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3-19 難波津へ戻る [アスカケ第5部大和へ]

19. カケル、難波津へ戻る
葛城宮を発ったカケルとモリヒコ、ハルヒは三日ほどで、難波津の入口に着いた。
「カケル様じゃ!カケル様がお戻りになったぞ!」
三人を見つけた里の者がすぐに難波津へ知らせた。
水路の岸辺に着いたときには、たくさんの者が対岸に並び、手を振っている。
「カケル様、皆がご帰還を喜んでおります。」
ハルヒは、盛大な出迎えに驚きながらカケルに言った。カケルとモリヒコも手を振って答えた。すぐに、対岸から小舟がやって来た。漕いでいるのはソラヒコだった。
「カケル様、ご無事でなによりでした。皆、首を長くしてお待ちしておりました。」
岸に船を着けると、ソラヒコが大きな声で告げた。
「見事に出来ましたね。ソラヒコ様、よくやり遂げてくださいました。」
「皆で力を合わせやり遂げました。できれば、水門を開く時にはカケル様に見届けていただきたかったのですが・・。」
「いや、私など居らずとも、ソラヒコ様こそが功労者・・皆をまとめよくやってくれました。」
カケルの言葉に、ソラヒコは涙を流して喜んだ。
「さあ、宮へ参りましょう。」
すぐに、船は水路を渡り、対岸に着いた。カケルの姿を一目見ようと、岸辺には多くの人々が集まっていた。そしてその人だかりは、ずっと難波津の宮まで続いていた。
「随分多くの人がいるようですね。」
カケルの言葉に、ソラヒコが嬉しそうに答えた。
「水門を開くと、草香江の水位も下がりはじめ、干潟には水田を広げました。これまで、水害に困り、裾に移り住んでいた者が皆、集まってきました。水路を開く前の何倍もの民が暮らすようになりました。」
「そうですか・・・まさに、豊かな都となったのですね。」
カケルは感慨深げに言った。懐かしい顔もたくさん見えた。子ども達もはしゃぎながら、カケルたちの後ろをついてくる。知らぬ間に、カケルを先頭にした賑やかな行列が出来ていた。
ハルヒが言う。
「大和にもこのような幸せな暮らしが戻るのでしょうか・・・。」
モリヒコは周囲の賑わいを見ながら、そっとハルヒの肩を抱いて、
「きっと・・くる。いや、皆の力を合わせればきっと来る。来なくてはならぬ。」
そう言うと、唇を噛み締めた。
王宮が見えてきた。大門は開かれている。王宮の中にも、民が満ちていた。
「葛城の皇君は、王宮をいつも開かれているのです。王宮は民のもの。いかなるものも入ってこれるようにすべきだと申されておられます。」
ソラヒコはカケルを案内しながら言った。カケルも頷いた。人々の笑顔の中に一筋の道が開き、向こうから、葛城王や摂津比古が、やってきたのだ。
「よく戻った。無事で何より。」
葛城王がカケルたちを出迎えた。カケルやモリヒコ、ハルヒは王の前に傅いた。その様子に、取り巻いていた民も顔を見合わせ、驚いた様子で、皆その場に跪いた。
「そのような堅苦しい挨拶は無用じゃ。・・それに、ほら、アスカに遭わぬか。」
葛城王の後ろに、アスカが居た。胸には赤子を抱きかかえ、ただ、ぽろぽろと涙を零している。カケルは、顔を上げ、すぐにアスカに駆け寄った。
「済まぬ・・心配をかけたな。」
アスカは言葉が出ない。ただぽろぽろと涙を零し、カケルの胸に縋り付く。その時、胸に抱いた赤子が大きな声を上げて泣いた。
「これが・・子か?」
カケルは初めて見るわが子に、戸惑っていた。
「ええ・・元気な男の子です。」
カケルは、赤子の顔を覗きこんだ。カケルにそっくりの凛々しい顔立ちをしている。
アスカが赤子をカケルに手渡すと、カケルは少し戸惑い気味に、ぎこちないながら何とか両手でわが子を抱いたのだった。不思議だった。九重を出たときは、親になる事など、想像もしていなかった。今こうして子どもを抱き、皆に囲まれている。何と不思議な、温かいものが心の中に満ち溢れてくる。そして、力が湧いてくるようだった。
「名は付けたのか?」
カケルが問うと、アスカは頷いた。
「葛城の皇君に名づけていただきました。」
それを聞いた、葛城王がカケルに言った。
「済まぬ。そなたが名づけるべきなのだが・・いつ戻るのか判らず、かといって名が無ければ呼ぶことも出来ぬゆえ・・許せ。」
「いえ・・私も、名をぜひとも葛城の皇君にお付けいただきたいと考えておりました。ありがとうございました。・・それで・・名は?」
葛城王が一つ深呼吸をして言った。
「いろいろ悩んだのだぞ・・だが・・顔を見ておるとな・・・どうしても・・この名しか・・。」
その様子を見ていた摂津比古が横から口を挟んだ。
「そんなに勿体つけなくても宜しいのでは?」
「ええい・・今言う。名は、タケル。そなたにそっくりの子じゃ。タケル。どうじゃ?気に入らぬか?」
少し不安げな葛城王の顔は、ただの翁だった。
「いえ・・まことに良い名をいただきました。・・タケル・・そうか・・お前はタケルか!」
しばらくの間、王宮の中には拍手と歓声が溢れていた。

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3-20 親子の絆 [アスカケ第5部大和へ]

20. 親子の絆
カケルは、王宮の中で、王の館の隣に、新たに作られた小さな館に居た。
この館は、葛城王が、アスカがタケルを育てるためにと考え、日当たりの良い場所に作られていた。決して、大きくなく慎ましい作りながら、幾つもの太い柱に支えられた高床式で、風通しもよく、高い屋根に開いた戸口からは日も差し込む造りになっていた。侍女も数人、同じ館に寝泊りし、昼夜の世話が出来るようにもなっていた。
空には明るい月が輝いている。
広間の真ん中に置かれた、竹籠の中には、タケルがすやすやと眠っている。アスカがその脇でじっとタケルの様子を見ている。カケルは向かい側に座り、その様子をしみじみと眺めていた。
「ご苦労だったな・・・一人、子を産み、心細かっただろう。済まなかった。」
アスカは、カケルの言葉を聞いて、にこりと微笑んだ。
「私は独りではありませんでしたよ。・・・ずっとカケル様を信じておりました。それに、カケル様を慕う多くの方々に支えられておりました。これほど多くの人に祝福され、この子も幸せでしょう。みな、カケル様のお陰です。・・。」
「そうか・・」
「皇君がなにより喜んで下さいました。周囲も驚くほどに、まるで我が子のように可愛がられて・・カケル様がお戻りになられる前までは、毎晩、添い寝をされるほどでした。」
「では・・皇君はさぞかし寂しがっておられるな・・。」
「ええ・・でもきっと、朝には日の出と伴に、お顔を見に来られるでしょう。そして、摂津比古様や奥方もきっと立ち寄られるに違いありません。」
「そうか・・。皆に可愛がられておるなら何より。・・ナレの村でも、子は村の皆で育てたもの。誰の子ではなく、皆の子だった。」
「ええ・・きっとタケルも物心付けば、その事の大事さには気付くでしょう。」
「そうだな・・。」
カケルは、安堵したが、まだ不安げな表情をしていた。アスカはすぐにそれに気付いた。
「カケル様、まだ何か気がかりな事がお在りのようですね。」
「いや・・ああ・・。」
カケルは少し戸惑いを見せた。だが、決心したようにアスカに言った。
「・・私は・・まだ・・親という実感が無いのだ。・・いや、そうではなく・・上手く言えないが・・親とはどのようなものか判らぬ。大伴のムロヤ様は、この傍に居てやるだけでよいと言われた。子が親にしてくれるのだと・・だが・・わが子を目の当たりにしても、判らぬのだ。」
アスカはニコリと微笑んだ。
「カケル様・・私とて同じ。いや・・私は、母や父を知らずに育ちましたゆえ、親とは如何なるものか、見当もつきません。・・でも、身篭り、苦しみの末に産んだ時、気付いたのです。」
「何に気付いた?」
カケルは身を乗り出してアスカに訊いた。
「私は母を知らずに育ったのではありません。母は命を懸けて私を守り、私を救う為に、私を船に乗せ流したのだと・・。命を懸けて子を守る事が、親の仕事ではないかと・・。」
「命を懸けて守る・・か・・。」
「ええ、タケルを産む時、どうか無事に生まれておいでとそればかりを考えておりました。それは、私だけでなく難波津の皆の願いでもありました。もし、この子に何かあれば、私は代わりに命を差し出す覚悟ができました。ムロヤ様が言われるように、傍らに居てやれれば、きっと守ってやる事もできましょう。」
「そうか・・そうだな・・・私も、昔、ナレの村で魚取りに夢中になって帰りが遅くなった時、父に随分と叱られた。母に無用な心配をかけるなと・・・。幼きお前と会ったときも、モシオの村でも、アスカの事を皆が気にかけていた。お前が、高楼に登った時など、皆、怒っていたものだった。そうか・・そういうことなのだな。」
「傍らに居て、子を見守り、時には叱り、時には導き・・そう、貴方が私にしてくださったことをそのまま、タケルにもして下されば良いのです。」
アスカの言葉を聞きながら、カケルは胸のつかえが降りたような気持ちになっていた。
「では・・皇君も民の父であるということだな。」
カケルは、何気なく口にした。
「・・ええ・・きっとそうでしょう。あれほどの民が集い、これほどの都を作り上げたのは、葛城皇を親と思い、尽くしているのでしょう。・・私は、皇君を父に持ち、うれしゅうございます。」
「そうだな。・・皇君だけではない・・摂津比古様も同様だ。あの方が居られなければ、我らもこうしてここには居れなかった。・・皆に感謝し生きねばならぬ。・・その事を、タケルにも教えねばならぬな。」
カケルはそういうと、傍らで寝息を立てているタケルの顔を覗きこんだ。
「お前は、どのような男に育つのであろうな?」
それを見ていたアスカが言った。
「きっと、父様のような、素晴らしき男子に育ってくれるはずです。」
「そうか・・そうだな。」

タケルは、すやすやと寝息を立てている。久しぶりに訪れた、安らかな日々だった。
数日は、カケルはアスカと伴に、宮殿の中で過ごしたのだった。

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4-1 大和からの知らせ [アスカケ第5部大和へ]

1. 大和からの知らせ
カケルは、難波津宮へ戻ってから暫くは、アスカとタケルと伴にゆっくり過ごした後、摂津比古やソラヒコに案内されて、難波津の都の様子や、水路の具合、干潟を利用して広げられた水田の状態などを見て回った。
難波津の都は、もとの館があった場所より少し東側に、宮殿が新たに作られていて、そこから、堀江の庄まで、大路がつながっていた。大路には、太い柱を持った屋敷や倉が立ち並び、さらに外側に、民の家が広がっている。
堀江の庄は、最初は水路を掘り上げる為に寝泊りする程度の簡素な作りだったはずだったが、徐々に多くの者が集まり、水路を使って、明石からの大船も通るようになり、草香江の中にも桟橋が広がって、都の南側の港と水路側の港で競い合うように栄えていた。
ソラヒコは、水路側の港を仕切るほどの役を任せられていた。病を患っていた頃には考えられないほど、多くの者がソラヒコのもとに集まっていた。
昔、”念じ者“と呼ばれていた者達もみな元気になり、ソラヒコを助け、さらには、山背の国とも行き来する仕事も始めていた。
水路の様子を見ながら、カケルはソラヒコと伴に、草香江の畔に立っていた。
「カケル様、大和は如何でしょうか?」
ソラヒコは、集まってくる荷が山背の国へ運ばれる様子を見ながら、カケルに訊いた。
カケルも、大和の様子が気がかりになっていた。
「皆、しっかり働いているでしょう。きっと、大丈夫です。」
「早く、ここの荷を大和にも運べるようになると良いですね。」
「ええ・・きっと皆、喜びましょう。ソラヒコ様は大きな仕事をされましたね。」
「いえ・・私はカケル様に、新たな命をいただいたのです。カケル様の願いを少しでも叶えられるよう働いただけですから・・。」
カケルは、ソラヒコの言葉を聞きながら、目の前に広がる、豊かで賑やかな風景を感慨深く眺めていた。
「大和より、使者が参られました。」
そう伝えに来たのは、ソラヒコと供にカケルを手伝い、水路作りを勧めたイシヒコだった。
「お久しぶりです。カケル様。」
イシヒコは、手を患っていたが足が速かったため、水路作りの時には、それぞれの持ち場の連絡を取る役を果たしていた。今もそれは続いていた。
「お元気でしたが・・・今も変わらず、風のように森の中を駆け抜けているのですか?」
「はい。」
イシヒコは、少しはにかんだような表情を浮かべて答えた。そして、思い出したように言った。
「先ほど、大和から使者が着かれました。船で着かれたようでしたが・・宮殿でお待ちです。」
すぐに、カケルはソラヒコたちと供に、宮殿に戻った。
宮殿の広間には、葛城の皇君や摂津比古、モリヒコたちが、使者を迎えていた。
「おお、カケル、参ったか。・・さあ、こちらへ。」
カケルは、皇君に呼ばれ、玉座の隣に立った。
「カケル様!・・大和は・・大和はようやく鎮まりました。」
そう言って、顔を上げたのは、レンだった。涙ぐんでいる。
「レン様、・・よく知らせてくださった。皆、元気でしょうか?」
カケルの顔を見て安心したのか、レンは返事も出来ず、その場に座り込んでしまった。
「よほど急いで来たのだろう。おそらく、少しも休む事無く走り続けたに違いない。少し、休ませたほうが良かろう。」
摂津比古がそう言うと、何人かの女人が現れて、レンを奥の部屋に案内した。
「概ね、レンより聞いた。物部も蘇我も倒れたようじゃ。どうやら、平群一族のヒビキが采配を振るい、磯城宮を手中にしたようだ。イコマノミコトも供に居るそうじゃ。もはや、戦は起こるまい。これでようやく大和も静かになる。」
葛城王がそう言ってカケルを見た。カケルは、様子を理解し頷いた。
「だが・・これからだな。今、大和の国は束ねる者が居らぬ。平群のヒビキでは、再び、豪族が力を持ったと思い、民は簡単には力を貸さぬだろう。」
摂津比古が言うと、カケルが言った。
「ヒビキ様にはそのような野心は無いと思いますが・・。」
「たとえ、野心が無くとも、皇族が居らぬようでは、やはり民は従わぬであろう。・・葛城の皇君が大和へ戻り、新たなる宮にて世を治める事を民は待っておるに違いない。しかし・・今、難波津へ都を移したばかりだからなあ・・。」
それを聞いていた葛城王が言う。
「大和は、倭国の要。都を難波津へ移したといっても、やはり古より皇族の住まいは大和。いずれは、大和へ都を戻さねばならぬことは承知しておる。・・おお、そうだ。カケル、そなたが余に代わり、大和の王として治めてはくれぬか。」
葛城の皇君の言葉に、カケルは驚きを隠せなかったが、摂津比古は賛同した。
「いずれ、葛城王の跡継ぎとして、皇となるのは、カケル様に違いない。良きお考えです。」
カケルは答えた。
「私は、王になる身ではありません。それに、葛城皇の跡継ぎとしての資格もありません。しかし、葛城の皇君の臣下として、大和が安寧に治まる事は我が望みです。臣下として存分に働きましょう。」
それを聞いて、葛城皇が言った。
「良かろう。・・・そなたを国造(くにのみやつこ)とし、大和へ遣わす。良いな。」
カケルは承諾した。

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4-2  国造 カケル [アスカケ第5部大和へ]

2. 国造 カケル
カケルは、王宮を出て、アスカの待つ館へ戻った。
「アスカ、大和の国造に任じられた。再び、大和へ行く事になった。」
カケルの言葉にアスカは驚かなかった。これまでのカケルの仕事を考えれば当然であったし、カケルが大和の様子を気にしていた事は承知していたからだった。
「それは良うございました。ここ数日、カケル様は大和の事を案じておられましたゆえ、すぐにでもお発ちになられれば良いでしょう。」
「だが・・・そなた達のことが気がかりだ。・・ようやく、伴に暮らせると安堵したばかりであったのだがだが・・。」
アスカはニコリと微笑んで言った。
「大和はさほど遠いところではありません。今はまだこの子も小さいゆえ行けませぬが、・・そう、タケルが三つになったら、私も大和へ参ります。ですから、カケル様、それまでに大和を住み良い国にしてくださりませ。」
アスカの言葉に、カケルは心が定まった。
「判った。・・アスカとタケルが、心安らかに住める国を造ろう。三年あればきっと素晴らしき国になるだろう。・・よし、アスカ、楽しみにしておいてくれ。」

カケルはすぐに、大和へ発つ支度をしはじめた。供をする者も選び、大和の里が必要と思うものも手配するため、港に向かった。
港には、鞆の浦からの大船も入っていた。
「カケル様!お久しぶりです。」
声の主は、投間一族の長、イノクマであった。
「これは・・イノクマ様、お元気でしたか。皆様、如何ですか?」
「ええ、西国の海は以前にも増して栄えております。伊予やアナトとも行き来して、明石も随分にぎわっております。難波津に都が遷り、とにかく、毎日のように荷を運んでおります。・・水路も開け、近頃では、山背の国辺りにまで船を出す事さえあります。皆、カケル様のお陰です。」
「いえ・・私など大したことはしておりません。皆が力を合わせた結果でしょう。」
「港に来られるとは一体どうされました?」
「此度、葛城の皇君より、大和の国造に任じられ、近いうちに大和へ向け出立いたします。」
「カケル様が、大和の国造。それは良い。ならば、いずれ、大和川を使い大和へも荷を運ぶ日も近いですね・・これは楽しみだ。我らにお手伝い出来る事があれば、何なりと申してください。」
イノクマは、大いに喜んだ。しかし、カケルの表情が思いのほか固い事に気付いて訊いた。
「大和は難しき国なのですか?」
イノクマの問いは的を射ていた。カケルは、イノクマに大和の様子を話した。しばらく、話しを聞いていたイノクマが思いついたように言った。
「・・カケル様、これまで為された事を思い出されると良い。西国の者は、今、心を繋いで働いております。心を繋いだのはカケル様ご自身でしょう。・・それに、以前にお聞きした、邪馬台国再興の時も、多くのものの心をつなぐことで成ったとおっしゃいました。皆の心を繋ぐ事が何より大事でしょう。」
「心を繋ぐことですか・・。」
イノクマの話に、カケルは思い出していた。ここに辿り着くまで、多くの人の助けを受け、それに報いるために必死に働いた。そして、その結果が、明日を繋いだのだ。
ふと、イノクマの太い腕に二つほど細い紐を巻きつけてあるのが目に留まった。
「イノクマ様、その腕の紐は何ですか?」
イノクマはカケルの視線を追って、自らの腕を見た。そして、にやりと笑って答えた。
「これは、瀬戸の大海を行き来する者の証しです。・・そう、西海の船乗り達の証しです。・・もともと、アナト王が始められたようで、伊予でも、吉備でも、明石でも、これが証しとなり、互いに助け合う力となっておるのです。」
カケルはじっとその紐を見つめた。汗と潮とで変色しているが、元々は白い布のようだった。
「判りませぬか?」
イノクマはそう言うと、紐を解いて広げた。それは紐ではなく、布でくるくると紐状に捲かれていたのだった。目の前に広げられた布には、麻糸が小さな紋様のように縫いこまれていた。何か、昔見たことのあるようなものだった。
「これは、カケル様とアスカ様が着ておられた衣服の切れ端です。アナトの・・。ええっと・・どこだかの里で衣服を着替えられたはずです。その時の衣服をアナト王が小さく刻まれて、西海の船に渡されているのです。・・一つはカケル様、もう一つはアスカ様のものです。・・我らの心を繋いでいるのは、カケル様とアスカ様、その証がこれなのですよ。」
「そのような物を・・・。」
カケルは驚いていた。その様子を見て、イノクマは声を出して笑った。そして、
「アナト王だけではありません。・・明石でも、伊予でも、カケル様とアスカ様の残されたものは、祭壇に飾り、皆大事にして居るようです。・・こうして、カケル様にお会いできる私は、また、自慢話がひとつ出来ました。」
「なんとあり難い事か・・・。」
そう言いながら、カケルの頭には一つ考えが浮かんでいた。
「イノクマ様、ひとつお願いがあります、聞いてもらえますか?」
「これはありがたい。お役に立てるなら何なりと・・。」

