SSブログ
アスカケ第3部遥かなる邪馬台国 ブログトップ
前の30件 | 次の30件

3-4-1 女山の城砦 [アスカケ第3部遥かなる邪馬台国]

1. 女山の城砦
矢部川の畔に広がる集落についたカケルとアスカは、様子がおかしいとすぐに気づいた。
大きな家が多数並び、中央には倉や館も建っている。しかし、誰一人として居ない。集落の外には、水田もあったが、誰も仕事をしていない。見捨てられた集落ではない。家の中は、昨日まで暮らしていた事を物語るように、水甕や食糧もある。
「村の人たちは、何処へ行ったのだろう?」
カケルとアスカは、集落の中を歩きながら、物音一つしない静寂を不気味に感じていた。
二人はやむなく集落を出て、女山の高台に立つ城砦へ向かった。
集落から、高台へ続く道を進み、城砦へ上がるために設えられた石段に着いた時だった。
木製の鎧を身につけ、剣と楯を手にした兵士たちに取り囲まれた。
「何者だ!」
兵たちは、カケルとアスカを取り囲み、剣を突き出して、脅すような声で言った。
アスカは、カケルの腕を掴んで背に隠れた。
「私たちは、荒尾の浜から参った者です。」
カケルはできるだけ丁寧に答えた。
「ここへ何の用で来た!」
再び、兵士の一人が、強い口調で尋ねた。
「ハツリヒコ様にお会いしたくて参りました。私は、カケルと申します。こちらはアスカです。以前に、阿蘇のタツル様がこちらへ参られたはずです。ハツリヒコ様にお願いがあって参りました。」
兵士たちは顔を見合わせた。
「我が主は、今、お会いになれぬ。荒尾の浜へ戻れ!」
「取次ぎだけでもお願いできませんか?」
「今は、それどころではないのだ。さあ、立ち去るが良い!」
アスカが、何か言おうとしてカケルの前へ出ようとしたが、カケルが止めた。
「アスカ、ここは一旦戻ろう。・・」
カケルは、そう言うと、アスカの手を引いて、来た道を戻った。

再び、集落に入ったカケルとアスカは、主の居ない家に入った。
「女山は、戦支度をしていたな。・・一体、どうしたというのだろう。」
「八代や阿蘇からの兵が来るという噂で、戦に備えているのではないですか?」
アスカは、囲炉裏に火を起こしながら言った。
「いや、それならば、我らを捕えただろう。荒尾の浜から来たと言ったんだ。密使と思われてもおかしくない。しかし、戻れと言ったんだ。」
「では、他に攻めてくる者が居るという事?」
「ああ・・ここに人が居ないのも、きっと、皆を守るために、砦の中へ入れたからだろう。」
「これから、どうします?」
カケルは、囲炉裏に細い木を入れ、火の加減を見ながら考えた。砦の周りの兵の様子は、尋常ではなかった、戦が今にも起きそうな状態であった。八代の大軍ではないとしたら、筑紫野の内乱が起きていると言う事になる。ハツリヒコは、王の一族である。反乱が起きたのか、それとも、アナトの国が攻め入ってきたのか、いずれにしても、この地に留まれば、戦に巻き込まれるのは間違いだろう。姫を救う事がますます遠のいてしまうに違いなかった。
「とにかく、ハツリヒコ様にお会いするのが一番だな。・・・」
「でも、どうやって?簡単には、砦の中には入れません。」
「そうだな・・。もう日暮れになる。今からでは何も始まらない。今日は、ここで休ませていただこう。明日、また行ってみよう。」
二人は、囲炉裏端で横になって休む事にした。

真夜中に、何か、物音がして、カケルが目を覚ました。カケルは身動きせず、じっと眼を閉じて、聞き耳を立てた。村の中を何かが動いているようだった。野犬か?カケルは最初、そう思った。だが、次第にそれが人の足音だとわかるほどに近づいてきた。この夜更けに、村人が戻ってきたのか?だが、その足音は、歩く早さではない、小走りにできるだけ音を立てないような感じだった。時々、立ち止まり、家の木戸を開ける音も聞こえた。誰かが、真夜中の村に入り込み、家々を回り、物色しているようだった。一人ではない、数人居るようだった。
カケルは、脇に置いていた剣を引き寄せ、柄に手を置いた。アスカも気づいて目を覚ましたようだった。目でアスカには合図した。アスカもこくりと頷いた。音を立てないよう、二人は静かに動いて、家の隅に置かれている水甕の陰に身を潜めた。
一人の足音が、カケルたちが居る家の前で止まると、木戸を開けた。顔を見せたのは、男のようだった。左手には小さな松明を持ち、右手には剣が光っていた。昼間見た、女山の兵達とは様子が違う。男は、中を覗きこむ。
「ちっ、ここも同じか・・一体、何処に消えたんだ?・・・。」
男は小さく舌打ちをした。そこに、他の男がやって来た。
「村中、見回りましたが、誰も居ません。きっと、城砦に匿われているのでしょう。」
「ああ・・これでは、村人を人質にという王の策が使えぬ。・・」
「昼間になれば、城砦から出てくる者がいるのではないでしょうか?」
「・・居るだろうが・・少人数では駄目だ。村ごと、人質にすれば、抵抗できないだろうと王はおっしゃったのだ。・・・もう、王の軍は近くまでおいでなのだ。何とかせねば。」
そう言うと、男たちは家を出て行った。
しばらく、男たちの足音は聞こえていたが、次第に遠ざかっていった。

辺りに静寂が戻った後、カケルとアスカは、水甕の陰から出てきた。
「筑紫野の王とハツリヒコ様の戦なのか・・・。」
カケルは、男たちの会話を聞き、そう言った。
「でも・・村人を人質にするなんて・・そんな卑劣な事を王が命じたなんて・・・。」
「ああ、それを判っていて、ハツリヒコ様は村人を砦に匿われたのだな。」
「もう近くに王の軍がいるって・・」
「そうだ。一刻も早く、ハツリヒコ様にお知らせせねば・・・だが・・・。」
カケルは少し考えてから言った。
「アスカ、お前は夜が明けたら、石段のところに行って、そこに居る者に今聞いた事を知らせてくれ。きっと聞いてくれるはずだ。」
「カケル様は?」
「私は、先ほどの男たちの後を追ってみる。王の軍へ向かうかも知れない。相手の様子を知らねば、備えもできないからな。」

石段2.jpg

3-4-2 ハツリヒコ [アスカケ第3部遥かなる邪馬台国]

2. ハツリヒコ
カケルは、すぐに、家を出た。真っ暗な闇の中、先ほどの男たちの松明の灯りが、遠くに見えていた。カケルは、わずかな月明かりの中、慎重に男たちの後を追って行った。

アスカは、心細さを感じながらも、カケルの言葉を信じ、夜明けとともに、城砦へ向かった。
城砦に上がる石段の前には、昨日と同様に、何人かの兵が物々しい雰囲気で辺りを警戒しているようだった。
一人の兵士が、遠くの田んぼの畦道を駆けてくるアスカを見つけた。
「おい!女がくるぞ。えらく美人だぞ。」
その言葉に、他の兵達もアスカのほうを見た。
「ああ。あいつは、昨日もここへ来た。男と一緒だった・・確か、カケルとか言ったな。」
「えっ?カケル?・・おい、そりゃあ、勇者カケル様の事だ。前に、ほら・・タツル様が来られた時、話されていたぞ・・主様も、カケル様が来られたらすぐに案内せよと命じられていたではないか?」
「えっ!・・そうだったか?・・どうしよう。俺、ここへは来るなと追い返しちまった。」

困り顔で立ち尽くす男たちの元へ、アスカがやって来た。
「済みません・・どなたか・・・聞いてください!」
アスカは息を弾ませ、必死の形相で兵たちに言った。兵たちは、戸惑いながら応える。
「あ・・ああ、どうした?」
アスカは、昨夜の出来事を一通り話した。
「判った・・あんた・・アスカさんだな?・・カケル様はどうした?」
兵たちは、アスカの話の内容よりも、カケルの姿を探して訊いた。
「カケル様は・・その男たちを追って、王の軍がどこまで来ているか、探ってくると言われて・・」
「そうか、そうか。判った。とにかく、砦へ行こう。主様がお待ちだ。さあ。」
兵の一人が、先に、石段を駆け上がって知らせに走った。アスカは、昨日とは手のひらを返したような兵の態度に不信感を抱きながらも、カケルに言われた事を思い出し、ついて行った。

石段を登りきると、高い石組みの塀が高く築かれた城砦があった。門をくぐると、中にはたくさんの村人が居た。薪を作る者、飯を炊く者、矢を作る者、剣を叩き削る者、皆、一生懸命に働いていた。戦の支度も佳境に入っている様相だった。
「さあ、主様のところへ。」
若い女性がやってきて、アスカを案内した。案内された先は、茅葺の小さな家だった。
「こちらです。さあ、中へ。」
木戸を開けると、囲炉裏端に男が一人座り、縄を編んでいた。村人と同じ、白い布服を着て、髪は綺麗に結われていた。
「済まぬ、もう少し待ってくれ。こいつを仕上げておきたいのだ。」
男はそう言うと、足の指に挟んだ縄を力いっぱい扱き、まだ、藁を数本掴んで編みこんでいった。後姿なので、人相はわからないが、穏やかな声にアスカは安心した。アスカは、入口の土間に座り、じっと家の中の様子を見ていた。家の中は、特に主である事を示すようなものがない、質素なくらしだった。

しばらくして、ようやく男は、荒縄を仕上げたのか、手を止めて立ち上がり、衣服にまとわりつく稲藁を払いながら、アスカのほうを向いた。声から想像したとおり、男の表情は穏やかで、カケルと同じく優しい目をしている。
「待たせて申し訳なかった。頼まれていた荒縄を作っていたのだ。子どもらが、何かの遊びに使うと言っていたが・・・そなたがアスカ様か?驚いた、これほど美しいとは。タツル様から女神様のようだとはお聞きしたが・・いや、天女様だったようだ。」
ハツリヒコが、少し冗談めかして言った言葉に、アスカは恥ずかしくなって真っ赤になった。
「やめてください・私は天女でも女神でもありません。・・ただの娘です。カケル様のお供をしているだけですから・・・。」
「これは、失礼した。正直に申し上げただけなのだが・・それより、ここへ参られた訳は?」
ハツリヒコは、アスカに囲炉裏端に座るように手で案内して、自分もどっかと座りなおした。
「はい・・昨夜、下の里で怪しげな男が夜中に俳諧しておりました。王の軍が間近に来ておると言っておりました。・・里の人々を人質にしようとしていたようですが・・誰も居ないので引き上げていきました。」
「そうですか・・・。」
ハツリヒコは、腕を組んで目を閉じ、何かを考えているようだった。そこへ、先ほど、アスカをここへ案内した若い女性が、膳を運んで来た。
「すまぬな。・・まあ、お前もここへ座りなさい。・・こちらはアスカ様だ。」
膳を運んで来た女性は頭を下げると、ハツリヒコの隣に座った。
「ああ・・これは、我が妻、ユキと申します。料理が上手く、働き者で、優しくて・・・私のわがままを聞いてくれる良い妻です。よろしくお願いいたします。」
そう紹介されたユキは、真っ赤になってハツリヒコの腕で身を隠そうとした。妻を紹介するハツリヒコもとても嬉しそうな顔をしていた。
「仲がおよろしいんですね。羨ましいわ・・。」
アスカはつい本音を言ってしまい、恥ずかしくなった。
「さあ、召し上がってください。朝早くここへ掛けていらしたようですから、空腹でしょう。何もありませんが・・いや、ユキの料理は美味いですから・・さあ、どうぞ。」
外では、物々しい雰囲気で戦支度が進んでいるのだが、ハツリヒコは動じた様子を感じさせず、むしろ、怖いくらいの平穏さが家の中にあった。アスカは勧められるまま、目の前の膳に手を付けた。ハツリヒコの言うとおり、出された料理は美味しかった。
アスカが食べ終わるのを待って、ハツリヒコは尋ねた。
「ところで、カケル様はどうされました?」
「はい・・怪しげな男たちを追って行きました。王の軍が何処まで来ているのか、どれほどの軍勢なのかを調べてから、ここへ参ると言って・・昨夜のうちに行きました。」
「そうですか・・さすがに、カケル様は動きがすばやい。タツル様の申されたとおりのお方のようだ。」
そこへ、外で声がした。
「主様、ハツリヒコ様、宜しいですか?」
「どうしたのだ?」
ハツリヒコの答えに、兵が一人入ってきた。
「川向に、煙が幾筋か立ち上っております。・・野良火ではなさそうです。」

焚き火2.jpg

3-4-3 野火 [アスカケ第3部遥かなる邪馬台国]

3. 野火
ハツリヒコとアスカは、すぐに、館を出て、城砦の北西の門に立つ、物見台に上った。物見役の兵の一人が、ハツリヒコの姿を見て、すぐに、煙の立り登っている方角を指差した。
砦の先に広がる平原、そしてその先には蛇行する矢部川があった。煙は、その川の土手近くに立ち上っているようだった。
「昨日は、あそこには煙は上がっていませんでした。」
ハツリヒコは、じっとその方角を見つめている。行く筋火の煙が、日の光に照らされて立ち上っているのがはっきりと判った。
「数は少ないようだな?」
「はい・・王の軍であればもっと多いかと・・何者でしょう?。」
アスカも、その方角を見つめていたが、しばらくして、
「あっ・・カケル様!」
足元の村から、砦に続く細い道を、カケルが走ってくるのがアスカには見えた。
「どこだ?」
アスカは足者を指差した。そのうち、数人の兵が、カケルが駆けて来るのが見えたのか、砦の方角から走り出た。何か一言二言会話を交わしたあと、カケルを案内するように兵たちは砦に向かって走ってきた。その様子を、物見台から見ていたハツリヒコやアスカは、急いで、砦の中庭へ向かった。

砦へ向かう石段を、兵士たちは先導して駆け上がった。しかし、途中で息を切らし徐々に歩みが遅くなる。そのうち、カケルが追い越してしまった。
中庭には、ハツリヒコとアスカ、そして数人の村人が待ち構えていた。砦の門を真っ先にくぐったのは、カケルであった。兵たちはやや遅れて、へとへとに疲れた様子だったが、カケルは平然とした顔をしている。汗一つかいていなかった。
カケルは、ハツリヒコの姿を見つけると、
「大主ハツリヒコ様ですね。カケルでございます。」
そう言って、すぐさま、足元へ跪いた。
「まあ、そういう堅苦しい挨拶は不要です。さあ、こちらへ。」
ハツリヒコは、カケルを先ほどの館へ案内した。アスカのときと同じく、朝餉が運ばれた。
囲炉裏端に座り、ハツリヒコは、カケルに食事を勧めた。カケルは、礼を言い、すぐに食べた。
カケルは、食事の器を綺麗に拭き、傍に居たユキに礼を言って渡した。その様子をハツリヒコは、何と礼儀正しい若者だと感心してみていた。カケルが、食事を終えたところで、ハツリヒコが訊いた。
「昨晩は、ずっと男たちの後を追われていたか?」
カケルは姿勢を正して応えた。
「はい、もしや、王の軍へ合流するか、他の里を襲うのではないかと心配で、男たちの翳す松明の灯りを頼りに後を追いました。男たちは、里を出てすぐに、夜の河原から船を出して向こう岸へ渡りました。」
「カケル殿はどうされた?」
「浅瀬を探しましたが・・なかなか見つからず、やむなく暗闇を泳ぎ向こう岸へ渡りました。」
「それは危険な目にあわせてしまったな。」
「いえ、川で泳ぐのは幼き頃から慣れております。それに、矢部川は流れが緩く不安もありませんでした。・・それよりも、向こう岸へ渡ったところに、小さな村がありましたが・・あそこの人々はどうされましたか?」
「心配ありません。早々にこの砦に匿っています。この近辺の村人は、ほとんどここへ入っております。」
「さすがにハツリヒコ様。・・怪しげな男たちは、やはり、人質を欲しがっているようです。あれは、王の手の者なのですか?」
「おそらくそうでしょう。先日、筑紫野の王より、我が里へ使いが参りました、。私が、王を倒し筑紫野の国を手に入れようと謀反を企てているというのです。だが、そのような気持ちはありません。・・まあ、それを口実に、兵たちを動かしているのでしょう。」
「私の見たところ、向こう岸に居るのは十人ほど。王の軍はまだ見当たりませんでした。」
「まあ、そんなところでしょう。葦野からここまで兵を動かすのは大変な事ですから・・まあ、ここに来たとしても、向かいの丘にある砦に一度入るはずですから。」
「以前からも、そういう事が?」
「いえ、今の王は我が兄者です。兄者は、企みをする度量はありません。おそらく、先代の王の企みでしょう。」
「先代の王とは父上様では?」
「ええ・・あの人は、手段を選ばない。手に入れたいと思えば、命を奪っても取り上げる、そういう人なのです。」
ハツリヒコの言葉には、怒りよりも哀れみに満ちた気持ちを強く感じた。
「しかし、何故、ハツリヒコ様を?」
「いえ、私を罪人にするのは口実に過ぎません。兵を起こし、一気にこの地を攻め、その勢いで、南へ向かうつもりでしょう。」
カケルは、筑紫野の王の思惑がいまひとつわからなかった。
「先ごろ、我が里の翁が、葦野より戻りました。里一番の知恵者で、王が臣下にと欲して、一旦は断ったのですが、翁自身が、我が命で多くの者が救われるならと、人質同然で行っておりました。その翁が王の目を盗み、戻ってきたのです。・・おい、ヤス翁を呼んでくれ。」
しばらくして、長く白い髭を蓄えた老人が館へやってきた。どうやら、足を悪くしたらしい、若者二人に抱えられるようにして、館へ入ってきた。
「ヤス翁、加減はどうですか?」
「・・主様、わが身はもはや召される寸前。お気遣いなく。それより、この方が、かのカケル様ですか?」
翁の問いに、カケルが立ち上がり、挨拶をした。
「ほう・・噂以上の男のようですな。・・強さと謙虚さとを持ち合わせておられる。ヒムカの勇者と称えられるのも判るようだ。」
カケルは、翁の言葉に、恐縮した。
「カケル様、あなたにお伝えせねばならぬことがございます。・・伊津姫様が葦野にいらっしゃいます。カブラヒコに、いや、イツナヒコに囚われておいでです。彼らは、伊津姫様を邪馬台国の姫と知り、その威光をもって、九重を従わせ、我が物にしようと企んでおります。早くお救いせねばなりません。」
「やはりそうでしたか。ご無事なのでしょうか?」
カケルは翁に訊いた。ラシャ王が筑紫野へ姫を手土産代わりに連れて行ったとは知っていたが、その後の消息が掴めずにいた。
「ええ、カブラヒコが皆に命じて、姫の介抱に多数の人をつけておりました。里へ参られた時には、かなり衰弱しておいでのようでしたが・・。」

石段.jpg

3-4-4 葦野の里 [アスカケ第3部遥かなる邪馬台国]

4.葦野の里
伊津姫は、明るい日差しの差し込む部屋で目を覚ました。周りに数人の女たちが居て、動き回る足音が聞こえている。伊津姫は自分が何処にいるのか判らなかった。まだ、頭の中がぼんやりとしていて、長い間眠っていたような感覚だけが残っていた。
「姫様、お気づきですか?」
脇で、姫の手を拭いていた女が声を掛けた。優しい微笑で伊津姫を見ている。
「ここは、どこですか?」
「筑紫野の国、葦野の里でございます。」
「私はどうしたのでしょう。何も覚えていないのです・・。」
「姫様は、ハヤノヒコと言う男がここへ連れておいででした。・・なんでも、ハヤノヒコは偽名で、本当の名はラシャ王とか・・」
伊津姫は、その名を聞いてようやく思い出した。長く、船底の部屋に閉じ込められ、怪しげな薬を飲まされ続け、次第に、意識を失ったのだった。どれだけの時が経ったのかも判らなかった。ただ、今、ここでようやく自分を取り戻したのだという事だけは実感していた。
「それで、ラシャ王は?」
「詳しい話は、王様からお聞き下さい。」
女はそう言って下がっていった。
伊津姫は一人になった。まだ、起き上がる体力は無かった。伊津姫は、ウスキを出てからの事をできる限り、思い出そうとしていた。クンマの里に着き、バンという男に囚われ、不知火の海に浮かぶ大船に乗り、どこかの村でラシャ王と対面した。その後、怪しげな薬を飲まされ続け、次第に、記憶が無くなっていた。・・アマリはどうしたのか、エンは・・確か、カケルが阿蘇に居ると聞いたような・・ラシャ王に囚われてからの日々の事が、現実だったのか、夢だったのか、よくわからなかった。葦野に来た事さえ、ほとんど記憶になかった。皆、どうしているのだろうか、会いたい、皆に会いたい、そう思うと涙が止まらなかった。
しばらくすると、部屋の外で、ばたばたと走る音が聞こえた後、「こちらです」と誰か案内するような声が響いた。扉が開かれ、金襟に紺の服に身を包み、頭には冠を載せた男が現れた。
傍に居る者は、皆、腕を胸の前で組み、頭を低くたれて構えている。伊津姫には、その様子から王が来たのだと判った。
「気がつかれたか?いかがですか?」
少しぎこちない笑みをたたえ、低い声で、気遣う様子で、カブラヒコは訊いた。
「はい・・大丈夫です。ありがとうございます。」
まだ、王の正体もわからず、ラシャ王との関係すらわからない為、伊津姫は、とりあえず、体を治療してくれた礼を述べるに留まった。
「ここへ貴方を連れてきたラシャ王は退治しました。不届きにも、邪馬台国の姫を監禁し、手土産等と言うとは、許すわけにはいきません。早速、ここから追放しました。もう安心です。」
伊津姫は、その言葉に、カブラヒコは敵ではないと信じてしまった。
「では・・私はもう自由なのですね・」
「ええ、邪馬台国の姫は、我らの長なのです。誰も貴女を縛る事はできません。ですが、まだお体は万全ではない。しばらく、ここで養生なさると良いでしょう。」
確かにまだ、伊津姫は起き上がることすらできない身であった。カブラヒコの言うとおり、養生せねばならなかった。
「この近くに、エンやカケルは参っているはずなのです。知りませんか?」
「さあ・・ラシャ王は従者とともにここへ参りましたが・・・そのような者は知りませんな。」
「きっと、近くに居るはずです。探していただけませんか?」
「・・まあ、そんなに急がずとも良いのではないですか?・・・ところで、その、エンとかカケルとか、どういう人物なのですか?」
「エンは、我が守人。ずっとラシャ王の手下に紛れ私の傍に居りました。弓の名手です。カケルは・・」
伊津姫はそこまで言ってふと困った。どう言えばよいのか、守人でもない、兄のような存在、いやそれ以上なのか・・・。
「まあ、良いでしょう。すぐに村人に教えましょう。そういう名の男が居たら、宮殿につれてくるようにしますから。ただ、この国は、今、戦を控えております。よそ者を入れぬようきつく命令しておりますゆえ、逆らえば、命を落としかねない。とにかく、今は養生なさる事でしょう。」
カブラヒコは、そう言うと部屋を出て行った。
伊津姫は、カブラヒコが最後に言った「戦を控えている」という言葉が気になっていた。ラシャ王を追放したのなら、戦の相手は一体誰なのか。阿蘇や八代、島原がこの筑紫野へ戦を仕掛けているという事なのか、それとも、筑紫野が他国を侵そうとしているのか、カブラヒコを何処まで信用してよいのか迷ってしまっていた。

