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file6-11 尾行 [同調(シンクロ)]

どれくらい時間が経ったのか判らなかったが、森田は腰に痛みを感じて、目を覚ました。

「いたたたた・・・なんだい!落ちちゃったじゃないか。」
そう言いながら、辺りを見回し、ゆっくりと起き上がった。
落ちた処から2mほどの場所には倉庫の壁があった。とりあえず、倉庫の周りを歩いてみた。草は茂っていたが、敷地内はほとんどコンクリート舗装で、がらんとした感じだった。ただ、倉庫の南側は隣の病院の敷地に接していて、ちょうど、庭あたりとつながっているように見えた。
「倉庫の中とあの庭の地下がつながっているんじゃないかな?」
森田はそう考え、倉庫の中へ入れないか、入り口を探した。
倉庫の正面には大きな鉄製の扉があって、開けばトラック1台くらい入れるくらいの大きさがあったが、大きな錠が付いており、とても開きそうになかった。その脇に、通用口らしきところはあるが、ここも厳重に鍵が掛かっていた。他にないか、壁や窓を丁寧に見て回った。すると、トイレらしき処の窓が割れていて、中に入れそうだった。森田は、トイレの排気塔に手をかけて、ゆっくりと窓枠を持って動かしてみた。すーっと開いた。近くにあった古タイヤを運んできて踏み台にして何とかそこから倉庫の中に入る事が出来た。

倉庫の中は、壁から差し込む陽の光でようやく見通せるくらいの明るさはあった。倉庫の中は、外見よりもずっと綺麗で、掃除もされていた。
「意外と使っているみたいだな。」
トイレの横の事務所らしいところを抜けて倉庫の中に入ると、天井までの高さで何も置かれていないがらんどうとした空間があった。そして、倉庫の一番奥、病院と隣接しているあたりには、入り口と同様にトラック1台通れるほどの鉄製の扉があった。
「やっぱり、ここの奥は、病院の地下につながってる。きっと、通路として使っているんだ。でも、何の為に、こんな変な造りにしてるんだろう。」

そう言って、鉄製の扉の前にいた時、扉越しに、女の声が響いた。
「ダメだって。まだ刑事がうろうろしてるんだから。もう少し待って。」
何か、切羽詰った様子の相手と話しているのがよくわかった。
「ダメだって。あまり動かないほうが良いわ。・・そうね・・・判ったわ。じゃあ、私が刑事たちをおびき寄せるから、その間に、戻ってきて。でも、十分注意するのよ。・・・じゃあ、倉庫の鍵は開けておくから・・・」

その声は、扉に近づいてきた。森田はとっさに、事務所のほうへ身を潜めた。
鉄製の扉がゆっくりと開いた。薄暗かったが、扉の向こう側には、地下の駐車場があるようだった。扉を抜けて、由紀が歩いてきた。倉庫の中を横切ると、外に出る扉の内鍵を開けているようだった。由紀は、ここに森田がいることなど知る由もなく、そのまま元の場所に戻っていき、また鉄製の扉をゆっくりと閉めた。
森田は、その様子を確認してから、携帯電話で鳥山課長に連絡した。

「あ、課長ですか?森田です。今、倉庫の中に居ます。」
「・・なんだって、家宅捜索の許可は取っていないんだぞ。」
「ええ、判ってます。ちょっとしたミスで・・それより、この倉庫と病院が地下でつながっています。ちょうど今、院長が出てきて、誰かと電話で話をしていました。きっと、犯人一味がここに戻ってきます。」
「なら、その機会に・・」
「ええ、院長が刑事たちをおびき寄せるって言ってましたから、きっと、表から出て行くと思います。」
「陽動作戦か・・・なら、私が、わざと尾行がわかるように付いて行こう。君は、そこで犯人たちが帰るのを待ってるんだ。・・ただ、まだ、何も証拠が無い。だから、まず、犯人たちの顔とか何か今回の事件の証拠になるものを確保するんだ。いいな。」
「はい、そのつもりです。・・あの・・署長や矢沢さんからの連絡は?」
「まだ特にない。・・ああ、そうだ、近くの不動産屋の情報で、その倉庫は権田のものだそうだ。それと、写真を1枚入手した。今、松山君が署に持っていって、身元の照会をしている。」
「なんだか、急に事件に近づいた感じですね。・・ここも怪しいし・・ほぼ決定的ですね。」
「だといいんだが・・いいか、君も十分に気をつけるんだ。おい、拳銃は持っているか?」
「いえ、聞き込みだと思ってましたから・・」
「なら、とにかく、安全第一だ。無理するんじゃないぞ。・・・お、院長がお出ましだ。じゃあ、尾行する。」

由紀ビューティクリニックの正門から外車が出てきた。由紀が運転している。わざと見つかるように、窓を開け、顔を出すような仕草をしている。鳥山も、ゆっくり張り込み場所から出てきて、傍に停めてあった車に乗り込んだ。由紀は、ゆっくりととおりに車を進め、市街地のほうへ走り出した。

由紀の車は、どうやら駅のほうに向かっているようだった。駅前の地下にあるパーキングに入ると、入口近くの目立つ位置に車を停めた。由紀は車を降りてから、ゆっくり回りを確認するようにしてから、駅ビルに入って行った。鳥山もわざと尾行しているのがわかる程度にゆっくりと付いていった。由紀は、駅ビルにあるブティックを数件回ってから、由紀が経営しているエステサロンへ入った。鳥山は、仕方なく、その向かいにあるコーヒーショップに入り、アイスコーヒーを頼んだ。
「・・こうして引っ張り出しといて、うまくいったと思っているんだろうか?」
そうつぶやいてから、コーヒーを飲んだ。そこで携帯電話が鳴った。

file6-12 倉庫の中 [同調(シンクロ)]

F6-12 倉庫の中
「おお、松山君か?どうだ?」
電話の相手は、署にデジタルカメラを持ち帰った松山だった。
「課長、ばっちりです。藤原さんの手にかかると、写真の引き伸ばしなんてあっというものでしたよ。」
「で、何かわかったか?」
「いえ、顔はばっちり写ってるんですが・・・前科者と照合しても一致する人物は出ませんでした。念のため、県警本部にも照会してみたんですが、同じでした。とりあえず前科者にはいませんでした。」
「そうか・・まあ、いいさ。その写真を焼き増しして、派出所あたりにも配ってくれ。似たような人物を発見したらすぐに連絡をするよう通達をつけてな。」
「ええ、もうやってます。藤原さんがその手のことは得意みたいです。・・課長、藤原さんって、刑事になりたかったんですね。・・今度、署長に話をつけてあげてくださいよ。頼りになりますから・・」
「わかった・・わかった。・・・それより、矢沢から連絡は無いか?」
「ええ、心配なんで・・何するんですか・・藤原さ・・」
松山がそう言い終わらないうちに、松山の電話を取り上げて、藤原女史が出た。
「・・課長。藤原です。・・あまりにも連絡が無いんで、今、GPSで矢沢さんの居場所を探していたんですが、私が伝えたコンテナエリアBから一歩も動いていないんです。おかしいと思いませんか?」
「どれくらい動いていないんだ?」
「ええ、もう30分近く。もしかして、犯人グループと出くわして捕らえられているとか?」
「すぐに松山君に向かわせてくれ。いやな予感がする。・・ああ・・君も一緒に行ってくれ。一人じゃ何かと動きが悪い。悪いが、松山を支援してやってくれないか?」
鳥山課長にそう言われ、藤原女史は飛び上がった。長年の夢だった刑事の職に就けると思って舞い上がった。
「了解しました!」
勢いよく返事をすると、電話を切って松山を伴って・・いや、松山を引き連れて署から出て行った。
鳥山課長は、少し後悔していた。

電話のやり取りの間もエステサロンへ視線は向けていた。しばらくすると、由紀はエステサロンから出てきた。そして、来た時と同じように、数件のブティックを見ながら地下駐車場へ戻ると、車に乗り込んで、クリニックへ戻っていった。

鳥山は、同じ場所に戻ってきた。そして、森田に連絡をした。
「どうだ?一味らしい奴らは戻ってきたか?」
「いえ、じっとここにいましたが、何もありませんでした。」
「そうか・・何か予定が変わったか。」
「あ、課長、また倉庫の扉が開きます。また連絡します。」

鉄製の扉がゆっくりと開き、由紀が倉庫に入ってきた。森田が事務所の窓から少し顔を出して、覗いてみると、何かイラついている様子で、ぶつぶつ言っている。
「・・せっかく、おびき出したのに・・急に・・・勝手なんだから・・・」
そして、倉庫の外扉の鍵を閉めて、また鉄の扉を抜けて、戻っていった。
「ここには戻ってこないみたいだな。ということは他にも行くところがあるってことか。」

森田は。事務所の隅でじっと考えていた。ここにこうしていたところでこれ以上は収穫はないだろう、ただ、このまま戻るのもどうか、ついでに、クリニックの地下がどうなっているのか探ってみよう。そう考えて動くことにした。

鉄製の扉の向こう側には、物音はしなかった。由紀もクリニックに戻ったに違いない。森田はそっと扉を引いてみた。鍵はかかっておらず、静かに動いた。広い空間が広がっていた。真っ暗だった。しばらくすると目が慣れてきて、ぼんやりとした暗闇の中でも状況がわかった。広い駐車場になっているようだった。由紀が愛用しているらしい高級車が2台ほど停まっていた。
どこか通路や階段が無いか探ってみた。一番奥に当たる場所に、車の昇降用と思われるエレベーターがあった。
「これで、上の駐車場に出るんだな。・・他には?」
エレベーターの脇に小さなドアがあった。上からの明かりが差し込んで隙間から漏れていた。ドアノブに手をかけ、ゆっくり回してみたが鍵がかかっていて動かなかった。
「仕方ない、戻ろう。」
そう言って振り返ったところに、由紀が立っていた。由紀は、森田が忍び込んでいるのは、とっくにわかっていたようなそぶりで、落ち着いていた。

「ここで何をしていらっしゃるのかしら?」
森田は答えに困った。とっさに逃げようとした時、首筋に注射をさされたような痛みを感じ、そのままその場に倒れてしまった。
その様子を見ながら由紀は不敵な笑みを浮かべてこう言った。
「最後に良い思いをさせてあげるわね。それはね、ユウキから採取した出来立ての薬よ。全身に恍惚感がひろがるでしょ?まさに薔薇色の感覚でしょ。・・でもね、使いすぎると、体の機能が停止するの。手足の感覚がなくなって、暑いとか寒いとかも無くなって、体から魂が離れていくようでしょ・・どう?」
森田の顎を掴んで持ち上げると、森田は口から白い泡を吹いている。だが、顔の表情は恍惚感に満たされているかのようなだらしないものだった。

「こいつ、どうする?」
由紀に気を取られていて気づかなかったが、車の中に隠れていた痩男「リュウ」が、背後から森田を襲ったのだった。
「どうするって、ほっといても、もうじき死ぬわよ。あとは、ここにいた痕跡を消すしかないでしょ。どうせ、無許可で進入してきたわけだし、警察だってそのことを表立って言えないはずよ。・・調べに来たって、知りませんって答えれば済む話でしょ。」
「でも、こいつはどこかに・・」
「そんなの簡単でしょ。見つからないように完全に消去するのよ。ほら、あの工場の高熱炉に投げ込んでくればいいじゃない。すぐに処分して・・」
「判った。すぐに連れて行く。・・それより、ソフィアはどうする?」
「いい材料になりそうよ。もう準備はしてあるから。・・・ああ、表はまだ刑事がいるから、裏から出て行ってね。その車使っていいから、じゃあ頼んだわよ。」

鳥山の尾行も、森田の侵入もすべて由紀にはわかっていた。クリニックの周囲には、いくつもの監視カメラが設置してあり、倉庫の中にも赤外線センサーが張り巡らされていて侵入者はすぐにわかるのだった。これらを全て計算に入れ、由紀は鳥山を尾行させ、倉庫の鍵を開けてそこから一味が戻ってくると見せかけた上で、不在になった正門から堂々と一味はここに戻ることができたのだった。

由紀は車用のエレベーターに乗り込むと、内側にあるスイッチを押した。すると、エレベーターの奥にある壁が開いて、秘密の地下室への通路があった。由紀は、鼻歌交じりにその部屋に消えていった。

file6-13 自殺 [同調(シンクロ)]

藤原女史と松山は、鳥山課長の指示に従って、急いでコンテナ置き場に向かった。
藤原女史は、車の中でずっと同じ事を考えていた。一樹がコンテナ置き場から一歩も動いていないのは、きっと何かあったからだろう。犯人に捕まっているか、あるいは、動けない状態・・怪我をしているかあるいは殺害されたか・・考えれば考えるほど悪いことしか思い浮かばなかった。

埠頭入口の門は開かれたままで、目指す場所はすぐにわかった。
課長の言葉を思い出し、犯人グループが潜んでいるかもしれないと警戒しながら、ゆっくりとコンテナを一つ一つ確認して、入って行った。
ドアが開いている緑色のコンテナの前に、人が倒れていた。あたりの様子を確認しながら近づくと、一樹だった。「矢沢さん、大丈夫?」
藤原女史が駆け寄って声をかけた。
「先輩!しっかりしてください。」
「松山君、すぐに救急車、そして、署にも連絡して!」
藤原女史は、その場で、矢沢の上着を脱がせると、出血箇所の腹部を確認した。傷口はそれほど大きくなかった。
「短銃で撃たれたのね。」
そして、一樹を起き上がらせてから、背中をじっくり見て
「良かった、弾は貫通してるようだわ。この出血なら、内臓は傷ついていないはず。出血を止めれば大丈夫。」
そういうと、自分のスカートの裏地を引きちぎって、出血箇所に強く押し当てて止血した。
その手際良さに、松山は感心してみていた。
「何、見てるのよ。連絡したのなら、場所の誘導よ。ここは判りにくいから、ほら、表の通路に立ってて。」
松山は、藤原女史に指示されるまま動いていた。
まもなく、救急車とパトカーが同時にやってきた。
担架に乗せられたとき、一樹は意識を取り戻した。
「良かった。もう大丈夫よ。警官所持の短銃はそれほど口径が大きくないから、急所を打たれない限り死ぬことは無いからね。」
藤原女史が傍らでそう言った。一樹はまだ朦朧とした意識の中だったが、ゆっくりコンテナの中を指差して、酸素マスクをあてられたままで、
「佐伯が・・そこに」
そう告げた。すぐにコンテナの中を確認すると、佐伯が死んでいるのが見つかった。
「判ったわ。ちゃんと調べるから・・矢沢さんは、病院へ。」
藤原がそういうと、救急車のバックドアが閉められ走りだした。

佐伯の遺体は、検視官によって確認された後で、鑑識がさらに遺留品等を調べた。
「こんなものが見つかりました。」
鑑識の川越が、松山と藤原に小さな紙切れを見せた。
「佐伯のポケットに入っていました。プリンターで印刷されていますし、自署もありませんから、内容の信憑性はありませんが・・」
それには、一連の行方不明事件は佐伯と加藤とでやった事だという内容が書かれていた。最初は、若い娘に猥褻な悪戯をするのが目的だったが、思わぬ抵抗にあって誤って殺してしまったので、遺体を武田の工場地下室で処分したのだというのだ。佐藤刑事にはその秘密を発見されたので殺したとあった。最後に、警察官として恥ずかしいので自殺してお詫びしたいと遺書とも取れるものだった。
確かに、パソコンで打ったような無機質な文章であり、何の証拠能力もないはずだが、こうした遺留品が出た以上、それを否定するのも難しかった。
「これは遺書なのよね?」
「そうみたいですね。でも、どう考えたっておかしいですよ。」
「当たり前よ。矢沢さんは撃たれたのよ?佐伯はきっとその前に死んでたはずだから。」
「そうですね。・・・一度、署に戻って課長や署長と相談してみましょう。」
松山と藤原女史は現場を引き上げて行った。

署に戻った二人は、鳥山の姿を探したがまだ由紀の尾行から戻っていないようだった。ちょうど、紀藤署長が戻ってきていた。佐伯自殺の話はすでに紀藤も承知していた。
「いよいよ動き始めたようだな。」
「いよいよってどういう事ですか?」
紀藤は二人を前に、権田会長を訪問したときの様子を聞かせた。そして、権田と由紀との関係を以前から怪しく思っていて、調べていた事。鳥山も一緒に秘密裏に操作していた事等を説明した。
「いわゆる尻尾切りっていうんでしょうか?」
藤原女史が、口にした。
「ああ、きっと、今までにも二人に利用され消された人間もいるんだろうなあ。」
それを聞いて松山が訊いた。
「次にどう動くでしょうか?」
「秘密を知った人間を消していくと考えたほうがいいだろう。」
「佐伯のようにまだ警察内部に仲間がいるんでしょうか?」
「そうじゃないことを願っているが・・・君たちは大丈夫だろうな?」
「署長、勘弁してくださいよ。それより、ユウキさんやソフィアさんは一体どこにいるんでしょうか?」
「ああ、結局、肝心の部分が見えないな。拉致した女性に何をしているのかも・・・」
「これだけ手がかりがあるのに・・・一番肝心な事は何もわかっていないなんて・・・」
藤原女史も悔しそうに呟いた。
「とにかく、監禁場所を特定することだ。早くしないとさらに死者が出る。クリニックに行ってる鳥山君たちはどうだろうか?」
「僕が応援に行きましょう。写真も出来ましたし、鳥山課長だけじゃ動きづらいでしょうから。」
「ああ、そうしてくれ。・・そうだ、藤原さん、一樹の様子を見に行ってくれないか?あいつのことだから、目が覚めると、すぐに病院から脱走して、捜査に戻ってくるかもしれんからな。」

松山と藤原はそれぞれ署長の指示を受けて署を出て行った。
二人を見送ったあと、紀藤は署長室に戻った。これまでの事件簿を見ながら、権田と由紀を追い詰めるにはどうすべきかを考えていた。決定的な証拠があれば、家宅捜索という手があるのだが、二人が直接関与したという証拠は何も見つかっていなかったのだ。


file6-14 ベッドの脇で [同調(シンクロ)]

一樹が撃たれたという知らせは、神林病院にいた亜美にも伝えられた。すぐにでも一樹のもとへ行きたかったが、一命は取り留めたという事を聞いて、留まった。
今は、レイも生死の境を彷徨っていたのだった。ソフィアとシンクロしている時、レイは意識を失い、心拍停止の状態に陥ったのだった。すぐに蘇生術が為され、今は、特別室の隣の部屋で、ベッドに横たわっていた。まだ、意識は回復していなかった。

亜美が、廊下にある長椅子に座っていると、葉山夫人が近づいてきた。
「亜美さん?大丈夫?」
じっとうつむき、時折ため息をつく亜美の姿は、事情を知らない葉山婦人にも、尋常な状態でないことくらいわかったのだ。
「あ・・・・葉山さん・・実は・・一樹が、銃で撃たれたって・・」
「え?どういうこと?」
葉山婦人は、長椅子の傍らに座り、亜美の肩を抱いて、慰めるようにこれまでのいきさつを聞いた。そして、一つ深呼吸してから、
「大丈夫よ、亜美さん。主人だって、あんな怪我をしたけど死ななかったんだから。」
そう慰めた。そして、
「ねえ、昨日から、主人の様子がおかしいの。意識は無いはずなのに、時々動くの・・いえ、勘違いじゃないと思うの。・・ほら、時々、病院の中で電気が明るくなったりするでしょ。あれにあわせるようにピクピクって指が動くの。・・傍にいる私もなんだか変な感じがして・・そう、船に乗ってるようなふわふわした感じで・・」
それは、レイがシンクロしている時に起きているだと亜美には判った。自分も最初、傍にいて異常な感覚を感じたが、今は慣れてしまって感じなくなっていた。
葉山婦人はさらに
「その時なんだけど・・変に思わないでね・・声が聞こえるのよ。空耳じゃなくて、頭の中に響いてくるような声がするの。・・あなた、そんなこと無い?」
そこまで聞いて、亜美は、レイの秘密を教えることにした。
「そうなの。そんな事ってあるの。・・・主人もきっとそれを感じて反応してるのね。」