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4-3 葛城皇の威光 [アスカケ第5部大和へ]

3. 葛城皇の威光
カケルは、イノクマに一つ頼みごとをすると、すぐに王宮に向かった。
王宮の広間には、葛城皇が、孫であるタケルとともに居た。西国の船が運んできた、珍しい大陸の品々が並べられていて、葛城皇は一つひとつ手にとって、タケルの顔辺りに持っていき、なにやら話をしているようだった。まだ、生まれて一歳にも満たぬ赤子は、ケタケタと笑うだけであったが、葛城皇は至福の時を過ごしていた。脇で、アスカがその姿を眺めながら、微笑んでいた。
「葛城の皇君、お願いがございます。」
カケルはそう言って、広間に入ってきた。
「何事だ?驚くでは無いか!」
「申し訳ありません。」
「おお・カケルか。なにやら、大和へ行くに当たり、支度に手間取っておる様だな?」
「はい・・・大和の国造りにあたり、いろいろと思案しておりまして・・。」
「まあ・・このタケルとアスカをここに遺して行くのが辛いのだろうが、大和の国の民のためだ。」
「いえ・・それはアスカも納得しております。それに、タケルは皇君が大切にして下さるゆえ、何も心配しておりませぬ。ただ、戦で荒れた国をまとめ、豊かにすることは容易ではありません。私一人の力など何の役にも立たぬかもしれません。ですから、皇君にお願いがあります。」
「何でも言うてみよ。・・・兵が?それもと人夫か?・ああ・・・米ならここから幾らでも運べばよかろう。」
「いえ、大和の民の心を繋ぐものが必要なのです。」
カケルの答えに、皇君は考え込んだ。
「民の心を繋ぐとは・・難しき事じゃな。一体それは何じゃ?」
カケルは、イノクマから聞いた、西国の男たちの腕に捲かれた紐の話を葛城王に話した。
「ふうむ・・・そなた達は、西国の民には、皇と同じ・・いや、神と崇められるほどになっておるようじゃな。」
「神などではありませぬ。一人の友として、懐かしく思っていただける事は嬉しい限りです。」
「で?どうするというのじゃ?」
「大和を纏めるとしても、それは、皇君のもとに纏まることが肝要。この世を治めるのは、皇君であり、その許で安らかな国を造るために皆が力を合わせなくてはなりません。ゆえに、葛城の皇君の縁の品を皆に持たせたいと考えました。」
「ふむ・・・だが、どのようなものが良いのだ?ここにある物は何でも持ってゆくが良いが・・大したものは無い。いずれも、海を越えた来た珍しきものではあるが・・。」
カケルもそれがどのようなものか、まだ、定まっていたわけではなかった。脇で聞いていたアスカが何か思いついたように口を開いた。
「私が、母様や皇君を探すよりどころとしたのは、この首飾りでございました。これが、私と母様、そして母様と皇君の心を繋いでくれたのだと思っております。・・・カケル様とて、その剣が、今でも九重の方々やナレの村との心を繋ぐものでございましょう。・・そうしたものが必要なのだと考えなのでしょう。」
アスカの言葉に、カケルも葛城皇も頷いた。それを聞いて、葛城皇ははっと思い言った。
「ならば、これを授けよう。」
そう言って、葛城皇は首に掛けられた飾りを外し、カケルに差し出した。
「これは、古来より受け継いできたもの。私が、大和に居た時にも首に掛けておったもの。當麻のシシトやイコマノミコトなら、これを見れば私のことを思い出すであろう。・・いや、平群のヒビキも同様。私を知るものならば、きっと判るに違いない。」
その首飾りは、黒水晶を丸く削り、数珠状に繋げたものだった。カケルはそれを見て言った。
「皇君様、この首飾りをばらばらにしても構いませぬか?」
葛城皇はカケルの考えがすぐに判った。
「それをばらばらにし、大和の里へ一つずつ渡すつもりか?」
「はい・・いけませぬか?」
「いや・・構わぬ。大和を治める我が分身という事なのだろう。よし、ならば、巫女に念を入れさせよう。守り神として里に置けば、さらに強き絆を作るに違いない。」
すぐに、巫女が呼ばれた。宮殿の中庭に祭壇が造られ、多くのものが集められ、念入れの儀式が執り行われた。
祭壇には、中央に神器の鏡が置かれている。そして、白木で造られた三宝の上には首飾りが置かれ、神饌や花も置かれている。
巫女は、詔を奉げた後、ひとしきり舞を踊った。そして、皇君の首飾りを糸を切り、ばらばらにして広げ、再び、祈りを奉げる。そうした後に、皇君が一つ一つの玉を強く握り、巫女の唱える祈りの言葉を繰り返し、念をこめた。そして、玉は桐の箱に収められたのだった。
数日後には、イノクマが、船を一艘手配し、港から水路を上り、堀江の庄の前に着けた。その船は、荷物を運ぶ為に細長い形をし、底は浅くなっていた。大海を渡る為のものではなく、明らかに川を行き来する為の船だった。
「カケル様、このような船で宜しいでしょうか?」
イノクマが着いた知らせを聞いて、カケルが伴となるモリヒコとレン、それと他に数名の男を連れて岸壁に現れた。
「ええ、これで良いでしょう。」
「それと、魚の干物や西国の品も積み込んでおります。これで、大和へ向かわれるのですね。」
「ええ、そうです。・・川を遡り、大和へ入ります。」
カケルは、遠く、生駒山を望み、大和へ思いを走らせた。後ろに控えていたモリヒコとレンは、手に桐箱を大事そうに抱えていた。

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4-4 亀の瀬 [アスカケ第5部大和へ]

4. 亀の瀬
葛城皇やアスカ、ハルヒのほか、難波津に居る多くの民が見送る中、カケルたちを乗せた船は水門を抜け、草香江に入り、そこから、大和川を遡った。
左手に生駒山、右手に葛城山を望み、狭い流れに注意しながら、男達は力を合わせて漕ぎ抜ける。思いのほか、流れは強く、岩場が迫るあたりでは、暫く進めないこともあった。それでも何とか、あと僅かで大和に入る、亀の瀬と呼ばれるところまで着いたが、その先には進めなくなってしまった。
「国造様、これ以上はどうにも進めそうもありません。」
漕ぎ手の一人が行く手を指さして、悔しそうに言った。カケルも、船の行く手に目をやりながら頷いた。急流だけであれば、何とか進むこともできるだろうが、行く手は、崖が大きく崩れ、岩がごろごろと転がっており、さらに、その先も同じように続くようだった。
「とりあえず、今日はこのあたりで船を着け休みましょう。」
カケル達の船は、流れの比較的緩やかな場所に着けた。万一の事も考え、積荷も降ろした。
「周囲に里は無いか探して参りましょう。」
漕ぎ手の中の若い男が申し出て、山手の方へ上がっていった。しばらくすると、その若者は、娘を一人連れて来た。
「山を少し上がったあたりに小さな里があるようです。娘の話では、休むくらいならできるとのことです。」
娘は、若者の言葉に頷いた。手には篭を抱えていて、篭の中には赤く熟れた木の実が入っている。
カケルは、積荷の幾つかを漕ぎ手の男達に持たせて、娘の案内で里へ向かった。
岸から急な斜面を暫く登ると、少し開けたところに、十棟ほどの家が立ち並んでいる。娘は、先に里へ入っていった。暫くすると、里から白髪の老人が出て来た。
「我は、カシコの里の長、ヨンジと申す。そなたらは何者じゃ?」
その問いには、レンが答えた。
「このお方は、葛城の皇君より大和の国造に任ぜられたカケル様。我らは、国造様とお供として、これより大和へ向かうところなのです。」
「ほう・・それは高貴なお方じゃな。・・そのようなお方を我が里でお迎えすることが出来ようか・・見てのとおり、侘しき暮らしをしておるゆえ、もてなす事等できませぬぞ。」
ヨンジの口調は厳しかった。葛城皇の名を聞いても、畏れ入ることなく、国造とて何者と思っているようだった。おそらく、周囲とは隔絶した生活をしているのだろうと思われた。ヨンジの態度に、案内してきた娘は、恐縮した表情を浮かべていた。
カケルは一歩前に進み出て、ヨンジの前に跪いた。そして、ゆっくりした口調で言った。
「突然、里へ入り込み申し訳ございません。難波津を出て大和川を上りましたが、思いもよらぬ流れで先を阻まれ、難儀をしております。一晩、身体を休める場所をお貸しくだされば結構でございます。お礼にもなりませぬが、大和へ運ぶ荷を少しお持ちしました。我らがご迷惑をおかけするお詫びの品として献上仕ります。」
カケルの低姿勢にヨンジは驚いた表情を見せた。国造といえば、国王に匹敵する役職であることはヨンジも心得ていた。それゆえ、高圧的に里から収奪する事さえなんとも思わぬ輩であってもおかしくない、それゆえ、わざと厳しい態度を見せたのだった。だが、目の前のカケルは、そのような態度を微塵も見せず、むしろ、臣下のごとく振舞っている。
「頭をお上げ下され。それほどまでに礼を尽くされれば拒む理由などありませぬ。さあ、こちらへお入り下され。」
ヨンジも態度を改め、カケルを敬うように里へ案内した。木立を切り開き、家を建て、子どもの顔も見えた。しかし、山中の厳しい暮らしは、衣服や表情からもすぐに判った。
カケルは、船から運んできた米や干物を里の者へ手渡した。皆、ありがたそうに受け取った。
里の中でも一番大きな館へカケル達は案内された。
「大和は戦火にあると聞きましたが・・・。」
ヨンジは囲炉裏に火を起こしながら尋ねる。
「はい、少し前までは豪族の戦が続いておりましたが、蘇我も物部も倒れ、これから新しき国を作るために、此度、国造様を遣わされたのです。」
ヨンジの問いにはレンが答えた。
「なるほど・・・しかし、この先、船は使えますまい・・。」
「ええ・・急流は上ることは出来ますが・・あれほどの地崩れではとても・・・。難儀をしておりました。」
カケルが言う。それを聞いてヨンジが答えた。
「あの辺りは、しばしば地崩れが起き、我らも難儀をしております。この辺りには小さな里が幾つかありますが、どこも、地崩れのために、田畑を作っても使えず、食うものにも困る有様です。」
「川が使えぬとなれば、大和と難波津を行き来するにも困ります。何とかせねば・・・。」
モリヒコが言う。そこまで聞き、カケルが言った。
「難波津にも願い出て、この地崩れを止める手立てを打ちましょう。」
「しかし、あれだけの規模、相当の人手が掛かるでしょう。」
ヨンジが訊く。
「どれほど人手がかかるとしても、かの地が通れるようにならねば、難波津とて困ります。大和の国造りさえも思うに任せぬ事になりましょう。」
カケルの言葉に、モリヒコが言う。
「明日にも、難波津に戻り、皇君にも奏上し、人手を集めて参りましょう。きっと力を貸してくださるはずです。」
レンも言った。
「ソラヒコ様やイワヒコ様たちであれば、堀作りの技をもって何とかなさるに違いない。」
カケルも頷いた。

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4-5 地崩れ [アスカケ第5部大和へ]

5. 地崩れ
翌朝、モリヒコが難波津への使者となった。レンは、一人、山を越え、大和への使者となり、カケルが国造として赴任してくる知らせを届ける事となった。カケルは、供の男たちとともに、難波津からの応援が来る前に、亀の背の地崩れの様子を、ヨンジの案内で調べる事にした。
渓谷となっている大和川の一方の崖が、高い山の中腹辺りから川中へ崩れてしまっている。太い木々たちとともに大和川が堰き止められ、地崩れの上流側には深い淵が出来つつあった。
「何とか、少しでもあの岩を取り除き、水を流さねばなりませんね。このままでは、これより上流は水に埋まってしまう。それに、水の重みに耐えかね、大きく崩れる事もあるやもしれません。崩れれば、ここより下は大きな被害が出るでしょう。」
カケルは地崩れの状態を見ながら、一刻も早く取り掛からねば更に大きな被害が出ることを予見した。
「皆さん、手を貸してください。少しずつでも川に溜まっている岩をどけ、水を流しましょう。」
カケルはそう言うと、誰よりも先に、川底へ下りて行った。舟の漕ぎ手として供をしてきた若者達も、カケルに言われ続いた。
「岩は、川下へ少しずつ落としましょう。少しでも水の出るところを広げるのです。」
カケルは、国造として用意された衣服を脱ぎ捨て、上半身裸になって岩に取り掛かる。一人で持ち上がる岩ばかりではない、若者達も次々に手伝い、岩を退け始めた。しかし、僅かな人数では、見た目に判るほど、岩をどける事等で着ない。それでも黙々と岩を退ける。案内してきたヨンジは、そんなカケルたちの姿を見て、すぐに里の者にも手伝うように命じた。そして、周囲の里へも使いを出し、徐々に人々が集まり、仕事を始めた。
夕刻が近づき、陽が山陰に隠れる頃には、何とか水路を確保するところまで進み、徐々に水が流れ始めた。しかし、上流から流れ来る水に比べればわずかなものだった。
集まった者たちは皆泥にまみれ疲れはてた表情をしていた。しかし、力を合わせ一つ一つ岩を除き、わずかだが水が流れ出ている様子を見て満足していた。
「国造様、明日もやりましょう。少しずつでもこうやって岩を除けば、いずれは水は流れ落ちていくでしょう。流れが始まればきっと川は元に戻りましょう。」
ほうぼうの里のものを集めたヨンジも満足気だった。
日暮れが来て一旦皆それぞれの里へ戻った。その夜は皆疲れて早くに眠ってしまっていた。
夜遅くなってから、急に雨雲が広がり、激しい雨が降り始めた。
翌朝、再び皆が地崩れの場所へ行ってみると、昨日取り除いた岩の辺りには、更に上方から土砂が流れ込み、取り除いた以上に積み上がり、さらに多くの水が堆積してしまっていたのだった。
「これでは、きりがない。」
意気揚々と集まってきた里の者たちは、ガックリとうなだれて川岸の斜面に座り込んでしまっている。カケルもこれには困惑した。それでも、溜まり続ける泥水をなんとか排出しないと、さらに危険な状態にあることは見て取れた。皆が項垂れ座り込む中、カケルは再び積み上がった土砂の上に上がると、黙々と土砂を除こうと動き始めた。
「無駄ですよ・・また、積もるに違いありません。・・」
カケルの様子を見ていたヨンジが諦めたような声で言う。しかし、カケルは手を止めようとしなかった。それを見ていた、若者が言った。
「カケル様、もっと上の方の土砂を取り除いたらどうでしょう。上から落ちる土を止めねばまた同じことになります。」
カケルは顔を上げ、山を見上げた。声を上げた若者は、浪速津から漕ぎ手として伴をしてきた男たちの中でも最も若い男だった。キリリとした眉、強い意思を感じさせる目をしている。
「そなたの名は?」
「はい、イリと申します。韓の国から一族で海を超えてまいりました。イノクマ様とは、鞆の浦にてお会いしました。ここにいる男たちは、皆、我が一族です。」
イノクマが漕ぎ手として集めた男たちは、韓の国の船(せん)一族の男たちだったのだ。そして、イリは、一族の長の息子であった。
「我が一族の里は、このような深い峡谷の中にありました。・・このような地崩れもしばしばでした。そのような時、我が一族の長は、地崩れの始まりの場所を見つけ、そこから手を付けておりました。」
カケルはその言葉を理解した。そして、
「イリ様、その仕事、其方が仕切ってくれぬか。・・・・ヨンジ様、宜しいでしょうか?里の者たちもイリ様に力を貸してくだされ。」
ヨンジが手を挙げて応えた。イリは、地崩れの中をじっくり探りながら山肌を登っていく。その後ろを里の者たちもついていく。はるか上方から声が響いた。おそらく、イリが地崩れの始まった場所を見つけたようだった。
カケルは、川の畔で水の様子に気を配っていた。地崩れはここだけではないかもしれない。ここより上流で同じように崩れている場所があれば、一気に水が押し寄せてくるかもしれないと考えたのだ。
イリは、山肌の亀裂を見つけていた。そしてその場所の土砂を少しずつ削り、脇へ運び出すように差配した。里の者たちは、籠や鍬を手にイリの差配に従って土を削り運び出していく。川でも積み上がった土砂を少しずつ取り除いていった。
一週間ほど同じ作業が続くと、水も順調に流れるほどになっていった。
その頃にようやく、難波津からの人夫がやってきた。それは、周囲の里から集まった人の倍以上の人数だった。

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4-6 新たな里作り [アスカケ第5部大和へ]

6. 新たな里作り
「カケル様、よくここまでやられましたな。」
モリヒコが、ソラヒコたちを伴ってカケルの元へやってきて、笑顔で言う。
「いや、私ではない。・・ほら、あそこにいる船一族のイリという者が差配し為したことなのだ。イノクマ様は良き男を遣わしてくれた。」
「ほう・・船一族ですか。心強い。・・一体、どのような者かお会いしたいものだ。」
ソラヒコは、地崩れの様子を眺めながら、熱心に働くイリという男の姿を探していた。
イリは、運び出した土を積み上げた後にできた小さな山の上にいた。イリは、小山を均して、流木を集めて小屋をいくつも作っていた。
「ほら、あそこにいるのがイリ様だ。」
カケルが指さすと、イリが気づいて駆けてきた。
「もうすぐ、皆様が御着きになると聞き、小屋を設えておりました。」
イリは礼儀正しく、モリヒコ、ソラヒコ、そしてカケルの前に跪いた。
「いや、立派な仕事をされ、その上、我らにまでそのような手配まで、なんと素晴らしき御仁だ。」
ソラヒコは感心した様に言った。イリはその言葉に顔を赤らめた。
「我ら船一族は、イノクマ様に命を救われました。ゆえになんとか御恩に報いたいと申し出たのです。ならばカケル様をお助けせよと申され、我らにできることを果たしたまで・・。」
「よい心がけじゃ。私も、カケル様に救われた身。命を賭してもカケル様に尽くすと決めた身じゃ。ともに助け合い、働きましょう。」
その日から、ソラヒコとイリは、共に、地崩れの様子を見て回り、この後の策の相談を始めた。