カブラヒコは、すぐに王の部屋に戻った。部屋には、イツナヒコが玉座に座っていた。
「父上、カケルとエンという男を知っていますか?」
いきなり、カブラヒコが訊いたので、イツナヒコは、訝しげにカブラヒコの顔を見た。
「・・いや・・姫が二人の男を探してもらいたいと申しまして・・・。」
「ふん・・カケルとはおそらく、ヒムカの勇者カケルの事であろう。タロヒコを倒し、ヒムカの村々を救った賢者でもあるようだ。阿蘇を越え、ラシャ王を追っていたと聞いたが・・エンという名は知らぬが・・・・。」
「エンは、姫の守人らしいのですが・・・。」
「邪馬台国の姫なのだ。守人が何人いてもおかしくなかろう。・・そんな事、捨て置け。それより、姫の加減はどうじゃ?」
「はい、薬はすっかり抜けたようです。ただ、体力は無いようで、起き上がれない様子です。」
「そうか・・・良いな。我らは、これより、邪馬台国の名を借り、九重の国々を従わせる、九重の王となるのだ。その為には、姫には元気になってもらわねばならぬ。お世話、ヌカルでないぞ。・・それと、我らの目論見を悟られてもならぬ。良いな。」
「はい。・・しかし、邪馬台国の名を借りるとは、どうするおつもりです?」
「お前は、知らずとも良い。わしの言うとおりにして居れば良いのだ。・・姫のご機嫌を取り、信用を得るのがお前の役目だ。良いな。」
「はい。」
イツナヒコの言葉に、カブラヒコはそれ以上訊けなかった。
「よし。まずは、女山のハツリヒコじゃ。目障りな奴、ラシャ王をさっさと始末しておればよいものを・・。すぐに処罰せねばならぬ。使者を送るのだ。謀反の罪を問い、従わぬ時は大軍をもって女山に攻め込むと伝えるのだ。」
イツナヒコは、そう言うと部屋を出て行った。

吉野ヶ里10.jpg

3-4-5 邪馬台国の名 [アスカケ第3部遥かなる邪馬台国]

5. 「邪馬台国」の名
 数日経つと、伊津姫は起き上がり、歩けるようになった。だが、まだ足元がおぼつかず、付き添いを伴って、宮殿の中を動く程度であった。
「姫様、里の者たちがお顔を見たがっております。」
カブラヒコは、毎日のように、伊津姫の部屋を訪れていたが、その日は上機嫌で部屋にはいるや否や、そう言って、外へ案内しようとした。
「いえ・・でも・・」
元気にはなったといえ、まだ、痩せ衰えた体は戻っていない。人前に出るのは恥ずかしかった。
抵抗する姫を見て、カブラヒコは、付き添いの女性たちに向かって言った。
「すぐに、衣服を用意せよ。そして、化粧を!できるだけお元気に見えるようにするのだ!」
姫に話す時とは別人のように厳しい口調で女たちに命令した。半ば、怒っているようにも感じられた。女たちは、驚いた様子で、手早く動き始めた。

宮殿の外には、多数の男たちが集まっていた。皆、戦支度をしている。
イツナヒコとカブラヒコは、宮殿の上の見晴台に上がり、集まって男たちを前にしていた。
カブラヒコは、イツナヒコに言われるまま、立ち上がり、男たちを前に轟くような声で言った。
「時は来た!今こそ、九重の国々を従えるのだ!我こそ、九重の王となるのだ!」
その声に、集まった男たちが歓声を上げた。その後、イツナヒコも立ち上がり、ゆったりとした口調で言った。
「我らの元には、邪馬台国の姫がついておられる。今こそ、邪馬台国を蘇らせる時が来たのだ。阿蘇、八代、島原、天草、そして、日向、薩摩を従え、強き邪馬台国を再び作り上げようぞ!」
再び大きな歓声が沸いた。
伊津姫は、広間に居た。透き通るほど薄い絹衣に全身を包み、紙にはいくつ者飾りを付けられ、顔色が良く見えるようにと頬紅も濃く塗られ、まるで天女のような装いにさせられていた。時折、外からは歓声が聞こえていた。
「さあ、姫。皆に顔を見せてくだされ。」
そう催促されて、姫は両脇から支えられるようにして、広間から見晴台へ上がった。
強い日差しに一瞬眩暈がした。ふらつく体を両脇から抱えられるようにして、見晴台へ立った。
目の前には、見たこともないほどの多くの男たちが広場を埋め尽くしている。皆、戦支度をしているようだった。
「かしこくも、偉大なる邪馬台国の王、卑弥呼様の血を受け継ぐ者、伊津姫様である。」
カブラヒコが、広場に響き渡る声を発した。目の前の男たちは皆、跪いた。
「さあ、姫様、皆に手を振ってやってください。」
そう急かされて、伊津姫は、ゆっくりと腕を上げた。
うオーッという地鳴りのような低い声が徐々に強くなり、目の前の男たちは立ち上がり、再び歓声を上げた。伊津姫は、広場に集まった者たちを一人ひとり見つめた。男たちの中に、カケルやエンがまぎれて居ないかと探していたのだった。しかし、見つからない。それよりも、不思議に感じたことがあった。ここに集まっているのは、皆、男たち、それも戦支度をした兵ばかりだった。村の子どもや女たちは居ないのだろうか。まるで、戦を前に、出発の儀式の場のように思えた。
「カブラヒコ様、これは、戦へ立つ前の・・」
伊津姫がそう問うのを制止するように、イツナヒコが、
「もう良かろう。お疲れのようじゃ、姫を奥へ。」
そう言い、脇を支えていた者が伊津姫を部屋に連れて行った。
イツナヒコは、部屋に下がる伊津姫の後姿を見ながら、
「勘の良い姫じゃな。・・カブラヒコ、悟られるでないぞ!」
そう言って、カブラヒコに厳しい視線を送った。

伊津姫は、部屋に戻った。久しぶりに長く立っていたせいか、随分疲れてしまって、横になるとすぐに眠ってしまった。
伊津姫は、夢を見た。辺りは、懐かしい高千穂の峰の麓、ナレの村だった。幼い、カケルやエンが村の中を走り回っている。何かを探しているようだった。かくれんぼをしているのとは違う。皆、必死に何かを探している。・・・「イツキ!イツキ!」そう呼ぶ声が響いている。「私はここにいる!」夢の中で、伊津姫は必死に叫ぼうとしている。カケルもエンも、その声に気付かない。そのうちに、空に黒い雲が広がってきて、雨が降り始めた。皆、イツキを探すのを止めて、家の中へ入って行った。伊津姫は一人、村の真ん中に立ち、誰も居ない村を見回した。雨脚はどんどん強くなっていく。そして、辺りは海に変わる。伊津姫は深い海の底へ引きずりこまれていく。どんなにもがいても、どんどんと沈んでいく。「このまま死んでしまうのかしら」・・そう思ったところで目が覚めた。
外は、強い雨が降っていた。地面を叩く雨粒の音が、木戸を通して聞こえるほどだった。
伊津姫は、立ち上がり、そっと木戸を開けてみた。先ほど、多数の男達が集まり歓声を上げた広場には、誰も居なかった。
あの歓声は、邪馬台国の姫を称えるものとは思えなかった。あれはきっと戦の前の誓いの声に違いない。伊津姫は、そう確信していた。

「もう、起きても大丈夫ですか?」
声を掛けられ驚いて振り向いた。雨音のせいで、背後から近づいてきたカブラヒコに気付かなかった。
「ええ・・やはり・・まだ無理は出来ないようです。すみません。」
「いえ、良いんです。皆、姫の顔を見て、喜んで居りました。」
「あそこに集まった方達は、皆、兵士ではないんですか?」
伊津姫の問いに、カブラヒコは少し戸惑い、顔をしかめたが、すぐに応えた。
「はい、筑紫野の兵たちです。・・実は、葦野の里より東にある、女山の主が戦を仕掛けてきているのです。・・主の名は、ハツリヒコ。我が弟なのです。・・昔から、血の気が多く乱暴もので、先代の王も手を焼いて、葦野の里より追放したのですが・・かの地で力をつけ、今、この葦野を脅かしているのです。」
「それで、兵を?」
「はい。この葦野は、邪馬台国の都のあったところです。筑紫野の都でもあります。ハツリヒコは、この地を手に入れ・・いや、我らを倒し、筑紫野の王になろうとしているのです。・・この地を守るため、兵を集めた次第です。」
「そんな事が・・」
「いえ、ハツリヒコだけではありません、筑紫野だけでなく、八代や阿蘇もこの地を狙っております。我が領地を侵そうとする者を赦すわけには参りません。・・姫が来られ、我らこそ、正義。今こそ、強き邪馬台国を蘇らせ、逆らおうとする輩は一掃し、九重をまとめなければなりません。伊津姫様、お力をお貸し下さい。」
雄弁に語るカブラヒコの言葉に、伊津姫は、不安を感じていた。

吉野ヶ里4.jpg

3-4-6 戦の前の静けさ [アスカケ第3部遥かなる邪馬台国]

6.戦の前の静けさ
女山の城砦は、野火を見つけてから、一層、警戒を強めていた。
矢部川の畔には、小さな砦を築き、数人の兵が対岸を見張るようになった。戦支度は、引き続き進めてはいたが、何しろ、人手が少ない。兵となる男たちを全て集めても、百人にも満たない程度であった。王の大軍が攻め込めば、あっという間に全滅するのは明らかだった。
「戦を避ける事はできないのでしょうか?」
カケルは、物見台の上から対岸の様子を探るハツリヒコに尋ねた。
「戦をするつもりなどない。この通り、我らの兵力はわずかだ。だが、戦となれば、男も女も命を懸けて戦うに違いない。多くの命が失われる。何としても避けたい。だが・・カブラヒコは、そのような事は微塵も考えていないだろう。・・ただ、命じるだけで・・戦場(いくさば)には、きっと現れぬだろう。権力とは、そうしたものなのだ。」
ハツリヒコは悲しげに答えた。
アスカが、カケルの傍らで聞いていて、思わず口を挟んだ。
「しかし、今のまま・・このまま、王の軍が現れるのを待っているだけでは・・。」
ハツリヒコは、悲しげな顔をしたまま、じっと対岸を見ていた。

カケルとアスカは、物見台から降りて、城砦の石段に座り、ぼんやりと様子を見ていた。
子どもたちは、何も知らず、楽しげに走り回り、遊んでいる。その子らの母と思われる女性は、ちらちらと子どもの様子を見ながら、稗を搗いている。戦の前とは思えない、長閑な暮らしがそこにあった。
「何としても、戦を避けなければ・・・。」
カケルが、決意したように言う。アスカも、
「きっと何か策があるはずです。きっと・・・。」
そう言って、天を仰いだ。そして、
「ヤス翁様は、葦野にいらしたのでしょう?・・もう少し、様子を伺ってみてはどうでしょう。」
「ああ、そうだな。」
二人は立ち上がり、ヤス翁の居る館へ向かった。

ヤス翁は足を悪くしていたため、囲炉裏端に小さな腰掛を置き、座っていた。二人は、戦を避ける策はないものかと、ヤス翁に相談した。
「筑紫野の王は、どれほどの兵でここを攻めるつもりでしょう。」
カケルは率直にヤス翁に訊ねた。ヤス翁は少し考えてからこう答えた。
「ここを攻め落とすまで、いくらでも兵をよこすであろう。相手は、一国の王なのだ。号令をかければ、国中から男たちを集めよう。それでも足りねば、隣国アナトの国に援軍さえ請うかもしれぬ。これまでも、そうやって、王に逆らう者には容赦など無かった。筑紫野の民はみな、王を怖れておる。」
「ならば・・滅する以外に道はないと言われますか?」
ヤス翁は、大きな溜息をつき、悲しげな表情で眼を閉じた。
「何か・・何か、策はあるはずでしょう。戦にならず、皆、安寧に暮らせる策が・・。」
アスカの言葉は、悲鳴に似て、館の中に響いた。
「邪馬台国の姫を得て、それまで燻っていた野望が頭をもたげ、ハツリヒコ様への処罰を口実に、強い兵力を見せつけ、八代や阿蘇、天草を従えようと躍起になっておるはずじゃ。」
「では、伊津姫を取り戻せば、その野望も崩せるのでは?」
カケルが自問自答するように言った。
「その為には、葦野へ行かねばならないぞ。おそらく、葦野は兵で溢れておる。姫を取り戻すとしても容易い事ではない。敵の中にどうやって入り込めよう。」
「兵が、ここへ向かえば、手薄になりませんか?・・ハツリヒコ様の話では、カブラ王はすぐには戦場に来ないだろうと・・まずは、兵を送り、ある程度勝機が見えたところで、繰り出してくるのではないでしょうか。その間隙をぬえば、入り込めませんか?」
「ああ・・・確かに、手薄にはなるだろうが・・・それにしても、王を守る兵は残っておろう。それに、ここが戦場になることは避けられまい。間隙をぬうとしても、その間に我らは滅ぼされてしまう。」
ヤス翁は、囲炉裏に掛けた鍋から、湯を掬い、椀にいれ一口飲んだ。
「・・何とか時が稼げれば・・・兵の数がもう少し・・・」
カケルは、独り言のように呟く。アスカが、はっと思いついた。
「カケル様、荒尾の浜にいる方たちのお力を借りてはどうでしょう?八代から大軍となって上ってきているでしょう?それに、隼人一族のお力も・・・。それだけの兵が集まれば、筑紫野の兵にも立ち向かえるのではないでしょうか?」
「いや・・しかし・・それでは大きな戦となってしまう・・・それを止めるために、タツル様やエンたちに動いてもらったのだ・・それでは・・・」
その会話に、ヤス翁が答えた。
「荒尾の浜に兵がいるのか?」
「ええ・・・ラシャ王が流した噂から、八代やタクマから兵が筑紫野を目指してきておりました。海からも隼人一族が筑紫野を目指しておりました。・・大きな戦にならぬよう、私の仲間が留まるように説得に向いました。」
そう聞いて、ヤス翁が言った。
「わしをハツリヒコ様のところへ連れて行ってはくれぬか?」

カケルとアスカは、ヤス翁を支えながら、物見台にいるハツリヒコの元へ行った。
「大主様、お話があります。」
ヤス翁は、ハツリヒコの前に座って、頭を下げて言った。
「どうしたのだ・・」
「先ほど、カケル様と戦をせずに済む道はないかと話をしておりました。私に一つ策がございます。お聞き届けいただけますか?」
「・・・そうか・・戦をせずに済むならば、何でもやろう。で、どのような策だ?」
ヤス翁は、カケルの話をハツリヒコに伝えた。
「その兵に援軍を頼むというのか?しかし、それでは、戦が大きくなってしまう。」
「少しの間、足止めできればよいのです。もうすぐ、長雨の季節になります。さすれば・・。」
「そうか、あの川を越えるのは容易なことではない。いや、対岸はおそらく濁流に飲まれるはずだ。大軍をそこに一時的に足止めできれば、戦にならぬな。」
「はい。」
そこまで聞いてカケルが言った。
「その間に、伊津姫を救い出します。邪馬台国の威光を借りようとする王の目論見を挫けば、王に従うものも減るでしょう。」

矢部川濁流2.jpg

3-4-7 援軍 [アスカケ第3部遥かなる邪馬台国]

7.援軍
カケルはすぐに荒尾浜へ向かう事にした。
「5日ほどで、きっと援軍を連れて戻ります。」
「王の軍もそれ程早くここへは到達しないでしょう。アスカ様はどうされます?」
「アスカはここへ遺して参ります。私一人のほうが早く到着できるでしょうから・・。」
ハツリヒコは少し考えてから、
「アスカ様もお連れ下さい。それほど慌てずとも、大丈夫です。アスカ様はカケル様と供に居られたほうが良いはず。さあ。」
ハツリヒコは半ば強引に、アスカをカケルと供に行かせようとした。
「しかし・・それでは、もう少し時が・・。」
「大丈夫です。もう長雨が降り始めます。そう簡単にここへは攻め入らないでしょう。さあ」

カケルは、アスカを伴って、荒尾の浜へ向かった。来た時と同じ道を南へ下った。二日ほど歩くと、荒尾浜が見えた。海岸沿いには、大船が数隻、小船も多数見えた。船の周りには、行く筋もの煙が立ち上っている。小さな漁村に過ぎなかった荒尾の浜には、多くの男達が留まっていた。
松原を抜けたところで、大船の見張り台に上っていた男が、浜に居るエンに向かって叫んだ。
「誰か来ます!男と女、こちらにまっすぐ向かってきております!」
エンは、バンやイノヒコ、タツルたちと焚き火を囲んで、これからどうするかを相談していたところだった。見張り台からの報告に、二人連れはきっとカケル達だと考えた。
焚き火の周りに居た者たちは立ち上がり、見張り台の男が指さすほうをめざして掛けだした。
「おお!カケル、どうした?・・ハツリヒコ様はどうだ?伊津姫様の居場所はわかったのか?」
エンたちは、カケル達に駆け寄り、取り巻くようにして、カケルの返事を待った。
「・・・これは、どうしたのだ。これが八代からの軍なのか?」
カケルは、エンの質問に答える前に、おびただしい数の兵たちを見て驚いて訊いた。
エンは、事情を説明した。
荒尾の葉までカケル達と別れ、それぞれ、八代やタクマ、隼人の軍を止めるために向かったが、その時にはすでに、みな荒尾の浜近くまでやってきていたのだった。やむなく、ここに駐留し、これからの事を相談していたのだった。
「イサの里からも、兵が動き始めているようなのです。」
バンは、隼人一族と合流した時に、島原の動きも聞いていた。
「それより、カケル、ハツリヒコ様はどうだったんだ?伊津姫様は?」
エンが訊いた。カケルは、皆の顔を見回してから言った。
「伊津姫様は、やはり葦野の里のようだ。今、王の軍が女山に進軍してきている。筑紫野の王、カブラヒコが、九重を我が物にしようと動き始めているのだ。」
「ハツリヒコ様は?」
タツルが訊いた。
「王の軍と戦を構えるほかないと・・・それで、皆の力を貸して欲しい。・」
カケルは、ハツリヒコの策を皆に伝えた。
「いざとなれば、これほどの兵が居るのだ。そう容易くやられることはない。すぐに出発だ!」

エンは、タンとともに、八代の兵をまとめ、女山へ進軍を開始した。タツルは、タクマからの兵を率いて、山際を進んだ。バンは、ムサシの率いる隼人一族の船団とともに、大船で矢部川河口を目指す事になった。こうして、女山の南側から大量の援軍が北上する事になった。

カケルは、タクマの兵が連れてきた馬を駆り、アスカを連れて、一足先に女山を目指した。久しぶりに乗る馬の感触に、アスカはドキドキしていた。荒尾の浜からしばらくは海岸に沿って馬は走った。初夏の風が二人を包んでいた。
これから、戦場となる地へ向かうはずなのだが、カケルに後ろから抱かれた格好のアスカは、至福の気持ちでいた。はるか海上を見ると、バンの大船が小さく見える。

女山までは、馬で走るとほんの一日ほどだった。カケルは、女山に戻る前に、王の軍の様子を探るため、矢部川の川岸に沿って、川を遡った。カケルは急に馬を止めた。
「あれは・・・。」
カケルの視線の先を、アスカも見た。そこには、五色の旗が多数はためいていた。低い木々の隙間から、まるで蟻が穴から這い出してくるように、兵が列を成して川辺に現れた。そして、小さな丘に徐々に集まり始めたのだった。兵は皆、甲冑を身につけ、剣や矛を手にしている。荷車を引く者も多くいた。
カケルは、これまで見たこともないほどの大軍を目の当たりにして、絶句した。
「カケル様?」
アスカがそっと声を掛けた。
「あ・・ああ・・大丈夫だ。・・・何という数の兵・・・これが筑紫野の王の力なのか?」
「こちらにも、援軍も向かっています。大丈夫です。」
アスカは、そう答えるのが精一杯だった。
確かに、援軍も数の上では負けてはいないだろう。しかし、王の兵達の装備を見ると、こちらの兵が非力に思えた。まともにやり合えば、元も子もないのは明らかだった。やはり、戦にならぬようにせねばならない。
「アスカ、急ごう。早く、女山の砦に行かねば・・・。」
カケルは、馬を走らせ砦へ急いだ。山影を回り込み、川沿いの里に入ったときだった。目の前に、たくさんの兵が進んでいるのを見つけた。カケルは、アスカとともに、馬を飛び降りて、茂みに身を潜めた。
「あれも、王の兵なのか?」
カケルは辺りを見回し、女山までのほかの道を探し、小高い森を抜けた。先ほどの兵達の前に回りこんだはずだった。しかし、砦の下にはすでに多くの兵が集結し、戦の準備を始めていた。
「これでは・・砦へ入れない・・何か、良い手はないか・・・。」
森の茂みの中に身を潜めたまま、カケルとアスカは動けなくなってしまった。
「カケル様!」
二人の潜む茂みの後ろから声がした。二人が振り向くと、タツルがいた。馬を駆り、山間を抜けてきたタクマの兵達も一緒だった。
「我らも先ほど到着しました。しかし、兵たちがすでに陣取っておりました。きっと本隊が到着するのを待って、一斉に攻め込むつもりでしょう。」
「川向こうに、すでに本隊が現れていました。まもなく川を渡るはずです。」
「無闇に動けませんね。」
「しかし・・砦のハツリヒコ様に何とか援軍の到着をお知らせせねば・・・。」

