう一杯どうぞ。」
頭取は、酒を注がれながら、和美の耳元でそっと答えを言って笑った。そして、
「おや、聡明な御兄弟はお判りにならないかな?ほら、もっと知恵を働かせてごらんなさい。」
と冷やかした。そして、
「一番に正解したのだから、ご褒美を貰いたいもんだな。」
「え?どんなご褒美がお望みでしょう。」
和美はちょっと心配顔で尋ねた。
「私のことを、頭取と呼ぶのは止めて頂きたい。ここへは山内進として遊びに来ているんだからね。そうだ、銀ちゃんのように、山ちゃんと呼んでくれないかい?」
「判りました。でも、山ちゃんはちょっと・・・山さんでいかがでしょう?」
「お、良いね。そうしてくれ。」
「はい。・・・・あら、銀二さんも鉄三さんも、まだわからないの?」
二人とも、「降参」と言った。
「それはね・・・人の縁。えにしの事よ。縁を切ったり結んだり、悪縁・良縁・腐れ縁とか言うでしょ。今、私がここにこうして生きていられるのも、銀二さんや鉄三さんとの縁、このお店だって松屋さんとの縁・・・ね。みな、それぞれにたくさんの縁を持ってるわ。どれだけ持っていても困らない。時には助けてくれる。無理に結ぼうとしても結べない縁もある・・」
そこまで言って、和美は、今日までのいろいろな事を思い出して、胸が詰まってきた。そして、笑顔なのに涙がこぼれてきてしまったのだった。そんな和美を見て、厨房で酒の肴を作っていた鉄三も目に涙を溜めていた。
「いや、良い話だ。確かに、私がこの店で飲んでいるのも、松屋さんとの縁だ。いや、松屋さんとの縁は、銀二さんとの縁でもあるわけだ。世の中と言うものは、そういう縁でできているものかもしれないね。」
山内頭取は、感慨深げにそういうとまたコップ酒を飲んだ。
「ごめんなさいね。ちょっと色々と思い出しちゃって・・・ねえ、山さん。そういう縁って案外近くに居ると気付かないものね。」
「どういうことだい?」
「ほら、いつも警護役でお二人居らしてるでしょ?きっとあのお二人とも、縁が深いはず。仕事だけじゃなく、もっと深く繋がってるのじゃないかしら?」
「そうかもしれないね。」
「なら、お二人も店の中に入れてあげても良いかしら?」
「いや、今日は一人でこっそり来たんだよ。」
「まあ、山さんがこっそり来たと思っていても、ちゃんとお二人は外に居らしてるわ。先ほど、お車を見かけたんだから。」

そう聞いて、銀二が表に出た。和美の言うとおり、黒い社用車が停まっていて、男二人、じっとこちらを伺っていた。
銀二が近づいて車の窓を叩くと、男は少し戸惑っていた。
「おい!店の中に入れって、山ちゃんが言ってるぞ!」
銀二が二人の手を引っ張って店の中に案内した。
「お前たち、今日は一人で行くから帰れと言ったじゃないか。」
「はい、ですが、もし頭取に何かあれば大変ですし、私たちもゆっくり休む事はできません・・」
「いやあ、すまないね。・・・うん、和美さんの言うとおり、この二人と私も確かな縁で繋がっているようだ。大事にしないといけないね。・・・鉄三さん、すまないが、二人にも何か美味いものを出してくれませんか?」
鉄三が、二つ返事ですぐに支度に取り掛かった。

「おい、あんたたち、名前は?」
銀二は二人をじろじろと見ながら、不躾に尋ねた。
背が高く少し年長と思われる男が答えた。
「私は、佐々木祐介。そして、こっちは角田一郎と申します。」
それを聞いて、銀二が大声で笑い始めた。厨房に居た鉄三が、急に手を止めて咎めるように訊いた。
「どうしたんだい、兄貴。人の名前を訊いて笑うなんて失礼じゃないか!」
「だって、お前、・・こっちがユウスケ、こっちがカクタ・・・そりゃ、今、テレビジョンでやってる、介さん角さんで、山ちゃんはさしづめ、水戸のご老公って事になるじゃないか。・・・はああ、ご老公様・・ほら、皆のもの、頭が高い!」
銀二の台詞めいた言い回しを聞いて、店の中、みんな大声で笑った。
こうして、『峠』の夜が更けていった。


2-10-6:背中の傷 [峠◇第2部]

 幸一は、銀二から貰った百科事典を毎月のように楽しみにしていた。新しい巻が届くと、片時も離さず、ページをめくって読み耽るようになっていた。だから、幼稚園児としては随分物知りで、友達から『ハカセ』のあだ名で呼ばれるようになっていた。もともと図鑑を見るのが大好きだった事もあり、百科事典の付録で携帯用のミニ図鑑は特に重宝していた。
 その日も、近くの公園にある滑り台の下で、仲の良い友達と図鑑を広げて遊んでいた。
 そこに、小学生5人ほどの集団がやってきた。小学生たちは、虫取り網を片手に、バッタや蝶等を捕っているようだった。中の一人が、
「おい、捕まえたぞ。」
そう言って得意げに網の中に手を入れて、緑色をしたバッタを掴んで見せた。すると、もう一人が、
「わ、すげえ。トノサマバッタじゃん。」
と言うと、捕まえた小学生は、更に得意げに、
「やった!トノサマバッタ捕まえたぞ。ほらどうだ!」
そう言って、公園の中を走りまわってから、滑り台の下にいた幸一たちのところにも見せに来た。ちょっと意地悪そうな顔をして、目の前にバッタを見せてから、幸一たちを押し退けるように走り抜けた。
その時、幸一の友達の一人が、手を踏まれて泣き始めた。幸一は、無性に頭にきた。幸一は、思わず叫んだ。
「それ、トノサマバッタじゃないぞ!」
それを聞いた体の一番大きな小学生が、幸一のところに走ってきて、強く肩を押した。
「お前、なまいきだな。トノサマバッタだよ。」
「違う。ショウリョウバッタだ。だって、頭が尖ってるもん。」
「ふん。これはトノサマバッタだって。この辺じゃみんなそう言ってるだぞ!幼稚園のくせに、しらねえだろが。」
「違うってば。ほら。」
幸一は、持っていた虫図鑑を広げて見せた。
確かに、幸一の言うとおりだった。だが、幼稚園児にやり返されたのが悔しくて、小学生たちは、図鑑を取り上げて、びりびりと破いた。そして、公園の前の山崎川へ放り投げて、何処かへ行ってしまった。
大事にしていた図鑑を捨てられた幸一は、大声で泣いた。
そして、友達が止めるのもきかず、泣きながら、山崎川へ降りていった。幸い、水嵩は低く、幸一の膝下くらいだった。破かれた図鑑は、緩やかな流れのお陰て、川岸に留まっていた。幸一は、図鑑を拾い集めてから、とぼとぼと店に戻っていった。

店に入ると、支度中の鉄三と和美が居た。戸を開けて入ってきた幸一がずぶ濡れで泣いている。
「どうした?川に、はまったのか?気をつけろよ。」
鉄三はそれだけ言うと、煮物の鍋をもって奥に入っていった。
和美は、幸一が手に持っている図鑑が水に濡れバラバラになっている様子と、幸一の悔しそうな顔を見て、大体見当はついた。そして、
「まあ、幸ちゃん。・・・そうだ、お風呂、沸いてるから、一緒に入ろうか。店が始まる前に入っちゃおう。」
そう言って、幸一の手を取って2階に連れて行った。何があったのか、訊かなかった。

狭い湯船だが、和美と幸一の二人なら充分浸かれる。
母が、ずぶ濡れになった事や図鑑の事、何ひとつ尋ねてこないので、幸一から言い出した。
「公園で、お兄ちゃんたちに・・バッタの名前が違うって言ったら・・・図鑑を破かれて・・・捨てられて・・」
そこまで言ったら、大事にしていた図鑑、銀ちゃんから貰った本が破かれて捨てられてしまった悔しさが胸の中一杯になってしまって、幸一はおいおいと泣き出してしまった。
和美は、湯船の中で、幸一を抱きしめた。
「大丈夫。本は直せば見られるようになるわ。それに、きっと本を破いて捨てた子も、今頃、とても嫌な気分でいるはずよ。乱暴な事をされるのは辛いけど、乱暴な事をするほうにも辛さは残るの。良い気分で居られるわけ無いんだから。許してあげましょう。・・ほら、銀ちゃんも言ってたでしょ。喧嘩は良くないぞって。」
「うん。だから、僕、何もしなかったよ。」
「偉いわ。・・良い子ね。・・・ねえ、幸ちゃん、体洗ってあげるわ。」
そう言って、湯船から上がり、幸一を椅子に座らせて、洗った。
「ねえ、母ちゃんの背中、洗って上げるよ。」
「そう。ありがとう。じゃあ、お願い。」

幸一は、和美の背に回ると、泡のついたタオルで和美の背中を洗った。
白い背中だった。銀二とは違って、随分細かった。肩甲骨やあばら骨も浮き立って見えるほどに和美は痩せていた。
「ねえ、母ちゃん。肩のところにあるのは何?火傷?」
「ああ、随分、昔のやけどの痕よ。」
そう答えた和美だったが、とうに忘れていたはずの忌まわしい出来事をまた思い出してしまったのだった。
「痛かった?熱かった?」
「・・・そうね。もう忘れちゃったのよ。・・昔、事故に遭ってね。お母さん、それより昔の事、みんな忘れちゃったの。」
和美は、幸一が母の火傷の痕を気にして、再び、尋ねられるのを怖れた。昔、銀二に言われたように、記憶を無くしたことにした方がいいと思った。
「ねえ、幸ちゃん。・・一つ、憶えておいてね。体の傷とか痣とか、そういうものは余り良い思い出は無いものなの。もし、そういうのを見つけても、気付かないように、そっとしておいてね。特に、女の人は気にしてるんだからね。」
「うん。」
「さあ、もういいわ。肩まで浸かって10数えたら上がりましょう。晩御飯よ。」

2-10-7:学生たち [峠◇第2部]

開店から3年目の年明け。その年は随分寒い冬だった。
1月の終わり、店の前に、数人の学生が立っていた。
店の前の落ち葉の掃除に出てきた和美に、学生たちはおずおずと声を掛けた。
「あの・・す・・すみません。」
「はい、なんでしょうか?」
「あの、・・僕たち、そこのアパートの住んでいる学生で・・ああ、僕は酒井と言います。・・お願いがありまして・・」
そう言うと、他の一人が、背をつついて、茶色の封筒をその学生に手渡した。その学生は、封筒を握り締めて、
「実は、こちらで先輩を送る会をやらせてもらえないかと思いまして・・」
その学生は、なんだか必至な形相で言った。
「ええ、いいですよ。何人様になりますか?うちの店は余り広くないんで大勢様だと狭いんじゃないかと思いますが・・」
「人数は・・10人ほどです。実は、同じアパートの先輩が、春に卒業できることになりまして、それでお祝いとお別れの会を開きたいんです。」
「まあ、素敵じゃない。いいですよ。10人くらいなら丁度いいですわ。・・ただ、土曜日と日曜日はお店のお休みにしているので、それ以外なら・・・あらかじめ日取りを決めていただければ、貸切でも大丈夫ですよ。」
「いえ、貸切なんて、そんな大金は持ち合わせていません。」
その学生は、先ほどの茶色の封筒を差し出して、
「実は、アパートに住んでいる連中は、みな、仕送りもなくアルバイトで何とかやっている者ばかりで、・・これは、皆にカンパをお願いしてようやく出来たお金なんです。これしかありません。ですから、ささやかで結構なんです。」
学生は、封筒を和美に渡した。和美はそおっと中を見た。お札らしいものは1・2枚、あとは硬貨がジャラジャラと入っていて、いくらあるのかわからないがそれほどの額ではない。和美が封筒の中身を見ている様子を察知して、もう一人の髪の長い学生が、強い口調でこう言った。
「食事は一人分で良いんだ。先輩に美味しいものを腹いっぱい食べてもらいたいだけなんだ。そうだ。酒は自分たちで持って行きます。何とかなりませんか?」
「おい!そんな強気になって・・・ダメだろ。ちゃんと礼儀をわきまえろ。結城先輩を失望させるな!」
「失望とは何だ!金の無いことは仕方ないだろ。何も出来ないほうが、先輩を失望させる。」
「いや、結城先輩は贅沢な料理を喜んでくれるとは限らない。他の方法を考えよう。」

学生たちは、和美の前で急に議論を始めた。
その様子を見ていた和美は、遠い昔の忘れた事にしている玉浦の記憶を思い出していた。
和美が初めて愛した男も、こんな意気盛んな学生だった。あの村へ来なければ、自分と出会わなければ、命を落とす事も無く、今頃は、きっと、大きな社会で思う存分活躍していただろう。

「いいわ。任せてください。大丈夫。うちで是非、その・・結城先輩の卒業のお祝いをやりましょう。御代は気にしないで。おなか一杯食べてちょうだい。お酒も飲んでちょうだい。」
「良いんですか?」
学生たちは、和美の声に、急に議論をやめて、和美の顔をじっと見つめた。
「ええ、大丈夫。・・・交換条件がひとつ。会が終わったら、片付けや掃除をしてちょうだい。・・それから、卒業までの間、時々、うちの手伝いをしてくださらない?もちろん、アルバイト代はお支払いします。それと、うちの子、幸一にいろいろと教えてやって欲しいの。私たち夫婦は、まともに勉強も教えてやれないから・・・そういうこと、ひっくるめてどう?うちでお祝いの会開いてくれる?」
学生たちは飛び上がって喜んだ。
そして、一人ひとり、和美の手を感謝の言葉を口にした。
「それから、この封筒はお返しします。これは皆さんの気持ちでしょ。せっかくだから、これで、先輩に祝いの品のひとつでも買ってお渡ししてちょうだい。私からも少し足しておきますから。」
和美はそう言うと、ポケットの中の財布から、お札を1枚入れた。
「祝いの品って・・どうする?」
皆、顔を見合わせた。
「もう、しょうがないわね。社会に出て行くんでしょ。それなら、ネクタイ1本でいいじゃない。学生から社会人に・・今までとは違う社会で堂々と戦っていけるような立派なネクタイをあげなさい。」
「判りました。ありがとうございます。」
学生たちは、そういうと、祝いの会の日程を決めて、帰って行った。

和美は、いきさつを鉄三に話した。
鉄三は、そんな事してたんじゃ赤字になると渋い顔をしていたが、和美の心意気が無性に嬉しくて、ついには賛同してくれた。そして、その日を貸切にする案内書きを店の前に張り出すと、常連たちが事の次第を聞きつけ、話しは広まった。件の学生たちは、川原市場で、これまでにも、残り物の惣菜とか野菜等を貰っては貧乏な暮らしの足しにする事が多かったので、商店主たちも皆よく知っていた。店主たちは、その日の材料は無料でもってきてやるからと言ってくれた。そればかりか、祝いの会を開こうという後輩学生たちをアルバイトで使う事も約束してくれたのだった。

