SSブログ

2-2-5.弟 [峠◇第2部]

和美が銀二に救われてここに来てから2週間ほどが過ぎていた。
漁を手伝うようになって、和美もすっかり元気になった。
食事の支度や掃除、風呂焚き等、銀二に教えられしっかりこなすようになった。
漁に行くと、銀二に言われなくても網や餌の準備もするようになっていた。ただ、港町へは行かなかった。知り合いに見つかるんじゃないかという不安も大きかった。

銀二の家は、向島の西のはずれの浜辺の漁師小屋なので、滅多に人が来る事はなかった。時折、沖を通る漁船の音がすると、見つかるんじゃないかと咄嗟に物陰に隠れる事はあったが、それ以外は、平穏な日々だった。今朝も銀二に言われたように、前の浜に広げてある流し網の綻びを教えられたとおり、一目一目修繕していた。和美は、こんな日々がずっと続くと思っていた。

昼過ぎに、銀二は、港の市場に居た。水揚げの代金を受け取りに来たのだった。
市場の競り人が銀二に声をかける。
「おい、銀ちゃん。最近、雑魚ばかり揚げてるなあ。太刀魚はどうしたい?」
「ああ?・・ちょっと調子が悪くてな。」
「今、いい値が付いてるんだから、頑張ってこいや。お前の太刀魚は絶品だからよ。」
「そうかい。じゃあ、そろそろ出てみるか。」
銀二は、和美を漁に同行させるようになって、太刀魚漁をやめていたのだった。手釣りの太刀魚漁は緊張する。大物が掛かれば、怪我をしかねないほど危険を伴うのだった。

銀二は市場の事務所に行き、代金を受け取った。競り人が言うとおり、雑魚ばかりの水揚げはたいした金にならない。一人暮らしなら何とかなるが、和美を養うには心もとない額だった。
市場を出たところで、弟の鉄三と出くわした。
「兄ちゃん!」鉄三はなんだか懐かしそうな声を出した。
「おお、元気か?」銀二は返事をした。
「それはこっちの台詞だよ。最近、ちっとも寄ってくれないじゃないか!」
「ああ、いろいろ忙しくてな。」
「兄ちゃん、もうすぐなんだよ。」
「何の事だ?」と銀二。
「いやだなあ、兄ちゃん。子供が産まれるんだよお。先週くらいから、随分、おなかの子が下がって来たって言ってね。昨日、産院に入ったんだ。そしたら、急に入院って事になったんだ。予定日はまだ一月も先なんだけどなあ。ちょっと心配だから、これから、様子を見に行くんだよ。」
鉄三は、銀二より10歳ほど年下だった。
中学を出てから、すぐ働いている。料理人になりたいといって、今は、釣り船屋の食堂で料理人の見習いのつもりで働いている。鉄三はその釣り船屋の娘と仲良くなり、子どもができたのだった。
娘は鉄三より二つほど年上だったが、子供のころから病気がちで、ほとんど家に居たので、年の近い鉄三が唯一の遊び相手でもあった。

大事に育てた娘が結婚前に妊娠したことが判って、最初はご主人と女将さんは怒り心頭で、鉄三を追い出そうとした。その時、銀二が、『俺がちゃんと鉄三を躾られなかったせいだ』と自分を責め、何度も釣り船屋に足を運んでは頭を床にこすり付けるように謝罪し、何とか収めたのだった。その若い二人にいよいよ親になる日が近づいていた。
「そうかい。なら、嫁さんに、頑張れって伝えてくれ。また、顔、見に行くから。それから、これ、前祝いだ。何かと物入りだろうしな。」
そう言って、銀二は受け取った水揚げ代金の袋から、お札を1枚抜いて、鉄三のポケットに差し込んだ。
「ありがとう、兄ちゃん。」
「何か、栄養の付くものでも買っていけ!じゃあな。」
鉄三は、町に続く向島大橋を自転車で渡って、産院へ向かって行った。途中、何度か振り返り、端の反対側にいる兄に手を振ってみせた。

