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2-10 白き狼 [アスカケ第5部大和へ]

10. 白き狼
イコマノミコトは、葦の平原を抜けて、広瀬の丘に辿り着くことが出来た。
「何者だ!」
広瀬の里は、周囲をうろつく円の兵に神経を尖らせていて、イコマノミコトは、広瀬の里の入口で、男達に囲まれた。
イコマノミコトは、葛城王の使者としてやってきたことを告げたが、俄かには信用されず、小さな小屋に入れられ、囚われの身となってしまった。
「モリヒコ様は無事にカケル様の元へ行けたのだろうか?」
イコマノミコトは、小屋の壁にあいた小さな穴から外の様子を伺いながら、一晩を過ごした。
翌朝には、広瀬の里の長が、小屋を訪れた。イコマノミコトは依然、葛城王の元を訪れた広瀬の長と面識があり、すぐに解放された。
「済まない事をした。昨夜は、円の兵どもが里の周囲をうろついておったゆえ、若衆もいきり立っておったのだ。許してくれ。」
長は、ミコトの前に座り深々と頭を下げた。
イコマノミコトは、広瀬の里へ来た理由を告げると、長はすぐに、若衆を沼へ向かわせた。

その頃、モリヒコはカケルを背負い、葦の原を一晩中歩いたが、里に辿り着く前に疲れ果ててしまい、沼の畔で動けなくなっていた。
泥濘む足元、自分より上背のあるカケルを背負い歩き続けただけではなかった。岸辺で円の兵達を脅した時、一本の矢を足に受けてしまっていたのだった。
カケルの怪我の具合は芳しくない。僅かにあった意識さえも今はほとんどなく、身体も冷え切ってしまっている。何とかせねばならない、そう思いながらも、モリヒコ自身も傷ついている。
自らの不甲斐なさに、思わず涙が零れてくる、悔しさと情けなさでどうしようもなかった。
その時、近づく足音を感じた。
モリヒコは何とかうつ伏せになると、腰の短剣に手を掛けた。
徐々に、足跡は近づいてくる。一人ではない、数人が葦を掻き分けながら近づいてくる。
「ここだ、ここに居られるぞ!」
その声に、散らばっていた足音が一斉に向かってくるのが判った。万事休すとモリヒコが諦めた時、再び声がした。
「モリヒコ様、カケル様ですね?」
広瀬の里から来た若衆たちだった。すぐに二人は抱きかかえられ、里へ運ばれた。

無事にカケルとモリヒコが広瀬の里へ逃げ込めた事を知らせるために、イコマノミコトは、すぐに當麻の隠れ里へ戻る事にした。隠れ里へ戻る途中、焼け落ちた葛城の館の様子を見る事にしたイコマノミコトは、陣へ引き上げようとする兵達の会話を聞いた。
「本当だ!真っ白な狼がいたのだ!恐ろしき眼で・・」
「いや、あれは獣ではないぞ。物の怪の類に違いない。」
「ああ・・顔は人のようであったし・・手足も狼とは違うような・・・。」
「夕闇に紛れて襲われたんじゃ、堪らん。・・日暮れ前に陣へ戻ろう。」
「どうせ、このあたりには葛城一族は居らぬ。・・・早々に引き上げるとしよう。」
葛城川の岸辺で夕闇の浮かぶ狼の姿を見た兵たちは、仲間たちに、話して聞かせていたのだ。
「白き狼?このあたりには狼など居ないはずだが・・・」
塀の陰に隠れて話を聞いていたイコマノミコトは、兵達の話の意味が判らなかった。物の怪の類か、野犬を見間違えたのか、いずれにしても、円の兵たちが戦に疲れている事は察知できた。
イコマノミコトは、隠れ里に戻ると、カケルとモリヒコが無事広瀬の里に入った事、広瀬の里も円の兵達を警戒し戦支度が出来ている事を、葛城王やシシトに報告した。そして、円の兵たちは戦に疲れている事も告げた。
「ミコトよ。私は、大和の国、いや倭国の為、兵を挙げることにした。これ以上、豪族たちの醜い争いで民が傷つくのは避けねばならぬ。力を貸してくれるな?」
葛城王の言葉に、イコマノミコトは是非にもないと賛同した。
「いずれ、那智一族、伊勢一族も合力するはず。そなたは、大和の国の里を回り、王君へ合力するよう説得してくれぬか?」
シシトがミコトに言うと、ミコトは頷いた。そして、
「円の兵どもが、白き狼が出たと話しておりましたが、シシト様、この辺りに狼がいるのでしょうか?」と訊いた。
「はて、白き狼とは・・・初めて聞く。猪や鹿は多いが、狼などは見たことはない。もし、いるならば我らも用心せねばなるまい。」

アスカやハルヒは、イコマノミコトから、カケルとモリヒコが無事広瀬の里で養生している事を聞き、安堵した。そして、何とか広瀬の里へ行けないものかと、ミコトに相談した。
「今すぐは無理でしょう。まだ、円の兵たちがうろついています。王も兵を挙げる覚悟をされました。この辺りにいる円の兵どもを追い出す事が先決です。今しばらく、待たれたほうが良いでしょう。」
「・・・そうですか・・・。」
「それに、白い狼が出たという噂です。用心したほうが良いでしょう。」
アスカとハルヒは、顔を見合わせた。
二人とも、カケルの獣人の姿を思い浮かべていた。だが、カケルは怪我をして動けないはずだった。

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2-11 モリヒコとカケル [アスカケ第5部大和へ]

11. モリヒコとカケル
イコマノミコトは、里の若衆たちと相談していた。
「豪族たちに従っていない里を回り、我らに合力してくれる者を集めねばならない。」
「那智一族や伊勢一族が動き始めるのは、おそらく春になるだろう。それまでに、大和の里を回り、説得しよう。」
「くれぐれも、豪族たちには漏れぬようにせねばならぬな。」
皆の意思は固まった。山猟師に扮し、大和を囲む山を伝い、里の様子を探ることにした。

広瀬の里では、カケルとモリヒコが介抱されていた。カケルもモリヒコも、驚くべき速さで回復していた。数日で、傷はすっかり消え動けるようになった。
広瀬の里は、小高い丘にあり周囲には大木が立ち並んでいて、周囲からは、そこに里がある事すら容易にはわからない。丘の頂上には、物見台も作られていて、物見台の周囲には家屋が建っていた。カケルとモリヒコには、長の住まいの隣の小屋があてがわれていた。
運ばれてきた食事を取りながら、カケルは、モリヒコに言った。
「手間をかけさせてしまったな・・・済まぬ。」
「いえ・・・忍海部一族の長から、カケル様をお助けするよう命じられておりますゆえ、我が命に代えてもお救いせねばと・・ですが、不甲斐なくも、沼地で力尽きてしまい・・。」
「いや、良いのだ。・・しかし、あれだけの兵の中をどうやって私のところへ来れたのか・・。」
カケルの問いに、モリヒコは意を決したように言った。
「カケル様。以前、山中にて私とハルヒが崖を落ちた時、獣になられました。」
「ああ・・・。」
「実は・・私にも、同じ力があるのです。・・・幼き頃、掟を破り、友とともに山深く分け入り、そこで、山犬に襲われ、瀕死の大怪我をしました。一命は取り留めたものの、しばらくすると、自らも山犬のごとき姿に変わるようになりました。巫女様は、きっと、山の神の戒めであろうと申されました。」
「里の者達は、その姿を怖れたのではないか?」
「はい・・・ですから、私は皆と離れ、里と山との境に小屋を設え、一人で暮らしておりました。・・此度、カケル様が我が里の窮地をお救い下さり、何か恩返しをせねばと長から聞き、こんな恐ろしき力でも、何かのお役に立てるのではないかと思い、長に願い出た次第です。」
カケルはモリヒコの話をじっと聞いていた。
モリヒコも自らの生きる意味を問うために悩み、辛い日々を過ごしてきたはずだと、カケルは考えていた。
「戒めかどうかは判らぬが・・・その力を誤った事に使ってはならぬ。私も、自らを制している。弓矢や剣と同様、使う時を選び、人の道に外れる事になれば、それはまさしく獣。獣にならぬよう、互いに手を携えてまいろう。」
モリヒコは、痛いほどの孤独さを感じ生きてきただけに、同じ境遇のカケルの言葉に、何か、生きていくことを許されたように、未来が開けるのを感じていた。
数日後には、以前と同様に動けるようになり、広瀬の里の若衆とともに、物見台に登り周囲の様子を探ったり、里を囲む森の中から外の様子を探る手伝いを始めた。
當麻の隠れ里へ戻る事も考えたが、周囲には円の兵も多数居り、しばらくは、里を守る手伝いをすることにしたのだった。
「円の兵を追い払う策はないでしょうか?」
モリヒコが、森の中から外の様子を伺いながら、若衆に聞いた。
「策があるならとっくにやっている。・・何しろ、あいつらの大将が恐ろしい奴なのだ。カヤツヒコというらしい。一際大きな図体で、大弓を自在に操る。それと、取り巻きの大男たちも同様。」
「それほどに強いのですか?」
「ああ、一時は、円一族を凌ぐ兵を持っていた平群一族の里へ、ほんの数人で攻め込み、あっという間に制圧したのだ。もはや、平群一族は見る影もない。みな、どこかへ隠れ潜んでいる。・・あの将を倒さねば・・だが・・我らの力ではどうにもならぬのだ。」
悔しそうに若衆は言った。
「おそらく、私に矢を射たのは、その将でしょう。大弓から鋼の矢を放つほどの怪力でした。」
カケルも思い出すように言い、更に付け加えた。
「だが・・・むしろ、その将さえ倒せば、円の兵は怖れる事は無いという事でしょう。」
カケルの言葉に、若衆は驚いた。
「確かに、そうだが・・・あいつを倒すのは到底無理な事さ。」
「カヤツヒコか・・・円一族には他にもそのような者がいるのではないか?」
モリヒコが訊ねる。
「さあ・・・だが、噂では、もともとカヤツヒコは円一族ではなかったようだ。どこからか、流れてきたらしい。東国か、北国か、定かではないが・・突然現れて、平群一族との戦で名を上げたらしい。」

その夜、カケルとモリヒコは、小屋に戻ってから昼間聞いた話を思い出しながら相談した。
「カケル様。我ら二人が、獣に姿を変え、一気に襲えば奴に勝てるのではないでしょうか?」
カケルも同様の事を考えていた。しかし、カケルは、自分の意思で自在に獣人に化身することが出来なかった。化身できなければ、容易に倒せる相手とは思えなかった。
「今しばらく、考えてみよう。」

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2-12 襲撃 [アスカケ第5部大和へ]

12. 襲撃
気付かぬうちに、冬の寒さが身に沁みる季節になった。
円の兵は、葛城の里へ陣を引き、時折、見回りに出る程度で随分と大人しくなっていた。
カケルとモリヒコは、引き続き、広瀬の里に留まり、カヤツヒコを倒す策を考えながら、里の仕事も手伝っていた。

その日は、朝から、物見櫓の縄梯子の修理をしていた。
昔、父から教わった縄作りの技は、広瀬の里の者も、随分と珍しく感じたのか、若衆達はこぞってカケルから教わっていた。モリヒコは、数人の若衆と森の中へ入り、薪取りをしていた。里には、穏やかな時が流れていた。
「きゃあーー」
娘の悲鳴が里の中に響き渡った。若衆たちも驚いて、剣や弓を手に声のした方へ走った。
里のはずれの畑の方だった。若衆達が駆けつけると、そこには円の兵たちが数人居た。
カケルとモリヒコが着いた時には、すでに若衆達が兵を切り殺した後だった。
兵の亡骸を見て、モリヒコが言った。
「これほどの少数で里を襲うのは不可解ですね。それに、この兵たちは甲冑さえつけていない。本気で里を襲うつもりだったのでしょうか?」
カケルが答えるように言った。
「・・おそらく、本体が近くまで来ているに違いない。様子を見るために忍び込んだのだろう。すぐに、里の守りを固めなければいけない。」
若衆達はすぐに長のもとへ行き、カケルの言葉を伝えた。
「長様は、里をお守り下さい。女やこどもを集め、決して外に出ぬように。それから、若衆にも里の周りの守りをさせてください。」

カケルとモリヒコは、弓の達者な若衆を引き連れて、里を出て森の中からその様子を探った。案の定、カヤツヒコが率いる兵の一軍が、葦の原をまっすぐ里へ向かって進んでいた。
「里に入れてはいけない。何とか、葦の原で奴らを追い返さねば。」
カケルは、すぐさま、木に登り周囲の様子を探った。若衆達は、驚くべき速さで杉の大木を登って行くカケルを見上げていた。カケルは、するすると降りてくると、若衆に言った。
「半数は右手の高台へ、半数は左の土手へ潜み、兵達を挟み撃ちにする。私とモリヒコは、前の葦の原で、兵達をひきつける。ちょうど、目の前のあの楠木あたりにまで兵が来た時、一斉に矢を放つのだ。・・・我らの事など構わず、一心に矢を射るのです。良いですね。」
若衆達は、お互い顔を見合わせ、覚悟を決めて頷いた。
「モリヒコ、行くぞ。・・なんとしても、奴らを倒さねばならぬ。救ってもらった恩返しだ。」
モリヒコも頷き、カケルとともに、風のように一気に森を駆け抜け、葦の原に身を隠した。

カヤツヒコはゆっくりと兵を進めて来た。カヤツヒコの両脇には大男が、剣と大弓を携えて、周囲の様子を見ながら進んでくる。その周囲には、軽装の兵が剣を持ち歩いてくる。
「あの森の中に里があるのだな?」
カヤツヒコは、すぐ脇にいた兵に訊く。その兵は、先ほど切り殺された兵とともに里の様子を探る為に忍び込んだ男だった。
「はい・・杉の大木で見えませんが、中には大きな里がありました。畑もありましたから、きっとたくさん食べ物を蓄えているはずです。」
「そうか・・」
カヤツヒコはにやりとして、視線を目の前の森へ向けた。
兵の一軍が、カケルの示した楠木あたりに近づいた時だった。カケルは、弓を構え、空に向けて高く放った。放たれた矢は、ヒューンという甲高い音を上げた。そして、兵達の後ろにドスンという鈍い音を立てて突き刺さった。一軍の後方にいた兵たちが驚き、騒ぎ始めた。
カケルはすぐに、葦の原に埋もれるように低く身体を屈めて、兵達の右手に走った。そしてまた甲高い音を立てて矢を空に放った。次の矢は、カヤツヒコのすぐ脇にいた大男に突き刺さった。
「うわあー!!」
身の丈ほどある大剣を肩に乗せて、ふんぞり返って歩いていた大男は、カケルの矢に射抜かれ、バタンとその場に倒れ込んだ。それを見て、カヤツヒコの周りにいた兵達も動揺し。きょろきょろと周囲を見て蹲った。
再び、ヒューンと甲高い音が響くと、兵たちは空を見上げる。しかし、次の矢は、カケルが真っ直ぐ、カヤツヒコの脇にいた大男を狙ったものだった。
ゴツっという音は聞こえると、大男は首から血飛沫を上げて、倒れ込んだ。
「そこだ!そこにいるぞ!」
兵の一人が、カケルの姿を見つけて指差した。
「生意気な!」
残った大男が、大弓を取り出し、カケルを狙う。
カケルは、葦の原から姿を現し、右や左に飛び跳ねるようにしてかく乱する。そして、大きく跳躍すると、楠木に登った。
「ふん!」
大男は、大きな鼻息を吐くと、大弓から鋼の矢を放った。
矢はバンという大きな音を立てて楠木に命中した。
すると、楠木の太い幹が中央部からめりめりと音を立てて楠木が倒れはじめた。カケルは、木とともに地面に放り出された。そして、その上に太い楠木が倒れこんできて、カケルは楠木の下敷きになったのだった。それを見て、小兵達が一気に襲い掛かる。

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2-13 化身 [アスカケ第5部大和へ]

13. 化身
「いけない!」
モリヒコはそう小さく叫ぶと、短剣を抜き、素手で握る。痛みが走ると体がぶるぶると震えだし、白狼に化身した。
「ウオーン」
一つ吼えてから、一気に高く飛び上がり、カケルへ襲い掛かる小兵たちの前に立ちはだかった。
「白狼だ!白狼がでたぞ!」
小兵達は、剣や弓を構える。
「グルルル・・グル・・」
白狼は、小兵たちを睨みつけ、再び、一つ吼えると再び高く飛び上がり、近くに居た小兵に襲い掛かる。腕に噛み付き食いちぎる。そして次の小兵にも襲い掛かり、首を食いちぎる。真っ白な体が見る間に真っ赤な血に染まっていく。
「この・・化け物が!」
カヤツヒコは、忌々しい表情を浮かべ、脇にいた兵から弓を取り上げ、構えた。
ビュンと云う音ともに、矢は真っ直ぐに白狼へ向かって飛んだ。
「ギャン」
悲鳴のような声をあげ、白狼は転がった。矢が、後ろ足の太腿を貫通したのだった。
その時、カケルは倒れた楠木からようやく脱出したところだった。
「うおーーーー。」
カケルは剣を抜いた。剣からは鈍い光が放たれ、カケルの身を覆った。すると、カケルの身体がもりもりと大きくなる。黒髪が伸び、青く見える。
カケルが大きく剣を振ると、周囲にいた兵達は皆、ことごとく倒れ込んだ。それを見て、小兵どもは一気に逃げはじめる。すると、左右に分かれて潜んでいた若衆達が、一心に矢を放ち始めた。
小兵達は抗う事も無く、雨のように降ってくる矢に射抜かれて倒れた。

葦の原には、カヤツヒコと伴をしている大男が二人残っていた。
カケルはまっすぐカヤツヒコを睨んだ。
「・・化け物ばかりが住む里か?・・・」
カヤツヒコは、カケルを前にして、まだ余裕の笑みを浮かべていた。そして、脇にいた大男に、顎で合図すると、大男は、大剣を構えた。そして、その後ろから、カヤツヒコは弓を構える。
「三人を相手に勝てるかな?」
カヤツヒコは言う。
しばらく、カケルと大男、カヤツヒコの睨みあいとなった。

その頃、當麻の隠れ里にいる、アスカの首飾りが光り始めた。
「・・この光・・・きっと、カケル様が戦っておられる・・・。」
アスカは首飾りの光を見て、そう確信すると、首飾りを強く握り締めると空に向かって、祈った。當麻の隠れ里の中にも、首飾りから放たれた光が溢れる。隠れ里にいた者も、光に気付き、仕事の手を止め、アスカの周りに集まり始めた。
「何事だ?」
葛城王も、アスカのいる広場に現れた。様子を見ていたハルヒが言う。
「カケル様が、戦っておられるようなのです。あの首飾りはカケル様とつながっているようなのです。・・・」
里の者は誰とも無く、アスカの回りに座り込むと、天を仰いで、アスカと同じように祈り始めた。光は徐々に強くなり、空高くまで届くようになった。すると、晴天だった空に、黒雲が湧き、強い風が吹き始めたではないか。ごろごろと雷鳴まで轟くようになった。