松原2.jpg

3-4-8 カブラ王の出発 [アスカケ第3部遥かなる邪馬台国]

8.カブラ王の出発
「姫様、お体の具合はいかがですか?」
カブラヒコが上機嫌で、伊津姫のいる部屋へやって来た。王の後には、数人の女性が木箱を持って立っていた。
「もうすっかり元気になりました。ありがとうございました。」
「それは良かった。・・姫様にひとつお願いがございまして・・おい!」
王の声で、後ろに控えていた女性が箱の蓋を開き、姫の前に並べた。箱の中には、色とりどりの衣装が入っていた。
「これは?」
怪訝な顔で伊津姫は訊いた。
「姫様に献上いたしたいと、国中の里から寄せられたものでございます。」
「しかし・・そんな・・・。」
「邪馬台国の姫であられるのですぞ。これほどのものでは足りません。大きな館に入りきらぬほどの宝飾を国中から集めましょう。」
「いえ・・それはいけません。」
「しかし、民は皆、そうした姫を一目みたいと願って居るのです。せめて、これらを召してくださり、民達の姿を見せてやっていただきたい。そうすれば、民も、もっともっと精を出し働くに違いありません。そうして、この筑紫野を豊かな国とするのです。」
カブラヒコはまたも饒舌に語り始めた。しかし、伊津姫は、民を我がものと捉え、王に尽くすのが民の役割と言わんとするカブラヒコの言葉が怖かった。伊津姫は、目を伏せたまま、カブラヒコの言葉を聞いていた。カブラヒコは、急に伊津姫の顔を覗き込むようにして、
「姫、部屋に篭っていてもよくありません。私は、これから、葦野を出て、国境(くにざかい)にある女山へ向かいます。供に参りましょう。・・なあに、姫は輿に乗られれば良い。」
カブラヒコは、にやりと笑って、伊津姫を見た。拒否できる状況ではないのだよと言わんばかりの表情だった。
「さあ、すぐに、姫様の出発の支度をせよ!」

宮殿の前には、新造の輿が二つ置かれていた。檜で設えられた輿は、立派な屋根もあって、中には錦の織物が敷かれていた。轅(ながえ)には、前に10人、後ろにも10人、輿を担ぐ男が跪いて待っていた。伊津姫は、言われるまま、輿に乗った。ゆっくりと輿は動き出した。席の前にある風取りの小窓から、前を行く輿が見えた。それには、カブラヒコが乗っていた。
輿の周りの者たちは、甲冑を身につけ、大きな剣や弓、矛を携え、まっすぐ前方を睨みつけ、無言で歩いている。その前方には、色とりどりの旗も掲げられている。これは、ただ、国境の様子を見物しに行くのではないのは、伊津姫にもすぐに判った。先日、カブラヒコが話していた、国境にいるハツリヒコを成敗するための戦旅であった。
隊列は、葦野を出てからしばらく道を下っていた。はるか前方まで、兵の列が確認できた。おびただしい数の兵、これから向かおうとする国境にはどれほどの兵が待っているのか、大きな戦となるのだろうか・・ハツリヒコとはそれほど邪心を持った者なのだろうか・・邪馬台国の姫を奉じて、九重をまとめるというカブラヒコの野望は、結局、多くの血を流すことになるのだろう・・何としても、止めなければならない。伊津姫は、輿の中で、ただひたすら、その事だけを考えていた。

うねうねと続くなだらかな丘を越え、背丈まで伸びる草原を通り、深い森を抜けた。三日ほど、輿に乗せられ、ついに、最後の林を抜けたところで、輿は止まった。
はるか前方の高台の上に、岩で築いた砦のようなものが見えた。
「あれが、ハツリヒコの砦です。・・我らは、あの砦を攻め、ハツリヒコを成敗いたします。」
輿の外には、カブラヒコが立っていた。
「すでに先鋒が、砦の下に陣を張り、我らの到着を待っております。伊津姫様には、この先の八女というところにある、古い砦に入っていただきます。・・・ほら、行くぞ!」
カブラヒコがそう言うと、再び輿が持ち上がり、低い丘の上に向かった。

「ここは、昔、ハツリヒコが幼き頃に住んでいたところです。しばらく使っていませんでしたが、此度の戦の陣には都合が良い。ほら、御覧なさい。」
カブラヒコは、姫に砦の中を案内しながら、物見台に出て指差した。
川を隔てた向こう側の山の上に、先ほどちらりと見えた女山の砦が姿を見せていた。
「あれだけ、強固な砦は見たことがない。・・戦に長け、周囲の村を力で押さえつけ、民に作らせたのでしょう。我が筑紫野を脅かす恐ろしき男です。」
伊津姫には、その言葉は信じ難いものだった。確かに、岩を積み上げ作られた砦は、立派なものだった。しかし、その下に広がる里も、また、大きく美しかった。そして、今、伊津姫がいる古い砦も、長く使っていなかったと聞いたが、朽ち果てた様子もなく、手入れがされていた。
「カブラヒコ様、戦などせずとも、解決する道はないのですか?」
突然の伊津姫の言葉に、カブラヒコは戸惑った。
「何を仰せになります。・・もとはといえば、ハツリヒコの企みから始まった事。我らは、国を守るためにここまで参ったのです。今更、戦をしないなどと・・・。」
「本当に、ハツリヒコ様が国を奪おうとされているのでしょうか?」
カブラヒコは、姫が自分たちの目論見を見抜いているのではないかと驚いた。
「何を仰せになります。・・・伊津姫様は、ハツリヒコという男を知らぬゆえ、仕方ないでしょう。・・・おお・・そうだった・・伊津姫様を筑紫野へつれて参った、あの男・・ラシャ王と申しましたか・・・あの男を成敗せよと命じたにも関わらず、ハツリヒコは、成敗するどころか、逃してやったのです。おそらく、自分の味方をするようにでも含ませて、火の国へでも遣ったのでしょう。・・邪悪な者は、そうしたものを寄せると申しますからな。・・・ラシャ王が力を得て、舞い戻れば厄介な事になります。一刻も早く、ハツリヒコを成敗せねばなりません。」
カブラヒコが熱っぽく語るほどに、伊津姫の胸中に、嫌悪感が増していた。
「姫様、明日朝には、川を渡り、あの砦を攻めます。・・早朝、姫にもお出ましいただき、兵達に号令をお願いいたします。」
「・・そんな・・戦の号令などできませぬ。・・」
「何を言われる!・・この戦は、邪馬台国復活の足がかり。皆、姫様を奉じて戦うことを誇りに思っておるのです。・・良いですね。朝には迎えに参ります。」
カブラヒコはそう言って、物見台から降りた。
いくら抗ってみても、仕方ない事も伊津姫にはわかっていた。せめて、近くにカケルかエンが居てくれればと思いながら、遠くに立つ砦を眺めた。

百済建物.jpg

3-4-9 奇襲をかける [アスカケ第3部遥かなる邪馬台国]

9. 奇襲をかける
「カケル様、ここは我らにお任せ下さい。奴らを蹴散らし、砦までの道を開きます。」
「いや・・無闇に動いて、戦の引き金になれば元も子もない・・。」
「いえ、大丈夫です。・・馬を使います。おそらく、あの兵は馬には不慣れでしょう。まあ、見ていてください。」
タツルは、カケルの肩をぽんと叩くと、木の茂みの中へ消えていった。

タツルは、森の中を抜けると、タクマから同行した者たちと合流した。小さな沢の畔には、乗ってきた馬が10頭ほど、繋がれていた。
「よいか、皆の者。この先、砦への上り口に敵の兵が居る。50人ほどが、砦を攻める準備をしている。甲冑に身を包んでいるゆえ、剣や弓ではなかなか厳しいだろう。」
「どうしますか?」
そう訊いたのは、レンだった。レンは、タクマの里を任されていたが、ラシャ王の流した噂に惑わされ、兵を率いてきたのだった。
「阿蘇で育った我らにしかできぬ方法がある。」
タツルは、そう言って立ち上がり、馬に縛り付けてあった荒縄を取り出した。
「これだ。・・馬や牛を抑える時に使う方法があるだろう。・・」
そう言うと、荒縄の先を編みこみ始めた。
「おお・・あれか・・・久しぶりだな。」
同行していた者も思い出したように、荒縄を手にとって同じように編みこみ始めた。握り手の先に、固く編み込まれた荒縄の塊ができた。そして、それを近くの沢の水に浸した。荒縄の塊部分は水を吸い込んで重く、固く、まるで石のようになった。それを肩口に掲げてぐるぐると回し始める。そして、幾度か傍の岩に叩き付け、さらに固くする。
「これくらいなら大丈夫だろう。弓矢や剣で貫けなくとも、これで一撃すれば、一瞬で終わる。」
「ああ、暴れ馬も、牛だって、こいつで脳天を叩けば大人しくなるんだったなあ。」
皆、戦の前というよりも、阿蘇で野牛でも追い回すような気持ちになっていた。
「良いか、最初は、兵の真ん中を突っ切るぞ。回り居る者を容赦なく叩け!止まってはならぬぞ。止まれば、兵達の槍の餌食になる。」
男たちは、顔を見合わせ頷いた。馬に跨り、静かに沢を下った。森の木々が切れ、兵達のいる平地の入口に到着した。
砦を囲む兵たちは、次の命令に備え、皆、座り込んで休んでいるようだった。兵の中には、一際目立つ黄色の服と大きな甲冑を着けた将らしき男が数人集まって話をしているようだった。
「あいつらがきっと将だろう。まずは、あいつらを狙う。野牛だと思って行けば良い!さあ行くぞ!」
タツルはそう言うと、一気に馬を走らせた。他の者も続いた。
ドッドッドと、土を蹴る馬の足音が森に響き、木々から鳥たちが飛び出した。砦の前の兵たちは、地面の振動と低い音が何処から聞こえてくるのか判らず、周囲をきょろきょろし始めた。南側の森から、土煙とともに馬が駆けてくる。驚き、慌て、皆、右往左往している。
「何者だ!」
将らしき男たちは、弓を構えたり、剣を掲げて立ち向かおうとした。しかし、タツルたちは容赦なく、兵の中へ馬を突っ込ませた。そして、手にした荒縄を振り回し、兵達の頭や肩を容赦なく打ち付けた。皆、一撃でその場に倒れ込んだ。仁王立ちになっていた将たちにも、同じように荒縄の塊が振り下ろされた。タツルたちの馬群は、一気に兵の中を抜け、反対側の森の中へ隠れた。
タツルたちが通り過ぎた後には、呻き声と泣き声とが響いた。それでも、無事だった将たちは、怖気づく兵に罵声を浴びせ、殴りつけて、戦う構えをさせた。
「今度来たら、馬を狙え!槍を突き刺してやるのだ!」
兵たちは震えながら、槍を構え、馬群の消えた森のほうを見ていた。
タツルたちは、一旦、反対側の森へ入った後、すぐに馬を降りた。そして、馬達をなだめてから、森を抜けて、兵達の背後に回った。
野生の動物なら、襲われれば、すぐに逃げ出すものだが、人間はその場で敵を倒そうと考える。そして、敵の消えた方向を注視する。タツルは、その事を知っていた。
兵たちがようやく落ち着き、タツルたちの消えた森へ注意が向いたところで、今度は、背後から一気に襲いかかった。不意を衝かれ、兵達は逃げ惑う。先ほどと同じように、荒縄の塊を振り下ろし、半数以上の兵を倒してしまった。しかし、徐々に数が減ってくると、そう容易く、荒縄を当てる事が出来なくなった。タツルたちは深追いせず、再び、森の中に隠れようとした。
しかし、一人の将が仁王立ちになり、馬を目掛けて、長槍を投げた。槍は、レンの乗った馬の前足に刺さり、その場にもんどりうって倒れてしまった。レンも馬に引きずられるように倒れ込んだ。
「危ない!」
木の陰から、一部始終を見ていたカケルは、咄嗟に弓を持ち、将を目掛けて矢を放った。
ビュンという風切音とともに、目にも留まらぬ速さで、矢は将の体を貫いた。将は、剣を抜き肩口に構えたところを背中から射抜かれた格好となり、その場に倒れ込んだ。その隙に、タツルはレンを引っ張り上げ、馬に乗せると森へ隠れた。
「アスカ、お前は、この森の奥へ逃げ込め!タツル様たちのところへ行くのだ!良いな!」
カケルは、そう言い残すと、目の前の木にするすると登っていった。
アスカはカケルの言われたとおり、身を低くして木々の中を抜けた。抜けたところに、タツルたちが居た。
「カケル様は?」
「木に登っていきました。きっと、兵達に立ち向かうつもりです。」
タツルたちは、木の陰から、そっと兵達の様子を伺った。

「矢を使う奴がいるぞ!何処だ!」
他の将が、矢が放たれた方向を見定めようとしている。
射抜かれた将は、銅板を繋いで作った甲冑を身に纏っていた。通常の矢ではとても射抜けるものではない。しかし、カケルの放った矢は、背から甲冑を射抜き、体を突き抜けていた。将の亡骸を見た兵は、何人か、すでに逃げ出そうとした。
「こら、逃げるな!」
将たちは、逃げようとする兵の前に剣を突き出し、脅しながら、隊列を整えた。
カケルは、すばやく木々を渡り、先ほどとはかなり離れた梢から、再び、矢を放った。その矢は、別の将の足を貫いた。そしてまた、枝を飛び移り、在らぬ方向から矢を放った。次の矢も確実に将を捉えた。飛んでくる方向が定まらぬ矢には、兵たちは戸惑い、立ちすくんで、震えていた。
兵を率いていた将は、残り一人になった。錯乱しているのか、兵たちの真ん中で、剣を振り回し、喚いている。その様子を見て、カケルは、梢から飛び降り、兵たちの前に姿を見せた。

馬.jpg

3-4-10 人柱 [アスカケ第3部遥かなる邪馬台国]

10. 人柱
「もう止めましょう。・・タツル様、もう良いでしょう。」
カケルは、森の中に潜むタツルたちに声を掛けた。ゆっくりと、馬に乗ったタツルたちが姿を見せる。
「命の惜しい者は、武器を置き、その場に伏せよ!」
タツルは、野太い声で兵達に言った。兵たちは、お互いを見てから、我先にと、剣を捨て、甲冑を脱ぎ、その場に伏せた。たった一人、残った将だけが、伏せた兵の真ん中に立っていた。
「さあ、どうされる?」
再び、タツルが将に迫った。将は、顔を紅潮させ、カケルやタツルを睨んでいる。剣を手放そうとはせず、立ち向かう構えを見せた。カケルは、弓を構えた。そして、天に向かって強く矢を放った。矢は、辺り一面に、独特の甲高い笛のような音を響かせる。そして、しばらくして、将の足先に、ドスンという音とともに突き刺さった。将が、一歩でも前に出ていたら、体を貫いていたはずだった。将は、驚き、慌てて剣を投げ捨て、その場に伏せた。

カケルの放った矢が発する甲高く響き渡る音に、砦では、足元で戦いが起きた事を知り、ハツリヒコが、物見台から様子を見ていた。
「何と、あれだけの兵を、わずかの手勢で・・倒したのか?」
すぐに、砦の入り口に、男たちが走り出て行った。
同時に、対岸の古い砦にある館から、遠くに立つ城砦を見つめていた伊津姫の耳にも、甲高い音は聞こえた。
「あの音は・・・もしや、カケルの矢?・・あそこにカケルが?」
館から身を乗り出して、対岸の様子を見極めようとしたが、はっきりとは判らなかった。

砦の前に陣取っていた一軍の兵たちは、あっけなく、タツルたちに屈する事となった。皆、後ろ手に縄で縛られ、座らされていた。あれだけの戦いの中で、死んだのは、カケルが射抜いた将一人だけだった。
「カケル様、この者たちは、どうしますか?」
タツルは、かたまって座っている兵達を前に、訊いた。
「抗う気がなければ、我らの敵ではないでしょう?」
「しかし、このまま放逐するのは・・また、王の兵として我らに向かって参ります。」
「この者たちに選ばせましょう。」
カケルはそう言うと、兵達の前に立ち訊いた。
「すでに王の本隊は川向に現れております。この先、大きな戦となるでしょう。多くのものが命を落とすでしょう。・・・あなたたちは、どうしますか?・・王の元へ戻りますか?それとも、この場を去り、生まれた里へ戻りたいですか?」
カケルの意外な言葉に兵たちは驚いた。戦に負ければ、殺されるか、さもなくば奴隷として一生こき使われるか、という道しかないと諦めていたはずだった。皆、返答に困った。
「女山の主、ハツリヒコ様は民を大事になさる方です。ここで皆さんを殺したり、奴隷とする事は望まれないでしょう。私も同じです。人には、それぞれ生きる意味を持っているはずです。それを全うする事が良いことなのです。さあ、どうされる?」
一人の兵が思いきって言った。
「我らは、王に逆らえず、嫌々ここに来たのです。戦などしたくはない。だが、このまま里に戻っても・・・あの王を倒さぬ限り、再び、兵となり戦場にいかなくてはなりません。・・できるなら、ここで、あなた達とともに戦いたい!」
その言葉に、他の兵達も強く頷いた。その様子を見て、タツルが言った。
「よおし、判った。・・・それなら、縄を解いてやろう。怪我をして居る者は申し出よ。砦へ行き手当てもしよう。さあ。」
タツルやレンは、一人ひとりの意思を確認しながら、縄を解いた。
生き残った将は、一人を除いて、カケルの矢で体のどこかを射抜かれていた。
「さあ、お前たちはどうする?」
タツルは、将の前に立ち、改めて問うた。
「我らは、カブラヒコの臣下だ。王は、邪馬台国復活の為、兵を挙げられた。お前たちの手先になどならぬ。さあ、殺すがいい!」
縛られて居るにもかかわらず、まだ抗うつもりでいるようだった。
「邪馬台国の復活だと?・・・お前、邪馬台国がどのような国か知っているのか?」
「ああ・・我らの元には、姫様が居られる。我が王とともに、邪馬台国は必ず蘇る。そのために、死ぬのなら本望だ!」
タツルは、やれやれという顔をした。
「カケル様、どうしましょう?こ奴らはどうしようもなさそうです。」
カケルも困っていた。ここまで、王の言葉を信じて居る者はそう簡単に説得できそうになかった。横から、レンが言った。
「ならば、こうしてどうでしょう。きっとすぐにも王の軍はここへ攻め込んでくるでしょう。その兵の意気を削ぐ事も大事です。この兵達のように、嫌々ながら従って居る者も多いはず。その者たちが、軍を離れるような・・見せしめを置きましょう。・・将たちを川岸へ運びましょう。」
「人柱にするというのか?」
タツルは驚いて訊いた。
阿蘇一族は、御山が吹く度に、火口近くに、人柱を立てる風習を持っていた。タツルが大主になってからは、そのような悲しい風習は止めていたが、事あるごとに、人柱を立てるということが語られてきたのだった。
「ええ・・・王の為に、命を捨てても良いと申して居るのです。良いでしょう。」
タツルは、カケルの顔を見た。
「仕方ないでしょう。・・・王の軍が早くに攻め込めば、彼らの命も繋がるでしょうから。」
カケルは悲しげな表情でそう言うと、蹲っている兵たちに声を掛けた。
「怪我をしている者は、私と一緒に、砦へ行きましょう。」
一人、また一人と立ち上がり、石段に向かった。足をやられて歩けない者も居たが、助けあって長い石段を登って行った。

タツルとレンは、元気な兵たちを集め、五人の将を、太い柱に縛り付けた。
そして、皆の手で、河原へ運ばれ、対岸がよく見えるようにして立てた。すでに、一人の将はカケルに射抜かれ死んでいて、亡骸にはすぐにカラスが飛んできて止まった。そして、頭や肩を突き始める。空を見上げると、カラスの大群がぐるぐると将たちの上を旋回し、将たちが死ぬのを待っていた。
タツルたちが引き揚げると、河原には、声の限りに助けを求めて叫ぶ将の声がいつまでも響いていた。

矢部川濁流.jpg

3-4-11 奇跡 [アスカケ第3部遥かなる邪馬台国]