いよいよ、結城先輩の卒業祝いの会が始まった。
宴会のお願いに来た酒井が、一番に声をだした。
「えー、それでは、ただいまから、尊敬する結城先輩の卒業を祝う会を始めます。・ほら、みんなコップを取って・・それじゃあ、結城先輩、ご卒業おめでとうございます。乾杯!」
10人の学生はテーブルを囲んで、コップをぶつけ合い乾杯した。
「結城先輩、一言ご挨拶をお願いします。」
そう言われた結城先輩は、すっくと立ち上がった。この日のためなのか、床屋に行ったばかりとみえて、頭髪は綺麗に刈り上げられており、さっぱりした顔つきをしていた。最初に、頭を深々と下げた。そして、皆の顔をじっと見回してから、
「みんな、ありがとう。・・・俺は、卒業までに6年も掛かってしまった。だが、この6年間、決して無駄ではなかったと思っている。ここでは先輩だが、社会に出れば1年生だ。これまで以上に精進して、きっとお前たちに恥ずかしくない生き方をする。ありがとう。本当にありがとう。そして、峠のご主人、女将さん、本当にありがとうございます。」
余計な言葉の無い、潔い挨拶だった。実直な生き方をしている男らしい挨拶であった。
料理が運ばれてきた。市場の店主たちが提供してくれた材料は豊富で、鉄三も腕を振るった。以前、松屋の作った『浜焼き』を基本にして、若い学生にと揚げ物を多くした。一升瓶の日本酒も沢山並べられていた。
「さあ、皆さん、遠慮しないで召し上がってください。若いんだからいくらでも入るでしょう?」
学生たちは、我先にと料理に手を出した。学生たちは、思い出話で盛り上がった。和美も、話に混ざりながら酒を注いで回った。そして、尋ねた。
「皆さん、同じ大学なんですか?」
「はい。ですが、学部は違います。結城先輩は、法学部です。在学中に、司法試験にも合格されて、弁護士に・・僕らの誇りです。」
「あなたは?」
和美は、店に祝いの会を申し込んできた酒井に尋ねた。
酒井は少し躊躇う仕草を見せた。すると、横に居た学生が、
「酒井は、医学部。こいつ、すごいんですよ。学費も生活費も全て自分で稼ぎながら、医学部でも優秀。大学でも有名なんです。教授からも可愛がられているし・・・でも、・・」
そこまで話して、その学生は、酒井の顔を見て、少し止まった。
「どうしたの?」
「ええ、今までは何とかなったんですが、・・」
「もう良いんだよ。その話は・・」
「だが・・いえ。こいつの母親が、去年の暮れに体を壊してしまって、入院しているそうなんです。・・で、親の入院費用もこいつが用意しなくちゃいけなくて・・・だから、休学して金を貯めると言ってるんですが・・」
「大丈夫だ。俺は、また戻ってくるから・・」
「だが・・学費と入院費用と生活費とじゃ、とても容易な事じゃない。せっかくの才能が・・・むなしい事だよ。」
その話を、結城先輩も気に掛けていたようで、脇から、詫びるように言葉を挟んだ。
「すまない。俺に余裕があれば、お前にも何がしかの援助もしてやれただろうが・・」
「いえ、大丈夫です。働いてとにかく金を貯めればいい話です。・・先輩が居たから僕も頑張れたんです。」
和美は、その話を聞いて、心から同情する以外になかった。

そんな時に、外で車が停まる音がした。ドアが開き、店の前まで歩いてくる人がいた。
「やあ、しまった。今日は貸切なのか・・仕方がない。」
その客はそう言うと、車に戻っていった。
和美は、その聞き覚えのある声を耳にして、反射的に立ち上がって、表へ出て行った。


2-10-8:山さんと学生 [峠◇第2部]

「すみません。山さん!」
和美は、車に戻りかけていたその客に声を掛けた。
「ああ、和美ちゃん。今日は貸切だったんだね。しばらく来てなかったので、知らなかった。また、出直すよ。」
「いいんです。今日は貸切といっても、御代をいただいていない学生さん達の宴会なんです。せっかくお見えになったんですから、そのままお返しすると鉄三さんに怒られます。・・大丈夫です。お入りください。」
「そうかい?じゃあ。少しだけ。」

そう言ってから和美はすぐに店に戻り、学生たちに言った。
「皆さん、申し訳ないんですが、とても大切なお客様なの。ご一緒させていただいて良いかしら?」
それを聞いて、少しざわめいたが、すぐに結城先輩が、
「結構です。僕たちも貸切なんて申し訳ないと思っていますから・・是非、お入りいただいてもらってください。」
そう了解を取り付けた時、山さんは、共2人と一緒に店に入ってきた。
「申し訳ない。ご一緒させていただくよ。」
なぜか、学生たちは、まるで新しい仲間の登場を迎えるように、山さんたちに向かって、拍手をし始めた。
「ほう、これは嬉しいじゃないか。・・君たちは、何処の学生かね?」
「僕たちは、名古屋大学の学生です。」
「なんだって、それじゃあ、私の後輩ということになる。まあ、君たちとは随分年代は違うが・・」
「え、先輩ですか。まあ、どうぞ、一杯。」
学生たちはもう随分出来上がっているようで、山さんに遠慮なしで酒を勧めていた。
和美が、付け出しと箸を運んできて、
「この方、山内さんとおっしゃるのよ。・・とても偉い方なの。」
「まあ、そんな偉いもんじゃない。」
「山内先輩は、どんなお仕事されているんですか?」
学生の一人が不躾に訊いた。すると、山さんは、
「まあ、友人に言わせると、悪人らしい。金を動かす仕事をしているんでね。」
「え?金貸し?」
それを聞いていた他の学生が、突拍子もない調子で言った。それを聞いた結城先輩が、
「いや、きっと、銀行の方でしょう。それも、在名銀行の頭取ではありませんか?」
と訊いた。
「ほう、どうして判る?」
「いえ、先ほどお名前を伺って、以前、知り合いの弁護士の先輩からお聞きした事があって。バンカーとしてよりも、経営者として素晴らしい人がいるんだという話でした。その先輩は、今の名古屋の発展を、いや、この中京地域の発展に何よりも大事な人だとお聞きしました。そして、無類の酒好きともお聞きしています。」
「なんだか、褒められてるのか貶されてるのか、判らないが、まあ、金貸しの中じゃあ、変わり者だろうね。」

自然にそういう話になっていたのを和美が聞いていて、
「ねえ、山さん。今日、ここに居る皆さんはね、素敵な人たちなの。結城先輩の卒業祝いにとこの席を発案したんだけど、お金がなくてね。茶封筒に入れたカンパ金を私に渡して、なんとか先輩にだけでも美味しいものをご馳走できないかっていうのよ。」
「ほう、それは・・」
「私、そういう話に弱いでしょ。だから、お受けしたの。そしたら、市場の店主の皆さんも、学生さん達の様子は知ってらしてね、材料は全て無料で分けていただけたの。だから、こうして御代無しで宴会になってるの。」
「なんとも、人情のある話じゃないか。君たちも良い人たちに囲まれて幸せだなあ。それじゃあ、私も君らの先輩として何か応援させてもらわないといけないかなあ。」
それを聞いた和美が、先ほどの酒井の話を切り出した。

「ねえ、山さん。こういう苦学生の方って、少なくはないんでしょ?」
「そうだろうね。まあ、私も同じようなもんだった。」
「実は、そこにいる酒井さん、休学してお金を貯めるんですって。でも、それもなかなか難しいらしいの。」
それを聞いた、結城が、事の詳細を山内に説明した。
「そういうことか。それは厳しいだろう。今、名古屋は開発が進んでいる。いや、日本全体が高度経済成長と言われ、戦後復興から国際社会の一員として認められる経済力を持つ国へと向かっている。同時に、インフレも進んで、稼ぎも増えるが出て行く金も増える。生活費だって日々増えている。学費や生活費だけでなく、入院費用までとなるとなかなか厳しいだろうね。」
結城も続けて、
「僕は、春から弁護士事務所に就職が決まって、少しでも酒井に援助できればと思っていますが、なかなか厳しいんです。」
「学生ならば、奨学金制度があるはずだが?」
「ええ、もちろん、奨学金はいただいています。僕も、そうやってやってきました。ですが、生活費がやっとです。学費はやはり自分で捻出しなくちゃいけない。ここに居るみんなはそうやってます。」
和美が、思い切って、山内に提案した。
「ねえ、山さん。山さんの銀行で、こういう学生さんたちに援助することってできないの?」
「まあ、会社なら、回収できるメドさえあれば、今なら、いくらでも融資はできるが、・・人への融資というのはなかなか。」
「わたしには、難しいことは判らないけど・・・ここに居る学生さんたち、夢もあるし、とても優秀なのよ。きっと、これから社会の中で大きな仕事をするでしょう?・・それが、お金が無くて夢を諦めるなんて淋しい話じゃない。」
和美がいつに無く山内に訴えるような口調で問いかけるので、山内も考え込んでしまった。
そして、山内は、ともの二人に、問いかけた。
「なあ、君らはどう思う?」
山内は、以前は、警護役の二人に、仕事の中身について無かったが、この店に通うようになってから、何かにつけて二人の意見を聞くようになっていた。問われた二人は、顔を見合わせたが、年長の佐々木が、
「わたしも彼らと同様に、苦学生でした。いくつかの仕事を掛け持ちしながら勉学に励むのは容易な事ではありません。ましてや、酒井君のように、それ以上の金を稼ぐとなれば、休学もやむを得ないかもしれません。ただ、それは、相当の覚悟がないとできないでしょう。復学というのもそうたやすい事ではないと思います。わたしたちで何か力になれることがあるなら、なんとかしてやりたい。そう思います。」
山内は、その言葉を、じっと目を閉じて聞いていた。そして、角田が、
「ですが、施しのような形では、きっと彼らも喜んで受ける事はできないでしょう。自らの誇りを捨てる事は潔いとは思えない。わたしなら、貸付金というか、自分に投資してもらうような方法ならばと思います。うまく言えませんが、会社への融資と同様に学生への融資の方法もあっていいんじゃないかと考えます。」
そこまで聞いて、山内は目を見開いて、何か考え付いたようだった。急に立ち上がると、学生たちにこう言った。
「わたしから提案がある。聞いてくれ!」
10人の学生たちは、一斉に山内に向いた。
「君たちの状況はわかった。特に、酒井君。君は、優秀な医者になれる人材だと聞いた。きっと、この中にも色々な逸材が居るのではないかと思う。そこで、先輩として、君らを支援したいと思う。」
学生たちは、山内の話に固唾を呑んで聞き入った。
「だが、私も銀行の人間だ。ただでお金を渡すわけにはいかない。ビジネスとして意味があるかどうかが重要だ。そこで、君らに一つやってもらいたい事がある。・・・君らと同様にお金に苦労している学生は少なからず居るだろう。そういう学生が活用できる制度を立案してもらいたい。私としては、基金のような形が望ましいのではないかと考えている。条件や制度・資格、融資金額、返済方法等、我々、銀行にとっても納得できる運用制度を、ここに居るみんなで知恵を絞って作ってもらえないだろうか?」
その提案を聞いて、学生たちはざわついた。
「この中に、経済学部の学生は居ないか?」
数人が挙手した。
「ああ、君らが制度全体を取りまとめ、私に提案書にして出しなさい。・・それから、結城君だったか。君は、法的な検証をしてくれ。他のみんなも自分のできる範囲で結構だから、制度を作るために協力するんだ。言い忘れたが、基金の元手は私が出そう。当座で、・・・百万円程度を準備しようじゃないか。どうだ?」
学生たちは、しばらく顔を見合わせていたが、誰かが、「よし。」と言う声を出したのをきっかけに、みな気勢を上げて答えた。その様子を見ながら、山内は、
「酒井君。君は、この制度の第1号の活用者になるんだ。次に続く学生のためにも、制度が甘くならないよう充分に検証してくれたまえ。いいね。」
酒井は、その声に応えて、
「山内さん、ありがとうございます。頑張ります。」
と返事をした。
その後は、みな、山内を囲んで酒を酌み交わし、大いに喜んだ。そして、夜遅くまで、喧々諤々、基金の中身について議論をしていた。

山内は、少し早めに店を出た。見送りに出た和美が、
「本当に、今日は、ありがとうございました。あんなに良いお話をしていただけるなんて・・・。」
それを聞いた山内は、にっこりと笑って、
「いや、久しぶりにわくわくするような事が見つかった。こちらこそありがとう。・・・だが、こうなるんじゃないかと和美ちゃんは予想していたんじゃないかね?」
「いえいえ、私はそんな・・・」
和美はそう言いながら笑顔で返した。
「そうかい?・・まあ、いいか。・・・また、寄らせてもらうよ。」
そう言って、山内は、笑顔で車に乗り込み、帰っていった。和美は車が見えなくなるまで頭を下げていた。


2-10-9:入学準備 [峠◇第2部]

「ほら、幸ちゃん、起きなさい。」
幸一は幼稚園の年長になっていた。名古屋の2月は、底冷えする寒さで、幸一はなかなか布団から出られなかった。
「ねえ、幸ちゃん。今日、銀二さんが来るんだって。ちゃんと朝起きない事やおねしょしてる事、銀二さんに話すわよ。」
幸一は、銀二の名前を聞いて、布団から飛び起きた。
「ねえ、本当に銀ちゃん来るの?」
「ええ、夕方には着くからって、昨日の夜、電話があったわ。」
そう聞いて、幸一は、急いで着替えて洗面所に行った。幸一にとって、銀二は憧れの人になっていた。来るたびに、お土産を持ってきてくれるし、面白い話も聞かせてくれる。何より、銀ちゃんが来ると銭湯に連れて行ってくれるのが一番の楽しみだった。

朝ご飯を食べながら、幸一は和美に訊いた。
「ねえ、母ちゃん。銀ちゃん、今度は何を持って来てくれるんだろうね。」
「さあ、近頃、幸ちゃんは良い子じゃなかったから、何にもないかも知れないわね。」
「そんなことない!絶対、お土産持ってきてくれるよ。・・ねえねえ、母ちゃんも銀ちゃんから何か貰った事ある?」
そう問われて、和美は、急に昔の事を思い出した。向島を出てくる時、銀二がくれた封筒のお金には手をつけていない。何より、銀二からは今の人生を貰ったようなものだった。
返事をしない和美に幸一は
「なんだあ、何も貰ってないのか。今度、母ちゃんにも土産を持ってくるように言っとくよ。・・・でも、母ちゃん、嬉しそうだね。母ちゃんも銀ちゃんのこと好き?」
無邪気な幸一の言葉に、和美はドキドキした。
銀二への想いは自分の胸深くに沈めていたはずだった。だが、無意識のうちに、銀二を慕っている自分を、幸一が感じたのではないかと思って、自分を戒めた。
「何言ってるのよ。ほら、遅刻しちゃうでしょ。みんな、外で待ってるんじゃない?」
幸一が通う幼稚園は、店の裏にある小学校と隣接していて、近くの子どもたちは小学生も幼稚園児も一緒になって通っていた。そして、いつも、皆、店の前で幸一を待ってくれていたのだった。

「いってらっしゃい。」
和美は、幸一を送り出してから、店の掃除を始めた。鉄三は、夜遅くまで店にいたので、朝はまだ眠っている。和美は、鉄三が起き出してくる前に、夕べの片付けを終えるのが日課だった。綺麗になった厨房や客席に、鉄三を迎えるのが習慣だったのだ。
10時を回った頃、鉄三が店に降りてきた。
「おはよう。支度はできてるようだね。」
「おはようございます。夕べは遅かったようですね。お酒も随分減ってます。今日、買出しに行きますね。」
「ああ、そうしてくれ。・・・そうだ、今日、兄貴が来るんだったな。」
「ええ、夕方には着くって・・」
「そうか。なら、後で、市場に行って、良い魚を仕入れて来よう。酒も買ってくるから・・買出しは俺が行くよ。」
「そうなの・・・じゃあ、昼間、百貨店に行ってきても良いかしら。」
「百貨店?何か贈り物かい?」
「いやあねえ・・・・幸一の入学準備よ。制服とランドセルくらい、ちゃんとしたものを買ってやらないと・・」
「そうか。ランドセルなんて、結構高いんだろうな。もっと働かないとな・・」
店は、開店から順調だった。川原通りの周辺も、徐々に家が増え、最近では高層アパート等も出来始め、仕事帰りにちょっと一杯というサラリーマンも増えてきていた。だが、どうも、金儲けは下手なようで、なんとか暮らしていける程度の収入だった。
「なあ、和美。お前、大学生からほとんど金を取ってないだろ。あれじゃ、儲からないよ。ほら、この間も、あれじゃ、赤字だよ。ちょっと加減して・・」
「そう?だって、仕送りもない学生さんの話を聞くとね・・・わかったわ。ちょっと加減してこれからはお金をいただきます。」