にらみ合いを続けていたカケル達の辺りも、昼間だと云うのに一気に薄暗くなり、葦の原を強き風が吹きぬけた。徐々に徐々に風は強くなる。そして、雷鳴とともに稲光も始まった。さらに、横殴りの強い雨が降り始める。沼の水は見る見るうちに溢れはじめ、足元は泥濘、泥水が溜まり始めていた。
すでに、モリヒコは化身がとけていた。
足を貫いた矢を引き抜き、足を引きずりながらも立ち上がると、にらみ合ったままのカケルの様子を察知して、脇にあった弓を取り、矢を構えた。
「大丈夫か?」
カケルはカヤツヒコと睨みあったまま、モリヒコに声を掛けた。
「大した傷ではありません。やれます。」
「よし・・・」
カケルは、低く身を屈めると一気に高く跳びあがった。同時に、カヤツヒコが矢を放つ。その矢をカケルはさっとかわして、大男の横に付き、一振りの剣で首を刎ねた。
立ちはだかっていたもう一人の大男は、モリヒコの放った矢に射抜かれて倒れた。
そして、一人となったカヤツヒコは、大剣を抜きカケルに襲い掛かる。ガンガンと何度か、剣どうしがぶつかる鈍い音がした。
そして、カケルが一度大きく後ろへ飛び跳ねた拍子に、足を取られて転んでしまった。
そこへ、カヤツヒコが斬りかかろうとした時、左右の高台に潜んでいた若衆が一斉に矢を放った。カヤツヒコの身体は、若衆たちの放った多数の矢に射抜かれた。
ハリネズミのごとき姿になったカヤツヒコは、立ったまま往生していた。

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2-14 春の訪れ [アスカケ第5部大和へ]

14. 春の訪れ
広瀬の里の民が、カヤツヒコが率いる円の軍を倒した話は、一気に大和の里に広がった。
それまで息を殺すように生きていた里の民達が、あちこちで、豪族の兵に抗うようになった。
大和の西側の、円一族や平群一族が治めてきた地では、権勢を誇った豪族一党は蜘蛛の子を散らすように離散し、それぞれの里の長が治めるところとなっていった。
春を向かえ、葛城王は、當麻の隠れ里を出て、葛城の里へ戻り、里を立て直し始めた。
平穏を取り戻した葛城の里へ、広瀬の里から、カケルとモリヒコが戻ってきた。
建て直された、葛城の王宮の広間で、葛城王とアスカ、そしてシシトやイコマノミコトたちが、カケル達を出迎えた。
カケルとモリヒコは、玉座に座る葛城の王の前に傅いて、挨拶をした。
「大和の平和をもたらした勇者よ。礼を申す。」
威厳に満ちた葛城王の言葉に、カケルもモリヒコも深く頭を垂れた。
「さあ、顔を上げよ。勇者の面構えをしっかり見せるが良い。」
葛城王の言葉に、二人はゆっくりと顔を上げた。
「真っ直ぐな眼をしておる。そなた達こそが、これからの倭国を率いていくに違いない。」
アスカは、葛城王の玉座の隣に立ち、二人の姿を見て微笑んだ。
「我らはただ、里の民を守る為、働いただけ。これよりのち、葛城王に仕え、大和の、倭国の安寧のために尽力してまいります。」
カケルはそういうと再び深く頭を下げた。モリヒコもカケル同様に深く頭を下げた。
「そなたらがいれば、私も心強い。まあ、しばらくはゆっくり休むが良かろう。」
葛城王はそう言うと玉座から立ち上がろうとした。
「王君様、今しばらく、お待ち下さい。」
カケルが一歩前に進み出て言った。カケルは、アスカとの約束を忘れてはいなかった。
「私は、アスカ様と九重の地から大和まで参りました。それは、アスカ様の生まれた里を見つけるという約束を果たす為でした。途中、熊毛の地で、母様の事を知り、そして、この大和の地にアスカ様の父様がおいでになる事が判りました。」
「うむ・・アスカからそなたが居らねばここまで来れなかったと聞いておる。改めて礼を申す。」
カケルは顔を上げて言った。
「葛城王様、私とアスカ様との夫婦の契りをお許し下さい。」
葛城王はしばらく考えた後、隣に立っているアスカを見た。
アスカは、カケルの言葉に、ぽろぽろと涙を零していた。ヒムカの国からともに旅をし、すでに十年近い歳月が流れていた。九重を出る時、カケルが言った約束がいよいよ果たされる時が来たのだ。この時をじっと待っていた。
葛城王は、アスカの涙の深さを心に刻むように、ひとつ息を吸い込んでからゆっくりと言った。
「もはや、許すも許さぬもなかろう。アスカの涙が全てだ。・・・だが、一つだけ訊ねたい。」
カケルは真っ直ぐに葛城王の顔を見た。
「アスカは、我が皇女である。アスカと夫婦になるということは、そなたが、王位を継ぐということになるが・・。その覚悟は出来て居るか?」
カケルは、同じ事を難波津の摂津比古からも問われた事があった。
その時は漠然とそうしたものなのかと感じた程度だったが、今、葛城王を前にすると、その重みがひしひしと伝わってくるのだった。
カケルは、アスカを見た。アスカはゆっくりと頷いた。カケルは再び王を見て言った。
「私が王位を継ぐに相応しい者かどうか、それは民が定めるもの。これまでも私は私の為すべき事を探して参りました。民が望むのであれば、何も怖れる事もありません。」
「そうか・・・民が王を定めるか・・・そなたの言うとおりだ。よし、アスカと夫婦となる事を認め、そなたを我が王位を継ぐ者と宣言しよう。・・・それで良いな、アスカ。」
葛城王は、そう言うとアスカを見た。アスカは、とめどなく流れる涙でくしゃくしゃの顔をしたまま、カケルに走り寄り、抱きついた。葛城王だけでなく、周囲にいた者は皆目を細め、二人の姿を見つめた。辺りは喜びに包まれていた。
その様子に、カケルの後ろに、じっと控えていたモリヒコが突然、ハルヒに駆け寄った。
ハルヒは、どぎまぎしながらモリヒコを見つめた。
「どうしたの?」
モリヒコは紅潮した表情でハルヒの手を握った。
「私の妻になってもらえぬか?」
搾り出すようにモリヒコは言う。周囲にいた者は、「おおっ」と、どよめいた。
「ハルヒとは、難波津で会ってから日が浅い。カケル様たちのように長くともにいたわけではないが・・・広瀬の里で毎日のようにそなたを思い出していた。一刻も早くそなたに会いたいと願って居った。・・私も、この先、王君様やカケル様のお傍で働きたい。・・そして、そなたとともに生きたいのだ。・・」
モリヒコの握った手が痛かった。
周囲の者は、ハルヒがどう答えるのか固唾を呑んで見守った。ハルヒの顔は真っ赤になった。
「私も・・・ずっと・・心配しておりました・・もう会えぬのではないかと・・・。」
ハルヒは、それ以上は言葉が出なかった。
そして、ハルヒはモリヒコの胸に縋りついて泣いた。
モリヒコは強くハルヒを抱きしめた。

「若き二組の夫婦の誕生だ。今宵は、宴としましょう。」
イコマノミコトが叫んだ。

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2-15 大和の王 [アスカケ第5部大和へ]

15. 大和の王
 初夏のある日、那智一族の許へ向かった使者が、ようやく戻ってきた。
「遅くなりました・・・那智一族は葛城王への援軍を快く受けてくれました。すぐにも先陣が到着する手筈になっております。」
使者の報告を受けた、イコマノミコトが訊いた。
「伊勢の一族は如何に?」
使者は顔を曇らせて答えた。
「那智一族の合意の後、すぐにも伊勢へ向かいましたが・・東国の者たちは動けぬと口を揃えて申しておりました。」
「何故じゃ?」
シシトも不思議な顔をして聞いた。
「・・それが・・・秋には新しき王が即位されるとのお触れが回っておるようです。・・その王は、磯城宮の皇子との事・・・すでに支度も整っておる由・・・葛城王に味方する事はできぬと申しておりました。」
それを聞いていた葛城王は、ため息をつき言った。
「何とした事か・・・物部一族が動いたのであろうな。・・・王族の掟など解せずということか・・もはや、王族など不要とばかりの仕儀じゃ・・。」
「一体、どういう事なのです?王族の掟とはなんですか?」
カケルが葛城王に問う。
葛城王は、カケルの顔を見たあと、集まった者たちも同様の表情を浮かべているのに気づいた。
「・・・それには・・我が王族・・いや、この大和の王が生まれた経緯を知らねばなるまい。・・ちょうど良い機会じゃ・・我が祖の話を聞かせよう。」
葛城王はそう言うと、玉座に座り、集まった者たちを見渡した後、ゆっくりと話は始めた。

遥か昔・・大和の地の南、葛城山の麓に、猟をし、木の実を集めるささやかな暮らしをしていた一族があった。
そこへある日、峠を越えて十人ほどの若者が現れた。皆、見慣れぬ服装をし、里の者とは違う言葉を話した。峠を越えてきたからか、長く旅をしてきたからか、皆、疲れ切っており、中には重き病や怪我をしている者もあった。
葛城の里の者たちは、異様な者たちを怖れもせず、大切に介抱した。
やがて、その若者達は元気になると、里の外れに田を開き、米を作ったのだった。そして、様々な道具も作りはじめた。数年のうちに、里には米が余るほどに収穫できるようになると、囲の里も、葛城の里の様子を聞き、米作りを教わるためにやってくるようになり、わずか十年ほどで、大和の多くの里が米作りをはじめ、豊かな地へと変わったのだった。
こうして、葛城の差とは周囲の里から敬われ、その長は、大和の王と呼ばれるようになる。
王は、峠を越えてきた若者たちを重用した。
若者たちは、衛士(えじ)と呼ばれ、東国や北国へも王の名代として遣いに発ち、いよいよ倭国の王の座を固めていったのだった。
「その若者達とは何者だったのですか?」
王の話に、カケルが聞いた。
「・・言い伝えでは、海を越えてきたという。米作りだけでなく、石を削り組み上げる技や、鋼を作り出す技もあったという。・・そして、何か、文様を残すものさえもあったという。・・おそらく、韓より参った者ではなかろうか・・。」
王の説明に、カケルは、ナレの村の言い伝えを思い出していた。そして、モリヒコの里で巫女から聞いた話も思い出していたのだった。
いよいよ、倭国の王の座が見えてきた時、大和の王は不安になっていた。長には三人の男の子が居た。いずれも、長としての力を備えるほどの器ではなかった。自らが逝ったあとを憂いた王は、渡来した者に相談した。
その者たちは、海の向こうでも、王の座を廻り、兄弟が争い、殺し合いとなって滅んだ国は多い、自分達が海を越えて逃げてきたのも、そうした戦乱から逃れるためだと言った。
如何にすれば争いが起きぬようになるかと王が問うと、「神器」を作るのが良いと答えた。
神器とは、王の座を継ぐ資格を持つ事を示すもの、そして、兄弟に一つずつ持たせ、王が倒れた時、三つの神器を持ち寄り、よくよく相談して、次なる王を定めるという掟を作ったのだった。
以来、王族は常に三つの宮に別れ、王が倒れた時には、神器を持ち寄り、一番年長にある者が次なる王になるという定めを作ったのだった。大和の王は、その後は、争いもなく次なる王が定まり、さらに豊かになっていった。最初の王の教えから、渡来の者、峠を越えてくる者を重用し、新たな技・術を得て、ますます栄えた。そうしていつしか、王を凌ぐほどの財を持つ者も現れ、いつしか、三つの宮を守る一族が豪族と呼ばれるようになり、王の座を廻り、王族の掟を無視して、力の強き者が支配するような形に歪めてしまった。
此度も、先の王が倒れた時、その掟に従わず、平群一族が武力を持って次なる王を立てようとし、円一族と争いが起こったのだった。

「最初の王を支えた渡来の人たちはその後どうなったのですか?」
カケルの問いに、葛城王は顔をゆがめて言った。
「東国の一族からのつまらぬ讒言に、次の王が惑わされ、その者たちを大和から追い出してしまったのだ。・・伝承によれば、その者たちは中津国へ逃れたと聞くが・・・。」

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2-16 神器 [アスカケ第5部大和へ]

16. 神器
「豪族達の欲が招いた事だ。強き王が国を治める、その道理を見失ったが為に・・このようなことになったのじゃ。」
王の話を訊いていたシシトが呟いた。そして、続けた。
「磯城宮の皇子とは一体どのようなお方なのか。磯城宮は、皇女ばかりだったはずだが・・。」
遣いに立ったものが答えた。
「伊勢一族の話では、后の里、美濃に幼き頃に預けられた皇子があったとのことです。」
「何と不可解な事を・・・皇子があるなら宮に置いておくべきであろう。おそらく、物部一族が、何処から連れてきた、あやしき者であろう。もはや、王とは名ばかりのものにしか考えておらぬようだな。」
シシトは、悔しそうに言った。
「王を名乗る以上、神器を持っておるのであろう。・・それを示し、倭国の王と名乗るならば、致しかたない・・・。」
葛城王も同じように空しい表情を浮かべて言う。
「その神器は今どこにあるのですか?」
モリヒコが訊く。
「我が葛城宮には、神器の一つ、鏡がある。・・そして、おそらく、磯城宮は、神剣を持っているはずなのだ。・・」
「もう一つは?」
「もう一つは、勾玉である。先代の王が持っていたはずだが・・平群一族と円一族との争いが起きて以来、后がいずれかに隠したはずなのだが・・・判らぬのだ。・・・」
しばらく、その場は沈黙に包まれた。
沈黙を打ち破るようにカケルが言う。
「物部氏が磯城王を担ぎだし、倭国の王を名乗るということは、ここ、葛城の宮は目障りな存在になります。おそらく、王位宣言の前に、ここを襲うのではないでしょうか?」
シシトが答える。
「・・物部氏は東国にお触れを出したのも、きっとその為でしょう。強大な兵を抱えていますが、東国が反旗を翻せば、物部とて安気ではいられぬはず。東国を従えた事で、一気にこの地へ攻め入るでしょうな。」
「物部の兵はそれほどに強大なのですか?」
モリヒコガ尋ねる。
「物部一族だけならまだしも、おそらく、曽我一族や美濃一族も加勢するはず。そうなれば、とても太刀打ちできぬでしょう。」
シシトが首を振りながら答えた。
「葛城王様!」
カケルが、王の前に傅き、首を垂れて進言した。
「ここは、一旦、難波高津へ逃れられる事が大事かと・・・このまま、ここで戦をし、負ければ事実上、磯城王を倭国の王と認める事になります。ここは、神器を携え、難波高津へお逃げください。」
カケルの進言に、シシト以下驚きを隠せなかった。だが、冷静に考えてみても、それが一番だと思えた。シシトやイコマノミコトも、「是非にも」と進言に加わった。
王は、皆の顔を見渡してから言った。
「しかし・・・この葛城の里だけでなく、広瀬の里、當麻の里はどうなる?磯城王の下で、一層厳しい仕打ちを受ける事になるのではないか?・・それを放り出す事などできぬ。」
「われらは今までも、戦の中で生きてまいりました。さほど変わるものではありません。」
シシトが言う。続いて、イコマノミコトが言った。
「表向きは、磯城王に従った事にすれば良いのです。・・物部の兵が攻めてきた時、葛城王をこの地から追い出したのだと言い切るのです。その証を求められれば、我が命差し出しましょう。葛城王の守人を差し出せば、物部一族とてさほど無体な事はできぬでしょう。」
イコマノミコトの進言を聞き、カケルが言った。
「それはいけません。イコマノミコト様は、この後も、葛城王のお傍においでください。それよりも、我が身を物部一族に差し出してください。・・葛城王の皇女の夫である、私を差し出す事は、次なる王位争う者を差し出す事であり、おそらく、物部一族も納得するでしょう。」
「それこそ、何のための難波行きか判らぬではないか!」
葛城王は、カケルの進言に怒りを隠せなかった。
「私に考えがあります。いずれ、物部一族は、葛城王と戦をせねばならぬはず。その時には、私を人質にしたほうが良いと考えるに違いありません。そう容易く命を奪ったりせぬでしょう。」
カケルは、葛城王だけでなく、アスカにも判るように話した。
「敵の中に身を置けば、敵の弱みもわかるでしょう。いざ、戦となった時、きっと役に立てるはずです。」
アスカは、カケルの考えが良くわかった。だが、命の危険が無いわけではない。不安が高まり、その場に居られず、顔を伏せて、広間から奥の部屋へ走って出て行ってしまった。
「我らも、カケル様をお守りいたしますゆえ・・王様には一刻も早く峠を越えられるようお願いいたします。」
シシトはカケルの覚悟を受け入れて、葛城王に進言した。
「判った・・・アスカは私が説得しよう。すぐに出発の支度じゃ。」

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2-17 物部のマサラ [アスカケ第5部大和へ]

17. 物部一族の長 マサラ
葛城王は、アスカを連れ、イコマノミコトたちに守られて、峠を超えて、難波津へ向かった。
モリヒコとハルヒは、シシトたちとともに、葛城の館に残り、物部一族の出方を伺っていた。
王が出発して、1週間ほどして、磯城王が兵を挙げ葛城の宮へ向かったという話が伝わってきた。磯城宮から、大和盆地の中央に広がる沼地を多数の船に乗った兵がまっすぐ葛城川の河口へ迫る。
沼地を横切る兵の船は、先頭が河口に到着してもなお、最後尾は出航できないほどの数であった。先頭を物部一族の兵、次を蘇我一族の兵、そして最後には美濃一族の兵が続いた。

溢れかえるほどの兵は、松明を手にして、葛城の宮を完全に包囲した。
宮の正門には、錦の甲冑に身を包んだ髭面の男が立った。
物部一族の長、マサラであった。
「我らは、大和の大王、磯城王の軍である。葛城の宮、直ちに門を開かれよ!」
ゆっくりと門が開く。館に続く広場の中央には、荒縄に縛られたカケルが座っていた。両脇に、シシトが跪いて、マサラを出迎えた。
マサラはじろりと葛城の館を睨み渡したあと、カケルの前に立った。
「當麻の長、シシトでございます。葛城王は逃亡されました。」
「何?逃げたと?いずこへ?」
シシトは神妙な面持ちでゆっくりと答える。
「先年、円の軍が葛城を攻めた際、この館は焼け落ちました。葛城王は山中に逃れましたが、當麻の里にて捕らえておりました。」
「だが、逃げたと・・。」
「はい。円の軍が広瀬の里にて敗れた事はご存知でしょうな?」
「おお、かのカヤツヒコの軍をわずかな手勢で打ち破ったと聞いておる。」
「その者、葛城王の皇女の夫、ここに居る者でございます。」
「ほう・・その方が、カヤツヒコを倒したのか。・・・だが、ここに囚われておるが・・。」
「葛城王を捕らえた我らと、取引をいたしました。葛城王を解き放つ代わりに、この者を人質にしたのでございます。・・怖ろしき力を持つ者を人質に出来れば、我らとて無用な戦いをせずに済みまする。」
それを聞いて、マサラが言った。
「なんと、自らの命を差し出して、王を助けよと言ったというのか?・・なんと愚かな。葛城の王など、倭国を治める資質もない小心者じゃ。そなたも不憫なことじゃ。だが、シシトよ。その者をどうするつもりじゃ?」
「はい・・この先、磯城王様が倭国を治めるには、やはり葛城の宮との戦は避けられぬでしょう。その際、この者を人質にすれば好都合かと・・我ら當麻一族は、この者をマサラ様に引き渡しましょう。」
「ほう、それは殊勝な心がけじゃな。よし、その者、貰い受けよう。」
マサラは手下の兵に指図して、縄に縛られたカケルを引っ立てて、小さな檻の中へ押し込んだ。そして、広場の真ん中へ晒し者のように置いた。
館を取り巻いていた兵達は、開いた門から次々に入り込み、屋敷中に広がり座り込んだ。
シシトは、マサラを館の広間へ案内した。
「この館は、まだ新しき様だが・・。」
「はい、焼け落ちた屋敷跡に新しき館を作りました。磯城王が即位されると聞き、この地をぜひ磯城王の離宮にしていただければと考えました。」
「なんと、そなた、忠誠を誓う術を心得ておるようじゃな。良かろう、この地は磯城王の離宮とし、我が一族が使わせてもらうとしよう。」
マサラの物言いは、まるで自らが王であるかのようであった。
その夜、広間の奥の部屋には、マサラとともに、曽我一族の長、カラコが居た。
「マサラ様、ご用心されたほうが良いかと。・・當麻一族は古くから葛城の宮を守っておりました。此度の事には何か裏があるに違い在りません。」
カラコは、部屋の隅に座り、俯いたまま言った。
「ふん、そのような事は百も承知じゃ。當麻のシシトは、葛城王を匿っておった。我が軍が攻め入ると知り、葛城王を難波津へ逃したのであろう。」
「では、いっそ成敗されれば宜しいかと・・。」
「それは容易い事だが・・・當麻だけでは済まぬ。広瀬も、平群も、いや、大和の里全てを成敗せねばならぬ事になろう。さすれば、磯城王は大和を滅ぼす悪しき王と末代までのそしりを受けるやも知れる。今は、まず、王への忠誠を広げ、大和の地を完全に手中にする事が肝要なのだ。」
「しかし・・・」
「カラコよ、そなたはやはり小さき男じゃな・・・蘇我一族が栄えぬのはそなたの器量の小ささゆえじゃ。もう良い、下がれ。」
カラコは、苦々しい表情を浮かべ部屋を出た。
蘇我一族は、元々、先の王君、庵戸(いわと)の宮を支える第一の豪族であり、北国に通じ多くの里を従えていた。しかし、王君は、権勢を誇る蘇我一族が疎ましくなり、平群一族と円一族を重用し、曽我氏を遠ざけたのであった。王君崩御の際に、蘇我一族は離反し、物部一族に味方したのであった。以来、蘇我一族は豪族でありながらも、物部一族の臣下のごとき扱いを受けていた。
物部の軍は数日、葛城の館に留まった後、磯城王即位のために宮へ戻って行った。