二人で話しているとエレベーターが上がってきた。
ドアが開くと神林院長と看護師があわてた様子で特別室に入っていく。亜美は立ち上がり、看護師を掴まえて様子を聞いた。
「レイさんに何かあったんですか?」
看護師はやや躊躇したようだったが、
「いえ、レイさんはもう大丈夫です。先ほど意識が戻りました。」
「じゃあ、何が?」
そう言っている脇を大型の特殊なベッドが運ばれてきた。ベッドというよりも水槽に近く、白いやや粘りのある液体が満たされていた。
特別室のドアが開くと、レイがよろけそうになりながら、立っていた。
そして、神林院長となにやら話し、レイがこくりとうなずくと、その水槽の様なベッドが特別室に運び込まれていった。

その様子を見た後、亜美はレイに近づいて声をかけた。
「レイさん、もう起きても大丈夫なの?」
「ええ・・ごめんなさい。ご心配をお掛けしました。もう大丈夫ですから。」
「ねえ、さっきのベッドって?」
レイは、特別室のほうへ視線をやってから、小さい声で答えた。
「ママの容態が思わしくなくて・・・特殊な処置をするんです。」
「一緒にいなくてもいいの?」
「神林先生が、見ないほうがいいだろうって・・」
そういうとその場に座り込んで、小さい子どもの様に、声を上げて泣き出してしまった。いや、小さい子どもに戻ったようだった。
「もう少し、横になっていたほうがいいわ。」
亜美はそう言って、レイの肩を抱きかかえると、特別室の隣の部屋のベッドへ連れて行った。葉山婦人は、葉山刑事がいる病室に戻っていった。
「もうシンクロはできなくなる。」とレイが呟いた。
「ええ、こんな危険な事はもうしなくていいのよ。何とか自分でコントロールして・・・」
「いいえ、そうじゃないの。・・」
「どういうこと?できなくなるって、いいじゃない、やらなくて済むのなら・・」
「実は・・・」
そう言いかけた時、神林院長が現れた。そして、落ち着いた声で、だが、ひどく落胆した様子でこう言った。
「レイ。いよいよ時間が無くなったようだ。・・もう全身がほぼ機能を停止している。あとは、脳の機能だけが生きてる状態だ。」
レイはすでに覚悟していたかのように、神林院長の言葉を受け入れた。
「亜美さん、有難う。私、ママに会ってくるわ。」
そう言って立ち上がった。
「紀藤さん、申し訳ないが、お帰りいただけないかな。」
そう言われて亜美は部屋を出て行くことにした。

エレベーターを降りながら、レイが言った「もうシンクロできなくなる」という言葉が引っかかっていた。だが、一樹の様子も心配で、すぐに市民病院へ向かった。

市民病院に着くと、受付で一樹の病室を確認し、まっすぐ向かった。東病棟2階のナースステーションの前に来た時、藤原女史の姿を見つけた。
「藤原さん!」
「ああ、亜美さん。来たの?」
「ええ、一樹の様子が気になって・・・」
「さっき、担当医から聞いたんだけど、腹部に弾を受けてはいるけれど、内臓には傷が無くて、すぐ縫合して2・3日もすれば動けるだろうって。」
「今は?」
「ずいぶん疲れもあった様で、手術の時の麻酔からまだ覚めていないわ。先生の話だと、様子を見ないとわからないそうよ。明日の朝まではそのままだろうって。・・ちょうど良かった。私、署に戻ってもう少し調べてみたい事があったの。・・亜美さん、付き添い、代わってくれる?」
「ええ、そのつもりでしたから。」
「ああ、そうそう、署長が、一樹は目が覚めたらすぐにでも捜査に戻ろうとするかもしれないからっておっしゃってたわ。目を離さないようにね。」
「ええ、そんな事させないわ。」
「じゃあ。」
そういうと、藤原女史はカバンを抱えて足早に病院を出て行った。
亜美は一樹の病室に入った。
壁際に置かれたベッドで、子どもの様な無邪気な顔をしてすやすやと眠っている一樹を確認すると、ようやく安堵した。
「もう・・心配したんだから・・。」
そういうと亜美はベッドの脇の椅子に座って、一樹の手を握った。
亜美もレイのところに付きっ切りで、疲れも溜まっていたのだろう、そのまま、ベッドに突っ伏して眠ってしまった。

file7-1 証拠 [同調(シンクロ)]

署長室で、紀藤はじっと事件のつながりを考えていた。
権田と由紀がすべての事件に関与していることは明白だが、すべてに関して、何も証拠がなかった。そして、この事件の底の方で、いったい何が行われているのかも全く掴めていないのだ。
レイが最初に誘拐事件で現れてから、俄かに、権田と由紀に関心が集まり、徐々に拉致事件や襲撃事件等凶悪な事件もつながるように発生している。以前から捜査を続けていた行方不明事件と今夏の一連の事件を解くために重要な鍵がどこかにきっとあるはずだという思いだけが強くなっていた。
「一体、何が起きてるんだろうか。」
その時、手元においてあった携帯電話が鳴った。
張り込みをしている鳥山たちからだった。

「ああ、紀藤だが・・何か動きがあったか?」
鳥山は、昼間と同じ正門前の家の庭で張り込みをしていた。
『いえ・・あれから、特に変わった動きはありません。・・ただ、深夜になっても、まだ、クリニックの灯りはついたままです。まだ、由紀はここに居るようです。』
「そうか・・すまないが、もうしばらく張り込みを続けてくれ。」
『大丈夫です。こういうのは刑事の一番の仕事ですし、体力だけは自信がありますから。』
「無理しないでくれよ」
『ご心配有難うございます。・・ああ、それと報告が・・実は、森田がクリニックの隣の倉庫の中に入っています。誤って入り込んだようですが・・どうやら、クリニックとつながっていて、そこからも出入りが出来るようになっています。それに、その土地は権田の持ち物でした。』
「そうか・・やはり、そこで何かやっているのは確かだな。森田君から連絡は?」
『それが・・昼間に一度連絡が取れたんですが、それ以降はまったく取れなくなっています。』
「見つかってしまったということはないのか?」
『ええ・・私もそれを心配してるんですが・・・こちらから呼び出しても、不通になっていて・・』
「そうか・・・よし、次に動きがあったら、とにかく任意ででもいいから、由紀を署へ連れてくるんだ。責任は私が取る。」
『わかりました。・・・・あ、クリニックの灯が消えました。・・由紀は出てきませんね。念のため、このまま張り込みを続けます。』
「わかった。」
紀藤署長は、椅子に深く座り込むと、目を閉じ少し休んだ。

クリニックの張り込みをしている鳥山に、藤原女史から連絡が入った。
『課長、藤原です。・・病院は亜美さんと代わって貰いました。実は、あの不動産屋からの写真、ちょっと気になることがあって調べてたんですが・・』
「どうした?」
『写真の男の脇のほうに、車が1台写ってるんです。・・先ほどは、男の顔ばかりに囚われていたので見落としてたんですが・・よく見ると、例の犯人グループの車両と特徴が似ているんです。』
「ナンバーは?」
『偽装ナンバーでした。明らかに何か犯罪に絡んでるのは確かです。それで、写真の取られた時間帯の付近の監視カメラに何か残っていないか調べていたんですが・・』
「それで?」
『少し離れた、小学校前のカメラの映像に、その車両が写っていました。それに、由紀も助手席に乗っていたんです。間違いありません。』
「ということは、由紀と拉致事件は確実につながっているということになるな。」
『間違いありません。それと、男の正体なんですが、・・鑑識の川越さんが言ってたのが気になって、ほら、女性のDNAだったって。』
「ああ、そう言ってたな。」
『それで、女性の前科者も調べてみたんです。・・そしたら、よく似た女性がいるんです。・・昔、窃盗未遂事件で捕まっていたんですが、被害も無く処分保留で釈放されています。身元保証人は、魁トレーディングの権田会長になっていました。』
「わかった。・・その、男の事はもう少し調べてみてくれ。同じ様に、権田か由紀が身元保証人になっているような前科者はいないか。・・それから、藤原さん、すまないんだが、森田の居場所はわからないかな。連絡が取れなくなってずいぶん時間が経ってるんだ。」
『ちょっと待ってください。・・・そんな事もあるんじゃないかと思って、皆さんの携帯GPSで居場所はずっと捕捉してたんです。・・・変ですね。・・・課長と話したのが最後で・・今、少し離れた場所に・・ああ、KTCという工場にいることになっていますね。』
「すまないが、そっちにも人をやってもらいたい。2班のメンバーに行って、工場の方を抑えてもらってくれ。」
『わかりました。』
会話を聞いていた松山が横から
「強制捜査に入りますか?」
「いや、令状が無いんだ。」
「じゃあ、任意でいきますか?」
「そんな簡単に、中には入れてくれないだろう。」
「じゃあ、どうします?」
「裏の倉庫から入るんだ。森田が居れば手引きしてくれるだろうが・・たぶん、捕まってるんだろう。・・こうなったら、強行突破しかないだろ。すぐに署に連絡して、応援を頼もう・・いや、そうだ。藤原さんだ。」
手にしていた携帯電話は、藤原女史とつながったままだった。

「藤原さん、今から、クリニックに突入する。署長にも連絡をしてくれ。・・・ただ、ここは監視システムが完備してる。このままじゃ突破できない。そこで、君に頼みがある。ここの電力を短時間停められないか?」
藤原女史はしばらく考えてから、
『違法性はありますが、捜査の一環ということで・・電力会社のコンピューターから一時的な停電を起こしてもらいましょう。・・そうですね・・少し時間を下さい。また連絡します。』

藤原女史はパソコンの前で大きく深呼吸をして、起動した。署のネットワークには、様々な情報ネットワークを探れるようなシステムが組み込んである。もちろん悪用するのではなく、非常時の対策だ。ここから限定的地域で電力供給をストップした。

file7-2 強行突入 [同調(シンクロ)]


『鳥山課長、12時ちょうどから、その一帯が停電になります。ただ、その病院の自家発電システムが動き出すはずですから、停電は、ほんの10分ほどの時間だと思います。・・それから、署長が署にいた他のメンバーを連れてそちらに向かいました。・・・動きがあったらすぐに突入できる体制を取るそうです。』
「わかった。」
鳥山はそう言うと、松山を連れて、倉庫の入口に向かった。

ちょうど12時になった。鳥山課長と松山は、倉庫の門を乗り越えて、中に入った。森田が入ったと思われる窓ガラスから内部に入り、鉄製の扉の前に立った。
「さあ、どうする。あまり時間は無いが・・」
扉に手を掛けると、鍵は掛かっていなかった。電動錠が停電によって開いていたのだった。
二人は、一目散に倉庫から地下室に入った。黒い車両が1台停まっていた。
「どこかに、隠し部屋があるはずだ。探せ!」
二人はとにかく短い時間の中で走り回って探した。

その頃、クリニックでは、防犯システムの異常を知らせる緊急ブザーが鳴り響いていた。
由紀は、カウンセリングルームにあるカウチベッドで横になっていたが、今まで聞いた事の無いブザー音に驚いて、飛び起きた。
由紀が防犯システムのモニター室に入った時には、停電も終わり、通常通りのシステムが作動していた。
「なんだ・・停電なの・・それにしても、うるさいわね。ブザーが鳴らないようにしなきゃ・・」
ぶつぶつ言いながら、ふと見上げたモニターには、鳥山が写っていた。
「一体何なの?・・追い払ってこなくちゃ・・」
そういって手下に命令しようとしたが、昨夜、出て行ったきり戻ってきていない。仕方なく、自分が行くことにした。

地下にいた鳥山はまだ隠し部屋を発見できずにいた。
「くそ!どこかに出入り口があるはずなんだが・・・」
「課長、ここにドアがあります。」
松山が叫ぶ。
「明りが漏れていますから、きっとどこかに通じているはずです。」
「よし!」
そう言って鳥山がドアに向かった時、ドアの上から足音が響いた。松山は車の陰に、鳥山は、昇降用エレベーターの陰に隠れた。
ドアが開いて、由紀が現れた。
「さあ、出ていらっしゃい。ここに居るのはわかってるのよ。警察が泥棒の真似をしてどういうつもりなの!訴えるわよ。」
その声に、松山が動いた。その音を聞いて由紀が車のあるほうへ向かった。
鳥山は、昇降用エレベーターの中に入って息を潜めていた。ふと、見ると小さなスイッチがあった。エレベーター用のものではないのはすぐにわかった。松山が由紀をおびき寄せている間を狙って、鳥山はスイッチを押してみた。すると、音も無く、壁が開いて、そこには長い通路が続いていた。物音を立てないよう、鳥山は静かにその中に入った。
松山はその様子を見ながら、由紀の注意を自分に引き寄せるため、わざと車に乗り込むようにドアに手を掛けた。イモビライザーが反応して、地下室にけたたましく警報音が鳴り響く。
「もう!うるさいわね!」
由紀が持っていたキーでロックを解除したので、松山はドアを開けて後部座席に乗り込んだ。
「困った人ね。わかったわ。そこに居なさい。」
そう言って、由紀は先ほどやってきたドアに小走りに向かっていった。
「待て!」
松山はあとを追ったが、寸でのところで逃げられてしまった。ドアは外から鍵が掛けられ、しばらくすると、地下室内に設置されていたスプリンクラーから大量の水が放出され、次いで、何か白いガスの様なものが噴出されてきた。消防用の炭酸ガスだった。
「おい!松山、こっちへ来い!」
鳥山課長が先ほどの通路から顔を出して、松山を呼んだ。
松山はずぶぬれになりながら、何とか通路の中へ逃げ込んだ。


file7-3 監禁 [同調(シンクロ)]

F7-3 監禁場所
由紀ビューティクリニックの地下室の隠し扉を抜け、どうにか避難した鳥山と松山が、長い通路にいた。
「課長、ここは?」
「隠し部屋に通じているらしい。きっとこの奥に拉致された女性たちが監禁されているだろう。行くぞ。」
その通路は、一歩進むごとに蛍光灯が点灯し行く先を照らし出した。突き当たりに、白いドアがあった。

二人は、そっとドアを開いた。そこには、あられもない格好で、無機質な椅子に縛り付けられたユウキとソフィアの姿があった。
「何だ、ここは?・・・・惨いことをしやがる。」
鳥山はそう言うと、近くにあった白いシーツを広げて、そっと掛けてやった。
「課長、一人は・・ソフィアさんですね。・・死んでるんでしょうか?」
そう言って顔を近づけると、ソフィアがピクピクと反応した。ソフィアは、薬を投与されたのか、動けない状態になってはいたが、まだチューブや点滴などは付けられてはいなかった。
一方のユウキには、頭に何本かのチューブが入っていて、両手にも点滴の注射が何本か刺さっていた。その上、局部には電極がついたようなコードもつながっていて、全身からの分泌物でぬるぬるとした異様な状態で、かなり衰弱しているようだった。
鳥山がチューブがつながった機械を見ながら言った。
「人間から何かを抽出しているようだな。きっと高く売れる薬物にでもなるんだろう。証拠はこれで押さえた。」
「ですが、課長。ここからどうやって抜け出すんですか?さっき、携帯電話を見ましたが、通信できないみたいです。」
「慌てなくていいさ。あいつ等も、このまま俺たちをここに閉じ込めるつもりはないだろう。そのうち、向こうから現れるさ。その時を待つしかない。へたに動かない方が良い。」
「ですが・・」
「この娘たちには気の毒だが・・今しばらく辛抱してもらうほか無い。それに、今頃は外も包囲してるはずだ。大丈夫さ。」
鳥山課長はそういうと近くにあったタオルを手にして、ソフィアの顔や手を拭いてやった。
「こんな目にあわせた奴には厳しい罰を受けてもらわないとなあ。」

それを見た松山も、同じようにタオルを手に、ユウキの手や顔を拭いてやった。その感覚が作用したのか、恍惚の表情にあったユウキの目から涙が流れた。そして、ゆっくりと目を瞑り、再度、目を開くと、
「タ・・ス・・ケ・・テ・・」
搾り出すような声を出したのだった。
「課長、まだ意識があるようです。・・課長!」
「ああ、そのようだ。ソフィアさんも同じように何か話したがっている。」
「何か、楽にしてやることはできないでしょうか?」
「このチューブとか点滴とかを取ってやればどうだろう。」
「大丈夫でしょうか?」
「そっとやってやろうじゃないか。」

鳥山と松山は、ユウキの体につけられたチューブや注射をじっくりと見た。
「頭につながってるものは、最後にしよう。・・この注射や電極は取り除いても大丈夫のようだ。」
そう言うと、そって右手の点滴注射から抜いてやることにした。松山は、ユウキの手をしっかりと握り、小さな反応も見逃さないよう注視していた。両方の腕からすべての点滴注射を取り除いた。ユウキの意識が少しハッキリしてきたように見えた。局部にある電極の様なものも取り除こうとした。
「済まない。恥ずかしいかもしれないが、君を助けるためだ、我慢してくれ。」
鳥山はそう言うと手を伸ばした。電極の様なものは20センチほどの長さがあり、それは男根とそっくりに作ってあった。ゆっくりと抜き始めると、ユウキの体はビクビクと痙攣を起こした。途中で何度か止め、ゆっくりと時間をかけて抜き取った。ユウキは大きく呼吸をした。何か、抑圧されたものから解放されたような息をした。
その頃には、ユウキの意識は一層はっきりとし始めていた。ユウキは、松山の手を強く握り返し、大粒の涙を流し始めた。
「課長、もう大丈夫なようです。」
松山が手を離そうとすると、ユウキはより強く握り返し、離したくないという反応をした。ユウキの目が松山の目を見つめた。
「課長、タオルを取ってくれますか?」
松山は、タオルを受け取ると、握った手をそのままにして、ユウキの体を優しく拭いてやった。
「可哀相に、こんな目にあって・・もう少し早く来ていれば・・済まない。」
そして、ユウキの体を綺麗にしてやると、もう一度白いシーツで全身をくるんでやった。
ソフィアも徐々に意識を取り戻し、朦朧とする景色の中に、動く人影を感じていた。
「か・・ず・・き・・」
その声に鳥山が振り返った。
「ソフィアさんも大丈夫だ。・・松山、シーツを取ってくれ。」
同じように、ソフィアもしっかりと全身を来るんでやった。


file7-4 仕打ち [同調(シンクロ)]

由紀は、カウンセリングルームに戻ると、すぐに権田に連絡した。
深夜遅く、権田はすでに床についていたのを起こされて不機嫌だった。

「困ったわ。地下室に刑事たちが侵入してる。・・たぶん、もう死んでるはずだけど・・すぐ、誰か遣してよ。」
「どうしたんだ・・あわてるんじゃない。・・シュンはどうした?」
「・・先に飛びこんできた刑事を処分しに出て行ったわ・・まだ戻らないのよ。」
「わかった。じゃあ、リュウに行かせよう。・・だが、周辺に刑事もいるんだろう。」
「じゃあ、どうするのよ。このままほっておくつもり?朝にはきっと警察が踏み込んでくるわ。」
「追いかえせばいいだろう。何の証拠ももってないだろうが・・」
「でも・・とにかく、誰か遣して。私一人じゃどうしようもないわ。」
由紀はそう言い放つと携帯電話を切った。

権田はベッドに座って一考した。そして、『男』を一人呼びつけた。すぐに、痩せ男の「リュウ」がやってきた。
権田はリュウの耳元で、何かを話し、リュウは驚いた表情を見せた。そして、権田は、部屋にある金庫を開けて、中から、注射器を拳銃をとりだした。
「良いんですか?」
リュウは、恐る恐る尋ねた。権田はにやりと笑ってから、リュウの肩を叩いて部屋を出て行かせた。
権田は一つため息をついたが、すぐに忘れるかのような表情をして、ベッドに戻った。ベッドの中には、裸の若い女性二人が、恍惚の表情をして横たわっていた。

