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2-5-7:資格 [峠◇第2部]

和美が目を覚ました時は、もう正午を過ぎていた。
明るい日差しが薄いレースのカーテン越しに部屋に差し込んでいる。
柔らかい空気が部屋の中を漂っていた。着替えをして、食事をした部屋に戻ってみた。

大木医師がテーブルに座ってコーヒーを飲んでいた。
「やあ、目が覚めたかい。気分はどう?」
「ええ、何ヶ月ぶりに眠ったという感じです。ありがとうございました。」
「今、午後の診療の前の休憩時間なんだ。これでも、なかなか忙しいんだよ。コーヒー飲むかい?」
「はい。いただきます。」
「君にはコーヒーだけじゃなく、ほら、ミルクをたっぷり入れてね。これなら、体にも良いから。」
大きいカップに、コーヒーとミルクをたっぷり注いで渡してくれた。

「ああ、それと、この間の検査の結果なんだが・・いくつか数値が悪いところもあったようだが、病気と言うわけではない。無理さえしなければ大丈夫だ。」
「ありがとうございます。」
「だが、今日はあんなに朝早くどうしたんだね?」
「ええ、ちょっと・・」
和美はどこまで説明してよいか迷っていた。そして、
「少し、休みをいただいたんです。せっかくなので、旅行でもしようかなって思ってたら、朝早く目が覚めちゃって。バスを待つ時間ももったいなくて、歩き始めたんです。そしたら、駅まで思いのほか遠くて・・」
出来るだけ明るく取り繕ったような話をした。

大木はふっとため息をついて、
「そんな話を信じろっていうのかい?」
と言った。そして、
「朝の君は尋常じゃなかった。だから、声をかけたんだ。何があったんだい、ちゃんと話してみなさい。」
と言ったのだった。
和美は、昨夜の出来事を話した。そして、行くあてがなくて困っていた事も正直に話した。和美の話を全部聞いてから、大木は、
「そういうことだったのか。まあ、それなら、しばらくの間、ここに居るといい。身の回りのことは、家政婦さんがやってくれる。のんびり本でも読んで過ごしたほうが良い。そうしなさい。」
と言ってくれた。そして、午後の診療の時間だからと席を立って行った。

和美は、あのやわらかい空気の漂う部屋に戻り、何をするでもなく、ベッドに座って、外の景色を眺めていた。
そして、これからの事を考えていた。

大木はここにいても良いと言ってくれたが、甘えて良いものだろうか。確かに、ここに居ればのんびりと、何不自由なく暮らしていけるだろう。だが、それは、どういうことなのか。大木の厚意に自分は何もお返しできない。身内でもない、ましてや妻ということでもない。「しばらくの間」とは言っていたが、その後、どうするのだ。結局、自分で生きる道を探さなくてはダメだと思い至った。

通りを通る親子連れと思われる声が聞こえた。そして、かすかだが、赤ちゃんの泣き声もした。
急に和美は、幸一のことを思い出した。
昨日の朝、アキに取り上げられてから、まともに幸一を見ていなかった。
「ああ、幸ちゃんに会いたい。」
和美は一人つぶやいていた。
そして、やはり自分の生きる道は、幸一を立派に育てる以外にないのではないかと思っていた。だが、村田屋に戻る事もできるはずもない。結局、自分は何のために生きているのだろうと思い始めていた。