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2-18 難波津宮 [アスカケ第5部大和へ]

18. 難波津の宮
 物部の軍が到着する前に、峠を越えた葛城王一行は、三日の後に、難波津へ到着した。
難波津では、王の到着を聞き、摂津比古たちが、堀江の庄で、王を迎えた。
水路作りを始めた場所には、西の難波津の港を越えるほどの大きな里が出来ていて、堀江の庄と呼ばれていた。水路はほぼ完成し、水門を開くだけとなっていた。工事を仕切ってきたソラヒコは、堀江の庄の長となり、摂津比古を支える大きな存在となっていた。ソラヒコは、カケルの帰還を待っていた。水路の完成をカケルとともに喜びたいと、心待ちにしていたのだった。
葛城王一行は、堀江の庄の大屋根に入り、摂津比古たちと対面した。
「遠路、お疲れでしょう。」
摂津比古の出迎えの言葉に、葛城王は笑顔で答えた。
「そなたが遣わしてくれたカケルが我が命を救ってくれたのだ。礼を申す。」
そして、アスカが、大和での経緯を皆に話して聞かせた。
一通り聞いた後、摂津比古が訊く。
「葛城王様、この後、如何されますか?」
葛城王は強い決意とともに。きっぱりと言った。
「物部一族の思い通りにはさせぬ。いつか、大和の地を・・いや、倭国の王として正しき世を取り戻さねば成らぬ。」
それを聞いて、摂津比古は進言した。
「葛城王様。すでに、西国は一つにまとまっております。すべては、カケル様のお力。そのカケル様が囚われ身と聞けば、西国すべてが、ともに戦う事を誓うでしょう。」
それを聞いたアスカも言った。
「西国だけではありませぬ。伊予国も、そして、九重の邪馬台国も我らに味方するはずです。」
それを聞いて、改めて、葛城王はカケルの大きさを知らされた。
葛城王に同行し、難波津に入ったイコマノミコトが言う。
「ならば、戦を仕掛けるのですか?」
摂津比古は、それに答えて、
「いや、戦を仕掛けるのは我らではない。いずれ、物部一族が軍を率いてここへ来るはずだ。それよりも、今為すべきは、葛城王こそ、倭国の王であると宣下する事。西国のみならず、中津国や北国、そして、東国にも知らしめることであろう。そして、都をこの難波津に定めるとしては如何でしょう。」
「難波津を都と定めるか・・・だが、皇祖より、倭国の都は大和の地であったのだ。そんな事が許されるであろうか?」
葛城王は摂津比古の進言に戸惑っていた。
「いえ、ここを都と定めるは一時の事。悪しき物部一族により、王が大和から追放されたとなれば、悪しき者が磯城宮であると示せまする。」
「時はない。すでに磯城王の即位の知らせは、東国に伝わっておる。」
摂津比古は、すぐに、難波角港にいる西国の船に全てを知らせた。港の船はすぐに西国の里へ向けて出発したのだった。中津国や北国へ向けての遣いは、山背の国を頼る事にした。予てから懇意にし、草香江の水害にともに苦労をしてきた国である。
「山背の国への遣い、私が引き受けましょう。」
名乗り出たのは、イコマノミコトであった。もともと、生駒の里の生まれゆえに、イコマノミコトと名乗っていた。本当の名は、イズルといった。
「我が里へ戻り、山背、北国へ葛城王こそが大和の王君であると知らせましょう。その後に、中津国へ出向き、合力をお願いしてみましょう。」
すぐに、イコマノミコトは出立した。

こうして、西国を治める葛城王と、東国や北国を支配する磯城王、二つの王が生まれる事となったのである。

すぐに、難波津の里は、都と呼ぶにふさわしいように造営される事となった。水路作りを追えたソラヒコは、すぐに堀江の庄と難波津を繋ぐ大路を開いた。
「摂津比古様、水路の門を開きましょう。・・カケル様の帰還を待って完成させるつもりでしたが、都を作るには、草香江の水を抑えねばなりません。きっとカケル様もそうお考えのはずです。」
摂津比古は承諾した。
開門の儀式には、葛城王が立った。
王の力で、難波津が、いや、民の暮らしが大きく変わるはずである。ここにいる、葛城の王の力を広く知らしめる為の儀式でもあった。
葛城王が大きく斧を振り下ろし、水門の口を切る。
高く積まれた土嚢が、草香江に溜まった水の力に一気に崩される。ゴウーという音とともに、水路を越えるほどの水が流れ始める。水路作りに携わったずべての者が、水路の縁に立ち、水の流れを固唾を呑んで見守った。轟音は堀江の庄に響き渡る。どんどんどんどん流れていく。
流れの後ろを、葛城王、摂津比古、アスカ、ソラヒコを乗せた船が流れていく。皆、目の前を水が流れ、王が目の前を過ぎると、歓喜の声を上げた。
水の流れに乗った船がどんどん下っていく。そして、目の前に、大海が見えた。
「カケル様、完成しました・・・ようやく完成しました。・・・。」
ソラヒコは、あたりを構わず、声を上げて泣いた。
歓声を上げていた者に目にも喜びの涙が流れていた。

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2-19 磯城宮の牢獄 [アスカケ第5部大和へ]

19. 磯城宮の牢獄
磯城宮では、即位式を行なうための支度が進んでいた。すでに、東国の里へは、即位式を行なう新しい御殿建設の役務が発せられ、多くの人夫が集められ、完成間近となっていた。
カケルは、葛城宮から荒縄に縛られたまま、船で磯城宮へ移送され、宮殿の地下の牢獄に入れられた。牢獄には幾つか部屋があり、カケルの他にも何人か投獄されていた。何人かまとめて入れられた大部屋もあったが、カケルの入れられた小部屋も他に幾つかあった。そうした小部屋には、番人が一人ずつ置かれていて、身の回りの世話をしている様子もある。カケルの部屋にも、女人が一人付けられていた。着衣はみすぼらしいものだったが、背を正して座る姿には気品が感じられ、おそらく、元は高貴な位にあったものではないかと伺わせた。昼と夜の二度、食事が運ばれ、着衣も数日に一回は交換された。その度に、女人が部屋へ入り、食事や更衣の手伝いをするのだった。
カケルが牢に入れられて二日ほど経った頃、マサラが顔を見せた。
マサラの後ろには、衛士らしき男が錦の衣を来た子どもを取り巻いていた。
「磯城皇のお出ましである。神妙にせよ!」
マサラが牢獄に響き渡る声を発した。錦の衣を纏った子どもは、磯城皇であった。まだ幼く、自らが何をしているのかさえ判らぬほどであった。磯城皇は、取り囲む衛士の間から見える、牢の中を覗きこみ、黙って座り込む罪人を怖がっている。
「この者達は、皆、罪を犯したゆえにここへ入れられておるのです。」
マサラは、王の前に跪く事も無く、見下ろすように言った。磯城皇はただ頷くばかりだった。
しばらく、様子を見た後、磯城皇はこれ以上ここに居たくないという表情を浮かべたので、マサラは王を抱きかかえ、階上へ上がっていった。
「ふん・・王とは名ばかり・・・マサラの思いのままじゃな。」
カケルの向かいの部屋から声がした。薄暗い部屋の一番奥に、横になった男がいた。男は、ごろりと身を動かすと、カケルに視線を向けた。
「お前は何ゆえ投獄されたのだ?」
カケルは何と答えるべきか考えた。相手の素性も判らぬままでは安易に素性を明かすことは出来なかった。
「まあ、良いさ。・・わしの名は、ヒビキ。・・平群の長であった。」
「平群の長様が、何故このようなところへ・・。」
「・・円一族との戦の事は知っておるか?」
「はい・・・カヤツヒコなる者に平群一族は敗れ、皆、離散したと聞いております。」
「ああ、そうだ。我らは敗走し、蘇我一族を頼った。元は同じ皇に仕えていたからな。しかし、蘇我一族は、我らを捕らえ物部へ引き渡した。多くの者は命を奪われた。そして、わしはここへ投げ込まれたのだ。」
ヒビキの話を聞き、カケルは自らの素性を明かすことにした。
「私はカケルと申します。葛城王のもとに居りました。我が妻は、王の皇女です。」
「なんと・・葛城王に皇女が居られたのか・・その上、そなたが夫。ならば、葛城の皇子ではないか。何故、ここにいる。・・いや・・葛城王はすでに物部に討たれてしまわれたのか・・。」
「いえ。葛城王は難波津へ逃れて居られます。物部一族の邪な所業を許すことはできません。一旦、難波津へ逃れ機を待っておられるのです。」
「そうか・・・だが、何故、そなたは捕らえられたのだ?」
「里の民を守る為、我が身を物部に差し出せば、里の者は赦されるだろうと考えました。」
「なんと、我が身を犠牲にしたというのか。」
ヒビキは身を起こし、まっすぐカケルに向き、先ほどとは違う神妙な面持ちで話をした。
「円一族はどうした?」
「円一族の将、カヤツヒコは広瀬の里にて討ち果たした後、離散しました。すでに大和の西の里は平穏に戻りました。」
「カヤツヒコが敗れたというのか?・・あれほどの男が・・・そなたが倒したのか?」
「いえ・・私だけではありません。広瀬の若衆たちと力を合わせて・・。」
「そうか・・・やはり、葛城王のお力は大きかったか・・・ならば、もっと早く立たれておれば、このような事にはならずに済んだはず・・・我らとて・・。」
ヒビキは床を叩いて嘆いた。それを見てカケルは不思議に思い、訊いた。
「・・平群一族が武力を持って次なる王を立てようと動かれたと聞きましたが・・違うのですか?」
カケルの問いに、ヒビキは顔を真っ赤にして怒りを露にした。
「違う。我らは、葛城王こそが次なる王になるお方と考えていた。だが、円一族が先の皇君の后とともに、何やら画策を始めたと聞き、何としても止めねばならぬと蜂起しただけじゃ。」
カケルは、ヒビキの話から、どうやら円一族と平群一族の戦は、別の謀の末に起きたものだと思った。そして、互いに戦う事で得をするのは、物部以外になく、もしかすると、カヤツヒコも、物部が送り込んだ将ではなかったのかと思い、尋ねた。
「円一族の画策とは確かなのですか?」
「・・カヤツヒコが我らに攻め入ってきたのが何よりの証拠であろう・・・。」
「円一族の長様とはお会いにはなられなかったのですか?」
「・・ああ・・我らが、一旦、円一族の館へ攻め入った時には、すでに逃げたあとであった。皇后とともにどこかへ隠れたに違いない。」
カヤツヒコの軍は、葛城の館周辺にうろついていたが、円一族の本隊を見たことはなく、カヤツヒコを倒した後も、円の兵はどこにも現れなかった。
やはり、円一族の画策などなかったのではないかとカケルは考えていた。
その時、牢獄へ降りてくる足音が聞こえた。

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2-20 蘇我のカラコ [アスカケ第5部大和へ]

20. 蘇我のカラコ
その足音はゆっくりと階段を下りてきた。
薄暗い牢獄の通路を、松明を掲げてゆっくりと入ってくる。影がゆれている。
そして、ヒビキの牢を覗き込んで、ふんと笑ったような表情を見せた。そして、くるりと振り返ると、カケルの牢を覗き込んだ。
「何を企んでおる?」
声の主は、蘇我一族の長カラコであった。禿げ上がった額にしゃくれたあご、細い目をしていていかにも狡猾な男に見えた。
「何を企もうと、磯城王即位の後には、お前は生け贄とされる。・・お前など人質にせずとも、磯城王の軍がすぐにも難波津を攻め落とすだけ。・・愚かな事だ。」
それを聞いていた、ヒビキが怒鳴った。
「お主こそ、いつか、王族の怒りを買い、惨い死に方をするに違いない!」
その声にカラコはくるりと身を変え、ヒビキを見た。
「相変わらず、血の気の多い事よ。・・何かの役に立つだろうと、命だけは取らずにおいたものを・・そのような態度では、明日にも命を奪われようぞ!」
そう吐き捨てるように言うと、再び階段を登って行った。
「あれは?」
「ああ、あやつが蘇我のカラコじゃ。元は、先の皇君を支えておったのだが・・あの風貌と狡猾さを后様が嫌われて、皇君も次第に疎まれるようになったのだ。皇君がなくなられると、やつはすぐに物部に味方し、磯城王に取り入った。お陰で、蘇我一族は安泰なのだ。」
「さきほど、ヒビキ様は、円一族に追われ、蘇我一族を頼ったと仰せになりましたが・・・・」
「ああ・・わが里からすぐのところに、蘇我一族の里はあったゆえ・・。」
「そこまでは、円一族は迫らなかったのですか?」
「ああ・・不思議な事に、蘇我一族の里へ向かう時は、カヤツヒコも追ってはこなかったな。・・それが何か?」
「いえ、私は広瀬の里でカヤツヒコと戦いました。尋常ではない強さでした。多くの兵を失ってもまだ立ち向かってこようとしておりました。みすみす、目の前を逃げる敵を見過ごすなど、少し不思議で・・。」
「確かにそうだが・・・。蘇我一族も多くの兵を持っておる。一気に攻め入るほど愚かではなかったのではないか?」
カケルの頭の中には、どうにも不可解なものが残っていた。
「いずれにせよ。円一族との戦では、蘇我一族はまったく動かなかった。おそらく、物部のマサラに何か含められていたのであろう。結局、物部に従い、領地も財も安堵され得をしたのだからな。じゃが、磯城王の前では、物部の臣下のごとく扱われ、悔しい思いをして居るに違いない。強大な蘇我一族の長であるにも関わらず、哀れなものだ。」
カケルは、豪族達の争いの構図に今ひとつ何か隠れているような気がしていたが、本当のところは分からなかった。だが、すべてが、我が身の得だけしか考えていないことも判った。空しくてならなかった。
倭国の王を支える臣下が皆愚かな考えしか持たぬようでは、民はこれより先も辛い暮らしを強いられるだけだと思えてならなかった。こうした者達を一掃し、民が救われる世を作らねばならない、カケルは強く心に決めた。

カラコは、牢獄から引き上げると、宮の外れに設えた自らの屋敷に戻った。そこには、蘇我一族の将たちが集まっていた。
「カラコ様、我らはいつまでここに留まるのですか。」
控えていた将の一人が訊く。
「今しばらくじゃ。」
「しかし・・・。」
「まあ、ここまでは我らの計画通りに進んでおる。円も平群もすでに無いのだ。あと一息だ。ここで焦っては水の泡じゃ。」
控えていた将たちは、どうにか納得している様子だった。
「磯城王即位が終われば、マサラはおそらく葛城王を倒す為に兵を挙げる。戦が始まれば、機会はいくらでもある。今しばらく時を待つのじゃ。」
「しかし、里では皆いきり立っております。物部の臣下に成り下がったと、周囲の里の長どもも、我ら一族を見下すような振る舞いもしておりまする。」
チッとカラコは舌打ちした。
「ところで・・あの御方はいかがじゃ。息災にされておるか?」
先ほどの将が答えた。
「はい。宝来の里にてお過ごしいただいております。」
「磯城王の即位の話はもうご存知か?」
「いえ・・できるだけ、外の者と会わぬようにしておりますゆえ・・・もし、知られれば、激怒されるに違いありません。」
「そうか・・しかし、そのままにはできぬな。・・明日にも、顔を出してくるか。」
「それが宜しいでしょう。」
「例のものの在り処は、まだお話下さらぬのか?」
「はい・・・もしや、ご存じないのやも知れませぬ。」
「それでは、意味が無い。何としても聞きだし、我らの手にせねば。・・・北国の皇子はまだ着かぬのか?」
「もう出立し、数日でお着きになられるでしょう。」
「そうか・・・すぐにも、庵戸(いわと)の宮へお入りいただくぞ、抜かりなきようにな。」

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2-21 マサラ挙兵 [アスカケ第5部大和へ]

21. マサラの挙兵
磯城王の即位式は近づいていた。
東国や北国の長達が、貢物とともに都に集まってきていた。物部のマサラは、玉座の隣に同じほど豪華な座を作らせ、広間で、各地の里の長を出迎えた。
まだ、幼き磯城王は、挨拶に訪れる長の言葉など理解できるはずもなく、ただ座り、じっとしている。長の言葉の後には、必ず、マサラが言う。
「遠路ご苦労であった。この後も大いに励むが良い。」
それは、まさに、王が発すべき言葉であった。
「マサラ様、一大事でございます。」
北国から来た長の一人が、挨拶の前に言った。
「如何したのだ?」
「はい、難波津におわす、葛城の王君が、倭国の王であると宣下されましてございます。すでに、即位式を行い、都を難波津に定めるとのことでございます。すでに西国は、葛城王を倭国の王と認め、都作りを始めたようです。・・磯城王の即位は如何なリましょうや。」
その言葉に、マサラの顔は見る見るうちに真っ赤になった。
すっくと立ち上がり、脇に置かれた剣を抜くと、難波津の動きを教えた男をその場で切り捨てた。
「きゃああーっ!」
広間に居た女人達が目の前の惨劇に悲鳴を上げる。続いて挨拶するために列を成していた東国の長たちも驚き、一斉に広間から逃げ出していた。
幼き磯城王も目の間に真っ赤な血しぶきを上げて倒れた長の怖ろしき表情に驚き、大声を上げて泣き始めた。すぐに、女人が磯城王を抱え、奥の部屋に入っていった。
「うううぬ。葛城王め、謀りおって・・・神妙に隠れておれば良いものを・・・こうなれば、難波津へ全ての兵を送り、一気に攻め滅ぼしてくれる。・・おい、大戦(おおいくさ)の支度じゃ!」
マサラの怒りは凄まじかった。その日のうちに、戦支度が始められた。