午後に、和美は、栄にある百貨店に行ってみた。百貨店の催事場には、入学準備と銘打って、ランドセルや制服・文房具・机等が所狭しと並べられていた。
「いかがですか?」
店員が笑顔一杯に和美に声を掛ける。
「ええ・・どれも素敵ですね。」
「お子様のご入学でしょうか?おめでとうございます。ランドセル、制服、机、文房具等、大事なお子様のためにも、良いものをお買い求めください。男の子さんには、出来るだけ丈夫なものをお選びいただけるといいですよ。小学校6年間使うものですから・・これなどは、本皮使用で、バックル部分も永久磁石で簡単に開け閉めできるわりに、丈夫になっています。ポケットの多いものも最近は増えていますし、笛とかものさし、そろばんなどもちゃんと収納できるよう工夫されています。少々お高いですが、これなら、ご満足いただけるはずです。いかがでしょう。」
店員は、流暢に説明を続けた。和美は、手にとってみたものの、値札を見て驚いてしまった。考えていた値段より10倍も高かった。とても手が出るようなものではない。
「あの、もっとお手ごろなものはないでしょうか?」
「そうですか。お値段では、こちらが一般的なものですね。」
見ると、先ほど説明されたものと比べると明らかに貧弱であった。それでも、考えていた値段の倍近かった。和美はため息をついたあと、思い切って店員に切り出した。
「あの、こちらで一番お安いものはどれですか?」
「申し訳ございません。今、ご覧いただいているものが当店で最もお値打ちになっております。」
和美は、すごすごと百貨店から引き上げた。今の家計の状態では、とても満足の出来るものは買えなかった。和美は憂鬱な気分で店に戻ってきた。

「ただいま。」
「おっ!帰ってきたな。遅かったじゃないか。」
和美を出迎えたのは、銀二だった。
「えっ?もう着いたの?」
「ああ、予定より早かった。最近は、貨物船も随分高速になってなあ。多少海が荒れたってすいすい走るんだ。エンジンも強くなって・・ただ、だんだん、俺の仕事も無くなってるからなあ・・次に来る時はもう列車にするしかないかな・・」
「また、船で来たの?」
「まあ、いいじゃないか。それより、何だか憂鬱そうじゃないか。鉄三の奴、何かやったか?」
「馬鹿ね、銀二さんじゃあるまいし。あの人は真面目に働いてるわ。」
「じゃあ、なんだい?体調が良くないのか?なら、病院に行かないと・・」
「体も元気よ。いえ、幸一の入学式が近いから、その準備でね。・・・何かと物入りで・・・」
「そうかい。あ、そうだ。今日は良い物を持ってきたんだ。幸一が帰ってきたら渡してやるんだ。」
「何?また、本なの?」
「今回は、違うんだよ!まあ、あとでな。・・・ああ、鉄三は、買出しの忘れ物があるといって、さっき出て行ったぞ。」
「そう、銀二さん、疲れてるでしょ。幸一が帰ってくるまで、2階で休んでて。」
和美は、開店の準備で、机を拭きながらそう言った。銀二は、和美に言われて2階へ上がっていった。

1時間ほどして、幸一が幼稚園から戻ってきた。ただいまの挨拶も飛ばして、「銀ちゃん、来てる?」と言ってばたばたと2階へ上がって行ったかと思うと、銀二と二人で降りてきた。
「ちょっと、幸一と銭湯に行ってくる。」
「行ってらっしゃい。幸一!良く洗ってもらうのよ。あなた、シャンプーが嫌いってちゃんと洗わないんだから。銀二さん、頼みます。」
そう会話して、二人は銭湯に行った。

1時間ほどして戻ってくると、幸一は不機嫌だった。
和美が尋ねると、銀二がシャンプーをしてくれたんだが、泡だらけにして、目に入って痛いって言ってるのに構わずごしごしと洗われてしまって、風呂の中で泣き出してしまったのだった。それを友達に見られたので、機嫌を悪くしたらしい。すねてしまって、銀二が機嫌をとってもなかなか直らなかった。夕飯を食べている時も、銀二がちょっかいを出してもふくれてあっちのほうを見ていた。銀二はたまりかねて、
「なあ、幸一。もうすぐ小学校だよな。・・それで・・お祝いの品を持ってきたんだが・・・そんなに機嫌が悪いんじゃ・・これはもって帰るとしようかな。」
そう言って、大きな包みを取り出した。
幸一は、プレゼントと聞いてすぐに機嫌を直した。
銀二が手渡すと、包みを開いた。大きな白い箱だ。蓋を開けると、黒光りしていて輝いて見える新品のランドセルだった。
幸一は、真新しいランドセルを目の当たりにして、少し戸惑っていた。子どもの目から見ても、それがどれほど高価なものかは判った。小学校に入るということは、ランドセルを背負えるという事で、ここ数日、夢にも出てくるくらいの憧れの代物だった。それが今、目の前にある。嬉しさも度を越えると戸惑いになる。幸一は、目の前にランドセルを置いたまま呆然としていた。
「なんだい、嬉しくないのか?」
銀二が不思議に感じて訊いた。幸一は首を横に振る。ようやく、現実に戻ったような面持ちで、
「わーい。ランドセルだ!銀ちゃん、ありがとう。・・ね、背負って良い?」
と返事をして、背負った。まだ、幸一の体には大きかった。まるでランドセルが歩いているようにも見えた。
「どうだい。良いランドセルだろう。いやあ随分あちこち探したんだ。町にも売っているんだが、最初で最後のプレゼントになるかもしれないから、山口や下関のデパートまで行って探したんだ。こいつは、滅多に売ってないものだ。本皮製ってだけじゃあないんだ。有名な皮細工職人が一つ一つ手がけた世界に二つとない代物だ。6年間使うんだ、多少腕白に使ったって壊れるもんじゃない。どうだ、いいだろう。」
和美は、今日、百貨店で見たランドセルの値段を知っている。きっと、それよりも高価なものに違いないと思った。とても手が出るようなものではないことくらいすぐにわかる。
「銀二さん、こんな高価なもの。勿体なくて使えないわ。申し訳なくて・・・」
「馬鹿!値段なんて気にするな。それに、俺だけじゃない、村田屋の旦那も出してくれたんだ。それに、紫の女将やセツさんもな。みんなが幸一の入学祝と言って俺に祝いの金を預けるからさ。それで俺も方々を探したって訳だ。だから、皆の気持ちだ。受け取ってくれ。」
「ありがとうございます。大事に使わせます。・・・ね、幸ちゃん。大事に使うのよ。」
「はい。銀ちゃん、本当にありがとう。」
幸一はそう言いながら飛び跳ねていた。そこに、店の手が空いたからと鉄三が顔を出した。
「お!幸一、良いランドセルじゃないか。・・なに、兄貴に貰ったって・・そりゃあいいなあ。ちょっと見せてみろ。ほう、これなら、他の奴に引けはとらない。堂々と学校に行けるなあ。兄貴、ありがとな。」
鉄三は、ランドセルの値打ちなど判らなかったので、気楽に言った。その気楽さに、和美は笑ってしまった。
幸一がランドセルを背負ったまま、
「ねえ、このランドセル、重たいよお。それに、何か中に入ってる!」
そう言って、ランドセルを下ろして、蓋を開いてみた。中には、ノートや鉛筆、そろばんとものさし・・たくさんの文房具が入っていた。
「ああ、祝いの金をたくさん貰ったから、文房具も買っといたぞ。・・あとは、制服くらいだな。それは、母ちゃんに買ってもらえ。まあ、すぐに大きくなっちまうだろうが、真っ白いシャツに半ズボン、それから帽子もいるだろ。」
「銀二さん、本当にありがとうございます。」
「まあ、いいじゃないか。たった一人の甥っ子のために出来る事はしてやりたいからな。」
「兄貴、ありがとう。いつもいつも、感謝してるよ。」
「幸一が喜んでくれれば良いんだよ。なあ、幸一、いいだろ。」
「うん、ありがとう。銀ちゃん、大好き。・・ねえ、父ちゃんと母ちゃんにはプレゼントないの?」
「おいおい、まだ、何か欲しいってのか?勘弁してくれよ。俺はそんなに金持ちじゃねえよ。」
幸一の言葉に銀二は降参した。そのやり取りがおかしくて、皆、笑った。
和美も笑っていたが、何よりも先に自分たちの幸せを考えてくれる銀二の優しさに胸が一杯になって、思わず泣いてしまった。


2-10-10;突然の別れ [峠◇第2部]

 幸一は無事、川原小学校へ入学した。幼稚園からの友達もほとんど同じ小学校で、相変わらず、朝の迎えにばたばたしながら出かける事が続いていた。和美は、それまでは、常連客が訪れた時くらいに顔を出していたのだが、徐々に幸一の世話が楽になってきて、最近では、毎日、店に顔を出すようになっていた。
年が明け、3月になると、会社の送別会も増えて、店も繁盛した。会社帰りに立ち寄る客は随分増えていた。

その日は、小学校の終業式だった。いつもと同じように幸一を学校に送り出し、鉄三は川原市場に食材の買出しに出掛けるところだった。
「じゃあ、買出しに行って来る。今日もお客さんが多そうだから、少し多めに仕入れてくるから。」
「ああ、そうそう。そろそろお箸を新調しないと・・随分、傷んでるのがあるから・・お願いします。」
「ああ、判った。三ちゃんの店に顔を出してみる。前に仕入れたのと同じでいいんだろ。」
「はい。」
「そうだ!そろそろ温かくなってきたから、店も少し模様替えをするかい?三ちゃんの店に行くついでもあるし、春向きの皿とか見ておくよ。」
「ええ、お願い。お椀やコップも見てきて。」
「ああ、わかった。じゃあ、行ってくる。」
 三ちゃんの店は、川原市場のある交差点を北に渡ったところにある、山花商店街にある、雑貨屋だった。箸だけでなく、お皿や湯のみ、調理具等何でも揃っていて、開店当時からの付き合いであった。

和美は、店の掃除を終えて、2階の物干しで洗濯物を干していた。
山崎川の並木の桜の枝には、蕾が膨らみ始めていた。幸一の入学式の日には、桜吹雪の中を手を繋いで学校まで歩いた。青い空に舞う桜の花びら、川面に降り積もるような花びら、まるで絵画のような光景で、感動したのを思い出していた。あれからもうすぐ1年になるのだった。

 鉄三は、川原市場の買出しをあらかた終えた。大半は、午後に配達してもらう事になっているので、持ち帰るものは紙袋一つくらいだった。箸の注文をするために、市場を出て一旦、交差点を渡って山花商店街の三ちゃんの店に行った。箸を買ってから、店の中で皿や茶碗などを見て回った。一通り見た後で、鉄三は三ちゃんの店を後にして、店に戻ろうとした。
通勤時間も過ぎ、大通りは車も少なかった。幼稚園も終業式だったのか、小さな子どもを連れた若いお母さんが数人、歩道をおしゃべりをしながら歩いてきて、信号待ちをしている鉄三の横で立ち止まった。まだ、幼稚園くらいの男の子が、小さなボールを抱えていた。立ち話をしているお母さんがその子に軽くぶつかった。手に抱えていたボールが通りへ転がったと思うと、その男の子がボールを追いかけて道路に飛び出した。鉄三は、とっさにその子を捕まえようと2.3歩出て行った。
大きなクラクションと急ブレーキの音。そして、ドンという鈍い音がした。若いお母さんの叫び声が辺りにこだました。車の脇には、鉄三が抱えていた紙袋の中身が散乱した。
「誰か!誰か!救急車!」
その声に川原市場の店主たちが飛び出してきた。「どうした」と口々に尋ねる。そして、通りの反対側に車が停まっており、人が車の下敷きになっているのがわかった。みんな、目の前の光景に驚き、救急車をすぐに呼び、下敷きになっている人を何とか引き出そうと、手を尽くした。車の下には、見る見る間に真っ赤な血が広がってきた。しばらくすると、子どもの泣き声が聞こえた。店主の一人が、子どもの足を掴んで引きずり出した。血まみれになってはいたが、ほとんど無傷であった。
救急車が到着した。そこに居た数人で、車をわずかに持ち上げ、もう一人を引きずり出した。
「おい、これは!」
店主の一人が呻くように言った。すぐに担架に乗せられ、救急病院に運ばれた。

 洗濯物を干していた和美の耳にも、急ブレーキとクラクションの音、叫び声が聞こえた。裏手の交差点あたりで事故が起きたのだろうと見当はついた。何か、胸騒ぎがして、洗濯物を干す手を止めた。心臓の鼓動が急に高まって、気分が悪くなった。もしや、鉄三が事故に巻き込まれたのではと思えて、すぐに階段を下りて、通りに向かった。救急車の音が近づいてきて、停まった。そしてすぐに、またサイレンを鳴らして遠ざかっていった。

 事故現場と思われるあたりには、川原市場の店主たちが集まっていた。そして、和美の姿を見つけると、手招きをしている。横断歩道を渡ると、魚屋の店主が、慌てた口調でこう言った。
「和美ちゃん!・・いいか、落ち着いて聞け。・・今、鉄三さんが病院へ運ばれた。事故だ。すぐに助け出したが、返事が無かった。すぐに病院へ行ったほうが良い。」
和美のいやな予感が当たった。ふと見ると、事故を起こした車の周りには夥しい血が広がっている。すぐ脇には、若い親子が座り込んでいて、男の子はよほど怖かったのか泣き止まないで居た。じきに、警察もやってきて、事故の検分が始まるのだろう。運転手も歩道に座り込んでうなだれていた。
「病院って?何処の病院なの?」
「・・そうか・・どこかな?・・・おい、何処に行くって言ってた?」
「さあ・・・」
そこに警察がやってきた。若い警官に八百屋の店主が尋ねていた。すぐに戻ってきて、
「日赤病院らしい。・・すぐに行こう。・・俺が連れて行ってやるから・・さあ。」
「幸一を・・」
「ああ、幸ちゃんは、女房に学校まで迎えに行かせる。先に行きな!」
「ありがとうございます。お願いします。」
そう言って、和美は病院へ向かった。

幸一は、終業式が終わったところだった。教室の窓から、ぼんやりと外を見ていると、八百屋さんの女将さんが血相を変えて、校庭に走り込んできた。そして、大きな声で、誰かを呼んでいるようだった。
すると、担任の先生が、教室に駆け込んできて、
「福谷君!・幸一君!・・お父さんが事故に遭われたそうだ。すぐに行きなさい。」
そう言って、強く手を引いて玄関まで幸一を連れて行った。教室にいたクラスメイトは、窓から身を乗り出して、幸一が校庭を八百屋の女将さんと走っている姿を見送った。

日赤病院までは、車で10分ほどだった。車中では、八百屋の店主も和美も終始無言だった。とにかく、命が助かる事だけを祈るほか無かった。

「あの・・・先ほど救急車で運ばれたものの身内です。・・あの、主人はどこでしょうか?」
受付に駆け込んで和美が尋ねると、救急病棟を案内された。長い廊下を急いだ。とにかく、一刻も早く無事を確かめたかった。
救急病棟の入り口で、看護士に止められた。
「ここから先は入れません。」
「あの、先ほど救急車で運ばれたものの家内です。・・名前は、福谷鉄三。川原通りの交差点で事故に遭って・・」
「はい。先ほど到着されています。今、緊急手術をしています。」
「あの、主人は・・主人は、どうなんでしょうか?」
「今、手を尽くしています。・・奥様、落ち着いてください。」
和美は、救急病棟の冷たい廊下に力なく座り込んでしまった。
「和美ちゃん、ほら、そこの椅子に座ろう。さあ、とにかく今は待つしかないよ。」
八百屋の店主が和美の肩を抱えるように、椅子まで連れて行った。20分ほどして、八百屋の女将さんに連れられて、幸一がやってきた。和美は幸一を抱きしめると、
「大丈夫。大丈夫。父ちゃんは大丈夫。」
自分に言い聞かせるように何度も何度も繰り返した。

廊下にある長椅子で待って1時間以上過ぎた時だった。先ほどの看護士がやってきた。
「福谷さんのご家族ですね。」
「はい。主人は・・」
「こちらにおいで下さい。」
看護士は鉄三の様子は一言も言わず、和美と幸一を治療室へ案内した。
八百屋の夫婦は、ここで待っているからという仕草をして二人を見送った。

治療室に入ると、ベッドに横たわった鉄三の姿があった。体には大きなシーツが掛けられ、あちこちが赤く血に染まっていた。
脇に立っていた手術着姿の医者が、マスクを外しながら、低い声で言った。
「手を尽くしましたが、残念です。・・・到着された時にすでに心臓も呼吸も停止していました。すぐに、蘇生術を行ないましたが、無理でした。残念です。」
和美は、震える手で鉄三の顔を触って、「鉄三さん、鉄三さん!」と何度も呼びかけた、答えるはずの無い鉄三の肌には、まだ温もりが残っていた。
和美は、幸一を強く抱きしめて、大声で泣き崩れた。
まだ小学生1年生の幸一にも、父が亡くなったという事は判る。だが、悲しみにくれる母の痛々しい姿の方が、幸一には辛く感じられて、母と一緒に大声で泣いた。
治療室には、和美と幸一の泣き叫ぶ声がいつまでも響いていた。