11. 奇跡
怪我をしている兵たちと供に、カケルとアスカは石段を登り始めた。途中で、ハツリヒコが出迎えてくれた。
「カケル様、ご無事でしたか。・・この者たちは?」
「先ほど、下で成敗した王の兵たちです。怪我をしています。手当てをしてやりたくて・・もう、我らに抗う気持ちなどありません。・・この者たちも、王に脅され止む無く手下になっただけです。どうか赦してやってください。」
ハツリヒコは、石段のよろよろと登ってくる兵たちを見下ろした。確かに、カケルの言うとおり、甲冑を脱ぎ捨て、疲れ果てた様子の者達には、もはや兵などという言葉は似合わない。
「判りました。すぐに、手当てをいたしましょう。」
ハツリヒコの言葉で、砦から数人の男達が降りてきて、怪我をした者を抱えて、砦に上がって行った。
アスカは一足先に、砦に入り、すぐに女達と供に手当ての支度を始めていた。怪我をした者もほとんどが荒縄の塊に叩かれて打ち身を負った者ばかりだった。湯で体を洗い、温める事で痛みも収まり、回復すると考えていた。
支度が整わないうちに、怪我人が運び込まれてきた。女達は手分けして、湯を運び、飛鳥の指図どおりに動いた。
「おい!しっかりしろ!おい!」
その声にアスカが反応した。
「どうしたの?」
その声に駆け寄ってみると、一人の男がぐったりとしている。目は半分開き、口から泡を吹いて、息も弱くなっていた。強く叩かれた時にできたのか、首筋に青黒い痣ができていた。
「おい、返事しろよ!おい!」
カケルもその騒ぎに駆け寄った。アスカは、カケルの顔を見て、何かを確かめるような視線を送った。カケルはこくりと頷く。
アスカは、息も絶え絶えとなった男の横に座った。そして、そっと手を伸ばす。透き通るほどに白い指が、男の首筋に添えられた。アスカはじっと目を閉じ、一心に祈っているような仕草を見せる。すると、指先辺りから、淡い光が出始め、次第に、男の首筋全体に広がった。徐々に光は強くなり、アスカの周り一帯が、金色の光に包まれている。
「うぐっ!」
息も絶え絶えとなった男が突然体を硬直させ、口を大きく開き、真っ赤な血の塊を吐き出した。そして、うっすらと目を開けた。次第に視界が広がってきたのか、男は顔を起こし辺りを見回した。そしてむくりと起き上がった。
「お・おれは・・どうしたんだ?」
「お前、大丈夫か?」
「ああ・・もうなんとも無い・・いや、すっかり元気だ!」
先ほどまで死の淵にいたような男が、まるで別人のように元気になった。
「これは・・奇跡か?・・」
男の周りに居た者たちは、皆、アスカの顔を見た。途轍もなく不思議な光景を見て、どう反応してよいものかわからなかった。
少し離れた場所で、また、同じようにうめく声と供に、「しっかりしろ!」という声がする。アスカは、すぐに走りよった。今度は、もうすっかり息をしていなかった。アスカは懇親の力を込めて、息絶えた男の体を強く叩いた。先ほどとはまた違った強い光が当たりに広がった。そして、その光が、怪我をした者がいる広場全体に広がっていく。
「おや・・なんだ?もう痛みは無いぞ。」「腕が動く!」「おい、治ってるぞ!」
皆、驚いた表情で言った。
「神様じゃ!」「いや、女神様だ!」「そうだ、女神様だ。」
元気になった者たちは、みな、アスカの周りに集まって、祈るように、手を合わせた。
驚くべき奇跡を目の当たりにして、ハツリヒコも感嘆した。
「なんとした事か、アスカ様は素晴らしき力をお持ちなのだな。」
カケルは少し不安げな表情であった。以前に見たときとは明らかに違う強い光。力を使った後には、随分疲れていた。今回、更に強い力を使ったのではないか、アスカの身が心配だった。

「アスカ様!」
突然、アスカがその場に倒れこんだ。カケルが心配したとおりだった。カケルはすぐにアスカの元に駆け寄り、アスカを抱きかかえた。
「アスカ、しっかりしろ!」
皆が、アスカの様子を心配し取り巻いた。
「どこか、休めるところを!」というカケルの声に、ハツリヒコが答えた。
「私の館をお使いください。」
カケルは、アスカを抱えたまま、館へ運んだ。

「アスカ様は、大丈夫ですか?」
しばらくしてハツリヒコが館に来て、様子を聞いた。
「ええ・・あの力を使うといつもこうして倒れこんでしまいます。今回は、かなりたくさん力を使ったようです。しばらく休めば回復するでしょう。」
「そうなのですか・・・皆、あれから、あの時の様子を語りあい、歓喜に沸いております。アスカ様が居られれば、心置きなく戦える、女神様が現れたと・・・。」
カケルは悲しい表情を浮かべた。そして、思い出したようにハツリヒコに言った。
「王の軍が、対岸に現れました。早晩、攻めて来るでしょう。」
ハツリヒコは、とうとう来たかと観念した表情をしながらも、カケルに訊いた。
「それで・・援軍は?」
「はい、あと数日で到着するでしょう。海からも隼人一族が姿を見せてくれるはずです。」
「そうですか・・・」
「頭数だけなら、王の軍には負けないほどです。・・・しかし、王の軍は甲冑や剣等の戦支度は万全でしょう。こちらは、満足な支度などしておりません。まともに戦えば、大勢の犠牲が出るでしょう。・・何とか、戦にならぬ策を考えねばなりません。」

夕方になると、雨が降り始めた。最初は、小雨程度だったが、夜には本降りになった。
砦の物見台には、ハツリヒコとヤス翁が居た。
「どうやら、長雨が来たようですな。」
ヤス翁が、川の様子を見ながら言った。
「これで、いつもの年のように、川が暴れだせば・・時は稼げるでしょうか?」
ハツリヒコは祈るような思いで、川を眺めていた。

光.jpg

3-4-12 砦の秘密 [アスカケ第3部遥かなる邪馬台国]

12. 砦の秘密
雨は、予想以上に降り続いた。矢部川は次第に水位を上げてきた。いくつかの支流はすでに矢部川に流れ込む量が限界を超えて、あふれ始めていた。
タツルは、女山の砦の北側の山を開いて、援軍の休める場所を作ることにした。砦の中には大勢の者は入れない。砦前の戦で敗れ、味方に加わった男たちの中には、山を生業とする者も尾いて、手際よく、木を切り払い、小屋を建てた。砦からの道も普請し、女山の砦は一回り大きくなったように見える。
降りしきる雨の中、エンが率いる兵が到着したのは、三日後のことだった。
「急に雨が強くなり、ここまでの道中、あちこち道も崩れていて、遅くなりました。」
エンは、砦の広場で、ハツリヒコと対面した。
広場には、ハツリヒコのほか、カケルやタツルも居た。
「遠くから、我らの為においでくださり、ありがとうございます。しばらくは、戦にならぬでしょうから、ゆっくり体を休めてください。食べ物は、砦から運ばせましょう。」
ハツリヒコは、労った。
「我らのことは、お気遣いなさらぬように。当分は困らぬよう、食料も持ってきております。山へ入れば、調達も出来ましょう。それよりも、里の皆様を不安にさせたくありません。タツル様の設えられた砦でおとなしくしております。」
エンとタン、そしてタツルは、笑顔を返して、砦を出た。
「なんと気持ちの良い皆様でしょう。有難い事です。」
「皆、伊津姫様をお救いしたい一心でここまで参ったのです。それぞれが自らのアスカケを探しているのです。」
カケルの言葉に、ハツリヒコがはっとした。
「今、アスカケと申されたか?」
「ええ・・吾が村に伝わる教えです。私も、十五の年にアスカケに旅立ち、今日を迎えております。アスカケとは・・」
「アスカケとは、己の生きる意味を問うこと・・・命あるもの、生きる役目がある。それを見出だし、命を使え・・というのでしょう。」
「どうして、それを?」
ハツリヒコは、やはりという顔をして言った。
「貴方に見せたいものがございます。さあ。」
ハツリヒコはそう言うと、カケルと砦の北のはずれにある石を積み上げて作られた小さな蔵のような場所に案内した。入り口の木戸を開けて、中に入ると、中は小窓から差し込む光でぼんやりとしていた。
「さあ、どうそ。」
ハツリヒコは、蔵の奥にある祭壇のようなところまで、カケルを導いた。
「ここは?」
「この砦は、私が作ったのではありません。はるか、いにしえから伝わる砦なのです。この山一帯に、こうした石造りの蔵のようなものがあります。・・私は葦野から追い出され、ここへ来た時、一つ一つ修復しました。」
ハツリヒコの母は、女山の里の一族の生まれだった。先代の王がこの地を攻め、一族を従え、無理やり娶ったのである。ハツリヒコが生まれ、成長するにつれ、先代の王はハツリヒコを疎むようになり、葦野から母とともに追放したのだった。一旦は、対岸の八女の里に居たのだが、母が体を壊した為、母とともにこの女山の里に戻った。ハツリヒコは、母やヤス翁から里の言い伝えを聞き、この砦を見つけ修復したのだった。

「草に埋もれた砦を一つ一つ修復している最中に、これを見つけたのです。」
そう言うと、祭壇の下から、竹籠を引っ張り出し,蓋を開けた。
「さきほどの、アスカケの言葉はこれに書かれていたのです。」
そういって、籠の中から一本の巻物を取り出した。それを見て、今度はカケルが驚いた。
「これは・・・。」
目の前に出された巻物は、ナレの村の館の奥深く、仕舞い込まれていた巻物とまったく同じ装丁だった。
「古の言葉で綴られています。読めますか?」
「はい、幼きころから母に教わってきました。」
ハツリヒコは、巻物をカケルに手渡した。カケルは、巻物を手のひらに載せ、恭しくお辞儀をした後、丁寧に中を開いた。見覚えのある懐かしい文字が並んでいた。カケルはゆっくりゆっくり一文字ずつ読み込んでいく。
「これは・・・ナレの村に伝わる巻物の前に綴られたものです。ナレの村の巻物は、阿蘇を越え、高千穂の峰にたどり着いたところから綴られておりました。」
「ええ。この巻物の最後は、この女山を去らざるを得ないというところで終わっておりましたから・・私は、この後どうなったのか知りたいと思っておりました。・・貴方がアスカケと口にされた事で、あなた方一族は、これを記した一族の末裔だろうと思ったのです。」
「間違いありません。・・我が一族は、遠く大陸から海を渡り、最初は、邪馬台国を頼り、その後、九重の山間を移り住み、苦難の末、高千穂の峰の麓に隠れ住んだと教えられました。」
「我が母の一族は、邪馬台国の王に仕えていたそうです。王の命で、おそらくあなた方一族をこの地で、守っていたのでしょう。」
カケルもハツリヒコも、余りにも、不思議な、このめぐり合わせに沈黙した。
カケルは、更にその書物を読み込んでいった。ハツリヒコの言ったとおり、書物の最後には、邪馬台国が乱れ、アナト国からの軍によって、筑紫野一帯が戦火となった事、そして、一族を守ってくれた女山一族と別れざるを得なくなった事が記されていた。そして、いつの日か、一族を守ってくれた女山の民に恩返しするという約束を交わした事も書かれていた。
「ハツリヒコ様・・・私がここへ来たのは、偶然ではないようです。春か昔、我が祖先の約束を果たすために、ここへ導かれたようです。」
カケルは目に涙を浮かべながら、そう言った。ハツリヒコも涙を流している。
「私の中には、半分は邪馬台国を滅ぼした者の血が流れております。そして半分は、邪馬台国を守ろうとした女山一族の血も・・。それゆえに、これまで大王の悪行を知りながら、目を瞑り、ただただ女山を守る事だけを考えてきたのです。・・しかし、それではいけない。九重に生きる者として、やはり、九重の民を守らねばなりません。それこそが私のアスカケなのだと心に決めました。この戦、必ず勝ち、大王を滅ぼさねばなりません。・・そして、邪馬台国を今一度九重の民のために蘇らさねば・・・どうか、お力をお貸し下さい。」
カケルは、ハツリヒコと握手をした。
「そのために今できる事を考えましょう。・・・他に書物はありませんか?・・そのなかに、何か策に繋がる者があるかもしれません。」
二人は、書物が入っている籠を開き、一つ一つ開いていった。

石室.jpg

3-4-13 反乱の動き [アスカケ第3部遥かなる邪馬台国]

13. 反乱の動き
降り続く雨で、女山の砦の麓辺りは、あちこちに水溜りが広がり始めていた。対岸もあちこちが大きな池のようになり始めていた。
カブラ王の軍は、最初に陣を張っていた場所が水に浸かったため、移動しはじめていた。しかし、こちら側にはそれほど高い場所はなく、カブラ王が滞在している古い砦の周囲の狭い場所に犇く様に兵たちは座り、出陣の時を待っていた。
斥候が、女山の様子を探りに来たが、満足に動けず、早々に引き上げて、王に報告した。
「王様、とても動ける状態ではありません。一旦、水が引くまで待つほかありません。」
報告を聞くまでもなく、とても戦を仕掛けられる状態でないことはカブラヒコも判っていた。
「それと・・川の中に、我らの将らしき男たちが柱に縛り付けられておりました。」
「何?では、先陣はやられてしまったということか?」
「どうやら、そのようです。お救いしようとは思いましたが・・とても、水の流れが強く、近寄ることさえできませんでした。」
「ほかの兵たちはどうした?」
「さあ・・辺りには亡骸らしきものはありませんでした。それぞれ逃げ去ったか、女山に囚われたか・・・」
「しかし、あれだけの数の兵を送ったのだぞ!女山にはわずかな兵しか居らぬはずではないか?一体、どうしたのだ?」
「判りませぬ。・・ハツリヒコ様は戦上手とは聞いておりましたが・・。」
「もう良い!下がれ!」
カブラヒコは苛立ちを隠せなかった。大軍を率い、女山などすぐに落とせると思っていたが、思うに任せず、そればかりか、戦を仕掛けることさえもできないのだ。砦の下で出陣を待つ兵たちも、すっかり士気を失い、戦う前から負け戦の様相を呈してきたのだった。

降り始めて4日目の事だった。
真夜中、まるで滝の中に居るかのような轟音が一体を取り巻く。これまで見た事もないような大粒の雨が、粒ではなく、筋になって落ちてくる。降り続いた雨で水嵩が増している矢部川へさらに大量の雨が流れ込み、ついに、土手を崩し始めた。
カブラ王の兵たちは、すっかり寝入っていた。そこへ、決壊した土手から濁流が一気に押し寄せていた。気づいた者もいたが、狭い場所に折り重なるように横になっていたため、逃げようにも逃げられない。おおよそ、半分ほどの兵は、濁流に飲まれてしまった。

翌朝、降り続いた雨もようやく一区切りついたように止んだ。空にはまだ灰色の雨雲が広がっていたが、遠くの景色が見通せる程度になってきた。
カブラヒコは、夜明けとともに、伊津姫の部屋へ足を運んだ。
「恐ろしき程の雨でしたが・・眠れましたかな?」
伊津姫は、まだ着衣さえできていなかった。
「まだ、身支度をしておりませぬゆえ、ご勘弁下さい。・・部屋の中は何ともありませんでした。すぐに支度を整え、出てまいります。お待ち下さい。」
カブラヒコの心配そうな声が、かえって、伊津姫には不気味に感じられた。
「構いませぬ。・・水が引けば、すぐにでも出陣いたします。姫様には、兵達にお言葉を頂戴したいと存じます。」
カブラヒコは、そう言って、立ち去った。カブラヒコが、館の外へ出ようとした時、外から将の一人が慌てた様子で駆け込んできた。
「王様、大変です。兵が・・・」
カブラヒコはすぐに砦の外へ飛び出した。
砦の周りの様子は、昨日とは一変していた。
濁流が運んできた、大量の木くずや土砂が堆積していた。その中に、兵たちの亡骸が見えた。かろうじて生き残った兵も、すっかり精気を失い、蹲ったままうなだれていた。
「何ということだ!」
そう言って、向かいの女山に目を遣って、カブラヒコは驚いた。
女山の砦の北側に、新たに砦が出来ている。目を凝らしてみると、たくさんの男たちが動き回っているようだった。
「あれは何だ?・・・女山にあれだけの兵が居たのか?」
もはや勝機などないとカブラヒコは考え、すぐに葦野へ援軍を請う使いを出した。

援軍を請うカブラヒコの使いを前に、大王は怒り心頭であった。
「ほんの僅かの兵を前に、あやつは何をしておるのだ!一気に攻めればよいものを!」
大王は、国中に使いを出し、里に居る男どもは全て戦支度をし、葦野へ集まるよう命令した。
大王の使いは、筑紫野の村々に動揺を広げた。これまでにも、様々な苦役を担い、疲弊した村も多く、更なる負担に怒りが広がっていった。

特に、葦野から遠く、アナトの国と海峡を隔てて対峙している、那津(なのつ)の周辺では、大王の使いの言葉に怒りを露にした。
那津(なのつ)一帯は古くから田部(タノベ)一族が治めて来たのだが、武力に負けて臣下となったものの、王からの度重なる苦役と食糧収奪に遭い、離反に近い状態になっていた。一族の長、ハクタヒコは、大王からの使いを捕えた後、皆の前で、生かしたまま八つ裂きにしてしまった。そして、一族を前にして、王への謀反を宣言した。幸い、アナト国では、後継者問題で、内乱状態になっており、すぐに那津を攻める事はない事は承知していた。少数ながら、那津から、ハクタヒコ率いる軍が、筑紫野の原野を南下し始めたのだった。

同じような事が、筑紫野の西側でも起こった。
葦野の里からわずか二日ほどの位置にある、小城(おぎ)の一族だった。肥沃な大地を持つこの地は、古くから葦野との諍いが絶えず、嘉瀬川を挟んで緊張状態にあった。
小城(おぎ)一族の長、イクマヒコは、幼い頃に人質として、葦野に囚われていた。ハツリヒコとも幼馴染でもあった。ハツリヒコが女山に追放されたと同時に、イクマヒコも解放され、小城に戻って村の長となったのだった。
大王の使いが言うように、女山のハツリヒコが謀反を起こした事など信じるはずも無く、大王の邪な考えによるものだと見抜いていた。使者には、表面的に聞き入れた形をとって、戦支度を整え、葦野へ向けて静かに進軍を始めた。この機に、葦野を攻め落とすのが狙いだった。

こうして、筑紫野の国の中では、様々な思惑が蠢き始め、何かをきっかけに一気に内乱となる兆しを見せていた。

筑紫山地2.jpg

3-4-14 砦の書物 [アスカケ第3部遥かなる邪馬台国]

14.砦の書物
カケルは、書物を全て開き、一つ一つ読み込んでいた。
ナレの村にあった書物には、ナレの秘密が記されたものがあった。ここにもこれだけの書物があれば、女山辺りに隠された秘密が見つかるかもしれない、そしてそれがカブラヒコとの戦に活かせるかもしれない、そう考え、川の水が引くまでの間に何かを見つけようと必死だった。
アスカは、倒れてからまだ目を覚まさない。カケルは、ハツリヒコから書物を借り、アスカの傍に座り、時々アスカの様子を見ながら、書物を読み込んだ。一つだけ、想定の異なるやや小さめの書物があった。広げると、中には、黒く真っ直ぐな線でいくつもの四角い箱のような模様が描かれている。カケルはじっとその絵を見ながら考えた。そしてはたと気がついた。カケルはその巻物をもって、ハツリヒコの元へ行った。

「ハツリヒコ様!これは?」
ハツリヒコは、物見台から対岸の砦を見ていた。
カケルの持ってきた巻物をじっと見てから、
「・・これは・・砦の構えを記したもののようです。・・・いや・・これはここの砦じゃないようです。ここより、小さいようですね。・・待ってください、これは・・・。」
ハツリヒコはじっとその記号のようなものを睨みつけて考えた。
「これは・・あの、八女にある砦の構えのようです。・・・子どもの頃、過ごした場所ですから・・そうです。間違いない・・これが、館の位置、そしてこれが門、ここには蔵がありました。間違いない、これは八女の砦の構えを示したものです。」
「では、ここにカブラ王や伊津姫様が居るのですね。」
「そうです。・・・そうか!・・・そうだ、この策なら・・しかし・・・」
ハツリヒコは、その図面を見ながら呟いた。
「何か策が?」
「ええ・・八女の砦の館の下には、大きな穴が開いています。昔、ここに居た時、一度だけ潜り込んだ事があります。底には横に延びる穴がいくつかありました。その先に行こうとしたところで、母に見つかり、止められてしまいましたが・・きっと、抜け穴だと思います。」
「その穴を使うと・・」
「ええ、ですが、外からの入り口がわかりませんでした。しかし、この図面を見ると、・・ほら・・ここです。北側の裏門の脇に、出口と思われる印があります。敵に襲われたの抜け穴のはずです。今も使えるならば、何とか、姫を救い出すことも出来るのではないでしょうか?」
カケルは、じっとその図面に見入っていた。
「私が案内します。砦の中の様子もわかっていますから・・」
ハツリヒコは言うと、カケルは首を振った。
「ここの兵たちを束ねられるのは、大主であるハツリヒコ様だけです。水が引けば、カブラヒコの軍も動き始めるでしょう。それに備えねばなりません。八女には私が参ります。大丈夫です。我が祖先が描いたものと、ハツリヒコ様の言葉を信じます。」
カケルの言葉に、ハツリヒコもそれ以上は言わず、頷いた。

ちょうどその時、下の砦から、エンが出向いて来ていた。雨が上がり、徐々に水が引き始めたのを見て、戦に備える相談に来たのだった。物見台の階段の下で、エンは、カケルとハツリヒコの会話を聞いていた。
「その役、俺にやらせてくれないか?・・いや、俺がやる!」
突然のエンの申し出に、カケルとハツリヒコは顔を見合わせた。
「・・元はといえば、守人の俺が伊津姫様をお守りできなかったのがいけないのだ。クンマの里から、ずっと姫様を追ってきた。お傍に居た事もあったが、救い出せなかった。今度こそ、姫様をお救いしたい、いや、命に代えてでも姫様をお救いしたいのだ。なあ、カケル!此度こそ、俺に任せてくれないか?」
エンは、必死の形相であった。ハツリヒコは、カケルの目を見て頷いた。
「判ったよ、エン。・・そうだ、姫様をお救いするのは、エンの役目だ。姫様を命を掛けてお守りするのが、お前のアスカケなのだ。よし、行ってくれ。だが、忍び込んでもそう簡単には戻っては来れまい。私も、ともに行こう。北の入り口辺りに控えておる。万一の場合、俺もともに姫様をお守りしよう。」
「カケル、ありがとう。よし、供に行こう!」

ハツリヒコは、下の砦へ出て、タンやタツルたちにも、八女の砦へ忍び込む策を話した。
「それは良い策だが・・見つかって兵に囲まれればそれで終わりだ。」
タツルは心配した。タンが、
「俺達が、傍に居れば、兵たちを引きつける事もできるだろうが・・この大水では、大人数は渡れないからな・・。」
「いや、大軍が近づけば、戦が始まる。そうなると、忍び込む意味がなくなる。」
エンは、あくまでカケルと二人で忍び込む事を考えていた。
「川を越えるのは、俺達に任せてください。」
話を聞いて、王の軍として女山の砦を攻めようとした者達が集まってきた。
「俺らは、筑紫野の山の民浮羽(うきは)一族の者。深い谷に橋を掛ける技を使えるからと、集められ、ここへ来る時も橋を掛けました。一日もあれば、橋を掛けられます。」
「いや・・二人だけなら、筏で越えればすむ。」
エンは、こう言って断った。
「だが、万一の事態を考えると、やはり、味方の兵が近くに居た方が良い。それには、橋が必要だろう。・・しかし、この流れに橋を掛けるのは容易い事ではないぞ。」
ハツリヒコの言葉に、浮羽の男達は、顔を見合わせて笑った。
「なあに・・浮橋をかけるんですよ。丸太を繋いで、流れに乗せてやるんです。」
「さあ、皆、やるぞ!」「おお!」
矢部川の水位は随分下がり、ほぼ通常の流れに戻り始めていた。女山の砦の北側の山を抜けたところに、矢部川の川幅がもっとも狭い場所があり、八女からは丁度山陰になっていて、見えない場所だった。
男たちは、大水で山から流れ着いた大木を集め、手分けし手際よく拵えた。
浮き橋は、丸太を三本ほど荒縄で強く縛り、筏のようにしたものを幾つもつなげた構造になっていて、少人数なら、沈まずに渡れるものだった。