「先陣は私が務めましょう。」
戦支度の最中、マサラの子、イロヤが申し出た。
まだ若き将である。葛城の里を攻めた時、先陣を任されたが、戦は起きず、この時とばかり申し出た。戦の経験は浅かったが、マサラはたいそう可愛がり、「我が息子には戦の才がある」と臣下にも自慢するほどであった。実際には、ただ血気盛んで、少し弓の腕が立つ程度であったが、マサラの手前、臣下もただ認めるだけであった。

息子の申し出に、マサラは目を細めて喜んだ。
「良かろう。どうせ、難波津には大した兵など居らぬ。一気に攻め入れば、片の付く話じゃ。・・よし、我ら本隊は、大和川を船で下り、草香江の海から難波津に迫るゆえ、その方は、峠を越え、一気に攻め入るが良かろう。おそらく我らが到着する前に戦が終わるであろう。」
有り余る財力を武器に、東国や北国からも兵を集め、物部のマサラ率いる兵の数は、万を超えていると思われた。
翌日には、イロヤが百名ほどの兵を引き連れ、峠を越えて難波津へ向かった。
難波津攻めの人質として囚われているカケルは、そのまま、宮殿に残された。人質を連れて行くべきと進言する臣下もいたのだが、「葛城王の軍など駆け引きなしでも勝てる」とマサラは聞き入れず、そのままにされた。

蘇我のカラコは、物部が挙兵した事を庵戸宮で聞いた。
「終に動いたか!」
カラコは、僅かな手勢とともに、大和川を下る船に乗る寸前のマサラと面会した。
「我らも兵に加わりまする。」
カラコの申し出に、マサラは苦々しい表情で聞いた。
「遅いぞ!カラコ!もとはと言えば、お前の失態。カヤツヒコを円一族に送り込み、戦を起こしたにもかかわらず、葛城王を逃し、神器すら奪えず、此度も戦に遅れるとは・・よくも顔を出せたものよ。」
「申し訳ございません。・・今一度、我らに働く機会をお与え下さい。先陣を務め、難波津を攻め落としまする。」
「先陣は、わが子イロヤが務めておる。すでに、難波津へ向かったぞ。もう良い、わずかな手勢しか居らぬようじゃな。まあ良かろう、我らの後ろについて来い。役には立たぬだろうがの。」
マサラはそう言い、薄ら笑いを浮かべて、カラコを見下した。カラコはじっと下を向き、胸の中に湧き上がる怒りを抑えていた。
「さあ、出発じゃ!葛城王の首を取ったものには褒美を遣わそう!」
物部の兵を乗せた船は、大和川をゆっくりと下って行った。
カラコは、立ち上がると、大和川を下っていくマサラの船を見送りながら、にやりと笑った。

「マサラが兵を挙げ、難波津へ攻め入るようじゃ。万の兵じゃ、あれでは葛城王もすぐに倒れれるに違いない。」
マサラ挙兵の話は、牢の中のカケル達も知るところとなった。
「こんな所に居ては何もできぬ。ここから出なければ。」
カケルは焦っていた。
いよいよ難波津の大戦が始まろうとしていた。

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3-1 物部のイロヤ [アスカケ第5部大和へ]

1. 物部のイロヤ
物部のイロヤ率いる軍は、穴虫峠を越えて真っ直ぐに難波津を目指した。峠を下ると、草香江の湿原に踏み入れる事になり、やや南下して兵は進んだ。二日ほどで、イロヤは堀江の庄が見える辺りにまで達していた。
「イロヤ様、この辺りには長居は無用と存じます。」
「如何した。」
「草陰あたりに・・あの茂みの辺りに・・やや・・居ましたぞ。・・あ奴らは、不治の病に罹りし者。おそらく、難波津から放り出された者たちにございます。・・病が及ぶやも知れませぬぞ。」
兵の一人が言うとおり、イロヤの軍の周囲には、かつて、『念じ者』と呼ばれた男たちらしき者が草陰に隠れていた。黄色い布で全身を覆い、手足を曲げ、よたよたと歩いている。
イロヤは薄気味悪さを感じて、急いで軍を進めた。その先には、堀江の庄まで、ただ草だけが生える平原が続いていた。
日暮れが近づいている。
「今宵はここにて野宿だな。」
周囲には立ち木一つなく、遠くに堀江の庄の館の明かりが見える。イロヤは軍をここに留め、野営することにした。平原の真ん中である。身を隠す事等不要といわんばかりに、兵達はあちらこちらに焚き火を作った。

難波津の宮には、すでに、物部の兵達が向かっているという知らせが届いていた。草叢にいた者達は念じ者ではなく、ソラヒコが出した斥候(ものみ)であった。
「摂津比古様、物部のイロヤが率いる軍が、堀江の庄の先に陣を張りました。」
斥候から知らせを受けたソラヒコは、新しく造営された宮殿の広間に行き、様子を報告した。
「どれほどの頭数だ?」
葛城王とともに、広間に居た摂津比古が訊いた。
「百人ほどでございます。」
「では、本隊はまだ到着しておらぬのだな。」
「はい・・しかし、我らも備えをせねばなりません。」
「何か、策はあるのか?」
摂津比古の問いに、ソラヒコが答える。
「忍海部のレン様が、今、手筈を整えておられます。」
「そうか・・・くれぐれも、無理はせぬよう。」
葛城王のもとには、即位の宣下とともに、西国から多くの長が祝いの挨拶に訪れていた。
宣下は、難波津の港にいた船を通じ、西国に伝えられた。葛城王が即位した知らせとともに、カケルが物部に囚われている事もすべて伝わり、明石や伊予、そしてアナトの国からもかけるのみを案じた者達が集っていた。そして、それぞれにカケルに受けた恩に報いたいと考えているのだった。忍海部一族は、知らせとともに、レンをはじめ十人ほどの男達が来て、先に、水路作りを手伝った者と合流して、葛城王の身を守る衛士(えじ)となっていた。
長く隠れ暮らしてきた想いが、元<念じ者>のソラヒコたちとも分かり合えたのか、この度も、ともに動いていたのだった。

レンたちは、夜陰に紛れて、水路を渡り、イロヤの兵達が休んでいる平原を取り囲んだ。そして、イロヤの兵をぐるりと囲むように、刈った草を積み上げた。
朝日が平原に射し始め、イロヤの兵が一人、また一人と起き上がり始めた時だった。
「よし、やれ!」
レンの号令で、兵を取り囲んだ刈り草の山に火が放たれた。白い煙が幾筋も上がった。そして徐々に赤い炎が空に向けて立ち上がる。兵達は煙の臭いに驚いた。そして、周囲が全て煙に包まれていくのを見てうろたえた。
「どうした事だ!」
イロヤも慌てている。装束を纏い、立ち上がると、火が徐々に迫ってくるのが判った。どちらに逃げてよいのか判らぬ。引き返そうにも、煙に撒かれて身動きが取れない。そのうち、煙の中から声がした。
「こっちだ!」
その声に、うろたえた兵達は一気に動いた。そして、声のするほうへ一目散に走り出す。イロヤも同様であった。確かに、声のするほうには炎が見えない。煙も薄くなっていくように感じられた。とにかく一目散に進む。すると、目の前に大きな川の流れが広がった。いや、川ではない。ソラヒコ達が作った巨大な水路であった。ごうごうと音を立てて流れる水路を目の前に立ち竦む。
ふと顔を上げると、水路の対岸には、里があった。
「あれは?」
「きっとあれは難波津・・。」
そう言ったときだった。何処からか矢羽が飛んできた。
目を凝らすと、水路の淵に止めた船に、弓を構えた多数の男達が並んでいる。その背後、堀江の庄の岸辺にも多くの男達が立っていた。
矢を避けようにも、背の低い草が生えている程度の砂地である。反撃しようにも、逃げ出すのに精一杯で、大した武器も持っていなかった。
さらに、後ろからは火の手が迫ってきた。兵達は、逃げ場所を見失い、水路に身を投げる者もいて、水路の激しい流れに揉まれて命を落とした。躊躇している間はない。背後からは炎、正面からは矢羽の挟み撃ちで、イロヤの軍は為すすべなく敗れた。
イロヤは、レンの放った矢に射抜かれ絶命した。

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3-2 マサラの誤算 [アスカケ第5部大和へ]

2.マサラの誤算
息子イロヤの敗死など露も知らず、マサラ率いる万の大軍は、大和川をゆっくりと船で下り、草香江の海に入ったところだった。波一つ無い穏やかな内海を、兵を乗せた船は滑るように進んでいた。
「御館様、これ以上は進めません。」
船頭の一人が申し訳無さそうに言う。
「如何したのだ?」
マサラは、まるで船旅でもしているかのようにのんびりした口調で言った。
「船底が付いて、これ以上は進めません。草香江の水位が下がっております。」
大和から来た者の誰一人、堀江の水路が完成していたことは知らなかった。
目の前には、干潟が広がっている。目指す難波津はまだ先である。以前は、水位も高く、難波津の館のすぐ北側の岸辺にまで船は着けられた。そこまで船が進めば、館を攻めるのは容易な事だった。一万もの大軍で、包囲し取りかかれば、容易に館を攻め落とす事は出来ただろう。しかし、今は、春か遠くまで干潟は広がっている。難波津の館へ取り付くには、膝ほどまで埋まる干潟を歩いて進む以外ない。いや、進めるかどうかさえ定かではない。
「何とした事か!」
マサラは、船を一旦北へ進め、草香江の湿原が広がる辺りまで進めさせた。それでも、岸辺へ上がるにはかなり湿原を歩かねばならない。止む無く、大和川が草香江に注ぎ込むところまで戻る事にした。すぐ北には山背の国が広がる。
山背の国には、敵対する豪族、大伴一族の里がある。余りに近づき刺激すると、背後から攻められることになる。一万の軍といえども、前後から攻められれば耐え切れない。マサラは、軍をゆっくりと大和川の河口に戻し、そこから生駒山の裾野を通り、難波津へ向かうほかなかった。
生駒山には、イコマノミコトの里があり、すでに、ミコトが兵を挙げる支度をしていた。
さらに、イコマノミコトは、葛城王の使いとして、山背の国にも通じており、物部の軍の動きは大和川を下るおびただしい数の船の様子から、承知していたのだった。
こうして、物部のマサラ率いる大軍は、難波津を目指しながらも、葛城王の軍の包囲網の中へ無防備に突き進んでいたのだった。
「御館様、なにやら様子がおかしいようです。」
供をしている将の一人が呟くように言う。
「何がおかしいのだ?」
「いえ・・静か過ぎるようなのです。・・ここらには生駒一族が潜んでいてもおかしくない、いえ、人が暮す里が幾つかあるはずなのです。しかし、誰一人いません。」
「ふん、我が軍に恐れをなし、どこかに隠れて居るのだろう。これほどの大軍なのだ、無闇に手出しするほど愚かではあるまい。」
生駒一族は、山の上から難波津へ向けて進む、マサラの軍をじっと見つめていた。
「堀江の庄に着くまでに、少し軍を乱しておかねばならぬな。」
高い木の梢に登り、軍の行方を目で追いながら、イコマノミコトは呟いた。するすると木を降りると、山背の国へ使者を送った。そして、小船を仕立てて、難波津へも使いを送った。
マサラの軍が、大和川の河口から姿を消した頃、山背の国から大伴一族が大軍を率いて、大和川の河口へ陣を張った。乗り捨てられたマサラの船はすべて大伴一族が奪った。これで、マサラ一族は退路を絶たれたのだった。
イコマノミコトからの使いが着くと、難波津宮では、西国の将や長達が、堀江の庄へ集結した。
その数は、万とまではいかないものの、水路の岸辺に並びきらぬほどになっていた。皆、兵の格好はしていない。桟橋で働く人夫と同様の格好をして、水路に繋いだ船の周囲で、マサラの軍を待ち構えていた。
「カケル様は、人質になって戻られているのか?」
集まった男たちの間では、カケルの身を案じる会話が絶えない。
「イコマノミコト殿からは、カケル様の姿はなかったとの事だ。」
「では、カケル様は何処に居られる?」
「もしや、すでに命を奪われては居られぬだろうな?」
「いや、きっと大丈夫だ。カケル様はきっと戻ってこられる。」
男達の間だけでなく、一番不安を抱えていたのはアスカだった。アスカは、イコマノミコトの使いを話を聞き、摂津比古たちが止めるのも聞かず、堀江の庄にやってきていた。アスカは、堀江の庄の物見櫓の一番高いところに上り、マサラの軍がやってくるのを探していた。

「おい!現れたぞ!」
岸辺に一番近い物見台から声がした。
「良いな。奴らを水路ギリギリまで来させるのだ。やつらの放つ矢は、せいぜい、こちらの岸へ届く程度だ。矢が尽きるまで好きにやらせておくのだ。その頃には、イコマノミコト様たちが背後から攻めかかる手筈になっているからな。」
ソラヒコが、水路に浮かべた船から岸辺にいる男達へ号令をかけ、水門のほうへ上っていった。
いよいよ、マサラの軍の先頭あたりが、水路に到着した。マサラの兵たちは、目の前に広がる水路を見て驚いた。
「止まれ!止まるのじゃ!」
先が判らぬ兵が、後ろから続々とやってくる。
万の兵の歩みは簡単には止まらない。水路の岸辺では、推されて水路に落ちる兵すら現れる始末であった。

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3-3 決戦 [アスカケ第5部大和へ]

3.決戦
マサラの軍はようやく落ち着き、水路の対岸に半数ほどを置き、本隊は、やや南側の小高い丘の上に陣を張った。
「何じゃ、あの水路は・・濠のごとく、難波津を守っておるぞ。・・イロヤの軍は如何したのか?どこへ居るのじゃ。」
マサラは、高台から堀江の庄を眺めながら、どう攻めようかと思案していた。
「御館様、これをご覧下さりませ。」
水路近くにいた軍から、数名の兵が何かを抱えて本隊へ戻ってきた。
「我らの居る辺りは、焼け跡が広がっておりまして・・。」
兵が抱えてきたのは、半分焼け残った甲冑や旗のようであった。
「イロヤの軍のものだな・・・イロヤはどうした?」
しばらくして、更に兵が血相を変えて現れた。
「御館様・・・無念です・・・。」
兵はマサラの前に跪いた。その後ろには、数人に抱えられて、亡骸が一つ運ばれた。すでに息絶えたイロヤであった。首筋に矢が一つ刺さっている。手足は野犬にでも齧られたのか、あちこちに骨が現れていた。
「なんと言う事じゃ!おのれ、葛城王。我が息子の仇を取ってやらねば!・・すぐに、矢を放ち攻め立てよ!・・火矢を打て!あるだけの矢を射て、難波津にいる者共は皆殺しにせよ!」
マサラはすでに正気を失っている。剣を抜き高く掲げて号令を掛けた。戦の策など無かった。
兵たちは命じられるまま、矢を射た。しかし、広い水路に阻まれて、いかに強く矢を射たとしても、ほとんどは対岸に力なく届く程度であった。それでも、弓を置こうとすると、後ろからマサラが号令をかける。無駄と知りつつ、皆、手元にある矢を放ち、終に、矢は底を着いた。

マサラの軍が攻め始めた様子を知り、イコマノミコトが大伴一族の軍とともに背後に迫っていく。
マサラの本陣がある小高い丘の背後には、松原が広がっており、木々に隠れるように徐々に間合いを詰めていった。

矢が尽きた事を知った堀江の庄では、岸辺につけてあった船の中に潜んでいた男達が、一斉に立ち上がり、声を上げた。そして、隠していた矢を放ち始める。
「射抜かずとも良いぞ、高く高く放てばよい!」
男達の中には、伊予国の者達がいた。カケルが高く矢を放ち、威嚇する様子を思い出し、皆に声を掛けた。男達は、矢を天高く放った。
矢が尽き、呆然として岸辺にいたマサラの兵たちは、空から降ってくるように飛んでくる矢に驚いた。そして、もはや、抗う術も無くしており、我先にと本隊のある丘へ引き上げようと動き始めた。
「どうしたのだ?何故逃げてくるのだ!戦わぬか!」
マサラの号令など届かなかった。
そこへ、松原の方から一斉に火矢が放たれる。背後からの敵襲に、マサラのいる本陣も混乱を始めた。岸辺から戻ってくる兵の混乱だけでなく、本陣さえ、敵がどこにいるのかと右往左往し、逃げ戻る兵を敵とも見間違え、切り合うものさえ出る始末だった。
「御館様、このままでは挟み撃ちに遭います。すぐに逃げましょう。」
側近の臣下が数人、マサラを取り囲み、混乱する兵の中を掻き分けて進む。
「おのれ!・・葛城王めが!・・いつか必ず・・討ち取ってやるぞ!」
生駒一族と大伴一族の軍が、松原を出て、マサラの軍と戦う最中、マサラは兵を楯にして南へ逃げ落ちた。
イコマノミコト達は、深追いせず、逃げ行く一団をただ見守っていた。

マサラの軍が矢を射かけて始まった戦も、僅か一日で終結した。
一万を越える軍は、数ばかりでなす術も無く敗れた。
イコマノミコトは無用に命を奪う事はせず、抵抗せぬものは捕えられ捕虜とされたが、ほとんどの者が、命じられるまま東国や北国からやって来た者であった。
捕えられた者は、水路の船に乗せられ、対岸の堀江の庄に連れて行かれた。
そこには、葛城王が姿を見せていた。広場に集められたマサラの兵達は手を縛られ座らされた。皆、死を覚悟しているに違いなく、大の男が声を上げて泣いている者さえいた。
葛城王は集められた捕虜を前にして言った。
「そなた達は、倭国を我が手にしようという邪な考えに満ちた、物部のマサラに命じられたに過ぎぬのであろう。・・真に、我の命を奪おうと思っている者など居らぬはず。・・これより、我が民となり、倭国のために賢明に生きる事と誓うなら、ここで縄を解くこととする。如何か。」
居並ぶ者達は、葛城王の顔を見上げた。
神々しい表情を見て、すぐさま、誓いを立て、縄が解かれていく。皆、安堵した様子だった。
「さて、此度の戦いで、堀江も傷んだ。亡骸も転がっている。皆、賢明に生きると誓ったのだ。明日には、戦の片付けや弔いをしてもらいたい。良いな。」
葛城王の隣にいた、摂津比古が号令した。
先ほどまで死を覚悟した者達は精気を取り戻し、堀江の庄の者に従った。

夜には、難波津の宮殿に、摂津比古、イコマノミコト、ソラヒコ、レンなど、おもだった者達が集まった。そこには、大伴一族の長、ムロヤの顔もあった。

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3-4 大伴のムロヤ [アスカケ第5部大和へ]

4. 大伴のムロヤ
 宮殿の広間に集まった者たちには、勝利の喜びなど無かった。戦に勝った事よりも、カケルの行方が気がかりで、戦の様子を話しながらも誰もがカケルの事を尋ね合っていた。
葛城王が玉座に着くと、摂津比古がまず、大伴のムロヤを紹介した。
「此度、我らの援軍となり、物部の大軍をものの見事に打ち払われた一番の功労者です。」
ムロヤは、葛城王の前に歩み出ると、跪き挨拶をした。
「大伴のムロヤにございます。難波津は我らにとっても命を繋ぐ大事なところ。あさましき者に蹂躙される事は許されませぬゆえ。」