警察の現場検証から、事故の様子が伝えられた。
歩道に飛び出した子どもを引きとめようとした鉄三が、道路に出たところに青信号で向かってきたトラックに轢かれた。その時、鉄三はとっさに子どもを抱え込むようにして蹲り、そこにトラックが乗り上げるような形で二人を巻き込んだのだった。子どもは、鉄三の体がクッションとなり、無傷だったが、鉄三は衝突の衝撃と車の重量で、心臓も肺も一瞬でつぶされており、即死状態だった。病院では、蘇生術を行なったが、心臓も肺も潰れており、実質的に、手の施しようが無い状態であったのだった。


2-10-11:立ち昇る煙 [峠◇第2部]

鉄三の葬儀
鉄三の訃報は、すぐに松屋にも知らされ、女将が慌てて病院にやってきた。
すでに、鉄三の遺体は、霊安室に移されていて、和美と幸一は霊安室の待合に虚ろな表情で座っていた。
「和美ちゃん。幸ちゃん。・・・」
女将は、それ以上の言葉が出なかった。和美は松屋の女将の顔を見るなり、また、泣き出してしまった。
女将は、付き添っていた八百屋の夫婦から、鉄三の事故の状況を聞いた。
「鉄三さんは、その子を守るために、自分の命を投げ出したんだね。」
松屋の女将はしみじみとそう言うと、松屋に電話して、鉄三の葬儀の手配をするように伝えた。

鉄三の葬儀は、近くの寺で行う事になり、松屋の夫婦が喪主である和美に代わって、葬儀一切を取り仕切った。
葬儀には、川原市場の店主たちや幸一の学校の友達、『峠』の常連客、学生たちなどが参列し、小料理屋の主には、似つかわしくない大きな葬儀になった。
銀二にも、事故直後に松屋から連絡は入れたのだが、漁に出ていて、連絡がつかず、葬儀に銀二の姿は無いままだった。
喪服姿の和美と幸一は、大きな祭壇の脇に座り、読経の声の中で深い悲しみに沈んでいた。そして、お焼香をする弔問客からのお悔やみの言葉をじっと受けていた。
これからの事など考える余裕の無い和美だったが、弔問客の言葉に励まされると同時に、名古屋に来て縁を結んだ人がこれほど多かったのかと改めて痛感していた。
和美は、弔問客の中にずっと銀二の姿を探していた。鉄三の唯一の肉親であり、今、誰よりも逢いたかった。しかし、寺には銀二は現れなかった。

葬儀が終わり、棺は霊柩車に納められ、長いクラクションとともに寺を出ていった。
霊柩車の助手席には、遺影を抱えた和美と幸一の姿があった。
斎場に向かう車中、ずっと、和美は幸一の手を握りしめ、涙をこらえていた。

斎場には、松屋夫婦や山さん、八百屋店主夫婦等も同行した。
棺がゆっくりと炉の前に運ばれた。
和美は最後のお別れをした。
ともに生きた時間は8年程だったが、向島での日々、村田屋での暮らし、松屋の長屋、そして『峠』・・・玉浦の海から救い上げられた後の新しい人生をずっとともに生きてきた事が、走馬灯のように思い出された。帰らぬ人となった鉄三に、どれだけ支えられてきたことか、そして、それに見合うだけの報いをしてきたのか、思い返していた。また、涙が溢れてきた。感謝と惜別と残される悲しみと様々な思いが胸を過り、とめどなく涙が溢れてきた。

「さあ、幸ちゃん。お父さんに最後のお別れをして。」
松屋の女将に促され、幸一も棺の中の鉄三の顔を覗き込んだ。父の死というものがどういうものか、幸一には漠然と判る程度であった。もう話したり、怒られたり、遊んだりできない事は判っていた。胸の奥のほうがしくしくとしたり、思い出そうとするときゅっと締め付けられるような感じがして、涙が溢れてくる。これが、悲しいという事なんだろうと思っていた。

炉の中に、棺はゆっくりと入っていく。そして、扉が静かに閉められ、火が入れられた。轟々というボイラーの音が響いていた。和美は、その場から動けず、座り込んでしまった。松屋の女将が、和美を抱え上げて待合室に連れて行こうとするが、和美はその場を離れようとしなかった。

他のみんなは、静かに、斎場の待合室に移った。他にも何組か、待合室にいて、混み合っていた。空いた席を見つけて、それぞれに時間が過ぎるのを待っていた。
八百屋の店主夫婦が、小声で何か話している。
「ねえ、あんた。これから、和美ちゃん、どうすんだろうね。」
「ああ、店を続けるっていってもなあ。一人では厳しいだろうしな。勤めにでるったって、幸一もまだ小さいしなあ・・」
「幸ちゃんをうちで預るのはどうだろうね。」
「まあ、うちにゃ、子どもも居ないから、悪かないが・・・」
「なんだよ。」
「その内、幸一だって、中学校・高校と金が掛かるようになるじゃねえか。その時、暮らしができるか、その方が心配だよ。」
「まあ、昔みたいに、中学校出たら働きなっていう時代でもなくなってきてるしね。」
「本当、これからって時に、なんて不憫なんだろうね。」
「まあ、俺たちができる事はしてやろうじゃねえか。」
「そうだね。」
そんな会話が、幸一にも聞こえていた。どういうことか、良く判らない事も多かったが、これから自分が大人になるまで、母に随分大変な思いをさせるのだろうという事は判った。店も続けられなくなるという事も判ったのだった。

一人、ぽつんと椅子に座っている幸一を見つけた山さんが、幸一の手を引いて、外の庭に連れ出した。
「幸一君、見てごらん。」
山さんはそう言って、幸一に斎場の煙突を指差して見せた。斎場の煙突から、白い煙が立ち昇っていた。
幸一は、それをじっと見つめて、小さい声で言った。
「あれ、父ちゃんの煙かな。」
「ほう、判るのかい?」
「父ちゃんはこれから天国って言うところに行くんでしょ。」
「ああ、そうだな。」
「天国は空の上のほうにあるから、ああやって煙になって上っていくのが早いんだって。」
「そうなのかい?」
「うん、さっき、ここのおじさんに聞いたんだ。」
「じゃあ、あの煙はきっとお父さんだ。」
幸一は、じっと煙を見つめていたが、急に、山さんの手を強く握った。
父の亡くした悲しみをじっと堪えるように、いつまでも手を握ったまま離さなかった。煙は高く高く上っていった。


2-10-12:葬儀の後 [峠◇第2部]

葬儀のあと、初七日までは松屋の女将が傍にいてくれたおかげで、深い悲しみの日々をどうにか過ごす事ができた。だが、そのあと、和美と幸一は、ぽつりと店の2階で、悲しみの淵に沈んだような暮らしをしていた。
部屋の隅の小さな机には、鉄三の遺影と位牌と骨壷が置かれ、周りに花が飾られていた。

あまりにも突然の鉄三の死。あの日の朝も普段と変わりなく過ごした。静かな部屋の中、和美は、時間の流れが停まっているように感じていた。いっそ、時間が巻き戻ってくれないかと願いたかった。幸一もただぼーっとしているだけだった。

店の玄関を叩く音がしているような気がした。いや、誰かが戸を叩いている。幸一が物干し場の窓から下を覗くと、そこに、銀二が立っていた。
「銀ちゃんだ!」
幸一の声に、和美はびくっと反応した。心臓の鼓動が高鳴った。立ち上がり、階段を駆け下りた。そして、戸を開けると、そこには銀二が立っていた。
「銀二さん。」
和美は、銀二にすがりついた。そして、声を上げて泣き崩れた。銀二は太い腕で和美を力強く抱きしめた。随分長い時間、二人はそのままで動かなかった。ようやく、和美が泣き止むと、銀二が、
「済まなかった。こんな事になるなんて。泣かせてばかりで、本当に済まない。」
と詫びた。突然逝ってしまった弟の不憫さと残された和美への労りの気持ちをどう言っていいのかわからず、とにかく、銀二は和美に詫びたのだった。

銀二は、2階の部屋で、位牌に手をあわせ線香を上げながら、
「しばらく、ここに居る事にするよ。まだ、七日七日の供養もあるし、事故の補償の事もある。幸一も春休みになってるから、遊び相手にもなれる。しばらく、世話になるが、いいよな。」
そう言って、和美を見た。和美は、ただ、頷くだけだった。
「それじゃあ、ちょっとご近所へ挨拶に言ってくる。・・松屋には、また、日を改めてお礼に行くから。じゃあ、いってくる。お、幸一、お前は母ちゃんの傍に居ろ。いいな。」
銀二はそういうと、川原市場へ出かけていった。

2時間ほどで、銀二は戻ってきた。手には紙袋を3つほど抱えていた。
「挨拶に行ったついでに、食い物を買ってきた。元気を出すには食うのが一番だ。・・和美、美味いもの作ってくれ。」
そう言って紙袋を和美に渡した。中には、肉や魚、野菜、色々入っていた。
「ああ、そうだ。鯛汁を作ろう。小さかったが、鯛の切り身があったから買ってきた。和美、作れるか?・・いいや、俺がやろう。おい、幸一、お前も手伝え。さあ。」
そう言ってから、厨房に入っていった。

鉄三が無くなって、厨房には誰も入っていなかったが、綺麗好きの鉄三が、まな板も鍋も、コンロもピカピカにしていたのですぐに使う事ができた。
銀二と和美と幸一で、食事をした。銀二の作った鯛汁は、鉄三が作るものより味は落ちるが、和美にはとても懐かしい味だった。向島の銀二の家で、初めて口にした温かさを思い出していた。鯛汁に欠かせない山椒の葉も、この店を開いた時に、松屋から1株分けてもらってきて、表に植えていたものを取って来た。掌に載せてポンと叩いて香りを引き出す事も忘れなかった。この仕草に幸一はとても喜んだ。鉄三を亡くして、笑顔を忘れていた二人に、ようやく笑顔が戻っていた。

それから、3人で銭湯に行った。幸一は、銀二と銭湯に行くのを楽しみにしていたので、大いにはしゃいだ。湯船に響く幸一の元気な声を女風呂にいた和美も嬉しく聞いていた。銭湯からの帰り道には、幸一は銀二に肩車をしてもらった。銀二の肩は相変わらず筋肉が盛り上がっていて、幸一の重み等なんとも無いように頑丈だった。

その夜、幸一が布団に入ってから、銀二と和美は、1階の店に居た。
銀二はコップ酒を飲みながら、和美に訊いた。
「これからどうする?」
和美は銀二に訊かれるまでも無く、これからの事はいつも頭にあった。ただ、自分ひとりで幸一を育てていけるのか自信が無かったし、銀二が傍に居てくれるならという思いが強くなっていた事もあって、答える事ができなかった。
「松屋にもう一度世話になるか?・・実は、もう松屋には話をしてきた。もし、和美が心細く感じているのなら、いつでも帰ってきていいって女将さんも言ってたんだ。どうだ?それとも、向島へ帰るか?・・あれからもう7年にもなる。これまで幸一も不自由なく、暮らしてきたんだ。きっと、村田屋さんも許してくださるだろう。」
「ごめんなさい。銀二さん。まだ、どうしたいか決められないんです。」
「そうか。まあ、ゆっくり考えればいいだろう。金のことは何とかなるさ。そうだ・・鉄三の事故の補償金もたっぷりとってやらないとな。・・・和美、お前も飲むか?」
銀二は和美に酒を注ごうとした。しかし、和美は断った。

「ねえ、銀二さん。いつまで、ここに居てくれるの?」
「ああ、そうだなあ。・・」
「ねえ、ずっとそば・・・・」
と、和美が言いかけた言葉を、銀二は遮って
「春の漁が始まるまでかな。まあ、1週間くらいで帰るから。・・・ああ、ちょっと飲みすぎた。もう寝るぞ。」
そう言って、銀二は、さっさと2階へ上がっていってしまった。

2-10-13:銀二との日々 [峠◇第2部]

翌日、銀二は朝早く起きて、朝食の準備をした。そして、幸一と和美を起こした。
「どうしたの、銀ちゃん。」
「いや、腹が減ったんで、朝飯にする。ほら、お前たちも一緒に食べるぞ。」
幸一が顔を洗ってから、部屋に戻ると、皿の上に食パンが積まれていた。そして、横には砂糖の容器と牛乳が置かれている。
「なんだい、これ?」
「これが、俺の朝食だ。食パンに砂糖を挟んで食べるんだ。そして牛乳で流し込む。どうだ?」
「こんなの美味くないよ。ねえ、母ちゃん。」
幸一は不満を言った。だが、和美はにこにこして、
「そうね。これが一番の食事ね。いただきまーす。」
と言ってから、食パンを手にとって砂糖を乗せて食べ始めた。
「おかしいの。まあ、いいか。いただきまーす。」
幸一も母を見習って食べた。銀二は食べるはじから、砂糖をこぼしてしまうので、和美が注意する。そのやり取りがおかしくて、幸一は笑ってしまった。
「母ちゃんって、銀ちゃんのこと、好き?」
幸一が何気なく口にした。幸一にとって、たわいの無い質問だったが、和美はぎくっとした。以前にも同じような事があったことを思い出していた。銀二も、幸一のその言葉に急に固まってしまった。
お互いに遠い昔、そういう思いは封印したはずだった。
亡くなった鉄三のためにも、二度と開いてはいけないパンドラの箱のようなものだった。
「こら!詰んないこと訊いてないで早く食べろ。今日は、動物園に行くぞ。うじうじと家に篭っていたんじゃダメだ。食べたら、早く支度しろ!」
「わーい。動物園、行きたかったんだ。」
幸一はそう言うと、食パンを口の中に押し込んで、牛乳で飲み込んだ。

春休みの動物園は、混んでいた。人気者の象の檻の周りには、人だかりができていて、なかなか象の姿が見れなかった。カバ舎の前も、サル山も、人で溢れていた。桜も咲き始めた事もあって、東山動物園の中も外も親子連れが一杯だった。銀二と和美と幸一の3人も、他人の目から見れば、仲の良い家族に見えた。

次の日には、幸一の新学期の準備のために、栄に買い物に出掛けた。銀二は、初めてとは思えないほど、町の事を知っていて、いろんな店に和美と幸一を連れて行った。

事故の補償金の交渉も、銀二が引き受けてくれた。最初、事故の過失責任は飛び出した鉄三にあるのだからと保険会社は態度を硬化させていて、ごく僅かの金額を提示してきた。余りにも少額でがっかりした銀二は、山さんにも教えを請い、少しでもこれからの二人の暮らしのためになるようにと、粘って交渉して、ある程度の金額を引き出してくれた。