翌朝、朝靄が立ち込める中、二人は出発する事にした。ハツリヒコが二人を見送った。
「どうか、無事に姫様をお救いして下さい。」
「はい。」
カケルとエンは、橋を渡り、八女の砦の北側の山中に分け入った。
それに続いて、タンが少数の兵を率いて、橋を渡り、万一に備えて、砦の大門が見える位置まで進み、葦の茂みの中に、身を隠した。

朝靄2.jpg

3-4-15 潜入 [アスカケ第3部遥かなる邪馬台国]

15.潜入
「タン様!」
葦の茂みの中に身を潜め、砦の様子を伺っているタンの背後から、手下が呼ぶ。
「どうした?」
「川沿いを少し下ってみましたが、たくさんの兵の亡骸があります。・・・きっと、大水に飲まれたのではないかと・・・王の軍はかなり少なくなっているようです。」
「だが・・元々、どれほどの兵がいるか判らないからな・・・まあ、姫様をお救いした後で、どうするか、考えよう。・・・済まないが、タツル様に、この辺りの様子を知らせてくれ。」
手下の一人が、橋を渡り、砦に戻って行った。

「そうか・・あの大水で、命を落とした者がいるのか・・・王は兵を見捨てたのか・・。」
タツルは、タンからの知らせを聞いて、そう答えた。敵の兵とは言え、濁流に飲まれ命を落とした者がいることに心を痛めた。
「八女の砦は狭く、周囲も低い場所が多い。あれだけ川が増水すれば、逃げ場はなかったのでしょうな。筑紫野のあちこちから集められた者たちは、無念だったろう。・・・やはり、戦は避けなければ・・これ以上、死者を出したくない。」
ハツリヒコも、虚しい戦いを避ける決意を強めていた。
「それで・・タン様たちは?」
「はい、砦までわずかな所で、草叢に身を潜めておられます。中で動きがあれば、すぐにでも飛び込めるようにしております。」
「そうか・・だが・・そうならぬように願いたいものだ。」
ハツリヒコはそう言って、物見台から対岸を眺めた。
「エン様とカケル様です。きっと無事に姫様をお連れくださるでしょう。」
タツルもそう言って、対岸を見つめた。

エンとカケルは、砦の北側の森の中に居た。
ほとんど人が入ったことの無い森なのだろう、木々が鬱蒼と茂り、蔓や葛の弦があちこちに巻きつき、行く手を阻む。砦の手前で、ようやく竹林に入り、静かに砦の裏門へ近づいた。
「あれが裏門だな・・・あの周囲に、隠された入口があるはずだ。・・」
エンが、裏門の様子を見ながら呟く。幸い、裏門の警護は手薄なようだった。二人は、周囲の様子を警戒しながら、裏門に取り付いた。
「どこかにきっとあるはずだ。絵図には確か、この辺りに・・・」
「埋まってしまったのじゃないかな。」
そう呟きながら、裏門の周囲を探ってみたが、それらしい場所が見当たらなかった。そのうち、砦の中から、男たちの話し声が聞こえ、二人は、急いで藪の中へ姿を隠した。
「どういうことだ?入口が見当たらないが・・・。」
「・・ああ・・」
カケルとエンは、男たちの声が聞こえなくなるまでじっと待った。
「なあ、カケル。砦からの抜け道だとすると、裏門の脇に出口を作るかな?・・裏側も兵に囲まれていては逃げようがない。」
「そうだな。・・もう少し離れた場所、見つかりにくい場所に出口は作るはずだ。・・・」
カケルは、じっと眼を閉じて、絵図を思い出していた。確かに裏門には何かの印はあったが、それでないとすると、他に何が描かれていたのか。少し離れた場所に何か無かったか、必死に思い出そうとしていた。そして、ハッと思い出した。
「そうだ!・・あの印はもっと他にもあった。・・そうか、そうだ。」
カケルはそう言うと、裏門を背にして、まっすぐ竹薮の中に視線を送った。まっすぐ、まっすぐ、視線の先に何か見えたように感じた。
「エン、こっちだ!」
カケルは、視線を竹薮の奥に向けたまま歩き出す、エンもカケルの後を歩いた。竹薮から森へ変わる辺りに来た時、二人は気づいた。竹薮と森を隔てている場所は、堀のようになっていたのだ。川の跡ではなく、明らかに人の手で掘られたものだった。そして、その堀はまっすぐ、矢部川へ出られるようになっていた。
「きっと、これが逃げ道だ。この辺りに出口があるはずだ!」
カケルとエンは、その窪みを丁寧に見て歩いた。ちょうど、二人が竹薮から抜け出た辺りに小さな岩が土から顔を出している。
「エン、きっとこれが目印だ。」
そう言って、カケルは岩を掘り出そうとした。おそらく、作られてから一度も使われなかった為に、土が流れ出し埋めてしまったようだった。少し、掘り返してみると、頭を見せていた岩は、薄く切り出された板のような形をしていた。二人は両端を持ち上げてみた。意外に軽く持ち上がり、その下には、両手を広げたほどの穴が開いていた。中から風が吹き出してきた。
「これが抜け穴だろう。風が吹いたのをみると、きっとまだ活きてる。きっと館までもぐりこめるはずだ。」
エンは、そういうと、穴の中に潜り込んだ。
「大丈夫か?」
外でカケルが声を掛けた。
「真っ暗で何も見えない。だが・・足場は悪くない。・・・水も溜まっていないようだ。・カケル、壁を伝って先に行くぞ。大丈夫だ。ちゃんと伊津姫様をお救いする。待っていてくれ。」
エンはそう言うと真っ暗な穴の中を手探りで前進して行った。
カケルは、エンが進んだのを確認すると、竹薮に戻り、裏門の様子を伺った。兵は居ないようだった。
砦は、周囲から切り出した岩を、整然と積み上げ、塀を作り周囲を囲っていた。四方の角には、物見台もある。カケルは、じっと砦の様子を観察した後、まっすぐ裏門に張り付き、塀を登り始めた。四方にある物見台の内、北東や南東側のものは、対岸を見張る為なのか作りも大きかったが、北西側のものは小さく、身を潜めるには丁度良い大きさに思えた。カケルは、館の中で万一、エンが敵に見つかった場合を考えて、この物見台に潜む事にした。
北西の物見台は、ほとんど使われたことはなかったのか、物見台に登る梯子もなく、台の中には枯葉や枝が溜まっている。腰の高さまで石が積み上げられているが、何箇所か石が抜け落ち穴も開いていた。その穴から、カケルは砦の中の様子を探った。

高床式の館が、砦のほぼ中央に建っている。女山の砦よりも小さいものの、しっかりとした造りで、館の南側が表となっているようだった。また、塀に沿うように幾つもの小屋が建ち、将と思われる男たちが座り込んで話をしている。兵の数は多くない。
館の床下には、四角く岩で囲った部分が見えた。きっとあれが、抜け穴に通じる入口だろうと思われた。しばらくすると、そこから頭が覘いた。エンが無事に到着したようだった。だが、周囲には兵が居る。表に出ることが出来ない様子だった。

抜け穴.jpg

3-4-16 救出 [アスカケ第3部遥かなる邪馬台国]

16. 救出
カケルは、気付かれないように砦の物見台を降りて、外に出た。そして、竹薮の中に飛び込み、風のように山を抜け、砦の西側へ出た。南にはタンたちの兵が潜んでいる。
カケルは、矢筒から一本取り出し、矢羽を細工した。そして、弓を構え空高く放った。
ぴゅーんと甲高い音が響く。その音で、砦に居た将や兵たちは空を見上げた。草叢に潜んでいるタン達も空を見上げた。一度、音が消えた後、再び、甲高い音が響いて、ドスンという音が辺りに響いた。その後、南西角に居た物見台の上から「うわあ」という声がした。
「どうした?!」
砦の中の将が尋ねると、物見台の兵が、足元を指差したまま、腰が抜けたのかその場に座り込んだ。その将が、急いで梯子を上ると、物見台の真ん中に、矢がまっすぐに突き立っていた。足場は固い石だ。矢はその石を貫いていたのだった。
「こんなことがあるのか?!」
将は驚き、周囲を見回したが、敵の姿など見えなかった。
カケルは、再び同じように弓を構え、空高く矢を放った。同じように甲高い音がしばらく響き、一旦消えたと更に甲高い音が響き渡る。皆、きょろきょろと空や草原を見ている。次は、物見台に居た将が、「ううう・・」と呻き声を放って、物見台から落ちてきた。カケルの放った矢が、将の体を貫いていた。
「敵だ!敵襲だ!」
物見台の兵が砦に向かって叫んだ。砦の中に居た将や兵たちは、一気に門を出て戦の構えをし始めた。
館の中に居た、カブラヒコも、何事が起きたのだと回廊に出てきた。
「敵襲のようです。」
支度をして門へ向かう将の一人が、王の問いに答え、慌てて出て行った。
「敵襲だと?鉦を鳴らせ!皆を大門に集めるのだ!」
砦の中に、鉦の音が響き渡り、物々しい雰囲気になった。カブラヒコも、館に戻り、甲冑と剣の支度をさせて、大門へ向かった。
館の部屋の中にいた伊津姫の耳にも、甲高い音は届いていた。伊津姫には、その矢が、カケルが放ったものと確信できた。すぐにも飛び出して行きたい気持ちではあったが、侍女たちが物々しい雰囲気に震えている様子を見て、静かにその場に控えていた。
エンは、砦の中の騒ぎに紛れ、小屋に置かれていた甲冑を身につけて、館の中に忍び込もうとした。館の中は、もぬけの殻となっていて、気付かれる事無く、階段を上がり、館の中に入った。幾つかの部屋があり、カケルは慎重にひと部屋ずつ見て回った。一番奥の部屋の戸を開けた時、敵の兵が乗り込んできたのかと勘違いした侍女たちが叫び声を上げた。
「静かに!伊津姫様は何処だ?」
侍女たちは、御簾の向こうを指差した。
「伊津姫様!」
エンが近寄り、声をかける。伊津姫は、懐かしいその声に驚き、立ち上がり御簾を開き顔を出した。
「エン、間違いなく、エンなのね?」
伊津姫は、そのまま、エンの懐に倒れこんだ。長く囚われ、辛い思いをしていたが、いつの日か必ず救いに来てくれると信じ、壊れそうな心を抑えてきた。エンの顔を見たとたん、一気に緊張の糸が切れたのだった。
「さあ、ここを出よう。皆が、伊津姫様を待っている。」
伊津姫は、言われるまま、部屋を出ようとして立ち止まった。侍女たちが不安げな顔をして伊津姫を見ていた。
「あなた方もともに参りましょう。ここに居ては命も危ういでしょう。エン、良いでしょう。」
エンは頷き、皆を抜け穴まで案内し、階段を駆け下り、抜け穴の入り口に入った。
「真っ暗だが、壁を頼りに行けば、外に出られる。先に行くんだ。俺は、一つ仕事がある。さあ、急いで。」
伊津姫は、ゆっくり穴に身を沈めると、手探りで前に進んだ。侍女たちも続いた。
エンは、伊津姫たちが穴に消えるのを見届けると、もう一度、館に上がった。そして、館の中から衣服を集めて高く積み上げると、火をつけた。小さな煙が立ち上り、徐々に大きくなり、白い煙を上げて燃えた。その火が館を覆いつくすのにそれ程時間は掛からなかった。
「よし、これで良い。」
エンは、館を出て抜け穴に向かった。

事の成り行きを草叢に潜んで見ていたタンは、砦から煙が立ち上るのを見つけた。
「エン様から、成功の合図だ。無事に姫をお救いで来たようだ。よし、我らも引き上げるぞ。」
「カケル様は、良いのですか?」
「・・ああ・・心配だが、カケル様に言いつけなのだ。姫を救い出すことが何より大事だと。我らは、あの橋で姫をお迎えし、無事に女山にお連れするのだ。・・それに、あの兵の数だ、我らが見つかり、戦となれば勝ち目は無い。さあ、急ごう。」
タンたちは、静かにその場を離れ、橋まで戻る事にした。

抜け穴の中は真っ暗だった。伊津姫は手探りで出口を探した。出口には、カケルが居るに違いない。そう信じて、必死に歩いた。後ろから、足音が響いてくる。
「伊津姫様、大丈夫ですか?」
エンがようやく追いついたのだった。
「もうすぐ、出口です。急ぎましょう。」
エンは伊津姫たちの前に出て、先導した。伊津姫は、エンの服を握り、後に従った。それほど長い抜け道ではないはずだが、伊津姫には、随分長く感じられた。
「エン・・すみません・・クンマの里に行かなければ、このような事にはならなかったのに・・。私が浅はかでした。皆に迷惑をかけてしまいました。」
エンは何も答えず、まっすぐ前を見て歩き続けた。ようやく前方に出口の明かりが見えてきた。
「歩けますか?」
エンは、出口で伊津姫の手を握り、引上げながら言った。
「ええ、大丈夫です。」
「この森を抜けたところに、我らの見方が待っています。そこまで行けば、もう安心です。」
「カケルは?」
「カブラ王の兵をひきつける為、砦の反対側に居ます。・・姫が無事に脱出できた事はもう知らせてあります。・・きっと、頃合を見て、戻るでしょう。さあ、急ぎましょう。ここにも兵が来るかもしれません。」
エンと伊津姫は、森に入った。鬱蒼とした草木の茂る中をしばらく歩くと、川原が見えた。エンと伊津姫が森から抜けたのを見つけ、葦の中に潜んでいた男たちが顔を出した。
「我らの味方です。」
男たちは、整然と並び、跪き、頭を垂れた。
「お初にお目にかかります。タンと申します。伊津姫様、お待ち申しておりました。さあ、女山の砦へ向かいましょう。」

社回廊2.jpg

3-4-17 退却 [アスカケ第3部遥かなる邪馬台国]

17. 退却
女山の砦では、ハツリヒコやタツルがじっと対岸の様子に注視していた。
「煙が上がりましたな。」
「いよいよ、我らの出番です。さあ、参りますか。」
二人は物見台から降り、石段を降りた。砦の前の広場には、多くの男たちが戦支度を整えて、今や遅しと待っていた。
「今、狼煙が上がった。姫様を無事にお救いできたようだ。・・皆のもの、支度は良いな。」
男たちは気勢を上げた。
ハツリヒコとタツルは、矢部川の河原に向かった。土手に上ると、対岸の砦前に兵たちが集まっているのが判った。
「よし、弓を構えよ!・・良いな、放て!」
男たちは、一斉に弓を引き、空高く矢を放った。男たちは、カケルに教えられたとおり、矢に細工をしていた。放たれた矢は、それぞれ、甲高い音を立て空を舞った。
一方、八女の砦前に集まり、将を射抜いた矢を放った敵の行方を追っていた敵兵たちは、矢部川の方角から、甲高い音が響くのを聞いて、振り返った。
土手に大勢の男たちが並び、矢を放ったのが遠目でも判った。
「敵が現れたぞ!」
その声に、兵たちは一斉にその方角に動き始めた。
王の指示など、関係なく、皆、一斉に走り出した。もはや、軍としての体を為していない。兵たちは、河原に近づくにつれ、足が遅くなる。立ち止まる者さえでてきた。対岸に居並ぶ男たちの人数が、カブラ王の軍の人数と比べても圧倒的に多いのは誰の目にも明らかであった。そして、そこに並んだ男たちは、弓を構え、今にも放ちそうな様子だった。
「どうしたのだ!」
カブラ王がやや遅れて兵たちに追いついた。
慌てて駆けてきた将が、王の前に跪き、進言した。
「敵軍は圧倒的に優勢。このままでは戦になりませぬ。大王様の援軍が到着するまでは無闇に攻めてはなりません。すぐに退却を。」
「やむを得ぬ、一時、退却じゃ。」
振り返ると、砦から煙が立ち上っている。
「どうしたのだ?砦が燃えておるのか?姫は、姫はどうした?」
カブラ王は、そう叫ぶと、誰よりも先に砦へ向かった。将が、慌てて「退却!」と号令を掛けた。兵たちはそれを待つまでもなく、砦へ引き返していた。

対岸では、ハツリヒコやタツルたちが、兵の行方を見守っていた。
「どうやら、退却を始めたようだ。」
「カケル様は巧く逃れられたでしょうか?」
「ああ・・きっと大丈夫でしょう。」
退却する兵の様子を見て、川岸に並んだ男達が一斉に歓声を上げた。
「ハツリヒコ様!伊津姫様をお連れしました。」
タン達が、一足先に、川岸へやってきた。
ハツリヒコやタツルたちは、それを聞いて、川岸から降り、葦の原に移動し、皆、跪いて、伊津姫の到着を待った。
エンが、伊津姫と侍女を連れて、葦の原へ姿を見せた。
「ご無事で何よりでした。長く辛い思いをされましたな。もうご安心下さい。ここに控える者は皆、伊津姫様のご無事を祈っておりました。」
ハツリヒコが挨拶をした。皆、頭を低くして、伊津姫に敬意を示した。
伊津姫は、そこに控える多くの男たちをゆっくりと見回した。体の大きな者、小さな者、少年のような者、年老いた者、本当に数多くの者が、尽力してくれたのだと実感した。
「皆様、本当に・・本当に・・ありがとうございました。何とお礼を申し上げれば良いのか・・こんな・・私のために・・。」
伊津姫は、余りに感激し、涙が零れ、言葉を詰まらせた。
「我らが邪馬台国の姫様です。我が命をささげる覚悟で参りました。」
タツルも言葉を添えた。エンが、そっと伊津姫の背を擦った。
「もう、大丈夫だ。これだけの者が心を合わせれば、もう何も怖れる事等無い。」
「エン、ありがとう。私のわがままがこんな事になってしまって・・・。」
「良いさ。そのお陰で、こうして九重の者が集まれたのだ。」
エンは笑顔で伊津姫に答えた。
「さあ、姫様、お疲れでしょう。我が里へ参りましょう。まずは、ゆっくりとお休み下さい。里の者たちも、姫様のお顔をみたいと、心待ちにして居りましょう。さあ。」
ハツリヒコがそう言って、砦へ案内した。
「さあ、皆様、引き上げましょう。」
タツルが号令を掛けて、男たちは砦へ引き上げて行った。

八女の砦では、カブラ王が大門に飛び込んだ。大門を潜ると、館は火に包まれ今にも崩れそうになっていた。
「姫、姫、・・・・」
カブラヒコはそう言うと、燃え盛る館の中へ飛び込もうとした。周りに居た将たちが必死にカブラヒコを押さえつけた。
カブラ王は、取り乱し、そこらにあるものを投げつけ、半狂乱になっていた。しばらく、そうしていたが、終に疲れ果てて座り込んでしまった。
「王様、ここは一度、葦野へ戻られたほうが良いでしょう。ここにはもう食料もありません。一旦、葦野の里へ戻り、体勢を立て直しましょう。」
カブラヒコは、葦野で初めて伊津姫を見た時、一目惚れをしたのだった。
人質とは言え、邪馬台国の姫、いずれ九重を手にすれば、我が妻として娶ることを目論んでいた。だからこそ、たくさんの人を付け、看病し元気になるよう祈った。この戦にも同行させた。いずれは我がものとなるものだと信じていた。その姫が、劫火の中で命を落としたと思い込んだカブラヒコは、ただただ呆然としていた。しかし、徐々に正気に戻ると、じわじわと心の中に怒りが湧いてきた。
「ハツリヒコが姫を殺したのだ!奴を殺さずして戻れぬわ!一気に攻めるのじゃ!」
そう叫んでいきり立った。
「無理です。兵力が違いすぎます。それに、川を渡る事もできませぬ。今は、退却すべきです。」
将たちは、カブラヒコを必死に説得した。
「王の命令が聞けぬと言うか!」
カブラヒコは、怒りに任せ、剣を手にして、将たちに切りかかった。
将たちは、もはや王は正気ではないと見限り、兵たちも、一人、またひとりと軍を離れ、どこかへ姿を消し、終に、十人ほどしか砦に残っていなかった。

業火2.jpg

3-4-18 対面 [アスカケ第3部遥かなる邪馬台国]

18. 対面
大勢の笑顔に囲まれ、石段を登り、女山の砦に入ると、更に多くの人たちが、伊津姫を出迎えた。広場に出てきて跪く者、仕事の手を止めその場に跪く者、伊津姫の目に入る人々が、皆、姫を温かく迎えた。伊津姫は、広場の前の一段高いところに上がるように促された。
「邪馬台国の姫、伊津姫様をお救いしたぞ!」
ハツリヒコが改めて皆に告げた。砦の中に居る者、全てが手を叩き、歓声を上げた。
その中から一人の老婆が、子どもらに手を引かれながら、前に進み出た。老婆は、震える手をすっと前に出した。伊津姫は、段から降り、膝をついて、そっとその手を握り締めた。
「おお・・邪馬台国の姫様に・・・生きてお会いできようとは・・・。」
その老婆は涙を零し、手を握り返した。長く仕事をしてきた手には、深い皺が刻まれている。
周りに居た一番年長の子どもが言った。
「婆様は、私たちにいつも邪馬台国のお話をしてくださるんです。九重に生まれた者の心の支えなのだと・・。安心して暮らせる証なのだとお教え下さって。だから、私たち、きっとこれからは幸せに暮らせますよね。」
伊津姫は、子どもらの顔を見た。皆、住んだ瞳で伊津姫を見つめている。その子どもらの未来を思うとき、自らの役目の重みを強く感じていた。伊津姫は手を握ったまま、立ち上がり、砦にいる皆の顔をゆっくりと見渡した。
「皆さん、本当にありがとうございました。ここにこうして居られる事、幸せです。これからも宜しくお願いいたします。」
伊津姫は、深く頭を下げた。砦に居る者たちは皆、伊津姫の感謝の言葉に涙した。