この頃、倭国の王が統治していたのは、大和周辺と東国と北国の一部に過ぎなかった。西国は、カケルによって難波津との交易が広がり、此度、葛城王に従うことになったが、九重には邪馬台国があり、東国もまだ未開の地であった。
そしてまた、日本海側には、出雲の国があり、その勢力が近江や山背にまで及んでいたのだった。大伴一族は、出雲の国の臣下であり、出雲の国と倭国との接点にあり、緊張関係にあった。しかし、出雲の国は雪深く、農地には恵まれず、民は食料を求めていた。難波津は、東国や西国から大量の農産物が集まる場所であり、大伴一族も、難波津との友好関係を強め、出雲の国への物資運送の窓口でもあった。
葛城王が難波津を都と定めたことは、大伴一族には憂慮すべき事態であった。だが、物部一族に奪われれば、更に危機的な状況に陥ると推察し、今回の戦には援軍となったのである。

ムロヤは、葛城王を前に、複雑な思いであった。居並ぶ者達が勝利に歓喜しているのであれば、一層複雑な思いを感じていたであろうが、一様に皆、冷静であったし、何かまだ払拭しきれぬ思いがある事は理解した。
ムロヤが下がると、摂津比古は、イコマノミコトに尋ねた。
「カケル様のお姿は無かったか?」
集まった者達が皆心配している事であった。イコマノミコトは首を横に振る。
「まだ、大和に居られるということか・・・。」
落胆した表情を浮かべる摂津比古に対して、レンが言った。
「カケル様をお救いする為に兵を送りましょう。今なら、大和ももぬけの殻、すぐに出立すれば、きっとカケル様をお救いできるでしょう。」
他の者も、レンに同調し、葛城王と摂津比古に決断を迫った。葛城王も摂津比古も返答に困った。
レンの言うとおり、あれほどの大軍を送った以上、今、大和には多くの兵は居ないと思われたが、実のところはわからない。さらに、マサラは僅かな側近と逃亡した。好機かもしれぬが、仮に、大和に兵が残っていれば、カケルの身を危うくするに違いない。
「その・・カケル様とはどのような御方なのでしょう。」
控えていた大伴のムロヤが訊いた。この中で、ムロヤだけがカケルに逢っていなかったのだ。
「葛城王の皇女、アスカ様の夫であり、次なる王になるべき御人なのだ。」
摂津比古が答える。
「何ゆえに、そのような御方が、囚われておられるのです。」
「大和の里の民を救う為、自ら、人質となられたのだ。」
摂津比古の答えに、ムロヤは驚きを隠せなかった。
「カケル様はそういう御方なのです。ここに居並ぶ者たちは、カケル様と出会い、援けられた者ばかりです。今度は、我らがカケル様をお救いする番です。さあ、王様、兵を挙げ大和へ参りましょう。」
レンが、再び葛城王や摂津比古に進軍を促した。
沈黙が続く。
「今しばらくお待ちしましょう。」
沈黙を破ったのは、アスカだった。ここにいる者のなかで最もカケルの身を案じ、待ちわびているはずだった。
「お傍近くには、モリヒコ様も居ります。當麻や広瀬の方々もきっとカケル様をお救いできるよう動かれているに違いありません。・・挙兵となれば、今度は大和が戦乱となり、多くの命が失われるに違いありません。・・それは、カケル様が望まれていることではありません。・・大丈夫です。きっとカケル様は無事に戻って来られます。」
アスカの言う事は尤もだった。葛城王が難波津へ逃れたのも、カケルが人質になったのも、無用に命を落とす者を出さない為であった。
葛城王もアスカの言葉に頷いた。
「ここはアスカの言うとおりだ。皆、カケルを信じ待とうではないか。」
王の言葉に皆従った。

しかし、大和の様子がまったく判らないでは困る。すぐに、イコマノミコトとレンが大和へ向うことになった。それを聞いて、大伴のムロヤも同行すると申し出た。ムロヤは、多くの者から絶大な信頼を得ているカケルに逢ってみたくなったのだった。
出掛けるレンを呼び、アスカはカケルへの言付けを頼んだ。
レンは一瞬驚き、そして急に笑顔になった。
「ならば、きっと、カケル様は戻って来られます。では、行って参ります。」
三人は、逃げ落ちた物部のマサラの足取りを探りながら、竹内峠から大和に入る事にした。

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3-5 カラコの企み [アスカケ第5部大和へ]

5.カラコの企み
 物部の兵が都を離れ、難波津へ向かった後、蘇我のカラコは、兵の後を追い戦況を確認するための物見を送っていた。わずか一日で終結した難波津の戦の様子は、すぐにカラコへ知らされた。
カラコは、物見から「マサラ敗走」の知らせを受けて、すぐに動き始めた。
庵戸宮から、蘇我一族の兵を動かし、磯城宮を取り囲むと、磯城の皇子を守っていた僅かな兵を討ち果たし、磯城宮を占拠した。
「さあ、入って居れ!」
カラコの臣下に取り囲まれ、自由を奪われた磯城の皇子が、カケルたちの入れられている牢へ連れてこられた。すでに錦の着衣を剥ぎ取られ、平民が着る粗末な衣服となり、二人の女人とともに牢へ入れられた。磯城の皇子には何が起きたのか全く理解できないまま、薄暗い牢の中に付き人の女人にすがり付いて泣くばかりだった。
「カラコの奴、惨い事をする。・・・先の大王の時も、あいつの氷のような冷たい心を后様は察知して遠ざけたのだ。・・このままでは、マサラの時よりも酷い事が起きるだろう。」
カケルの牢の向かいの部屋から、平群のヒビキがため息をつきながら言った。
「この後、どうなるのでしょう?」
カケルが訊くと、ヒビキが言う。
「おそらく、物部同様に、自らの意を受け入れる皇子を立てるに違いない。神器も取り上げたとなれば、葛城王に対抗し、王の宣下をするに違いない。」

ヒビキの予想は当たっていた。
磯城の皇子を幽閉した後、カラコは、庵戸宮から皇子を連れてきた。
磯城の皇子即位のために建てられた御殿の広間に、東国や北国の長達を集めた。
集まった者たちは、何が起きたのかまだ理解できずにいて、何も語ることもなく、静かに座っている。
皆の前に、静かに、棺が一つ運ばれてきた。そして、その後にカラコが顔を見せた。そして、ゆっくりと棺は玉座の前に置かれた。カラコは、玉座の前に置かれた棺の蓋を開けた。そして、重々しい口調で言った。
「一同の者、よく聞くのじゃ。」
皆静まり返ってからこの言葉に耳を傾ける。
「この棺の中には、先の皇君の御后様が眠っておられる。」
平群と円の戦以来、その所在が掴めぬままであった后が亡骸となって目の前に横たわっていると聞き、皆動揺した。
「御后様の命を奪ったのは、かの物部のマサラである。亜奴は、大和を我が手にするため、王族に手をかけた不埒者であったのだ。一同の者、もはや物部に従う道理は無い。そして、マサラが立てた皇子とて、素性も知れぬ者に違いない。」
目の前に、后の亡骸を見せられ、長達は納得せざるを得なかった。しかし、蘇我のカラコのことを全て信用したわけでもなかった。居並ぶ長達はざわついた。
「静まれ、静まるのだ!」
ようやく広間のざわめきが静まった頃、カラコの指示で奥の間から一人の若者が現れた。そして、ゆっくりと玉座に座った。
「先の皇君には、皇子は無いとされていたが、我が一族が密かに北国にてお守りしていたのだ。この後、大和の王は、庵戸の皇子が即位される。皆の者、心せよ!」
カラコの宣言は、物部のマサラよりも強引であり、明らかに、実権を握るための者だと誰の目にも明らかであった。居並ぶ者たちが不審の念を抱いている事は、カラコにも判った。
「これを見よ。これこそが皇君である証し。」
声高らかにカラコが言うと、臣下が、紫の台座に乗せた、玉と剣の神器を皆の前に披露した。
玉は、先の皇君の后が隠し持っていたものだった。
物部のマサラに命を奪われたとされた后は、皇君を失い失意の中で、平群と円一族の戦いが起きて、守るべき者を失って、止む無くカラコを頼ったのだった。
后は、昔のような優雅な暮らしを手に入れるために、神器である「玉」を切り札として隠していた。カラコも、事態が変わるまでは后を繋ぎ置くために、手厚く保護し、玉のありかを無理に聞き出そうとはしていなかった。しかし、物部のマサラが敗れるや否や、手のひらを返したように、后に拷問を加え、無理やり聞き出したのだった。その結果、后は命を落としたのだった。カラコは、全てをマサラの所業とし、自らが正義であると騙ったのだった。
玉座に座る皇子は、磯城の皇子と比べると年上であり、表情は穏やかで、しかも聡明に見えた。確かに、王族の血筋の者のように思えた。
即位の宣下を終え、集められた長どもが御殿を後にした。宿舎にしている屋敷に戻る道々、長達はひそひそと話していた。
「庵戸王がこれからこの大和を治められるのだろうか?」
「・・ならば良いが・・」
「カラコが実権を持つのであろう・・・。」
「では、マサラと変わらぬな・・」
「・・ああ・・これよりは王族など頼らず・・自らの里を治めるほか無いだろう・・。」
「では、すぐにも里に戻るか・・」
「ああ、それが良かろう・・・もはや、大和は終わりだ・・。」
ちょうどその時、モリヒコが、カケルの様子を探るために御殿に忍び込んでいた。長達のひそひそ話は、モリヒコの耳にも届いた。同時に、牢に居るカケルにも、世話役の女人の口からカラコの所業は知らされたのだった。

3-5 社.jpg

3-6 イシトの狂気 [アスカケ第5部大和へ]

6. イシトの狂気
モリヒコは、日暮れまで、宮殿の床下に潜み、カケルの居場所を探していた。そこへカラコが数人の付き人を従え、歩いてきた。急いで、モリヒコは隠れた。
「父上、まだまだ手ぬるい。東国の長どもの中には、物部一族を慕う者がまだまだ居りましょう。行方知れずとはいえ、マサラが舞い戻るやも知れません。いまひとつ、我らの怖さを知らせるべきでしょう。」
カラコへ向かってそう言ったのは、息子のイシトであった。
イシトは、カラコよりも更に狡猾であり、残忍であった。
后に拷問を加えたのもイシトであった。
なかなか口を割らない后に、水を掛け、指の爪を剥ぎ取り、終いには、火で焼いた石を抱かせ、苦痛に喘ぐ后の姿を見て、カラカラと笑って眺めていたほどであった。
とても常人にはできぬ仕儀であった。
「イシトよ、お前ならどうする?」
イシトはにやりと笑って言った。
「磯城の皇子を皆の前で殺してしまうのです。・・どうせ、マサラがどこからか連れて来た素性も知れぬ者。そして、それを皇子だと皆を誑かした罪に加担した東国の長の数人も一緒に殺してしまうのです。」
「あの幼子の命を奪うというのか?」
さすがのカラコも躊躇した。
「裏切れば、一族皆殺しに遭うのだと知らしめる事が大事。明日にも支度をし、長どもの前で引き裂き殺してしまいましょう。」
イシトはそう言いながら、上気の表情を浮かべていた。
もはや、長達を従わせる策ではなく、自ら愉しむための企みとなっているようだった。
「まあ、あまりに惨いやり方は避けるのだ。」
そう言いながらも、カラコも楽しんでいるような口ぶりであった。
「いずれにしても、あのまま、地下牢へ放り込んでおいても仕方ない。ついでに、平群の輩や・・例の・・葛城王の皇子とやらも始末するか。もはや、用なしであろう。」
「おお・・それは良いでしょう。幼子だけを殺せば、狂気の沙汰と言われかねませぬ。・・大和の王の座を狙う者は全て命を奪われるのだと教えてやりましょう。」
カラコとイシトはにやりと笑って、自らの屋敷へ引き上げていった。

モリヒコは二人の会話を聞き、すぐに、地下牢を探した。
宮殿の中は、太い柱の立ち並ぶ回廊と、広間、王の部屋があった。モリヒコは地下への通路を探したが、なかなか見つからない。
深夜近く、回廊をゆっくりと灯りが動いてくるのを見つけた。見回りの兵らしかった。灯りを持った兵が、回廊の途中で立ち止まる。暗闇からじっと目を凝らすと、腰を屈めて何かを動かしているようだった。しばらくすると、床下からもう一人の兵が現れ、何やら一言二言告げると、入れ替わるように兵が入っていった。
モリヒコは、白狼の特質からか、夜目が利いた。
僅かな光があれば、様子を察知する事ができたのだった。
灯りを持った兵が遠ざかり、再び、回廊が暗闇になったところで、静かにモリヒコは先ほどの場所に行き、足元を見た。そこには石板があり、どうやら蓋のようになっている。
モリヒコはゆっくりと石板を動かした。そこには穴が開いていて、下に下りる階段があった。床下には明かりが見えた。
音を立てぬよう細心の注意を払い、階段を下りていくと、兵が一人、床に座り込んでいた。
先ほどの兵のようだが、壁にもたれかかり、うとうととしていた。モリヒコは、兵の口に手を当て、鳩尾へ一撃し、気を失わせた。兵の腰には、牢の鍵の束が付いていて、モリヒコはそれを掴むと通路を進んだ。
通路には、菜種油を点した灯りがほんわりと広がっていた。
静かに、一つ一つの牢の中を覗きこんだ。皆、寝静まっているようだった。三つ目の牢に辿り着いた時、横たわっていた人影がむくりと起き上がった。そして、小さな声で言った。
「モリヒコだな。」
起き上がったのはカケルだった。
カケルは、階段近くの物音で目が覚めていた。そして、近づいてくる微かな気配でモリヒコだと直感したのだった。
「ご無事でしたか。」
モリヒコも囁くような声で答えた。
牢の珊を挟んで二人は対面した。モリヒコは、カラコとイシトの会話をカケルに伝えた。
「蘇我のカラコが宮殿を取り囲み、皇子を幽閉した事は知っていたが・・そこまで残忍な事を企てているとは・・・。」
「カケル様、このままではどうしようもありません。まず、ここを出ましょう。」
モリヒコはそういうと、先ほど兵から奪った鍵の束を取り出して、カケルの牢の鍵を開けた。そして、背中に結わえていた包みを外し、中からカケルの剣を取り出した。
「さあ、これを。」
カケルは牢を出ると、剣を受け取り、鞘から剣を抜くと目の前に掲げた。すると、青白い光がぼんやりと剣から発し始めた。その光は徐々に強くなり、地下牢全体に届くほどになった。眠っていた者もその光に気付き、目覚めた。

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3-7 抜け穴 [アスカケ第5部大和へ]

7. 抜け穴
モリヒコは、地下牢の全ての鍵を開けて回った。
一番奥の部屋には、女人二人と幼子がいて、先ほど、カラコとイシトが話していた皇子だとすぐに判った。女人二人は、突然現れたモリヒコに警戒し、皇子を抱きかかえる様にして部屋の隅に固まっている。
「心配は要らぬ。そなたらを逃がす為に来たのだ。このままでは、朝には殺されてしまうぞ。」
モリヒコは、カラコ親子の企みを女人に話した。女人たちは半信半疑ながら、皇子を抱えたまま牢を出た。
地下牢の通路には、囚われていた者が、カケルの元へ集まっている。カケルは皆を前に穏やかな口調で話した。
「これまでの経緯は忘れ、これからの事を考えましょう。今、大和は蘇我一族によって恐ろしき国へと変わろうとしています。このままでは、夜明けには、我々は命を奪われることになります。まずは、ここを抜け出る事。・・」
皆顔を見合わせ、カケルの言葉を受け入れた。
「しかし、外に出れば見張りの兵も居よう。宮殿を抜け出るのは容易ではないぞ。」
そう言ったのは、平群一族の長ヒビキであった。囚われていた男達は皆平群一族のようだった。
「宮殿の西にある沼まで逃れれば、そこに、當麻の里の者がおります。舟で沼を渡るように手配しておきました。」
モリヒコが言う。それを聞いて、女人の一人が口を開いた。
「私は・・物部一族にお仕えしておりました・・ヨシと申します。・・宮殿から西へ抜ける道なら私がご案内できます。」
「何?抜け道があるのか?」
「はい・・マサラ様が万一のためにと作らせた抜け穴があるのです。しかし、そこへ行くには、玉座の間まで行かねばなりませんが・・・。」
「その話、信じてよいか?」
ヒビキは念を押すようにヨシを睨んで聞いた。
「元々、私は、この近くの里で生まれました。物部一族が磯城宮に入ってから、この近くの里の者は、奴隷のごとく使われました。そして、また蘇我一族など・・・私達は穏やかな暮らしがしたいのです。もう戦など収まって欲しい。・・どうか、皆様のお力でこの地に安寧を・・。」
ヨシは、これまでの苦労を思い出したのか感極まって泣き出してしまった。
「そうか・・済まなかった・・・判った。案内を頼む。だが、玉座の間とは・・王の衛士が守っておる。近づくのも容易ではないな。」
ヒビキが言うと、平群の男達が、ヒビキを囲むようにして相談を始めた。
ひとしきり話を終えると、ヒビキがカケルに向かって言った。
「こやつらが言うには、このまま牢に入れられている事を思えば、兵と渡り合い、死ぬのも一緒だと・・だから、一気に、玉座の間へ押入れば良いというのだ。」
「いえ・・それでは皆の命が危うくなりましょう。武器も無く、兵と戦うなど無謀です。それに、命は捨てる為にあるのではありません。命を懸ける場所はここではありません。この後、大和の国を立て直す為にこそ、命をかけてください。」
カケルはそう諭すように平群の男達に言った。
ヒビキは再びカケルに訊く。
「では、どうする?女や子どももいるのだ。これだけの者は動けば、すぐに見つかるであろう。」
カケルはモリヒコを見た。モリヒコはカケルの考えがすぐに判った。こくりとモリヒコは頷いた。
「すぐに、ここを出て、回廊を伝って玉座の間の床下へ潜り込みましょう。そこで、我らが衛士たちを誘き出します。もぬけの殻になったところで皆さんはヨシ様について抜け穴へ入ってください。きっとうまく行きます。」
カケルの言葉に、皆。戸惑った。
「我らは大丈夫です。・・きっとうまく行きます。さあ、夜明けも近い。急ぎましょう。・・ヨシ様、皆の案内、お願いいたします。」
ヨシはこくりと頷いた。
地下牢の階段に居た兵は、荒縄で猿轡をされ、身体をぐるぐるに縛られた。
ヨシを先頭に、足音を立てぬように少人数に分かれて、玉座の間のある宮殿の床下へ潜んだ。
その様子をモリヒコがしっかりと確認した。そして、カケルに合図した。
カケルは、回廊の屋根に登っていた。月が雲の隙間から僅かに顔を出した。ぼんやりと、屋根の上のカケルの影が見えた。床下に潜んでいる者達も何が起こるのか判らずにいた。
カケルは、ゆっくりと剣を抜き、天に掲げた。
「八百万の神々よ、我に力をお貸し下され!」
カケルは強く念じた。
剣はぼんやりと青白い光に包まれ、徐々に強くなる。そしてカケルの身体を包み込むほど、光は強くなっていく。
カケルは獣人に化身した。そして、月夜に向かった遠吠えのごとく声を発した。
「ウオー!ウオー!」
その声で、宮殿内に居た兵士達が目を覚ました。玉座の間の前の石段に腰を下ろし、うとうとしていた見張りの兵も飛びあがった。そして、声のするほうに目を凝らした。
回廊の屋根に黒い影が浮かんでいる。そして手には不思議な光を放つ剣が見えた。
うろたえた見張りの兵は、矢を構え放った。そして、大声で叫んだ。
「物の怪だ!物の怪が現れた!皆、出て来い!」

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3-8 脱出 [アスカケ第5部大和へ]