日々、和美と幸一は元気になり、事故から短い期間で、普段の暮らしが出来るようになっていった。

春休みも終わり、幸一は2年生になって、始業式に行った日の事だった。
雑貨屋の三ちゃんが、店に尋ねてきた。
「和美さん、ちょっと相談があって・・」
三ちゃんはそう切り出してきた。
「俺も随分迷ったんだが・・・実は、鉄三さんが事故に遭う直前に、うちの店に来たんだ。」
「はい。知ってます。店で使う箸を買ってきてもらうように頼んでいたので・・」
「ああ、実は、その時、これも注文してもらっていてね。先日、問屋から届いたんだが・・当の本人が亡くなったんで・・どうしようかと思案してたんだ。・・ああ、要らないなら良いんだよ。問屋に返品するだけだから。ただ、鉄三さんも随分気に入っていたみたいで、何とか取り寄せてくれって頼まれていたし・・一度、和美さんに見てもらってからと思ってね。」
そう言うと、箱を二つほど目の前に置いた。
中を開けると、桜の絵の入った小皿やお椀、箸置きが入っていた。そして、もう一つには、3人分の桜模様の茶碗と箸とお椀が入っていた。こちらは、家族で使うつもりで注文したものと判った。
鉄三が雑貨屋で一つ一つ手にとって選んだものなのだろう。何だか、天国からのプレゼントのように思えた。そして、これからも店を頼むといわれているような気がした。
和美は、一つ一つを丁寧に見たあと、
「ありがとうございます。大事に使わせていただきます。また、御代はお持ちします。」
と答えた。三ちゃんは、
「そうかい。受け取ってもらえればいいんだよ。俺も、鉄三さんが何だか届けて欲しいって言ってるようでさあ。・・ああ、御代は良いよ。俺も随分、鉄三さんには世話になったし、この店が続くんなら、嬉しいよ。また、近いうちに寄らせてもらうから、この皿で美味いもの出してくれればいいさ。良かった。届けて良かったよ。」
そう言って、帰って行った。
銀二は、その様子を店の奥で聞いていた。皿の入った箱をじっと見つめ、何か決心したような和美の姿を見つめていた。
銀二は、店に入ってきた和美に訊いた。
「決心ついたか?」
「ええ。このお皿の箱を見て、ようやく決心できました。やっぱり、鉄三さんはこの店を続けて欲しいって願っているはずです。この町の人にもご恩返ししなくちゃいけないし、幸一が一人前になるまで、何とかやっていきます。」
「そうかい。・・・ああ、この店のことだけど、お前の名義にしておいたからな。きっと決心するだろうと思って、この間の補償金の交渉で、この店の費用を保険会社から引き出したから。これで、誰憚ることなくお前の店で堂々と商売できるはずだ。まあ、どうしても金に困ったら、この店を売れば、何とかなるだろ。」
「そんな・・どうしてそこまでやって・・・本当に・・ありがとう。銀二さん。」
「いいじゃないか。お前たちが幸せになれれば俺も安心だ。和美!俺、今日帰ることにするよ。」
「何?突然。今日帰るってどういうことですか?」
「もう大丈夫だろう。」
銀二はそういうと、2階へ上がっていった。和美も銀二の後を追って2階の部屋に上がると、すぐにも出発できるように、銀二の大きな鞄が置かれていた。

「でも、せめて、店が少しできるようになるまで・・」
「ああ、それなら、当分の間、松屋さんから見習い中だが板前が一人手伝いに来てくれることになってる。何でも、松屋にいた時、鉄三に世話になって恩返しさせて欲しいって松屋の女将さんに言ってたそうだ。名前は確か・・大野って言ったかな。」
「大野・・・ああ、智さんね。そこまでしてもらって・・」
「お前が、やる気になったらって約束だから、一度連絡してみな。」
「わかりました。」
銀二がやってくれている全ての事が、自分たちの幸せを一番に考えてくれていると痛いほど判っていた。
しかし、和美は、そんな銀二の優しさを感じれば感じるほどに、封印したはずの気持ちが溢れてくる。
「銀二さん、私は、本当は、銀二さんと・・」
和美は銀二にすがりついた。銀二は、和美を抱きとめたが、両肩を抑えて身を離した。そして、
「それ以上、言っちゃダメだ。鉄三が悲しむ。俺も辛くなる。人の縁は無理には繋げないものだから。いいな。これからは幸一のことを一番に考えて、二人で幸せになれるように一生懸命生きるんだ。いいな。」
そう言って、さっと大きな鞄を抱えて店に下りていった。

ちょうどその時、幸一が帰ってきた。
「お、お帰り。早かったな。」
「うん、学校から走ってきたんだ。ねえ、銀ちゃん、これからみんなで公園で遊ぶんだ。一緒に行こう。」
幸一が銀二を誘った。だが、銀二が、大きな鞄を抱えているのを見つけて、幸一はびっくりした。
「ねえ、銀ちゃん。行っちゃうの?」
「済まないな、幸一。急用ができて、もう帰らなきゃいけないんだ。また、来るからさ。母さんを大事にするんだぞ。いいな。」
そう言って、急ぎ足で表に出て行った。幸一は2階に駆け上がって、母を呼んだ。
「母ちゃん、銀ちゃん帰るって!ねえ、母ちゃん。」
母は、部屋に座り込んでいた。そして、泣いているようだった。
「ええ。急用ができたからって・・・見送りはいいからって・・・」
和美はそう言いながら、幸一を抱きしめた。
「幸ちゃん、一生懸命生きようね。今日から、お店、また始めるから、手伝ってね。」
幸一は、母の言葉から、二人で生きていく決意を強く感じた。幸一は、物干し場の窓を開けて、外を見た。銀二が山崎川沿いの道を歩いていくのが遠く見えた。
「銀ちゃん。バイバーイ。また、来てね。」
声が届いたのか、銀二は振り向きもせず、軽く片手を上げた。

2-10-14:行方不明の銀二 [峠◇第2部]

「ねえ、母ちゃん、もうじき、銀ちゃん来るかな?」
1階の店の隅で、夕飯を食べていた幸一が不意に訊いた。
和美は、厨房の中で、今日の料理の仕込をしていた。
「そうね。誕生日にはきっと来るでしょう。・・まあ、突然、現れるからね。・・あ、智君、それ、まだいいわ。」
春に銀二が帰ってから、和美は、松屋の大野に手伝ってもらいながら、店を続けていた。
食材を見極める目は随分できて、一通りの料理は覚えた。大野の手伝いも、仕込みの時だけになっていた。
川原市場の店主たちも、引き続き、常連客でやってきていた。時々、酔っ払った客が、独り身の和美にちょっかいを出した事もあったが、常連客の目が厳しい事もあって、無事切り抜けてきた。
「やっぱり、母ちゃん、銀ちゃんのことが好きなんだよね。最近、嬉しそうだもん。」
「何言ってるのよ。私は父ちゃん一筋なのよ。」
そんなやり取りもできるようになっていた。

幸一の誕生日が来た。朝から、和美は落ち着かなかった。
鏡を何度も見ては、化粧や髪型を気にしていた。まるで、若い娘が恋人の訪問を心待ちにしているようだった。
夕方になり、店を開けた。その日は、ご近所の方も幸一の誕生日と知っていて、プレゼントを届けてくれた。

日が変わる時分になっても、銀二は現れず、幸一も遅くまで起きて待っていたが、待ちきれず眠ってしまった。

翌日になっても、銀二は現れなかった。
「銀ちゃん、来ないのかな?・・ねえ、母ちゃん。前に銀ちゃんが来た時喧嘩したんじゃないの?それで、銀ちゃん怒って来ないんじゃないかな。」
幸一の言葉に和美はふと考えた。自分の想いを銀二が拒んだのは確かだった。だが、そんな事を気にするような銀二とは思えなかった。そして、銀二の身に何か起きたのではないかと心配になっていた。

 幸一の誕生日から数日経った頃、松屋の女将が訪ねてきた。女将は、落胆したような面持ちだった。
「あなたに知らせようか迷ったんだけどね。」
女将はそう前置きして、話し始めた。
「8月末に、大きな台風が来たのは知ってるわね。新聞でも、瀬戸内一体に大きな被害が出たって。」
「ええ、テレビでも少し様子は見ました。」
「その台風でね、向島にも大きな被害が出たらしいのよ。」
「九州のほうの被害が大きいって言ってましたけど・・」
「そうなの。九州の方は、土砂崩れとか洪水とか大変だったらしいんだけど、山口の方は高潮でね。数は少なかったようだけど、向島でも家が流されたり、船を取られたりした人がいるんだって。」
和美は、向島の様子を思い浮かべていた。銀二やセツさんの家、村田屋も海辺に建っている。嫌な予感がした。
「それでね、銀ちゃんの家も高波で浚われたらしいのよ。」
「まさか、銀ちゃんがその家に・・」
「いえ、銀ちゃんは家には居なかったらしいの。隣の・・」
「セツさん?」
「そうそう、セツさんを高台のお寺まで連れて行ってから、港の船の点検に行ったんだって。」
「まさか、船で・・」
「そうなの。台風が近づいてきていて、向島の漁船は皆、港の中に避難したんだけど、玉浦の船が1艘、エンジントラブルで港に帰れない状態だって、無線で聞きつけたそうなの。それで、みんなが止めるのも聞かず、暴風雨が近づく中、銀ちゃんが救助に行ったんだって。」
「それで?」
「無線連絡してきた船は、何とか自力で、玉の関の港にたどり着いて難を逃れたんだけど・・・銀ちゃんは救助に行ったきり戻らなかったそうなの。翌日、転覆した船が姫島近くで見つかったんだけど、銀ちゃんの姿が見えず、保安庁や仲間の船でかなり捜索したんだけど、結局、見つからなかったそうなのよ。」
「そんな事って・・・」
和美はその場にへたり込んでしまった。
半年ほど前に、鉄三を事故で亡くし、今度は銀二まで居なくなってしまった。どうして、そう生き急ぐのか、取り残された和美は、悲しみと寂しさとで,正常ではいられなかった。
「わかるわ。和美ちゃんの気持ち・・。私もこの話を聞いた時、卒倒しそうになったんだから。・・・」
座り込んでいる和美の肩を抱いて、慰めている女将さんの目からも、涙が溢れていた。

和美の様子が落ち着いたのを確かめて、松屋の女将は店に戻って行った。
もう夕方になっていて、店を開ける時間なのだが、和美は、とてもお客相手ができる気分ではなく、表に臨時休業の張り紙をして、2階の部屋に座り込んでいた。
さっきからずっと、女将の話を頭の中で繰り返していた。どうしても銀二が死んだとは思えなくて、古新聞の中から、台風の記事を探しまわった。名古屋の新聞では、九州の被害は大きく取り上げていたが、山口の事は殆ど書かれていなかった。確かめる術はないものかと思い巡らせて、『紫』の女将の事を思い出した。銀二とは親交も深い。きっともっと確かな事が判るに違いない。そう思って、電話を取った。番号案内で電話番号を聞き、すぐに電話をかけた。
「もしもし、紫さんですか?」
「はい、紫です。」
電話に出たのは若い娘のようだった。女将の娘さんが戻ってきていたのだった。
「あの、私、昔、そちらでお世話になった和美と申します。あの・・女将さん、いらっしゃいますか?」
「ああ、和美さん。話は母からお聞きした事があります。・・ああ、母は、今、病院です。」
「どこか、お加減がお悪いのですか?」
「ええ、先週くらいから体調を崩していまして・・今、店はお休みしているんです。・・そんな悪い病気じゃないんです。・・この間の台風で、店が水に浸かってしまって、その片付けの疲れだと思います。すぐに退院できるはずですから、ご心配いりません。」
「やはり、台風はひどかったんですね。」
「ええ、この辺りは随分水に浸かりました。玉浦も向島もひどかったみたいです。」
「あの・・銀二さんのことはご存知ですか?」
「ええ、台風の日に行方不明になったままで・・私も随分可愛がってもらいましたし、仕事のお世話もしてもらったんで、・・行方不明って聞いて、もう、悲しくて・・それで、仕事をお休みさせてもらって、しばらく、一緒に探したりもしたんですが・・・。」
「やっぱり、行方不明って本当なんですね。」
「ええ、でも、私、どうしても銀二さんが亡くなったって思えないんです。なんだか、どこかで生きていて、そのうちひょっこりなんでもない顔して現れるんじゃないかって思うんです。・・母もそう言ってます。だから、母も入院している病院でも、きっと、銀ちゃんが戻ってくるはずだから、早く退院したいって言うんですよ。」
「そう・・・そうですよね。銀二さんが死ぬわけが無い。きっとどこかで生きてる・・そうですよね。ありがとうございます。」
娘さんから、気丈な女将の言葉を聞かせられ、和美は、銀二の身に起きた事が事実である事を改めて確認しつつ、女将と同様に、銀二を信じて待つという気持ちを強くしたのだった。

電話を置いてから和美は考えた。
銀二のことを慕っている幸一にはどう教えたらいいだろうと悩んでいた。『行方不明』といってもわかるはずもなく、死んだのだと言うには辛すぎる。父を亡くし、ようやく普通の気持ちで暮らせるようになったばかりだ。和美は、嘘をつくことにした。

日暮れ近くに、幸一は学校から帰ってきた。
「お帰り。幸ちゃん。」
「ねえ、母ちゃん、銀ちゃん、来なかった?」
誕生日以降、幸一はただいまの代わりにこう言う様になっていた。
「ねえ、幸ちゃん、さっき、銀二さんから電話があったのよ。」
「え?じゃあ、もうすぐ来るって?」
「いいえ、実は、銀ちゃんね、外国の船に乗る事になったんですって。ほら、銀ちゃん、船が好きだったでしょ。世界中を回る貨物船の仕事に就いたんだって。だから、しばらく、ここには来れないって。」
「えーっ!そんなの嫌だ。銀ちゃんが来ないなんて嫌だよお。」
「お仕事なんだもの。仕方ないじゃない。」
「じゃあ、電話する。行かないでって電話するよ。・・お手紙も書く。きっと銀ちゃんならわかってくれるよ。」
「ダメなのよ。外国の船だから、電話はできないの。それに、手紙を書いても何処にいるのか判らないから届かないわ。」
「そんなのいやだよう。」
幸一はそう言って泣きじゃくった。
「そのうち、銀ちゃんのことだから、・・お仕事が終わったら、ふらっと現れるわよ。いつもそうだったでしょ。きっと・・・待ってれば・・いつか・きっと・・・。」
和美は、幸一に言い聞かせるつもりの言葉が、自分の胸の中にも突き刺さってきて、思わず泣きそうになってしまった。涙を見られてはいけないとはっと我に返り、
「今日は、お店はお休みにしたから、晩御飯のあと、銭湯に行きましょう。あなた、銭湯好きでしょう。」
そう言って、幸一の方からランドセルを降ろさせて、2階へ上がった。


2-10-15:店の名前 [峠◇第2部]

 幸一は中学生になった。
体の弱い母を気遣って、学校が終わると部活に行かず、まっすぐ家に戻ると、店の手伝いをするようになっていた。
 
店の周りも随分様変わりしていた。近くに大きなスーパーマーケットができたせいで、川原市場は寂れてしまった。店を開いた頃、懇意してくれた店の多くが、廃業したり、引っ越したりして、市場の中は八百屋くらいしか残っていなかった。店の食材も、川原市場では入手できず、スーパーマーケットで調達するようになって、重くて大変だろうからと、幸一が母と一緒に買ってくるようになった。幼稚園の頃、よく遊んだ公園も無くなって大きなマンションが建った。

 1学期もそろそろ終わる時期の事。学校から帰ってきた幸一が、店の支度の手伝いをしている時、ふと母に尋ねた。
「ねえ、母さん。前から気になっていたんだけど、この店の名前、なんで、“たお”って読むの?」
「なあに?突然。」
「小さい頃は気にならなかったんだけど・・これって独特な読み方なんだよね。友達はみんな“とうげ”って呼ぶから、いちいち言い返すのも面倒なんだよね。なんだか、峠の茶屋って感じだし・・」
「ふ、可笑しいの。・・やっぱり親子ね。お父さんと同じこと言ってる。」
「へえ、親父もそういったの。なら、どうしてこんな名前にしたの?」
「名前の由来は・・・難しい事は良いんだけど・・・ほら、峠って山を越える道の事でしょ。」
「うん。山の上と下って書くからね。」
「そうなの。峠道を登りきった時って、新しい視界が開けるでしょう。今までいたところとは別世界が広がるっていう感じで。でも、まだ、次の山が見えて、そこにも別の峠がある。人生って、そういう峠をいくつもいくつも越えるようなものじゃないかしら。でね、旅をすると、きっと峠の頂上で人は一旦来た道を振り返るでしょ。そしてこれから行く道を見定める。・・このお店も、そんな風に、人生の途中でふっと立ち止まって考えるような場所にできないかって思ったのよ。」
「なんだか随分高尚な話に聞こえるけど・・それ、母さんが思いついたの?」
「さあ、どうだったかしら。誰かに聞いたようでもあるし、自分で考えたようでも・・」
そう言いながら、和美は、今は亡き命の恩人、銀二のことを思い出していた。

「でも、母さん。それなら、“とうげ”って読んでもいいじゃないの。どうして、“たお”なのさ。」
「それは、ほら、母さんの生まれた・・・」
そこまで言いかけて、和美は黙った。幸一には昔の記憶は無くしたことにしていたのだった。そして、自分の過去を話すことは幸一の出生の秘密も教えてしまう事になる。とっさにそう考えて押し黙った。