痩せ男「リュウ」は、由紀ビューティクリニックに向かった。
周りには、刑事たちが張込みしているのは承知していた。正面玄関も、隣の倉庫も見張りがいる。クリニックから少し離れた場所に車を停めた。リュウは、長身で身軽だった。病院裏手の倉庫とは反対側にある民家の壁をひょいと越え、屋根伝いにクリニックの庭に降り立った。
その動きは、尋常ではなかった。通常の肉体では考えられないほどの跳躍力とすばやさで、あっという間に、クリニックの2階へ上がると、由紀が待っているカウンセリングルームに入っていった。

「早かったわね」
由紀が振り向くと、リュウは手に黄色い液体の入った注射器を持っていた。リュウは、由紀を後ろから羽交い絞めにすると、由紀の首筋にゆっくりと注射器の針を立てた。ゆっくりと薬が注入されると、羽交い絞めを解いた。
「何す・・る・・の・・」
由紀はその言葉を言い終わらないうちに、立っていられなくなりその場にしゃがみ込んでしまった。そして、失禁をし、激しく呼吸をした。見る見る顔が高潮し目が虚ろになる。着ていた服を自ら剥ぎ取り、乳房を握りつぶすほど力を込め、口から泡を吹いて、悶絶し倒れこんだ。ぴくぴくと小さく痙攣をしながら、次第に呼吸が弱くなって、やがて息絶えた。
リュウは由紀が完全に息絶えた事を確認し、再び、手にしていた注射器を由紀に持たせ、乳房辺りに付き立てた。

その後、そっと部屋を出て、階段を降りて、地下室に向かった。
スプリンクラーが作動し水浸しになった地下室から、昇降用エレベーターの奥にあるドアを開け、中に入った。
服のポケットから、拳銃を取り出した。一歩進むごとに、蛍光灯が点灯する。

隠し部屋のなかで、女性を介抱しながら外に出るタイミングを探っていた鳥山と松山は、廊下からやってくる人間に気付いた。
「誰か来るようだ・・・助けではなさそうだな。」
鳥山はシーツを持って、ドアの脇に立った。松山は女性たちに大きなシーツをかけた。
静かにドアが開いて、リュウが部屋の中に入ってきた。手には拳銃を構えていた。一歩進んだところで、鳥山がシーツをリュウに被せ羽交い絞めにした。リュウは驚いて、拳銃を1発撃った。銃声に、一瞬、鳥山の手が緩んだところで、リュウはシーツを脱ぎ、鳥山に銃を向けた。松山が思わず短銃を発射した。リュウが小さく呻いて倒れこんだ。
「殺し屋でしょうか?」
「ああ・・だが・・生かして逮捕したかったな。」
「すみません。」
「いや、仕方ない。やむを得ない状況だった。・・それより、まだ他にも隠れているかも知れん。注意して、外にでよう。」
鳥山はふと振り返り、
「お嬢さんたち、今、助けてあげるから、もう少しに辛抱だ。」
そう言って、注意深く外へ出て行った。
地下室に出ると、松山がすぐに藤原女史に連絡をした。外で待ち構えていた署員たちが、紀藤署長の命令で、一斉にクリニックに突入した。そろそろ夜が明ける時間になっていた。


file7-5 救出 [同調(シンクロ)]

紀藤署長がクリニックに入ると、地下室から鳥山と松山が上がってくるところだった。
「大丈夫か?」
「ええ、私たちは大丈夫です。・・この奥に、隠し部屋があって、そこにソフィアさんとユウキさんと思われる女性が監禁されていました。一味と思われる男は、銃を発砲したのでやむなく射殺しました。」
「そうか・・仕方ない・・それで、ソフィアさんたちは?」
「ソフィアさんは、今、救急隊員が運び出すところです。ただ、ユウキさんは、頭部にチューブが繋がった状態で機械から切り離せないんです。・・由紀を連れてきてどうにかさせないと・・」
「・・由紀は死んでいたよ。何か、薬を打って死んだようだ。自殺じゃないだろう、おそらく、殺されたんだ。」
会話を聞いていた松山が、
「ですが・・このままではユウキさんが危ないんです。医者か専門家に診てもらわないと・・きっと、それほど長くは持たないようです。体力もなくなっているようですし・・」
「とにかく、現場を見よう。」
鳥山に案内されて、紀藤も隠し部屋に向かった。ちょうど、ソフィアが運び出されるところだった。救急隊員が、
「大丈夫です。何か、薬物を打たれて意識が朦朧としていますが、体には危害はなさそうです。すぐ、市民病院へ搬送します。・・ただ、もう一人のほうは我々にはどうにも出来ません。市民病院から、脳外科専門の神林病院へ連絡を取ってもらっています。むやみに動かせない状態です。」
「そうか。わかった。ソフィアさんをすぐ病院へ連れて行ってくれ。」

部屋に入った紀藤は、ユウキの状態を確認した。そして、
「・・・これは・・・」
そこに紀藤の携帯に連絡が入った。
「レイです。・・これから院長とそちらへ向います。動かさないで下さいね。」

30分ほどで神林院長がレイを伴って現れた。
「レイさん、大丈夫なのかい?」
紀藤は、亜美から、レイが一時は心拍停止になったと聞いていて、ここに現れた事に驚いた。
「すみません、ご心配をおかけしました。大丈夫です。・・市民病院から連絡をいただきまして・・院長だけでは難しいかもしれないと思って・・」
「そうなのか・・ああ・・院長・・お久しぶりです・・いや、御足労願って、申し訳ありません。なにぶん、素人には理解できない状況でして・・・」
「いや、大丈夫だ。・・きっと、私にも責任が・・いや・なんでもない。どちらですか?」
「ああ、こちらです。」
監禁場所に二人を案内した。

神林院長とレイは、ユウキの状態を丁寧に調べた。持参したポータブルの心電計等の診察器具を広げ、ユウキの脈拍や血圧などを測り、頭部につながったチューブをじっくりと調べた。
「多少、出血はあるかもしれないが、一旦、チューブを閉めて機械から取り外し、私の病院に運ぼう。その上で、頭部を開いて、チューブを除去するしかなさそうだ。」
神林院長はそう言うと、レイを助手にして、チューブの処置をし始めた。4本ほどのチューブが頚部と後頭部に差し込まれている。一旦、クリップで絞ってから機械から取り外す。痛みは無いようだった。思ったより出血はなく、すぐに救急車で神林病院に搬送された。
「病院に着いたら緊急手術になります。どなたか一緒に来ていただけますか?」
レイが言うと、松山が、
「自分が行きます。」
そう言って、レイとともに、救急車に乗り込んだ。
神林院長も、救急車の後を追うように病院に戻っていった。

紀藤と鳥山は、隠し部屋を出て、カウンセリングルームへ向かった。

由紀の遺体は無残なものだった。失禁し悶絶し胸を掻き毟って苦しんだはずなのに、顔は恍惚の表情で、異様な状態だった。鑑識が、興味深そうに、何枚も写真を取っていた。その様子を見ながら紀藤が呟いた。
「こんな死に方をして。・・・悪事の果てに捨てられたということだろうなあ。」
検視官が現れて、由紀の遺体を調べてからこう言った。
「やはり、薬物による急性中毒死でしょう。頚動脈から大量に注入したようです。ただ、今まで見たことのない死に方です。その辺のありきたりの薬物ではなさそうですね。詳しく、解剖で検査をしてみないと・・」
そうして、遺体が運び出されていった。その後、鑑識が室内の至る所を調べた。そこへ、鳥山が入ってきて声を掛けた。
「魁トレーディングとの関係を示すものを中心に捜索するんだ!」
「何でも良い、関連付けるものは根こそぎだ。・・鳥山君、下の犯人はどうだ?」
「ええ、拳銃以外には、特に所持していたものはありませんでした。ただ・・・」
「どうした?」
「いえ、あれは男じゃありませんでした。外見は確かに男なんですが・・その・・体は女でした。」
「・・由紀が性転換手術をしたということか。」
「まあ、性転換というほどじゃありません。顔とか腕とか部分的に男っぽくなっている程度で、外見だけのようでした。・・それと、腕におかしな記号のような刺青がありました。・・そうそう、佐伯の肩にあったものと同じです。由紀には、太ももの内側に同じようなものがあったそうです。」
「やはり、何人かの犯人グループにはまちがないなさそうだが・・・それにしても、やりきれない事件だなあ。」

file7-6 手術 [同調(シンクロ)]

神林病院に救急車が到着し、すぐに、ユウキは手術室に運び込まれた。
神林院長とレイは手術衣に着替え、中に入った。手術室の前廊下には、松山刑事がじっと待っていた。
隠し部屋でユウキを発見し、介抱していた時、ほとんど意識のない状態にありながら、「助けて」と懇願した声と、強く握り返されたあの手のぬくもりが松山刑事の心に突き刺さっていた。刑事になっていくつかの事件を捜査してきたが、今回ほど悲惨な事件はない。人間をここまで貶め、辱め、いたぶった犯人を許せなかった。そして、何とかユウキが助かるよう祈るばかりだった。

1時間ほどして、署長が神林病院にやってきた。
「松山君、どうなってる?」
「あ、課長、まだ手術は終わらないようです。・・中の様子もよくわかりませんし・・」
「そうか・・今回の事件の生き証人の一人なんだ。どうにか助かって欲しいが・・・」
「捜査のほうは?」
「ああ・・いくつか、魁トレーディングとの関連を示すものはあるんだが・・あの実験室に関しては何もでてこない。医者が起こした猟奇的な事件というところか。今のままでは、由紀が首謀者で犯人死亡のままで、検察へ送検する事になるだろう。とにかく、もう少し物証が欲しい。」
「ソフィアさんのほうは?」
「ああ、そっちは、鳥山君が向かった。それに、亜美が一樹の付き添いをしているんで、一緒に話が聞ければ良いんだが・・ただ、ソフィアも犯人グループの一員だったという事になるんで・・内情は知っているだろうが・・権田の関与まで知っているかどうか・・・」

署長はそう言うと、手術中を示す赤いランプを見つめた。そこに、レイが現れた。
「レイさん、中の様子はどうなんですか?」
松山は必死の形相で尋ねた。
「いえ・・まだなんとも・・きっと、かなり時間がかかると思います。さっき診た限りでは、脳へのダメージも大きいみたいですから・・慎重に取り除くことが先決でしょう。」
「そうですか・・・。」
「助かりますよね。」
松山が再度尋ねる。
「・・今は何とも・・ただ、院長を信じてください。」
レイはそう言うと、何かの器具を抱えてまた手術室に入っていった。
松山は、半ば落胆した表情で長いすに座り込んだ。

手術室の中では、神林院長がユウキの開頭部を顕微鏡を覗きながら丁寧に検視し、除去方法を考えていた。
レイも横のモニターを見ながら、神林院長の手元を照らしていた。数人の看護士が心拍モニターなどの機器をチェックしていた。
「乱暴な施術をして・・素人同然だ・・なんて事を・・これじゃあ厳しいかな・・」
神林院長は、腹立たしい思いで一つ一つ施術箇所を点検した。ゆっくり、脳細胞や血管を損傷しないよう、丁寧な手術が続いた。
「こんな事をして・・何をしようとしていたんでしょう・・。」
レイがぼそっと呟いた。
「ここから、在る体液を抽出したんだ。・・それにしても、もう少し丁寧にやらないと・・・」
神林院長は、この惨い施術の意味をわかっているようだった。
「レイ、そこにあるNT03という包材に入っているチューブをくれ。」
手術台の脇に黄色い包材が置かれていた。開けると、中には糸状のチューブが入っていた。神林院長は、それを、ユウキの脳に付けられていたチューブを取り外した後に、同じように取り付けた。他にも数箇所、同様の処置をして、頭部を閉じた。

ユウキの手術は、もう5時間近くになっていた。
紀藤も松山も、連日徹夜続きでかなり疲労も溜まっていた。
紀藤は長椅子に座り込んで、うとうととしていた。松山は、気が張っていて、目を充血させていながらもじっとランプを見ていた。ようやくランプが消え、ゆっくりと院長が出てきた。
そして、二人の様子を見ながら、
「脳へのダメージが予想以上に大きいようです。意識の回復はかなり難しいと思います。それよりもまず体力の回復です。しばらく、ここで預かりましょう。」
紀藤署長が、それを聞いて尋ねた。
「話が聞けるのは?」
「いや、まずは意識が戻るかどうか・・・仮に、意識が戻っても、恐怖の中で記憶を遮断してしまっているかもしれない。・・まあ、その前に、体力が回復しない事には・・話もできないくらい衰弱していていましたからね。」
「そうですか・・・しばらくは難しいんですね。・・」
「・・あと数時間で麻酔は切れます。その時、少しショック症状がでて一時的に意識が戻るかもしれませんが・・・。」
それを効いて、松山が、
「それなら・・自分がずっと付き添っています。いけませんか?」
神林院長と紀藤署長は、顔を見合わせた。そして、神林が、
「まあ、良いでしょう。・・じゃあ、お願いします。」
ちょうど、手術室からでてきたユウキのベッドに張り付くように、松山は病室に向かった。
紀藤は、神林院長に何か言いたげだったが、言葉が思いつかない様子だった。神林院長も同様だった。
「私は現場に戻ります。ありがとうございました。」
それだけの言葉を残して、紀藤は現場へ戻って行った。


file7-7 くちづけ [同調(シンクロ)]

コンテナ置き場で銃撃を受けてから、ずっと混濁した意識の中を行き来していた一樹だったが、窓から漏れる朝日を顔に受けて、目が覚めた。
なんだか頭がボーっとしていた。ふと見ると、亜美が自分の手を握り締めたまま、ベッドの脇で眠っていた。
「亜美も疲れてるんだな・・だが、寝てる場合じゃ・・」
そう言って、一樹は起き上がろうとした。わき腹に激痛が走った。その動きに、亜美が目を覚ました。
「一樹?目が覚めたのね。・・良かった。」
「ああ、もう大丈夫だ。・・捜査のほうはどうなってる?」
「ダメよ。ちゃんとパパや鳥山課長が動いてるから。あなたはまず自分の体を治すのが先。運よく内臓は大丈夫だったみたいだけど・・傷は深いんだから。」
「大丈夫だ。ベッドで寝てる場合じゃない・・ソフィアは拉致されてるんだし・・そうだ、佐伯は?」
「ダメだったみたい。頭を撃ってたんじゃ助からないわ。」
「俺を撃った犯人は?」
「もう!ダメだって。今は安静にしてなきゃ。」
「そうだ、レイさんのシンクロはどうなった?ソフィアの居場所は掴めないか?」
「・・もう、レイさんも、ソフィアさんもどうでも良いの!私がどれだけ心配したのかわかってるの!」
亜美は、そういうと一樹にすがりつくように泣き崩れた。
「一樹が死んじゃうんじゃ無いかって・・もし、一樹が死んだらどうしようって・・もう・・訳わかんなくて・・でも・・レイさんも死にそうだったし・・ソフィアさんも・・私、どうしたらいいのかわからなくて・・」
亜美は、一樹の腕を強く掴んで、咽ぶように言い続けた。
「すまなかった、心配掛けて。」
「それだけじゃ許さないんだから・・・」
一樹は亜美の肩を抱き謝った。
そして、亜美の顔をじっと見つけた。亜美はそっと目を閉じた。
一樹は初めて亜美と唇を交わした。亜美への思いは、長い間、一緒にいて、恋とか愛とか、そういう感情以上に近い存在になっていたのだった。だが、改めてこうして自分のことを心配してくれる亜美が愛おしく感じられたのだった。亜美は、一樹の思いを強く感じて、このままじっと胸に抱かれていたいと思った。

病室のドアがノックされた。朝食を配るワゴンの合図だった。

「ねえ、朝ごはん、どうする?食べられるならもらってくるけど。」
「ああ・・そうだな。少しでも食べて体力を回復しなくちゃあな。」
「じゃあ、もらってくるわ。」
亜美はそう言うと、廊下に出て行った。

一樹は、ベッドの脇に掛かっていた上着に手を伸ばした。少し、腹部は痛んだが、何とか手が届いた。そして、ポケットから、携帯電話を取り出した。
そこに、朝の回診のために、少し年配の看護師が現れた。
「ダメですよ、矢沢さん。病室内は携帯電話は禁止です。」
そう言って、一樹の手から携帯電話を取り上げた。看護師は、携帯電話を白衣のポケットにしまってから、体温計と薬を取り出した。そして、一樹の手を取って、脈拍を測りながら「痛みはどう?」と訊いた。
「ええ・・なんとか大丈夫です。」
一樹はとりあえず答えた。
看護師は、脈拍数をメモしてから、
「ちょっと見せてもらえるかしら?」
と聞く前に一樹のパジャマをたくし上げて傷口のガーゼをはずし、様子を見た。一樹はされるままだった。
「まあ、きれいな傷口。あの先生、結構、縫合が上手くなったわね。これなら、傷跡も残らないでしょう。でも、激しく動いたりしないでね、おとなしくしていないと傷が開いて大変なことになるわよ。良いわね。」
看護師はじっと一樹の目を見て確認した。
そこに亜美が朝食を載せたお盆を抱えて戻ってきた。
「あら、かわいいお嬢さんだこと。・・恋人?良いわねえ・・安静にさせておいてね。」
勝手なことを言いながら、亜美の持つお盆に、一樹から取り上げた携帯電話を載せてから、病室を出て行った。

「何、これ?目を離すとこれなんだから。一樹、まだダメよ。パパも、心配してたのよ。」

朝食を終えて、亜美が片付けのついでに、購買で飲み物でも買おうと病院のロビーに出た。

file7-8 治療 [同調(シンクロ)]

同じ頃、鳥山課長は市民病院に到着していた。救急センターで話を聞くと、すでにソフィアは救命処置が終わり、治療室に入っていた。鳥山は、治療をした医師からソフィアの状態を詳しく聞いた。そして、病室の窓からソフィアの様子を伺った。ソフィアは静かに眠っているようだった。

「あら・・鳥山課長!」
亜美が買物にロビーに出てきたところで鳥山課長に出くわした。
「おお、紀藤君。・・一樹はどうだ?」
「ええ、朝目覚めてさっき朝食も済ませました。傷の痛み以外は元気そうです。それより、課長、張込みだったんじゃないんですか?」
鳥山は、昨夜の一連の出来事を亜美に説明した。

「ご無事で良かったです。これ以上、犠牲者が出るのは耐えられませんから・・じゃあ、ソフィアさんも無事に見つかったんですね。」
「ああ、だが、かなりひどいことをされていたから・・今、治療中だ。よく眠っているようだった。医者の話だと、もうすぐ目覚めるだろうというんだが・・」
「そうですか・・一樹にもソフィアさんの無事を教えなくちゃ。随分心配してるみたいだから・・無事と判れば、もう少し大人しくしてるでしょうし、捜査の方も、鳥山課長に任せて安心だからって。本当に我がままばかり言って困るんですよ。」
亜美の口ぶりが、今までとは違うことを鳥山は気づいていた。
「なんだ、上手くいってるみたいだな。良かったじゃないか。これからは仲良くやってくれよ。署長もこれで安心だ。はっはっは。」
鳥山に二人の関係を気づかれたことに、亜美は急に恥ずかしくなって真っ赤な顔をしていた。その時、鳥山の携帯電話が鳴った。
「どうした?・・・そうか・・で・・・判った。すぐに向かう。」
鳥山の顔が急に厳しくなった。
「どうしたんですか?」
「ああ・・昨日から行方がつかめなかった森田が・・遺体で見つかった。KTC工場だ。私は、発見現場に向かわなくちゃならん。・・ああ、一樹に心配するなと伝えてくれ。」
鳥山はそういうと駆け足で病院を出て行った。

亜美はすぐに、一樹のいる病室に戻った。
「・・コーヒー飲みたいなあ・・亜美、買って来てくれたか?」
「そんな暢気な事言ってる場合じゃないわよ。・・鳥山課長がロビーにいらして・・そう、ソフィアさん、見つかったんだって。それで今治療中。・・それと、森田さんが・・遺体で見つかったそうよ。」
「なんてことだ・・佐藤と森田・・どうしてこんな事になったんだ。・・」
一樹は、同僚や後輩の死が耐え切れない様子だった。