日が傾き、家政婦が、夕食を知らせに来た。
和美がダイニングルームに入ると、すでに着替えて寛いでいる大木の姿があった。目の前には、見たことも無いような料理が並べられていた。
「さあ、座って。ゆっくりできたかい?さあ、食べよう。」
大木は、ずいぶんと嬉しそうだった。
「あの、先生。私・・」
「いや、『先生』はやめてくれないか?病院に居る気分になる。ここでは、浩と呼んでくれないかい?まあ、家政婦さんは、いまだに坊ちゃんと呼ぶんだけどね。」
「え・・ひ・・浩さん?」
「そうそう、それでいい。で、なんだい?」
「私、考えたんです。ここには居られないって。ここに居る理由がないです。いえ、本当にご親切にしていただいて感謝しています。ただ、ここでのんびり暮らしていい資格はありません。ですから、・・」
「じゃあ、どうするんだい?」
「え・・それは・・・」
「まあ、そんなに結論を急がなくてもいいじゃないか。資格なんてものもね。僕がここに居て良いって言ってるんだし、いや、僕は君にここに居てもらいたいんだ。もちろん、患者としても君のことは心配だしね。それに、村田屋さんにもお世話になっていて、何かお返しが出来ればいいし、・・それに・・上手く言えないが、君は生き急いでるようでね。」
「でも・・・」
「この話はここまでにしよう。料理が冷めてしまう。熱いうちに食べないと、家政婦さん・・ああ、名前は千代さんって言うんだが・・千代さんの機嫌が悪くなる。優しいんだが、食事には人一倍うるさいんだ。さあ、食べよう。」


食後のコーヒーを飲みながら、和美はひとつ訊いてみた。
「あの、せんせ・・あ、ごめんなさい。・・・浩さんは、ご結婚は?」
大木は思わずコーヒーを噴出しそうになった。
「いや、突然、びっくりするなあ。・・ふーん・・どう答えたらいいんだろうね。まあ、仕事が忙しくってなかなかそういうことに疎くて,縁が無かったというか、あっという間にこんな年齢まで独身ということになってしまってね。・・こんな答えじゃダメかな?」
「いえ、もうご結婚されてたのかなと思って・・」
「なんだい。そういうことか。まだ未婚です。良かったら、和美さん、僕のお嫁さんになってくれるかい?」
大木は半ば本気で聞いてみた。
「・・・」
和美は答えられず、うつむいてしまった。
「なんだ・・なんだ・・冗談だよ。こんなオジサンのお嫁さんなんて無理だってわかってるから・・」
「いえ、そうじゃないんです。嬉しくって。私をそんなふうに見てくださるなんて。でも、私にはそういう幸せになる資格はありません。」
「また、そんなことをいうんだから。和美さんはもっと幸せにならなくちゃいけないんだ。」
「同じことを、昔、言ってくれた方がいました。でも、今の私には無理です。」
そう言うと、泣きながら部屋に戻っていった。

部屋に残った大木は、和美の涙の理由は充分に理解できた。
村田屋に居た時の和美は、幸一を抱き、すっかり母として生きていたのだ。愛する子どもを取り上げられた今、どう生きていくべきなのか深く悩んでいるのだ。彼女を元気にできる道はやはり幸一を和美の手に戻してやる事以外にないだろうと判っていた。

大木は、電話を取り、村田屋に連絡した。

村田屋は、和美が出ていった事で、奥さんは塞いでしまって寝室に篭ってしまっていた。アキは、光男が居なくなり、仕方なく幸一の世話をしていた。
電話近くには鉄三が居た。
「はい、村田屋です。」
「もしもし、あの、私、大木と言います。ご主人は在宅でしょうか?」
「すみません。今、出かけております。」
「そうですか・・じゃあ、和美さんの事で一度連絡をいただきたいとお伝えください。」
「え!和美?すみません。僕は鉄三と言います。和美って、うちに居た和美の事ですか?どこにいるかご存知なんですか?元気ですか?そこに居るんですか?」
矢継ぎ早の質問で、大木も困ってしまって、
「ああ、大木総合病院の大木です。今、私の家で預かっています。元気ですよ。とりあえずご連絡をと思いまして・・」
「そうですか。ありがとうございます。それで、和美は?」
「どうしたものかと思いましてね。一度、ご相談をと・・」
「実は、少し揉めてまして。何なら、僕が伺います。旦那さんは多分難しいかと」
「じゃあ、鉄三さん、だったっけ?明日にでもこちらへ来てもらえますか?」
そう約束して電話を終えた。


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