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2-4-4:階段 [峠◇第2部]

和美が村田屋に来て、半年ほどが過ぎ、季節も早春になっていた。
相変わらず、幸一の世話と釣り船屋の手伝いで、毎日張り切って生きていた。最近では、幸一もよく笑うようになって、村田屋の主人と奥さんだけでなく、近所の人からも可愛がられるようになっていた。
温かい日には、昼過ぎの少し手の空く時間には、和美は幸一をおんぶして、港周りを散歩するようになっていた。漁師たちも、和美と幸一が散歩するのを楽しみにするようになって、何かと声をかけてくれるようになっていた。

そして、和美は、村田屋のご主人をお父さん、奥さんをお母さんと呼ぶようになり、いきさつを知らない人からは、おじいさん・おばあさん・娘・孫の様に見えるほどになっていた。
鉄三も、幸一の父親として、それまで以上に熱心に働いた。そして、時折、和美に代わって、幸一の面倒を見るようになっていた。銀二は、相変らず他人行儀の態度は変えないものの、しきりに村田屋に顔を出すようになった。

半年ほど前は、「娘の死」で沈んでいた家が、今では、幸せに包まれていた。

春本番ともなると、釣り客も増える。早朝から訪れる客が増え、朝食、昼食、夕飯、泊まりのしたくと、忙しくなって、和美も店の手伝いがどんどん増えていった。その上、最近では、幸一の夜泣きも多くなって、ここ数日、満足な睡眠が取れないようになっていた。
今日も、朝から店の手伝いのため、和美は幸一をおんぶして厨房で働いていた。しかし、連日の疲れもあり、時折、ボーっとしている事があった。そんな様子を鉄三も気がついていた。
朝食の支度が終わり、一息つく時間になって、鉄三が、
「ここはもう良いから、部屋に戻っておいで。」
と労りの言葉をかけた。
「いえ、大丈夫です。」と和美は答えたが
「片付けは俺がやるから。それに、これから、昼の下ごしらえの焼き物をするから、ここらは煙くて大変になる。幸一のためにも、部屋に帰ったほうがいい。」
と強い口調で、部屋に戻るように鉄三が言い返した。
和美は、「すみません」というと部屋に戻った。

和美は、部屋に戻ると、おんぶしていた幸一をようやく降ろした。
オムツを換えて、乳を飲ませた。そして、幸一を布団に寝かしつけ、自分も少し横になった。
昨夜は、幸一がいつもに増して夜泣きがひどく、あまり眠れなかったためか、そのままウトウトとしてしまった。

気づくともう昼の時間を過ぎていた。『いけない』と感じて、咄嗟に立ち上がり、幸一を抱いて階段を降り掛けた。疲れていたのだろう。急にめまいが起きて、階段を踏み外した。そのまま、幸一を抱えて階下まで転げ落ちてしまった。
ドスンという音とともに、幸一の泣き声が響いた。昼食の喧騒の中ではあったが、奥さんが気づいた。
「あら、幸ちゃんの泣き声。何かあったのかしら?」
そう言うと、奥さんは母屋へ向かった。
階段下の廊下で、幸一を抱えたまま、和美が倒れている。
「和美ちゃん?どうしたの?大丈夫?」
声をかけたが返事をしなかった。奥さんは慌てて厨房に戻ると、鉄三を呼んだ。
「和美ちゃんが・・・大変なの。すぐ来て!」
その声に喧騒の食堂が静かになった。食堂にいた客たちも、和美の事は何度か来ていて、皆、知っていた。
鉄三は、「すいません。」と客たちに、頭を下げた。多くの客が、すぐ行けというしぐさで促した。

和美はまだ動かなかった。鉄三が駆け寄り、名前を呼んだが返事が無い。階段から落ちたショックで意識を失っているようだった。奥さんと鉄三はどうしたものかとおろおろしていると、食堂から一人の客が入ってきた。
その客は、
「これはいけない。すぐに布団を敷いて、横にしてください。」
と言った。そして、泣いている幸一を抱き上げようとしたが、和美が強い力で抱きしめていた。仕方なく、鉄三とその客の二人で抱え上げ、広間に運んだ。

「でしゃばってしまってすみません。私は、問屋口で医者をしているものです。その様子から察するに、疲れか貧血で倒れたんじゃないかと思います。どこか、打ち身があるといけません。ちょっと診察させてもらっていいですか。」
そう言うと、和美の頭や首、手足を診始めた。そして、
「奥さん、濡れタオルをもってきてください。どうも、肩と腰を強く打っているらしい。冷やしてやりなさい。頭や骨には異常は無いようです。その内、気がつくでしょうが、しばらくは、動かさないほうが良いでしょう。あちこちが痛むだろうし、それに、随分、疲れているようです。」
と言った。
「ありがとうございます。お医者様がいらして助かりました。お礼はさせていただきますから・・」
と奥さんが答えた。すると、
「そんな事は気にしなくて良いんです。それより、この娘さんを褒めてやってください。階段から落ちた時、自分の身を投げ出して、あの子を守ったんです。なかなかできる事じゃない。きっと命に代えても良いほどに愛しているんですね。」
その言葉を聞いて、奥さんと鉄三は、和美の顔を見た。
よく見ると、ここへ来た時よりすいぶん痩せてしまったように見えた。それでも、泣き言ひとついわず、毎日熱心に働き、幸一の世話もして、いつもニコニコしていたのを思い出した。
「本当にありがとうね。」
奥さんはそう言うと、和美の顔を優しく撫でた。鉄三も、思わず涙が出てきて、ごしごしと目を拭った。

その医者は、部屋から出て行き際に、奥さんに手招きをした。
医者は、廊下で、小声でこんな事を言った。
「母乳で育てているようですね。もっと栄養をつけないともちませんよ。赤ちゃんがほとんど栄養を取っていくから、もっと栄養をつけないといけません。忙しくてもしっかり食べるように言いなさい。そうそう、毎日、牛乳を飲ませてあげてください。最近は、牛乳も手に入りやすくなったんですから。それから、近々、私の病院に連れてきてください。健康状態の検査をしたほうがいい。」
「え、どこか悪いんでしょうか?」
医者は少し考えてから、
「若い娘は貧血には、なりやすいんですが、さっき、触診したところ、どうもそれだけではなさそうです。念のために、一度、精密検査をしておいたほうが安心でしょう。」
そう言いながら、医者は、名刺を差し出した。名刺には、『大木総合病院 院長』の肩書きがあった。
「受付でこれを見せてくれれば、すぐに検査できるようにしておきます。いつもお世話になっているんだからね。」
「ありがとうございます。わかりました。出来るだけ早く行かせます。」
「ああ、それと・・・その娘さん、以前に大変な目に遭った様ですね。肩から腕にかけて、火傷の痕がある。体の傷も大変だが、あれだけの火傷となれば、おそらく火事にでも遭ったのでしょう。怖ろしい体験をして、心に深い傷を負っているはずです。大事にしてやってください。」
「はい、わかりました。大事にします。幸一には無くてはならない人ですから。ありがとうございました。」
奥さんは深々と頭を下げた。

その医者が、食堂のほうへ戻ると、他の客が様子を尋ね、無事だとわかると、安堵の声が広がった。


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