小山の上に作られた小屋の中で、モリヒコ、ソラヒコとイリ、そして、カシコの長ヨンジがカケルを取り巻くように座り、これからの相談をしていた。
「地崩れは、川の流れが岸を削ったことで脆くなり、そこから亀裂ができ始まったようです。おそらく、これからもきっと同じように起きるに違いありません。」
イリが口火を切る。
「それを防ぐには、川の流れを少し分けるが良いでしょう。地崩れの反対側を削り、流れを少し変えれば良いかと考えます。」
ソラヒコが続ける。
「川を削るとは随分大掛かりな仕事になるが・・・。」
ヨンジが訊く。それにはソラヒコが答えた。
「そのために、難波津から多くの者を引き連れて参ったのです。あれだけの者がいればきっとやりきれるはずです。」
「しかし、あれだけの者を養うほどの食べ物がありませぬぞ。」
ヨンジが訊く。ソラヒコは笑顔で答えた。
「それならば心配無用。もうすぐ難波津からここへ米や干物を運んで来る手はずになっております。それに、この地に新たな里を作るよう、葛城の皇君からも命じられております。」
ソラヒコの答えに、ヨンジは驚いて、カケルの顔を見た。国造の身分でありながら、皇君の命を取り付けるとは如何なる人物なのだと不思議に思っていた。いかに、大和と難波津を繋ぐ要衝であるとはいえ、そこまで皇君が関心を寄せ、多くの人手と財を出すという事が信じられなかった。
「カケル様、皇君からの伝言がございました。」
そう言ったのは、ソラヒコであった。
「皇子も姫も元気であるゆえ、心配無用。大和の国造りに何か出来る事はないかと宮殿には、毎日のように民が集まってくる。必要な事があればすぐに知らせよとの事でございます。」
それを聞いたカケルは、皇君に感謝の意を表すように頭を下げた。
「心強い御言葉。まずは、亀の瀬にて治水の仕事を成し遂げる。・・ヨンジ様、この辺りの民を差配する役を受けて下さりませ。」
それを聞いて、ソラヒコが加えた。
「ならば、ヨンジ様を大連(おおむらじ)とされるが良いでしょう。そして、周囲の里の長も、蓮(むらじ)の役に任じられると良い。我らは、これより大連、ヨンジ様の差配にて動きましょう。さあ、ヨンジ様、良いでしょう。」
「いや・・しかし・・そうした役は皇君から授かるものでは・・・一体、カケル様は如何なるお方なのか・・どうして、皇君はそれほどまでに・・・。」
ヨンジはすこし混乱気味に答えた。それを聞いて、ソラヒコが答えた。
「御心配は無用です。カケル様は、皇君様の皇子アスカ様の夫であり、いずれ、倭国の皇となられる身。カケル様の考えは、皇君様の考えと同じなのです。」
「では、カケル様は太子様ではありませぬか。・・そのような御方をこのような場所に・・畏れ多い事にございます。」
ヨンジは恐縮して答えた。それを見て、カケルが言った。
「ヨンジ様・・私は、そのような高貴な身ではありませぬ。生まれは九重の果ての山の中、幼き頃、アスカケの旅に出て、縁あってこのようなところで、皇君のために働いているに過ぎません。ただ、そうした役があれば、民を束ねる事ができるのであれば、大連の役を受けていただきたい。いずれ、この地を治めるべき御方であろうと私も信じております。是非にも。」
カケルの言葉に、ヨンジも納得し、大連としてこの地を治め、目の前の地崩れで疲弊した地を今一度蘇らせる決意を固めた。
翌日朝、周囲の里や難波津から来た者が皆、カケルたちの小山の小屋の前に集められた。

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4-7 イリの苦悩 [アスカケ第5部大和へ]

7. イリの苦難
「皆の衆、聞いてくれ!」
モリヒコが声を上げた。ゆっくりと小屋の前にカケルが現れた。
「私は、大和の国造カケルと申す。私の話をよく聞いてもらいたい。」
集まった多くの者が静まった。
「地崩れの修復は、大和にも難波津にも大事な仕事。もちろん、カシコの里や周囲の里の皆様には、悲願でもあるはず。しかし、この仕事は果てしなく大変なものなのです。ここに集まった全ての人々が力を合わせてはじめて成し遂げられるでしょう。」
カケルはゆっくりと、そしてはっきりと話した。
皆じっとカケルの言葉に耳を傾けている。
「その為に私は、カシコの里の長、ヨンジ殿をこの地の大連に任じます。これから、ヨンジ殿を柱に皆力を合わせていただきたいのです。」
皆、一瞬どよめいた。
「大連(おおむらじ)様とはどういう御方か?」「我らの王となるのか?」
口々に呟いていた。そして、カケルの脇に立つヨンジに視線を注いだ。
ヨンジは皆を見渡してから口を開く。
「国造様から、大連の役を仰せつかった。大連とは大役。この辺りすべてを治める役となる。だが、私は小さな里の長に過ぎぬ。多くの者を束ね、大仕事を成し遂げる自信などないが、ここを住み良い地に変えたいという願いは誰にも負けぬ。我が里の者だけではない、周囲の里、大和や難波津、言わば、この地は、倭国の要でもある。その気概で、大仕事を果たしたい。どうか、私に力をお貸し下され。」
ヨンジの低く響く声は、集まった者たちの心に届いた。すぐに、大きな歓声が上がった。
「さあ、モリヒコ殿、あれを。」
カケルが言うと、モリヒコは小屋の中から、桐箱を運び出した。
「これは、葛城の皇君より賜りし、黒水晶の玉。」
カケルがゆっくりと、桐箱の中から一つの玉を取り出すと、集まった者は溜息を漏らした。黒く如何にも高貴な、そして見ているだけで何か力が湧いてくるようなものだった。
「この玉は、都にて、皇君自らが、その手に持たれ、御力を込めた有難きもの。これを皆の拠り所とし、心を合わせ仕事に励んでいただきたい。」
カケルはそう言って、玉を高く掲げた。すると、玉から一筋の光が天高く射した。
「おお・・ありがたや。」
皆、その光景を目の当たりにし、その場に座り拝んだ。
「さあ、これを、大連ヨンジ様にお授けいたしまする。」
ヨンジが震える手で玉を受け取ると、更に光が強くなっていく。皆、大連ヨンジを見つめている。
再び歓声が上がった。
「この玉は我ら亀の瀬に住む者の神として、この地に祠を建て祀ることとする。朝な夕なに拝み、力を賜ることとしよう。」
ヨンジの言葉に、集まった多くの者達は再び歓声を上げた。
「よっし、さあ、皆の衆、仕事に取り掛かろう!」
ヨンジの掛け声で、皆、手に手に道具を持ち、立ち上がり、我先にと仕事に取り掛かった。
「ここはもう大丈夫でしょう。・・これが、カケル様の言われた、心を繋ぐという事なのですね。」
モリヒコガカケルに言うと、カケルは穏やかな笑みを浮かべて頷いた。
「ヨンジ様は、きっと素晴らしき大連になられるに違いない。」

集まった者たちは二手に分けられた。
一方はソラヒコが率いて地崩れの修復に、もう一方はイリが率いて対岸を掘削する仕事を行うこととなった。
川の流れをせき止めていた土砂はかなり取り除かれていて、穏やかな流れに変わっていた。
ソラヒコは、更に川幅を広げるため、土砂を取り除く仕事に着手し、順調に進んだ。
地崩れした土砂を削り、平坦にし、その外側に石を積み上げ段々にしていく。崩れ落ちた山の中腹辺りまで、その仕事は続いた。いずれはこの地を畑にする目論見で仕事を進めていたのだ。
一方のイリの仕事は難儀を極めていた。
遠めで見るより、実際の対岸は、硬い岩が剥き出しになっていて、切り立った崖となっていた。近づく事も容易ではなかったが、どうやって削ればよいか見当もつかないほど固い。持って行った道具は何一つ役に立たず、皆、岩肌を恨めしそうに眺め、途方にくれた。
ヨンジも、イリとともに崖を前にして、手も足も出ない状態になっていた。それでも、集まった男たちは、何か手はないかと必死に考え、いろいろ試している。
一週間ほど同じような日々が続いた。もはや限界だった。

男たちは、小山に作った集落から動こうとしない、いや、為す術なく途方にくれ、動けなくなっていたのだった。モリヒコも心配して、イリやヨンジとも対岸の様子を何度も見に行ったもののやはり、どうしたものかと頭を抱えたのだった。

イリは、焦っていた。何か手があるはずだと、崖近くに登ったり、対岸の山中を彷徨ってみたり、モリヒコの仕事の具合を見るたびに、ますます焦った。
ある日、対岸の崖をすべて見渡せる場所はないかと、カシコの里のある山中を彷徨ったあげく、山合いの急流の畔でついに蹲り、動けなくなった。

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4-8 ユラとイリ [アスカケ第5部大和へ]

8. ユラとイリ
イリは、谷を流れる急流をぼんやりと眺めていた。
轟々と音が聞こえる。おそらく近くに滝でもあるのだろう。斜面を流れる川の勢いは凄まじい。さほど大きな川ではないが、足を踏み入れれば、一気に身体を持っていかれるほどだった。

イリの姿が見えないのに最初に気付いたのは、ユラだった。
ユラは、カケル達が大和川を遡ってきた時、山中で、イリから声を掛けられ、カシコの里へ案内した娘だった。大連ヨンジの娘だった。
泥に塗れた男達の世話をする為に、里の女達を束ねて、里と小山の小屋との間を行き来している毎日だった。ユラは、日に日に元気をなくしていくイリの姿が気になっていた。仕事が行き詰っている事は、小屋に蹲る男達の様子からも判っていた。それを取り仕切るイリはまだ若く、追い詰められているのも判っていた。
ユラは、小山の周囲や崖の辺り、そして、山中を歩き回り、イリの姿を探していた。しかし、なかなかイリを見つける事が出来ず、落胆してカシコの里へ戻ったところで、里の婆様から、イリが山手の川近くで見かけたと聞いた。ユラはすぐにイリのあとを追って、山に入った。
「イリ様ー!、イリ様ー!」
ユラの声は、谷あいに響き渡る。その声に、山鳥が飛び立つ。そうやって必死にイリを探した。

急流に沿ってしばらく登ったところで、イリが座り込んでいる姿を見つけた。イリは、思いつめた表情でじっと急流を見ていた。
ユラはどう声を掛けようか迷った挙句、辺りに落ちていた枯れ木を数本拾い、手足、顔や衣服に泥を塗りつけた。そして、ゆっくりとイリの傍に歩いていくと、再び、枯れ木を拾いながら、わざと音を立てた。
急流の傍にいたイリは、背後から聞こえた音に振り向いた。
「おや・・ユラ様、いかがされました?」
「あら・・薪拾いに来たのです。なのに、すぐそこで、足を取られ転んでしまい、ここで身体を洗おうとやって来たのです。イリ様こそ、こんなところで・・・」
イリは、ユラの姿を見た。確かに手には枯れ木を抱いている。しかし、薪ならば里の周囲でも充分に手に入るはず。それに、転んだと言うが、汚れているのは手足と顔、衣服は前辺りに泥は着いているが、それほど汚れてはいない。イリは、ユラが自分を探しに来た事はすぐに判った。だが、気付かぬ振りをして言った。
「仕事が進まず、途方にくれているところです。何か妙案はないものか・・この畔で考えておりました。・・そんな事より、ユラ様、早く泥を落とされてほうが良い。美しい御顔が台無しです。」
イリは、ユラの優しさが嬉しかった。ユラも、美しい顔と言われ、顔を赤らめた。
「さあ、この流れで・・・しかし、これほど急な流れでは洗えませんね。」
イリは谷あいの急流に目をやって言った。ユラはニコリと笑って言った。
「いえ・・大丈夫です。さあ、イリ様、手伝って下さい。」
ユラはそう言うと、イリの手を取り、谷筋を降り、急流の近くに立った。
「さあ、そこの岩を持ってください。」
ユラが示したのは、二人で抱えなければ動かぬほどの岩だった。それを持ち上げると、急流の中へ放り込んだ。同じほどの岩を三つ、四つ同じ場所に投げ入れる。すると、急流の中に、緩やかな流れが生まれた。
「これで、流される事無く洗えます。」
ユラはそう言うと、水の中へ足を入れた。
「ひゃっ、冷たい!でも、気持ち良い。」
ユラはそう言うと、わざと汚した手足や顔を洗った。そして、ユラは衣服を脱ぎ始める。慌てて、イリは背を向けた。ユラは、汚れた衣服を洗おうとし始めたのだった。じゃぶじゃぶと服を洗う音が聞こえる。イリは、鼓動が高鳴った。イリは自分の着ている服も随分汚れていることに気付いた。
「イリ様、私も服を洗いたいのですが・・・。」
「ええ、良いですよ。さあ、どうぞ。」
「いや・・しかし、ユラ様は衣服を着ておられぬでしょう。それでは余りにも・・。」
「私は構いません。イリ様以外居られませぬ。イリ様に見られるのは構いません。さあ。」
イリもユラもまだ二十歳そこそこの若さである。イリは、何も言わず、衣服を脱ぎ、水の中へ飛び込んだ。水しぶきがユラの身体に掛かる。ユラも水に潜り、イリを追いかける。二人は、暫くの間裸のまま子どものようにはしゃいだ。イリはひとときの間、仕事の苦悩を忘れる事ができた。
はしゃぎ疲れた二人は、洗った衣服を木の枝に干し、乾くまで川の畔に身を寄り添うように座っていた。
「私は、この地で生きていきたい。」
イリがぽつりと呟いた。ユラは、水面を眺めたまま、「そう」と答えた。
「幼き頃、海を渡り、倭国へ着き、アナト、明石、難波津と転々としながら過ごしました。我が一族の安住の地を求めてずっと旅暮らしでした。・・此度、ここに来て初めて人々のために生きたいと思いました。この地で、ユラ様とともに生きていきたいのです。」
「嬉しい・・。イリ様がお傍においで下さるなら私もうれしゅうございます。」
ユラは、イリの肩に首をもたげた。二人は暫くそのまま動かなかった。
「あれだけの激しい流れが・・岩を置くだけでこれほど静かになるとは・・・。」
イリがぼんやりと呟いた。そして、いきなり立ち上がった。
「どうしたの?」
ユラが驚いて聞いた。
「これだ!そうか・・これだ。ユラ様、策が見つかりました。ありがとう。さあ、里へ戻りましょう。」

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4-9 堤 [アスカケ第5部大和へ]

9. 堤
二人はまだ半乾きの衣服を慌てて身につけると、カシコの里を抜け、小山の小屋へ走った。
「お話があります。皆さん、集まってください!」
イリは、小屋を一つ一つ回って男達を集めた。ユラも手伝い、男達を集めた。小屋の立つ小山にある、広場には仕事のメドが立たずに動こうとしなかった男達が次々に集まってきた。ヨンジやモリヒコ、ソラヒコ、そしてカケルも出て来た。
「イリ殿、一体どうされた?」
ヨンジが訊ねる。イリは、男達を前にしてどう話そうかと少し考えたが、決意したようにキッと目を見開いて言った。
「これまで、崖を削る事ばかり考え、終に行き詰まりました。元々、地崩れを防ぐために流れを変えようと考えてはじめたものでした。」
「ああ、そなたの発案であったはず。」
と、ヨンジが言うと、イリは更に真面目な顔つきで一気に言った。
「地崩れは、強い川の流れが岸を削り、山が崩れる事が原因です。だから、川の流れを変えようと思いつき、崖を削り流れを向こう岸へ変えようとしたのです。でも、それは無理でしょう。ならば、流れを弱める事ができれば・・岸を削る力が弱まれば、地崩れを遅らせることは出来ないでしょうか?」
「どうやって、流れを弱める?」
ヨンジが再び訊く。
「川の中に堤を幾つか作りましょう。流れが直接岸にぶつからないよう、上流に幾つか堤を作り、流れを弱めるのです。」
そこまで聞いていたソラヒコが言う。
「そうか・・岸にぶつかる水流を弱める事ができれば確かに地崩れは今ほど大きくならぬはずだな。だが、あの流れの中に堤を作るというのも難儀な仕事だ。どうやって取り掛かるつもりだ?」
「まずは、少し上流にある大岩を少しずつ動かし、足場を作ります。そして、地崩れした土砂を運びましょう。そして、その少し後ろ側にしっかりした堤をつくるのです。一つで足りなければそう、三つか四つか、堤を築き、岸辺にも大岩を並べて頑丈にするのです。」
イリの頭の中には、はっきりした絵が浮かんでいるようだった。
しかし、ソラヒコは否定的だった。
「イリ様は川の力を軽く見られております。激しい流れは、固い岩さえ砕き押し流してしまいます。そのような物を作っても、すぐに壊れてしまうでしょう。」
「それで良いのです。そうやって、少しでも岸を守る事ができるなら、壊れればまた作ればよいだけ。そうやって、川のほとりで暮らしていくのです。」
イリは、ここで生きる決意をしたように言った。それを聞いていたカケルが尋ねる。
「イリ様、よくわかりました。しかし、堤を作る策はイリ様だけで考えたのですか?」
イリは少し答えを躊躇った。そして、後ろに居たユラをちらりと見て言った。
「いえ・・ユラ様にお教えいただきました。・・先ほど、山の谷川でユラ様が激しい流れに大岩を入れ、流れを弱められたのを見て思いついたのです。」
イリの答えに、皆、一斉にユラを見た。ユラは皆の視線に戸惑い、イリの後ろに隠れた。それを見ていた、ユラの父、大連ヨンジが訊いた。
「ユラよ、そなた、それ程の山奥に何故行ったのじゃ?」
ユラは、イリの背に隠れたまま、答えようとしなかった。それを見て、イリが言った。
「薪拾いに行かれ、足を捕られて泥まみれになられておられました。・・そこで、川で体を洗ったのです。」
イリはそう言ってから、しまったと後悔した。しかし、ヨンジは聞き逃さなかった。
「体を洗ったとは・・そこに、イリ殿も居られたのか?」
もはや、イリはそれ以上言葉が出なかった。里を守る策を話していたはずだったが、思わぬ方向へ話が進みはじめていた。
ユラが思い余って口を開いた。
「父様、私はイリ様をお慕い申しております。ここ数日、元気がなく、今日も一人どこかへ行かれたようでした。私は・・心配で・・山まで探しに行ったのです。私は・・、ここで・・・、ここで・・・イリ様とともに生きて参りたいのです。いけませぬか?」
ユラは、言葉の最後には涙を零し始めていた。
ヨンジは思わぬ娘の言葉に驚いて返す言葉を失っていた。
イリへの質問から、おかしな方向へ話が進んでしまった事をカケルは少し後悔した。しかし、ここは何とかとりなさねばならない。
「よし、イリ殿。そなたの考えどおり、堤を造る大仕事、やってみるといいでしょう。ユラ様とともに、この地を守る決意はあるのですね?」
イリは「はい」と強く頷いた。
それを確認してカケルはヨンジに言った。
「ヨンジ様、イリ殿を大連殿をお助けする役に任じます。そして、堤作りの仕事を最後まで遣り遂げさせましょう。二人の事は、この大仕事を終えるまでにじっくり考えるとしませんか?」
「カケル様がそう仰せになるのなら従いましょう。・・・この里で本当に生きていくつもりがあるか、我が助けになるか、じっくり検分する事にしましょう。」
ヨンジは、カケルの言葉に、渋々承知した。
翌日から、川の上流に大岩を並べる大仕事が始まり、大勢のものが、イリの指図に従って働き始めた。船一族の男たちは、イリを助けるため、そのままカシコの里へ留まる事になった。
ユラは、イリの助けになればと、里の女達にも力を借りて、食事や汚れた衣服の洗濯など、とにかく必死で働いた。


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4-10 平群の里  [アスカケ第5部大和へ]

10. 平群の里
イリの仕事が始まるのと同時に、カケルはこの地を、ヨンジとイリ、そしてソラヒコに託して、大和へ向かう事にした。難波津を出て、ふた月近くが経ち、夏を迎えていた。使いとして磯城宮へ出向いたレンもカケルの到着が遅い事に不安を抱いているだろう。
カケルは、モリヒコの他十名ほどの従者を連れ、大和川に沿って歩いて大和へ入る事にした。従者は、背負えるだけの米や干物を持っていた。