亜美は、鳥山から聞いた話を一樹に伝えた。一樹は、ソフィアの無事を聞いて安心した。
そして、亜美に、上着にある手帳を取ってくれと頼んだ。
「何?この手帳。・・あ、林が隠してた手帳ね?」
「ああ、そうだ。・・・この中にきっと今までの事件の全てを解く鍵になるものが書いてあるはずなんだが・・」
一樹は手帳をぱらぱらとめくっていた。亜美も、一樹に体を添わせるようにベッドの脇に座って手帳を覗き込んだ。随分密着していたが、一樹も亜美も気にしていなかった。
「由紀と権田の経歴はあるんだが・・・」
「あら、この記号、確か、佐伯のわき腹にもあったのよね。」
「ああ・・おそらく、奴らのグループの一員だという証なんだろうが・・。」
「きっと、由紀や・・その現場で死んだ男にもあるはずよね。・・これ、確かギリシャ文字よ。」
「なんて読むんだ?」
「ええっと確か・・何だっけ?忘れちゃった・・一度、調べてみましょう。」
「それと気になるのが、これなんだ。」
一樹が開いたページには、「神林ルイ」の名前が書かれていた。
「レイじゃなく、ルイ?・・書き間違いじゃなさそうね。きっとレイさんと何か関係ある人よね。」
「・・レイさんに話を聞ければ何かわかるかも知れないな。」
「そういえば、課長の話だと、もう一人の被害者・・ユウキさんは神林病院で治療してるんだって。」
「そうか。ただ、レイさん、一時危なかったんだよな。あまり無理は・・」
「そうね。しばらくは、無理でしょう。それに・・レイさん、これからはシンクロは出来なくなるって言うようなこと言ってたの。・・よくわからなかったんだけど・・」
「そうか・・・まあ、もともと、シンクロして被害者の苦痛を共有する苦しみから解放してほしいって言ってたわけだから・・シンクロ出来ないんなら、それで良かったじゃないか。」
「そうなのよね・・でも、何だか、良かったって言う感じじゃないのよね。」
「思い過ごしだろ。」
一樹は手帳をベッドの上に放り投げ横になった。
「やっぱり、病院にいたんじゃ、何もできないな。」
そう言って目を閉じた。亜美には一樹の悔しい思いはよく判った。
「・・私・・コーヒー買ってくるわ。」
亜美はそう言って部屋を出た。


file8-1 苛立ち [同調(シンクロ)]

F8-1 苛立ち
ソフィアやユウキが救出された後も、由紀ビューティクリニックの現場検証は続いていた。しかし、権田会長とつながるようなものが一切見つからなかった。愛人関係にあったが、権田は一度もクリニックに訪れた事はなかったようだった。土地は権田の名義だったが、不動産会社の仲介で賃貸していたに過ぎず、建設資金についても銀行を経由しており、直接の関連を求めるのは無理だった。また、隣接の倉庫との扉に関しても、建築許可を得ていたもので違法性もなかった。見事なまでに、由紀と権田の関係が、単なる愛人の噂の範囲でしかないようになっていた。

鳥山課長は、捜査本部の椅子に座り、藤原女史を前に、苛立っていた。
「・・このままじゃ、由紀が首謀者の猟奇的な拉致事件で終結してしまう。・・佐藤の死も事故死とせざるを得ない。・・・犯人死亡のまま、事件を終わらせるわけには行かん。・・・」
その言葉に藤原女史が答えるように
「せめて、ソフィアさんやユウキさんの意識が回復して、新たな証言をしてくれれば・・・」
「森田も・・きっと誰かにあそこまで連れて行かれたんだ。意識が戻れば、きっと何らかの手掛かりが・・」
「でも、あの実験台というか・・あれは一体何なんでしょう?とても、女性が作ったとは考えられない・・惨い装置・・・人間から何かを抽出しているような仕掛けは何なんでしょうね?」
「ああ・・神林院長にも尋ねてみたが・・体液の抽出をしていたというところまではわかるんだが・・」
「残っていた液体の検査はどうなったんですか?」
「ああ、今、科学捜査研究所に分析をお願いしているんだが・・・もう少し時間が掛かるようだが、由紀の死因になった薬物とほぼ同じものだそうだ。」

「人間から、特殊な薬物になる原料を抽出していたという事ですね。」
藤原女史が、ボールペンを指先でくるくると回しながら、考えていた。
「それを権田がどこかへ売りさばく。特殊な薬は驚くほどの高値で売れるもの。・・麻薬や覚せい剤のように・・。」
「しかし、あの液体のままじゃ売れないな。ということはどこかに加工する工場があるはずだな。」
「やっぱり、そういう工場を持ってるのが権田なんでしょうねえ・・。」
何か鳥山が閃いたようだった。
「そうか、クリニックで抽出したものを権田のもとへ運んでいたはずなんだ。という事は、クリニックに痕跡がなくても、由紀が権田のところへ行っていた証拠があれば、突破口になるはずだ。」
「でも課長、そんなあからさまにわかるように運ぶでしょうか?」
「いや、あの液体は体液に近い。・・素人考えだが・・やはり、体温と同じくらいに温めて保存するんじゃないだろうか。・・・クリニックから権田に向かう導線で、由紀か他の誰かが運んでいたはず。中身を知らなくても・・そういう仕事なら簡単にできる・・。」
「課長、由紀のところに入った強盗犯、あの男はどうでしょう?ひょっとして、運び屋の仕事をやってたんじゃないでしょうか?」
「・・ああ、そうか・・佐伯に調べさせていたから、都合の悪い事は報告していないはずだ。充分、考えられるぞ。すぐに検察に連絡してみてくれ。」
そう言うと、藤原女史はすぐに検察へ連絡をした。

しばらくして、何か電話口で揉めているようだった。
「どうした?」
藤原女史は、電話口を手で押さえてから、鳥山課長に、
「釈放したそうです。・・初犯ですし、衝動的な犯行で、危害も発生していない事もあって、・それに、保釈金も払われたようです。」
「何だって?・・で、居場所は?」
「ちょっと待ってください。」
また藤原女史が電話で揉めているようだった。
「まったく・・何て事なの!居場所は特定できないようです。」
「一体、何を考えてるんだ。すぐに、見つけないと・・藤原さん、すぐに、皆に連絡してくれ。発見し次第、保護するように。」
「わかりました。・・しかし・・どんどん、自分と関係ある人間を始末しているようですね。」
そう言いながら、後手後手となっている捜査に悔しがっていた。

程なくして、課員から連絡が入った。港湾組合から、自殺者の遺体を発見したとの通報を受け、急行したところ、例の強盗犯だというのだ。埠頭に、遺書めいた手紙と靴がそろえてあった事から港湾が港の中を捜索したところ発見されていた。

藤原女史は、課員からの連絡を聞いて、ふと独り言のように呟いた。
「何だか、全部、私たちが考えている先回りをされてるみたい。」
「まだ、スパイがいるって事かな?」
冗談交じりに、鳥山が応えた。が、ふと立ち上がって、藤原女史を手招きして、外へ呼び出した。
鳥山課長と藤原女史は、屋上へ出た。

file8-2 盗聴 [同調(シンクロ)]

「課長!何なんですか?こんなところに呼び出して・・あの部屋、誰もいないんですから・・」
「いや、さっき思いついたんだが・・・以前は、佐伯が警察の情報を漏らし、捜査をかく乱していただろ。しかし、今は誰もいないはずだ。それなのに、捜査の先回りがされているような感じがするだろ。」
「課長、本気で内部にスパイがいるって・・・・・わ・・私、違いますよ。」
「いや、スパイじゃなく・・盗聴器があるんじゃないだろうか。佐伯が居たときに仕掛けたままのものが残っているんじゃないかと・・」
「それで・・屋上に・・・でも、どうします。探し出して取り除きますか?」
「いや・・・それを逆手に取れないかな。こっちから捜査情報を聞かせて、おびき出すことができれば・・。」
「盗聴を逆利用ですか?」

そこに、市民病院にいる亜美から藤原女史の携帯電話に連絡が入った。
「署に電話したのに、鳥山課長は不在だって・・・ねえ、課長は近くにいらっしゃる?」
「あ、亜美さん・・ええ、ここにいらっしゃるわ。代わるわね。」
「どうした?」
「どうしたもないですよ!さっき、ソフィアさんの意識が戻りかけたんです。・・それで、これから一樹と・・いや矢沢さんと一緒に事情聴取できるか行ってみるんです。パパ・・いや・・署長からのそう指示を受けました。」
「そうか・・まあ、そんなにあせることはない。ソフィアさんの体調と相談しながらだな・・それから、署内に盗聴器があるようなんだ。これから、対策を考える。何かあったら、携帯に連絡するようにな。」

鳥山は、この連絡を聞いて、犯人をおびき出す方法を思いついた。
鳥山は、藤原女史にアイデアを話した。
「犯人は、とにかく、今、つながりのある人間を消しているよな。・・この次は誰なのか。」
「・・犯人グループ自体わからないのに・・。いえ、そうですね。犯人につながる人物・・ソフィアさんとか、ユウキさんも、それと森田さん・・でしょうか?」
「そう、その3にんが次に狙われる可能性が高い。」
「でも、病院の中まで殺しに来るでしょうか?」
「まあ、殺しに来ると仮定した場合で考えよう。・・ユウキさんは、神林病院の最上階に居て、セキュリティも高い。あそこはそんなに簡単に入れない。とすれば、市民病院はどうだ?」
「・・監視カメラはあちこちにありますが、かなり出入はしやすいでしょうねえ。・・まさか、ソフィアさんを囮にして犯人グループを引っ張り出すってことですか?」
「ああ、盗聴器をうまく使うんだ。ソフィアさんの意識が回復したという情報を流してやる。犯人がその情報をキャッチして、手を打って来るのを待って、捕まえる。」
「そんなに上手くいくでしょうか?」
「他に何か方法があるかい?」
「・・・そうですね。今は何かやってみるしかないですね。でも、それをどうやって、みんなに教えるんです?」
「そこは君の力が生かせるはずだ。・・すぐに、事情をメールで知らせる。そして、下の部屋に行って、一芝居打つ。どうだ?」
「わかりました。」
藤原女史は、すぐに階段を下りて、自分のパソコンを起動した。一斉送信で、刑事たちの携帯に、鳥山課長の作戦が伝えられた。

「ちょっと、みんな聞いてくれ。」
鳥山課長は少しオーバーな言い回しをしながら言った。
「さっき、市民病院の紀藤さんから連絡があって、ソフィアさんの意識が戻ったそうだ。」
課員たちも少々オーバーに喜ぶ声を出した。
「じゃあ、犯人グループの事、聞き出せますね。」
「ああ、だが、まだ聞き取りは難しいそうだ。2・3日して様子をみて事情聴取だ。意識が回復して話が聞ける様になるまでは今のところ仕方ない。今日はこれで上がってくれ。」
「判りました・・じゃあ、骨休めとするか・・」
課員たちは、それぞれに部屋を出て行った。

藤原女史からのメールは、一樹の携帯にも届いていた。

「ソフィアはまだ話は無理だな・・」
そう言いながら、一樹と亜美がソフィアの病室にいって様子を確認して戻ってきた。携帯メールの着信を知らせるランプが点滅していたのに気付いた一樹が携帯を開こうとすると、亜美が取り上げた。
「誰から?」
「お前ねえ・・何、女房気取りなんだよ。返せよ。」
そう言って、一樹がメールを見ようとすると、
「あら、私にもメール・・何かしら?」
二人は、藤原女史の同報送信メールを開いて呼んでから、
「馬鹿な!・・ソフィアを囮にして犯人をおびき寄せるなんて・・・そんな単純な犯人じゃないぞ。」
一樹が怒っていた。亜美も、
「ソフィアさんが危ないに決まってるじゃない。」

紀藤も同じメールを受け取った。そしてすぐに鳥山に連絡を取った。
「鳥山君・・作戦はわかった。だが、犯人はそんな単純じゃない。できるだけ人を確保して、警護を厚くするんだ。事件の全容をある程度知っているソフィアさんが危険だ。」

署長の指示で、作戦は署を挙げての体制となった。病院の協力も得て、ソフィアのいる病棟には、入院患者に化けた刑事が何人も配置され、婦警も看護士になって病棟の巡回を始めた。
その様子を、病棟通路まで車椅子に乗ったまま出てきた、一樹が眺めていた。
「ちょっとやりすぎだな。あれじゃ、犯人たちも簡単には近寄れない。・・持久戦になるかもなあ。」
そこへ、亜美がぷんぷんしながら戻ってきた。
「どうした?」
「信じられないわ!・・例の作戦で門前払いよ。・・多分、あれじゃ、犯人たちはやってこないわ。」
二人は一旦病室に戻る事にした。


file8-3 深夜の病院 [同調(シンクロ)]

「本当に、ソフィアを殺すのか?」
「ああ、会長の命令だ。・・ソフィアさえいなくなれば、会長とのつながりは切れる。」
「だけど・・明らかに、これは罠だよ。病院の中も刑事だらけに決まってる。簡単には入れないよ。」
「どうするかな・・・」
アジトの一室で、シュンとセイが話している。
「心配ないさ。ほら、これを使えば大丈夫さ。」
シュンがにやりと笑った。そして、セイに耳打ちした。セイはやや戸惑ったが渋々了解した。

夜中12時を回った頃だった。病院の外周道路に、黒い車が停車した。セイが黒ずくめの服を着ている。シュンが、小さな注射器を取り出し、セイの腕に注射した。5分ほどして、セイは車を降りた。
病院の裏手に入ると、窓に手を掛けた。そこから、ひょいひょいと壁に張り付くように階を登っている。まるで手足が蜘蛛になったなったかのように、信じられない動きで、どんどん登っていく。そして、ソフィアの眠る4階まで辿り着くと、ガラス越しに中の様子を確認した。そして、窓ガラスを切り鍵を外して中に侵入した。
物音一つしない動きだった。張り込んでいた刑事たちは、全く気付かない様子だった。
病院の廊下は就寝時間を過ぎて、足元灯がついている程度で薄暗くなっていた。セイは病室の入院患者の名前を確認しながら、少しずつソフィアの部屋に近づいていく。そして、ベッド脇に立つと、小さな注射器を取り出して、ソフィアの腕につながった点滴の容器の中に注入した。

その時、病室のライトが一斉に点灯した。潜んでいた刑事5人が、取り囲んだ。男は、一人の刑事に飛び掛り、首筋に銃を突きつけた。人質にしたのだった。その状態で、囲みを突破し、階下へ逃げていく。他の張り込みしていた刑事も、手が出せない状態だった。1階まで降り、玄関前で、人質になった刑事を殴りつけて気絶させ放り出した。
そして、一目散に病院の外へ出て行こうとした。そこに、当直勤務なのか、看護士二人が入ってくるところにぶつかった。男は転倒した。後を追ってきた鳥山課長たちが、男を取り押さえた。

「君たち、大丈夫か?」
ぶつかった看護士を気遣って声を掛けた。一人の看護士は、肩辺りを打ったのか抑えて座り込んでいた。そして、
「大丈夫です。・・少し打っただけですから・・・。」
そう言って、転がった男の様子を見ていた。取り押さえた松山が、
「・・課長・・こいつ、死んでます。・・・あの・由紀の時みたいな表情で・・」
「なんだって?・・さっきまで走り回ってたじゃないか!・・なんて事だ。薬を打っていたということか?」
そこに、別の刑事が走ってきた。
「ソフィアさんが・・・。殺されました。」
「なんてこった!」
鳥山課長はそういうとセイの腹部を蹴りつけて、また病院内へ入って行った。

その様子を遠くから、シュンが見ていた。シュンはにやりと笑って、
「会長、無事に始末できました。・・ええ、ソフィアもセイも。・・これから戻ります。」
車は静かに走り去った。

ソフィアの病室には、鳥山課長や署長、そして一樹と亜美が居た。
「これで犯人の3人組のうち2人は死にましたね。」
一樹がそう言って、横たわっていたベッドから起き上がった。脇から亜美が心配そうな面持ちで、
「・・もう無茶するんだから・・・もし、首にでも刺されてたらどうするのよ。」
「大丈夫さ・・あいつらも出来るだけ証拠を残さない様にしたいだろうから、銃やナイフなんか使うわけは無いからな。それに注射だって、直接刺したんじゃすぐにわかるだろ。だから点滴の中だって思ったんだよ。・・・すぐに点滴の中身の分析をお願いします。」
「ソフィアさんを別の部屋に移していて正解だったな。ちゃんとここを狙ってくれたからよかったが・・・。」
署長も心配していた。鳥山は、
「しかし、死んだ奴はどうしたんでしょう。・・・尋常な動きじゃなかったし、突然死ぬなんて・・・・。」
一樹がその言葉を聞いて、
「今回の事件は、医者がらみです。おそらく、何か特殊な薬を使っているはずです。・・覚せい剤のような、もっと、人間の力を引き出すような・・SFじゃないですけど、超人に変貌するような薬を打ってたんでしょう。その副作用かもしれませんね。」
それを聞いて、紀藤が、
「由紀たちはひょっとしたら、そういう薬の成分を抽出していたのかもしれん。使う量によって作用が変わってくるとか・・・だとすると、この後もまだ何か起こるかも知れんな。」
亜美が、
「まだ、何かあるのかしら?」
「一応、一芝居打って、ソフィアさんは死んだ事にしているから、しばらくは大丈夫だろうが・・まあ、事件が解決できるまでは、警護が必要だろう。・・病院関係者にも協力を願うしかないな。」


file8-4 目覚め [同調(シンクロ)]

翌日の朝、ソフィアが目を覚ました。
周囲の様子を眺め、自分があの忌まわしい実験室から救出されて、病院のベッドの上にいる事がわかり、安堵した様子だった。

朝の巡回にやってきた看護士が、その様子をみつけた。
「あら・・ソフィアさん?目が覚めた?・・・どう、どこか痛みはない?」
その言葉に、ソフィアが、
「・・だいじょうぶです。・・・あの・・ここは?」
「市民病院よ。・・・今、先生を呼んでくるからね。」
バタバタと看護士は出て行った。すぐに担当医がやってきたが、ほとんど同時に、鳥山も現れた。
ソフィアは鳥山の顔を見て、
「お願いがあります。・・ここに、矢澤さんを呼んでください。知ってる事をお話します。」
「判った。」
担当医は、ソフィアの様子を確認し、「もう大丈夫です。」といって病室を出て行った。そこへ、車椅子に乗った一樹と亜美がやってきた。

「ソフィア!大丈夫か?」
「ソフィアさん、頑張ったわね。」
二人の顔を見て、ソフィアは涙を流した。
「ごめんなさい・・・騙していて・・・」
「いや・・良いんだ。無事でよかった。・・・ユウキさんも、今、治療してるんだ。」
「本当に・・ごめんなさい。・・私、どうお詫びしたらいいのか・・・」
ソフィアはただ泣いていた。亜美がソフィアの手を握り、背中をさする様にして慰めた。

しばらくして、落ち着きを取り戻したソフィアが、一樹の様子に気付いて訊いた。
「一樹、それ、どうしたの?」
「ああ・・・佐伯を追っていて、撃たれたんだ。・・多分、3人組の一人だろう。大した事はない、もう大丈夫さ。車椅子は亜美が乗っていけっていうから・・もう歩けるくらいさ。」
車椅子に乗っている一樹はそう言って立ちあがろうとして、亜美に制止された。
「何言ってるのよ。おとなしくしてないから、なかなか傷口がふさがらないんだって、お医者様もおっしゃってたでしょう?」

「ソフィア、君の知っている事を話してくれないか?もう、これ以上の犠牲者を出したくない。一刻も早く、犯人たちを捕まえなくちゃいけない。判るだろ。」
「そうよ。昨夜も怪しい男がソフィアさんを殺しにやってきたのよ。」
亜美が昨夜の出来事を話した。