「主様、アスカ様が目を覚まされました。」
飛鳥の看病をしていた若い娘が、ハツリヒコに知らせた。ハツリヒコやタツル、エンたちがすぐに館へ向かった。伊津姫も、館へ向かった。
アスカは、負傷した男たちを前にチカラを使った後、意識を失い、そのまま昏睡状態にあった。カケルも傍で看病していたが、姫を救い出す為に、里の娘たちに看病を頼んでいた。

館に入ると、アスカは身を起こしていた。
「アスカ様、お加減はいかがですか?」
ハツリヒコが訊いた。アスカはゆっくりと振り向いて笑顔を返した。
「もう大丈夫です。ご心配をおかけしました。」
そう言って、館の中にいる人たちの顔を見回し、カケルの姿を探しているようだった。エンがすぐに気付いて答えた。
「カケルは、伊津姫様をお救いする為に、八女の砦へ行きました。無事、姫様はお救いできましたが・・まだ、戻ってきていません。」
「そうですか・・・。」
アスカの顔が曇った。その様子を伊津姫が見て、前に出た。
「初めまして・・・イツキです。」
アスカは驚いて顔を伏せ、髪を直す仕草をした。
ずっとカケルの心の中にいた伊津姫が目の前に居る。こんなやつれた自分の姿を見せることに恥ずかしく思ったのだ。
伊津姫は、そっと近づいて、アスカの手を握った。
「お顔を見せてください。ウスキで貴女の話を聞きました。カケルとともに居て、カケルを助けてこられたのでしょう。ずっとお会いしたいと思っていました。」
アスカはゆっくりと顔を上げた。
伊津姫は驚いた。長く艶やかな黒髪、まっすぐに伸びた手足、透き通るほどに白い肌、そして、大きく澄んだ眼。これまであった女性と比べても、飛びぬけて美しい。「女神様」という話も納得できた。そして同時に、どこか、カケルの母の面影も感じていた。
アスカも、伊津姫の気高き雰囲気に圧倒されていた。全てを包み込むような表情、柔らかな笑顔、そして強い意思を感じさせる眼。姫である事がそうさせたのか、カケルの中に感じる強き心は、伊津姫と同じものなのだと感じていた。
「カケル様は、ヒムカの村々を回っている時も、ウスキから阿蘇、そしてこの地に参るまで、いつもいつも、伊津姫様の心配をされていました。ご無事で何よりでした。」
二人はしっかりと手を握り、見詰め合った。二人の視線の間には、確かにカケルが居た。

「しかし、良かった。アスカ様があのまま目を覚まされないのではと、兵たちは皆、心配しておりました。・・そう、あの二人なんか、自分の命を神に奉げれば、アスカ様が目を覚ますのじゃないかと・・・連日、泣きながら祈っておりました。」
タンが、そう言って、館の外から覗き込んでいる二人を指差した。
「まあ・・なんて事を。それじゃ、何もかも無駄になるじゃない。」
アスカが笑顔で答えると、件の二人は、涙を流してアスカの無事を確認できて抱き合って喜んだ。その様子に、館の内外に居た男たちは、大声で笑った。
伊津姫には、何のことかわからず、エンの顔を見た。
「アスカ様には特別な力があるんですよ。」
エンは、伊津姫に、アスカが起こした奇跡の一部始終を聞かせた。見た目だけの女神ではなく、そんな特別な力を持っていたとは、伊津姫は再び驚いていた。
「この力は、私のものではありません。・・カケル様のお力を分けていただいているのです。カケル様がお傍に居てくださる時に目覚めるのです。」
伊津姫は、アスカとカケルが特別な縁で結ばれているのだと知り、胸の中がざわざわとするのを感じていた。
「それにしても、カケルの奴、なかなか戻って来ないな。一体、どうしたんだ?」
エンが、館の外へ視線をやって呟いた。
「カブラヒコの兵は退却し、いつでも戻れるだろうが、何かあったのだろうか。」
ハツリヒコも呟いた。
「いや、カケル様なら心配ないでしょう。きっとすぐに戻られるでしょう。」
タツルが答え、皆も頷いた。

その日の夜は、伊津姫の無事とアスカの回復、何よりカブラヒコの兵を退却させた事を祝い、宴が開かれた。下の砦にいた男たちも、今宵は砦の中に入り、里の者とも交流して、楽しく過ごした。アスカと伊津姫は、カケルと過ごしてきた日々の思い出を語り合った。幼い頃のやんちゃな様子や、初めて弓を引いて大人たちを驚かせた事、母の病を治そうと薬草取りに出かけ命の危険を感じながらも必死で守ってくれた事、思い出す限りのナレの村での日々を伊津姫はアスカに聞かせた。時々、エンが会話に入ってきて邪魔をした。アスカも、モシオで初めて出会った事、そして、タロヒコとの戦い、ヒムカの村々で過ごした事、ウスキから伊津姫を追い阿蘇を抜け、有明の海を越えた事等を話した。二人の話は尽きることは無かった。

月3.jpg

3-4-19 安否 [アスカケ第3部遥かなる邪馬台国]

19. 安否
翌朝を迎えても、カケルは姿を見せなかった。
昼を回った頃、さすがに帰りが遅すぎると考えたハツリヒコやタツルたちは、館に集まって相談を始めた。
「カケルの矢の音は、砦の西側から聞こえた。」
一人、砦に入っていたエンが言うと、葦の茂みに潜んでいたタンたちも、「確かにそうだ」と頷いた。「その後は?」とタツルが訊いた。
「カケル様の言いつけどおり、すぐに橋まで戻りましたので、その後の事は・・。」
タンは済まなそうに言った。
「カブラ王の兵に襲われたわけではないだろうが・・・。逃げ戻る最中、何かあったのだろう。」
エンがぼんやりとそう言った。
「何かって?一体、カケル様の身に何が起きたというのです!」
タンがエンに食って掛かるように訊いた。
「落ち着け、タン。カケルはここに居る誰よりも強い。あの怪しげな力を持ったタロヒコさえも滅ぼしたんだ。兵に命を奪われることは無い。」
「ならば、どうして戻らないんでしょう。」
皆、腕組みして考え込んだ。
「八女の砦の様子も気になるし、カケル様が矢を放った辺りも見てまいりましょう。」
エンがそう言うと、皆、頷いた。

すぐに、エンとタンが二十人ほどの男たちを率いて、川を渡り、砦の北側の山から、慎重に砦に近づいた。砦の裏門には誰も居なかった。静かに近寄ると、人の気配はしている。しかし、それほどの人数ではなさそうだった。タンが、砦の岩壁をゆっくりと登って、中の様子を見ると、十人ほどの兵が腰を下ろして話をしている。将らしき男とカブラヒコの姿も見えた。
「砦の中に十人ほど。戦が出来るほどの人数ではありません。一気に攻め込んでしまうのも簡単でしょう。」
タンが降りてきて、エンに告げた。
「いや、侮ってはいけない。それに、戦をする為に来たのではないのだ。・・ほとんど兵が居ないのなら、砦の周囲も探しやすい。さあ、行こう。」
エンは、男たちを率いて、砦から見つからぬよう、山沿いを進んで、砦の西側に出た。川岸まで丈の長い草原が広がっている。ところどころに、小川や沼地もあった。エンたちは、出来るだけ背を低くして、草原を進みながら、カケルを探した。途中、二手に別れ、川岸に沿ってタンたちが進み、エンたちは草原を進んだ。
「これは?」
タンが、葦の原を進んでいた時に、足元に「矢」を見つけた。屋羽に細工があったので、カケルのものだとわかった。すぐに、エンたちも呼んで、その周囲をくまなく探した。しかし、他には手がかりは無かった。皆で、日暮れまで探し回ったが、カケルは見つからず、エンたちは砦に引き揚げた。

次の日の朝の事だった。
「ハツリヒコ様!ハツリヒコ様!」
侍女たちがあわてた様子でやって来た。
侍女たちは、八女の砦から伊津姫とともに逃れ、そのまま、アスカと伊津姫のお世話をしていたのだった。
「どうしたのだ、そんなに慌てて。」
「アスカ様の様子がおかしいのです。夕べからうなされておいででしたが・・朝になっても目覚められず・・うわ言を言っておられるのです。」
侍女たちは涙目で訴えるように話した。
「ご病気か?」
「判りませぬ。ただ・・時々、カケル様の御名をお呼びになられては・・涙を流しておられるのです。」
ハツリヒコは、アスカの元へ急いだ。

「アスカ様!どうされた!気をしっかり持たれよ!」
ハツリヒコが、横たわっているアスカの脇で声を掛ける。
その声にアスカが目を見開き、突然、むくりと起き上がった。
「カケル様が・・カケル様が・・・」
アスカはそう言って、ハツリヒコの腕を掴んだ。
アスカとカケルの間には、常人にはわからない特別なつながりがある。
傍で見守っていた伊津姫も、そっと寄り添い、アスカの背を撫でながら、
「カケルがどうしたの?」
と優しく訊いた。
アスカは、ハツリヒコや伊津姫の顔を見て、大粒の涙を零して言った。
「カケル様が・・川に流され・・どこかの岸で動けなくなっておられます。」
「何だって?それはまことか?」
「ええ・・お怪我をされておられるようです。・・苦しんでいらっしゃいます。早く、お救いしないと・・・。」

ハツリヒコは、すぐにエンやタツルたちを呼んだ。
館の前に、皆、集まって相談を始めた。
「すぐに探しに行かねばなるまい。」
「だが・・どこに居られるのだろう。遠くなのやもしれぬ。馬を使おう。」
「しかし、どこを探せばよいか見当もつかないでは・・無闇に走り回ったところで・・。」
「矢部川を渡ろうとされて、濁流に流されたと考えられる。ならば、川下に行けば良かろう。」
「しかし、昨日、対岸をかなり下って探したが、居られなかった。もしや、海まで・・。」
「いや、岸辺に居られるとアスカ様が話されている。きっともっと近くかも知れぬ。」
誰とも限らず、どう探せばよいか、とにかく、皆が意見を言った。

そう話していたところに、伊津姫に支えられるようにして、アスカが姿を見せた。
「私をお連れ下さい。確かに、カケル様の声を聞きました。どこかは判りませんが、カケル様を感じる方向に向かえば、きっと見つかるでしょう。・・大丈夫です。馬は慣れています。」
「しかし・・その体では。」
タツルが心配して言った。アスカは、それに答えた。
「私の体が辛いのは、カケル様が弱られている為です。私がお傍に行けば、きっと大丈夫です。」
すぐに、馬が集められ、タツルやレンたちがカケルを探す為にアスカを伴って出発した。

葦の原.jpg

3-4-20 嫉妬 [アスカケ第3部遥かなる邪馬台国]

20.嫉妬
焼け落ちた館を呆然と見つめるカブラヒコ。砦の中には、十名ほどの兵しか居なかった。
伊津姫を奉じて、大軍を率い、この地まで来たのが遠く感じられた。
カブラヒコはようやく冷静さを取り戻していた。
「カブラヒコ様、もはや、兵もわずか。一気に攻められれば元も子もありません。館とて、この有様。早く、葦野へ戻りましょう。」
脇に控えていた、たった一人残った将が進言した。
「いや・・このまま、戻ることなどできぬ。大王に叱咤されるだけだ。」
「では、援軍の到着を待たれますか?」
カブラヒコはしばらく考えてから、対岸に見える女山の砦を睨みつけて言った。
「ハツリヒコだけは許せぬ。あそこに乗り込み、刃を浴びせねば気が済まぬ!」
「それは無謀にございます。あれだけの兵がいるのです。・・例え、潜り込めたとしても、無事には済みませぬ。」
「いや・・あ奴らも、この砦に忍び込み、館に火を点け、姫の命を奪ったのだ。我らとて、忍び込み、火を放てばよい。できぬはずは無い。」
「しかし、兵の数が違います。あの砦の周りにはおびただしい数の兵が居ります。」
「多いなら、好都合。その中に紛れて行けば良い。将は、兵の一人ひとりの顔など覚えては居らぬものだ。多ければ、見つかりはしまい。」
カブラヒコは、すでに王の威厳など忘れていた。今は、姫の命を奪ったハツリヒコへの復讐しか頭になかったのだった。
カブラヒコと供の将は、闇夜の川を渡り、女山の砦の下の森に入り、夜明けを待った。朝靄の中、下の砦の男達が、ごそごそと起き出したのを見計らって、森の中を上って、下の砦に紛れ込んだ。
下の砦には、タツルやエン、タン達がそれそれいくつかの集団に分かれて、小屋で過ごしていた。八代辺りから、タンとともに長旅をしてきた者、荒尾の浜でエンとともに戦った者、阿蘇の里から兄弟のように過ごしてきた者、多くの男たちは、皆、仲間である。助け合い、苦しみを分かち合い、伊津姫のために命をささげる覚悟をしてきた男たちだ。
朝餉の支度の当番の男達が、カブラヒコと将を見つけた。炊事場辺りで蹲り、様子を見ている二人にすぐに気付いて、周りに居る者に目配せをして知らせた。
当番の男たちは、何食わぬ顔をして、カブラヒコたちのところへ行き、
「夕べは眠れたか?」
「腹が減ったろう。すぐに朝餉にするから、そこで待ってろ。」
と挨拶代わりに声を掛けた。カブラヒコたちも、よもや気付かれては居ないと踏んで、
「ああ・・早くしてくれ。」
そう言って、何食わぬ顔をして、炊事場の脇の岩に腰掛けていた。
見慣れぬ男二人が紛れ込んでいると言う知らせは、すぐにエンやタンに知らされた。
日中は、大門が開かれており、上の砦と下の砦の間を、里の者や兵たちが自由に行き来できた。
カブラヒコと将は、荷物を運び入れる手伝いに紛れ、上の砦に入り、そのまま蔵の脇に日暮れまで身を潜めた。夜も更け、皆が寝静まったのを確認すると、カブラヒコたちが動き始めた。
カブラヒコは、将に、砦のあちこちに火を放つように命じて行かせた。カブラヒコは、ハツリヒコの寝所を探し、静かに砦の中を歩き始めた。
「まさか?」
カブラヒコは、物見台の上の人影を見て、驚いた。八女の館で劫火とともに命を落としたものとばかり思っていた、伊津姫の姿がそこにあったからだ。
伊津姫は、カケルの行方を心配し、ここ数日眠れない日々を過ごしていた。この日も、静まった中、館を出て物見台に登り、月に照らされた矢部川を眺めていた。
そこへ、ハツリヒコが現れた。
「また、眠れないのですか?」
伊津姫は、ハツリヒコのほうを向き、寂しそうな視線をハツリヒコへ向けた。
「大丈夫です、きっと。カケル様は強いお方だ。アスカ様もきっとカケル様を見つけられる。」
そう慰めるハツリヒコの言葉に、伊津姫は、何の役にも立たないわが身に歯がゆく、一層悲しくなった。つい、涙を零してしまった。ハツリヒコは、近づきそっと姫の肩を抱いた。
その様子に、カブラヒコは、逆上した。愛しき伊津姫と憎きハツリヒコ、途轍もない悲しみと怒りが全身を覆った。周囲の事など気にもせず、物見台を駆け上がろうとした。
その様子を見て、周りに隠れていた男たちが一斉に姿を現し、カブラヒコと将を取り囲み捕えた。ハツリヒコ、エン、タンも姿を見せ、荒縄に縛られた男を見下ろした。
「これは・・兄者・・何ということだ。」
ハツリヒコが嘆いた。すでに、王の威厳などなく、薄汚れみすぼらしい姿で荒縄に縛られたカブラヒコを、伊津姫も哀れみの目で見た。
エンは、カブラヒコを見下ろして言った。
「今朝から、怪しげな男が潜り込んだのは知っていた。すぐに見張りをつけたが・・まさか、カブラ王とは・・・我が砦は皆長く伴に過ごしてきた者ばかりだ。よそ者が入ればすぐに判る。そんな事も判らず、ここへ入り込むなど、正気の沙汰ではないぞ。」
カブラヒコはじっと眼を閉じ、何かを待っているようだった。
「ふん、このままでは終わりはしない。今に見てろ、お前たちもただでは済まないぞ。」
とカブラヒコは、嘯いた。それを聞いて、エンが言った。
「砦を劫火にしようと企んでいたのだろう。だが、それは無理だ。」
そう言うと、カブラヒコの前に、荒縄に縛った将を突き出した。
「兄者、もはやこれまで。大人しく、葦野へ戻るというなら、命は奪わない。如何にする?」
とハツリヒコが訊いた。カブラヒコは観念したように、蹲った。返事をしないカブラヒコを見て、ハツリヒコが言った。
「もはや、何も出来ないでしょう。縄を解き、砦の外へ放り出しましょう。」
ハツリヒコは、カブラヒコの縄を解かせた。
蹲ったままのカブラヒコは、悔しさの余り、大粒の涙を零した。ハツリヒコは、カブラヒコが伊津姫を愛しく思っていることなど知る由もなかった。
「さあ、大人しく、葦野へ戻られよ!そして、二度と九重を支配しようなど思わぬことです。」
そう言って、ハツリヒコが近づいた時だった。
カブラヒコは、脇に居た男から腰の剣を奪い、頭上に振りかざし、伊津姫に切りかかろうとした。咄嗟に、エンが伊津姫をかばうように、カブラヒコの前に立った。振り下ろした剣が、エンの肩口を切り裂いた。
ハツリヒコが、「兄者!」と叫び、剣を抜き、背後からカブラヒコを一突きにした。
剣は、背中から胸を貫き、切っ先から真っ赤な血が吹き出し、カブラヒコは忽ち息を引き取った。一瞬の出来事だった。
「エン!」
伊津姫は、肩口から血を流し倒れ込んだエンを抱き、叫んだ。
エンは朦朧とする意識の中で、伊津姫の無事を見て、笑顔を返し、静かに眼を閉じた。

月4.jpg

3-5-1 葦野への使者 [アスカケ第3部遥かなる邪馬台国]

1. 葦野への使者
エンはすぐに館へ運ばれた。伊津姫はずっとエンの傍に居て、名を呼び続けている。侍女たちが、エンの傷口から吹き出る血を止めようと、必死に手当てした。しかし、深く切りつけられていて、下の骨さえも見えているのだった。伊津姫は、エンの手を強く握ったまま、何か方法はないかと必死に考えた。ナレの村で、カケルと伴に薬草探しをした事を思い出し、血止めの薬は無かったか、必死に思い出そうとしていた。
「蒲・・そう、蒲の穂を!」
伊津姫はそう叫んだ。すぐに、河原へ走り、ありったけの蒲の穂を採取した。
「これしかありません。」
悲しそうな顔をして男が持ち込んだ蒲は、まだ、少し、青々としていて、小さな花が開いたところだった。茶色く丸く太った穂は無かった。
「良いのです。この花が血を止めてくれるはずです。さあ、花を摘み取って布へ包んでください。そして、その布を傷口へ当てて。」
皆、手分けして花を摘み取った。言われるままに、布に包んで、ぱっくりと開いた傷口に押し当てる。すぐに布は真っ赤に染まる。
「もっと取って来て下さい!」
伊津姫は必死に叫ぶ。砦にいる男たちは、松明を手に河原へ走った。手当たり次第に、蒲を抜き、砦へ運んだ。徐々に、出血は小さくなってきた。皆、エンの命を救う為、走り回った。

夜明けが来た。一晩中走り回った、男たちは、館の外に疲れて横たわっている。手当てを続けた侍女たちも、館のあちこちで、壁にも垂れ座ったまま眠ってしまっていた。伊津姫も、エンの手を握り、うとうとしていた。エンは静かに眠っているようだった。

館の外には、荒縄で縛ったままの将が一人、昨夜のまま放置されていた。カブラヒコの亡骸には、筵が一枚掛けられたままだった。ハツリヒコが、今一度兄を信じようとした事を裏切り、刃を向けたことに怒り、そのままにしておいたのだった。
朝日が昇り、砦の中にも陽の光が射し込みはじめた頃、ハツリヒコとタンが、館の前に姿を見せた。徐々に男たちも現れ、荒縄で縛られた将を取り囲んだ。
「さあ、どうするかな。」
タンは、将の髪を引っ張り、顔を皆に見えるようにした。
「カブラヒコと伴に、地中に埋めてやっても良いのだが・・。」
取り囲んだ男たちはその声に剣を掲げ、声を上げた。男たちの将とも言える、エンが生死の境を彷徨っている。カブラヒコは殺したが、まだ、男たちの怒りは収まるわけも無かった。その将は覚悟した。王亡き後、縋るものを失い、すでに生きる理由すら無い。ここで殺されても仕方ないと諦めた表情で、ハツリヒコを見た。
「命を奪うのは容易い事。苦しみも一瞬だろう。しかし、それでは皆の気持ちは収まらぬ。同志を傷つけられた怒りをどう晴らすべきか。私とて、兄者に手を掛けてしまった。この恨みは消えぬ。」
ハツリヒコの表情は、鬼のごとく見えた。
「そなたには、重き罰を与える。この・・兄者の亡骸を背負い、葦野へ戻るのだ。幾日掛かろうと構わぬ。必ず、葦野へ着き、大王に申すのだ。邪心は捨てよと。この九重を我が物にしようなどという邪心を捨てれば、これ以上、我らも抗う事はない。大人しく、葦野の里を守ればよいと。さもなくば、ここにいる者たち全てが、葦野を攻めよう。良いか?判ったか。」
タンはその言葉に驚いた。放逐するなど考えもしなかった事だった。
「しかし、まっすぐ葦野へ戻るとは思えませんが・・。」
「ああ・・伴をつければよいだろう。葦野の里に向かい、入口まで見張ればよかろう。」
そう言うと、周りに居た男たちが、我こそと前に出た。中から3人ほどが選ばれ、将の後をついて行くことになった。
ハツリヒコの亡骸は、将の背に荒縄で縛り付けられた。まるで、自らの罪を背負うかのように重い足取りで、砦を降り、川を渡った。岸には、カブラヒコの兵らしき男たちが居た。すぐに駆け寄ってくると、将を支えるように歩き始めた。見張り役の男たちは、その後を追うように葦野へ向かった。