亀の背を越えると、すぐに大和の国境に入った。最初にあるのは、平群一族が所領としていた地であった。
「もう日暮れの近くなりました。どこかて休むところを見つけましょう。」
モリヒコはそう言うと、従者とともに、里はないか探した。
しかし、円一族との争いで平群一族の所領は、大いに荒れ果てていた。
当の平群一族は、戦の中で散り散りになっており、あちこちに廃れた里が見られた。このような地は、大和のあちこちにあった。カケルは目の前に広がる、悲しき光景に腹立たしく思うと同時に、一刻も早く、大和を豊かな地にせねばならないと決意するのだった。
「やはり、この辺りには人は居らぬようですね。」
モリヒコは周囲を一通り回った後、落胆した表情で戻ってきた。
「いや・・・あそこに煙が上がっている。きっと誰か居るに違いない。」
カケルは、はるか遠くに上がる細い煙を見つけたのだった。幼い頃から、遠くまで見通せる目を持っていたため、モリヒコや従者には見えぬものまで見つける事が出来たのだった。モリヒコはカケルの指差すほうを見たが、それらしいものを見極める事はできなかった。
「とにかく行ってみよう。」
カケルは、煙が見えたほうへ皆を引き連れて向かった。
草が生い茂る道を掻き分けながら、カケルが見つけた煙の辺りに近づくと、明らかに宮と思しき建物があった。しかし、円一族との戦で焼き討ちに遭ったのか、大半が黒く焼け焦げていた。
「カケル様、何かの見間違いではありませぬか?」
モリヒコは、焼け落ちたような状態になった館の中へ入り込んでみた。
館の大半は焼けていたが、館の一角には、雨露を凌ぐ事ができそうな場所が残っていた。
「カケル様、どうにかここで過ごせそうです。」
そう言って、モリヒコが引き戸を開けると、薄暗い部屋の隅に蠢く姿があった。モリヒコはじっと目を凝らしてみると、女や子ども、それに老人達がが身を寄せ合い、隠れるようにじっとしていた。モリヒコが一歩部屋に足を踏み入れると、「ひい」と小さく漏れるような悲鳴が聞こえる。更に近づくと、皆、じっと頭を垂れて、「お許し下さい」と震えるような声を出している。
「どうしたのです?モリヒコ様」
そう言って、カケルが手に松明を持って入ってくると、部屋の隅には二十人ほどの老人や子どもが居て、皆、小さく身を固めているのが判った。
「何とした事か、一体どうして?」
カケルが近づくと、「命だけは取らないで下さい!」と若い娘が飛び出してきて、カケルの足元に平伏した。
「我らは兵ではない。命など取らぬ。一体、そなたらは何者だ!」
モリヒコが少し強い口調で訊いた。カケルの足元の娘は、平伏したまま、鳴き声交じりに言う。「我らは・・平群のものです。・・ここに隠れ住んでおります。何も、抗う事などいたしませぬゆえ、どうかお許し下さい。」
「何?平群一族の皆様なのですか?・・・ご無事だったのですね。・・良かった。きっとヒビキ様はお喜びになられるでしょう。」
一族の長、ヒビキの名を耳にして、蹲っていた者たちは皆、カケルを見た。カケルは一つ深呼吸をして、皆の前に座り込んだ。
「私は、カケルと申します。此度、葛城の皇君より大和の国造に任じられ、磯城宮へ向かうところなのです。もう戦は終わりました。物部も蘇我も滅び、今は、ヒビキ様が磯城宮で、大和の再興のために働いておられます。」
柔らかな口調でカケルは皆に言った。それを聞いた者たちは互いに顔を見合わせた。
「ヒビキ様は生きておいでなのですね。」
「はい。一時は、宮の牢獄に入られておられました。ヒビキ様も、平群の一族の皆様の事を案じておいででした。」
それを聞いて、皆、啜り泣きを始めた。
カケルは伴の者に命じて、荷を解いた。中には米や干物がたくさん入っていた。
「まずは、腹ごしらえとしましょう。我らは、亀の瀬からずっと歩き詰めでした。すぐに、食事に致しましょう。」
火を起こし、食事に支度が始まった。部屋の隅に隠れるように座っていた女達が、従者とともに支度を始めた。カケルは、食事に支度の最中に、館の周囲を歩いて見て回った。館のはずれには、大きな塚が作られていた。円一族との戦で命を落とした者も多かったに違いない。
「惨い事だ・・・。」
カケルがそう呟くと、すぐ後ろに先ほど足元に平伏した娘がいた。
「多くの者が命を落としました。・・私は、ヒビキの娘、サエと申します。私たちは、父様の命にて、母様ともに、里の奥深く、山中に逃れましたゆえ、何とか命を落とさずにいられました。戻ってくると、多くの亡骸が・・。」
そこまで言うと、サエは、その光景を思い出したのか、うっと小さく漏らしたあと、はらはらと涙を零した。

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4-11 母の病 [アスカケ第5部大和へ]

11. 母の病
「母様・・とは、ヒビキ様の奥方様ですか?」
カケルが訊くと、娘ははらはらと涙を流しながらもこくりと頷いた。
「今はどちらに?」
「・・山中に潜んでいるうちに、病となり、今は・・・あの部屋の奥で臥せっております。」
「病とは、どのような病なのですか?」
「・・・初めは、目を病み、今では全身の痛みで、動く事すら出来ぬように・・・。」
「お会いできませぬか?」
「母は・・誰とも逢われません。病がうつるのを恐れているのです。」
「薬草は何か試されたのですか?」
「いえ・・・そのような知識がありませぬゆえ・・・。」
「難波津では、病を治す館があります。私も少し薬草の心得がありますゆえ、何かお役に立てるかもしれません。是非、奥方様にお会いできるようお願いしていただけませんか?」
サエはカケルの申し出に目を輝かせた。
「母様の病を治せるのですか?」
「判りません。どのような病なのか判れば、術が見つかるかもしれません。」
「お願いします。母様の命をお助け下さい。」
サエは必死の思いでカケルの手を取った。すぐに、カケルはサエとともに館へ戻った。そろそろ、食事の仕度も出来るころだった。
「モリヒコ殿!」
カケルはモリヒコを呼び、耳打ちした。
モリヒコは頷き、館にいる者たちに、外へ出るように指示し、館の外で、食事ができるように手配した。皆が館を出たところを確認して、カケルはサエに目配せをした。
「母様、入ります。」
中から呻く様な声が聞こえたが、サエは構わず、引き戸を開け中に入った。カケルも続いて部屋の中へ入った。部屋の中は、暗くじっとりとしていた。
「サエ様、戸を開け放ってください。」
サエは、部屋中の戸を開け放つ。外の空気と夕日が部屋の中に差し込んだ。
「サエ、何をするの!」
悲鳴にも似た声が響く。サエの母は、部屋の中央に敷かれた鹿皮の上に横たわっていた。
「ご無礼をお許し下さい。私はカケルと申します。此度、葛城の皇君の命により、大和へ国造として赴くところです。ヒビキ様とは、磯城宮にてお会いしました。ヒビキ様は一族の方々の事を心配されておられました。」
カケルの言葉に、サエの母は横たわったままじっと眼を閉じて、涙を流した。
「ヒビキ様は・・ご無事だったのですね。」
「はい。今は、戦も鎮まり、ヒビキ様が磯城宮にて大和の復興のために奮闘なさっているはずです。きっと、奥方様にも早く会われたいに違いありません。」
サエの母は大きな溜息をつき言った。
「この身では、お会いする事も叶わぬでしょう。」
それを聞いたサエが言う。
「カケル様は、きっと母様の病を治してくださいます。お元気になられれば父様にもきっとお会いできるはずです。」
カケルは、そっとサエの母、シノの手を取った。そして、病状をつぶさに診た。目の病は、九重に居た時に治した事がある。目に効く薬草ならば、きっと見つかるに違いないと考えた。しかし、全身の痛みが不可解だった。難波津でみた肉が爛れるような病ではなさそうだった。やせ細っているが、見た目にはどこにも爛れも変色も無い。ただ、動かすたびに痛みが走るようだった。
「目の病はすぐに良くなるでしょう。」
カケルは、シノとサエとを安心させるように明るく言った。
「本当ですか?」
サエが今一度確かめるようにカケルに訊いた。
「同じ病を、九重に居た時に診ました。塩水でよく洗うだけでも随分楽になるはずです。そのあと、薬草を手に入れなければなりませんが・・・。」
「薬草・・塩・・・どちらも今は手に入らぬものです。」
サエが答える。
「塩なら、我らの荷物の中にあります。すぐに、水に溶かし、シノ様の目を洗って差し上げれば良い。薬草は・・・そう、難波津へ使いを出しましょう。きっと、難波津にあるはずです。」
カケルはそう言うと、外で控えていたモリヒコを呼んだ。
「モリヒコ殿、難波津へ使いを出していただけませんか。薬草が欲しいのです。おそらく、アスカならすぐに判るはず。」
モリヒコはカケルの言葉に頷いた。
「それなら、私が使いとしてまいりましょう。・・亀の瀬の様子も気になりますし・・。」
「それは心強い。・・ならば、薬に詳しい御方を・・そうだ。ナツ様は如何されておるだろう。許されるなら、ナツ様においでいただければきっとすぐにも病を治せるに違いない。」
ナツは、アスカが難波津で皮膚の病を治療する際に、真っ先に手伝い、ともに書物も学び、すでに治療の役を立派に果たしていた。
「判りました。明日、朝にも発ちましょう。」
モリヒコはそう言うと、再び外に出て行った。

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4-12 サスケ [アスカケ第5部大和へ]

12. サスケ
「さて、シノ様。目の病の治療は容易いでしょうが、体の痛みは少し厄介です。」
カケルの言葉に、サエもシノも不安げな表情を浮かべながら聞き入った。
「その病は、おそらく、長年のご苦労の末の病に違いありません。山深くの暮らし、食べ物も少なく、おそらくシノ様は充分にお食べになられなかったのではありませんか?」
サエはシノの顔を見ながら答えた。
「母様は、皆の事を気遣われて・・・いつも、私は最後で良いからと・・皆も気遣い、できる限り母様に食事をしていただこうとしておりましたが・・やはり、女人ばかりでは満足に狩りもできず、木の実や草ばかり・・皆、ひもじい思いをしておりました。」
カケルは「やはり」という顔をして言った。
「我が母も同じでした。そして、どんなに辛くても決して辛い顔を見せませんでした。」
カケルは、ナレの村を旅立つ日の母の様子を思い出していた。病に罹り、カケルやイツキが薬草を探し看病していた。随分辛かったにちがいないが、旅立つ朝、母は気丈に振る舞い、大門に見送りに出てきたのだった。病の母を残し、アスカケの旅に出たことを今更ながら思い出していたのだった。そして、カケルは心に誓った。自らの母には満足に出来なかった事をシノには何としてもやらなければならない。この病を治し、ヒビキとの再会を果たさせることと心に決めた。
「きっと良くなります。私が必ず直します。そして、ヒビキ様との再会を・・・。」
カケルの言葉に、シノもサエも涙を流して喜んだ。

翌日には、モリヒコが従者を二人連れて、難波津へ戻って行った。
「十日もあれば戻って来れましょう。薬草もたくさん持って参ります。」
モリヒコたちを見送ったあと、カケルはさえと相談し、磯城宮へ平群一族が里に隠れ住んでいた事を知らせるための使者を送る事にした。
しかし、カケルの従者は、大和へ初めて来た者ばかりで、誰も道が不案内であった。
「誰か磯城宮まで案内できる者は居りませんか?」
カケルがサエに尋ねると、暫くして、サエは一人の男の子を連れて来た。
まだ十歳ほどの男の子であるが、厳しい暮らしの中を耐えてきたらしく、しっかりした顔立ちであった。
「女人たちは誰一人、磯城宮へ行った者はおりません。私もこの里から出た事はありません。ですが、この子は一度、父様に連れられて磯城宮へ行っております。」
「そなた、名はなんと言う?」
とカケルが問うと、その子は目を見開き、カケルを睨みつけるようにして、
「サスケです。」
ときっぱりと答えた。
「この子は、我が弟。父様が先の皇君とともに磯城宮へ行かれた時、伴として参りました。」
サエの言葉にカケルは頷き、再び、サスケに訊いた。
「サスケ殿、磯城宮まで案内していただけるか?」
「大和川まで出て、そこから船で行けばすぐに着けましょう。」
サスケの返答はしっかりしていた。
「そうか・・だが、船はあるのか?」
カケルが訊くと、サスケは少し戸惑って答えを躊躇っている。何か、サエを気にしているようで、ちらりとサエを見た。視線が合ったサエがはっとした表情を浮かべて、サスケに問い詰めるように訊いた。
「まさか、あなた、川まで行ったの?あれほど、ここから出てはならぬと言い聞かせていたでしょう。言い付けを破ったの?」
サスケがすぐに答えなかった理由が判った。ここに潜む暮らしは、幼い男の子には窮屈だったのだ。時折、皆の目を盗んで、里を離れていたようだった。
サスケは観念したように答えた。
「食べ物を探すため、幾度か、ここを出て大和川へ行きました。・・兵の姿は無く、静かでした。船もありましたから、川へ出て魚を獲りました。」
「まあ・・なんていうこと・・・。」
サエは驚いてそれ以上怒れなかった。
「まあ、良いではありませんか。そのお陰で、磯城宮へ行く術が見つかったのです。サスケ殿、お手柄ですね。では、従者を案内してもらえますか?」
「はい。」
サスケは、自分が役に立てる事が嬉しかった。
平群の里の潜むような暮らしでは、女人たちに面倒を見てもらうばかりで、自分が何のに役にも立てない事に苛立ちを感じていたのだった。十歳の子どもと言えども、自分の役割がある事は嬉しいものだった。
すぐに支度を整え、サスケは従者たちとともに、磯城宮へ向かうことになった。
「カケル様・・母の病、きっと治してください。お願いします。」
サスケは里を出る時、カケルに真っ直ぐ向かって言った。
「ああ・・きっとお元気にして差し上げよう。約束する。サスケ殿も、父様と逢我、すぐに母様の許へ戻ってこられるようお話下さい。」
サスケは、カケルの言葉に喜び、従者たちを先導して、意気揚々と出掛けていった。

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4-13 大和異変 [アスカケ第5部大和へ]

13. 大和異変
少し、時は遡る。

磯城宮で、ヒビキとイコマノミコトが蘇我一族を追放し、大和にようやく平穏が訪れた頃、東国や北国では、大和の兵として借り出された男達が、それぞれの里へ戻り、大和の様子を伝え始め、徐々に動きが始まっていた。
大方の里は、葛城皇を皇君とする新しい国造りに従い始めていたが、やはり、豪族が支配した頃に財を成した族長の中には、自らの思惑で動き始めたものがいた。

蘇我一族を退けたのが、平群のヒビキと判ると、大和の隣国に住む、伊勢一族が大和を目指し動き始めた。伊勢一族は、古くから大和との関わりが深く、王族や豪族とも親交があった。物部一族が隆盛を極めていた時、海産物を大和へ収め、財を成していた。
同じく、東国の美濃一族も大和へ動き始めた。蘇我一族の者が、美濃へ移り住み一族を為した。以来、大和との行き来があり、山深い地にありながらも隆盛を誇り、遠く信濃へも勢力を広げるほどであったのだった。
いずれも、自らの国を守る為に、次なる実権を握るであろうと平群のヒビキに近づこうと画策していたのだった。皇君は、難波津へ都を開いている。大和が廃れる事になれば、伊勢や美濃はこのままでは衰退すると感じていたのだった。
磯城宮には、伊勢一族の長と美濃一族の長が、ヒビキの前に傅いていた。
脇には山ほどの献上品が並んでいる。この時、イコマノミコトは、當麻の里のシシトの知らせを受け、紀の国の那智一族の長を葛城宮へ出迎える為、留守にしていた。
「ヒビキ様、此度は大和の平定、おめでとうございます。これにて我らも安心でございます。」
美濃一族の長が低く響く声で言うと、伊勢一族の長も答えるように言う。
「これよりは、ヒビキ様がこの大和復興の柱となられるのでしょうな。」
ヒビキは答えに困った。まだ、難波津からの知らせは届いておらず、葛城の皇君がカケルを大和の国造に命じるのはまだ先の事であった。
「まだ判らぬ。いずれは、葛城の皇君の勅命に従うことになろう。」
ヒビキは慎重に答えた。
「しかし、此度の功労を考えれば、この大和の国を治める御方はヒビキ様より他ありませぬ。いや、勅命がないのであれば、今のうちに、ヒビキ様が治められるよう支度を整える事が肝要かと存知ます。大和を治めるための支度をしておいても皇君よりお叱りを受ける事などありますまい。」
伊勢一族の長の言葉に続けて、美濃一族の長が、さらに進言する。
「我らは、ヒビキ様に、力添えする所存にてこうしてやってきたのです。ご決断なさりませ。」
二人の長は、ヒビキに会う前にひとしきり相談を終えているようであった。二人の目論みは明白であった。
「ご決断なさるならば、我らの里より、このような荷をいくらでもお届けいたしましょう。大和は長く続いた戦で民はみなひもじい思いをして居る事でしょう。わが里の幸を皆に分け与えれば、ヒビキ様を慕う者も増え、大和を治めるのも容易となりましょう。」
ヒビキの脳裏には、カケルの顔がちらついていた。
暫くすると、伊勢や美濃から多くの男達が、たくさんの荷を運んできた。そして、磯城宮の大門脇にある館を我が物のように使い始めたのだった。

しばらく、磯城宮を離れていたイコマノミコトは、戻るや否や、磯城宮の変貌に驚き、ヒビキに問い詰めた。
「これはいかなる所存か?・・大和を我が物にしようというおつもりでしょうや?」
ヒビキは、詰め寄るイコマノミコトの剣幕に、つい怒りを覚えてしまった。
「我が物にとは心外な。大和を再び豊かな国にする為、伊勢や美濃の力を借りておるだけ。それより、その方こそ、長く磯城宮を離れ、何を画策しておった?當麻一族とともに何をしておった?聞けば、那智一族が現れたようだが・・・それこそ、那智一族とともに、我が物にせんと企んで居るのではないか?」
ヒビキの脳裏には、一瞬、伊勢一族の長の作り話が浮かんだのだった。
「何を言われる。葛城皇を唯一の王君と崇める那智一族が、そのような企てなどもとうはずも無い。一体、誰の入れ知恵!」
「入れ知恵とは、我を謀るのもいいかげんにするのだ!その方はただの将に過ぎぬ。一族の長ではなかろう。」
「一族の長とは・・・平群一族は散り散りとなり、もはや、一族など居られぬではありませぬか!」
その言葉はヒビキの心に突き刺さった。事実とはいえ、全ては王権の争いが引き起こした悲劇に過ぎない。ヒビキ自らが招いたとはいえない。そこをイコマノミコトに突かれ、ヒビキは我を忘れた。
「こやつ!な・・生意気な!・・おい、イコマノミコトを捕らえよ!我らの障りとなる。誰か!」
その声を聞き、伊勢一族の男達がイコマノミコトを取り囲んだ。イコマノミコトは腰の剣を抜いた。
「そら見ろ!やはり、我らを殺し、自ら、大和を手中にするつもりだったのだ。殺してしまえ!」
ヒビキの言葉に一斉に男達がイコマノミコトに襲い掛かる。しかし、剣の腕は誰にも負けぬほどのイコマノミコトは、数人の男を押し倒し、大門を抜けた。
「逃すな!追え!追うのだ!」
イコマノミコトは一目散に磯城宮を離れ、周囲に広がる葦の原に隠れた。大勢の男達が次々に大門から飛び出し、イコマノミコトの行方を追う。イコマノミコトは、大沼にじっと身を沈めた。

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4-14 磯城宮と葛城宮 [アスカケ第5部大和へ]