8. 脱出
見張りの兵の声で、宮殿に居る兵士達が、回廊の中に広がる広場に集まってきた。
剣や弓を手にして、「どこだ、どこだ」と口々に叫びながら集まってきた。すぐに広場には篝火が焚かれ、周囲の様子を皆じっと探った。
見張りの兵が、回廊の屋根の上を指差す。
カケルは、兵が集まった様子を見て、再び吼えた。響き渡る声に、兵たちは震え上がった。
「物の怪か!それとも敵襲か?」
集まった兵達には、カケルの姿が月の光にぼんやりと見えている程度であったが、常人とは思えぬほどの大きさ、そして、遠吠えの声はただの人とは思えなかった。
「何をしている!さあ、射抜け!」
将と思しき男が掛け声をかける。兵たちが弓を構えた。数本の矢がカケルの周囲に飛んできた。
そして、カケルは、再び吼えると、高く飛び上がり、回廊の外へ降りた。
「逃げたぞ!追え!」
広場に集まっていた兵たちは、カケルを追うために一気に走り出した。
その様子を見て、モリヒコは玉座の間の床下にいるヒビキ達のもとへ走った。
「今のうちだ、さあ、急いで抜け穴へ!」
ヨシが玉座の後ろを板を押すと、簡単に板は割れた。そこには、地中に続く穴があった。
「さあ、急いで!」
ヨシが先に穴に入る。続いて、平群の男が護衛のために入り、皇子達が続く。最後を平群の長、ヒビキが守るようにして抜け穴に入っていく。
「良いですか。沼まで一気に行くのです。モリヒコに教えられたと言えば、判ってくれる。さあ、急いで。」
「ご無事で。また会いましょう。」
ヒビキはモリヒコの肩に手を置き、そう挨拶すると、穴に潜り込んだ。
モリヒコは、玉座の間に一人残った。他の兵たちがここへ戻り、抜け穴を見つけ追いかけるかもしれないと考えたからだった。
回廊の屋根から飛び降りたカケルを追って、松明を手にした兵たちが宮殿の外へばらばらと出てきた。できたばかりの宮殿の周囲はまだ整備されておらず、草叢や藪が広がっている。
「どこへ行った?探せ!」
兵たちは松明を掲げて、草叢や藪の中を探し回る。カケルは、一旦回廊の屋根から飛び降りた後、すぐに回廊の屋根に飛び乗り、宮殿から出て行った兵達の後ろに回り、宮殿の大門を閉じた。これで暫くは兵たちは宮殿に戻ってくる事はできない。
カケルは、すぐに玉座の間にいるモリヒコのもとへ向かったが、回廊の向こうに、松明を掲げる数人の男の姿を見つけ、身を隠した。
「物の怪など居るはずも無い。きっと、物部一族に違いない。奴らが戻ってきたのだろう。うろたえるで無い!ばか者が!」
知らせてきた男と叱咤しているのは、蘇我のカラコであった。隣に、イシトも居た。カラコ達は、玉座の間へ急いでいる。現れた者が、物部一族と勘違いし、皇子の身を案じている様子だった。
玉座の間に居たモリヒコも、近づいてくる足音に気づいた。モリヒコは短剣を抜き、手に傷をつける。痛みが走ると同時に、モリヒコの身体は、白狼へ化身した。
カラコ達の行く前を、付き人が、廊下の灯に火をつけながらやってくる。徐々に、回廊全体にも明かりが灯され、広場の篝火とともに、宮殿内は明るくなった。
玉座の間の扉が開かれた。松明を掲げ先頭に入ってきたのは、イシトであった。右手に剣を掲げている。白狼に化身したモリヒコは、さっと飛び上がり、玉座の間の垂木に身を潜めた。
「誰も居らぬようですな。」
一回り見渡したイシトが言った。
「奥の部屋はどうだ?」
カラコが訊く。付き人の一人が、玉座の間の脇の通路から、奥の間へ入ってすぐに出てきた。
「皇子は静かに眠っておられるようです。」
「そうか・・無事か・・・しかし、兵たちはどこへ消えたのだ?」
そのうち、大門を打ち叩く音が響いた。すぐに付き人が大門へ向かった。
「どうやら、兵たちは外へ逃げた怪しげな者を追いかけて行ったようです。・・しかし・・何故、大門が閉ざされているのでしょう。」
そう言いながら戻ってきた付き人に、カラコの顔がキッと強張った。
「宮殿の中に誰か潜んでおる。探せ、探すのだ!」
ようやく戻ってきた兵達が宮殿内を探し回った。
「あそこに、誰かおります!」
兵の一人が玉座の間の天井を見上げて叫んだ。白狼に化身したモリヒコが見つかった。
「射掛けよ!」
兵たちは、一斉に矢を放とうとしたが、狭い玉座の間では弓を引くこともおぼつかない。モリヒコは隙を見て、兵達の腕に噛み付き、うろたえる兵達をよそ目に、一気に広場に飛び出した。
「ええい!何をしておる!野犬の一匹に振り回されおって!」
そう言って、イシトが弓を構えた。飛び跳ねる白狼に狙いを定めようとしているがなかなか放つ事ができない。カケルは、その様子を見て、回廊の屋根に飛び移った。そして、大門の上に立ち先ほどと同じように、遠吠えのような声を上げた。
「何?他にも居たのか?」
ようやく兵たちが構えた矢が放たれた。カケルは飛んでくる矢羽を容易く剣で払い落とした。そこに、モリヒコも寄り添うように立った。

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3-9 イシトの軍 [アスカケ第5部大和へ]

9. イシトの軍
「もう、逃げ果せたでしょう。」
モリヒコがカケルにそっと呟く。カケルは頷くと、再び、遠吠えを発した。そして、剣を天高くかざした。ちょうど、朝日が昇ってきた。朝日がカケルの剣に射す。すると、辺り一面眩い光が溢れた。弓を構えていた兵も、眩い光で目標を見失った。
その隙に、カケルとモリヒコは、大門から飛び降り、草叢に身を隠すようにしながら、宮殿を去った。
すぐに追っ手が向かったが、大門から先、どちらの方向へ向かったのか皆目見当ももつかず、しばらく宮殿の周りを探したものの、ばらばらと宮殿に戻ってきた。
「逃げられましたな・・・。」
玉座の間で、イシトがカラコに言った。
カラコは、玉座に座っていた。
「あの者達は何者であろうな・・。物部のようには思えぬ。しかし・・物の怪でもあるまい。一体、何者なのか・・・。」
カラコは一人呟いていた。

「カラコ様、大変です。牢が・・。」
兵の一人が慌てた様子で玉座の間にやって来た。
「どうした?」
兵は、玉座の前に跪き言った。
「地下牢に囚えていた者が誰一人居りません。」
「何?牢番は如何した?」
「眠っているうちに誰かに縛られたようで・・何も見ておらぬようです。」
それを聞いていたイシトが言った。
「では、あやつらは、牢の者を逃がす為に現れたのでしょうな。」
「しかし、どこから逃げ果せたというのだ?」
「カラコ様、ここに抜け穴が・・。」
別の兵が玉座の後ろを指差して告げた。
玉座のちょうど後ろ側に、人一人抜けられる穴があった。すぐに兵が入っていったが、途中で引き返してきた。途中で、抜け穴が壊され、通れ無くなっていたのだった。ヨシが皆を案内して逃げた後で、追っ手を食い止める為に穴を塞いだのだった。

玉座の間では、カラコとイシトが向かい合っていた。
「磯城王も、平群のヒビキも、そして、あのカケルと言う者も逃げたようですね。」
「ああ・・だが、一体、どこへ逃げたのだ?」
「おそらく、當麻の里か・・葛城の王宮か・・いずれにしても、沼を渡ったとしか思えませぬ。広瀬の里も助けに加わったのかもしれませんな。」
それを聞いて、カラコはイシトに訊いた。
「さあ、お前ならどうする?」
「答えは明快。すぐに兵を出し、當麻も葛城の王宮も・・いや、対岸の里と言う里を全て焼き払いましょう。いずれにしても我らに逆らった罪は重い。皆殺しにしておかねば示しが付きますまい。」
「そうだな・・マサラは、人質を得たとして當麻一族を許したが、結果はこうだ。やはり、あの甘さが命取りになった。よかろう。お前に全ての兵を与える。すぐに、當麻を・・いや、我らに逆らおうとする者共を討ち果たして参れ!」
すぐに、兵たちが集められた。東国や北国の長達は、渋々兵を出した。
イシトは、當麻一族は敵ではないと考え、意気揚々と宮殿を後にした。
宮殿の西に広がる沼の南側を抜け、イシトの軍は當麻の里を目指した。
その頃、葛城の王宮では、牢を逃げた者達が戻り、暫くして、カケル達も戻っていた。
「すぐにも、ここへ蘇我の兵がやってくるでしょう。どれほどの兵が来るかもわかりません。すぐに身を隠しましょう。」
カケルの言葉に、磯城の皇子や女達は、シシトの案内で、すぐに當麻の隠れ里へ向かった。
カケルとモリヒコは、葛城の宮殿に留まり、蘇我の兵を迎え撃つ事にした。平群のヒビキやその男達も蘇我の兵と戦うと言い、葛城の宮殿に残った。
平群のヒビキの指示で、広瀬や円、平群の里のあった辺りの小さな里に遣いが出され、蘇我一族との戦が知らされた。
大和の西側の里は、表向きは、物部や蘇我に恭順したように振舞っていたが、もともと、豪族たちへの反感、葛城王を慕う者ばかりであった。知らせを受けた里では、すぐに男達が弓や剣で戦支度に入った。
イシトの軍は、葛城川近くまで達したが、川が増水していて、すぐには渡れる状況に無く、二日ほど足止めを食ってしまった。
そうしている内に、大和の西側の里から多くの男達が、葛城王の宮殿に集まってきていた。
ようやく、水が収まり、葛城川を越えて、イシトの軍が葛城の王宮に達した。
イシトの軍は、葛城の王宮の手前に陣を張り、先見隊が作られた。
「よし、まずはこの宮殿だ。ここに潜んでおるものは皆殺しにするのだ!良いな。」
イシトは兵達に命じた。先見隊の兵はざっと百名ほど、王宮の大門の前に並ぶと、声を上げた。
「我らは、庵戸王の軍である。大門を開けられよ!」
その声に応えるように、ゆっくりと大門が開かれた。

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3-10 イシト軍の最期 [アスカケ第5部大和へ]

10. イシト軍の最期
開いた大門から、宮殿まで続く広場には人影は無かった。イシトの兵は周囲を警戒しながら、ゆっくりと広場まで進んだ。百名ほどの兵が広場の中央まで進むと、大門がゆっくりと閉じられた。すると、一気に、宮殿や周囲の木々や回廊に隠れていた男達が姿を現し、兵達を取り囲むようにして、剣や弓を構えた。突然取り囲まれた兵達は驚き慌てた。
「命が惜しければ、弓や剣を棄てなさい!」
館の奥から、男達の間を割って出てきたのは、カケルだった。
「無駄に命を棄てる事は無いでしょう。この数をみれば、もはや戦いなど無駄。すぐに降伏されれば無用に血を流す事もないでしょう。」
イシトの兵たちは互いに顔を見合わせた。圧倒的な数の差、戦えば無駄死にする事が明白な中、兵達は、次々に剣や弓を捨てた。
先見隊が入ってから、しばらくしても全く動きが無く、王宮は静かなままだった。
「一体どうしたのだ?兵達は?」
痺れを切らしたイシトは部下に命じて、様子を探らせた。大門は閉じられたまま、中から争うような音も聞こえない。
「イシト様、不気味なほど静かです・・どうしたのでしょうか?」
様子を見に行った兵が戻ってきて、ぼんやりと報告する様子に苛立ち、シシトが言った。
「ええい!一気に攻め立てるぞ!」
しかし、兵達の中には、前日に見た白狼と獣人の姿を思い出し、怖気づく者も出始めていた。百名ほどの兵が大門に入って言ったにもかかわらず、争う気配さえなく不気味な静けさをたたえる宮殿に、あの物の怪のような者達が潜んでいるのではないかと思い始めていたのだった。
「どうした!我らは、庵戸王の軍なのだぞ!我らこそがこの大和を治める者である。さあ、立て!・・火矢を放て!・・皆殺しにせよ!」
動かぬ兵に号令を掛けるイシトの表情は、まるで物の怪に取り付かれたような怖ろしさであった。
徐々に兵達が立ち上がり、隊列を組み始めた頃、甲高い風切り音を響いた。そして、兵の真ん中にドスンと地面を響かせて矢が突き刺さった。
驚いた兵達は、あたりを見回り再び怖気づいて再び座り込んだ。
「出たな、物の怪め!成敗してくれよう!さあ、出てまいれ!」
イシトは弓を構え、周囲を睨みつけた。
再び、甲高い風切り音が空に響く。今度は一本ではない。何本もの矢が、降ってくる。
兵達は、盾をもって防ぐのがやっとだった。何人かは、射抜かれ倒れた。
ふと見あげると、大門の上に、カケルのほか、モリヒコや平群の男たち、そして當麻の男達が並んで矢を放っている。さらに、宮殿を取り囲む塀の上にも多くの男達が居並んでいた。
そして、容赦なく矢を放ってくる。次第に、イシトの兵達は散り散りに逃げ去っていった。ほんの僅かな兵が、イシトの回りに残っただけであった。
大門が開かれ、更に多くの男達が、まっすぐにイシト目掛けて矢を放ちながら現れた。
イシトを守るように居た兵達は次々に矢に倒れ、終には、イシトひとりとなってしまった。
男達の中から、平群の長ヒビキが現れ、ゆっくりとシシトに近づく。
「イシトよ、観念せよ!」
「おのれ、ヒビキか!・・・我が父の恩義を仇で返すとは・・許せぬ!」
イシトは剣を振り上げ、ヒビキに斬りかかった。
ヒビキは鞘に入ったままの剣で受け止めた。
「何が恩義だ。・・・我ら平群一族と円一族を惑わせ、戦に仕立てたのはお前らであろうが!」
そう言うとイシトを突き飛ばした。イシトはもんどりうって転がった。
「ここで命を奪われるが良いか、それとも、小ずるいカラコの許へ泣いて帰るか、どうする?」
ヒビキはまるで幼子に諭すように告げる。
「何を!」
イシトは再び、剣を振り上げヒビキに切りかかろうとする。同じように、ヒビキは突き飛ばす。何度か、同じようなやり取りが続く。何度も突き飛ばされ、イシトはぼろぼろになっている。
「もう良いでしょう。」
カケルが止めた。イシトは荒縄で縛られた。
散り散りに逃げ隠れていた、イシトの兵達も次々に捕まえられた。大門の前には、多くの兵が縛られたまま、座らされていた。
兵達の前に、ヒビキが進み出た。
「我は、平群一族の長、ヒビキである。このたびの大和の混乱は、物部と蘇我一族が、皇君をないがしろにし、この国を手に入れようと画策したもの。全ては、ここにいるイシトが知っておる。」
ヒビキはそういうと、イシトを皆の前に引きずり出した。
「さあ、お前の知っていることを話してもらおう。」
イシトは観念していた。円一族を煽り、平群との戦を起こした事、后に拷問を与え殺した事等、ぼつぼつと語った。一つ一つ語られる事柄に、宮殿に集まった者も、兵たちも、怒りを露にした。
「よくも、それほど疚しき事を考えついたものじゃ・・。」
凡そ見当はついていたはずのヒビキでさえ、イシトの言葉には呆れていた。一通りイシトの告白が終わったところで、ヒビキが再び、皆を前に言った。
「すでに物部のマサラは、葛城王との戦に敗れ、行方知れず。その機をついて磯城王を亡き者とし、新たに庵戸の皇子を立て、東国や北国を従えようなど・・断固許してはならん。・・この国を治めるは、葛城王をおいてない。そなたらが、葛城王への忠誠を誓うのであれば、縄を解いてやろう。そして、最後の敵、蘇我カラコを倒す為働いてもらいたい。いかがじゃ?」
兵たちは皆、進んで葛城王への誓いをたてた。

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3-11 甘樫の丘 [アスカケ第5部大和へ]

11. 甘樫の丘
イシトの軍が出陣し、十日も経つのに、何の音沙汰も無い事を不審に思った蘇我のカラコは、密使を送り、様子を探らせようとした。しかし、その密使すら戻ってこなかった。
カラコは苛立っていた。庵戸王の宣下をしたにもかかわらず、大和国すら手中にできて居ない、ましてや倭国の実権を握るなど途方も無く遠い事のように感じられた。全ては、葛城王こそ真の皇君と崇める者がいる事、そして、その本拠ともいえる當麻や広瀬の里にいる者を根絶やしにせずには居れなかった。そのために、息子イシトに軍を預けたのだが、一向に結果が出ていない。
東国や北国の長たちの中にも、離反し、国へ戻ろうとする者もちらほらと現れ始めていた。だが、今、ほとんどの兵はイシトが率きいていった。宮殿には僅かな手勢しか残っていなかった。
「カラコ様!カラコ様!」
宮殿の中に声が響いた。玉座の間に居たカラコのもとへ臣下の一人が慌てた様子でやって来た。
「如何したのじゃ、イシトが戻ったか?」
臣下は深々と礼をして、ゆっくりと言った。
「物部のマサラ様、ご帰還でございます。」
予想もしなかった事態だった。葛城王との戦に敗れ、行方知れずとなったと聞いていたが、まさかここへ戻ってくるとは想像もしていなかった事態だった。
「それで、今、何処じゃ?」
「はい、宮殿より南、甘樫の地に居られるとの事でございます。」
「甘樫とは・・・・何故、かの地へ居るのじゃ?」
「紀の国を経て、吉野川沿いより大和へ入られたようでございます。・・甘樫の地は、古くから物部一族の所領にて、一旦、そこへお隠れになったようです。」
カラコは戸惑った。すでに東国や北国の長達には、マサラの悪行を知らしめ、大罪人にある事を認めさせている。再び、この地へ戻れば自らの嘘が全て露見する事になる。だが、今は大軍を率いて甘樫の地へ向かうことも叶わない。
「マサラが戻った事はまだ誰にも知らせては居らぬな?」
「はい・・先ほど、甘樫の里の長が参ったのを私が対面し聞いたのみでございます。」
「よし、その使者を呼べ。」
暫くして、甘樫の長が玉座の間に招かれた。甘樫の里は小さな集落であった。宮殿に集められた東国や北国の長は、小さな里をまとめる国の長級の者であった為、此度は、甘樫の長は宮殿には招かれておらず、蘇我のカラコの企ては全く知らなかったのだった。したがって、今でも、マサラこそが大和を守る豪族であると信じていたのだった。
「良くお知らせくださった。さあ、こちらへ。」
カラコは、甘樫の長を自分より高い場所に座らせた。
「マサラ様はお元気でしょうな?」
甘樫の長は、予想以上の出迎えを受け、上機嫌となった。
「はい、マサラ様は十人ほどと兵に守られ、吉野の険しい道程をお戻りになられました。我が甘樫の地にてしばらく休養を取られた後、宮へ戻ると仰せです。」
カラコは知恵を絞った。
「長殿、何卒、マサラ様へお伝えいただきたい。今、宮のあたりには、恐ろしき物の怪が現れ民を襲っております。わが子イシトが兵を率いて物の怪退治をしております。今しばらく、甘樫の地に居られるようお願いしたいのです。・・なに、春が来るまでには退治できましょう。皇子様も息災にてご心配なく。いずれ、私自らお迎えに参りますとお伝えくださりませ。」
「物の怪とな?」
「はい。白き狼の化身と、猿のような大男なる者、いずれも日暮れると現れ、民を喰うと怖れられております。」
「人を喰うのか?・・なんと・・おぞましい者か・・判った。伝えよう。我が甘樫の地は、そのような恐ろしき者は居らぬゆえ、安心じゃ。」
「では、すぐにも、ご出立なされるが良いでしょう。日暮れが近づけば、道中で出くわされぬとも限りませぬゆえ。」
「ああ・・じゃが、その前に、磯城の皇子にお会いしたい。マサラ様が、ご無事である事をお伝えし、皇子様にもご安心いただきたい。」
これにはカラコも困った。磯城の皇子は、牢から脱出して今はおそらく葛城の宮か當麻の里に隠れているはずであった。使者に不審を抱かれぬようにせねばなら無い。
「・・皇子様は、物の怪の騒動があり、宮から出てわが里へお隠れいただいております。ここには今居られませぬ。」
「何と・・では、皇子は蘇我の里か?・・どうしたものか・・ご無事かどうかわからぬでは困る。我が役が果たせぬ。・・・」
使者である甘樫の長は困った表情を浮かべた。
「判った。では、甘樫へ使者を出してもらおう。まずは、カラコ様のご伝言をお伝えする。私は、すぐに蘇我の地へ出向き、皇子様に謁見させていただきたい。」
カラコもこれ以上は誤魔化せぬと判断した。
「判りました。では、我が手の者を甘樫へ向かわせましょう。長殿は私とともに蘇我の里へ参りましょう。・・・しかし、これから出るのは危うい。明日朝にも発ちましょう。お疲れでしょう、まあ、今宵はごゆるりとなされませ。ではお部屋へ参りましょう。」
甘樫の長は何の疑問も無く、玉座の間を出る。長い回廊をカラコの後ろを着いて行く。しばらくすると、カラコは、臣下に命じて、甘樫の長を刃に掛けた。そして、その亡骸は地下牢に投げ込まれたのだった。
すぐに、カラコの使者が甘樫に向かい、指示通り、暫く里へ留まるように伝えられた。マサラは渋々承諾した様子だった。