「多分、それは、セイと呼ばれていた男。・・3人組でいつも一緒にいたの。背の高いリュウと大男のシュン、そして小柄なセイ。・・由紀院長の子分。誘拐事件も襲撃もすべてあいつらの仕業よ。」
「となると、あとは・・・シュンという大男だけだな。」
「多分・・そう・・。」
「なあ、魁トレーディングの権田会長は知っているかい?」
「・・・いえ・・・知らないわ。・・私が知っているのは、その3人組と、佐伯くらい。」
「そうか・・・そう簡単には尻尾を出さないな・・。」
亜美が、加えて言った。
「でも、ソフィアさんの命を狙うって事は、きっと心配の種があるということでしょ?ソフィアさんが気付いていない何か、権田につながるものがあるんじゃないかしら・・」
「どこかで会ってるとか?」
「判らないわ・・一樹が店に来るようになってからは、ほとんど出入りも無かったし・・その前にも・・」
ソフィアは、記憶を辿っている様だったが、これといったことに思い当たらない様子だった。

「何かを目撃したってことはない?3人組が誰かと会っていたとか・・」
「そう言えば・・・お店に時々に電話をかけてくる紳士がいたわ・・でも、名前は知らない。・・・」
「きっと、そいつが権田なんだろうな・・・。通話記録からでも割り出せないかな?」
「ええ、藤原さんに頼んでみましょう。・・でもどうして、貴女のお店に男たちがたむろしてたの?」
亜美が口を挟んだ。

「・・それは・・・多分、佐伯が決めたんじゃないかしら・・・。」
「そうか・・・わかった。3人組のアジトにしているところ、他に知らないか?」
「判らない・・・ただ、あのクリニックには、女の子を運んではいたから、あそこも隠れ家だったと思うけど・・」
「そうか・・良く思い出してくれ。何でも良いんだ、その3人組を思い出して、持っていたものとか・・手掛かりになるような事だけでもあれば・・・。」
そういう一樹に、ソフィアが、亜美に向って、
「・・ねえ、ちょっと、一樹と二人きりにしてくれない?」
亜美は心穏やかではなかったが、一樹は、ソフィアにはまだ隠している事があるのだと気付き、亜美にしばらく席をはずしてくれるように頼んだ。亜美はしぶしぶ部屋を出て行った。


file8-5 ソフィアの秘密 [同調(シンクロ)]

「ソフィア、何してるんだ!」
「・・・見てもらいたいものがあるの。」
亜美が病室を出て行くと、ソフィアが病院着の胸元をはだけ、豊かな乳房を露にした。そこには、ψの記号の刺青が入っていた。
「これは・・」
「ええ、由紀院長に、入れられたの。」
「それが?」
「実は、私・・・ねえ、一樹・・・聞いても怒らないでね・・」
「ああ・・・なんだい。」

ソフィアは決心したように、口を開いた。
「実は、私・・男なの。・・いいえ、昔は、男だったのよ。」
「ニューハーフってことかい?」
「・・・性同一性障害・・小さい頃から、男の子の体でいるのが苦痛で・・・それで、18の時、由紀院長と出逢って、性転換手術をしてもらったのよ。」
「その時に、この刺青を?」
「ええ、そう。プサイと読むんだけど・・生まれ変わり・・・って言う意味らしいわ。」
「それから、一味に?」
「いいえ、そのころは由紀院長もごく普通の美容整形をやっていたと思うけど・・・でも、今の病院になってからは変わったわ。・・すごく綺麗になったけど、とても冷たくなった。」
「きっと、そのころから悪事に染まったんだろうな。ソフィアが一味に巻き込まれたのも、由紀のせいなんだな・・。」
「ええ・・でも、最初は、本当に困ってる女の子に仕事を紹介してあげるって言って、病院の仕事もさせてもらっていたから、安心していたんだけど・・突然、3人組が現れて・・」
「あの3人組は?」
「・・ええ・・あの3人は私の反対・・女なのに男になりたいって・・由紀院長が無理を承知で整形手術をしたみたい。・・・それは随分前らしいけど・・私があったときはもう男になってたわ。」
「そうか・・おそらく、葉山の事件に絡んでいたのが・・その大男だろう。・・」
「ええ、そうよ。一樹は店に来て、葉山さんの事件の事、話してくれたでしょ。実は、その夜にシュンが私を責めたの。・・何か漏らしたんじゃ無いかって。」
「・・ソフィアは、最初から、犯人を知っていたという事かい?」
「ごめんなさい。・・本当に最初はシュンに脅されて、わざと嘘の情報を一樹に教えていたの。そうすることで、かく乱しておけば大丈夫だってシュンに脅されて・・・ごめんなさい。」
「俺も焼きが回ったな・・嘘の情報だとはぜんぜん気付かなかったよ。」
「本当にごめんなさい・・・」

一樹は少し困惑した。
「今は、もう嘘は無しにしてくれよ。」
「もちろんよ・・・命の恩人、2度も助けてもらったんだから・・・」
「由紀は、病院を建設する少し前に、権田に逢ってるはずなんだが・・」
「権田と言う人かどうかわからないけど・・・これと同じマークの入った紳士に一度だけ会ったことがあるの。名前とか知らない、車で店に乗り付けてきて、3人組に何か指図をしていたの。ちょうど、お店の買い置きのタバコを切らしてたので買い物に出ていて、帰ってきた時に見たの。」
「これがどこに?」
「ちょうど、左手の時計の辺りだったわ。何か手渡そうとして車の窓から手が伸びていて、ちらっと見えたくらいなんだけど・・・」
「そうか・・じゃあ、このψの刺青が入っている男が黒幕だ。・・・権田に刺青があれば確定だ。」
「それと・・もう一つあるの。」
「なんだい?」
「あの・・佐伯って刑事のこと。昔からあんな人だった?」
そう言われて、一樹は戸惑った。ソフィアの言ってる意味がよくわからなかった。
「どういうことだい?」
「・・店で話してるのを聞いたから、確かかどうか判らないんだけど・・・あの人、昔は刑事じゃなかったんでしょ?・・シュンに言ってたんだけど・・警察に上手く潜り込めたって・・。」
「いや・・佐伯は・・待てよ。そう言えば、あいつ、署に配属になった後、交番勤務していて・・そうだ、強盗騒ぎで一度怪我をしてる。・・半年ほど休んでいた後、署に出てきた時、ちょっと別人みたいだったな。」
「・・おそらく、由紀院長が絡んでると思うけど・・別人が整形して、佐伯に成りすましてたんじゃないかって。」
「そんな事できるのか?・・じゃあ、本物の佐伯は?」
「多分、どこかで殺されてるんじゃ・・・。」
「何てことだ。これじゃあ、誰も信用できなくなる・・他にそういう話は聞いていないか?」
「いえ・・知らないわ。でも、由紀院長は、随分、沢山の整形手術をしてるみたいだから・・」
「そうか・・」
そこに看護士がやってきて、ソフィアの様子をみて、少し休ませたほうが良いと言い、一樹は病室を出された。外には亜美が待っていた。
一樹は、ソフィアの話をかいつまんで伝えた。もちろん、ソフィアが男である事は隠していた。
この情報は、藤原女史を通じて、署長や鳥山課長他、張り込んでいる課員たちにもに知らされた。


file8-6 監視カメラ [同調(シンクロ)]

一樹は、昨夜の出来事で見落としている事があるのではないかと考え、病院事務室のモニターを前に、監視カメラの映像記録から、犯人が侵入してから出て行くまでの一部始終を漏らさないよう見ていた。
「やはり普通じゃないな・・腕を怪我してるはずなのに・・痛みを感じない動きだ・・・・」
「一樹、何してるの?休んでいなきゃ・・」
そう言って亜美が事務室に入ってきた。
「いや、昨夜のビデオを見てるんだ。・・何かヒントはないかと思ってね・・・」
「それで?」
「・・異常な動きはわかるんだが・・これと言って・・・」
亜美も一緒にビデオに見入った。画面には、玄関先で犯人が倒れるところが映っていた。亜美がふいに、
「ねえ、ちょっと停めて。・・そこ、もう少しゆっくり再生できない?」
一樹は、言われるままに2分ほど画面を戻して、スロー再生した。
犯人が二人の女性とぶつかるところだった。
「ねえ、ほら・・やっぱり・・」
亜美が呟いた。
「何が、やっぱり、だ?」
「ほら、この女の子達、変よ。待っていたみたいに・・わざとぶつかってるように見える。普通なら、男が飛び出してきたら避けようとするでしょ。でも、ほら、右側の女の子がぶつかってるみたい。」
「何だって?・・・じゃあ、玄関のビデオ、もう少し前から見てみよう。」
玄関先の映像が、10分くらい戻された。そこには、二人の女性が、階上を見上げながら立っているのが写っていた。
「ダメ、もっと前から!」
更に巻き戻してみた。すると、玄関の少し離れたところに、二人の女性と男性が写っていた。何か話をした後で、男と別れて、玄関先に歩いてきた。カバンの中から何かを取り出した。街頭の光が反射してキラリと光った。そして、その場で、明らかに誰かを待っているようだった。
そこから、男が飛び出してぶつかるシーンだった。
「ぶつかった女の子に注意がいくんだけど、もう一方の女の子のほうがおかしいかも。」
亜美の言葉に、一樹ももう一人の女性に注意を向けた。すると、
「ほら・・ぶつかった時、あの子、男の首筋に何か刺してる・・注射器みたいよ。」
「ああ、そうだ。・・気付かなかったけど、確かに、何かを出して刺してる。・・・じゃあ、初めから、ここで待ち伏せて、あの男を殺すつもりだったって事か?」
「ねえ、あのこ達、病院の関係者かしら?」
ちょうど、部屋に入ってきた事務課長に、画面を見せて尋ねてみた。

「いや・・見たことない女性ですね。・・入院患者の見舞いに来る時間でもありませんし、当直看護士なら、たいていは、通用口から入るでしょう。ロッカー室が近いですし、タイムカードもそこについていますから・・まあ、たまに玄関から来るものもいますが・・・。」

犯人グループが、仲間を殺す事を前提にして、ソフィアを襲ったという事は、一樹たちを一層驚かせた。そして、3人組の犯人以外にも、協力者がいる事が判り、この犯罪の終わりが途方もなく遠くに感じられた。

紀藤と鳥山、そして亜美が、一樹の病室に集まった。
「権田という男はなかなか掴めませんな・・」
鳥山が呟いた。
「ああ・・ようやくあと少しかと思っていたが・・・自分を守る為に全てを切り捨てるつもりだろうな。」
紀藤が窓の外を眺めながら続けた。
「正攻法じゃダメですね。・・証拠を集めて追い詰める事はおそらく無理でしょう。・・現状、権田との接点はいくつかありますが・・・直接的な犯罪への関与は何一つ証明できませんからね。」
亜美に言われてベッドに横になった一樹が悔しそうに言った。
「ねえ、ソフィアさんの言った、腕に刺青の男の事は?」
亜美が少しでも役に立てればと言った言葉も、
「それだって、犯罪への関与とは限らない。偶然、そこに居たとか、言い訳はいくらでもできるんだ。」
と、一樹があっさり否定した。
「もっと決定的な証拠を掴まないと・・・」
鳥山も悔しそうにそう言った。
「まずは、その二人組みの女性が手掛かりだ。ビデオから管内にばら撒いて手配する。殺人犯を殺したのは確かだ。・・それと・・権田の身辺調査をもう一度やり直そう。・・林の手帳にも経歴で不明な箇所もある。まずはそこを埋めることで何か今回の事件の動機がつかめるかもしれない。」
紀藤の言葉に鳥山はすぐに反応して病室を出て行った。
「署長・・・もう体もだいぶ動くようになりました。・・担当医からもそろそろ退院してもいいと言われています。捜査に戻してください。」
一樹は署長に懇願するように言ったが、亜美が、
「何言ってるのよ、嘘ばっかり言って。・・まだ動ける状態じゃないでしょ。」
紀藤は、それを受けて、
「まあ、焦るな。そうとう長丁場になりそうだ。まずは体力回復が今の仕事だ。良いな。・・ちゃんと医師から了解を得てからでも遅くない。・・それに、ここに居てやる事はまだあるはずだ。」
紀藤はそう言って一樹の肩を軽く叩いて、病室を出て行った。


file8-7 紹介者 [同調(シンクロ)]

 病院の襲撃事件から、数日が過ぎた。それぞれに権田の周辺調査や、二人組の女性の捜査、由紀ビューティクリニックの検証など、分担しながら進んでいったが、なかなか進展はしなかった。
 署内に仕掛けられていた盗聴器は、藤原女史の活躍で全て取り除かれ、以前ののんびりした橋川署に戻っているように見えた。しかし、まだ、事件は解決できていなかった。
 一樹も、傷口は随分癒えて、ゆっくりなら一人で歩ける程度にまで回復していた。亜美も付き添いはやめて、朝・夕に顔を見に行く程度だった。
 一樹は、昼間は、ソフィアの病室に何度も足を運び、様子を伺っては、何か手掛かりになるものはないかと考えていた。

「なあ、ソフィア。ちょっと気になる事があるんだが・・・」
ソフィアは、少しふらつく事はあるが、体調も戻り、日中はベッドに座って居られるようになっていた。
「なあに?」
「二十歳で、手術をしたって言ったけど・・」
「・・・ええ・・・」
「・・病院・・いや、由紀院長とはどこで知り合ったんだ?」
「ああ・・その事。・・・ええ、由紀院長とは・・ええっと・・。」
「なんだい。憶えてないのか?」
「いえ、紹介してもらったのよ。国内ではまだできるところがほとんどないから、外国に行かなくちゃと思ってた時にね。」
「誰から紹介してもらったんだい?」

ソフィアが少し応えに戸惑っていた。
「・・前に勤めていた会社で会った人・・・ねえ、その人に迷惑が掛からない?」
「何だ、そんな事心配してたのか?・・いや、由紀院長とのつながりがあるなら、一度話を聞くくらいは・・でも、別に違法性があるわけじゃなければ、大丈夫さ。」
「そう・・なら・・・その人も由紀院長から手術をしてもらったって言ってたわ。・・顔の整形だって。」
「名前は?」
「・・近田さん・・時々会社に荷物を運んできた人。・・・顔に酷い傷があったのを由紀院長に、治してもらったんだって。顔の整形をしてから仕事も順調に出来るし、自信がもてたって。」
「その人に、性同一性障害の話も?」
「いいえ、その頃、私、お化粧して女性に見えるようにしていたの。会社の社長は知ってて、それでも雇ってくれたわ。・・ひょっとして、お化粧が余りに醜かったのかもね、それで整形の話をしてくれたのかも・・。社長にも相談したら、受けてみたらどうかって言ってくれたの。仕事を休んでも良いからって。」
「じゃあ、社長もその人と知り合いだったのかな?」
「多分ね。時々、ゴルフに行ったとか言っていたから。」
「そうか・・その会社は?」
「・・私が手術を終えて退院したら、倒産して無くなってた。社長も居場所がわからなくて・・・。」
「そうか・・それじゃ、その紹介した人もわからないな。」
「大丈夫よ。・・判るわ。だって、その人、お店を借りた時に、お金を貸してくれたの、だから、連絡先は知ってるわ。」
「何だって?・・金を借りたって・・・確か、佐伯が調べていたのは確かだったのか。闇金か?」
「いえ。違うわ。毎月少しずつ返してくれればいいからって・・すごく良い人なの。だから、迷惑掛けられない・・。」
ソフィアの気持ちはわかったが、この時代に、保証もなしに大金をに貸す人間が居るわけはない。きっと裏があるはずだと一樹は考えた。
「判った、その人に迷惑が掛からないようにしよう。・・・そうだ、ソフィアが話したんじゃなく、店の事件捜査で、名前が浮かんだという事にして、その人に話を聞きに行くから・・それならいいだろう?」
「・・ええ・・でも、事件とは関係ないと思うけど・・・。」
ソフィアは少し躊躇いながら、承諾した。
連絡先は、スナックの店の電話帳にあるからということだった。
一樹はすぐに署に連絡した。

鳥山課長がすぐにスナック「リング」に向かい、電話帳を探した。ソフィアの話したとおり、電話帳の一番最初に、太字で、名前と連絡先があった。
<近田 肇  橋川市馬塚3丁目  090-××××××>
すぐに住所地に向かったが、そこは貸家で、随分以前から住人は居ないようで、ところどころ朽ち果てていた。近所の人にも尋ねたが、持ち主すらわからない状態だった。もちろん、電話も使われていなかった。

鳥山は、何とかこの人物を探り当てようと考えた。携帯電話の契約照会、周辺の聞き込み、由紀クリニックにあったカルテ、とにかく、遠回りに思える事も当たる事にした。貸家近くにあった酒屋の主人が、「近田肇」を知っているというのがわかった。
「近田さんは、時々、酒を買いに来たよ。仕事の帰りにふらっと来る程度だったけどな。」
「今、どこにいるかは?」
「さあ、もうしばらく顔を見てないなあ。・・だけど、一度、街で見かけたよ。・・何だか別人みたいだったな。大きな車の後ろの席で、立派になったなあっと思ったよ。」
鳥山は、まさかと思いつつ、権田の写真を見せた。
「ひょっとして、この人ですか?」
酒屋の主人は、老眼鏡を持ち出してきてじっくり写真を見た。
「・・う~ん・・似ているような違うような・・少し太ったみたいかなあ・・。」
「そうですか・・・」
「いや、俺も初めはわからなかったんだ。だけどな、車の窓を開けて何か捨ててんだ。その時に、ほら、腕時計の脇に、あの刺青が見えたから・・ああ、近田さんだって判ったんだ。」
「え、近田の腕に刺青?」
「ああ、へんな記号みたいな刺青さ。一度、尋ねたことがあるんだ、そりゃ何のマークだってね。」
「何と?」
「・・プ・・何とか言ってたな。生まれ変わるって意味だって。」
「そうですか・・・ありがとう。」
そう言って、鳥山は酒屋を出て、市民病院へ向かった。

紀藤も鳥山から連絡を受けて、一樹の病室に来ていた。亜美もいた。
酒屋の主人から聞いた話を鳥山は一樹たちに伝えた。
「ということは、その近田は、権田と同一人物かもしれないって事ですね。」
「ああ、そういうことだ。」
「だから、ソフィアさんが狙われたという事なのかしら。」
「たぶん、そうだろう。権田とのつながりはソフィアが思っているより深いということになる。・・多分、権田は、ソフィアに会うときは近田と名乗っているんだろう。」
皆の話を聞きながら、紀藤が、
「権田は、ひょっとしていくつかの名前を使い分けてるかもしれんな。近田肇がこの橋川に来る前の経歴を調べてみよう。」
「確か、あの・・林の手帳にも、権田の経歴で、アメリカ留学期間が不明になっていました。ひょっとして、本当の権田は死んでるんじゃないでしょうか?」
鳥山は、
「とにかく、権田健一の周辺をもっと調べる必要がありそうですね。・・」


file8-8 接点 [同調(シンクロ)]

ソフィアからの情報を元に、近田肇と権田健一への捜査が強められた。
藤原女史が、権田の経歴を遡って調べていると、橋川市で魁商会を立ち上げた以前の記録がまったく見つからなかった。魁商会についても、商工会議所に問い合わせても、ほとんど実態がわからない会社だったことがわかってきた。
「おかしいですね、課長。登記上は確かに輸入業をやっているはずなんですが、港湾組合でも記録がありませんし・・。」
「たぶん、表に出せない仕事をしていたという事だろうな。その頃の関係者はいないかな。」
「魁商会の事務所所在地は、現在の魁トレーディングの地名になっていますから、あそこに小さな事務所でもあったんでしょうが・・・。」
「そんなに昔の話じゃないんだから、周辺に聞き込みを掛けてみよう。・・確か、魁トレーディングには、松山が行ってたな。」
鳥山課長は松山に連絡して、周辺の聞き込みで魁商会の当時を知る人物を探すように指示した。