14. 磯城宮と葛城宮
結局、イコマノミコトの行方は掴めず、男たちは宮殿に戻ってきた。
「さあ、これでヒビキも覚悟を決めたに違いない。」
そう言ってほくそ笑んだのは、伊勢の長であった。
「ああ、これで我らがこの大和を・・いや、倭国を手にする日も近づいたな。」
答えるのは、美濃の長であった。
次の日から、伊勢一族と美濃一族は、ヒビキを統領と呼び、自らを大臣(おおおみ)と称して、かつては皇君の玉座が置かれていた部屋に、自らの座を用意させた。
「さあ、玉座にはヒビキ様がお座りくださりませ。・・政(まつりこと)は我らが行ないます。まずは、磯城宮の周りの里に御触れを出しましょう。この後、大和はヒビキ様が統領として治めると知らしめましょうぞ。」
伊勢の大臣は、派手な衣装に身を包み、韓から伝わった帽子を被り、恭しくヒビキに告げた。ヒビキが了解する前に、美濃の大臣が続ける。
「里の差配は、伊勢の大臣がなさると良かろう。我は、兵を率いて、西方への備えをいたしましょう。何しろ、我が美濃は、山深い地。里の男どもは、猟のために、弓の腕には長けております。獣と比べれば、人など容易い。強き兵となりましょう。」
もはや、磯城宮は、物部や蘇我が居た頃よりも怖ろしき男たちに牛耳られているようだった。
ヒビキは、イコマノミコトを追討しようとしたことを今更ながらに悔いていた。もはや、後戻りできぬとも考えていた。
「その方たちの好きにせよ。私は疲れた。少し休む。」
ヒビキは後悔の念に駆られ、意気消沈している様子で、玉座の間の奥の部屋へ入って行った。
それから、磯城宮は完全に伊勢・美濃一族に牛耳られ、大和の東半分は、伊勢や美濃のために存在しているようになってしまった。
美濃の大臣は、周囲の里から体格の良い男達を集め、美濃から連れて来た者の兵として仕立て、抵抗する周囲の里を攻め、徐々に勢力を広げ始めていた。
そんなある日、難波津の都から使者が訪れ、カケルを国造に任じた事が、伝えられた。
ヒビキは大いにうろたえた。カケルがこの有様を見ればどう思うか、あの日、地下牢の中で誓った事、そして當麻のシシトやイコマノミコトたちと成し遂げてきた事、全ての思いがヒビキの心に渦巻き、自らが招いた事態を悔いるだけでは済まされぬ事だと思い知った。
「その知らせ、すぐにも葛城宮へ届けよ。」
ヒビキは、使者に告げた。使者が葛城宮へ行けば、磯城宮の様子も知れるだろう。そして、自分が命を絶てば、おそらく、カケルが国造として再び正しい道へ導くに違いない。ヒビキは少し安堵した気持ちになっていた。
伊勢と美濃の大臣は、その様子を見て、もはやヒビキを統領に祀り上げる事は限界だと考えた。
使者が葛城宮へ向かおうと大門を出ようとした時、美濃一族の長が兵に命じて、使者を捕まえ、地下牢へ放り込んだ。
「カケルとか申す者がどのような人物かは知らぬが、皇君の命を受け、国造となり、この地へ参る事など知られてはならぬ。ようやく、大和を手中にできそうな時。・・こうなれば、兵を増やし、皇君とも戦を構えるしかなかろう。」
美濃と伊勢の大臣は相談し、ヒビキをも地下牢に幽閉した。
「ヒビキ様はご病気のようだ。しばらく養生のためお姿が見えぬようになる。心配要らぬ、我ら大臣が大和を治めて参る。」
伊勢の大臣は、磯城宮のみならず、大和の周囲の里へも使者を送ったのだった。

イコマノミコトが磯城宮へ行ったきり、何の使いも遣さぬ事に不審を覚え、葛城宮から使者が磯城宮へ向かった。使者は、物々しい雰囲気に包まれている磯城宮を見て驚いた。そして、周囲の里で磯城宮の様子を聞き、すぐに葛城宮へ戻った。
「そうか・・ヒビキ殿が・・・残念だ。」
磯城宮の様子を聞いた當麻の長シシトは、天を仰ぐように呟いた。
那智一族の長アキトもまだ、葛城宮に留まっていた。
「伊勢一族の企みに取り込まれてしまわれたようだな!・・やはり、豪族は信用出来ぬ。」
「いや・・ヒビキ様だけのせいではないだろう。」
シシトが言う。
「イコマノミコト様はどちらに居られるのか。」
那智一族のアキトが呟く。
「磯城宮の牢に入れられているか、命を奪われたか・・・。それにしても、それほど武装せねばならぬというのも妙ではあるがな・・。」
シシトが答えると、アキトが思いついたように言った。
「この葛城宮に攻め入るのであれば、磯城宮の守りを固める必要は無いはず。もしや、難波津の都から何か使者が来たのではありませぬか。」
「ふむ・・それはありうる。大和が鎮まり、もはや半年以上となる。皇君が動かれたとも考えられるな。・・では、都から使者が来ているはずだが・・・。」
「おそらく、その使者も磯城宮へ囚われているのでしょう。都の動きを我らが知れば、磯城宮とて困るでしょうからな。シシト様、いかがしますかな。」
「アキト様、ここは動かぬ方が良かろう。再び、大和を戦にしてはならぬ。」
「ではどうなさる?」
「おそらく、都からカケル様が戻ってこられるという使者のはず。もう近くまで来られているかも知れぬ。」

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4-15 大和の守り [アスカケ第5部大和へ]

15. 大和の守り
シシトの考えで、カケルの迎えのための使者が集められた。
難波津から大和へ入るには、三つの道しかない。峠越えで大和へ入れば、當麻の里へ入るか、葛城宮へ来る道となる。大和川を遡って来れば、大沼を船で渡り磯城宮へ向うことになる。
シシトは、大和川の畔にある広瀬の里へ使者を送った。
広瀬の里は、かつて、カケルとモリヒコが円一族のカヤツヒコと戦い、里の若者とともに、見事に勝利し大和を守った場所である。使者の到着に、広瀬の里は沸きかえっていた。
「カケル様がお戻りになるそうじゃ。」
「いや、もうそこまで来ておられるに違いない。」
「平群の里あたりに居られるかも知れぬぞ。」
カケルやモリヒコと伴に戦った若者たちは、すぐに大沼から船を出した。
ある者は、大和川を下り、ある者は平群の里を目指した。しかし、まだ、カケル達は難波津を発ったばかりであった。
大和川を下った者は、亀の瀬あたりで大きな地崩れがあった事を見て、慌てて戻ってきた。
平群の里へ向かった者達も、里には誰一人居らぬ事を確認し、肩を落として戻ってきた。
広瀬の里では、若者達が集まり、相談を始めていた。
「亀の背があのような大崩では、川を上って来られぬでは無いか?」
「では、峠越えで来られるか?」
「いっそ、亀の背まで行き、大崩を修復し、来られるようにしてはどうか?」
「しかし・・磯城宮の動きにも警戒せねばなるまい。兵を増やしておるようだから、いつ、葛城宮へ攻め入るか知れぬ。我らがここを離れれば、戦えぬぞ。」
いろいろな考えが飛び交った。そして、最後には、二つの意見に分かれた。大和川を下り、カケルを迎えに行く考えと、ここに留まりカケルの到着まで大和を守る考えであった。
広瀬の長は、若衆たちの話を聞き、まずは、磯城宮の動きを抑える事を考えた。何も知らず、かけるが磯城宮へ向かうことだけは避けなければならない。大和川の北には、平群の里より東側は、かつて蘇我一族が所領としていた里がある。主を失った今、磯城宮のヒビキの力が及ぶ事も用意に考えられる。そうなれば、大和は再び、東西に分かれて大戦を構える事になる。かつて、大和の戦を鎮める為、一つ一つの里へ使者を送り、葛城皇へ従うよう説得した時と同様、できるだけ大和の多くの里を、磯城宮から引き離す事が大事だと考えたのだった。カケルが戻ってくると聞けば、多くの里がきっと従うと長は考えた。
「すぐに、大和川を渡り、北の里へ向かうのだ。・・平群の里には誰も居らぬようだから、それより北・・斑鳩から奥へも使者を送るのだ。磯城宮の動きもわかるに違いない。」
若衆たちは手分けして、北の里へ使者にたった。そして、大和川の畔にも見張り小屋を建て、カケルの到着を待つ事にした。

それからしばらくしての事だった。大和川を上って来る者がいた。見張りの若衆が、すぐに見つけて里へ知らせた。里にいた若衆たちが大和川の岸辺で待ち構えた。
船でゆっくりと上ってきたのは、レンであった。
「何者だ!」
上ってきた船を若衆たちの船が取り囲んだ。レンは船縁に立ち上がり叫んだ。
「我は、国造カケル様の使い、レンと申す。磯城宮へ向かうところ。」
「何?カケル様の使い、まことか?」
すぐにレンは広瀬の里へ案内された。
レンは、広瀬の長の前に座り、カケルが葛城の皇君から、大和の国造に任じられ、大和川を遡る途中、亀の背にて地崩れを見て、今、修復の仕事を始めたところだと伝えた。
「カケル様らしい・・・。目の前の難儀を見過ごす事等できぬ御方だからな・・。」
広瀬の長はそう言うと、磯城宮でヒビキが伊勢一族や美濃一族と結託し、大和を我が物にせんと画策し、兵を増やしている事を話した。
「何という事・・・。一刻も早くカケル様においでいただかねばならぬようだな・・・しかし、亀の背の修復はかなり時間がかかるであろう・・如何したものか。」
レンは大方の状況を知り、思案した。
「カケル様はいつごろこちらへ来られましょうや?」
「おそらく、あの有様では・・・少なくともひと月は動けぬであろう。」
「では、それまで戦を起こさぬようにせねばなりますまい。」
「うむ・・磯城宮の動き次第ではあるが・・・どれほどの兵が集まって居るのか・・。」
「我らも磯城宮の動きは探っておりますが・・どうやら、ヒビキが病との事。結局、伊勢や美濃の一族が牛耳っておる様子。すぐには、多くの兵が集まるとも思えません。」
「しかし、備えはせねばなるまいな。」
レンの答えに広瀬の長は言った。
「その間に、大和中に、国造カケル様の名を広めましょう。今、大和の里の一つ一つへ使いを出しております。国造様となれば、葛城皇の名代であり、かつて、都の民であった大和の者たちも、正統なものとして従いましょう。・・ヒビキたちこそが、逆賊であり、従う必要の無い事が明白になりましょう。」

広瀬の長は、各地に出ていた使者に、「国造、カケル様が間もなく到着する」という話を広めるように指示した。
レンは、すぐに、葛城宮へ向かい、一部始終を伝える事にした。

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4-16 交差する謀 [アスカケ第5部大和へ]

16. 交差する謀
磯城宮では、カケルの一行が大和へ入る事に警戒していた。
大沼には多くの船が並び、美濃の男達が周囲の里から集めてきた男たちを兵として鍛えている。しかし、集められた男達の士気は低い。長く続いた戦で疲弊し、ようやく戦も終わり、田畑の仕事に精を出せると考えていた矢先、ヒビキの命で再び集められたために、不満が溜まっていた。
「おい・・里からの知らせで・・カケル様が国造として向かわれているようじゃ。」
「ならば・・おれらは・・カケル様と戦うということか?」
「ああ・・このままでは・・皇君を敵として戦う事になる。」
「おらあ、嫌だぞ。」
「おれだって、嫌だ!」
「だいたい、ヒビキ様はどうされておる?近頃は顔を見たことも無い。」
「ああ・・美濃の大臣(おおおみ)の指図ばかりだな。」
こんな不満と疑念が、集められた兵の中に徐々に広がっていた。
都からの使者が来て、ふた月近く経っていた。磯城宮では、兵を増やし、いつでも戦を仕掛ける事ができると豪語し、大和全域を手中にしたいと考える美濃の大臣と、磯城宮周囲から北部や東部をしっかり纏め上げ都からの兵に備えるべきだと考える伊勢の大臣とで、時折、言い争いも生まれるようになっていた。
「美濃一族は欲深い。たかが山奥の一族。蘇我一族との縁がなければ、山猿のごとく暮らしていたに過ぎぬ輩であろうにな。」
伊勢の大臣が、ふと館の中で漏らした。傍に居た臣下の一人が告げる。
「いっそ、美濃一族の言うとおり、東の里へ戦を仕掛けさせては如何でしょう。」
「戦をさせて何とする?如何に、兵を集めたといえ、みな、士気も低くまともな戦になどならぬだろう。」
臣下の言葉に、訝しげに答えた。
「それで良いのです。今、戦を仕掛ければ、きっと負けるでしょう。また、都からの兵が寄せればどうにもなりますまい。さすれば、美濃の大臣は敗走し、自国へ逃げ戻りましょう。そうなれば、実権は大臣様のものとなりましょう。」
伊勢の大臣はじっと臣下の言葉を聞いていた。
「しかし・・磯城宮の軍が負ければ、我らとてただでは済まぬぞ。」
「いえ・・都からの使者が話していたように、都から来る国造を取り込めば良いのです。おそらく、葛城皇から任じられたとはいえ、大した人物でもありますまい。大和のことをどれほど知っているかもわかりません。・・ヒビキや美濃一族に騙されたと開き直れば良いのです。我が地の海の幸は、大和の者にとって貴重なもの。そうそう冷たい扱いなどできぬはずです。」
臣下の言葉にじっと目を閉じ考え込んでいた、伊勢の大臣は、かっと目を見開いた。
「そなたのいう事はもっともであろう。良かろう。明日にも、美濃の大臣に戦へ出るよう進言しようではないか。・・・戦が始まると同時に、地下牢のヒビキの命を奪ってしまうのだ。」
一方、美濃の大臣も次への画策を始めていた。
「伊勢の大臣の言うなりにはならぬ。あいつは、伊勢の海の幸を力にこの大和を手中にするつもりであろう。・・良いか。ここで兵を増やすとともに、美濃からも兵を進めるのだ。・・三河一族にも声を掛けるのだ。伊勢が我らを謀った時には一気に伊勢へ攻め入るのだ。なあに、伊勢には兵は僅かしか居らぬ。さほど大きな国ではない。その気になれば我らの手中に治めてしまえばよかろう。」
美濃の大臣は、そう言うと、秘密裏に使者を走らせた。すぐに使者は美濃へ戻り、伊勢攻略へ動き始めていたのだった。
それぞれの謀略が動き始めた頃、カケルは亀の瀬の里を出て、ようやく平群の里へ入った頃だった。

サスケが案内するカケルの使者たちが、平群の隠れ里を出て、大和川の畔から船で磯城宮へ向かった。
対岸には、広瀬の里の若衆が見張りに立っていた。
「船が来ます。」
見張りからの知らせを受けて、広瀬の若衆たちが船を出した。大和川から大沼へ入ったところで、サスケの乗った船は、広瀬の若衆たちに取り囲まれた。
「我らは、国造カケル様の使いの者。これより磯城宮へ向かうところ。」
船から叫ぶと、一艘の船がサスケの船に近づいてきた。
「私は、広瀬の里の者。磯城宮には行かれぬほうが良い。平群のヒビキが皇君を裏切り大和を手中に線と動いておる!」
サスケは驚いた。
「そんな・・父様に限ってそのような・・。」
その様子に気づいた従者の一人が広瀬の若衆に問う。
「その話、真実か?我らを謀っておるのではあるまいな!」
「我らは、カケル様とともに円一族と戦った者。カケル様に恩義がある。先だっても、レン様を葛城の宮へご案内申し上げた!」
広瀬の若衆の言葉を聞き、従者は頷いた。
「サスケ様、ここは彼らの申すとおり、磯城宮へ向かわず、少し話しを聞いたほうがよさそうですね。」
サスケは戸惑いながらも、頷いた。
広瀬の若衆たちは、サスケの乗った船を誘導し、真っ直ぐ葛城宮へ向かった。

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4-17 サスケ 磯城宮へ [アスカケ第5部大和へ]

17. サスケ磯城宮へ
広瀬の若衆たちは、サスケたちを葛城宮へ連れて行った。
葛城宮では、レンが出迎えた。レンは、都からともに来た従者達に、これまでの経緯を説明した。
「やはり、まことでしたか・・・。」
従者の一人が残念そうに呟き、ちらりとサスケを見た。
「この者は、ヒビキ殿の息子、サスケ殿です。円一族との戦の後、平群の山深くで忍び、暮らしておりました。母御や姉様も平群におられるのです。平群一族は長く隠れて生きながらえていることを何としてもヒビキ様へお知らせしたいとカケル様が・・・。」
従者の言葉に、皆、沈黙した。今、磯城宮に近づく事は、戦が起きるきっかけとなるに違いない。まして、すぐに、ヒビキに面会できるとも思えなかったからだ。
「私は磯城宮へ行き、父様に会ってまいります。」
沈黙の中で、サスケが突然言った。
「いや・・今は磯城宮へ近寄らぬ方がよい。戦支度を整えておる中へ向かうのは無謀だ。」
レンが止めた。
「私のような子ども一人なら、きっと中へも入れましょう。・・私にはどうしても、父様がそのような無体な企てを考えるとは思えませぬ。何かの間違いに決まっております。・・いや、もし、そのような考えであれば、父様を説得します。・・母様のお命を救って下さろうとする御方をないがしろにするなど許せませぬ。きっと父様はわかってくださるはず。」
「しかし・・・。」
レンはそう言ったものの、事態を切り開くには、それしか方策もないのではと考えた。
「お前の命も危ういかも知れぬぞ?」
當麻の長シシトが訊いた。
「かりに父様が、皇君に背いて大和を我が物にせんと考えておられるなら、我が命をもって諌めねばなりません。命を落とす事など覚悟しております。」
僅か十歳ほどの少年の言葉とは思えなかった。おそらく、幼い頃から厳しく育てられたのだろう。
「サスケの覚悟はわかった。・・では、明日にも磯城宮へ向かうことにしよう。近くまで船で向かい、我らも隠れて様子を伺うことにしよう。・・・おお、そうだ。確か磯城宮の事を良く知る女人が居ったはずだが・・・。」
シシトが言うと、すぐに、ヨシが呼ばれた。ヨシは、磯城宮の牢から脱出した時、皆を案内した女人だった。事情はすぐにヨシも理解した。
「私が、磯城宮までご案内しましょう。女人であれば兵達も構えることも無いでしょう。」
翌朝には、葛城宮から船が出た。レンやシシト、それに広瀬の若衆も何人か乗り込み、磯城宮の見える岸辺に着いた。
「さあ、ここからは、二人で行くのだ。何かあればすぐに助けに向かう。」
レンがそう言って二人を見送った。
葦の原を抜け、ヨシとサスケは磯城宮へ向かった。
磯城宮の大門には、兵が十人ほど並んでいた。ほとんどは周囲の里から集められた男で、弓や剣は持っているものの、いずれもおぼつかない手つきである。二人ほどが、美濃一族の男のようだった。大門に近づく人影を見つけ、すぐに男達は、サスケとヨシを取り囲んだ。
「何処へ行く?」
兵は強い口調で訊ねる。
「私はヨシ。隣の里の者。こちらは、ヒビキ様の御子サスケ様でございます。」
「何?・・ヒビキ様の御子?・・まことか?」
サスケは真っ直ぐ兵を睨みつけこくりと頷いた。「どうする?」と兵たちは相談を始めた。
「父様に会わせてください。お伝えせねばならぬ事があります。」
サスケはきっぱりとした口調で言った。子どもと女人、宮の中へ入れたところでどうにでもなると考えた兵は、二人を宮の中へ案内した。