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3-12 再会 [アスカケ第5部大和へ]

12. 再会
マサラを追いながら、山を超え、イコマノミコトと大伴のムロヤが、當麻の里へ到達したのは、カラコの元へマサラ帰還が知らされたのとほぼ同時だった。イコマノミコトは、當麻の隠れ里に真っ直ぐ向かった。もしや、そこにカケルが戻ってきてはいまいかと考えたからであった。
當麻の隠れ里には、磯城宮の牢から逃れた、磯城の皇子やその付き人、抜け穴を案内したヨシ、そしてハルヒ達が居た。ハルヒから凡その経緯を聞いたイコマノミコトは、ムロヤを伴ってすぐに、葛城宮へ向かった。
葛城宮には、葛城王へ忠誠を誓い、蘇我の支配から離れた多くの兵達がいた。そして、大和の国を守りたい一心で駆けつけた多くの里の男達も居た。
宮殿の広間では、カケルやモリヒコ、シシト、ヒビキ等が集まり、これからの策を相談していた。
「イコマノミコト様が、難波津よりお戻りです。」
知らせを聞いたカケル達は、すぐに大門まで迎えに出た。
「おお、イコマノミコト様、ご無事で。」
カケルが駆け寄り、手を取り無事を喜んだ。
「カケル様こそ、よく戻られました。難波津では、葛城王を始め、皆、カケル様のご無事を祈っておりました。良かった。・・・」
イコマノミコトはカケルの顔を見て、思わず涙を零した。
「済みません。皆様には、余計な心配をかけてしまいました。」
カケルは、イコマノミコトの手を強く握った。
「カケル様、覚えておいでですか・・レンです。忍海部のレンです。ご無事でよかった。・・モリヒコは役に立てましたか。」
「レン様。よくおいでくださいました。・・・難波津の水路は如何ですか・・もう立派に出来上がったのでしょうね。」
「はい。・・ソラヒコ様が、カケル様と完成を見届けたかったと残念がっておりました。・・ですが、あの水路のおかげで、物部一族の軍を見事に蹴散らす事ができました。それに、内海も随分水が引き、干潟となり、水田作りも始まりました。数年のうちに、草香江あたりは見事な水田になるにちがいありません。カケル様にもご覧いただきたい。」
「良かった。役に立てたのですね。皆様のご尽力の賜物です。私からも礼を言います。本当にありがとうございました。」
カケルはレンの手も強く握り、礼を言った。
その様子を、大伴のムロヤはじっと見つめていた。
難波津で聞いていたカケルと言う人物は、ムロヤの頭の中では、屈強で戦に長けた剛者という像ができていた。しかし、実際には、気さくで誰にも偉ぶることなく、むしろ、皆を尊敬する若者であった。ムロヤは、皆がカケルを慕う理由が判ったような気がしていた。
「こちらは、大伴のムロヤ様です。此度、物部との戦では大変ご尽力いただきました。マサラの軍を蹴散らす事ができたのも、ムロヤ様が居てくださったからなのです。」
そう言って、イコマノミコトがムロヤを紹介した。
「我は、出雲の国のはずれ、山背の里を治める大伴のムロヤと申します。」
カケルは、ムロヤとはもちろん初対面であった。だが、何か懐かしさを感じていた。ムロヤもまた、カケルの中に通じるものを感じた。
「ムロヤ様ですか・・出雲とはどのような国なのか、またゆっくりとお話をお聞かせ下さい。」
「ええ・・まずは、この大和の国の安寧。すでに西国は葛城王のもと、一つに纏まり、豊かな国造りを始めております。それは出雲にとっても善き事なのです。」
一通り挨拶を終えると、広間に一同が会してこれからのことを相談することにした。
イコマノミコトが口火を切った。
「私たちは、難波津から、マサラを追ってきました。だが、行方知れず・・紀の国まで逃れたのでしょう。」
「では、当面の敵は蘇我のカラコのみという事でしょうか。」
モリヒコが尋ねる。
「ならば、ここに居る兵で一気に磯城宮を取り囲み、カラコを滅ぼせば早いでしょう。」
ヒビキが言う。ヒビキはカラコへの怨念を持っている。一族が路頭に迷い、いまや、平群の里も廃墟と化している。すぐにでも殺してしまいたい衝動に駆られるのであった。
これには、おおかたの者が反対しなかった。大和の安寧のために、カラコを討ち果たすこそだけで良いのだと誰しも思っていた。しかし、カケルは違った。
「カラコを力で打ち果たす事は今の我らには容易い事かも知れません。ですが、それだけで良いのでしょうか。」
ムロヤはカケルの言いたい事が判った様な気がした。
カケルは続けた。
「大和の民は、豪族達が、大和を我が物にせんとして、繰り返す戦で疲れきっておりましょう。再び、我らが磯城宮を取り囲むような戦をすれば、もはや、我らも同類と思われましょう。結局、大和の民は、王族も豪族も信じられぬようになるのではないでしょうか。」
「だが・・蘇我一族を倒すことは、大和の民の為であるのは明白。それ以外に道はないのではなかろうか・・。」
ヒビキが言う。
「少し、宜しいでしょうか。」
大伴のムロヤが口を開いた。

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3-13 ムロヤの進言 [アスカケ第5部大和へ]

13. ムロヤの進言
ムロヤは、厳しい視線を感じていた。
「私は、出雲の神々を崇める国の者。大和の者ではありませぬゆえ、戯言と受け止めていただいても結構です。」
ムロヤはそう前置きした後話を続けた。
「出雲の国には、皇君など居りませぬ。ですが、それぞれの里は互いに助け合い、出雲の国を守っております。そこには、神々しきお力を持ち出雲を開かれし古の神々がおわすからなのです。出雲は、厳しき地。冬となれば背丈以上に降り積もる雪に閉ざされます。畑で取れるものも、大和の里とは比べ物にならぬくらい少ない。それでも、皆、奪い合うことも、いがみ合い事も無く助け合っております。」
それを聞いて、レンも口を開いた。
「我が、忍海部一族も同様。僅かな食べ物を分け合わねば生きていけませぬ。」
カケルも言った。
「私も、九重から西国を経て難波津へやってきましたが、どこも貧しき暮らしの中で互いに援けあい、仲良く暮らしております。いや・・貧しいからこそ助け合わねばなりません。吉備や明石、難波津と上ってくるに従い、物が溢れ豊かな暮らしとなっております。しかし、諍いも多く、騙したり脅したり、終には殺し合いまで。そのような暮らしを民は望んでは居らぬはずです。」
ヒビキもシシトも、カケルたちが言わんとすることが判ってきたようだった。
イコマノミコトが口を開いた。
「葛城の皇君は、どのような大和を・・いや倭国をお造りになられたいのであろうな。」
それを聞いて、當麻の里のシシトが答えた。
「民が互いに助け合い、諍いの無い穏やかな暮らしが出来る事であろう。・・葛城の皇君は、先の皇君が崩御されたのち、覇権争いを嫌いこの地へお隠れになったのだった。民が傷つく事をもっとも嫌っておられた。なあ、ヒビキ様、確かに蘇我のカラコの所業は許せぬ事、だが、我らが武力を持って対峙することは、再び、磯城宮あたりの民をも巻き込むことになろう。それは、葛城の皇君の望まれぬことであろう。」
平群の長、ヒビキも納得した様子で、カケルに言った。
「判った。もともと戦火を起こしたのは我ら平群一族である。その報いは受けた。これより後は、葛城の皇君の望まれる世を作る為に働こう。・・・で、この後、どうすれば良いのだ?」
カケルは、皆の顔をじっと見回してから言った。
「大和の西側の里は、こうして一つに纏まりました。これからは大和の東の里をまとめる事、そして、東国や北国の国々も、互いに助け合うようにするのです。決して、皇君に従うのではなく・・・そう、出雲の国が神々を崇め助け合うように、倭国の皇君を心の拠り所として纏まっていく事。そこに尽力すべきでしょう。ここには、これほど多くの人々が集まっています。皆で手分けして、大和の里、東国や北国へも使者を出して、我らが望む倭国の姿を広めて参りましょう。」
ムロヤは驚いていた。蘇我一族との戦がいつ起きてもおかしくない状況にありながら、あえて戦にせず、そればかりか、新たな国造りを口にするカケルが不思議でならなかった。しかし、一方で、それこそが今すべき事だと、得心する事ができるのも更に不思議でもあった。
「しかし・・・蘇我一族が刃を向けた場合、如何致しましょう?」
ヒビキがカケルに訊く。ヒビキの問いには、モリヒコが答えた。
「そうならぬため、カラコの息子イシトを使いましょう。・・使者を送り、速やかに磯城宮を出るよう求めるのです。さもないと息子の命を奪うと言えば、カラコといえども親。きっとわが子の命と引き換えなら、聞き入れるでしょう。」
「そう上手くいけば良いが・・・カラコは狡賢い。別の手を打ってくるに違いない。」
「蘇我のカラコの事は、今しばらく考えましょう。きっと良い策が見つかるでしょう。」
相談の結果、まずは、大和の里を纏める事と決まり、平群のヒビキや當麻のシシトが先頭に立って、それぞれの里へ縁者のある者を使者にして、次々に送ることになった。
蘇我のイシトが引き連れてきた兵達は、率先して使者となると申し出た。兵のほとんどが、磯城宮周囲の里や東国や北国の長達がカラコの命令で渋々差し出した者であった。兵の申し出を快く受け入れた二人は、葛城王を皇君とした安寧な暮らしができる新しき国造りに協力するよう長を説得する役を持たせて、それぞれの里へ帰す事にした。
その頃、磯城宮に集まっていた東国や北国の長たちも、蘇我のカラコから次第に離反し、それぞれの里へ戻りつつあった。
「ヒビキ様、大和の多くの里や東国、北国の主だった里には、使者が送れる手筈が整いましたが、甘樫の里あたりに立つ使者が居りません。」
ヒビキやシシトを支え、使者の采配してきたイコマノミコトが、広間に居たカケル達のもとへ相談に来た。
「あそこは、物部一族が所領としてきたところだ。容易ではあるまいな。」
ヒビキが首をひねりながら言った。
「イシトを使っては如何ですか?」
モリヒコが続けて言う。
「イシトは、蘇我からこの息子。イシトを連れ、甘樫へ行き、これまでの蘇我の悪行を教えるのです。その証拠がイシトとなりませぬか?」
「そんな事で蘇我一族の悪行を信じると思うか?ましてや、我らに味方するとは思えぬが・・」
シシトが問う。皆、沈黙した。カケルが口を開く。
「一度、甘樫の里へ行ってみましょう。それからでしょう。・・それと、イシトは解放しましょう。イシトを捕まえたままでは、カラコが再びここを襲うかもしれません。解放しカラコの許へ戻しましょう。」
一同は驚いた。

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3-14 アスカの言伝(ことづて) [アスカケ第5部大和へ]

14. アスカの言伝
「あの残忍なイシトを解放するのは反対です!再び、兵を率いてくるに違いありません。」
一番に反対したのはモリヒコであった。他の者も同じといった顔をしている。
「いえ、イシトは我らの様子を知っております。さらに、大和じゅうの里、東国や北国が我らに味方するよう動いている事も知っております。それでも、攻めて来るとは思いません。むしろ、我らの力を知っているからこそ、蘇我一族は無闇に動けなくなるに違いありません。」
「そう上手くいくでしょうか?」
イコマノミコトが訊いた。それには、大伴のムロヤが答えた。
「蘇我一族との戦いを避けるにはそれが唯一の策でしょう。戦をすれば多くの犠牲が出ます。蘇我一族を滅ぼしても、きっとどこかに怨念が残ります。そして、それがいつか争いの種になるに違いありません。今は、蘇我一族が邪な考えを棄て、葛城皇のもとへ帰順するのを期待してはいかがでしょう。・・イシトを解放し、我らと戦う事が無意味である事をカラコに進言させるのが良いでしょう。」
それを聞いて、平群の長ヒビキが言った。
「良いでしょう。・・ただし一つ条件があります。イシトを磯城宮へ戻す役を我ら平群の者にさせてください。磯城宮の大門まで引き連れていき、解放します。」
ヒビキは、カラコへの恨みがあるのではない。平群一族が失った誇りを今一度取り戻したかったのであった。カケルは、ヒビキの意図が判った。
「わかりました。ですが、一つだけ約束してください。カラコと戦はせぬこと。命を懸けるほどの相手ではありません。新しき国造りのために命を懸けていただきたいのです。」
「承知しております。」
ヒビキもカケルが自らの目論みを見抜いたことに気付いていた。
翌朝、イシトは荒縄で縛られたまま、平群の長ヒビキに引かれ、平群の男達とともに、カラコの居る磯城宮へ向かった。
その日の夜、夕餉を終えた後、カケルは、宮殿のはずれに設えた小屋に居た。シシトやモリヒコは、カケルに玉座の間の奥にある、王の間へ入ることを勧めたが、カケルはその身分に無いときっぱり断り、大門に近く外の様子がすぐに判る場所に小さな小屋を作ったのだった。
そこへ、レンとモリヒコ、そしてムロヤがやって来た。當麻の里で作ったという濁酒(どぶろく)を手にしている。
「カケル様にお知らせせねばならぬ事がありました。」
レンが少し慌てたような声で、小屋に居るカケルに声を掛けた。すぐに招き入れられた。カケルは、小屋の中で、剣の手入れをしていた。
「カケル様、アスカ様から伝言を預っておりました。」
カケルは、イコマノミコトやレンが現れた時、すぐにもアスカの様子を聞きたかったが、何か気恥ずかしさもあって思いとどまっていたのだった。
「アスカは・・息災ですか?」
カケルは少し紅潮した表情だった。レンは少し勿体つけるような言い方で答えた。少し酒が回っているようでもあった。
「はい・・・それは・・姫様はお元気で・・・葛城の皇君と宮殿でお過ごしでございます。」
「それで・・アスカからの伝言とは?」
レンは、カケルの耳元に口を近づけ、ひそひそと話した。カケルの顔が一瞬戸惑い、次には笑顔となる。そして、暫く俯き、なにやら複雑な表情を見せている。
「何です?レン様、我らにも教えてくだされ!」
こちらも少し酒が回っているのか、モリヒコが大きな声でレンをせかした。
「いや・・・」
レンはチラリとカケルの顔を見た。そして、
「アスカ様・・いや・・姫様のお腹にはややこが・・カケル様の御子が居られるとの事です。」
「おお!」
モリヒコは大いに喜んだ。そして、小屋を飛び出して、宮殿中を飛び回って、「カケル様に御子ができた」と触れまわった。宮殿の中ではあちこちで、わあという喜びの声が上がった。そして、次第に、カケルのいる小屋の前に集まってきた。
カケルは不思議な感情に包まれていた。
レンが、アスカから懐妊の言伝を受けて、すでにかなりの日数が経っていた。
「おい、それで、御子はいつお生まれになるのだ?」
話を聞いて、シシトがレンを掴まえて訊いた。
「いや・・それは・・私が難波津で聞いてから・・・」
レンは指を折りながら、月を数えている。そして、また慌てたような表情で言った。
「いや・・すでに・・・おそらく、先月にはお生まれのはずです。」
「なんと言う事・・それを何故もっと早く思い出さぬ!すぐに使いを出し、難波津の様子を聞いてくるのだ・・いや・・カケル様、すぐにも御子のもとへ行かれるが良いでしょう。」
そう言われたものの、カケルはまだ実感が持てないでいた。
「いや・・今はまだ・・この地を離れるわけにもいきません。・・ですが・・すぐに使いをお願いします。・・男子なのか、女子なのか・・いや、健やかに育っているのか・・とにかく、アスカと子の様子を見てきていただきたい。」
少しうろたえるカケルの姿に、皆、途轍もなく安堵していた。日ごろ、自らに厳しく、うろたえる事も無く堂々としたカケルしか知らなかった。
「いえ・・使いよりも自ら行かれませ。アスカ様もお一人で耐えておられたはず。お傍に行かれて労いの言葉も大事でしょう。大和の事は我らにお任せ下さい。」
カケルの小屋の前に集まった皆が、口々に言った。カケルは、翌日、難波津へ戻る事にした。

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3-15 神の国 出雲 [アスカケ第5部大和へ]