「え?母さんの生まれたところ?」
「いえ、何だか、この頃、断片的に思い浮かぶ事があるんだけど、小さかった頃、そういう風に言っていたような気がしてね。」
「え?記憶が戻ってきてるの?」
「そんな感じがしただけよ。・・・この店を作った時、ある人にこの字は、”たお”と読むことができるんだって聞いたのよ。だから、そう読むことにしただけ。だって、どこにも読み方なんて書いてないでしょ?」
「ふーん。まあ、いいや。」

母の答えは何だか不自然だったが、幸一にはそれよりも、昔の記憶を失っている母の事が気に掛かっていた。
子どもの頃の記憶を全て無くしているというのは尋常な事ではない。自分が何処の誰なのか、父や母は誰なのか、生まれ育った場所はどんなところなのか、そういう自分の有り様の半分を無くして生きることは随分辛い事だろうと想像していた。
ただ、その事を口にするべきではないと思っていた。自分が母に問わなくても、一番辛いのは母なのだ。昔、肩の火傷痕を口にした時、母から言われたように、人の傷を触れる事はいけない事だと思っていたのだった。

「ねえ、母さん。そろそろ、暖簾出してくるよ。」
「ああ、ありがとう。ついでに、表に水を撒いてきて。最近、また、道路工事が増えてきて埃っぽくてね。」

幸一は言われたとおり、バケツを持って表に出た。7月の日暮れは遅い。もう6時を回る時間だが、外は昼間と同様、蒸し暑さとセミの声と工事の騒音で嫌になるくらいだった。
バケツに水を汲んで、ひしゃくで店の前に水を撒き始めると、一人の男がじっと立っていた。年は30歳前後だろう。仕立ての良いスーツに、黒く光る革靴、アタッシュケースを持っている。
「あの・・・お客様でしょうか?」
幸一が尋ねると、男は、
「あ、すみません。君が幸一君だね。以前に逢ったときは小学生だったから見違えたよ。」
「あの・・」
「ああ、すみません。私、結城と申します。学生の時、こちらでお世話になった事があって・・ご挨拶に寄らせてもらったんですが・・あの・・和美さん、いえ、お母様はいらっしゃいますか?」
「・・少しお待ちください。」
そう言って、幸一は店の中に戻って、母を呼んだ。
和美は、「結城」と聞いてすぐに出てきた。

「お久しぶりね。卒業された後、一度もお見えにならなかったでしょ。どうされてるのか気になってはいたんですよ。」
「その節は、お世話になりました。あの送別会、学生時代の一番の思い出です。本当にありがとうございました。」
「あれからどうされたの?」
「ええ、卒業後は、東京の法律事務所に勤める事ができて、4年ほどそこに居ました。実は、去年、名古屋に戻ってきて、この近くで事務所を開いたんです。」
「まあ、ご立派になられて・・」
「いえ、立派なんて・・・東京で仕事をしていた時、偶然、山内さんとお遭いしまして。名古屋は弁護士が足りないから来ないかと誘われて、・・実は、事務所も山内さんに探していただいて何とか仕事も軌道に乗ったところなんです。」
「まあ、この近くだなんて・・・それなら、是非、店のほうにもおいでください。」
「ええ、独り身の気楽さで、ほとんど外食にしているので、できたら、毎晩にでも、ご飯を食べさせていただけたら・・」
「まあ、それなら、今からでもいいですよ。もう殆ど支度もできましたから・・あ、そうそう、もう学生さんじゃないんですもの、御代はいただきますからね。」
「ええ、これまでのつけも済ませましょうか。」
「まあ・・」
そういう会話を交わして、和美は結城を店の中に案内した。

結城は、店の中に入ると、あたりを見回しながら、
「あの頃と殆ど変わっていませんね。懐かしい。分不相応と思いつつ、あの夜は随分はしゃぎました。山内さんとお知り合いになれて、すいぶん新しい世界が広がりました。本当にありがとうございました。」
「そうね、私もあの夜は今でもしっかり覚えています。楽しかったわ。」
「東京に行ってから、魚料理の美味い店を探しましたが、なかなかあれだけの料理は見つからなかった。また、いただきたいと・・そう言えば、ご主人は?」
和美は、その言葉に言葉に詰まってしまった。結城は、厨房の隅にある影膳を見つけた。
「もしや・・お亡くなりに・・」
「ええ、もう5年前になるんです。・・交通事故で・・・」
「そうでしたか。申し訳ありません。」
「いえ、いいんです。」
「それじゃあ、その後は、お一人でこのお店をやってらしたんですか?」
「はい。亡くなったばかりの頃は、松屋さんにお世話になって、手伝いの板前さんを寄こしていただいたんですが、何とか独りでできるようになったので・・でも、あの頃のような料理はできませんから、小料理屋ではなくて、居酒屋兼食堂みたいになってしまいました。幸い、そういう料理でもいいよっておっしゃる方も居て、何とかやって来れました。・・済みません。すぐに食事の用意をしますね。」
和美はそう言って、奥の冷蔵庫のほうへ入っていった。結城は、和美の言葉に随分苦労をしてきたのだろうと感じていた。

「今日は、良いお魚が入りましたから。」
和美がそう言って運んできたのは、太刀魚の塩焼きの定食だった。結城は、ゆっくりと味わいながら食事をした。
「ご馳走様でした。こんな魚をいただいたのは、久しぶりです。美味しかったです。」
「そう言っていただければ・・」
「また、寄らせてもらいます。」
結城はそう言って店を後にした。

それから、結城は、ほとんど毎日のように、夕食を食べに店に来るようになった。夕方早い時もあれば、閉店間際の時もあった。食事をしながら、学生時代の思い出話や、あの時の学生たちの近況等を話した。
「酒井さんはどうされました?」
「ああ、あいつは、無事に医師の資格を取って、僻地医療に身をささげるなんて言って、どこかの離島にいるはずです。」
「山さんは最近お見えにならないんですけど?」
「山さんなら、銀行はお辞めになって、経営コンサルタントの会社を起こされました。講演とか執筆とかかなりご多忙のようです。そうそう、あの時の仲間も何人かそこで働かせてもらっているようです。厳しい方ですから、そうと鍛えられてるはずですよ。」

そんな毎日が1ヶ月ほど続いた。結城は、弁護士の仕事についても時々和美に話した。愚痴めいた事も、和美はちゃんと受け止めて聞いた。和美も幸一の進学の事を結城に相談した。
鉄三を亡くし、銀二が行方不明となって、5年もの間、淋しい気持ちを抱えてきた和美は、結城が現れてから少しずつ心が癒されていくのを感じていた。

2-10-16:プロポーズ [峠◇第2部]

「母さん、最近、綺麗になったよね。」
幸一が夕飯を食べながら、ふと口にした。
「何、言ってるのよ。何か欲しいものでもあるの?」
「嫌だなあ、そんなんじゃないよ。・・ただ・・最近、お化粧もしっかりしてるし、綺麗になったなあって感じたんだよ。」
「変な子ね。」
「そう言えば、最近、結城さんが毎日来てるよね。・・僕が思うに、結城さんは母さんに惚れてるね。じゃなきゃ,あんなに毎日は来れないでしょ。彼女も居ないんだよ。・・・僕は、結城さんならいいよ。経済力もあるし、弁護士だし、ちょっと強面だけど、男っぽいって言えばそうだし、再婚するんなら早い方がいいんじゃない?」
幸一は、勝手に話を作り上げてしまった。和美はそれを聞いて怒った。
「いい加減にしなさいよ。私は、再婚する気なんて無いんだからね。それに、結城さんは立派な弁護士さんなんだから、私みたいなオバサンは相手にしないわ。さあ、早く食べちゃってよね。もう、お店、開ける時間なんだから。」
そう言って、茶碗を流しに運んだ。
和美は心の中で、幸一の言ったことに少し戸惑っていた。
結城が毎日来るのが楽しく、時に遅くまで現れない時には心待ちにしている自分が居ないわけでもなかった。ただ、幸一からそう言われた時、鉄三に申し訳なく思った自分も居た。そして、そう思うと同時に、銀二がまた現れないかと思う自分もいたのだった。
自分の気持ちの中に、いろんな思いが生まれていたのを恥ずかしく感じた。《なんてふしだらな事なの》と自戒した。

その夜は珍しく結城は店に顔を出さなかった。和美は、なんだか少しほっとしていた。

翌日、和美は、昼間に店の掃除をしていた。
幸一に言われてから、心の中にある不埒な気持ちに気付き、それを戒めるために、鉄三と幸一の実母 裕子、それと銀二の3人分の影膳を供える棚を、綺麗に拭き、改めて供養した。
一通り終わった時だった。表から男の声がした。

「まだ、お店は開けていませんけど・・」
そう言って和美が表に出ると、結城が神妙な面持ちで立っていた。
「あら、結城さん。こんな時間にどうしたんですか?ごめんなさい。お昼ごはんはやっていないんですよ。」
「いえ、食事に来たんじゃありません。折り入って、和美さんにお願い・・というか・・」
結城がただならぬ雰囲気で言う言葉を聞いて、和美は、
「まあ、こんなところでは・・・とにかく、中にどうぞ。」
そう言って、結城を店の中に入れた。

結城はテーブル席に座った。和美がお茶を差し出すと、一口飲んでから、突然、
「和美さん。僕と結婚してください。幸せにします。」
そう言って、頭を下げた。
和美は驚いて、返答に困っていると、結城は、
「僕は、学生時代、こちらの店での出来事が今の自分の人生を決めたと言っても過言ではないと思っています。山内さんと出合った事は大きな分岐点でした。引き合わせてくれたのは和美さんです。お陰で今の自分がある。何とか恩返しできないかと考えて、名古屋に来てから真っ先にこの店に来ました。ご主人を亡くされてから、相当ご苦労もあったと思います。1ヶ月間ここへ通って色々お話する中で、自分の中に、恩返しの気持ち以上に、和美さんを慕う気持ちが強い事がわかりました。・・・最初、同情してるだけじゃないかとか、未亡人になられているのを良いことに勝手なことを考えているんじゃないかとか・・・ですから、最近は、ここへ来るたびに、自分の気持ちと向き合う日々でした。・・昨日は一日、じっくり考えていました。そして、その結論です。僕と結婚してください。」
理路整然と話そうとすればするほど話の中身がわからなくなって、結局、結城は同じ事を繰り返す事になった。
和美は、
「結城さん、お気持ちはとても嬉しいです。こんなオバサンを好いてくれて・・・でも、あなたにはきっともっとお似合いの方が現れるはずです。ご自分の幸せをもっと考えた方が良いです。私はこれまでいろんな人にお世話になって生きてきました。いや、生かされてきたんです。もう充分なんです。」
「しかし、これから、幸一君も高校・大学と進むはず。もっともっと将来を考えていく時です。和美さんはもっともっと幸せになって良い筈です。」

その言葉を聞いて、和美ははっとした。
銀二が昔、そっと言ってくれた言葉だったからだ。脳裏に銀二の笑顔が浮かんだ。
「いいえ、結城さん。幸一は何とかやっていけるはずです。皆さんが作った学生基金もあります。もし不足なら、この店を売っても良い。幸一が一人前になるまではしっかり育てるって主人とも約束したんです。結城さんのお気持ち、本当に嬉しいんですけど・・私にはもったいないです。」
和美はそう言いながら、泣き出してしまった。
結城の気持ちを聞くほどに、銀二の優しさを思い出してしまうのであった。今、銀二に会いたいと思う自分が悲しくて仕方なかった。

結城は、和美の涙を見て慌てた。
「すみませんでした。和美さんを困らせてしまうつもりではなかったんです。自分にできる事で和美さんを少しでも幸せにできないかと・・」
「ええ、判っています、本当にありがとうございます。本当に、お気持ちはありがたくいただきます。でも・・・」
和美の涙の意味が結城には理解し切れなかったが、和美を困らせている事には変わりなく、結城は悔やんだ。
「すみませんでした。帰ります。」
結城はそう言って席を立った。和美は、表まで結城を送りだした。

戸を開けて、表に出た時、結城は振り返り、もう一度言った。
「困らせて済みません。ですが、僕の気持ちにウソ偽りはありません。きっと和美さんを幸せにします。すぐでなくても構いません。ゆっくり考えてください。幸一君と和美さん、二人ともの幸せを考えてみてください。」
和美は返事ができなかった。
それでも、和美は、
「ごめんなさい、今日は。・・・また・・・来てください。」
そう言って、店の中に入っていった。

その様子を、山崎川のほとりの桜の木の陰から、見守る男の姿があった事を二人は気付かなかった。


2-11-1:浜辺にて [峠◇第2部]

銀二は、砂浜の波打ち際に半身水に入った状態で横たわっていた。意識は無く辛うじて息をしていた。
台風が過ぎてからすでに3日経っていた。
横波にあおられて船が転覆し、海に放り出された時、救命胴衣を身に着けていたのが幸いして、ずっと波間を漂っていたのだった。始めは何とか陸につけないかともがいたものの、潮の流れが強いのと方向がまったくわからないためなす術が無かった。そうして1日、2日と経つ内に、銀二も体力を奪われ、ついには意識を失ってしまったのだった。その後、ずっと沖合いまで流されてしまい、潮の流れに乗って、向島から遥か沖合い20kmのところに浮かぶ大野島に漂着したのだった。

昼近くになった頃、一人の女が銀二を見つけた。

名前を千鶴と言い、年は23歳。すらっとした長身、一つに束ねた長い黒髪、目鼻立ちのはっきりした女性だった。
15の歳に両親を亡くし、天涯孤独の身の上で、海女漁で何とか生きてきたのだった。海女漁といっても、海岸沿いの磯で、貝やタコや海藻を取って、市場に行く漁師に買ってもらう程度であり、貧しい暮らしだった。大野島は30軒ほどの漁師の村で、皆、助け合うように生きていたが、漁以外に現金収入はなく、若いものはほとんど町へに出ていった。千鶴も何度か町へ出て行こうとしたが、町までの船賃が法外に高いのと何のツテも無いところでどう生きていくのかも判らず、ただ、毎日を過ごしていた。

千鶴は、波打ち際で横たわっている銀二を見つけた。最初は死んでいるのだと思って、恐々様子を伺ったのだが、うめき声で生きている事が判り、近づいた。
「ねえ・・生きてるの?ねえ」
何度か体を揺すってみたものの返答は無い。このままにしておけないと考え、自分が寝泊りしている海女小屋へ連れて行くことにした。銀二の体は大きかった。千鶴はどうにか背負うとゆっくりと海女小屋まで運んだ。
普通なら、すぐに病院や警察に知らせるのであろうが、この島には病院も警察もいない。万一の時は、緊急無線で町へ知らせ、ヘリコプターで救援に来るくらいである。町へ向かう船は月に二度出ているだけだった。もちろん、千鶴にはこういうときの対処などわかるはずもない。ただ、このまま放っておく訳にもいかなかった。

千鶴は、ずぶ濡れの銀二を、小屋の板間に横たえた。そして、救命胴衣を脱がせた。救命胴衣には、『福谷銀二:向島』の名前があった。
「向島の漁師かしら。福谷銀二。・・・銀二というのね。台風で海に投げ出されたのかしらね。」

長時間、海の中を漂い衰弱している銀二の体は冷たくなっていた。
8月末の暑い時期だったが、まずは体を乾かす事が必要だと思った千鶴は、銀二の衣服を脱がせて、体を拭くことにした。しかし、着替えが無い。ひとまず、銀二をここにおいて、家に戻る事にした。

千鶴の家は、海女小屋からそう遠くはない高台にあった。
父は腕の良い漁師で収入も多かった。母は病弱ではあったが、小さな畑を作っていた。父と母が生きていた頃は、それなりの暮らしが出来ていた。しかし父が漁で大怪我をしてそのまま帰らぬ人となってから、病弱の母も後を追うように逝ってしまったのだった。
家に戻った千鶴は、箪笥から父の衣服を取り出し、風呂敷に包むとすぐに海女小屋に戻った。
相変わらず、銀二は目を覚ましていなかった。