「何?ヒビキの息子が現れた?」
知らせを受けた伊勢の大臣が言う。
ヒビキはすでに牢の中に閉じ込めている。引き出して逢わせるなどありえなかった。
「わしが面会しよう、連れてまいれ。」
伊勢の大臣は玉座の間へ二人を通し、面会した。
「父様はいかがされておりますか?」
伊勢の大臣の前に跪いたサスケが訊く。
「少し前より病に臥せっておられるゆえ、わしが聞こう。」
「父が病?・・どこにおいでなのです?・・一目合わせてください。」
「いや、それは叶わぬ事。それよりも母御からの言伝とは如何に?」
伊勢の大臣の問いに、サスケは答える。
「いえ、父様にお会いして直接お伝えいたします。さあ、あわせてください。」
「ええい、生意気な子め!こやつらを牢へ入れてしまえ!」
サスケの強情さに頭にきた伊勢の大臣は、サスケとヨシを縛り、地下牢へ閉じ込めたのだった。

僅かな灯りが点る地下牢の中に放り込まれた二人は、そこにヒビキの姿を見つけた。満足に食事も与えられなかったのか、衰弱しているようだった。
「父様!父様!サスケです!」
荒縄で縛られ、満足に動けないサスケは、薄暗い牢の中を、這いずるようにしながらヒビキに近づいた。

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4-18 ヒビキ救出 [アスカケ第5部大和へ]

18. ヒビキの救出
「・・・お前は・・サスケ・・か・・。」
弱弱しい声でヒビキが反応した。
「生きておったのか・・・。」
「はい。父様の御言葉どおり、母様も姉様も、山深くに身を隠し生き長らえておりました。」
「何と・・・皆、生きておったか・・・。」
ヒビキは床に横たわったまま、ぼそりと答えると涙を零した。
「これは一体どうしたことですか?」
サスケは父の身体に身を寄せて訊いた。
「わしは二度の過ちを犯してしまった。・・・円一族との戦の時、そして此度じゃ。・・大和を再び豊かな国にする為、わしは、伊勢や美濃一族の力を一時、借りるつもりだった。だが・・・やつらに利用された。もはや、取り返しのつかぬこととなった。」
ヒビキは心から悔やんでいた。

ヨシは、牢に放り込まれてすぐ、長い黒髪の中に隠し持っていた短剣を取り出し、身体を縛り上げていた縄を切った。そして、サスケやヒビキの縄も切った。
ヨシは牢の中を一回りし、他に囚われている者がいないか確かめた。牢の奥に亡骸が一つ横たわっていた。難波津から来た使者だった。痩せこけている姿から、牢に放り込まれろくに食事も与えられず、衰弱死したのだった。
ヨシはその亡骸にそっと筵を掛けた。
そして、横たわるヒビキの耳元で囁いた。
「ヒビキ様、一刻も早く、ここから抜け出しましょう。」
ヒビキはヨシの顔を見た。
以前にもヨシはこの牢から抜け出す案内をしていた。しかし、その抜け穴は玉座の間の奥であり、前に脱出した時、壊してしまっていたはずだった。
「抜け出すといってももう抜け穴はないのであろう。」
「はい、抜け穴はありません。ですが、磯城宮を守っている兵の中に私の里の者が居りました。先ほど、大門にいた者は私の幼馴染。ここへ入る際、きっと牢へ放り込まれると思い、頼みごとをしておきました。もうすぐ・・。」
ヨシがそう言うや否や、地下牢の壁からドスンという音が聞こえた。
「磯城宮を作る時、わが里から多くの人夫が出ております。この牢を作った者も数多くおります。牢の周りには細い通路があって、壁を壊せば、外へ抜けられるようになっております。ほら・・。」
再び、壁からドスンと音が響いた。パラパラと壁が剥がれて落ちる。何度かドスンという音が響いた後、ついに、牢の壁にぽっかりと口が開いた。
「ヨシ!いるか?」
壁に出来た穴の向こうから声が響いた。ヨシが言った幼馴染のようだった。
「はい。こちらです。」
ヨシの答えに、声の主が数人の男と伴って牢の中へ入ってきた。
「おや・・これは・・ヒビキ様ではありませぬか。・・やはり、伊勢の大臣は我らを謀っておったのか!」
伴に穴を抜けて入ってきた男がせかすように言った。
「急ぎ、抜け出しましょう。」
男達は、ヒビキを抱え、ヨシとサスケを伴って、牢の壁から外へ出た。そこは、磯城宮の外塀に作られた小さな穴だった。穴から顔を出すと、男達が背を向けて立っていた。
「ヨシ、よくぞ、教えてくれた。我らも、ヒビキ様の身を案じておった。それに大和からの使者も来られたという話も聞いておった。何かあるのではと考えていたのだ。」
「大沼には、當麻や広瀬の方々が船で潜んでおられます。」
ヨシが言うと、
「では、急ぎ、ヒビキ様をお連れしよう。大門には我らの仲間しかおらぬゆえ、すぐに出られる。」
大門にいた美濃の兵は、ちょうど館の中へ入っていた。大門辺りにいるのも同じ里の男達のようで、大きく手招きしている。男達は、ヒビキを担ぎ、サスケとヨシと伴に大門を出て、大沼へ向かった。

「何者かやってきます。」
磯城宮の様子を見ていた広瀬の若衆が皆に言った。じっと葦の間から、外の様子を見ると、サスケとヨシ、そしてヒビキが数人の男達に担がれて走り出てきたところだった。
「無事だったか・・・だが、ヒビキ様のそのお姿は・・。」
シシトが絶句したように言うと、担がれたままのヒビキが言う。
「わしの過ちじゃ。済まぬ。許してくれ。」
ヒビキは涙を流し許しを請う。
「詳しい話は、葛城宮にてヒビキ様よりお聞き下さい。今はすぐにこの地を離れてください。我らは再び磯城宮に戻ります。・・大丈夫です。戦になれば、我らは皆様に味方します。ただ、今しばらくお待ち下さい。多くの兵を味方せねばなりませんゆえ。」
ヒビキを運んできた男は、ヨシと同じ里の幼馴染で、名をイヅチと言った。
ヨシはイヅチの言葉を聞き、シシトへ向かって言った。
「この御方は信用できます。きっとやり遂げてくれるはずです。さあ、急ぎましょう。」
船は、静かに岸を離れた。
葛城宮へ向かう船の中で、サスケはずっとヒビキの手を握っている。ヒビキは船に横たわり、じっと天を仰いで涙を流していた。

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4-19 磯城宮からの帰還 [アスカケ第5部大和へ]

19. 磯城宮からの帰還
ヒビキ救出の後、サスケは平群の里に居るカケルへ、磯城宮で起きた事を知らせるため、急ぎ里へ帰った。広瀬の若衆たちも、喜んでカケルの迎えを申し出た。

「そうか・・そのような事が起きていたのか・・・やはり、急ぎ大和へ向かうべきであったか。」
カケルは、サスケの母シノの目の病を治療しながら、サスケの話を聞いている。
数日の間に、母の目は随分回復していた。そして、食も戻り、以前よりも随分元気になっていた。ほんの数日の事であったが、見違えるような回復にサスケは驚いた。
「ヒビキ様の具合はどうなのだ?」
「牢に入れられ満足に食も取っておられなかったようで、まだ起き上がることもままならぬようです。・・ですが、葛城宮の皆様に介抱していただいております。直にお元気になられるでしょう。」
「そうか、ならば安心だ。では、近いうちに、母様たちともお会いいただけることだろう。」
サスケの知らせに一番喜んだのは、母シノであった。
ヒビキと生きて再び逢えるなどとは思っていなかった。
「シノ様、良かったですね。・・早く病を治し、再び、この平群の里で伴にお暮らしになられるでしょう。」
「サスケ、此度は頑張りましたね。」
シノは、サスケに手招きした。
母の白い指を見て、サスケはううっと声を漏らした。
「さあ、ここへおいで。」
母の言葉は、優しく温かかった。
サスケは、これまで我慢してきた気持ちが解れたように、母の胸に飛び込んで涙を流した。
僅か十歳の子どもである。居並ぶ男達の中で、自らの役目と決め、気丈に振舞ってきたが、やはり相当の心労があったようだった。
周りにいる者の目も憚らず、サスケは母の胸で泣き、甘えた。
カケルは、遠くナレの村の母の姿を思い出していた。父に叱られた時、母は優しく抱き慰めてくれた。山深く薬草採りに出かけ心配掛けたときにも、母は優しく抱き慰めてくれた。母とはそうしたものなのだとつくづく感じていた。
カケルは館を出た。外には、広瀬の若衆達が控えていた。
「お久しぶりにございます。カケル様のご帰還、お待ち申して居りました。」
若衆達は、カケルの姿を見るや否や、カケルの足元に跪いて挨拶をした。
「遅くなりました・・・もう少し早く戻っておればと悔いております。申し訳なかった。」
カケルの言葉に、若衆の一人が言った。
「いえ・・こうしてお戻りになられ、我らは安心致しました。これより、国造カケル様の御差配を仰ぎ、大和復興に尽力して参ります。」
居並んだ若衆たちの目は輝いている。
「しかし、私にはまだここでやらねばならぬ事がある。約束したのだ、あの母御の病を治すと。」
「それでは・・まだ葛城宮へは、行けないのですか?」
「都から、モリヒコ様が病を治せる者を連れて来ることになっている。あと、七日ほどで戻るはずだ。それまではここを離れるわけにはいかないのです。」
「磯城宮では、おそらく、ヒビキ様たちが逃げ出した事にそろそろ気付くころでしょう。そうなれば、磯城宮も動くと思われます。葛城宮へ攻め入るか、あるいは、この平群の里へ向かうか、いずれにせよ、戦になる日は近いでしょう。」
「戦は何としても止めねばなりません。・・・如何したものか・・・。」
その会話を、薬草取りから戻ってきたサエが聞いていた。
そして、カケルの前に進み出て言った。
「カケル様、母の事ならご心配要りません。都からの御方も、もうじきに着かれるでしょう。それまで、私が母をみます。カケル様に教わった薬草も見つかりました。」
サエの目は真っ直ぐカケルを見つめていた。カケルは眉間に皺を寄せて言う。
「しかし、それでは約束が果たせぬ。」
「いえ、もう充分です。きっと母様は元気になられます。・・それより、父様をお願いいたします。元気になられ、必ず、母に逢っていただきたいのです。いえ、父様にはここへ戻っていただき、静かに暮らしていただきたいのです。」
サエの目には涙が溢れていた。長く辛い暮らしの中、一族をまとめ、母や弟を守り一生懸命に生きてきた。娘の身にはそれが如何に辛い事だったか、カケルにも充分にわかった。父が生きているならば、再び、平群の里で穏やかに暮らしたと願うのは当然の事であった。
「カケル様、サエ様の望みは大和の民全ての望みです。」
広瀬の若衆も言った。
「判りました。・・・サエ様、これまでよく頑張りました。これからは、サスケ殿や一族の皆様とも力を合わせ助け合って生きてください。すぐにもヒビキ様を平群へお帰りいただけるように致します。そして、きっと、大和の民が穏やかに暮らせる国を作ります。約束です。」

カケルは、広瀬の若衆と伴に、すぐに葛城宮へ向かうことにした。
大和川のほとりに出て、船で対岸に渡る。広瀬の里では、カケルの帰還に大いに沸いた。カケルは皆に挨拶を済ませ、再び船に乗り、葛城宮を目指した。
懐かしい風景が広がっている。船の左手には、遠く、磯城宮が見えた。どれほどの兵がいるのか、今、磯城宮を牛耳っている伊勢と美濃の大臣とは如何なる人物なのか、戦をせず大和を取り戻す手立てはあるのか、様々な思いがカケルの脳裏を駆け巡っていた。

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4-20 カケル、葛城宮へ [アスカケ第5部大和へ]

20.カケル、葛城宮へ
葛城宮の大広間には、カケルを中心に、シシト、レン、広瀬の若衆、那智一族の長アキト、等おもだった者達が車座になっていた。脇には、ヒビキが横になっている。
「イコマノミコト殿の姿が見えませんが・・。」
カケルが居並ぶ男たちを見回して訊ねた。すると、まだ癒えぬ身体を少し起して、ヒビキが答えた。
「わしが過ちを犯したのです。伊勢や美濃の力を頼りにしようとしたわしを、イコマノミコト様が諌められたのに腹を立て、切り殺そうとしてしまったのです。・・磯城宮からは逃れたようですが、その後の行方は判りません。」
ヒビキの告白に、シシトが庇うように言う。
「もう過ぎた事。きっとイコマノミコト様はどこかに潜んでおられるはず。それよりも、これからどうすべきかを考えましょう。」
カケルは、再び、皆を見渡してから言った。
「私は、葛城の皇君より、大和の国造に任じられました。私は、この大和を穏やかで豊かな国にせねばなりません。そのためには、まず、伊勢や美濃を磯城宮から追放する事が必要でしょう。しかし、ここで戦を起こすことは出来ません。」
それを聞いてレンが言う。
「しかし、あれほどの兵がいるのです。戦いは避けられぬでしょう。私は、命など惜しくありません。」
広瀬の若衆たちも同調した。
「円一族との戦でも、カケル様とともに戦い、誰一人傷つくことなく勝利しました。カケル様がいらっしゃるなら、さほどの犠牲は出ないでしょう。」
しかし、那智一族の長アキトは反対した。
「美濃一族を侮ってはならぬ。山深い暮らしで鍛えられた屈強な身体、弓の腕もかなりのもの。猪狩りと同じように、矢に射抜かれるに違いない。近づく事もできぬかも知れぬぞ。」
同じく山深くで暮らす那智一族の長の言葉は説得力があった。
カケルはアキトの言葉を受けて言った。
「いえ・・ここで戦を避けるというのは犠牲を出さぬ事ではありません。命を懸けて守るべきものがあれば、私も剣を持ちます。だが、それでは駄目なのです。」
レンや若衆、那智の長には、カケルが言いたい事が良く判らなかった。シシトが言う。
「カケル様は、その後の事を考えておられるのでしょう。」
「その後?」
レンが訊ねる。カケルは、レンや若衆に向かって言った。
「戦に勝利し磯城宮を奪還したとして、その時、伊勢や美濃の一族はどうなっているでしょう。長の命を奪われれば、当然、恨みを抱くはず。大和は倭国の都たるところ。東国や北国も葛城の皇君を倭国の王と称え、敬う事こそが肝要。恨みを生むことは皇君の本意ではないはずです。」
「では、戦をせずに伊勢や美濃の者達を大和から追い出すという事ですか?」
レンが訊ねる。
「いや、ただ追い出すのではダメなのです。和解し、ともに倭国のため、皇君のために働くように説得せねばなりません。」
カケルの言葉に、皆、絶句した。戦で勝利する事すら難しいと思われるのに、和解し、同志として倭国のために働くように仕向けるなど、到底無理だと感じられたのだった。
皆、しばらく沈黙した。
「一つ、お願いがあります。」
カケルが沈黙を破り言った。
「磯城宮にいる伊勢や美濃の一族とはいかなる方たちなのでしょう。戦をするにせよ、和解するにせよ、まずは相手を知らねばなりません。」
その問いには、那智一族のアキトが答えた。
「伊勢は、大和より東、伊賀の峠を越えたところ。穏やかな大海に面した豊かな里があちこちにあると聞きます。大和には、その海の幸を運び込み、大和からは織物や剣、鍬などを運び出し、豊かな暮らしをしておるようです。」
「では、この大和とともに生きているのですね。」
それを聞いて、當麻の長シシトが加えた。
「はい。以前は、この葛城宮にも参った事もあります。皇君にもお目通りなされたはず。」
カケルは頷いた。さらに、
「では、美濃一族は?」
それには、横になっていたヒビキが答えた。
「美濃は、以前は蘇我一族と親交を深めておりました。美濃から大和への道は、曽我が所領としていた里を抜けるしかなく、互いに行き来する仲であったはず。蘇我亡き後、美濃一族は大和との縁を繋ぐため、磯城宮へやってきたのです。」
それを聞いて、カケルは頷いた。
「では、いずれも、自らの里を守るためにこの大和へ来ているということではありませんか?」
皆がカケルの言葉に顔を見合わせた。ヒビキが言った。
「しかし、難波津へ都が移り、大和が廃れていく事では困ると考え、結託してこのたびのような仕儀に至ったものです。もはや、あの大臣たちは、大和を我がものとするために動いております。」
「ヒビキ様の言われる通りかもしれませぬが・・・しかし、里を守る事が最も大事な事に変わりないはずです。・・皆様も同様でしょう。・・・やはり、何としても、伊勢と美濃の大臣を説得するのです。」

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4-21 戦ではない戦 [アスカケ第5部大和へ]

21. 戦ではない戦
 翌日には、伊勢の様子をもっと詳しく調べるため、那智の長アキトの案内でレンが、伊勢へ向かうことになった。當麻の長シシトは、磯城宮からの兵に備え、葛城宮の守りを固める事にした。
カケルは、広瀬の若衆たちの操る船を使い、大和の里を一つ一つ廻る事にした。カケルは、行く先々で、皇君から賜った黒水晶の玉を取り出し、里の長を大連(おおむらじ)に任じた。その上で、仮に磯城宮の兵が動き戦を仕掛けても決して抵抗する事無く、戦に応じないよう説得して回った。大連に任じられた長達は、黒水晶を里の館に祀り崇めた。こうして、大和の多くの里が葛城の皇君を倭国の王と認め、カケルを国造と認め従う事になり、足場を固めて行った。

同じ頃、磯城宮では、伊勢と美濃の大臣が決定的に反目する事態が発生した。
美濃の兵の一人が、ちょっとした喧嘩騒ぎを起こし、伊勢の男を切り殺してしまったのだった。このことに腹を立てた伊勢の大臣が、美濃の兵を差し出し処刑すべしと美濃の大臣へ迫ったが、元々、ちょっかいを出した伊勢の男の短慮が原因と美濃の大臣は応じなかった。
「どうやら、美濃の兵は戦がしたくてたまらぬのだろう。ならば、早々に葛城宮を攻められるが良いのではないか?」
伊勢の大臣の言葉に、美濃の大臣も、怒りを露にして答えた。
「戦は得策ではないと小心者の伊勢殿に遠慮していたのだが・・・ならば、すぐにも葛城宮を攻め滅ぼし、我らがあの宮をいただくとしよう。そうなれば、難波津へも道が開ける。」
伊勢の大臣は兵を動かす事を決意した。
美濃の兵の中には、ヨシの幼馴染イヅチたちが居る。この頃には、周囲の里から兵として借り出された男達は、美濃や伊勢の大臣に騙されていた事は当に知れ渡っていた。すぐに、イヅチの使者が、美濃の将の目を盗んで磯城宮から葛城宮へ走った。
知らせを受けた葛城宮では、シシトが兵を固めた。大和の里を廻っていたカケルにも、美濃の兵が攻め来る事が知らされ、すぐに葛城宮へ戻った。
「攻め来る兵の数はさほど多くありません。それに、大半はすでに我らの味方。攻め来る格好はしていますが決して矢羽を放つことはありません。」
使いの言葉にカケルは考えた。美濃の男たちはそれでも抵抗するに違いなく、このままでは、やはり美濃一族を討ち滅ぼす事になる。
「シシト様、このままでは戦にならずとも美濃の者達の命を奪わねばならなくなります。」
「しかし、攻め来る者にはやむを得ぬ事でしょう。」
「いや、すぐにこの宮から皆を出し、ひとまず、當麻の里へ隠れてください。」
「それでは、この宮をやすやすと美濃のものとせよと言われますか?」
「いえ、私に策があります。」
カケルはそう言うと、シシトの耳元で皆には聞こえぬようにそっと話した。
「それは無茶な事。それではカケル様の身が・・。」
カケルはシシトの言葉を遮るようにした。
「大丈夫です。私の合図を待ってください。」
シシトは渋々、カケルの言うとおりにした。
葛城宮にいた者達は、シシトの指示ですぐに宮を離れた。葛城宮は、大門も開け放たれた。