エンはなかなか意識を取り戻さなかった。深手の傷、大量の出血は、さすがのエンの体にも堪えたようだった。必死の手当で、出血は止まっていたが、意識が戻らない。
二日ほど経った夜明けだった。
ピクッとエンの指先が動いたようだった。伊津姫がハッと目を覚ました。
「エン?気がついた?」
エンは、ゆっくりと目を開けた。横たわる自分の状態を考えているのか、それともまだ意識が朦朧としているのか、じっと天井を見つめていた。
「エン?」
二度目に伊津姫が呼びかけた時、エンはハッとして顔を動かした。
「姫・・様・・、ご無事・・で・・・したか?」
傷が痛み、声にならない声を発した。
伊津姫は、意識を取り戻したエンの顔を見つめ、思わず涙を零した。そして、強くエンの手を握って答えた。
「ええ・・貴方が庇ってくださったおかげで・・この通り・・本当にありがとう。・・」
「良かった。」
エンは、安堵の溜息をついて、静かに眼を閉じた。

砦の広場には、ハツリヒコとタン、そして大勢の男たちが集まっていた。
「ハツリヒコ様、大王は大人しくしているでしょうか?」
タンが訊いた。ハツリヒコは曇った顔で答える。
「いや、大王はきっと、カブラヒコの亡骸を足蹴にして、怒り狂い、軍を率いてこの地へ向かうにちがいない。そういう人なのだ。」
「ならば、また戦に?」
「おそらく、今度は避けられまい。」
「ならば、せめて、この砦にいる民は守らねばなりません。ここの守りを固めるのはもちろん、出来れば、この地まで兵を入らせないようにせねば。・・・そうです。川向の砦に兵を進めましょう。大王の軍が来ても、対岸で我らが戦えば、ここまで戦が及ぶこともないでしょう。」
「だが・・それでは、皆が命を落とすやも知れぬな。」
「あの砦は、ここと同じくらい高い城壁があります。そう容易く落ちる事などありません。下の砦に居る者たちをすぐにでも、八女へ行かせましょう。」
タンは、ハツリヒコの了解を得て、一気に、男たちを八女の砦に動かした。焼け落ちた館はすぐに建て直し、さらに、葦野に向かう道筋には、新たな砦を築き始めた。

蒲1.jpg

3-5-2 葦野包囲網 [アスカケ第3部遥かなる邪馬台国]

2. 葦野包囲網
布に包まれたカブラヒコの亡骸を背負って、将と数人の兵はようやく筑後川の畔にまで達していた。女山の砦から、見張り役で伴をした男たちも、少し遅れてやってきた。
「葦野には、この川を渡ればすぐです。」
川向には、葦野の里が見えた。大きな里である。大屋根を持つ館が幾つも見える。四方に見張りのための物見台も建てられている。
「では、まっすぐに行くが良い。よいな、ハツリヒコ様の言葉を大王に届けるのだぞ。」
将と数人の兵たちが、川を渡り、何とか向こう岸に達したのを見届けると、見張り役の男たちは、女山の砦に戻って行った。

葦野の里では、カブラヒコの亡骸を抱えた将の帰還で、皆、大騒ぎになっていた。
「何を騒いでおる?」
大王イツナヒコは、里の騒ぎを耳にして、宮殿の前に姿を見せた。
「大王様!カブラヒコ様が・・・。」
布に包まれたカブラヒコの亡骸は、死後随分時が経ち、異臭を放つほどになっていた。
「何ということか!筑紫野の王ともあろう者が・・このような死に様を曝し・・うう・・。」
イツナヒコは、息子であるカブラヒコの亡骸に近寄ろうともせず、顔を背けた。
「大王様。ハツリヒコ様より伝言を承って参りました。」
亡骸を運んできた将が大王の前に跪いて言った。
「聞く耳持たぬ。王を殺した事は重罪である。この筑紫野の敵。いや、九重の敵。全軍挙げて女山に向かう。女山の者は残らず殺してしまえ。女だろうが子どもだろうか、構わぬ。女山を死の里にしてしまうのだ。」
そう、号令した。
「お待ち下さい。大王様、お聞き下さい!」
将は、何とかハツリヒコの言葉を伝えようと大王の足元にまとわり着いた。
「ええい、うるさい。お前も、王を見殺しにしたのだ。こうしてくれる!」
大王は腰の剣を抜き、将の首を刎ねた。
「ふん、カブラヒコの亡骸と伴に、里の外に穴でも掘って埋めておけ。供養などいらぬわ。このばか者が!」
そう言い放つと、さっさと宮殿の中に入っていった。
カブラヒコから援軍要請を受けていた為、すでに大王の軍は出立の準備は出来ていた。
大王自身は、葦野の里に残り、大王の軍の大将には、キバという男が任命された。
キバは、那津の生まれだったが、若い頃、ハクタヒコとの争いに負け、国を出て放浪の末、イツナヒコの臣下となっていた。キバは、一際、体が大きく、数人掛りで引く「大弓」を一人で軽々と引くほどの豪腕であり、大王イツナヒコ直属の臣下として、絶えず大王を助けてきた。キバは、カブラヒコ王の裁量の無さを見抜き、いずれ、大王の亡き後には筑紫野の王になるという野心も抱いていた。カブラヒコ亡き今、大王の軍の大将となったことで事実上、次の王になれるという確信も持っていた。
キバは、宮殿の前の広場に、兵達を集めた。周囲の里から集められた男たちが、里にあるかぎりの剣や矛を持たされ、甲冑に身を包んでいた。ざっと千人近くいた。
「筑紫野の敵、ハツリヒコを討つ戦じゃ!皆の者、精一杯働くのだ!手柄を上げたものには、褒美も遣るぞ!さあ、出発じゃ!大門を開けよ!」
兵達は、剣や矛を高く掲げ、歓声を上げた。
大門を出ると、あちこちの里を追われたやさぐれ達が、褒美目当てに集まってきて、次々に隊列に加わった。筑後川の岸辺に着いた頃には、倍以上の軍勢となっていた。
その頃、那津一族や、小城一族が葦野へ近づき始めていた。
那津一族のハクタヒコは、那津から御笠川を上り、丘陵地を抜けて、葦野を目指した。
ハクタヒコが、兵を挙げたことは周囲の村々にもすぐに伝わり、イツナヒコの悪政に業を煮やした民も多数加わり、大きな軍となっていた。ハクタヒコは、葦野の里までほんの一日でたどり着ける、朝日山の麓に砦を築いた。
イクマヒコ率いる小城一族の軍は、南から葦野を目指していた。
小城一族は、さほど大きな軍ではない。真正面から戦いに挑んでも勝ち目はない。そこで、大王の軍が葦野の里を立つのをじっと待つことにした。主無き里であれば、容易く落とせる。中に入り込めれば、要塞のような里である、大王の軍が戻ってこようと簡単に負けるものではないと考えていた。イクマヒコは、葦野の里から程近い、日の隈山の中腹に、砦を作り、葦野の様子を伺っていた。
これで、東側に、ハクタヒコ率いる那津一族の軍、西側にはイクマヒコ率いる小城一族の軍が、葦野の里を挟み込む形となっていた。
さらに、タンが率いる軍が徐々に筑後川の対岸に近づきつつあった。
三方から、葦野の軍を取り囲んだ形となりつつあった。

この頃、筑後川の流れは、現在とは違い、大きく蛇行を繰り返し、川の周辺には幾つもの中州や葦の原が広がっていた。一旦、長雨となると、川は大きく流れを変えるため、せっかく作った農地も一気に流されてしまう有様であった。
カブラヒコが女山攻めの際に掛けた竹橋は先日の大水ですっかり流されてしまっていて、キバの軍は、浅瀬を探し、改めて竹橋を掛けざるを得なかった。
「キバ様、先ほど密使が戻りました。」
筑後川が越せず、陣の奥で苛立つキバの元に使者が現れた。
「葦野の里の東に砦が出来ておりました。どうやら、筑紫の山の民と思しき一軍です。また、西には、小城一族が日の隈山に砦を築きました。」
「我が援軍か?砦など作らずに、すぐに、ここへ来させよ。ハツリヒコを倒した者には、八女や女山の砦をくれてやる。急ぎ、我が軍と合流せよと伝えるのだ。」
密使はすぐに、朝日山と日の隈山へ向かった。
キバは、大王の命によって集まった援軍と思い込んでいた。そして、いつしか、大王に成り代わり、褒美の差配まで口にするようになっていた。
竹橋を掛ける作業は予想外に手間が掛かった。大水によって流れが変わり、深みが多く、またたくさんの支流に分かれていて、一つ川を越えてもまた深みがある、繰り返しであった。
「キバ様!大変です。」
「どうしたのだ?」
「朝日山の軍は、大王への反旗を翻した那の津一族の長、ハクタヒコ様が率いております。」
「何?ハクタヒコだと!」
若い頃、那の津でハクタヒコとの争いに敗れ、放浪の身となり辛酸を舐めたキバには、その名を聞くだけで虫唾が走った。
「女山攻めは後だ!朝日山へ向かう。憎き、ハクタヒコ。あいつだけはこの手で仕留めてやらねばなるまい!」
キバは、手にした杯を地面に叩きつけた。

筑後川1.jpg

3-5-3 カケルの帰還 [アスカケ第3部遥かなる邪馬台国]

3. カケルの帰還
アスカは、タツルたち伴に、矢部川を下った。アスカの「どこかの岸で動けなくなっている」という言葉だけが頼りだった。矢部川の左岸を河口まで下ってきたが、カケルを見つける事は出来なかった。
「筑紫野の方かも知れないな。よし、川を渡ろう。」
浅瀬を探し、対岸に渡った。海沿いに岸辺をゆっくりと進みながら、カケルの行方を捜した。
「あ・・あそこ・・。」
タツルの背に掴まり、馬上で揺られていたアスカが突然松原を指差した。前方に、小さな松原があり、小さな煙が立ち上っている。皆、ここで馬を降り、慎重に歩みを進めた。
松原の中に、落ちていた木々を集めて設えた掘立小屋のようなものがある。人一人、ようやく横になれるほどの小さなものだった。その前に、焚き火があった。火は小さくなりつつあった。周りには、野鳥を捕まえ食べたのか、食い散らしたようなものが散らかっていた。
「どうやら、誰かがいるようだ。・・カブラヒコの兵達かも知れぬ。油断するな。」
タツルはそう言うと、輿の剣に手を掛けて、ゆっくりと近づいていった。皆も、それに従った。
反対側から、男が二人歩いてくる。手には海で捕えたのか、魚を持っている。破れ果てた甲冑を身につけているが、剣は持っていない。兵というよりも漁師の様相だった。
タツルが草叢から飛び出し、剣を構えて、脅すように言った。
「お前たち、何者だ!」
男二人は突然目の前に剣を持った男が仁王立ちになっているのに驚き、魚を放り出して座り込んでしまった。
「命だけは取らないで下さい。」
男と二人は、地面に頭を押し当てて懇願するように言った。その様子を見て、タツルは剣を仕舞い、膝を着いて男たちに尋ねた。
「脅かして済まなかった。・・甲冑を身につけているのでカブラヒコの兵かと思ったのだ。我らは、人を探している。知っていたら教えてくれまいか。」
男二人は恐る恐る顔を上げた。そして、顔を見合わせて頷いた。
「もしや・・あのお方をお探しなのでは・・八女の戦場で・・川に流されて・・。」
そう言いながら、先ほどの小屋のようなところを指差した。
アスカは、その様子を見て、まっすぐに小屋に向かった。
小屋の中には、カケルが横になっていた。着衣は泥に塗れ、顔や腕にもたくさん傷があった。
「カケル様!」
アスカはそう叫ぶと、カケルの胸にすがって泣いた。
「どういうことだ?」
タツルが男たちに訊いた。男たちは、戦場での様子を話した。

八女の砦の外に、たくさんの兵が居たが、矢部川の氾濫で、皆、砦に入れず流されてしまった。この二人も同じように、流れに飲まれ流されたが、運よく、大木に掴まり生き延びていた。
だが、水はなかなか引かず、上流からどんどん流木がやって来て、二人の掴まっていた大木に引っ掛かり、終いには、二人とも流木の仲に挟まれ動けなくなってしまったのだった。これまでかと思ったところに、カケルが、矢を放ちながらやって来た。
カケルは、川辺で二人を見つけると、救い出そうとして、流木を一つ一つどけ始めたのだ。
まだまだ流れは強かった。一人がようやく体を抜け出せたところで、上流から、更に大きな流木が向かってきた。カケルは必死でもう一人の男の手を引き、体を抜いた時、大きな流木がカケルの体を直撃したのだ。そして、そのまま、流木と伴に川の流れに飲み込まれたのだった。
救われた二人は、必死に流木の流れていく方を目指して走った。時折、流木が回転すると、水の中からカケルが顔を出した。着衣のどこかが流木に引っ掛かっているらしく、どんどん流されていく。二人は、必死で流木を追い、海まで達したのだった。潮の加減か、流木は沖に出ず、岸辺を流れていき、この浜でようやく、カケルを救ったのだった。
「引き揚げた時には、ほとんど息もしてなかった。・・もう駄目かと思った時、突然、腰の剣が光ったと思うと、大きく息を吸い込んだんだ。あとは、見てのとおり。我らは何とか目を覚ましてもらいたいと介抱してきたが・・如何すれば良いか判らず・・」
「そうか・・よく判った。お前たちもよくカケル様を引き揚げてくれた。ありがとう。」
事情を聞いて、タツルは二人に礼を言った。
「いいえ、そんなこと。我らの命をお救い下すった方。見殺しにはできません。何とかお元気になっていただきたいんです。」
もう一人の男もそう言って、カケルが横たわる小屋を見た。タツルたちもじっと小屋を見た。

アスカは、カケルの胸に顔を埋めて泣いていた。かすかに息はしているようだが、顔は真っ白で、体は冷たくなっている。
「カケル様、アスカです。目を覚ましてください。」
アスカは必死で呼びかけた。すると、首飾りが柔らかな光を発し始めた。脇に置かれていたカケルの剣も呼応するように光り始めた。そして、その光は徐々に大きくなり、カケルの体を包み込む。更に、アスカの体も光に包まれ、小屋全体も光の中にすっぽりと入ってしまった。
カケルを見守ってきた男たちは、その様子に言葉も無く、ただ驚いて見つめていた。
タツルは、女山の砦で見た「アスカの奇跡」を思い出していた。再び、アスカが奇跡を起こそうとしている。タツルはじっと様子を見守った。

カケルは、はるか大空にぽっかり浮いている夢を見ていた。足元には九重の山々が見える。聞こえるはずも無いほど遠い地上から、誰か呼ぶ声がしている。その声は、母のような、懐かしい声だった。呼ぶ声を頼りに降りようとするが、降りられない。手足をばたつかせようとしても、手足が無い。いや、それどころか、体さえもなく、ただ意識だけが空に浮いているのだ。
「俺は死んだのか?」そう思ったがよく判らない。どうしてここにいるのかさえも思い出せなかった。そうやって、空をふわふわと飛んでいると、前方に眩い光が見えた。太陽のような、月のような、いや、劫火のような、何か判らないが怖くなかった。徐々に、その光は大きくなって、ふわふわと漂うカケルを包む。「なんて温かいんだ。」そう感じた。気付くと、先ほどまでなかった手足がある。指先に、何か感じた。そいつを捕まえようと強く握ると、温かい指が同じように握り返してきて、はっと気がついた。

「生きてる。」
カケルは、眼を見開き、そう発した。
「カケル様、気が付かれましたか?」
そこには、柔らかな笑みを浮かべたアスカが居た。
「生きてるんだな、俺は。」
二言目を聞いて、アスカは急に全身の力が抜けた。そしてそのまま、カケルの胸にもたれた。
カケルは、そっと手を伸ばし、アスカの髪を撫でながら、言った。
「アスカ、ありがとう。呼び戻してくれて。」

黄色い光.jpg

3-5-4 筑後川 [アスカケ第3部遥かなる邪馬台国]

4. 筑後川
カケルが見つかった知らせは、タツルと供に馬でやってきた、レンによって、女山の砦に知らされ、ハツリヒコも伊津姫も安堵し、里のものも皆、喜んだ。
タツルは、カケルを、女山の砦に連れ帰ることにしていたが、思ったより、カケルの怪我は重く、遠くまで連れ帰るのは難しかった。
「ここでは、雨露さえしのげない。どこか、カケル様を養生いただける場所は無いものか。」
タツルたちは、周囲を回ってみたが、村どころか、小さな小屋さえ無かった。
途方に暮れていたところに、レンが、女山から八女を経由して、戻ってきた。
「ここから、僅かのところに、タン様が小さな砦を築かれました。そこへ参りましょう。」
すぐに、カケルを砦に移す事になった。川で救われた男二人が、海辺から板を拾ってきて、カケルを乗せて運んだ。アスカもずっと傍で砦まで歩いて向かった。

小高い丘を開き、周囲に堀も巡らせた砦の中には、小さな館も作られ始めていた。
「タン様、カケル様をお連れしました。」
レンガ先導して砦に入った。タンは、慌てて飛び出してきて、カケルの様子を伺った。
「もう随分良くなりました。心配を掛けました。」
カケルは精一杯の笑顔を返した。
「いえ・・そんな事・・・。我らも、もう少しカケル様の行方に気をつけていれば・・あの時は、伊津姫様をお迎えする事ばかりに気を取られていて・・。」
「それで良いのです。伊津姫は特別なお方ですから。。それで、伊津姫様はお元気でしょうか?」
「ええ・・ですが・・」
タンは口ごもった。怪我をしているカケルに、エンの事を話すべきかどうか迷った。
「何かあったのですか?」
タツルも、アスカと供に女山の砦を出た後の様子が気になっていた。
「どうした?何かあったのか?」
タンは決心したように、目山の砦で起きた一部始終を話し始めた。
「それで、エン様はどうされた?」
「伊津姫様が必死に看病され、どうにかお命は継りました。ですが、かなりの深手で、しばらくは起きることさえ叶わぬでしょう。」
「そうか・・。」

数日して、カケルは歩けるほどに回復し、アスカに支えられながら、砦の様子を見て回った。
「ここに、物見台を作りましょう。ここからは、筑後の川までそう遠くありません。筑紫野の大王の軍が川を渡るのを見張るには好都合です。・・それと、狼煙台もあると良い。八女や女山の砦にも、狼煙で知らせることもできるでしょう。」
カケルの提案ですぐに物見台と狼煙台が作られた。

カケルとアスカは、出来たばかりの物見台に上がった。遠く、筑後の川が見える。
「あの先に、葦野の里があるのですね。」
「ああ、そのようだ。・・ん?あれは?」
カケルは、川向こうに動くものを捉えた。目を凝らし、じっと探っていた。アスカもその方角をじっと見つめた。
視線の先で、白い煙が幾筋か立ち上り始めた。葦の原の中で、人影が動くのも見えた。そして、その数は徐々に増えていく。その内に、河原に男たちが顔を見せ始めた。物見台から見える範囲の河原のあちこちで、川の様子を探っているようだった。男たちの中には、いかめしい甲冑を身に付けたものも居た。大槍を構える者も居て、明らかに、大王の兵だと思われた。
カケルはすぐにタンに言って、狼煙を上げさせた。いくつかの小さな砦を経由して、八女、そして女山の砦に、大王の軍が近づいていることが知らされた。
「あれだけの軍勢に攻められればひとたまりもない。守りを固めるか、八女まで撤退するか。」
タンは迷っていた。八女や女山からの兵がここへ到着するまでは待てない。対岸の様子を探るため、何人もの男を走らせた。
「橋が流され、すぐには川を越えられない様子でした。今しばらく時間が掛かるでしょう。」
川辺から戻った男が伝えた。
「橋を掛けているという事は、いずれここへ迫るに違いない。」
タンは、覚悟を決めた。撤退しても、いずれ八女や女山まで大王の軍はやってくる。そこで大戦となれば、里の者にも命を落とす者が出るに違いない。ならば、ここで少しでも勢力を削げればよい。タンはここで戦う覚悟を決めた。

「タン様、大王の軍が動き始めました。どうやら、北へ向かうようです。」
物見台からの知らせを聞いて、タンがカケルやタツルに伝えた。
「どうしたのでしょう?」
タツルがカケルに訊く。
「葦野の里で何か起きたか・・いずれにせよ、今しばらくは様子を伺うほか無さそうです。」
「葦野の様子を探ってまいりましょう。」
タンはそう言って、数人の男を選んで、筑後川を渡らせた。タツルは、レンに命じて、ここの様子を八女や女山に伝えるよう、馬を走らせた。

朝日山に向かったキバの軍は、ハクタヒコの砦の望める場所に着いた。そして、砦にいる軍勢の大きさに驚いた。
那津一族の里は、博多湾に面した小さな漁村が集まっているに過ぎない。その全員を集めたところで、これほどの軍勢にはならないはずだった。
「あれほどの軍勢・・何故だ?」
キバは、朝日山を見上げて言った。脇に居た密使が答える。
「筑紫の山々の民も、多数加わったようです。このまま、攻め込んでも容易ではありません。」
「何か策はないか?」
「小城一族がどう動くかによります。我らに加勢してくれれば、あるいは・・。」
「小城一族への使者はどうした?」
「それが・・行ったきり戻りません。」
「小城一族も、歯向かうつもりか・・・。」
朝日山の砦では、大王の軍が向かってきている事はすでに承知していた。ハクタヒコは、戦に備え、兵たちを朝日山の周囲にも動かしていた。キバたちの軍が着いたところは、その兵達が潜む真っ只中であった。ちょっとしたきっかけで戦が始まる、緊張した状況になっていた。

すでに、夏も終わりに近づいた。それぞれが、それぞれの思惑の中で、じっと息を殺して様子を伺う日々が続いていた。

朝日山2.jpg

3-5-5 バン現る [アスカケ第3部遥かなる邪馬台国]

