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2-4-5:悲しい夢 [峠◇第2部]


和美は、夢の中にいた。
蜻蛉(かげろう)のように、一人、ふわふわと宙を舞っている。
足元には真っ暗なのに、何故か青く光るような海が広がっていた。
宙を舞っていると感じたのは、間違いで、ゆっくりと落ちているのだった。
目の前に丸く光るトンボ球が浮いていた。
見ているうちに、それはだんだん大きくなって、翼のようなものが生え始めた。
そして、次第に人のような形に変わり、赤ちゃんに変わっていった。
最初、和美の産んだ子どもだと直感したが、顔には目も鼻も口もついていない。
なのに、泣き声だけは聞こえていた。
手を伸ばそうとしても掴めない、いや掴んでいるが素通りしてしまう。
そのうちにどんどん遠くに離れていって届かなくなった。
それでも耳元には赤ちゃんの泣き声だけが響いていた。
「私の赤ちゃん!」
そう叫ぶ自分の声で、目が覚めた。

天井が見える。自分はどこでどうなったのか、すぐには思い出せなかった。
そうだ、階段から落ちたのだった。そう思い出すと、急に和美は起き上がった。
「幸ちゃんは?幸ちゃん?幸ちゃん?」
脇を見ると、幸一が布団に寝かしつけられて、泣いていた。
抱きかかえようとしたが、腕が上がらなかった。それに、腰や背中にも痛みが走って、急に動けなくなってしまった。

すぐそばにいた、鉄三が気づいて、
「おい、和美ちゃん、大丈夫か?」
と訊いた。
「幸ちゃんをこちらに下さい。お腹が空いているようだから。」
鉄三は、幸一を抱きかかえると、和美を支えるように起き上がらせ、抱かせた。
和美は幸一を受け取ると、腕の痛みを我慢して、おっぱいを与えた。幸一はごくごくと喉を鳴らして、おっぱいを吸った。

「すみませんでした。私の不注意で、幸ちゃんを危ない目にあわせてしまって、本当にすみませんでした。」
和美は、鉄三に謝った。
「いや、幸一は怪我ひとつなかったよ。それより、和美ちゃん、疲れていたんだね。気づかなくてごめん。」
鉄三のほうが詫びた。
「ちょうど、お客さんの中にお医者様がいらしてね。すぐに診てもらったんだ。打ち身はあるが、骨や頭には異常は無いそうだ。栄養のあるものを摂って、しばらく休養するように言われたよ。」
「いえ、大丈夫です。これくらいの痛みは堪えられます。」
「それがいけないんだってさ。休める時はきちんと休まないと。お乳だって出なくなる。幸一の面倒も見られなくなるんだ。今はしばらく休んだほうがいい。」

そんな会話をしていたところに、ご主人と奥さんが部屋に入ってきた。
「おや、気がついたね。痛みはどうだい?」とご主人。
「大丈夫です。少し横になっていればすぐ良くなります。」
と答える和美に、奥さんが、
「ダメよ。お医者様からも怒られちゃったんだから。ちゃんと栄養のある物を食べて、休ませなさいって。頑張りすぎたのね。ごめんね、気がつかなくて。明日からは、店の手伝いはしなくていいから。それと、これ。お医者様がね、毎日、牛乳を飲ませなさいって。」
そう言って、瓶入り牛乳を手渡した。
「こんな高いもの、飲めません。」
「幸一が飲んでいるお乳の分を補給してもらうのよ。だから、遠慮しないで飲んで頂戴。それに、今はお客さんも半分以上は、和美ちゃんと幸一の顔を見に来るみたいなものだから、元気な笑顔を見せて欲しいの。さあ、飲んでね。」
奥さんは、心からの笑顔で和美を労わってくれた。
「ありがとうございます。」
牛乳にどれほどの栄養補給の効果があるかは定かではないが、ご主人と奥さんの労わりの心をしっかり感じて、和美は、受け取った牛乳を飲み干した。
「ああ。美味しかったです。ありがとうございます。元気になりました。」
「まあ、そんなにすぐに良くなるわけないじゃない。」
そう言いながら、皆、和美と幸一が無事だった事を喜んだ。

「そう言えば、さっき、うわ言で、『私の赤ちゃん』って言っていたようだけど・・」
と鉄三が言った。和美はさっきの悲しい夢を思い出した。
「ええ、私が宙に浮いていて、顔の・・無い・・赤ちゃんが・・近くに・・・」
そこまで言って、急に、自分が身投げした時の事を思い出し、胸が痛んだ。ぽろぽろと涙が零れた。
その様子をご主人が見ていて、
「おい、和美ちゃん、良いんだ。昔のことは思い出す事はない。今は、これからの事だけ考えよう。大丈夫、ここにいる限り、悲しいことなんて起きないから。」
と慰めた。鉄三も、
「そうだよ。今、精一杯幸せに生きようよ。幸一のためにもね。」
と続けた。

「そうそう、明日、病院に行きましょう。あなたが階段から落ちた時に診て下さった先生が、一度精密検査を受けた方が良いって言われたの。名刺を預かってね。せっかくだからね。」
そう奥さんは笑顔で言った。和美は、少し困った表情をした。その様子をご主人が見て、
「まあ、その話はまたにしよう。少し休んだほうが良い。」
そう言って、皆を部屋から出すように促して、出て行った。

和美は考えていた。奥さんの気持ちは嬉しかった。だが、町の病院に行けば、玉浦の知り合いに会うこともあるだろう、それに、素性を話す事にもなるかもしれない、そうなれば、村田屋のご主人達や銀二や直子さんにも迷惑が掛かるかもしれない・・・いろいろと不安な気持ちが湧いてきた。

和美はそっと部屋を出て、ご主人を探した。ご主人は、庭の水槽の掃除をしていた。
「あの・・すみません。」
和美は小さな声で呼びかけた。ご主人はすぐに気がついて振り返り、和美のところへ来た。
「あの、先ほどの病院のお話なんですけど・・」
「ああ、私も考えていたんだ。大木総合病院だそうだから、きっと、大勢の人に会う。玉浦の人間も来ているかもしれない。どうしたものかと思案していたところなんだがね。」
「ええ、そうなんです。皆さんにご迷惑が掛かるかも知れないと思って・・」
「いや、迷惑なんてのはいいんだが・・・・ちょっと私が院長と相談しておこうと思うから・・いや、昔からの知り合いだしな。どこまで話して良いか思案のしどころだが・・まあ、上手くいくようにしてみるから・・」
ご主人には何か思うところがあるようだった。


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