「藤原さん、近田のほうはどうだ?」
「ええ・・住民登録にはありませんでした。それと、あの空き家ですが、登記上では<山田すえ>という人のものでした。随分前に亡くなっているようですね。持ち主のないまま放置されていたようです。」
「あの空き家、中に入ってみたが、家財道具があったぞ。・・近田という男が住んでいたのは確かだ。・・そうそう、今、指紋の照合を進めてるところだ、おそらく、近田と権田は同一人物には間違いないんだが・・。」

しばらくして、署に松山から連絡が入った。
「課長、判りましたよ。・・魁商会は、今のトレーディングの土地のはずれに、小さなプレハブ小屋に事務所を置いていたようです。昼間はほとんど無人で、夜になると、何人か男が来ていたということです。」
「その男たちは?」
「ええ、一人は権田に間違いありません。それと、他の男たちも、どうやら例の犯人グループのようです。背格好の特徴がほぼ一致しました。」
「そうか・・・やはり、権田が黒幕で間違いないな。・・その情報は誰から聞き出した。」
「ええ・・魁トレーディングの向かいにある商店主からです。時々、飲料などを購入していたようですから、間違いありません。」
「判った。松山君、引き続き、魁トレーディングの周辺捜査を続けてくれ。おかしな動きがないかも見張っておいてくれ。」
「わかりました。」

藤原さんは、引き続き、パソコンの前で、情報を集めていた。
「課長!・・山田すえさんには、一人息子がいるようです。・・名前は、山田肇。養子に出されています。養子先が、近田です。近田肇は実在の人物のようです。」
「連絡先はわかるか?」
「ええ・・すぐに連絡してみます。」

鳥山は考えた。
『近田肇が実在の人物だとすると、権田は何者だ?』
そこに、鑑識の川越が書類を持ってやってきた。
「課長、空き家の指紋なんですが・・・」
「どうだった?」
「古い指紋は、別人でした。・・で、比較的新しいものをと頑張ったんですが・・鮮明な指紋は一つも採取できませんでした。おそらく、指先を焼いているか何か細工がしてあるようなんです。」
「それは・・故意に指紋がつかないようにしているということか。」
「ですが・・・毛髪が採取できました。これと権田のDNA照合を掛ける事が出来れば、同一人物と特定できるはずです。」
「そうか・・その手があったか。・・・ご苦労さん。権田から髪の毛でも採取できれば良いわけだな。」

時間は過ぎていく。
情報をもとに、養子先へ連絡をしていた藤原女史が、結果を鳥山に報告した。

「課長、名古屋の養子先へ連絡がつきました。・・随分、不機嫌でした。」
「どういうことだ?」
「ええ、養子にした後、大学まで行かせたらしいんですが、卒業してすぐに行方不明になっています。捜索願は出していないそうですが・・・もともと、養子になってからも愛想もない不気味な子どもらしかったんですが、頭が良くて、医学部に入ったそうです。卒業してから、アメリカへ行くと言って家を出たまま、連絡もつかなくなったそうです。」
「アメリカとなると、権田の経歴とつながるわけだな。」
「ええ」
「権田は実在しているんだろうな?」
「ええ、それは判りました。・・生まれも育ちもこの橋川市です。・・ただ、大学を卒業して、アメリカで研究員をしていた後は、全く空白で、20年ちかく不明です。」
「家族がいたはずだが・・ほら、孫が誘拐事件にあっていたんだ。」
「ええ・・ですが、娘は実子じゃありませんでした。権田の姉の子どもです。権田は、魁商会を立ち上げたときに、権田の実家に戻ったようです。もともと姉が跡を次いだそうなんですが、娘が成人する頃には亡くなって、そこへ見計らったように、突然、おじだと言って戻ったというんです。」
「すんなり入ったというのか?」
「ええ、その娘、お嬢様育ちと言うか、金銭感覚がおかしいようで、あちこちに随分借金があったらしく、権田が借金を肩代わりするからという事で、親代わりになって、そのまま入り込んだという事らしいです。」
「じゃあ、権田が本当の叔父かどうか確かめる事もなかったわけだ。近田が権田に成りすまして、表に出てきたという事だな。・・それにしても随分金回りがいいな。奴の資金源はなんだろう。」

ここまで捜査が進んできたところに、紀藤署長が刑事課の部屋にやってきた。
「どうだ?何か進展は?」
鳥山は、近田と権田との関係など、今まで集めた情報を取りまとめて紀藤に報告した。

一通り報告を聞いて、紀藤は、
「アメリカで、近田と権田が出逢ったんだろう。権田がいた研究所はわからないのか?」
「おそらく大学に問い合わせれば・・・」
「すぐに調べてくれ。・・それと、近田の養子先へ行って、写真かなにか入手してくれ。」
鳥山は、翌日早くに、権田が卒業した黎明大学と近田の養子先へ向かった。


file8-9 大学 [同調(シンクロ)]

鳥山は、藤原のメモを頼りに、名古屋にある今田の養子先へ向かった。
今田の養子先は、名古屋東部の丘陵地の住宅街にあり、かなり古い造りではあったが、周辺の住宅より一回り大きくかなりの資産家の様子だった。インターホンを押すと、老齢の女性が現れた。

「肇は、無愛想な子だったよ。」
そう言って、今田を引き取った頃から家を飛び出すまで、思いつく限り話した。
その女性は、懐かしく思い出すわけでもなく、悲嘆するようでもなく、あくまで淡々と話した。鳥山は、話を聞きながら、この女性が今田肇に対して、母親であるという自覚や子どもへの愛情を抱くことなく、すごしてきたのではないかと感じていた。そして、そういう中で育ったからこそ、今の権田の悪事が生まれてしまったのではないかとまで、考えてしまうのであった。

「そもそも、こちらで養子にしたいきさつは?」
その女性は少し考えてからこう言った。
「主人が突然連れてきたのよ。・・恩になった人の息子だと言ってねえ。それ以外は何も話そうとしなかったんだよ。・・きっと、主人がどこかでこさえた子どもじゃないかと思うんだけど。・・そう思うと、なんだか憎らしくてね。まあ、うちには子どもがいなかったから、主人は自分の跡継ぎにでもしようと思ったんじゃないかね。」
そう言いながら、女性は苦々しい顔をして、さらに続けた。
「だから、家を出て行ったとき、私はほっとしたんだよ。あんな、誰の子どもともわからない奴に財産を渡すなんて許せなかったんだ。」

鳥山は、女性の話を聞けば聞くほどに今田が哀れに感じられ、養子先を後にしてもしばらくは虚しさが胸に広がっていた。
鳥山はその足で、黎明大学病院に向かった。大学の事務室では、最近の卒業生の記録は残っていたが、20年以上前は不明で、同窓会事務局を訪ねることにした。
同じ大学事務棟の3階にある、同窓会事務局は、めったに訪れる人も居ないのか、一人いる事務員も居眠りをしている状態だった。
鳥山が警察バッジを見せ、権田健一と近田肇について調べたいと言うと、事務局の脇の部屋から、分厚い記録簿を持ち出してきた。
「ええと・・権田健一・・・この学生ですな。・・ほう、アメリカに研究員で留学していますね。なかなか成績も良かったようだ。・・それと、近田肇・・・ああ、同じ研究室にいたようですね。だが、半年休学している。」
鳥山は、悠長に調べている事務員から、記録簿を取り上げると、ぱらぱらと記録を開いて読んだ。

権田と近田は、おなじ黎明大学医学部に在籍していた。さらに、同じ研究室にも所属し、共同研究も行なっていたようだった。二人とも成績は優秀で、将来を嘱望されていた存在だった。だが、ある日、研究中の事故で、近田は顔や腕に傷を負い半年近く入院し、権田より1年遅れて卒業した。権田は、卒業後、大学の提携先であるアメリカの「イプシロン」という研究所に研究員として赴任した。近田も卒業後すぐに渡米したが、足取りは不明だった。

「学生時代にともに学びお互いライバルのような関係だったんだろうな・・それが、事故で大きくその後の人生が変わってしまったということか。」

鳥山が署に戻ったのは、午後になってからだった。
「署長、面白い事がわかりました。」
そう言って、鳥山は、黎明大学と近田の実家で得た情報をまとめて報告した。

「おそらく、近田は、権田を追ってアメリカに行ったんでしょう。ひょっとしたら、権田のミスが原因で事故が起き、それを恨んでいたとも考えられます。大学の関係者からも、はっきりした事は聞けませんでしたが、そういう噂があったのは、事実だそうです。」
「その、イプシロン研究所は?」
「ええ、今はもうありませんでした。・・大学からの寄付や国の補助金等で運営されていたようで、大した研究成果が出ないために閉鎖となったというのが表向きの理由でした。・・大学関係者の話では、研究内容の漏洩事件があったらしく、主力の研究員も大半辞めてしまったので行き詰ったらしんです。」
「権田は?」
「ええ、漏洩事件の直後に研究所は辞めたようです。一応、その後、日本に帰国しているようなんですが、よくわかりませんでした。」
「結局、魁トレーディングの権田会長が本物の権田なのか、近田が成りすましているのか、はっきりしないわけか。」
「いえ、ソフィアさんの話でも、近田は顔に傷があり、由紀院長から整形手術を受けたという事ですし、整形した権田に成りすましていると考えるべきだと思います。」
「昔の写真はあったのか?」
「いえ、写真は見つかりませんでした。実家も、養子先にも確認しましたが、写真嫌いなのか1枚も見つかっていません。」
そこまで話を聞いて、紀藤が、
「よし、権田に、直接、事情を聞くほかないだろう。」
紀藤と鳥山は、魁トレーディングに向かった。

file8-10 事情聴取 [同調(シンクロ)]

紀藤と鳥山は、魁トレーディングの玄関受付で、会長への面会を求めた。
「今、会長は不在ですが・・もうしばらくで戻ります。お待ちになりますか?」
ひどく機械的な応え方をされたが、二人は、おとなしくロビーにあるソファに腰掛けて待つことにした。

「署長、逃亡したってことはないでしょうか?」
鳥山が、周りを気にしながら、低い声でぼそっと言った。
「・・まだ、そこまで追い詰められているとは思っていないだろう。」
紀藤は、きれいに磨かれたガラスの外を見ながら答えた。そして、
「念のために、会社周辺に何人か張り込みを置いておくほうがいいだろう。」
「はい。」

静かな会社だった。社員は何人くらいいるのだろう。出入りする客もなく、静かに時間が過ぎた。
30分ほど待っていただろうか、玄関前にタクシーが停まり、権田が降りてきた。
「お待たせしました。さっき、連絡をもらって急いで戻ってきました。さあ、どうぞ。」
権田は、無表情にそう言って会長室に二人を案内した。

ソファに座り、権田はタバコに火をつけ、相変わらず無表情に言った。
「それで、用件は?」
「一連の誘拐事件や殺人事件について、少しお話を伺いたくてね。」
紀藤がゆっくりと切り出した。権田は、少し間をおいてから答える。
「・・お話する事はないように思いますが・・・まあ、私と由紀との関係はご存知でしょう。だからといって、私が殺人事件や拉致事件に関係しているとおっしゃりたいんでしたらお門違いですよ。・・確かに、由紀の開院資金や土地の斡旋はしましたが、それはあくまでビジネスです。美容整形は十分利益の取れる事業です。そこへの投資をしただけです。まさか、あんな事件を起こすなんて・・私だって裏切られた・・・被害者の一人でもあるんですよ。」
やや弁解めいて聞こえたが、一応筋は通っていた。
「そうですか・・・じゃあ、この写真は?」
紀藤はそういうと、鳥山が由紀のクリニック近くにある不動産屋が偶然撮影した、権田と由紀の写真を見せた。権田はその写真を手に取ると、
「・・ほう、よく見つけましたね。・・確か、これは、病院が完成した時の視察の写真でしょう。」
「その脇に写っている人物はご存知ありませんか?」
鳥山が横から身を乗り出して、権田に尋ねた。権田は改めて写真を見て、
「・・たぶん、由紀が雇っていた運転手じゃないでしょうか?黒いバンで一度届け物に来たことがありましたから。・・・名前も知りません。」
「あなたが雇っていたわけじゃないんですか?」
鳥山はさらに食い下がった。
「まさか。うちは、運転手を雇うような事はしません。もったいないでしょう。ほら・・さっきもタクシーで戻ってきたように、ちょっとの事ならタクシーのほうが安上がりですし、経費で落ちますからね。・・由紀は贅沢好きでしたから、お抱え運転手なんてのもいたでしょう。・・まあ、あれだけの犯罪を起こしたんですから、ほかにも悪事を働いているに違いないでしょう。」
権田は話をそらすような回答をしてみせた。それを聞いて、紀藤が続けた。
「確か、ここの竣工パーティの時、高級車で出て行かれたのを見かけましたが・・・」
権田は少しぎくりとしたような顔を見せたがすぐに平静に戻って言った。
「ああ、あれは、由紀が友人を迎えに行くから一緒にと誘ってきたので・・あの車も由紀のものですよ。ね、贅沢でしょう。そのくせ、貸した金はなかなか返してくれなくてね。」
半ばあきれたような表情を見せながら、権田は、タバコを灰皿でもみ消した。
「武田フーズの件はどうです?本当にあなたは関わりがないんですか?」
鳥山が、さらに追求をした。権田はあきれた顔をさらにはっきり見せてから答えた。
「その件は、紀藤署長にもお話しましたよ。私は一切知りません。武田と加藤が結託してやったことです。そのあたりのことは、すでに関係書類も押収されているでしょう。何か、私が関与したという証拠でも出てきたんですか?」
権田は後半やや声を荒げていた。
「いや、すみません。・・なかなか事件の核心がつかめず、こちらも焦っているものですから・・」
紀藤が権田をなだめるような言い方で答えた。
「私も、今回の一連の事件で、ビジネスにも支障が出てきているんですよ。一刻も早く終わりにしてもらいたいもんですな。・・・そろそろ、よろしいですか?次の予定が入っているので。」

そう言いながら、権田は席を立ってドアの方へ歩きかけた。それを見て、紀藤が、
「最後にひとつだけ。・・チカダハジメという男をご存知ありませんか?」
ドアノブに伸ばしかけていた手を止めて、権田は沈黙した。

「・・チカダハジメ・・ですか?・・ちょっと浮かんできませんが・・・」
「おかしいですね。あなたが大学時代、親友のごとくに一緒にいらした方ですがね。」
紀藤は少しいやらしい言い方をして見せた。
「あ・・ああ・・・紀藤さん、それはチカダではなくて、コンダですよ。コンダハジメ。コンダならよく知っていますよ。3年間一緒に研究室にいましたからね。」
「事故で怪我をしたらしいんですが?」
「ええ、研究室で薬品調合中の事故で、顔と腕に怪我をしましたね。・・半年ほど入院していましたか・・卒業まで戻ってきませんでした。」
「じゃあ、事故の後に会われた事はありませんか?」
「ええ、事故の後は、一度も。すっかり人が変わったという話は聞きました。」
「ずいぶん仲が良かったそうですが、なんだか連れないですな。」
「そう言われても、卒業を控え忙しくもなりましたし、それに、周りが言うほど私はコンダとは懇意じゃなかったんです。」
「そうですか・・・私たちの捜査では、コンダも卒業後に渡米したらしいんですよ。ひょっとして、あなたが勤めていたイプシロンとか言う研究所を尋ねたんじゃないかと思ったんですが。」
「いや、知らないですね。・・・それにしても、イプシロンの事まで調べていらっしゃるとは・・・私は今回の事件の容疑者なんですか?」
「いや・・容疑者とは言っていません。関係者としてお話をお聞きしているだけです。・・もし、今回の事件の首謀者がいるなら、おそらく、そのコンダハジメだと考えています。・・ですから、コンダをご存知なら、連絡先とかお教えいただけないかと思っただけですよ。」
権田はため息をひとつついてから答えた。
「・・さっきも言いましたが、私も被害者に一人なんですよ。・・もし、私を容疑者扱いしたいのなら、はっきりした証拠を持ってきてくださいよ。でなけりゃ、これ以上は、弁護士に相談させていただきます。さあ、お帰り下さい。」

紀藤と鳥山は、追い出されるように魁トレーディングから出てきた。
「鳥山君、さっきのタクシー、どこから来たのか調べてくれ。私たちが待っているのを知って、きっと手下の車から乗り換えたはずだ。何をしていたのかわかるかも知れない。」
「わかりました。・・でも、署長、ゴンダとコンダ。やはり同一人物でしょうか?」
「大丈夫、さっき、髪の毛を採取してきた。すぐに鑑識で検査してみよう。同一人物なら、すぐに逮捕だ。」


file9-1 復帰 [同調(シンクロ)]


一樹の傷はずいぶん癒えて、そろそろ普通に動くことができるようになっていた。
亜美は、一樹が勝手に病院を抜け出さないよう、常に一樹の傍にいた。心が通じた二人だが、以前と同様、時折ぶつかっては亜美が機嫌を悪くすることは絶えなかった。

「なあ、亜美。そろそろ退院してもいいじゃないかな?ほとんど痛みもないし、ここにいると気が滅入るんだよ。・・捜査のことばかり気になってさ。無茶しないから、いいだろ。先生も傷の具合は良くなってると言ってたじゃないか。」
「・・本当に、無理しないならね。」

担当医も了解してくれて、一樹は職場復帰することになった。
退院の日、一樹はソフィアの病室に行き、時々見舞いに来るからと約束した。まだ、事件の首謀者が捕まっていないため、引き続き、警官2名が病室の前で護衛をしていた。

一樹は亜美とともに署に戻った。
「なんだか、すいぶん久しぶりな感じだな。やっぱり、この部屋が良いな。」
一樹はそういうと、資料室の古いソファにごろんと横になった。
亜美は、しばらく使っていなかったために埃が積もった机を拭き掃除していた。
そこに、レイからの連絡が入った。

「・・・さっき、弱いけどはっきりした思念波を感じたの・・」

もうシンクロできないと言っていたレイからの連絡に亜美は驚いた。
亜美と一樹はあわてて刑事課の部屋に走った。

「課長、レイさんから連絡が・・」
ちょうど、鳥山と紀藤署長がそこにいた。
「何だって?また、被害者が出るのか?」
鳥山が反応する。
「亜美、どんな様子かわかってるか?」
「ええ・・さっき、レイさんが思念波を感じた後も、まだ続いているって。・・若い女の子、らしいわ。二人いるみたいで・・・。」
「場所は?」
「どこかは・・・ただ、波の音がはっきり聞こえたって・・それと水の中に入れられているような感覚があったって。」
「どこだ?」

そこに、鑑識の川越が、得意げな顔で刑事課に飛び込んできた。
「署長、あの髪の毛は、山田すえ宅に残っていた毛髪とDNAが一致しました。権田と近田は同一人物です。」
「よし、これで決まりだ。一連の拉致及び殺人事件の首謀者は、権田健一、本名近田肇。これから緊急逮捕に向かう。・・一樹と亜美は、レイさんの方を頼む。おそらく、病院で男を殺した女性二人組みだろう。尻尾きりの最終段階だろう。これ以上、死人を増やしちゃならん。できるだけ情報を取って、場所を特定して救出するんだ。決定的な証人にもなる。」
紀藤署長は、そういうと鳥山とともに魁トレーディングに向かった。

「亜美、レイさんのところへ行こう。場所を特定するには、レイさんを連れて港方面へ行くほうが良いだろう。」
一樹と亜美は、神林病院に向かった。

神林病院に向かう車を運転しながら、亜美がつぶやいた。
「レイさん、もうシンクロはできなくなるって言ってたのに・・」
「体調が良くなったんじゃないか?まあ、とにかく、今はレイさんのシンクロに頼る以外ない。」
「でも・・また・・命を危険に曝すことになるのよ・・」
「じゃあ、どうするんだ?」
「海の近くにいるのは確かなのよね。」
「ああ。」
「なら、海上保安庁に協力を頼めないかな?」
「どう説明する?場所はわからないけど、若い女性が水の中で殺されそうになっているから、探してくれって?そうですかって動いてくれるかい?」
「無理ね・・・じゃあ、女性が船から落ちて流されたって言って、海岸周りを捜索してもらうのはどうかしら?」
「海上保安庁を騙すのか?」
「・・・そうだわ。藤原さんにお願いしよう。」