磯城宮から、美濃の大臣が大軍を率いて葛城宮へ出発した。
大沼の縁を通り、美濃の軍は進んだ。葛城川を越えたあたりで、葛城宮から戻った使者からの伝言が兵の中に伝えられた。
軍の先を進んでいた見張り役から、「葛城宮はもぬけの殻」という知らせが美濃の大臣の許へ届いた。
「ふん、我らに恐れをなし早々にどこぞへ逃げたのであろう。」
美濃の大臣は笑った。
開け放たれた大門から、美濃の軍は葛城宮へ入った。そして、大臣は葛城宮の奥の大館へ向かうと、玉座の間へ入る。そして、じっと玉座を見つめて、笑みを浮かべた。
「これが皇君の玉座か・・・。」
大臣はそう言うと、しばらく玉座を撫でた後、ゆっくりと座った。
兵を率いていた美濃の将たちも、玉座の間に入り、玉座未満俗そうに座る大臣を見るなり、皆、大臣に「おめでとうございます。」と祝いの言葉を述べ、玉座の間に座り込んだ。
イヅチたちのような周囲の里から集められた兵は、館へは入れられず、館の前の広場で休まされていた。「イヅチ様はいずこ?」と兵達の中でイヅチを探すものが居た。カケルだった。カケルは、一人葛城宮に潜み、美濃の軍の到着を待って、兵の中に紛れ込んだのだった。
「私はカケルと申します。」
一瞬、兵の中にどよめきが走った。
「カケル様とは・・国造に任じられたカケル様?このような格好で・・いかがされました。」
イヅチは驚いた。周囲の兵たちは、すぐにカケルとイヅチを取り囲み、美濃の将たちに見つからぬようにした。
「美濃の将たちはどれほど居るのですか?」
「ざっと二十人ほどでしょうか・・後は、集められた兵ばかり。やるなら、すぐに館を襲いましょう。数の上では奴らに勝ち目などありません。」
「いえ・・それは最後の策。私は、美濃の大臣と対面してきます。愚かな企みを止め、美濃の国へ戻るよう説得するつもりです。」
「説得など無駄でしょう。」
「皆さんは宮から出て、周囲を取り囲んで下さい。もし、わたしの説得が無駄となれば、すぐに狼煙を上げてください。當麻の里から援軍がやってきます。」
イヅチは承知した。

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4-22 美濃の大臣 [アスカケ第5部大和へ]

22. 美濃の大臣
 美濃の軍が葛城宮へ到着した頃、都に戻っていたモリヒコが、治療のために、ナツを伴い、多くの薬草を運ぶ従者も引き連れて平群の里へ戻ってきた。モリヒコは、カケルが葛城宮へ向かい、美濃の軍と対峙する事を、平群の里にいた広瀬の若衆から聞き、すぐに葛城宮へ向かった。
「カケル様は、きっと一人で美濃の者達と対峙しようとされておられるにちがいない。」
モリヒコは胸騒ぎがしてならなかった。

カケルは、イヅチたちから離れ、大館に忍び込んだ。大館の屋根裏に入り込み、梁を伝い、玉座の間の上に入り込むと、玉座に座り寛ぐ美濃の大臣を見つけた。
「おい、腹が空いた。誰もおらぬ宮と言えども、食い物はあるだろう。探して支度をせよ!」
大臣は、居並ぶ臣下にそう告げた。すぐに、末席に座っていた将が立ち上がり、玉座の間を出て行った。するとすぐに、その将は慌てた様子で戻ってきた。
「兵共が居りませぬ!」
「何?一体どうしたと言うのだ!」
玉座の間に居た者達は、慌てて部屋を出た。大臣も立ち上がり、続いて部屋を出た。
カケルはその隙に、部屋の中へ降りた。
玉座の間から出た美濃の将や大臣は、宮の中に、一人の兵も残っていないのを見た。
「どうした事だ!當麻の企てか?・・兵は何処へ行った?」
ひとりの兵も残っていないと言う事は、明らかに、兵たちが謀反を起し、周囲を取り囲んでいるということになる。わずか二十名ほどの将では戦っても勝ち目が無い事は誰にも判った。
「してやられたな。・・・」
大臣は悔しそうに言った。
「如何致しましょう。すぐにここを出なければ・・。」
一人の将が言ったが、ここから出ても周囲を取り囲んでいる兵に捕まるだけ。もはやどうにも出来ない事は大臣にも理解できた。
「美濃の大臣、如何する!」
カケルは、玉座の間から、大臣たちの前に姿を現した。
「お前は誰だ?」
「私は、カケル。此度、葛城の皇君より、大和の国造に任じられた者。さあ、美濃の大臣、これより如何する?」
将達は、カケルのほかに潜んでいる者がいるのではないかと、剣を抜き、カケルの周囲を取り巻きながら様子を探った。
「心配には及ばぬ。ここには私一人だけだ。・・今、葛城の宮の周囲には、大和の里の者が集まってきている。時が経てばますます増えるに違いない。・・もはや、そなたらに勝ち目など無い。無駄に戦をすれば命を落とすだけ。剣を棄て、私に従えば命は救えよう。」
カケルはゆっくりと美濃の大臣に言った。
「果たしてそうかな?・・お前を人質にすれば、外にいる者とて手出しは出来ぬだろう。」
「皇君より命を受けた私を人質にすると言われるか?」
「ああ・・所詮、我は皇君に逆らい、磯城宮を我が物としようとした。罪は免れぬ。ならば、何としてもこの場を切り抜け、再起を図る事しか道はあるまい。」
美濃の大臣の言葉に、将達は剣をカケルに向けた。カケルも剣に手を掛けた。
「ほう・・そなた一人でこれだけの将の相手をするつもりか?・・そなた、何処から来た?戦の経験があるようだな。」
将達はじりじりとカケルに近づいてくる。
「私はこれまでも多くの命を止む無く奪ってきた。これ以上の殺生はしたくない。・・さあ、剣を収められよ!」
将とカケルの間に、緊張が高まり、徐々に間合いが詰まっていく。
「殺すでないぞ、人質にせねばならぬ。動けぬようにすれば良い!」
美濃の大臣が命じた。
一番、末席に座っていた将が、剣を振りかぶってカケルに斬りかかった。
「あうっ!」
斬りかかった将が、突然、その場でもんどりうって転がった。カケルは剣を抜いていない。
「カケル様!ご無事ですか!」
大門の上から、モリヒコが声を掛けた。
モリヒコが矢を放ったのだった。矢は、将の腕を貫いていた。
モリヒコは再び弓を構え、もう一人の将へ矢を放った。今度の矢は、将の足を貫いた。それを見て、将達は一斉にカケルに斬りかかった。
カケルは仕方なく剣を抜いた。ぼんやりと黄色い光が剣から放たれている。
カケルの剣が、将たちの刃を受け止めると、将たちの剣はあっさりと根元から折れた。それはあっという間の出来事だった。
二十人ほどいる将は、皆、剣を折られ、その場に座り込んでしまった。
モリヒコは、大門の上から飛び降りると、剣を構え、大臣に迫った。
「モリヒコ様、斬り殺してはなりません!」
カケルの言葉に、モリヒコは剣の先を大臣の首筋に向け、寸前のところで止めた。大臣はへなへなとその場に座り込んでしまった。
すぐに、イヅチ達がばらばらと宮の中へ入ってきて、座り込んでいる大臣や将を縛り上げた。
それからすぐに狼煙が上げられ、當麻の里に居た者達も、次々に葛城の宮へ戻ってきた。

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4-23 望郷の思い [アスカケ第5部大和へ]

23. 望郷の思い
「さて、美濃の大臣様。こののち、如何されますか?」
カケルは大臣を目の前にして、憐れみの目をして訊いた。荒縄で縛られ、玉座の前の広場に並び、座らされている美濃の大臣と臣下たちは俯いたままだった。
「皇君に逆らい、この大和を手中にしようなど、天下一の大罪。このまま赦すわけにはいかぬぞ。」
脇にいたシシトが厳しい声で言った。すると、美濃の大臣はきっと顔を上げて、シシトを睨みつけながら返した。
「もとより覚悟の上。命など惜しくは無い、さあ、首を刎ねるがよかろう!」
それを見てカケルが再び訊いた。
「それで良いのですか?・・・それで、美濃の里の者達は救われますか。」
カケルが、美濃の里と口にしたことに大臣は驚いた。カケルは続けた。
「大臣様は、美濃一族の長でしょう。この大和へおいでになったのは、美濃の里を守る為ではなかったのですか?・・私は美濃の里を知りませんが、聞くところによると随分と山深い地とのこと。厳しいくらしをされておるのでしょう。そうした民を少しでも豊かに出来ぬかと腐心されていたはずです。」
美濃の大臣は、カケルの言葉に遠くふるさとを思い出していた。居並ぶ臣下たちも同様だった。中には涙ぐむものさえいた。その様子を見てカケルは、皆の縄を解くように言った。
「葛城の皇君は、大和の争乱を鎮めるため、都を難波津へ遷されました。しかし、再び、大和へ都を戻し、倭国の安寧を願っておられます。それは、この大和だけではく、周囲の国も全てが豊かで穏やかでなければなりません。美濃の大臣様も、そのためにご尽力いただけませんか?」
美濃の大臣は、カケルの言葉に驚き、訊いた。
「しかし、私は罪人。葛城皇はお赦しにはならないでしょう。」
「罪は罪。確かに、磯城宮での事は赦される事ではありません。しかし、罪には罰を以て償うべきでしょう。命で償う事など、葛城の皇君とてお望みではありません。心から罪深き事をしたと思われるなら、命を懸けて償う事です。」
「命を懸けて償う?」
「ええ・・この大和はこれから私が皆と力を合わせて、再び豊かな地へ作り上げねばなりません。そのために私は命を懸けてやり遂げる覚悟です。美濃の大臣様も、美濃の地で大和に負けぬほどの豊かな国を作ってください。それが、貴方の償いでしょう。」
「それで良いのでしょうか?」
美濃の大臣の言葉に、カケルは微笑みながら付け加えた。
「もう一つ約束してください。これより子々孫々に渡り、美濃は皇君を崇め、倭国のために働く事を伝えて欲しいのです。そのために、これを貴方に託します。」
カケルはそういうと、モリヒコに命じて、桐の箱を運ばせた。そして、箱の中から黒水晶の玉を一つ取り出した。
「これは、葛城の皇君より賜りし玉です。これには皇君の伊吹が込められております。これを国の宝とし祀る社をお造り下さい。そして、絶えず、皇君を崇め奉るよう務めてください。」
カケルは、紫の布に玉を置くと、美濃の大臣に差し出した。大臣は震える手で受け取った。その時、玉から青白い光が辺りに溢れた。大臣の体の中に、何か温かな不思議な力が流れ込むような気持ちがしていた。大臣は玉を抱き、涙を流している。居並ぶ美濃の臣下も、大臣に寄り添うようにして、玉の不思議な力に触れていた。
「これで良いでしょう。さあ、日も暮れました。夕餉にしましょう。」
いつの間にか、外は漆黒の闇に包まれている。すぐに夕餉の支度が整えられ、玉座の間やそれぞれの館に将も兵も入り、夕餉のひとときを楽しんだのだった。
カケルはこうして、戦をせず、美濃一族を皇君の臣下とすることに成功したのだった。

「やはり、カケル様は大した御方だ。」
広瀬の若衆たちは、酒が少し入っているのか、大きな声で話し始めた。そこには、美濃の将たちも伴にいた。広瀬の若衆は、円一族との戦の話や、平群の里でのカケルの仕事を話して聞かせている。皆、口々にカケルを称えている。
玉座の間には、カケルを中心に、シシトやモリヒコ、そして美濃の大臣などが居た。
「美濃の大臣様、もう一つお願いがあります。」
カケルが切り出すと、大臣が照れたような表情で言った。
「カケル様、大臣と呼ぶのはお止め下され。私は、美濃のヤクマと申します。若い頃、熊を八頭獲った事で、皆よりヤクマと呼ばれております。ただの猟師でしたが、長であった父が早くに亡くなり、美濃をまとめることになっただけ。ヤクマとお呼び下され。」
カケルはにこりとして、再び言った。
「では、美濃のヤクマ様、美濃へ戻られる前にもう一つ仕事をお願いしたのです。」
ヤクマはすぐに、カケルが何を言いたいのかすぐに判った。
「磯城宮にいる伊勢の大臣の事ですね。」
「ええ、そうです。磯城宮へ篭る伊勢の大臣には、此度のような策は使えません。おそらく、周囲を包囲し、攻めることになりましょう。しかし、それでは多くの命を奪う事になります。そうなる前に、何か策はないかと・・・。」
そこまで聞いて、シシトが言った。
「ヤクマ様が、磯城宮へ戻られて伊勢の大臣を説得すると言う事でしょうか?」
それには、ヤクマが答えた。
「それは無理でしょう。・・・此度、葛城宮へ攻め入ったのも、実のところ、伊勢の大臣と諍いがあり、別々の道を選ぶ決意をしたためです。今、我らが戻ったとて、磯城宮には入れませぬ。」
「そうですか・・・。では、少し、策を考えねばなりませんね。」

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4-24 伊勢からの知らせ [アスカケ第5部大和へ]

24. 伊勢からの知らせ
それから数日、広瀬の若衆たちと美濃の将が、大沼を船で渡り磯城宮の様子を交代で探った。
「伊勢の大臣は、葛城宮の様子は知っておるようです。磯城宮の周囲には、多くの将達が兵を率いて備えておるようです。」
玉座の間で、これからの策を相談していたところに、広瀬の若衆が磯城宮の様子を報告に来た。
美濃のヤクマは、若衆の話を聞いて、首をかしげた。
「兵の多くは私が率いてきたはず・・そこからそれだけの者を集めたのでしょう。」
「伊勢一族の里から兵を集めてきているのではないでしょうか?」
磯城宮へ様子を探りに言った美濃の将が答えた。
「そうか・・・伊賀道を抜けて鈴鹿辺りからやってきていると言う事か・・。」
ヤクマの言葉を聞いて、カケルが訊ねた。
「伊賀道とはどこですか?」
カケルは、大和の東の地の事は全く知らない。
「伊勢の大臣は、鈴鹿の里を本拠としております。そこからは、鈴鹿の御山の南から伊賀を抜け大和へ続く道があります。我が美濃からもその道を抜けて参ります。鈴鹿の御山の北を抜け、近江から山越えする道もありますがかなり険しく、日も掛かります。私が伊勢の大臣と懇意にしたのも、伊賀道を使うため。」
「では、美濃へ戻るとしても、伊勢を通らねばならぬと言う事ですか・・。」
「はい。」
カケルは、ヤクマの話を聞き考え込んだ。伊賀道を断たぬ限り、伊勢との戦は果てしなく続くことになる。今、それだけの大戦を構えることは出来ない。大和と倭国の安寧の為には、何としても伊勢一族と、和解するしかない。
「レン様と、那智のアキト様がお戻りになられました。」
レンとアキトは、伊勢の様子を探ってきたのだった。一人の若い男を伴にしていた。
アキトは、玉座の間へ入ると、伴の男を紹介した。
「この者は、伊勢の多気に住む、ホムラと申すものです。さあ、ご挨拶せよ。」
ホムラは一歩前に進み出て、頭を下げた。まだ十代と思われる青年である。少し緊張した表情で、カケルをじっと見つめた。
「私は・・伊勢一族の長の息子、ホムラでございます。」
ホムラの第一声に、皆、驚いた。それを見て、レンが言った。
「驚かれるのも無理は無い。私も伊勢に出向き驚いたのだ。だが、落ち着いてお聞き下さい。」
レンはそう前置きすると、伊勢で見てきたことの一部始終を話した。

伊勢一族の長は、数年前に亡くなっていた。伊勢の大臣を名乗る男は、長の弟であった。伊勢一族は、鈴鹿から南の海岸沿いに幾つかの郷があり、元々は、多気に本拠を置いていた。しかし、伊勢の大臣を名乗る弟は、元来、短慮であり、自らの得のみを求める性格ゆえ、兄である長から絶えず叱咤されていた。腹に据えかねた弟は、北の郷鈴鹿へ移り、周囲の里を力ずくで自らの領地とし、我こそ一族の長と名乗り始めたのだった。それでも、周囲の里の中には、弟には従わないところもあり、終に、弟は兄を桑名へ誘い出し、忙殺してしまったのだった。まだ幼かったホムラにはどうすることも出来ず、多気の郷で周囲の里とともに、息を殺すように生きてきたのだった。
「あやつは、父の仇。我が一族の恥でございます。何としても征伐し、再び、正統なる伊勢一族にせねばなりません。・・レン様やアキト様から話しをお伺いし、参った次第です。・・・皇君にさえも蔑ろにしようなどと言語道断。どうか、大和の皆様のご尽力を持って、あやつを成敗してください。」
ホムラの決意は良く判った。カケルはじっとホムラを見つめて訊いた。
「いくら父様の仇とは言え、そなたの叔父御であろう。」
「叔父御だからこそ許せぬのです。あやつは、鈴鹿の周囲の里から、収奪を繰り返し、今は隣国、美濃をも侵攻しようと画策しております。放置できませぬ。」
それを聞いて、ヤクマが驚いた。
「なんと、我が里をも脅かしておるのか!許せぬ。カケル様、もはや情け容赦など無用。すぐに軍を作り、伊勢の大臣を討たねばなりますまい。」
カケルは、周囲の男達を見回した。シシトが言う。
「しかし、この地で大戦を起こす事はならぬ。磯城宮を血で穢す事になる。いずれ、皇君にもお入りいただく宮であるのだぞ。」
「では、どうやって、磯城宮を取り戻すおつもりか!」
ヤクマは少し声高に言う。他の者も、戦以外に磯城宮を奪還する事など不可能と考えていて、皆がシシトに詰め寄った。
「皆様、お鎮まり下さい。・・戦は最後の策。その前に出来る事を皆で考えましょう。・・それより一つ、ホムラ殿にお聞きしたい事があります。」
カケルがそう言って皆を鎮め、ホムラと向かい合って改めて訊いた。
「大臣を倒し、正統な伊勢一族を再び作らねばならぬと言われたが・・・ホムラ殿は一族を率いていく覚悟はありますか?」
ホムラは戸惑った。大臣の悪行に腹を据えかね父の仇を討たねばならぬという強い思いはあったものの、一族を率いる覚悟と問われ、不安が心を過ぎったのだった。
「大臣を倒しても、一族をまとめ、伊勢の国を治める者がおらねば、伊勢はますます混乱するにちがいありません。再び、良からぬ者が覇権を争い、国は乱れるでしょう。それでは、意味がありません。」
カケルは諭すように言う。ホムラは黙って頷くだけだった。

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4-25 包囲網 [アスカケ第5部大和へ]

25. 包囲網
伊勢の国からホムラを連れてきた、那智の長アキトが沈黙を破って、カケルに言った。
「カケル様、私に一つ策がございます。」
皆がアキトを見た。アキトは皆をじっと見回し、ゆっくりと話し始めた。
「伊勢の大臣が頼りとしているのは、鈴鹿からの人と物。磯城宮と鈴鹿を繋ぐ伊賀道を断つ事が肝要です。伊賀も鈴鹿にも、伊勢の大臣を快く思っていない者は多いと聞きます。それらの者達を診方にすれば良いかと思います。」
カケルはじっとアキトの話を聞き、ホムラに向かって言った。
「その役、ホムラ殿に任せてみたいが如何ですか?伊勢の国を治めるためにも、民を集める力は必要です。やってくれませんか?」
ホムラは戸惑っていた。それを見て、アキトが言った。
「我が那智一族も手助けいたしましょう。隣国が乱れていては、我が一族とて安閑としていられません。」
ホムラは、アキトの言葉に決心した。
「判りました。すぐに、伊賀へ向かいます。幸い、多気からも我が友がこちらへ向かっております。途中、合流し、伊賀へ行きます。」
それを聞いて、美濃のヤクマも言った。
「では、我らも、美濃の里へ戻りましょう。鈴鹿の周囲には、我らの所領も多い。戻り、鈴鹿を北から取り巻きましょう。・・戦はしません。ただ、そこで睨みを利かせれば、鈴鹿の里も安易に動けなくなりましょう。」
それを聞き、シシトが言う。
「では、我らも、磯城宮の近くに砦を築き、大臣に圧力をかけましょう。・・畝傍あたりに砦を築けば、大臣も肝を冷やすに違いない。」