千鶴は、銀二の衣服を脱がした。
漁で鍛えられた銀二の体は引き締まっていて、太い腕、厚い胸板、鋼の筋肉のようであった。全身に無数の傷跡があった。漁で負った古傷もあったし、台風の海で負ったような痣もあった。
海女小屋の明かり取りの窓から差し込む光りに、鍛えられた銀二の体が光っている。千鶴は、銀二の体に見とれてしまっていた。

千鶴は、男の体を見るのは初めてではなかった。
18歳の時、町から遊びに来ていた男に抱かれた事があったのだ。
生まれてからずっと島から出た事がなかった千鶴にとって、町の男はかっこよく見えた。海辺で出会って、すぐに恋に落ちた。ほんの2週間ほど遊びに来たつもりの男にとっては、千鶴は慰み程度の存在であったのだろう。島に居る間、千鶴は、その男に毎日のように抱かれたのだった。しかし、その男は、次の船が来た時、千鶴が縋るのを振り払ってさっさと帰ってしまったのだった。島の人間は、皆、千鶴はもてあそばれたのだと噂した。千鶴はその男から女の喜びと男の酷さを教えられたのだった。

千鶴は、銀二の体を拭きながら、銀二の腕や胸、足を触るとひんやりと冷たいままであった。
衰弱と長時間海水に浸かっていたために、体温が極端に下がっていたのだ。このままではいけない、何とか体を温めないといけないと思った。
千鶴は囲炉裏に火を入れた。8月末である。千鶴の体からは汗が噴出していた。それでも、銀二の体はなかなか温かくならなかった。
千鶴は、衣服を脱ぎ全裸になり、自分の体で銀二の体を温める事にした。
そっと、銀二に寄り添った。ひんやりとした。その時、千鶴は体の芯の方が熱くなるのがわかった。
ぎゅっと銀二の体を抱きしめた。乳房が銀二の腕に押し上げられる。全身に痺れたような感覚が広がっていく。
千鶴は、束ねた髪を解き、銀二にまたがる様に覆いかぶさり、銀二の体に密着させて動いた。何の反応もしない銀二の体にじれったさを感じながら、久しぶりに触れる人肌、独り、恍惚の中に落ちていったのだった。
気がつくと夕方になっていた。銀二の体は、随分と温かくなっていた。千鶴の体はまだ火照りが冷めていなかった。
銀二を見つめる千鶴の瞳は、昔、愛した男に向けられたものと同じ輝きを持っていた。

2-11-2:回復 [峠◇第2部]

翌朝、銀二は意識を回復した。
目を開くと、見覚えのない部屋の中だった。起き上がろうとしたが全身に力が入らない。
記憶をたどった。台風の海で船から放り出され、波間を漂ううちに意識を失ったのだと思い出した。すると、どこかに流れ着いて救われたのか・・ここは何処なんだろうと考えていた。わずかに動く頭を動かして、ゆっくりと部屋の中を見回した。これは、どこかの海女小屋に違いない。すると海女に救われたのか・・・それにしても一体ここは何処の浜だろう・・・
そう考えているところに、若い女が入ってきた。
浜から上がってきたのだろう。濡れた着衣をぞんざいに脱ぎ捨てると、薄い布1枚を体に巻きつけて、板の間に座り込んだ。濡れた体を乾かそうとするのか、囲炉裏の火の具合を見ていたが、銀二が起きているのに気がついた。
 
「良かった。気がついたのね。銀二さん。」
いきなり、名前を呼ばれてびっくりしたが、声が出せなかった。
「ごめんなさい。救命胴衣に名前が書いてあったから・・・私、千鶴です。昨日、浜であなたを見つけて・・ここに運ぶのが精一杯だったから・・・ああ、濡れた服は洗って干しました。・・着替えは、父のです。もう亡くなっていますから着て下さい。・・・何か、飲みますか?・・」
銀二は何とか返答をしようと搾り出すようにして、空気の漏れるような声で「水」と言った。
漂流してから水を飲んでいなかったので、喉が焼け付くように痛かった。声が出なかったのはそのせいだった。
水をごくごくと飲むと、ようやく声が出せるようになった。
「ここは・・・何処だ?・・」
「大野島です。・・あなたは、向島の漁師でしょ?台風の日に海に落ちたの?」
「ああ・・・・船が・・・転覆して・・・ありがとう・・・助けて・・・くれて。」
銀二はまだ満足に声が出ず途切れ途切れの話し方だった。
「いいのよ。もう死んでるんじゃないかって思ったけど、息をしてたから、放っておけなくて。」
「本当に・・ありがとう・・・なんて・・・お礼を・・・したら・・・いいのか・・」
「別に、お礼なんていらないわ。・・それより、今は、元気にならなくちゃ。まだ、動けないでしょ。」
銀二は何とか身を起こそうとしたがやはり力が入らない。
「昨日、体を拭きながら見たんだけど、怪我はないみたい。だけど、あちこちに痣があるから、波に揉まれてあちこちぶつけたみたいね。それに、何も食べてないから力も出ないのよ。今、おかゆ作ってるから食べてね。」
「すまない・・・。迷惑を・・・かける・・ね。」
「いいのよ。どうせ、私、ひとりなんだし、たまには話し相手が居てもいいかなって・・・」
千鶴はそう言うと少し顔を赤らめた。
銀二は全く覚えていないが、昨日温もりを交わした事を千鶴は思い出していたのだった。

千鶴は、薄い布1枚の姿のまま、立ち上がると、流しの方へ行った。
すぐに、おかゆを持ってきて脇に置くと、銀二の背に腕を回して起き上がらせようとした。銀二は、少し動揺していた。薄布1枚のほとんど裸に近い格好の若い娘が、何のためらいもなく男の体に触れる、いや、触れるというよりも抱き付くほどの感覚で起こそうとしたからだ。
「おい・・・、いいから・・自分で・・」
と銀二が言おうとすると、千鶴は、銀二の肩に頭をもたげるようにしたままで、囁いた。
「いいの。・・気にしないで・・。あなた、死人みたいだったんだから、冷たくて、何の反応もなくて・・。だから、私、温めてあげようって・・そう・・私の体の温もりで・・・ようやくあなたの肌の温もりが戻ったんですもの・・今度は私を温めて。・・・」
銀二は抵抗せず、そのままじっと千鶴が体を預けるのを受け入れた。しばらく二人は動かなかった。

「ごめんなさい・・私、どうかしてる・・・」
千鶴はそう言って体を離すと、銀二は身を起こした。
「おかゆ・・・,くれる・・・かい?」
「はい」
銀二は、千鶴が作ったおかゆを口にしながら、これまでの千鶴の生き様が気になっていた。
食べ終わると銀二は千鶴に身の上を聞いてみた。千鶴は死に別れた両親の事、惚れた男の事、そして今の暮らしぶりなど、事細かく話してくれた。

「俺・・、動けるように・・・なったら、海女の・・・仕事、手伝うよ。命を・・救って・・くれた・・恩返し・・・させてくれ。」
「恩返しなんて・・それに、向島に無事を知らせないと・・・待ってる人がいるんでしょ?」
「いや・・・待ってる人なんて・・・居ないさ。・・だから、・・いいだろう。」
「好きにすればいいわ・・・」
千鶴は、捨てて逃げた男の事を思い出していた。
あの男も最初は甘い言葉で千鶴を誘っていた。銀二は違うとは思えなかった。だが、千鶴の心の中には、一緒に居たいと願う心も芽生えていた。

それからも数日、銀二は、満足に動けなかった。
千鶴は、海女小屋ではなく、家のほうへ銀二を移すべきだと思っていたが、高台の家まで連れて行くことも敵わず、結局、銀二が歩けるようになるまで海女小屋で過ごすことになり、それまでの間、千鶴も一緒に寝泊りするようになった。

銀二の体は、予想以上に衰弱していた。
銀二は数日もすれば動けるだろうと思っていたのだが、両手両足に力が入らない状態が続いた。その間、毎日、千鶴は熱心に介抱した。
昼間は、海女の仕事をしながらも、時々小屋に戻った。銀二は小便すら自分だけではできず、千鶴が手伝った。献身的な介抱だった。夜になると、銀二の体を綺麗に拭き、着替えさせ、肌を寄せて眠りについた。

2-11-3:千鶴の家 [峠◇第2部]

ようやく銀二が自力で動けるようになったのは、海女小屋にきてから2週間が過ぎていた。
「もう大丈夫だ。何とか動けるようになった。これからは自分のことは何とかやるから・・」
銀二がそういうと、千鶴は残念そうな顔をして、
「ええ?・・・楽しかったのに・・・もう少しお世話したかったなあ。」
「馬鹿言え!もういいよ。」
「じゃあ、なにかご褒美ちょうだい。」
2週間の介抱の日々は、二人の間を確実に深めていた。
「これから、お前の仕事を手伝うよ。もう少し元気になったら、俺も漁が出来るようにする。」
千鶴は、もっと別のご褒美を期待していたのだったが、銀二が真面目に返したので、
「・・そうね。・・・じゃあ、しっかり働いてもらうわ。」
と返すしかなかった。

「ねえ、銀二さん、ここじゃ何かと不便だから、上の家に行きましょう。これから寒くなるし、ここには居られないわ。家に行けば、ゆっくり休めるから・・」
千鶴はそう言ったが、銀二は、
「いや、俺はここで良い。向島の俺の家も、漁師小屋だったんだ。こういうところのほうが落ち着くから。それに、俺がお前の家に行けば、近所の人から変な目で見られるじゃないか。」
「変な目って?・・・大丈夫よ、もともと、男に遊ばれて捨てられた哀れな娘だってみんな言っているわ。親も居ないから、・・私は私なの。どう思われても構わないの。」
「だが・・・」
「いいじゃない。そんなにたいそうな家じゃないから・・ね・・。」

銀二は千鶴の家に行くことにした。
千鶴の家は高台にあった。島の集落からは少し離れていて、裏山の谷筋を隔てたところにもう1件古い家が見える程度だった。家はお世辞にも立派とは言えなかったが、海女小屋に比べれば、過ごしやすかった。小さな庭から、海が一望できた。天気が良い日は、遠くに向島や玉の関も見えそうだった。

「この部屋を使ってね。箪笥の中に父の服が入っているから、好きに使っていいわ。・・夕飯にするけど、何でも食べられるわよね。」
千鶴はそう言って台所へ行った。
古い作りの箪笥の中にはたくさんの衣服が入っていた。母親のものもあった。どれもそれ程高価なものとは言えなかったが、大事に使われていたようだった。ズボンとシャツを出して着替えた。父親は、銀二より少し大きかったのか、手足の裾が少し余るようだったが、楽だった。
そうしているうちに、千鶴に呼ばれて、居間のほうへ行った。小さな食卓台が置かれていて、浜で取って来た貝や海草、漁港から貰っただろう魚の料理が並んでいた。

「お酒、飲みたい?」
銀二は首を振った。もともとそれ程酒は強くないし、まだ体が本調子ではない。
「良かった。・・・私、ずっと一人だったでしょ。うちにはお酒がないのよ。飲みたいって言われてもなかったんだけどね。」
千鶴は舌を出して笑った。
「さあ、召し上がれ。」
銀二は久しぶりのまともな食事だった。海女小屋でも少し食事は摂れる様になって来ていたが、ほとんど摂らなかった。
千鶴の料理は美味しかった。久しぶりの食事というだけではない、しっかりとしているが上品な味付けだった。
「なあ、親御さんは亡くなったと聞いたが、親戚はないのかい?」
「ええ、親戚はあるにはあるんだけど・・・実は、私、貰われてきたのよ。・・・父と母は、戦争中に結婚の約束をしたの。祝言をあげる前に召集令状って言うのが来てね。この島の若者はみんな一緒に、南方に行ったらしいの。父もボルネオに行ったんだって。そこは随分ひどい事になっていたみたい。」
「ああ、おれも聞いたことがある。日本の軍隊はほとんど全滅だったとか・・」
「父は、行ってすぐに撃たれて大怪我、それで戦がひどくなる前に帰ってきたらしいの。だけど、その怪我が原因で、子どもが作れなくなったんだって・・それで、母との結婚も破談にしたほうがいいって親戚中から言われたみたい。」
「それでも結婚を?」
「母から、子どもなんかできなくってもいいからって反対を押し切って結婚したんですって、でも、父は随分苦にしていたみたい。母が亡くなる少し前に話してくれたんだけどね。父は、母に女の喜びも与えてやれないし、せめて、母になる幸せだけでもと孤児だった私を貰い受けてくれたんだって。」
「それじゃあ、千鶴は、本当の父と母を知らないのかい?」
「いいえ、私の両親の事は父が調べて、書き残しておいてくれたの。もともと広島に居たんだけど、戦争のあと、山口に引っ越して・・でも私を産んですぐに二人とも病気で亡くなって、赤子の私は、親戚をたらいまわしになった挙句、孤児院に保護されていたんだって。」
「ご両親が病気って・・・まさか・・・」
「そう、銀二さん、物知りね。そう、白血病だって。広島で被爆したらしいわ。・・・だからきっと私も・・」
「そんな事はないはずだ。確かに、被爆して死んだ人はたくさん居るし、俺の知り合いにも被爆した親のことをずっと隠していた奴もいたけど・・元気にやってる。」
「私は平気よ。もう・・銀二さんたら・・大丈夫。気にしないで。さあ、食べてよ。」
何だか、銀二はショックだった。今までも、苦しい人生を生きている人を何人も知っているが、千鶴は生まれた時から途轍もない苦労を背負い込んで生きていた。それなのに、まっすぐ明るく生きている。
千鶴のこれまでの人生を想像して、銀二は涙が零れてきた。目の前の料理も見えなくなるほど涙が溢れて仕方が無かった。
「もう、銀二さん・・泣かないでよ。変よ。」
そう言って、千鶴も銀二の涙が嬉しくて、涙を流していた。

食事を終えて、片づけも済んだところで、千鶴が銀二に風呂に入るように勧めた。今まで、海女小屋では体を拭いてもらっていただけで、風呂は久しぶりだった。
「気をつけてね。久しぶりだとすぐに逆上せてしまうって聞いたことがあるから。」
千鶴は心配顔でそう言った。
「大丈夫さ。じゃあ、済まないが先に入らせてもらう。」
そう言って、風呂場に向かった。このころの風呂は大抵、家の外にあったが、千鶴の家は家の中に設えてあった。
大きな湯船だった。外の釜戸に千鶴はいて火加減を見ていた。
「湯加減はどうかしら。」
「ああ、ちょうどいい。生き返るようだよ。」
「そう、良かった。」
千鶴はそう言って家の中に入って行った。小窓を明けると、夜空に月が光っているのが見えた。
ボーっと夜空を眺めていると、風呂場の戸が開いた。
「ねえ、銀二さん、背中洗ってあげるわ。」
そう言って千鶴が一糸まとわぬ姿で入ってきた。
「おい!いいよ!自分でやるから。」
「いいじゃない。・・ちょっと・・ほら、冷えるわ。入れて。」
そう言って、強引に湯船に浸かった。お湯が溢れて、風呂場は湯気で充満した。
「ああ、気持ち良い。良い湯加減。」
あっけらかんとして湯船に浸かる千鶴を見て、銀二も観念した。
「ねえ、もっとくっついていい。」
千鶴は銀二の手を自分の体に回してぴったりと抱きついてしまった。銀二も男である。元気になった体は正直だった。
「あら・・銀二さん・・・元気ね・・。」
そう笑った千鶴に、銀二は、照れ笑いをするしかなかったが、何だか体がふわふわして来た。
久しぶりの入浴で、銀二はのぼせてしまったようだった。頭がくらくらしてきて、立ち上がろうとしてもできなかった。
その様子に千鶴も気がついて、
「銀二さん、しっかりして。」
その言葉までは銀二にも聞こえたが、そのまま意識が飛んでしまった。

気がつくと、部屋に寝かせられていた。横で、千鶴が団扇で風を送ってくれていた。
「もう・・銀二さんたら・・せっかく良い所だったのに・・」
そう言って笑った。静かに二人の夜が過ぎて行った。

2-11-4:海女の仕事 [峠◇第2部]