銀二は、家に帰る前に、金物屋へ立ち寄った。実は、あの後、風呂を囲んでいた簾が風で飛ばされてしまって、隙間だらけになったので、和美が風呂に入る時、不安ではないかと思い、修理のために、留め金を探した。なかなか手ごろな物がないので、店主に聞いた。
「なあ、留め金はここにあるだけかい?」
その声を聞きつけて、奥から、店主が出てきた。
「なんだ、銀二じゃないか。また家の修理か?いい加減、漁師小屋は、やめちゃどうだい。」
「あそこは浜に近いから気持ち良いんだ。それより留め金はないかい?」
「何の修理だい。」
「いや、外の風呂を簾で囲っていたんだが、風で飛ばされるんで、留めちまおうかと思ってな。」
「これから、寒くなるのに簾じゃ駄目だ。裏に、戸板がある。いや、先日、家を修理した時に使わなくなったものだ。そいつを持っていって、柱に打ちつけたほうが良い。お前の所の風呂なら、8枚ほどあれば足りる。持って行け。大八車もあるから使ったら良い。代金なんか要らないさ。」
と言ってくれた。銀二は礼を言って、裏に回った。まだ新しいものだった。
「本当に良いのかい?」と重ねて訊いたら、
「ああ、構わない。どうせ捨てちまうところだったんだ。そうだ、そうだ。代金の代わりといっては何だが、帰りに、セツさんのところに寄ってくれないかい?」
「ああ、いいけど・・」
「実は、昨日、雨戸が壊れたと言って修理してほしいと頼まれたんだが、なかなか行けない。銀二、代わりに頼めないか?」
セツさんは、銀二の漁師小屋からすぐの所に住んでいた。もう80歳を超える年だが、元気に暮らしている。子どもができなかったので、ご主人を亡くしてからはずっと一人暮らしだった。家が近い事もあって、ちょくちょく顔を出していたのだった。
「ああ、いいよ。ちょうど帰りに寄ろうと思っていたところだ。」
「なら、これを持っていけ。」
渡されたのは、雨戸に取り付ける戸車だった。それを受け取り、戸板を大八車に乗せると、銀二は家に向かった。港から家までは、歩いて30分くらいだった。

「セツさん?居るかい?」と銀二がセツさんの家の前で声をかけた。
中から、「ああ、お入り。」と返事が返ってきた。
「金物屋のおやじに聞いたんだが、雨戸が壊れたって?直してやるよ。」
そう言って、セツさんの顔も見ずに、庭のほうに回った。金物屋の言うとおり、戸車が錆付いて外れていた。持ってきた新品の戸車に取り替えたら、見事に動くようになった。
「これでもう大丈夫だ。じゃあな。」
「もうできたのかい。済まなかったね。」
いつもなら、世間話でもするところだが、今日は、風呂場を直す仕事が待っている。急いで、家に向かった。

「ただいま。」
迎えの返事がなかった。家の中に入ると、和美の姿が見えなかった。少し心配になった。裏口から浜に出た。浜には、修理のために流し網が広げられていて、修理していたようだったがやはり姿は見えなかった。
「おい!和美!どこだ?」
銀二は呼んでみた。
「すみません。ここです。少し待ってください。」
風呂場のほうから、和美の声がした。しばらくして和美が浜に出てきた。
「何してたんだ?」と銀二は尋ねた。
和美は少し答えに困った。だが、思い切って話した。
「いえ、ちょっと胸が痛くて。」
「大丈夫かい?医者に行った方がいいか?」
「いえ、もう大丈夫です。実は、赤ちゃんを産んで日が経っていないので、お乳が張るんです。ここに来てからしばらくは体が弱っていたから何ともなかったみたいなんです。元気になった証拠だと思うんです。」
銀二は、そういうことはまったく無頓着だったのでどうしたものかと考え込んでしまった。
「銀二さん。心配しないで。絞れば大丈夫。見られたくなかったから、風呂場に隠れて絞っていたんです。」
「そういうことかい。」銀二は安堵した。そして、
「そうだ、風呂場の目隠しの具合が良くないから、戸板をもらってきた。今から修理するからな。これでもう誰にも覗かれやしないからな。」
そういうと、表から大八車に乗せた戸板を運び、風呂場の周りに打ちつけ始めた。その横で、和美は、網の修理をしていた。そろそろ日が傾き始めていた。
nice!(2)  コメント(0)  トラックバック(0) 

nice! 2

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。

Facebook コメント

トラックバック 0