それぞれが役を担い、動き始めた。
ホムラはアキトと伴に、伊賀へ向け出発した。途中、畝傍まではシシトや広瀬の若衆たちも同行した。ホムラたちを見送って、シシトは畝傍の山裾に砦を築き始めた。シシトたちと別れ、東へ向かったホムラとアキトは、途中、宇陀の里で多気から来た伊勢の若衆たちと合流し、北へ向かった。美濃のヤクマ達は、大沼を船で渡り、保津川に沿って、近江を抜け、美濃へ戻って行った。

数日して、ようやく体の癒えた、平群の長ヒビキがカケルに帰郷を申し出た。
「ヒビキ様、奥方様もお元気になられているに違いありません。」
「カケル様には何とお礼を申せばよいか・・・この御恩決して忘れません。」
「ヒビキ様、ひとつお願いがあります。ここへ来る途中、大和川の下、亀の瀬は度重なる地崩れで難儀しております。・・おそらく、この大和の大沼の溜まった水が一気に流れ出したことが原因ではないかと思います。平群の里がある辺りは川幅も狭く、大沼の水を堰き止めているのを何とかすれば、治まるのではないかと思うのです。ヒビキ様、里へ戻られたなら、川を治める仕事をしてもらえませんか?」
ヒビキはカケルの考えに驚いた。長年、平群の里に暮らしてきたが、大和川を治めるなど重い持つかなかった事だった。傍に居た広瀬の若衆も驚いた。
「そうか・・カケル様は、明石でも難波津でも、川を治める事で民の暮らしを大きく変えられたのだ。・・そうだ、きっと、大和川を治める事ができれば、この大和も変わるのかも知れぬ。」
カケルの話を聞いていたレンも頷いた。
「しばらく、この地に居て思ったのです。大沼の水が次第に高くなっているようで・・流れ込む川は幾筋もあるようですが、流れ出す川は大和川のみ。大雨が降るたびに、おそらくどこかが崩れ、大水となって流れ出るのではないかと・・きっと、広瀬と平群の辺りが何か関係しているように思えるのです。・・大変な仕事です、やってもらえますか?」
改めて、カケルはヒビキに言った。
「わかりました。・・・平群の里に戻り、民を集めてすぐに大和川を調べましょう。」
ヒビキが承諾したのを見て、レンが進み出て、ヒビキの手を取って言った。
「私は、難波津で岩切の技を得ました。川幅を広げるには岩を砕かねばならぬでしょう。私もお手伝いいたしましょう。」
「カケル様、ひとつ私からもお願いがございます。」
ヒビキは、息子サスケを呼んだ。
「どうか、こやつをカケル様のお傍に置いてもらえませぬか?」
サスケは戸惑い、父の顔を見た。
「ようやく、父・母とともに暮らせるのではないですか?」
カケルが聞きなおす。すると、ヒビキが答えた。
「こやつは、今まで平群の里から出ることがなく、広い世界を知りません。ですから、今は難易役にも立ちません。連れ帰り、穏やかな暮らしも良いでしょうが、それでは、私が死んだ後、一族をまとめる力もできますまい。せめて、カケル様のお傍にいて、カケル様の話を聞き、学ぶ事ができれば、きっとこの後、大和の皇君を支えるため平群一族を纏める事もできましょう。」
「しかし・・・」
「カケル様も、まだ幼き頃、九重の里を離れ、多くの国を見て来られたからこそ、それほどのお力を得られたのでしょう。是非にも、わが息子を強き男にしてくだされ。」
サスケは父の思いを受け止めた。そして、カケルに言った。
「私からもお願いいたします。カケル様のお傍にて、鍛えてください。そしていつか、大和の国、いえ、皇君をお支えできるような強き男になりたいのです。」
サスケの言葉にカケルは承諾した。
その日の午後には、ヒビキはレンとともに広瀬の若衆の船で、平群の里へ帰っていった。

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4-26 子は宝 [アスカケ第5部大和へ]

26. 子は宝
ヒビキの子サスケは、カケルの許に仕えることになったが、カケルは戸惑っていた。その様子を見て、モリヒコが一計を案じた。モリヒコは、當麻の一族や、広瀬の若衆にも話して、サスケと同じくらいの男の子を葛城宮へ集めた。
「カケル様、カケル様、ご相談がございます。」
モリヒコは、玉座の間の前にある広間に集めた男の子を集めていた。みな、きらきらとした目をして、カケルの登場を待っていた。
「モリヒコ殿、いかがされた?」
玉座の間から顔を出したカケルを見て、男の子達が一斉に膝を付き、カケルに礼をした。
「これは、一体、どうしたことか?」
カケルが訊くと、モリヒコが少し笑みを浮かべて返答した。
「これらの者は、大和の方々の里から集めた男子です。年は、十歳から十五歳ほどの者だちです。サスケもおります。将来、この大和を担うべきミコトにすべく、ここで弓矢や剣の技を身につけさせます。カケル様からも、九重のお話や西国での事、それに韓の文字などもお教えいただきたいのです。」
モリヒコが言うと、男子たちが皆顔を上げて、カケルをじっと見つめていた。カケルは、ナレの村を離れた頃の自分の姿を、その子どもたちに重ねていた。
「サスケ殿を預ったものの、如何すべきか迷っていたところです。そうか・・これほど多くの子が集まったとなれば、きっと互いに切磋琢磨し、強きミコトに育つに違いないですね。・・いいでしょう。モリヒコ殿、この者達をしっかり育てましょう。」
「ありがとうございます。しばらくは、私が面倒見ます。宮の離れにある館を寝所とします。」
モリヒコが笑顔で子どもたちを見た。
「そうだ、この者達をアスカケの子と名づけましょう。我がナレの里に伝わるアスカケの掟は、里を離れ、他国を廻り自らの生きる道を見つける事。今日から、そなたたちはアスカケの子です。ここに居る間に、皆、自らの生きる道を見つけるのです。良いですか。」
カケルの言葉に、子どもらが一斉に元気よく返事をした。
その日から、玉座の前の広場には、子ども達が弓矢や剣を学ぶ元気な声が響いた。時には、近くの里で畑作りの仕事を手伝ったり、大沼で魚の漁も覚えた。夕餉の後には、カケルが九重や西国、そして、難波津の話を聞かせた。

数日後には、畝傍に向かったシシトからの使者が戻ってきた。
「シシト様達は、畝傍の山裾に砦を築かれました。沼を挟んで対岸には、磯城宮の様子が手に取るように判ります。一度、カケル様にもお越し願いたいとの仰せです。」
知らせを受けて、すぐに、カケルは畝傍の砦へ向かった。
砦は、畝傍の山の木々を巧みに使い、築かれていた。山の麓には葦の原が広がっていて、その中にも船を隠せる場所も設えられていた。
「いかがですか、ここからなら、磯城宮まで目と鼻の先ほど。大臣が動けばすぐに判ります。」
シシトは、砦の中に木々に張り付くように組み上げられた物見台にカケルを案内して、遠く、磯城宮の方角を指差して説明した。
「ええ・・これなら良いでしょう。」
カケルはじっと目を凝らした。カケルの視力は常人とは違う。幼い頃から遥か遠くのものさえ見分けるほどの力がある。じっと磯城宮を見つめた後、カケルは言った。
「やはり、かなりの兵を集めたようですね。宮の周りには、兵たちがひっきりなしに歩き回っています。それに、宮の中にも新たに物見台を作ったようです。その上に居るのが、おそらく伊勢の大臣でしょう。」
カケルの言葉に、シシトは驚いた。
「カケル様には、そこまで見えるのですか?」
「ええ・・・私は幼き頃から遠くを見る力に優れていたようです。」
カケルはそう言うと、視線を南の方角に向けた。それを見てシシトが言う。
「そちらに、甘樫の丘がございます。」
「甘樫の丘は、確か物部一族の所領だったところですね。・・かつて、蘇我を倒す為、訪れる事にしていたところ。・・物部も蘇我も倒れた後、どうなっているのでしょうか?」
シシトは答える。
「彼の地を味方につけねば、磯城宮を包囲したとしても背後の不安があります。・・今、使者を送って様子を探っております。」
「そうですか・・・。大和は一つに纏まらねばなりません。戦とは関係なく、皇君の願われる、安寧な国を作るためにも何としても、我らと一つになるよう説得しましょう。」
「はい。」
シシトはそう答えると、しばらく、甘樫の丘の方角を眺めていた。
「磯城宮の北方はどうなっていますか?」
「平群の里から、斑鳩を抜けた辺りまでは、カケル様がお廻りいただき纏まりました。しかし、その先にはまだ、使者を送っておりません。」
そこまで聞いて、カケルはシシトに言った。
「シシト様、船を用意してください。国造として、大和の里をもっと知らねばなりません。大沼の北へ行きます。だれか、彼の地を知る者を案内役に就けてください。」
カケルは、磯城宮より遥か北の山の辺の先に視線を向けたまま、何か考えているようだった。

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4-27 石上(いしがみ)の里 [アスカケ第5部大和へ]

27. 石上の里
翌朝、畝傍の砦の下に広がる沼に、一艘の船が用意された。
カケルが砦から降りてくると、芦原の中に作られた水路の脇に、モリヒコと数人の子どもが待っていた。
「お伴させていただきます。」
子ども達の真ん中に居たサスケが言う。モリヒコがすぐに続けて言った。
「この者達にも大和の里を見せてやりたいのです。どうか、お許し下さい。」
モリヒコはすっかり、子どもらの守り役が板についていた。カケルは承諾した。
シシトが船の脇で待っていた。
「この者に案内させましょう。ヤマジと申します。山辺の北にある、布留の里の生まれと申しております。・・伊勢の大臣の命令で集められた兵の中に居りました。この者の兄者は、布留の里の長とのこと。」
「それは良い。では、辺りの里も案内してください。」
ヤマジは船に乗り込むと、櫂を構えた。カケルに続き、モリヒコや子どもらが乗り込むと、船は静かに沼へ漕ぎ出した。

「あの先に見える小島は?」
カケルが言うと、モリヒコが答えた。
「耳成と呼ぶ小島だそうです。漁の時に、立ち寄るものは居るようですが、誰も住んではおらぬようです。」
「あそこから、磯城宮までは船でほんの少しのところでしょう。・・・あそこに小さな砦を築きましょう。見張り台を目立つように作って、毎夜、火を焚きましょう。きっと、磯城宮は驚くに違いありません。」
カケルは、その小島と先に見える磯城宮とを交互に見ながら言った。
「では、戻ったらすぐにも取り掛かりましょう。」

船はゆっくりと進んでいく。山と盆地に広がる沼は、周囲の山に振った雨が溜まった程度で、浅かった。ところどころには、干潟のような陸地もあった。
モリヒコは、水深が浅いのを確かめて、子どもらに声を掛けた。
「舟を漕ぐ術を覚えるにはちょうど良い。誰か、ヤマジ殿と代わって船を漕げ!」
子どもたちは櫂を握り、交代で舟を漕ぐ。サスケは、平群の里に居た時、姉の目を盗み、何度か大和川へ出て船を操っていたので、ほかの子より上手かった。サスケが、他の子たちに手を取って教える姿を、カケルは微笑ましく眺め、遠くナレの村に居た頃を思い出していた。
「さあ、そのくらいで良いでしょう。」
そう言ってヤマジは、子どもらに代わって、櫂を手にして船を進めた。大沼は、浅くところどころに葦の原が広がっている。ヤマジは巧みに舟を操り進めていく。磯城宮が山陰に隠れたあたりでヤマジは舟を岸へ向けた。そして、山際近くをぐるりと回りこんだところに川が流れ込んでいた。船はゆっくりと川を遡る。その先に、煙が立ち上っているのが見えた。布留の里だった。
「ここから、歩いてほどないところに、布留の里があります。」
ヤマジはそう言うと、船を岸に着けた。次々に子どもらは船を飛び降りる。最後にカケルが降りた。ヤマジが先を歩き、布留の里へ着いた。二十ほどの家が川から少し上がった高台に立ち並んでいる。
「ここで少し待っていてください。」
ヤマジはそう言うと先に里へ入っていった。穏やかな里である。川沿いに田を開いている。上流を見ると、同じような小さな集落が幾つかあるようだった。暫くすると、ヤマジが数人の里人とともに戻ってきた。
「兄で、この辺りの長をしておるウマジと申します。」
ヤマジが紹介した男は、ヤマジと瓜二つだった。ウマジとヤマジは双子だった。
「大和の国造様と聞きました。ようこそ、こんな辺鄙なところまでお越し下された。さあ、里へ参りましょう。」
里の中央にある長の館に案内された。子どもらは、モリヒコと伴に里の中の様子を見て回った。
カケルは、布留の里へ足を運んだ訳を話した。すると、ウマジが答えた。
「我らも難儀をして居ります。兵を出せとしつこく磯城宮から使者が来て、はじめは取り合わなかったのですが、そのうち、屈強な男どもが周囲の里で狼藉を働くようになった為、やむを得ず、ヤマジが磯城宮へ行った次第です。他にも何人か行きましたが・・・。」
「兄者、皆、いまは元気で、畝傍の山に築いた砦に居ります。」
そうかというようにウマジは頷いた。
「戦を仕掛けるのでしょうか?」
ウマジがかけるに訊く。
「いえ、戦をすれば多くの命を失いましょう。戦わずして、伊勢の大臣を磯城宮から追い出さねばなりません。」
「しかし・・そのような事ができましょうか?」
疑心暗鬼にウマジはカケルに言う。カケルは少し考えて答えた。
「ここへ来る途中、山裾を回り込みましたが・・そう、少し、なだらかな丘が西へ張り出していたところです。あの辺りには里はないのでしょうか?」
ウマジとヤマジはカケルの言う場所を思い浮かべながら、顔を見合わせた。
「おそらく、そこは石上の丘の事でしょう。・・・古くに、皇君の小さな宮がありました。随分前に廃れてしまいましたが・・。あの地をどうしようと?」
カケルは、ウマジとヤマジの顔をじっと見つめた。

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4-28 廃宮修復 [アスカケ第5部大和へ]

28. 石上の宮
ウマジの案内で、カケルたちは石上の丘へ向かった。途中は、山裾から丘へ続く道があった。部分的に石畳が残っているところもあり、宮があった頃には、布留の里と石上の丘との間を行き来していた事が偲ばれた。草が生い茂る場所を切り払いながら進むと、杉木立の中に小さな館が建っていた。戸板が敗れているところはあったが、太い檜柱は立派で、少し修理をすれば使えると思われた。
モリヒコが連れて来た子どもたちは、古い館を見ると、興味深げにカケルたちの先を行き、館の中へ入った。
「カケル様、凄い館です。」
そう言って、サスケが館から飛び出してきた。サスケはカケルの手を取り、外れた戸板を退けて中へ入っていく。中に入ると、柱や梁は朱塗りされていて、見たことも無いほどの太さであった。
感心して、様子を見ていると、外に出ていた子ども達がカケルを呼んでいる。
「あっちにも館があります。」
子どもたちは、最初に見つけた館の周囲に、四つほど同じくらいの大きさの館を見つけていた。
「モリヒコ殿、ここは今まで見てきた宮とはどうやら違うようですね。」
「はい、大きな館はありませんが、周囲にいくつも頑丈な館が建っています。・・おそらく、いにしえにも戦の砦として作られたのではないでしょうか。」
それを聞いていたウマジが言った。
「我が一族に伝わる話では、ここは王族が集まる場所であったとのこと・・。久しく使われなかったのは、豪族達が力を得たためでしょう。」
カケルは、以前、葛城の皇君が話していた、神器を持ち寄り次の皇君を決める儀式のために作られた宮だと考えた。
「おそらく、少し手入れをすれば使えるようになるでしょう。すぐに取り掛かりましょう。」
カケルが言うと、ウマジは少し戸惑った表情をして言った。
「もうじき、春になりましょう。さすれば、田畑の仕事も忙しくなります。伊勢の大臣の要求で、男手はほとんど兵として出ております。今すぐには、手入れにも手を欠くほどで・・。」
それを聞いてモリヒコが言った。
「ならば、この子らに手入れの仕事をさせていただけませんか。幼き子と言えども、これだけの数がいれば、皆で力を合わせ成し遂げる事ができるに違いありません。私も子らに館の直し方を教える機会になります。」
カケルは、ヤマジに聞いた。
「里から出た方達は今はどこにおいででしょう。」
ヤマジはすぐに応えた。
「おおかたは、畝傍の砦に居ります。ざっと五十人ほど。僅かな数が磯城宮に留まっております。」
カケルはそれを聞いて言った。
「ならば、すぐに、畝傍の砦に使いを出し、ここへ呼び戻しましょう。それまでの間に、モリヒコ殿は子らに命じて、ここの手入れをお願いします。おそらく、もっと他にも館や物見台などもあるはず。水も引き入れ、万一の時は、布留の里の皆さんがここへ逃げ込めるようにしておくのです。」
こうして、皆が手分けをして石上の砦作りを始める事になった。
モリヒコは子どもたちを集めた。
「国造カケル様から、お前たちに直々の命が下った。この古宮を砦に手直しをする。ここに砦を築き、布留の里を守る拠り所とする。良いな。・・サスケ、お前が頭となって皆を差配するのだ。草を刈り、壊れた館を修復する、そして、砦の周りの柵を直す。・・やるべきことはたくさんある。布留の里のミコト様たちが戻られるまでに、あらかた仕上げるぞ。」
子ども達の目は輝いている。初めての大仕事である。サスケは身震いした。
「よおし、みんな、やろう。力を合わせればきっとできる。さあ、取り掛かろう。」
子等はそれぞれの持ち分を決め、モリヒコに教わりながら仕事を始めた。ウマジは、モリヒコと相談して必要な物があれば里から運ぶ事にした。
石上の丘の中に、子ども達の元気な声が響き始めた。
「モリヒコ様!こんなところに梯子があります。」
子どもの一人が、モリヒコを呼んでいる。急いで行ってみると、高い杉木立の中に確かに、梯子になりそうな形で枝が綺麗に揃えられているところがあった。見上げてみると、四本の杉の間のずいぶんと高い場所に、木板が掛けられていた。
モリヒコは、するすると登っていく。上に辿りついて驚いた。高い杉木立の合間から、大沼が見える。南に視線をやると、磯城宮も見えた。そしてその先には、畝傍の砦も見える。所々、木板は朽ちているが少し手直しすれば使えそうだった。
モリヒコは降りてくると、子らに命じて、長縄を作らせた。そして、一方を腰に結わえて、再び登っていく。そして、縄を木に掛けてから、上から叫ぶ。
「その縄の端に、木板を結びつけるのだ。」
そういう間に、何人かの子どもがモリヒコのいるところまで登ってきた。
「これで木板を引き上げるのでしょう。そして、ここを修理する。」
「そうだ。できるか?」
「はい。」
こうやって、次々に子ども達は知恵を絞りながら、石上の砦作りを進めていった。
カケルは、モリヒコと子ども達の様子に安心した。
「カケル様!良い策を思いつきました。」
ヤマジが修復されつつある砦の様子を見回りながら、何かを発見したようで、急いでカケルのもとへ遣ってきた。

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