亜美は、そういうと車を止めて、携帯電話を取り出した。
「ねえ、藤原さん。資料室のパソコン使えるわよね。」
「ええ・・」
「そこに、パパのIDも入ってるの。そのIDを使って海上保安庁に捜査協力のメールを送ってくれない?・・違法なのはわかってるわ。でも人命がかかってるの。大丈夫。パパはちゃんと承知してるから、ね、お願い。」
藤原女史は、しぶしぶ亜美の頼みを聞き入れた。

「大丈夫か?」
「わからないわ。でも、きっと海上保安庁の巡視船が走り回れば、このままよりは少しはましじゃないかしら?」

一樹と亜美は神林病院に急いだ。
病院に着くと、レイは玄関前に立っていた。
亜美は、一樹に後部座席に移るように言って、レイを助手席に乗せた。
「ごめんね。また危険な目にあわせてしまうみたい。」
「いえ、大丈夫です。今日は発作は起きないと思います。ただ、そんなに時間はないんです。」
「・・そうなの?・・」
レイの言うことの意味が良くわからなかったが、亜美は、
「場所がわからないと探しようが無くて・・何か手がかりはないかしら?」
「ええ・・お二人がこちらに来られる前に、何かヒントになるものはないかと考えていました。・・シンクロした時に見えた風景に、大きな松の木が立っている海岸と崖沿いに立つ洋風の赤い建物がありました。」
レイは、ゆっくりといつにもまして丁寧な言葉遣いで話した。
一樹が後ろ座席で聞いていて、いつもの飛び跳ねているようなレイの雰囲気とずいぶん違う事に違和感を覚えていた。久しぶりに遭ったからかなと感じながら、レイの「松の木・洋風の建物」を繰り返していた。そして、
「それって、きっとヴェルデ・・レストラン・ヴェルデじゃないか。崖沿いの建物、確かにあそこの下には大きな松の木が生えている。行ってみよう。」

3人を乗せた車は、湾岸道路に入って、海沿いに半島の西側を走った。


file9-2 逃亡 [同調(シンクロ)]

F9-2 逃亡
紀藤と鳥山は、松山からの連絡で、すぐに魁トレーディングに向かった。
会社ビルの駐車場に到着すると、玄関前に人だかりが出来ていた。そこに、松山も居た。

「どうしたんだ?松山君。」
「ああ、署長と課長。今、連絡しようと思ったんですが・・」
「一体、何の騒ぎだ?」
「いや、僕も驚いたんですが・・・魁トレーディングが倒産したらしいんです。」
「なんだって?新社屋を作ったばかりだぞ。」

松山の報告は次の通りだった。
今朝、銀行から入金督促が入って社員が調べたところ、会社の資金が全く残っていない事がわかった。銀行も調査を進めたところ、権田がほとんどの資金を海外口座へ移していたのだ。
新社屋建設に関わる銀行からの借り入れ金20億円の他、会社の預貯金も全て解約されていた。

「これだけのビルを持っていて・・」
鳥山がビルを見上げながら呟くと、松山が、
「実は、このビル、中は空っぽです。1階と14階はちゃんと事務所や会長の部屋として完成しているんですが、2階から13階までは、打ち抜きのコンクリートむき出しの状態なんです。」
「なんだって?」
「社員の話では、空いているところには、今後、貸事務所とか、魁トレーディングの新しい部門ができる時に順次広げていくからという説明だったそうです。」
その話を聞いて紀藤が、
「いや・・そういうことなら、最初から、銀行の融資を横領する為に画策したんだろう。未完成なら、まだ建設会社への支払もしていないだろう。ほとんど手付かずの状態の融資を最初から騙し取るつもりだったに違いない。他の買収先もたぶんもう他へ売られているんじゃないか。」
「おそらく・・・」

紀藤は、玄関先の騒ぎを掻き分けて、ビルの中に入った。
事務所には、途方にくれた顔をした社員が数人いた。紀藤たちが入っても、無反応であった。おそらく債権者への対応で疲れきっているのだろう。
「可哀想にな・・」
そう言いながら、紀藤と鳥山が会長室に入った。
「これだけ立派な部屋を持ちながら、あっさり捨てて逃亡とは・・最初からそのつもりだったんだな。」
そう言いながら、紀藤が権田の机の引き出しを開けると、中は空っぽだった。書棚も、体裁のために分厚い本が入っていたが、引き出しや開き戸の中は全く空っぽだった。ここに権田がいたという痕跡はほとんど残っていなかった。

松山が会長室に入ってきて、
「署長、14階に別室があるようです。行ってみましょう。」
3人はエレベーターで14階へ上がった。
エレベーターホールの向かい合わせに大きな扉があり、そこを開くと、大きな応接セットやバーの設えたカウンター等贅沢を尽くした部屋があった。
「社員の話では、会長の隠れ家だったようで、誰も14階には入らないように言われていたそうです。」
「ここが、悪事の根源の部屋か。・・加藤由紀もここに通ったんだろう。」
鳥山は、ソファーや床を丁寧に見て、髪の毛を何本か拾い上げた。そして、
「大体、こういう部屋には隠し金庫があるものだが・・・」
そう言いながら、壁に掛かっている絵や家具などを更に丁寧に調べて回った。

「ここに掛かってる絵はみなコピー品ですね。・・一見、高価そうだが・・。」
「いずれにしても、自分自身も偽者なんだからな。」
「署長、これは?」
壁の絵を少しずらすと、小さなスイッチが現れた。鳥山はそっと押してみた。
壁の一部が、ゆっくりと前に摺り出てくると、パカっと開いた。中に、回し込み式のレバーがあり、鳥山はゆっくりと動くほうに回した。今度は壁全体がゆっくり開いて、壁の向こうにもうひとつ部屋があった。
部屋の中には、大きなベッドが置かれていて、脇には電話と小さな金庫が置かれていた。金庫は半開きの状態になっていた。
鳥山が辺りを注意深く観察しながらゆっくりと部屋の中に入った。そして、金庫の中を確認すると、注射器が数本と、空っぽの小さな薬ビンが置かれていた。
「これが、例の薬ですか・・。金庫の中において置くなんて、これがあいつらの資金源だったんでしょうか?空っぽの容器だけって事は、権田が持ち去ったんでしょうね。」
紀藤もその部屋に入ってきた。注意深く周囲を調べてみた。
「おかしいな。」
「何がですか?」
「いや、例の薬だが、監禁した女性から抽出した体液のままではなく、きっともう一段階、処理する工程があるんだろうと思っていたんだが・・」
「その加工場が、この部屋じゃないかと?」
「ああ、だが、どうもここにはそれほどの設備はなさそうだ。一体、どこでやってるんだ?」
「まだ、ほかにもアジトにしている場所があるという事ですか?」
「・・・逃亡先がアジトか・・・」

一通り、部屋の中を確認すると、すぐに署に連絡し、現場検証の要員を呼んだ。

紀藤と鳥山は、魁トレーディングビルの玄関に出てきた。
「それにしても、権田はどこに行ったんだろう。」
「逃走するとしたら、やはり、海外でしょうか?」
「まあ、そうだろう。国内じゃすぐに指名手配されるのはわかってる。」
「じゃあ、空港へ手配をしましょう。」
「ああ・・だが、おそらく、尋常な方法で海外に出て行くとは思えないな。」

そこに、一樹たちから連絡が入った。
「署長、今、湾岸道路から半島へ向かっています。レイさんのシンクロから、おそらく、女性たちは・・どこかの港にいるはずです。・・それと・・海上保安庁にも所長の名前で捜査協力を依頼させてもらいました。・今頃、巡視船が半島周辺の海岸を捜査を始めているはずです。」

「そうか・・船で海外へ逃亡したということか。」
そう聞いて、紀藤と鳥山もすぐに一樹たちの後を追うことにした。


file9-3 倉庫 [同調(シンクロ)]

F9-3 漁港の倉庫
湾岸道路から海浜公園を抜け、国道に沿ってしばらく走った。レストラン ヴェルデは、以前亜美と二人で食事をした店だ。
国道から海岸へ降りる急坂ぞいに建っているレストラン。駐車場には、店のオーナーの息子、一樹の友人の義彦が居た。
義彦は、亜美の車が、勢いよく入って来たのに少し驚いた表情で見ていた。

「おい!何かあったのか?さっきから、巡視船がたくさん走ってるけど。」
義彦も、海の様子があまりにも騒がしいのが、気になっていたようだった。
「・・怪しい車とか、見慣れない人間は来なかったか?」
一樹がウインドウ越しに義彦に尋ねた。
「さあ・・俺もさっき来たばかりだからな・・・ひょっとしたら、隣の泉港あたりなら、誰か見かけた人間もいるかもな。」
「ありがとう。」
3人は、ヴェルデのわき道を下ったところにある泉港へ向かった。

ここは、小さな漁港で、漁船も10隻程度しか居ない。辺りには人家もほとんど無く、漁師たちは、港から少し登った高台に家を構えていた。
港の中には、スレート葺の小さな倉庫が2棟ほど建っていた。一樹と亜美は車を降りた。
「レイさんは、車の中に居てください。ひょっとして、犯人が潜んでいるかもしれません。」
レイはこくりとうなずいた。

まず、小さな倉庫の中を確認した。漁で使う網や船の部品などがしまわれていたが、人影は無かった。
「確か、水の中に入っているようだって言ってたよな。」
一樹は、そういうと漁船周りを探し始めた。この港の漁船は、ほとんどが、目の前の浅瀬で、漁をする小型船ばかりで、水槽を持ったような大きな船は無かった。
「どこだ?・・ここじゃないのか?」
諦めかけた時だった。亜美が、もうひとつの倉庫の中で、叫び声をあげた。
「一樹!一樹!」
慌てて、一樹は亜美の声のする倉庫に飛び込んだ。
倉庫の中は薄暗かったが、亜美の居る場所は、下から光が反射していた。よく見ると、倉庫の中ほどに水槽があって、海側から水路がつながっていた。亜美は、その水槽の中を覗き込んで声を上げたのだった。一樹が、近寄って亜美が指差す方向に目をやると、外の光が入り込んでぼんやり光っているように見える水槽の中に、若い女性が浮いていたのだった。

「おい、大丈夫か?」
一樹が声をかけたが、反応は無かった。一樹は、倉庫の中を見回して、鍵手のついた竿を持ち出してきて、若い女性の一人に伸ばし、引き寄せた。波に漂うようにゆっくりと近づいて、ようやく手が届く場所まで引っ張り、亜美と二人で引き揚げた。
「・・やっぱり、あのカメラに写っていた女性だ。・・」
一樹が、首筋に手を当てる。そして、首を横に振ってから、
「だめだ。もう死んでる。」
もう一人の女性も同じようにゆっくりと引き揚げた。

「ねえ、この娘、まだ息があるみたいよ。」
亜美が胸に耳を当てて確認した。一樹がすぐに心臓マッサージを始めると、娘は、ゆっくり大きく息を吸った。
「もう大丈夫だ。すぐに救急車を呼ぼう。」
その時だった。倉庫の天井近くの壁から、男が飛び降りてきた。いきなり、一樹に覆いかぶさり、頭を拳で一撃した。一樹はその場に倒れこんだ。亜美がその男をつかもうとすると、男は簡単に振り切って、風のように倉庫の外へ飛び出した。
人間とは思えないほどの跳躍力で、一気に一樹の車に取り付いた。シュンは車の中を覗き込み、
車の中にいたレイを引きずり出すと、背後から腕を回し羽交い絞めにして、首筋にピストルを押し付けた。
「やめて!これ以上罪を重ねないで!」
亜美はありきたりな一言を叫ぶしかなかった。
「来るな!こいつを助けたければ、倉庫の中へ戻るんだ。」
「やめて!どうせ逃げられないわ。・・あなたは、権田に言われるままに罪を犯しただけでしょう。もう止めて!」
シュンは、レイを羽交い絞めにしたまま、じりじりと下がっていく。背後には、黒いワゴンが停めてあった。
「ほら・・早く、倉庫の中へ戻れ!」
シュンは、ピストルをレイの首筋に強く押し当て、亜美を脅した。亜美は仕方なく、倉庫の中へゆっくりと戻った。
シュンは、レイの後頭部を殴って気絶させてから、軽々と抱え上げ、黒いワゴンに半ば投げ入れるようにして、乗り込んだ。
静かな漁港の中に、タイヤを鳴らし、急発進で去っていく車の音が響いた。


file9-4 発電所 [同調(シンクロ)]

F9-4
「一樹!一樹!しっかりして!ねえ!一樹!」
網は倉庫の中に倒れている一樹に駆け寄り、必死で声を掛けた。一樹が後頭部を抑えながら、ようやく目を覚ました時には、救急車が到着していた。
「あいつは?」
「レイさんを人質にして逃げたわ!」
「くそ!隠れてたのか。・・よし、すぐ追いかけよう。」
「・・もう随分前に逃げたのよ。・・すぐに、一帯を封鎖するよう連絡したから・・。」
「くそう!・・・レイさんは無事だろうか?」

二人の脇を、二人の女性を乗せた担架が出て行く。
「一人はもうだめみたい。でも、もう一人のほうは何とか助かるんじゃないかって・・。」
「なあ、亜美、権田の姿はあったか?」
「いいえ、わからない。黒いワゴンに乗り込んでいったから、中に居たのかもしれないけど・・。」
「とりあえず、俺たちも、辺りを捜索してみよう。」
一樹は、頭に残る痛みを振り切って車に乗った。

半島一帯には、周回する国道があり、他に田畑の中を縫うような農道が網目のようにあって、丘陵地特有の高低差があるために、潜むところはたくさんあった。封鎖するといっても国道や主要道路程度で、土地勘がある者なら、いくらでも抜け道を使って、市街地方面にも逃げられるのだった。
一樹と亜美の車は、ゆっくりと周辺に目を凝らしながら、岬方面に向かって走っていった。しかし、走れば走るほど、脇道が気になって、到底見つける事などできないだろうという焦燥感が強くなっていく。二人とも押し黙ったまま、とにかく、走るしかないという状態だった。

次の港まで、次の町並みまで、そういう思いで走り続け、いよいよ半島の先端にある岬が見えてきた時だった。突然、亜美が叫んだ。
「停まって!!」
一樹は急ブレーキで車を止めた。
「何だ?黒いワゴン、見つけたか?」
「・・ちょっと黙って!」
助手席に座っていた亜美が、ドアを開けて外に出た。そして、岬のほうを向いて目を閉じ、じっとしている。
「・・感じるわ。・・・・ええ・・・・・ちゃんと伝わる。・・・・判ったわ。・・」
亜美が何か呟いている。亜美は目を開けると、ドアを開け助手席に座った。
「どうしたんだ?」
一樹は、亜美の顔を覗き込むようなしぐさで尋ねた。
「・・レイさんから・・思念波が届いたのよ。」
「えっ?お前、思念波って・・」
「そう・・レイさんが発してるの。私の中にレイさんの思念波を送ってきたのよ。」
「そんな事ができるのか?」
「・・前に、特別室で感じたの。レイさんと思念波の波長が近いらしいの。シンクロしやすいんじゃないかしら・・そんな事どうでもいいの。・・レイさん、岬にあるフェリー乗り場が見えるって・・ここから近いところに居るみたい。」
「無事みたいか?」
「・・ええ、今のところは怪我もしていないみたい。・・権田も一緒に居るそうよ。」
「よし、じゃあ急ごう。とりあえず、フェリー乗り場まで行ってみよう。」

平日の昼間のフェリー乗り場は、大型トラックが数台停まっている程度で、人影もまばらだった。乗り場にある駐車場には黒いワゴンは無かった。一樹は駐車場を一回りして、一旦フェリー乗り場の駐車場を出た。一樹も亜美も周辺に目を凝らしていた。その時、亜美の携帯電話が鳴った。
「黒いワゴンが、さっきの港からすぐの農道で発見されたって。」
「という事は、車を乗り換えたか、他に逃走を手助けしている人間がいるのか?」
亜美がまた目を閉じた。
「・・・え?・・判ったわ・・・・」
様子から、レイと思念波で会話しているのが一樹にもわかった。
「どうした?何か、手がかりが?」
「フェリー埠頭からはもう移動しているみたい。・・この近くに、別の港はある?」
「どうかな・・東側は長い砂浜が続いているから・・かなり戻らないとなさそうだし・・・」
「・・近くに大きな建物があるんだって・・高い煙突も見えるらしいわ。・・・」
「なら・・火力発電所辺りじゃないかな。・・港は無いが、燃料の石炭を受け入れる埠頭はあるだろう。」

すぐに、フェリー埠頭から離れ、火力発電所に向かった。キャベツ畑が広がる地域を抜け、防砂・防風林として植樹された松原の向こうに、巨大な建物が建っている。施設は、高い塀に囲まれ部外者の侵入は許されない厳重な警備がなされていた。
二人は、正門にある警備室で怪しい人物が来なかったか尋ねたが目撃されていなかった。
「中に入ったわけじゃなさそうだ。」
二人は車を置き、発電所の塀伝いに、海岸に出られるところが無いか探して歩いた。
「あれ、あの車!」
亜美が、松原の中には似つかわしくない乗用車が、乗り捨ててあるのを見つけた。
「やっぱりこの近くに居るはずだ。」

塀は海岸の手前で建物を囲む形になって、1メートルほどの幅の堤防の上を歩くと、建物から続く石炭受け入れ口の桟橋に出る事ができた。この時間は、石炭を積んだ船は接岸していなかった。
「ここにきっとひそんでいるはずだ。」
一樹と亜美も、できるだけ物陰に身を潜めるようにして、桟橋に足を進めた。
亜美がまた目を閉じた。レイからの思念波が届いたようだった。
「・・あ・・あそこ・・あの倉庫の中・・」
亜美は眼を閉じたまま、ゆっくり体を動かし、小さな備品倉庫らしき方向を向いた。一樹がその倉庫を見ると、確かに出入口のドアが少し開いているのが確認できた。
「レイさんは無事なのか?」
「・・・大丈夫みたい・・・両手を縛られてる・・シュンという男がその背後にいて、首に腕を回して捕まえている・・らしいわ・・・。」
「お前にも見えるのか?」
「ううん。・・レイさんが見てるものを思念波で伝えてきてるの。でも・・自分で見てるみたいな感じがする・・・権田は居ないわ。・・でもどうしてあそこに隠れてるの?」
「迎えが来るのを待ってるのか?」
「それなら、権田も居るはずでしょ。・・あ・・出てくるみたい。」
二人の視線の先にある倉庫のドアが開いて、シュンがレイを羽交い絞めにしたまま、表に出てきた。シュンは、周囲を見回している。何かを探しているようだった。そのまま、桟橋の先に歩き始めた。
「迎えが来たのか?・・このままじゃどうしようもない!」
一樹はそういうと、物陰から飛び出し、シュンの行く手を遮るように立ちはだかった。
突然、現れた一樹にシュンは動揺して、レイをつかんでいた腕を放してしまった。
「もう、止めろ。逃げ切れないぞ。」

その時だった。1艘のモーターボートが、発電所の排水門近くから、波を切って出て行った。後姿ではあったが、権田と確認できた。
その様子を、シュンは驚いた表情で見ていた。
「・・ほら・・ボスもお前を見捨てたんだ。これ以上罪を重ねるんじゃない。」
遠ざかるボートを目で追いながら、シュンの心の中に、えもいわれぬ怒りと虚しさが沸いてきた。
そして、遠ざかるボートに向けて、ありったけの銃弾を発射し、力なくその場に蹲った。

海上保安庁の巡視船が、逃亡した権田の乗ったモーターボートを、岬から遥か沖合いで発見した。しかし、そこには、権田の姿はなかった。

file9-5 取調べ [同調(シンクロ)]

F9-5 取調べ
逮捕されたシュンは、すぐに署に護送され、取調べが厳しく行われることになった。
取調べは、一樹と亜美が担当した。シュンは、権田に見捨てられた事ですっかり憔悴し、虚ろな表情のまま、取調室のパイプ椅子に座っていた。机を挟んで、一樹はじっとシュンを睨んでいた。