次の日から、銀二は、千鶴の海女仕事の手伝いをする事にした。
まだいいからと千鶴は言ったが、少しでも体を動かしていかないと鈍ってしまうからと銀二は言い、海女小屋の前の磯で、仕事の手伝いをした。
海女仕事といっても、深い海に潜るわけではなかった。腰ほどの深さの磯に浸かって、サザエや鮑、とこぶし等の貝を採ったり、天草を集めたりするのがほとんどだった。
銀二は漁師である。海の事は千鶴以上に詳しかった。顔を浸ける程度の海の仕事は子どもの時からやっていて体が覚えていた。

大野島は、瀬戸内の沖合いに浮かぶ島で、向島や玉浦と違って、島の周りの強い潮の流れが取り巻いていた。島から少し離れるだけで急に海も深くなる。磯で取れる魚介は豊富だった。
千鶴は、大きい岩を回りながら、岩の中に潜んでいるあわびやとこぶしを器用に採っている。50センチほどの金具の先が鍵状になったもので岩に張り付いている貝を引き剥がす。銀二も、同じように採り始めた。泳ぎには自信のある銀二は、千鶴が入れないような深みを素潜りで入って、岩に隠れている貝を採り始めた。すぐに腰網は一杯になった。
「千鶴!ここの海はいいなあ。いくらでも採れる。これなら、俺も大丈夫だ。」
体調が戻り、満足に動けるようになった事と、千鶴の暮らしの足しになる収穫があった事で、銀二は満足だった。
「銀二さん、すごいわあ。私の倍くらい採れたじゃない。」
「ほれ!こんなものも採れたぞ。」
銀二が見せたのは、タコだった。素潜りで岩陰に隠れていたのを引っ張り出して捕まえたのだった。
1日目から、千鶴の量を超えるほどの収獲があった。
長い時間、海に入った体は冷え切っていた。午前中には、収穫作業に切りをつけた、二人は、薪にする流木を拾いながら、海女小屋に戻ってきた。

千鶴は、小屋に入ると、さっさと濡れた服を脱ぎ捨て、薄い布一枚を体に巻きつけて、火にあたった。
「なあ、千鶴。いつも、そうしてたのか?」
銀二が問う。
「何?」
「いや、お前はまだ若い娘だし、すぐに裸になって・・その・・恥ずかしくないのか?」
「どうして?・・・だって、今までこの小屋には誰も居なかったのよ。誰にも見られる事もなかったから。」
「そうか。だが、今はさあ、俺が居るんだし、俺だって男なんだし、少しは恥ずかしいって思うのも・・」
「あら、そうなの。私の裸、見るのが嫌?いいじゃない。私、銀二さんに見られるのは平気よ。銀二さんの裸も好きだしね。・・・でも、一応、銀二さんに気を使って、布切れ1枚で隠してるのよ。居なかったら、今頃、素っ裸で・・こうよ。」
千鶴は、布切れを取って、大股を広げる仕草をして見せた。
「おい!やめろって。」
銀二は、なんだか馬鹿らしくなって、ぷいと横を向いた。千鶴は、ちょっと残念な顔をしていた。銀二にその気があるのなら、いつでも抱かれる気持ちで居たのだ。

「なあ、採れた貝はどうするんだい?」
「うん、午後に、悠さんに預けるの。悠さんが町の市場に採れた魚を揚げる時に一緒に競りにかけてもらって売る事になってるの。」
「ほう、じゃあ、これだけあれば、充分過ぎるくらいの代金がもらえるなあ。」
「そうね。でも、いつもは網一杯だしても、千円くらいにしかならないの。代金から、船賃を取られるし、私の採ってくる貝は小さいから余り値がつかないんだって。」
「そんなもんかねえ?」

採った貝は、港に持っていくと、町の市場に行く漁船が持って行ってくれて、金に変わるのだった。

「悠さん、これ、お願いします。」
港で千鶴は漁師の悠さんに市場への出荷を頼んだ。
「おや、随分あるじゃねえかい。いつもの3倍くらいだ。それに大きいものが多いなあ。これなら高値が付く。おい、もっと持って来いよ。今度、徳山の市場に持って行ってやるよ。あそこのほうが高く売れるはずだ。ほれ、この間の代金だ。持ってきな!」
悠さんは昔から優しくしてくれたのだが、それは、市場で売れると、代金の半分は船賃として取れるという魅力があったからだった。

「ふん・・高く売れるからって、自分の取り分が増えるからでしょ!」
千鶴は、悠さんの魂胆はわかっているので、振り向きざまに悪態をついたのだった。

銀二は港の入り口近くの岩陰に座っていた。まだ、島の人間に会うには早いと思ったからだった。
千鶴は代金を大事に抱えて、銀二の待つ浜にやってきた。
「これ、前に売れた代金。今日の分は明日になるの。」
銀二は、貝の相場を知っていた。代金を見て、随分少ないのが気になった。
「なあ、今までずっとそうしてきたのかい?」
「ええ、だって、他に売る術を知らないもの。」
「そうなのか・・・なあ、近いうちに港の漁師を紹介してくれないか。」
「え?いいけど・・でも、よそ者は結構みな警戒するから・・」
「大丈夫さ。出来たら、港で一番えらい人を紹介してくれ。」
「一番えらいって・・・じゃあ、仁さんかな。一応、漁港の役員だって言ってたし、何かあると仁さんが何とかしてくれるから・・」
「仁さんか。・・うん、その人にしよう。」


2-11-5:仁さんと漁師仲間 [峠◇第2部]

銀二は、このあたりの漁師にも数人は知り合いがいた。
同じ漁場で漁をするため、諍いもあったが、困った時は協力し合う仲でもある。
千鶴が言った『仁さん』も以前に向島で船を修理したことがあった。ぶっきらぼうで無口な男だったが、漁の腕は一品という評判だった。

次の日、千鶴は銀二を連れて仁さんの家に行った。
家の前で千鶴は深呼吸した。千鶴は無口でいつも難しい顔をしている仁さんが実は苦手だった。
「すみません。千鶴です。仁さん、いらっしゃいますか?」
「おや、珍しい。なんだい。」
仁さんは漁に行く準備をしていたのか、黒いゴム長を履きながら、玄関先に出てきた。
後ろにいた銀二がすっと顔を出した。

「お久しぶりです。仁さん。向島の銀二です。覚えてますか?」
仁さんは少し考えてから
「忘れるわけは無い。生意気な向島の漁師だろ。まあ、あの時は世話になった。」
「良かった。忘れられていたらどうしようかと・・・」
「でもよ、お前。この前の台風で行方知れずって聞いたぞ。死んだんじゃなかったのかい。足はあるか?」
「ええ、詳しいことはまた今度とゆっくりお話しますが、この娘に助けられまして・・」
「ふーん、そうかい。で、なんだい。」

銀二は、千鶴には聞こえ無いように、仁さんの耳元で小声で用件を伝えた。
「実は、お願いがあって・・・で・・・皆には・・・と・・・お願い・・・。」
千鶴の耳には、途切れ途切れにしか会話は聞こえなかった。

「おめえ、そりゃいくらなんでも・・」
銀二は、仁さんの口を手で覆った。
「お願いします。しばらくの間で良いんです。」
「だがよ・・せっかく・・」
「お願いします。」
銀二は頭を下げた。仁さんはそれを見て、
「判ったよ。漁師の皆にはちゃんと言い聞かせる。だが、いずれは判るぞ。」
「その時はちゃんとしますから。ああ、それから・・もう一つ、・・・悠さんが・・・」
「なんだって、そんな奴は、漁師の風上にも置けない。本当ならとっちめてやら無いと・・」
「一度、本人に聞いてみてください。」
「そうかい。まあ、結構、儲かってるとは言っていたが・・・」
「お願いします。」
あきれた顔で仁さんは銀二を見た。そして、
「じゃあ、俺はこれから漁に行くんで忙しいんだ、ほら、帰れ!帰れ!」
そう言われて、銀二と千鶴は退散した。

千鶴と銀二は、海女仕事のために小屋へ向かった。途中、千鶴は銀二に問いただした。
「ねえ、なんなの?銀二さん、仁さんとは知り合いだったんじゃない!」
「ああ、名前を聞いてもしかとは思ったんだが・・・昔、ちょっとな。」
「それに、内緒で何か頼みごとをして!教えてよ。」

道すがら、何度も何度もしつこく千鶴は訊いた。
あまりにうるさいので観念して銀二は一部を教える事にした。
「仁さんとは、昔、一度だけ会ったことがある。ただ、別人じゃないかと思って、お前に案内してもらったんだよ。それで、漁師仲間には、俺が、ここにいる事を内緒にしてもらうようにお願いしたんだよ。いや、島の中ではいいんだが、他に知られたくないんでね。」
「でも、せっかく無事なんだから、向島とか知り合いに伝えたほうが・・」
「いや、待ってくれてる人なんかいないんだし、・・・向島には借金があるから・・居場所がわかると取り立てに来るかもしれないからね。」
「ふーん。」
半分本当、半分嘘の話をなんとか千鶴に信じさせたのだった。
自分の居場所を知られたくないのは本当だが、借金などあるはずは無かった。
それと、銀二は、市場への船賃と称してピンはねしている不届きな漁師がいる事を仁さんに教え、注意してもらうようにお願いしたのだった。その代わりに、港の船の修理を無償でやることを約束したのだった。これで、千鶴の暮らしもきっと良くなるはずだと考えたのだった。

二人は、それからも、毎日、浜で海女仕事をした。
採れた貝は悠さんが市場に持っていくことは変わらなかったが、急に代金が増え始めたのに、千鶴は驚いていた。
悠さんは、「値がよく売れたから」としか言わなかった。

銀二は、仁さんとの約束どおり、海女仕事の合間を縫って、漁船の修理や、魚網の修理の仕事を引き受けた。エンジンの修理は道具が揃っていないため、苦心したが、皆助かっていた。

漁師連中も、徐々に銀二のことは信用しはじめ、安心して仕事を任せるようになった。
漁師連中も、無償では悪いからと、採れた魚を分けてくれたり、町への買出しも頼まれてくれるようになっていた。

それと、千鶴に対して、冷たかった島の人も、次第に優しく接してくれるようになって、畑で取れた野菜やお米等もくれるようになっていた。漁で余計に取れたものも、市場に出す貝と一緒に出せば金になるからと、わざわざ届けてくれたりもした。千鶴の孤独だった島の暮らしが、銀二が来てからというもの、様変わりしたようだった。

2-11-6:千鶴の想い [峠◇第2部]

銀二が島に来て半年ほどが経ち、季節も春になっていた。

いつものように貝の代金を受け取りに、港を歩いていた千鶴に、漁師の女房たちが声を掛けた。
「千鶴ちゃん、早く、銀二さんの嫁さんにしてもらいなよ。」
「そうさ、私たちもこのまま、銀二さんにいて欲しいしさ。」
「ほら、もう抱かれたんだろ?・・なら、責任とって!って迫っちゃえばいいじゃないか。」
半ば冷やかしながら、楽しそうに話しかけてくれた。千鶴は、答えに困った。
「なんだい。銀二さん、いやがってるのかい?・・おや、まだ、抱かれてないのかい?」
千鶴はこくりと首を縦に振って、泣き出しそうになっている。
「こんな綺麗な子、ほっとくなんて、おかしいね。どこか悪いのかい?」
「ごめんよ。からかってるんじゃないんだよ。お前さん、昔、変な男と一緒だったろ。それを思うと、銀二さんなら、きっとお前さんも幸せになれるんじゃないかって思っただけなんだよ。ごめんよ。」
千鶴は、女房たちが、昔と違い、思いやりを持って接してくれている事を嬉しく思っていた。ただ、半年もの間、一緒に暮らしているのに、何もしない銀二の心の中が判らなくて戸惑っているのも事実であった。

「千鶴、帰ったぞ。」
銀二はその日もいつものように港で仕事をして夕方近くになって帰ってきた。
「今日は、健さんから魚を分けてもらったんだ。煮付けにして食べよう。おい、いないのか?」
千鶴は、薄暗い部屋の中で膝を抱えて座り込んでいた。
「おい、どうしたんだい?こんなくらい部屋で・・何かあったのか?」
銀二は、部屋の明かりをつけた。千鶴の顔を見ると、ぼろぼろと涙を流していた。

「ねえ、銀二さん。・・私、銀二さんが好き。大好きなの。ずっと一緒に居たいって思ってる。私だって、女なの。好きな男に抱かれたいって思うのよ。はしたないって言わないで。銀二さんと出会ってから、体が疼くのよ。ねえ、銀二さん、抱いてほしいの。そう願っちゃいけないの。・・・ねえ、銀二さん。」
問いかけるような、懇願するような、必死の思いの千鶴の言葉に、銀二は戸惑っていた。千鶴の気持ちは知っていた。銀二の心の中に、千鶴を抱きたいという欲望もなかったわけではない。ただ、銀二の心の中には、和美が居たのだった。
答えようとしない銀二を見て、千鶴は、思い余って、家を飛び出してしまった。
部屋の残された銀二は、ここに来てからの日々を思い出していた。そして、これからどうすべきなのかを考えていたのだった。

外はもう夕闇が広がっていた。ようやく、心の整理がついたのか、銀二は立ち上がって、千鶴を探しに出た。恐らく、千鶴は海女小屋に居るだろう。そう考えて、銀二は海女小屋に行った。
海女小屋には明かりが見えた。囲炉裏の火も入っているようだった。

「千鶴。さっきはごめん。なあ、話をしよう。」
千鶴は、銀二に背を向けたままだった。
「まあ、聞いてくれ。・・・一度、死に掛けた俺を救ってくれた恩を今も忘れちゃあいない。それに、半年もの間、一緒に暮らしてきたんだ。今の俺には、千鶴はかけがえのない存在だ。・・ああ、そうさ、俺もお前の事が好きだ。」
「じゃあ・・」
「ただ、お前にはもっと幸せになってほしいんだ。俺みたいな男じゃなくて、もっといい男がいるんじゃないかと表いるんだ。」
「そんな・・わたしは銀二さんが好きなの。」
「ああ、それは良く判った。・・俺には待ってくれてる人はいないとは言ったが・・・ただ、お前と同じように、俺が守ってやらなきゃいけないって決めた人がいるんだ。」
「え?その人、奥さんなの?」
「いや・・ちがう。昔、俺が海で救った人だ。俺と同じように、一度は命を落としかけた。不幸な目に逢って、身投げしたんだ。幸い、その後、俺の弟と結婚して幸せに暮らしていたんだ。だが、その弟が死んだ。また、一人で生きていかなくちゃいけない。・・・弟のためにも、その人を守っていくって決めたんだ。」
「そんなの・・銀二さんはその人のために犠牲になって生きていくっていうの?」
「いや、そんなんじゃない。せめて、もう大丈夫だって判るまでは・・・」
「その人のこと、愛してるのね。」
「・・愛とかというのはわからないが・・・海で救い上げた時から、命に代えても守って生きたいと思ったのは確かだ。」
「そうなの・・・」
「済まない。・・・今は、お前の事は何よりも大事だと思っている。お前と一緒に生きたいというのは嘘じゃない。ただ、その人のことが心の中にある以上、お前を抱くのはダメだと・・・この数ヶ月、ずっと考えてきた。・・お前と同様、俺だって男だ。目の前に、お前みたいな可愛い女が裸同然で居るのを目にすれば、むらむらと欲望だって沸いていた。俺もずっと我慢してきたんだ。」
「そうだったの・・・」
千鶴はその言葉を聞いて救われた気持ちになった。二人はしばらく、囲炉裏の日を眺めていた。

「ねえ、銀二さん。・・・その人・・・綺麗?」
千鶴は、不意に出た言葉に自分でも戸惑った。そんなことを訊いてどうしようというのか、判らないままに、つい呟いてしまった。
銀二も、どう答えたものか考えてしまい、返答できなかった。
「ううん・・ごめん・・なんでもないの。・・・でも、その人が羨ましい。・・・一緒に居るわけでもないのに、そんなに想ってもらえるなんて、それだけで、きっと幸せよね。」
「済まない。もっと早く話せば良かった。」
「ううん、いいの。」
囲炉裏の中で、薪がぱちぱちと音を立てていた。

「ねえ、銀二さん。傍に行ってもいい?」
「ああ」
千鶴が、銀二の体に寄り添うと、銀二は、千鶴の体をそっと包み込むように腕を回した。