15. 神の国 出雲
ひとしきり祝いの言葉がカケルに伝えられ、深夜近くまで宮殿は宴となってしまっていた。
カケルは、そっと小屋に戻り、まだ見ぬ御子を思い浮かべていた。
そこへ、大伴のムロヤが現れた。
「此度は、おめでとうございます。」
「ありがとうございます。しかし、まだ実感が持てませぬ。」
「まあ、そう言うものでしょう・・ですが、御子を抱けばきっと判りましょう。」
ムロヤは、カケルの前に座り、宴の席から盛ってきた濁酒を注いだ。
「ムロヤ様は御子は居られるのですか?」
「はい・・・実は、五人の子がおります。皆、男子です。十五になる年に、男子は旅に出ねばなりません。今、里に居るのは一人だけ。あとの者は皆アスカケをしております。」
「アスカケ?・・それは、自らの生き方を求める旅のことですか?」
「ご存知なのですか?」
「いえ・・私も、今、アスカケの途中。ナレの村にもアスカケの掟があります。」
「ほう・・我が一族だけかと思っておりましたが・・・・・しかし今、アスカケに出る者も少なくなりました。・・」
ムロヤは残念そうな顔を見せた。
カケルは、アスカケの掟があると聞き、忍海部一族の巫女に聞いた話を思い出していた。そして、ムロヤに言った。
「ムロヤ様、出雲の国の様子をお聞かせ下さい。」
「出雲といっても広く、わが里は国のはずれの山背の国。神々を祀る出雲の御社は遥か遠くでございます。」
「ムロヤ様のお里の話で構いません。ぜひお聞かせ下さい。」
「私の里は、難波津から船で僅かなところの山背の国にある小さな集落でございます。我らの里には、出雲の神を祀る社があり、そこを守るのが私の役目なのです。」
「出雲の神というのは・・例えば、山の神や水の神といった八百万の神の一つなのでしょうか?」
「いえ・・それは、それとして、我らも大事にしておりますが・・我らが出雲の神とお呼びするのは、遥か、いにしえに、出雲の地を開かれた大国主の命様です。」
「大国主様?」
「はい、伝え聞く処、大国主様は、遥か海を越え、苦行の末に出雲の地へ辿りつき、様々な奇跡を持って民を導かれたお方なのです。本当の名を、信儀様と申されます。」
カケルは驚いた。そして、忍海部一族の巫女に聞いた、殷義・明儀の兄に間違いないと確信した。
「ムロヤ様、実は我らナレ一族の祖は殷義様と申され、海を越え倭国へ渡ったのです。そして、殷義様には二人の兄者が居られたと聞きました。一人は、忍海部一族の祖、明儀様。もしや、信儀様は、三兄弟の長兄ではないでしょうか?」
「では、出雲の国とナレの村、そして忍海部一族とは一つであったと申されるのか・・。」
それから、二人は、すぐに忍海部一族の、レンとモリヒコを小屋に呼び、お互いの一族に伝わる話をし合った。
伝えられた話は、すべて大陸から海を越えたこと、鋼や岩砦を作る技を持っておること、そして、アスカケの掟など、共通するものばかりだった。話すに従って、一つの一族であった事に確信を深めていった。
「ここまで判った以上、これよりはともに手を携えてまいりましょう。おそらく、此度の事は、高祖様のお導きに違いありません。」
大友のムロヤは上機嫌だった。出雲に伝わる神々の話が、夢物語ではなく、現実にあった事だとわかり、高祖信儀の存在が一層大きく、そしてまた誇らしく思えていた。レンやモリヒコも、長く、山中に隠れ住み息を殺してきた一族の辛苦が、すっかりと晴れた気持ちだった。
カケルは遠くナレの村を思い出していた。鋼を打ち剣を作ったあの時、目の前に現れた勇者こそ、殷儀であり、此度、アスカケはすべて、殷儀様が導かれたものであろうと確信していた。
ふと、御子が出来た我が身を振り返った。これまでは、自らの生きる道を求めひたすら歩いてきた。危険を冒すことすら、自らに課せられた定めであろうと受け入れてきた。だが、御子を持つ事はきっとこれまでとは違うはずだと考えていたのだ。
「ムロヤ様・・子を持ち、育てるとはいかなる事でしょうか。」
カケルは、真顔でムロヤに訊いた。
「カケル様・・・少し、肩の力を抜いてください。」
ムロヤは、濁酒を注ぎカケルに渡した。そして、ムロヤはカケルに質問に答えた。
「子を持ち、育てるということは・・・親になるという事です。」
「ええ・・それは判ります。その・・親とはいかなる者でしょう。」
ムロヤは噴出してしまった。
「カケル様・・カケル様にも父様、母様は居られるのでしょう?・・思い出せば宜しい。父や母はどうされていた?」
カケルは少し考えて答えた。
「日々、仕事をし、我らとともに居られました。・・・何かあれば、怒り、笑い、様々な事を教えてくださいました。」
「そうでしょう。・・子の傍に居て供に生きている事。・・・子はそれを見て育ちます。何も特別な事をするわけではありませんよ。」
「しかし・・これまでのようには・・・もっと、親としてすべき事があるのでは無いでしょうか?」
「それは、子が教えてくれます。心配要りません。子が親にしてくれるのです。」
ムロヤは、真剣に悩むカケルを見て微笑んで答えた。

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3-16 ヒビキ 磯城宮へ [アスカケ第5部大和へ]

16. ヒビキ、磯城宮へ
翌日にはすぐに、カケルは難波津へ向けて旅立った。
「心配されますな。大丈夫です。我らがしっかり務めます。・・大和も東国も北国もすぐに葛城王の下で平和な暮らしを取り戻します。」
大門の前には、葛城宮に居る全ての者が集まり、カケルを見守った。モリヒコもハルヒも供をする事にした。そして、大伴のムロヤも、一旦、山背の国へ戻る事にした。昨夜の誓いを胸に秘め、いずれ大和と出雲とが供に助け合う時代が来ると考え、すぐに出雲大国へ戻る事にしたのだった。

少し前、ヒビキはイシトを縛ったまま、磯城宮へ向かっていた。
イシトは、葛城宮を出る時から、上半身を荒縄で縛られ、葦だけが動ける状態にされていた。
沼を船で渡ればほんの半日ほどでつける距離だったが、ヒビキは敢えて、陸路を選んだ。それ程整備された道ではない。イシトは歩きながらも何度も転んだ。両手を縛られて居るため、転べば、全身を打つ。半日ほど歩いただけで、イシトの顔はあちこちは腫れ、血も出ている。体中、痣だらけになっていた。最初は痛みを感じていたが、次第に、それすら感じられぬほど、憔悴しきっていた。途中、野宿をして、翌日の昼ごろには磯城宮近くまで到達した。
ヒビキは、使者を送り、イシトを解放することを磯城宮にいるはずのカラコへ伝えようとした。
しかし、すぐに使者は戻ってきた。
「どうやら、様子が変です。磯城宮には兵が見当たりません。カラコも不在のようです。」
ヒビキたちは、磯城宮の大門の前に立った。確かに、磯城宮は、物音すら聞こえぬほどの静寂に包まれている。
「平群の長、ヒビキである。蘇我のイシトを連れてまいった。大門を開けよ!」
中から女人の声がした。
「今、カラコ様は不在でございます。・・どうか・・お帰り下さい・・。」
「蘇我のカラコの息子、イシトを連れてまいったのだ。開けよ!」
「開けてはならぬと申し付けられております。どうか・・どうか・・お帰り下さい。」
中から再び女人が返答をした。
「埒が明かぬな・・・しかたない、押し入る。」
ヒビキは供の男たちに命じて、大門の屋根に上り、中へ入った。中では女人達の悲鳴が響いていた。
「どうやら、兵はおらぬようだな。」
しばらくして、大門が開かれた。周囲に注意を払いながら、ヒビキたちは磯城宮へ入った。
ヒビキはまっすぐ玉座の間へ向かった。物音に気づいたのか、数人の翁と女人が現れた。皇子の付き人であろう。とても戦う事など出来るものではなかった。すぐに、ヒビキたちに捕らえられた。
「庵戸の王は何処だ?」
一人の翁が玉座の間の奥を指差した。すぐに王も捕えられた。
「なんとぬかったものか・・・よし、王もイシトも、あの地下牢へ放り込んでおけ。我らが受けた苦痛を二人にも味わってもらおう。」
皇子も荒縄で縛られ、イシトと供に地下牢へ連れて行かれた。地下牢の蓋を開け、階段を下りたところには、亡骸が一つ転がっていた。甘樫の長であった。
「カラコの仕業か・・・」
甘樫の長の亡骸は筵に包まれ、牢の中へ横たえた。そして、イシトと皇子も同じ牢へ入れられた。
「そなたの父がやった事だ。どういう事か、わが身で感じるが良かろう。」
ヒビキは、そういうと地下牢の明かりを全て消し、真っ暗な闇の中に、イシトと皇子を残した。しばらく、地下牢からは悲鳴のような叫び声が聞こえていた。
ヒビキは玉座の間に戻ると、宮殿にいた女人達を集めた。そして、カラコの行方を問い詰めた。一人の年配の女人が言う。
「今朝早く、甘樫へ出かけられました。」
「甘樫へ?・・一体、何をしに言ったのだ?」
「さあ・・判りません。ただならぬご様子でしたが・・私どもには何の沙汰もなく行かれましたゆえ、判りませぬ。」
「いつ戻ると言うて居ったのだ?」
女人達は顔を見合わせていたが、誰一人知らないようだった。
ヒビキは暫く考えてから、葛城の宮へ使者を送った。使者は、沼を船で渡り、すぐに葛城宮からは大勢の男達がやって来た。
カラコが不在の間に、磯城宮はヒビキによって武装され、再び、カラコが戻っても、入れぬ状態となったのだった。
「ヒビキ様、カラコが戻ってきた時、これだけの守りで大丈夫なのでしょうか?」
ヒビキの臣下達が玉座の間に集まり、相談している。
「皆よ、よく聞くのだ。我らはカケル様と約束した。無駄な戦はせぬと・・命は新しき国造りに懸けるとな。・・そして、我らはもう、平群一族というかつての豪族ではない。大和の民として生きる事を決めたのだ。良いか。出来るだけ戦にはせぬよう知恵を出すのだ。力だけで勝つのではない道を探るのだ。」
「しかし、カラコが弓矢や剣で攻めてくれば戦になりましょう。ただ守れと申されても・・。」
ヒビキの臣下は戸惑っているようだった。
「宮の周りの見張りを怠るな。カラコが戻る気配がすればすぐに知らせるのだ。無闇に、矢を放つでないぞ。・・わしに考えがある。良いな。」
磯城の宮では、宮の周囲にたくさんの男達が見張りに立ち、夜もたくさんの篝火を外門に並べられた。磯城の宮に多くの男達がいることは、遠くからも判るほどであった。

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3-17 香具山 [アスカケ第5部大和へ]

17. 香具山

当時、大和盆地には中央部は大きな沼が広がっていて、大水のたびに低地は水害に遭う。
葛城の宮も磯城の宮も、小高い丘を利用して作られていた。磯城宮は、大和盆地の東部、三輪山の裾野(現在の巻向あたり)にあった。カラコが目指す甘樫の里も小高い丘に集落は築かれ、低地には水田が広がっていた。

カラコは、磯城宮にいた全ての兵を連れて甘樫の里へ向かっていた。
甘樫の里までは、三輪山の裾野を伝い、香具山を越えたところまでくれば目の前である。カラコは兵を止めた。
「これより、大罪人物部のマサラを捕える。しかし、マサラも多くの兵を率いているに違いない。甘樫を攻めても不利。ここ香具山にて、待ち伏せし一気に襲うのだ。」
兵は戸惑った。確かに、磯城宮からの兵の数は百人にも満たないほどである。マサラの軍がどれほどか全く判っていなかったのだ。
「わしが、甘樫に潜むマサラを、磯城宮へ案内すると申し、ここまで連れて参るゆえ、この山中で一気に襲うのだ。良いな。」
カラコには思惑があった。兵同士がぶつかり犠牲が出るのを防ぐ為ではない。自らの悪行がばれぬようにする為、だまし討ちの策を取ったのである。
カラコは兵に下知すると、腹心を二人ほど連れて甘樫へ向かった。
「良いな、マサラに磯城の宮の事を悟られぬようにするのだ。そして、昔のように丁重に磯城の宮へ案内する。・・だが・・そのままにはせぬ。この山中で、マサラ一党の命を奪うのだ。ぬかるでないぞ。」
甘樫の里では、長が戻らぬことに不審を抱き、物部のマサラ達も苛立ちを隠せなかった。先に、磯城宮から来た使者に幾度も磯城宮の様子を尋ねるが、のらりくらりと交わされ埒が明かぬ状態であった。
ちょうどその頃、葛城宮から、イコマノミコトとレンが、甘樫の里の様子を探りに来ていた。
そこには、物部のマサラの姿があり、二人は驚いた。
「マサラが戻ってきている。・・敗走したはずだったが・・なんと、ここに戻っていたのか?」
レンは、マサラが甘樫へいることを葛城宮へ伝えるため戻った。イコマノミコトは、しばらく甘樫の里の中に潜み、動静を探る事にしたのだった。

「蘇我のカラコ様、ご到着にございます。」
里から、マサラの許へ知らせが来た。
「通せ!」
マサラは、長が用意した館の部屋に、カラコを呼び入れた。カラコは平身低頭、マサラの前に進み出た。
「ご無事で何よりでした。・・難波津の戦の様子は、使いより聞き及びましたが、いずれに行かれたのか見当もつかず・・さりとて、磯城宮へ残った兵も少なく、援軍を送ることも出来ず、申し訳ございません。」
カラコは丁重に挨拶をしたが、マサラは真っ赤な顔で怒りを露にした。
「甘樫の長を送り、随分と時が掛かったな!・・もしや、我をないがしろにするつもりではあるまいな!」
「滅相も無い!・・磯城宮あたりには、物の怪が現れ、民を脅しておりましたゆえ・・少しでもマサラ様にはご心配をおかけせぬようにと・・。」
「ふん、まあ良かろう・・すぐに磯城宮へ戻るぞ!支度をせよ!」
カラコはようやく顔を上げて、マサラを見る事ができた。しかし、マサラの様子が変だった。
両脇から従者に抱え上げられるように立っていて、かつての勇壮な姿とはかけ離れていた。すぐに館の前に、輿が引き出され、マサラはその上にゆっくりと運ばれ、座った。長い逃亡の中、マサラは足を患い、自力では立てなくなっていたのだった。カラコは、その姿を見て、マサラに気付かれぬよう、ほくそ笑んだ。
マサラの従者は、兵として難波津より逃れてきたものが十人ほどであった。それに、甘樫の里から十人ほどがつき従い、磯城宮を目指した。
カラコは、それらを先導して歩き、香具山を抜ける道を進んだ。
一行は、カラコが兵を潜ませた香具山の山中に入った。さほど険しくは無いが、輿を担いだ者には厳しく、徐々に、カラコたちから遅れる様になった。緩やかな曲がり角を過ぎた時、カラコは、潜ませた兵に号令をかけた。
「やれ!一気にやってしまえ!」
山の茂みに隠れていた兵が一斉に顔を出し、矢を放つ。しかし、マサラの伴もツワモノ揃いであり、大いに反撃した。輿に乗っていたマサラは、カラコの裏切りを知り、激怒した。
「おのれ!カラコめ!恩を仇で返すとは!」
香具山の狭い山道の中で、兵たちは縺れるように戦う。迫る刃から我が身を守る、ただそれだけに戦った。マサラを守る事など忘れ、ただ生き延びる為に戦う。そんな様相だった。
次第に、鎮まると、双方とも多くの者が命を落とし、亡骸は、山道のあちこちに倒れている。
輿に乗っていたはずのマサラの姿はなく、少し離れた場所に、首を矢に射抜かれて果てていた。
カラコも深手を負っていたものの、どうにかマサラを亡き者とすることが出来た安堵感で、山道に座り込んでいた。
生き残った臣下が近寄り、どうにか立ち上がると、マサラの亡骸を、山道の畔に穴を掘り埋めた。」そして、首だけを持って、磯城宮へ戻ることにした。
香具山から生き延びて出てこれたのは、カラコのほか、僅か数名であった。
山影から戦の一部始終を、イコマノミコトが見ていた。余りにも凄惨な状況に絶句していた。

3-17 香具山道.jpg

3-18 磯城宮の篝火 [アスカケ第5部大和へ]

18. 磯城宮の篝火
夕暮れの中、カラコはどうにか磯城宮が見えるあたりまで戻ってきた。
「カラコ様・・もうすぐでございます。しっかりしてください。」
切られた傷から出血が止まらず、半ば意識もぼんやりし、歩みもおぼつかない。臣下に支えられるようにして、歩いている。磯城宮の大門の屋根が見えた。
「カラコ様!磯城宮の様子が変です!」
磯城宮の周囲には、煌々と光る篝火が立ち並び、多くの男達が大門から周囲にかけて立っているのが見えた。
その中の一人が、カラコたちのほうを指差し、すぐに大門の中へ入っていった。
カラコは、大門に上がる石段辺りにまで辿りついたものの、もはや動けぬほどに弱ってしまって座り込んでしまった。
しばらくすると、大門から数人の男が現れた。
「カラコよ、よく戻って来れたものだ!」
声の主は、平群のヒビキであった。脇には、イコマノミコトもいた。イコマノミコトは戦の様子を見た後、すぐに磯城宮へ走り、状況をヒビキに伝えていたのだった。したがって、カラコが戻ってくることは先刻承知の事であった。
ヒビキは、カラコたちが座り込んでいる石段の上に立った。
「磯城宮はすでに我らのもの。もはや、お前たちの戻る場所はない!」
そういうと、ヒビキは、さらにカラコたちに近づいた。
カラコたちの臣下は、疲れ果てて、剣を抜く事すらできなかった。
カラコは自らの置かれた状況を理解した。
「これを見るが良い。」
カラコは、そう言うと、荒縄に縛られたイシトと庵戸王を引き出してきた。二人とも数人の男に抱きかかえられるようにしている。
目の前にいるイシトは全身ぼろぼろの状態であり、庵戸王は正気を失っている様子だった。二人とも、暗闇の地下牢に閉じ込められ、精神を壊してしまっていた。
「地下牢に入れておいたのだ。・・どうだ、そなたがわし達に強いた事が如何なる事か良く判ったであろう。」
ヒビキは、座り込むカラコを見下ろすようにして言った。
カラコは何も答えない、答える力すら残っていなかった。
「さあ、お前の息子と庵戸王は解放してやろう。こいつらを連れ、何処へでも行くが良い。」
ヒビキはそう言い放つと、イシトと庵戸王とを突き飛ばし、カラコの前に転がした。
慌てて、カラコの臣下が二人を受け止めた。二人とも定まらぬ視線で、立ち上がることさえ出来なかった。
ヒビキは、見張りをしていた男達に引き上げるように命じ、大門の中へ戻っていった。
篝火も一つ一つ、大門の中へ運び入れられ、大門は閉じられた。
磯城宮の周囲は暗闇が広がっていく。
カラコと僅かな臣下、そして、イシトと庵戸王は、その暗闇に残された。周囲には、野犬の遠吠えが聞こえていた。

磯城宮の玉座の間に戻ったヒビキに、イコマノミコトが訊く。
「カラコ達は如何するでしょうか?」
ヒビキは天井を見上げ、少し考えてから答えた。
「運がよければ、どこかの里へ逃げ込む事もできよう。」
「しかし、周囲の里が匿うとは思えませぬが・・」
「そうだろう。これまでの悪行を知っている里の者ならば、助けたりはせぬだろうな。・・・それに、あの傷ではそう遠くまでは行けまい。」
「では、あのまま死ぬと?」
「翌朝、もし生きて居るなら、助けてやる。・・我ら、平群一族はあやつの謀で多くの者が路頭に迷い、苦しみ死んでいったのだ。我が一族の恨みはやはり消せぬ。刃を持って命を奪うのは容易いが、カケル様との約束もあるゆえな・・。」
イコマノミコトはそれ以上、ヒビキに問うことはしなかった。
「これで、大和は静かになりますね。」
「ああ・・そうなってもらいたいものだ。・・明日からは、磯城宮の周囲の里へ使いを出そう。物部も蘇我も滅び、この大和の国から、戦はなくなったと知らせるのだ。」
「これからが・・本当の大仕事ですね。・・」
「ああ・・・カケル様が言ったような・・安寧な国造りができると良いのだが・・・。」
ヒビキには、まだ何か心配な事があるようだった。
「まだ、何かあると言われますか?」
イコマノミコトは、ヒビキの表情を見て訊いた。
「長く戦が続いたのだ。民は疲れておる。東国や北国のなかには、まだ物部や蘇我を慕う者もいるだろう。いや、物部や蘇我に抑えつけられていた者が、この機に何か企むかも知れぬ。この大和に戦を仕掛けてくる輩もいるかも知れぬな・・・」
「使いを送っただけでは無理だと言われますか?」
「そう簡単ではあるまい・・。豊かな暮らしを望み、財を成すことに取り憑かれた者はどこにも居る。気を引き締めて臨もうぞ!」

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