「さあ、何から聞こうか。」
シュンは、一樹の声に何も反応をしない状態だった。
「・・とりあえず、名前からかな・・・おい、聞いてるのか?シュンはあだ名だろう。本名は?」
シュンは一言だけ言った。
「忘れた。」
「なあ、素直に話せよ。もう何も守るものも無いだろう。権田を捕まえれば、お前の罪は少しは軽くなるだろう。今更、権田を守ってお前に何の得があるんだ。」
その言葉に続けて、脇にいた亜美が言った。
「ねえ・・罪を認め、償って、もう一度、人生やり直したほうがいいじゃないの。」
その言葉に、シュンは、一樹と亜美を睨みつけ、何かを決意したかのような表情をした。そして、
「やり直すって?」
そういうと、シュンは、着ている服のボタンを外し、上半身、裸になった。
「見ろよ!顔形は男だが、ほら、体は、女なんだよ。・・こんな身でどうやって生きていけるんだ?俺は男か?女か?どっちだ?」
一樹も亜美も言葉を失った。
「ボスは、こんな俺の居場所を作ってくれた。だから、ボスの命令に従った・・・なのに・・」
シュンは、机に突っ伏して泣いた。
亜美は、シュンが脱ぎ捨てた服を拾い上げると、そっと肩にかけ、上半身を隠してやった。すると、シュンは、腕を組んで乳房を隠し、恥らうようなしぐさを見せた。シュンは、精神的に不安定になって、男でいたいという願望とは別に、女性の体を持つ自分の本能的なものが徐々に大きくなっているようだった。
取調べは、一樹から亜美に代わった。シュンは亜美の問いかけに少しずつ答えるようになった。

権田と知り合ったのは、18の時。体が大きく、男勝りの言動を権田は気に入って傍に置いた。やくざな事もたくさんやってきた。窃盗で逮捕された後、権田の勧めで整形手術を受けた。同じような境遇の仲間で、権田の仕事を手伝ったのだった。

「半年ほど前の、窃盗事件のことは?」
一樹が、横から口を挟んだ。
「・・あれは・・窃盗じゃない。・・あの頃、拉致するための獲物を探していて、ボスが、あの家の女性に目をつけていた。あの日は拉致するために忍び込んだんだが・・留守だった。そこに、お前たちが居たんだ。」
「・・・そうか・・・やはり、お前たちだったか・・・」
亜美が、『実験室』について尋ねた。
「ねえ、あのクリニックで何をしていたの?」
「さあ・・拉致した女性から何かを取り出していたのは知っているが・・・難しい話は聞いていない。院長がすべてやっていたからわからない。」
「何かを抽出していたみたいだけど、取り出した液体は権田が持っていったの?」
「ああ・・院長が運んだ事もあるが・・たいていは、廃棄物処理の業者を通じて届けていた。・・あの、院長宅に強盗に入った男も運び屋だった。たぶん、仕事の中身までは教えてもらっていないはずだ。」
「武田フーズは?」
「ああ、あそこは、遺体処理の場所だ。都合よく、加藤が見つけてきた。俺たちが深夜に運び込んで、何人か処理した。・・武田社長は何も知らないが、加藤がそれをネタに、ボスに金をせびってきた。・・誘拐事件はボスが仕組んだんだ。・・武田と加藤は、誘拐犯として俺たちが殺す手はずだったが、お前たちが早く到着して、殺し損なった。佐伯もその事でボスから怒られた。」
「何だって?誘拐事件は自作自演ってことか。孫を使って・・。」
「ふん・・ボスと権田一族は何の関係も無いからな。もともと、表向きの顔がほしくて、権田の名前を金で買ったようなもんだと言っていた。あの権田の娘も相当な悪だよ。あちこち借金してるし、男遊びはするし、子どもの事などほったらかしだし、俺たちのほうがまともじゃないかと思えるくらいだった。・・あの、由紀院長だって同じさ。・・子どもが居ただろう。・・誰の子どもかわからないんだぜ。・・ボスと知り合う前、そうとう遊んでいたらしい。覚せい剤にも手を出してたって話だ。・・・そのうち、あの子を処分してくれと言い出すんじゃないかと思ったくらいさ。」

・・シュンの供述を聞けば聞くほど、一樹も亜美も、世の中がとても虚しいものに思えてくるのだった。亜美が思い出したように質問した。
「佐伯刑事はいつから仲間になったの?」
その質問に、シュンは鼻で笑って答えた。
「あいつ、佐伯刑事だって今でも思ってるか?」
「え?」
亜美は驚いた。一樹は、その言葉を聞いて、
「やっぱりか・・・一体、どうやって入れ替わった?」
「佐伯とか言う刑事は、付き纏うように、ボスの周りを調べてた。目障りだったんだ。ちょうどいいタイミングで怪我をしてくれたんで、拉致した。あいつと背格好が似ていたユウが顔の整形をして、佐伯として潜り込んだんだよ。警察も、案外甘いもんだな。」
「じゃあ、佐伯は・・」
「あいつは、しばらく、監禁して、由紀院長がおもちゃにしてたな。相当、薬も打たれたみたいだったし、慰み物ってとこかな。由紀院長は、お前たちが想像している以上に、淫乱で異常だったよ。佐伯は最後にはミイラみたいになって・・哀れだったな。」
「なんてことを・・・。」

シュンの供述で、一連の事件のほとんどの事は権田が仕組んだ事がわかった。

「権田はどこへ逃亡したんだ?」
「さあ・・わからない・・ボスは肝心な事は絶対口にしない。」
「ボートで逃げたんだ。外国船を使って海外に行くつもりなんだろう。何か、手がかりになるんものはないのか!」
一樹は、せっかく逮捕したシュンの言葉が余りにも役に立たない事に苛立って怒鳴り声を上げてしまった。シュンは、必死に何かを思い出そうとはしていたが、やはり、これといって思い浮かばないようだった。
「わからない。・・・ボートも、あそこにあるのさえ知らなかった・・・」
亜美が、シュンの様子を伺いながら
「よく思い出してみて。誰かと電話をしていたとか・・何か持っていたものとか・・・」
シュンは、亜美の言葉に、何かを思い出そうとしているしぐさを見せたが、何も浮かばないのか天井を見上げたまま、沈黙してしまった。
「亜美、少し休憩しよう。」
一樹と亜美は、シュンを一旦留置場に戻して、取調室を出た。

file9-6 後遺症 [同調(シンクロ)]

F9-6 後遺症
「どうだ?」
取調室から出てきた二人に、鳥山課長が声をかけた。
「ええ、一連の事件と権田の関連は、ほぼ裏が取れました。それと・・半年前の葉山の件も自白しました。ですが、権田の逃亡先はやはり知らないようですね。」
「そうか・・他のアジトは?」
「いや、特には無いようですね。クリニックか魁トレーディングのどちらかしか、連中は行っていないようですね。それに、権田はかなり用心深かったようで、仲間にもあまり肝心な事を話していないようですね。」
「このまま、権田は逃走してジ・エンドって事か。」
「・・もう少し、シュンを追求してみましょう。・・本人が気づいていない重要な鍵があるはずです。」
「ああ、そうしてくれ。とにかく、何でもいい、権田の足取りにつながる情報を集めよう。」
鳥山は、他の課員にも、もう一度、魁トレーディングと由紀クリニックの捜査を続けるよう指示した。

翌日も引き続きシュンの取調べが行われた。

「もう話す事はないよ。」
シュンは取調室の椅子に座り、昨日のように天井を見上げそう呟いた。

亜美が、昨日のシュンの体を思い出して尋ねた。
「ねえ、刺青の事を教えて?・・そう、その胸に入ってる刺青。」
「これか?」
シュンは、衣服の胸をはだけ、刺青を指差して見せた。
「これは、プサイ。生まれ変わりって意味さ。俺やソフィアみたいに、女から男へ変わったり、会長のように他人になったり、・・」
「生まれ変わりか・・・過去をすべて捨てて、別の人生を生きるって事か?だが、その挙句に、これだけの悪事を働いたんじゃ意味ないじゃないか!」
一樹が苦々しそうに言った。
「生まれ変われたら・・って思う事はあるけど・・でも、そんな事より・・自分自身を・・」
亜美がそう言いかけた時、シュンが遮るように叫ぶ。
「お前らは、今、幸せだからそんな事が言えるんだ!どん底で虐げられて生きてみろ!どんな手を使ってでもいい、ここから抜け出したいって・・・。」
机をドンドンと叩き、俯いたまま、おそらく泣いているのだろう。しばらくそうやって動かなかった。

ふと、前を向いたシュンの顔を見て、一樹も亜美も驚いた。
「お・・お前、その顔・・・どうしたんだ?・・」
亜美が、急いで手鏡を手渡した。シュンは、二人の反応を訝しがりながら、鏡を覗いた。
シュンは、由紀の整形手術で、すっかり男性の顔に作り変えられていた。しかし、今の顔は、明らかに変容しているのだった。元の女性の顔に戻っているのではなく、頬や顎、そして両瞼等が垂れ下がり、明らかに、顔が崩れているように見える。
「・・な・・なんだ・・これ・・俺の顔・・どうしちまったんだ?・・なあ、どうなってるんだ?」
シュンは、鏡を机の上に置くと、両手で顔を押さえた。顔全体が熱く、痛みが出始めた。
「・・・くそ・・薬の・・せいなのか・・」
「権田に何かされたのか?」
「例の薬・・逃げる前に打ったんだ。・・超人的パワーが出るんだ・・お前たちが追ってきたときの事を考えてな・・だから・・」
「・・その薬、どんな効果があるんだ?」
「その薬は、俺たちは“イプシロン”と呼んでいた。量を加減すると、いろんな効果がある。」
「超人的な動きができるとか?」
一樹は、病院のソフィアを襲った男の動きを思い出していた。
「ああ・・ほんの数滴なら、即効性の媚薬になる。数ミリ注射すると、超人的なパワーが出る。高い塀とかすっと飛び越える事ができるようにな。」
「ソフィアを襲った男も薬を?」
「ああ、そ・う・・だ。」
シュンが徐々に力ない返事をするようになってきた。
「由紀院長を殺したもの、その薬か?」
「ああ・・注射器1本くらい打つと、悶絶して死んじまう。・・ちくしょう・・こんなことって・・」
「なあ・・頻繁に打ってたのか?」
「いや、滅多には・・・。すごく高く・・売れる・・薬・・らしい・・から・・」
突然、シュンは胸を掻き毟るように苦しみ始めた。

「おい!しっかりしろ。すぐに救急車を呼んでやる!」
見る見る間に、シュンの顔から血の気がなくなり、ついには、白目を剥いて、その場に卒倒してしまった。一樹と亜美が呼びかけても反応しなくなった。
救急隊員が到着した時には、すでに呼吸も停まっていた。人工蘇生を行ったが戻ってこなかった。

「権田はなんて冷血な奴なんだ!」
一樹は、シュンの遺体が運び出されるのを見ながら、悔し紛れに呟いた。これで、権田の行方を追う情報源が無くなってしまった。


file9-7 末路 [同調(シンクロ)]

F9-7 末路
権田・・いや、近田が発見されたのは、逃走して3日後の事だった。

半島の南側、表浜にある黒川漁港の漁協から、署に連絡が入ったのだった。
鳥山と一樹が黒川漁港に向かった。
太平洋に突き出す半島の南側、通称「表浜」は、長く続く砂浜と太平洋の荒波とで、サーファーたちのメッカにもなっていた。漁港自体は小さなものだが、最近、すぐ近くに道の駅が整備され、遠く半島の先まで見通せる展望台もあって、ちょっとした観光地になっていた。地元では、この観光客を当て込んで、地引網体験を週末に開催していた。

鳥山と一樹が、漁港の到着すると、地元の駐在が待ち構えていた。
「こちらです。」
駐在はそういうと、道の駅の先から、階段を下りたあたりに設えられた4面をブルーシートで覆われた場所に案内した。
鳥山と一樹は、ブルーシートを押し上げて中に入った。腐敗臭が充満している中で、先に到着していた鑑識官が、遺体の検分を進めていた。遺体は全裸で、全身が腫上って、片足は膝下から無くなっており、指先も数本千切れていた。頭部も変形し、顔はほとんど判別できない状態で顎から下はなくなっていた。

「ご苦労様です。で、どうですか?」
一樹が声をかけると、一人の年配の鑑識官が振り返って、
「今のところ、死因は溺死でしょうか。ただ・・遺体の損傷がひどくて・・詳しく解剖してみない事にはなんとも言えませんね。」
「で、仏は、権田・・いや近田か?」
鳥山が続けてたずねた。
その問いに、脇にいた若い鑑識の川越が答えた。
「顔はもうすっかりつぶれていて判別できませんが・・ほら、ご覧下さい。」
そう言って、遺体の腕を回して、手首を見せた。そこには、ψの刺青があった。
それを見た一樹が、
「ソフィアが言ってた、腕の刺青か・・・権田か近田か、いずれにしても、今回の一連の事件の首謀者ということか。・・・それにしても、やけに遺体の損傷がひどいようだが・・」
「ええ、おそらく、海に落ちて、海流に飲み込まれたんでしょう。岬から表浜に向けて深く潜り込む海流がありますから。そのまま、海底で岩にでもぶつかったようですね。」
「よく発見できたな。」
「・・ああ、それなら、あれです。」
駐在が横から口を挟んだ。
「朝、地引網の体験がありまして、沖合いまで網を張って、浜まで引き揚げるんですが・・ここらは、急に深くなっているんで、網も重石をつけて深く沈めるんです。その網に引っかかってあがってきたんです。・・まあ、観光客は大騒ぎでした。子どもが大半なんで、もう泣き喚く子もいて、一時はパニックでした。困ったもんです。」

そんな会話の途中で、先ほどの年配の鑑識官が、「おや?」と声を発した。
「どうした?何か出てきたか?」
「いえ・・先ほど、溺死だろうと言いましたが・・どうも違うようですね。」
「どういうことだ?」
鑑識官が、遺体の腹部と大腿部を指差して、
「銃創です。撃たれて、裸にされて海に投げ込まれたか、落ちたかしたんでしょう。全裸になっている事から見ても、遺体が誰かすぐに判別できないように考えたのかもしれませんね。」
「自殺とは言えないか?」
「いや、自殺なら、普通、頭部を撃ち抜くでしょう。腹部と大腿部ですから、自分で撃ったとはいえませんね。おそらく、嬲殺しにあったんじゃないでしょうか?海底でぶつかった損傷だけじゃなく、あちこち殴打されたんでしょう。・・まあ、ここまで損傷していると判別も難しいでしょうが・・・」
そう聞いて、一樹が、
「逃走に船を使ったとして、ボートで沖合いに行き、手配していた外国船か何かに乗り込んで、そこで殺されたんでしょうか?」
「そうかも知れんな。海外へ逃亡するために大金を払って乗り込んだ船で、裏切られたという線が濃いか・・・大金を持って海外で悠々自適に生きようとでも考えていたんだろうが・・そううまくはいかなかったと言う事かな。哀れなもんだ。」


file9-8 後始末 [同調(シンクロ)]

F9-8 後始末
「これで終わったんでしょうか?」
一樹が、刑事課の部屋の窓から外を眺めながら、ふと呟いた。
一樹は、レイが署に現れてから、捜査に戻ってからの日々を思い返しながら、結局、首謀者と見られる権田を逮捕できないまま、終結に向かった一連の事件をどう整理すればいいのか判らない気持ちを抱えていた。鳥山や亜美も同じ気持ちだった。

「拉致事件は一応解明できたが・・例の薬の件は、結局判っていないんだよな。」
鳥山は、机でコーヒーを飲みながら呟いた。
「課長、魁トレーディングには、薬の製造に関する証拠は無かったんですよね。」
「ああ、何も出てこなかった。どこかで製造しているし、販売もしていたはずだが・・何も残っていないんだ。そこまで完全に消し去るのは考えられんなあ。やはり、どこかに製造場所があると思うんだが・・・」
「じゃあ、本当の首謀者はまだいる可能性があるってことになりますね。」
一樹はため息をつきながらそう言った。

「あの、課長。ちょっとよろしいでしょうか?」
声を出したのは、藤原女史だった。
「あれから、権田の会社の押収資料や、残っていたパソコンの解析をしていたんですが・・」
「何か出てきたか?」
「ええ・・権田が資金を送った先が判りました。シンガポールにある銀行口座に、以前から少しずつ分けて送っていたようです。署長が県警本部にも連絡して、国際警察の権限で、口座を停止しています。ただ、その口座は通過用になっていたようで、ほとんどお金は残っていないようです。それと、他からもかなりの額の入金記録があったようです。」
「おそらく、薬の売買のための口座なんだろう。その情報から買主は特定できないのか?」
「いえ・・無理ですね。ほとんど、どこかの口座を媒介しているようですし、マネーロンダリングにも活用されているようですから。」
「そうか・・だが、これで、薬自体は、国際的に取引されるほど価値のあるものだという事はわかったな。・・やっぱり、まだ、本当の悪は生き残ってるに違いない。・・だが・・この先は、われわれの手に負えるものではなさそうだな。」
「ええ・・一応、情報提供元ですから、それなりの情報は入ってくるでしょうけど・・。」
「まあ、余り、あてにはできないな。」

「権田も大きな組織の一部にすぎず消されたという話か・・。」
一樹が、課長と藤原女史の話を聞いて、悔しそうに言った。
部屋の中には、虚無感が漂い、みな口を開けなくなってしまった。

しばらくして、紀藤署長が入ってきたが、部屋の空気を察知し、皆の顔を見ながらこう言った。
「おい、どうした?まだ、事件は終わってないぞ!・・市内で発生している行方不明者と今回の事件での拉致被害者の照合、権田が殺された船舶の特定、薬の流通と製造現場の特定、・・今回命を落とした森田君や佐藤君のためにも、できる事をしっかりやるんだ。」
鳥山課長も、
「そうだ。われわれにしかできない事もあるはずだ。さあ、みんな、それぞれ分担して動いてくれ。・・そうだ、一樹!ソフィアさんからの事情聴取、もう一度やってくれ。今、彼女の持っている情報だけが頼りだ。」
一樹は、立ち上がり、
「判りました。・・もう一度、権田との出会いの頃から、彼女の知っている情報を引き出してみます。」
亜美が、
「私も同行します。彼女が罪を償ってもう一度やり直す為にも、しっかり捜査協力してもらうことが大事ですから。」
そう言って、二人は部屋を出て行った。その様子を見ながら、松山刑事が立ち上がって、
「課長!・・神林病院に入院しているユウキさんですが・・」
「ああ・・まだ、意識が回復できないんだろ?」
「ええ。そうらしんんですが・・」
「じゃあ、まだ事情を聞くのは無理だな。」
「いえ・・確かに意識は回復していないんですが・・・その・・いや・・」
松山の表情に戸惑いが滲んでいるのに紀藤が気づいて、
「どうしたんだ?何か気になることがあるのか?」
「ええ、昨日、神林病院に様子を見に行ったんですが、まだ、頭にチューブがついたままなんです。」
「治療のためじゃないのか?」
「ええ・・そうだとは思うんですが・・・・思い過ごしならいいんですけど・・・今の様子が、監禁されていた時とほとんど変わっていないように思うんです。・・いえ、あの時はユウキさんの口から助けてと吐息のような声が出ていたんです。でも、今は反応さえもなくなっているんです。本当に、治療されているのか・・時々、疑問を感じるんです。」
松山の意見を聞いていた鳥山課長が言った。
「だが、この地域では一番の脳外科の先生だし・・葉山君の治療も少し成果が出てきているらしいし・・君が考える以上に、治療は難しいのかもしれんぞ。」
「ええ・・そう思うんですが・・何かひっかかってしまって・・すみません。今の話は忘れてください。」
紀藤はそのやり取りを聞いて、
「いや・・松山君の疑問は大事にしたほうが良いだろう。だが、もう少し様子を見よう。」
そう言って、部屋を出て行った。


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