5. バン現る
「伊津姫様、大王の軍が動き始めたようです。私は、これから筑後川へ向かいます。」
ハツリヒコは、館にいる伊津姫に挨拶に来た。館には、養生をしているエンも居た。
エンは、傷も随分癒えて、食事も取れるようになり、なんとか動けるまで回復していた。
「葦野との戦ですか?」
伊津姫は心配そうに訊いた。
「ええ・・カケル様も回復されたようで、八女からも多くの兵が川沿いの砦へ向かいました。我らも合流し、決着をつける時が参りました。」
「多くの命が失われるのでしょうか・・。」
「そうならぬよう、兵を増やしておるのです。使いの話では、葦野を取り巻くように、那津一族、小城一族も陣を張っているようです。出来れば、戦にならず、大王のみ亡き者にできればよいのですが・・。」
ハツリヒコはそう言いながらも、父である大王が易々と殺されはしないだろうと思っていた。それを聞いて、エンが言う。
「大王亡き後の事も考えなくてはなりません。小城一族、那津一族がどういうつもりで葦野を包囲しているのか・・筑紫野を支配しようと企むなら、大王を倒しても、戦は続きます。筑紫野だけでなく、九重の国々にも戦が広がるやも知れません。そうなれば、民は苦しむ事になります。・・そうならぬように、手を尽くして下さい。」
エンの心配は、ハツリヒコも重々承知していた。これまで抑圧されていた者たちが蜂起し、葦野を包囲している。このままでは、誰が筑紫野を治めても、戦の火種が残るだろう。
「カケルとよく相談してください。カケルなら、何かよい方法を見つけてくれるはずです。」
伊津姫は、ハツリヒコの手を取り、強く願った。
「わかりました。九重の民の為に、できることを精一杯やりましょう。」
ハツリヒコは、わずかな兵を率いて、矢部川を渡り、カケルの待つ砦を目指して旅立った。

ハツリヒコが女山を出発して、入れ違うように、矢部川の河口に大船が現れた。
バンが、隼人一族のムサシたちと、女山の砦に現れたのだ。
「遅くなりました。」
バンは、伊津姫のいる館の外で、跪いて挨拶をした。
エンは、館を出て、出迎えた。
伊津姫は、女山の砦に来た時、エンから、バンの事も聞いていた。改心し、カケルやエンを助け、伊津姫を救う為に命を掛けているとは聞いていても、やはり、クンマの里で初めて出会った時の印象が強く、伊津姫は俄かには信じられず、館を出て迎える事ができなかった。
「よく来てくれた。そちらが、ムサシ様か?」
エンが、出迎えの挨拶をした。バンの隣には、真っ黒に日焼けした豪腕な男が控えていた。
「はい、隼人一族のムサシと申します。・・バン様から話を聞き、早速、ここへ向かおうとしましたが・・その前に、イサの里を救わねばと・・そちらで時がかかってしまいました。」
「イサの里でないが起きた?」
「長雨が続き、島原一帯も大水で、小さな村は流され、イサの里の近隣の者は、皆、里へ逃げ込んでおりました。我らも、その手伝いをしておりました。」
「何ということか・・ここも大水で苦労したが・・そうだったのか。」
「伊津姫様を無事お救い出来たとお聞きしましたが・・。」
バンが訊いた。エンは、館の中を見ながら言った。
「ああ、ご無事にここへお連れ出来ました。」
「良かった。・・・その傷はその時のものなのですか?」
「いや・・その後、カブラヒコがここへ来て姫を切ろうとして受けた傷だ。」
「・・もう少し早く着いて居れば・・その傷を私が受けたものを・・。」
バンは、悔しげに言った。姫を守る為なら命を投げ出す覚悟であり、それが唯一、自らが犯した罪を償える道だと信じていたのをエンも知っていた。
伊津姫は、エンとバン、ムサシの会話を壁越しに聞いていたが、戸を開き顔を見せた。
「こ・・これは・・伊津姫様!」
バンは、伊津姫の姿を見るなり、地面に額を擦り付けて平伏した。自らが犯した罪の重さを知り、償いのために必死で今日まで生きてきた。伊津姫の無事の姿を知り、安堵感と罪悪感とない交ぜになり、バンは嗚咽を漏らしていた。
「バン様、もう良いでしょう。貴方の活躍は、エンからも聞き及んでおります。ラシャ王に騙された経緯も知っております。こうして、私も無事に解放されました。もう、良いのです。」
伊津姫の言葉は、バンの胸に浸みた。バンは、その場で大声を上げて泣いた。

「バン様、大船はどこに?」
「矢部川の下に着けてあります。どうされたのですか?」
エンは、伊津姫の顔色を伺うように、やや小声で言った。
「私を、筑後川まで連れて行ってもらいたいのです。」
随分、傷が癒えているとはいえ、とても戦場に立てるほどではない。そのことはエンも承知していたが、今にも戦が起きようとしている時に、一人、ここでのんびりしているわけにはいかない。近くに行き、何か出来る事を見つけたいと考えていた。
「エン!そんな!許しません。もっと体が癒えてからでも良いでしょう。」
伊津姫は、強く止めた。しかし、エンは聞き入れようとしない。一緒にやって来たムサシがその様子を見て言った。
「我らは、ここに着いたばかりです。舟もあちこち傷みが出ています。修理もせねばなりません。漕ぎ手も休ませて遣りたい。すぐには出発できそうにありませんから、今しばらく、エン様は養生されたほうが良いでしょう。・・七日ほどは動けませんから。」
エンも伊津姫もムサシの言葉でようやく納得した。

バンとムサシは、翌日から、船の修理や新たに食糧などを積み込み、筑後への出港準備を始めた。その最中にも、筑後川の畔の砦から、幾度か知らせが来て、葦野の里の周辺の様子も伝えられた。
いよいよ出航の準備も整った。エンの傷は随分癒え、日常の暮らしには差し支えないほどに回復した。結局、エンはバンたちと伴に、筑紫野へ向かうことになった。ただし、伊津姫も伴うことが条件だった。秋風が吹き始めた頃、矢部川の畔から船団が出発する。陸路で、八女や筑後川の畔の砦にも、大船出発の知らせは届けられた。
その頃には、カケルとタンが率いる軍勢も、筑後川に築いた砦を出て、川を渡り、葦野の里が見える小さな丘に新たな砦を築いていた。

数日のうちに、葦野の周辺には、九重の男たちが集結し、大きな戦が起きようとしていた。

古代船.jpg

3-5-6 戦勃発 [アスカケ第3部遥かなる邪馬台国]

6. 大戦勃発
それは、あっけない形で始まった。
朝日山の麓に陣を張ったキバの軍勢には、褒美目当ての荒くれ男たちも多数加わっていて、敵を目の前に動こうとしない大将に苛立ち、仲間内で諍いが起こり、統制の利かない状態になっていた。
数人の男が、軍から離れ、朝日山の砦の前まで近づき、面白半分に矢を射たのである。
山の中腹にあった砦には、付近に住む民も戦を怖れて、退避していた。男達が見当はずれに射た矢が、運悪く、防護柵を越え、中で遊ぶ里の子どもに当たってしまったのだ。力の無い矢ではあったが、幼子の命を奪うには充分であった。
すぐに、ハクタヒコは、全軍に命令を下した。
「尊い子どもの命が奪われた。もはや、容赦など要らぬ。全軍で、大王の軍を殲滅すべし。」
山の砦には、戦の合図を知らせる鉦が鳴り渡った。
砦の門が開かれ、砦の中から多数の兵が繰り出してくる。キバの軍を遠巻きにするように控えていた兵達も一斉に動き始めた。
「どうしたのだ?」
草原に、わずかな堀と柵を立てただけの陣にいたキバは、山の砦の異変に気付く。
「ハクタヒコの軍が攻めて参りました。」
キバも、すぐに号令を掛けた。
「大王に歯向かう輩は、天に逆らう者である。一切の容赦は要らぬ。繰り出せ!」
朝日山の麓に広がる草原に、キバとハクタヒコの軍が戦を始めた。戦の序盤には、数で勝るハクタヒコの軍が、キバの陣を取り囲み優勢となっていた。しかし、甲冑を身に着け、鉄剣を持ったキバの兵は、無防備に近いハクタヒコの兵を次々になぎ倒し、終には、砦の足元にまで迫ったのだった。ハクタヒコの兵たちは、傷つき、次々に砦の中へ逃げ込んだ。中盤に入り、ハクタヒコの軍は、砦で防衛する一方となってしまった。
「ハクタヒコ様、我が軍は劣勢です。敵いませぬ。」
草原の戦いで肩口を切られ、命からがらに逃げ帰った兵の一人がそう告げた。
「この砦は、そう簡単に落ちはしない。しっかり守りを固めるのだ。」
ハクタヒコは、砦の中を歩き回り、兵達に檄を飛ばした。そして、砦の南端にある物見台に登り、下の様子を探った。丁度、キバが兵達の後ろに控えているのが見えた。
「あやつは、キバ。ここに居たか。・・良かろう、決着の時だ。弓を持て!」
ハクタヒコは、キバ同様、弓の名手である。那津での、互いに弓の腕を競った。ハクタヒコの弓も、キバ同様、数人掛りで引く大弓だった。物見台から、下にいるキバの場所までなら、充分届く距離である。
ハクタヒコは、大弓を構えようとした時だった。下から、矢が飛び込み、弓を持ってきた男の体を貫いた。
「何?キバの奴、ここが見えるか?」
そう言い放つと、ハクタヒコが弓を引いた。狙うはキバ一人。全身の力を込め、弓を絞り、一気に矢を放った。木々の間を抜け、矢はまっすぐにキバ目掛けて飛んでいく。
「うぐっ!」
キバが、その場に蹲った。ハクタヒコの放った矢は、わずかに逸れたのか、キバの足の甲を貫き、地面に突き立った。
「キバ様!」
周りにいた男たちが庇うように集まった。キバは足の甲を射抜かれ、動けなくなってしまった。
砦の下に迫ってきた兵に向けて、次々に矢が放たれる。しかし分厚い甲冑に阻まれ、致命傷を負わせることはできない。次々に、兵たちが柵に登りはじめた。
「よし、石を落とせ!」
ハクタヒコの合図で、柵の脇に積み上げられた石を次々に投げ落とし始めた。これにはさすがの兵達も怯んだ。
「よし、次は丸太だ!」
山で切り倒した大木の枝を払い、一定の長さに切り分けた丸太が、柵の上から投げ落とされる。斜面を登ってきた兵達は、大木の丸太に押しつぶされたり、足を取られたりして、丸太とともに、斜面を転がり落ちていく。
一旦は、砦の際まで迫った兵達も、結局、もとの草原にまで押し戻された。
「大将が怪我された。一時、退却だ!」
キバの軍は、その号令とともに、葦野の里へ向けて一気に後退していった。足を射抜かれたキバは、兵達に抱えられて、葦野へ戻る事になった。
キバの軍は、半数以下まで減っていた。怪我をした者、命を落とした者、劣勢と見て早々に姿を晦ました者、褒美目当てだった男たちは、負け戦とわかり、すでに居なくなっていた。
「ハクタヒコ様!大王の軍は退いてゆきました。我らが勝利です。」
山の砦では、勝利の雄叫びがあちこちで上がっていた。
「すぐに、葦野へ攻め入りましょう。時をおけば、また勢力をつけるでしょう。今なら、我らにも勝機があります。」
「まあ、焦るな。日が暮れては動けまい。・・明日、夜明けとともに葦野へ攻め入ろう。それまで、身を休めるよう皆に伝えてくれ。」
牙の軍が退いた後、ハクタヒコの兵たちは、敵味方なく、亡骸を集め始めた。そして、甲冑や剣を取り、丁重に供養した。

キバは、数人の男に、担がれたまま、敗走した。
「キバ様!葦野の里へ戻りましょう。このままではお体に障ります。」
キバは何も答えられなかった。
山の民の寄せ集めの軍にあっさりと負け、葦野へ戻れば、きっと大王の逆鱗に触れ、ただでは済まされぬだろう。カブラヒコのように、処分され穴に放り込まれてしまうに違いない。
「下ろせ。」
キバは、痛む足を押さえながら、地面に立った。そして皆の顔を見渡して言った。
「お前たちは、葦野へ戻り大王を支えよ。・・そして、キバは戦の最中、矢に射抜かれ死んだと伝えるのだ。さすれば、大王様はお前たちまで咎めはせぬだろう。」
「キバ様はいかがされるのですか?」
「元々、放浪の身。大王様に拾われたに過ぎぬのだ。このまま、姿を消す。許せ。」
キバはそう言うと、足を引きずりながら山道に入ろうとした。見かねた男が一人、付き添うようにキバの後を追った。事実上、大王の軍はここで消滅した。
生き残った者たちは、大半が葦野の里に戻ったが、大王の怒りは収まらなかった。戻った将の何人かは、その場で首を刎ねられた。
戻った兵や里の者たちも、早々に大王を見限り、闇夜に紛れて葦野の里を抜け出し始めたのだった。

山砦.jpg

3-5-7 広がる戦火 [アスカケ第3部遥かなる邪馬台国]

7. 広がる戦火
小城一族の日の隈山の砦には、大王の軍が那津一族に敗れたという知らせが、既に届いていた。
「意外と早く終わったようだな。」
イクマヒコは、砦の真ん中に焚かれた火の前に座って、使いの報告を聞いていた。
「明日には、ハクタヒコの軍が葦野を攻めるようです。」
イクマヒコはふっと笑みを浮かべて言った。
「ハクタヒコは相当血の気が多いようだな。・・葦野の里を一気に攻め落とそうとは・・だが、そう上手くは行かぬだろう。何しろ、あの里は・・・。」
そう呟くように言った後で、すっと立ち上がった。
「我らも支度をしよう。明日朝、ここを出て、葦野の里へ向かう。攻めるのではない、ハクタヒコの様子を伺ってみよう。どう攻めるか、我らの出番もあるやも知れぬからな。」

カケル達の居るのは、葦野の里が見える小さな丘の上に築いた砦だった。
北西の朝日山での戦の様子は、大体掴めていたが、タンとカケルは、ハツリヒコの到着までこれ以上は、動かない事に決めていた。葦野の大王は、ハツリヒコの父であり、筑紫野を治める役割は、ハツリヒコをおいて他にない。この大戦の行方の先は、ハツリヒコ自身がどう考えるかが大事だと決めていたのだった。

翌朝、北のハクタヒコと西の小城一族が動き始めた。
ハツリヒコの軍は、鉦を打ち鳴らし、大声を上げながら、物々しい雰囲気で、葦野に近づいた。
カケルとタンが居る砦に気付いた者もいたようだが、小さくみすぼらしい砦など目もくれず、葦野をまっすぐ目指して通り過ぎていった。
昼には、葦野の里を南側から取り囲むように、ハクタヒコの軍が広がった。しかし、誰一人、葦野の里を攻める事ができなかった。
葦野の里は、王の宮殿がある大きな里である。高い塀はもちろん、その周囲には深い堀が三重に作られており、満々と水を湛えている。里への出入りには、丸太橋が掛けられていたが、昨夜のうちに全て取り外されていた。里を攻める為には、堀を渡らねばならない。矢を使ったところで到底届く距離ではなかった。王を守る為の要塞となっていたのだった。

「どうしたことか。」
取り巻いたハクタヒコの軍は手をこまねいているだけであった。
里の中には、大王が高い物見台から外の様子を見ていた。
「愚か者が!野戦で勝利したからといって、この里を落とせる等見当違いじゃ。目に物を見せてやろう。さあ、引き出せ!」
ハクタヒコの軍が外堀の周りにいるのを確認すると、大王は、宮殿の床下に保管してあった大きな武具を引き出させた。
その武具は、大きな台座に乗っていて、弓を更に大きくした形をしていた。矢も人の背丈ほど長くて太い。
「これは、アナトの国より持ち込まれたもの。名を弩(ド)と言うのだ。邪馬台国を攻め滅ぼした先人からのものである。さあ、構えよ。」
引き出された弩は、物見台の脇に置かれ、前部を持ち上げられた。二人掛りで、取っ手を回すとゆっくりと弦が引かれ、弓形がぎりぎりと撓り音を立てる。きっちり巻き上げると、そこへ先ほどの大矢を置いた。
「よし、切れ!」
引き絞られた弦に繋がる荒縄を切ると、バンという轟音とともに、大矢が打ち出された。ビュンという風切音を残して、大矢が飛んでいく。一気に、三重の堀を超え、ハクタヒコの軍の中で打ち込まれた。まさか、矢が飛んでくる等とは考えていなかった処に大矢が打ち込まれ、一本の矢で十人ほどの兵が倒れた。ハクタヒコの兵たちは何が起きたのかわからず、矢の刺さった辺りでは騒ぎが起きた。
「何事だ!」
「矢が飛んでまいり、多数が倒れました。」
そうしている内に、再び風切音とともに大矢が飛んできて、再び多くの者が傷つき倒れた。
「下がれ!下がるのだ!」
ハクタヒコは、兵に命じた。堀近くに居た兵は一気に下がろうとした。だが、後ろの兵たちは様子が判らず、まごまごとしている。
「よし、ハクタヒコの兵たちは慌てておる。さあ、次は火矢を放て!」
物見台から、外の様子を見ながら、大王はほくそ笑んだ。
ハクタヒコの兵たちがまごつく間に、大きな松明のような火矢が飛んできた。
火矢は、兵達の上を超え、後ろの草叢に刺さり、秋に入り乾燥した草葉に一気に燃え移った。
炎は、低い草から高い草へ燃え移る。次第に、ハクタヒコの兵達の周りは火の海になった。燃え上がる炎と煙で、兵達の誰もが、逃げ道を見失った。

「カケル様、先の草原が燃えております。」
砦の物見台から見張り役が報告した。カケルはすぐに物見台に上がった。葦野の里の前に広がる草原のあちこちで煙が立ち上り、炎が舞い上がるのも確認できた。
タンもすぐにやって来て、様子を伺った。
「このままでは、ここも火に巻かれる。」
「砦の周りの草を刈りましょう。火の道を切れば良いのです。身の丈の程の幅で草を刈り取れば、火は燃え移りません。さあ、急いで。」
カケルは、幼い時、教わった火防ぎの知恵を思い出した。砦に居た者たちがすぐにとりでの回りの草を刈り始めた。
「大王が火矢を使ったのでしょう。・・那津一族の皆様はご無事か・・。」
再び、物見台から燃え広がる草原を見ながら、カケルが言う。

どうにか、火の回りより早く逃げ出した者が、カケル達の砦近くまで逃げ延びてきた。皆、鼻も口も真っ黒に煤汚れており、中には、足に火傷を負った者も居る。カケルたちは、すぐに砦に入れて手当てをした。タンは男たちを使って、火の回っていない場所から、草叢に呼びかけさせた。
「こっちだ、こっちへ来い!」
その声が届いた者たちは次々に、草叢から転げ出てくる。
燃え広がる勢いが徐々に小さくなってきた頃、ハクタヒコも数名の伴とともに、カケルの居る砦前に姿を見せた。どうやら、両足に火傷を負ったようで、両脇から抱えられている。
「ハクタヒコ様!」
砦に居た、ハクタヒコの兵が駆け寄り、涙を零した。

野火A.jpg

3-5-8 相談 [アスカケ第3部遥かなる邪馬台国]

8.相談
狭い砦の中には、ハクタヒコを囲み、身を寄せ合うように、筑紫の山の民が集まっていた。
「皆、大丈夫か・・。」
ハクタヒコは、皆を気遣う言葉を発したが、ハクタヒコ自身が一番の重症のようだった。
砦の中では、アスカが水瓶と薬草を持って、傷を負った人の手当に回っていた。野火が広がったのを知り、すぐに、砦の周囲で薬草になる物を探していた。ヨモギとユキノシタを少し見つけ、叩き潰したものを作った。予想通り、砦には多数、火傷をした者が担ぎ込まれ、アスカは一人ひとりに薬草の汁を塗って歩いていた。
「あれは何方だ?」
ハクタヒコがアスカを見つけて近くに居る者に訊いた。
「アスカ様と申されるようです。火傷の痕に薬を塗ってくださっています。」
「一体、ここは誰の砦なのだ?」
「・・確か、タン様と言われるお方が我らをここに入れてくださいました。・・それと、カケル様と言うお方も・・火を防ぐ為の手立てもされたようです。」
「大王の軍ではないのだな?」
「はい、そのようです。どうやら、女山辺りから来られたようですが・・・。」
そう話しているうちに、アスカがハクタヒコのところへ来た。アスカは何も言わず、頭を下げ、ハクタヒコの火傷の具合を見ながら、薬草の汁を優しく塗った。傷口に薬草の汁を塗ると激しい痛みが走るものだが、アスカの手で塗られると、痛みも徐々に随分と引き、楽になった。
「済まない・・手当てをしてもらうとは・・アスカ様と申されるようだが・・私はハクタヒコ。那津の長だった者だ。・・済まないが、この砦の主に挨拶したい。呼んで来てもらえぬか?」
アスカはこくりと頭を下げ、その場を離れた。程なくして、カケルとタンがやって来た。
「お加減はいかがですか?ハクタヒコ様。」
タンが訊いた。
「貴方がここの主ですか?」
カケルとタンが顔を見合した。
「・・いや・・主というのはどうでしょう。我らは皆自分の意思で動いております。誰かに指図されたわけでは在りませんし・・皆がそれぞれに役を持っておりますから・・まあ、もし、我らが頼りにしているというのが主とすれば、このカケル様でしょう。」
タンが少し回りくどい言い方をした。
「タン様、逸れは違うでしょう。・・ここの男たちを束ねているのはタン様ですから。」
ハクタヒコは二人の会話が少しわからない様子で、二人を見ている。
「ああ。すみません。まあ、どちらでも良いでしょう。私は、カケル。高千穂の峰の麓、ナレの村の生まれです。アスカケの途中の身。今は、筑紫野の国に安寧が訪れるように働いて居るつもりです。」
「高千穂?ナレ?・・・ならば、ヒムカの賢者、カケル様・・ですか?」
「ですから・・賢者ではありません。ただ、アスカケの身です。自ら生きる意味を探している途中です。・・それより、お加減はいかがですか?アスカの薬は効いていますか?」
ハクタヒコは、遠くヒムカの国の奇跡を、風の頼りに聞いてはいたが、作り話だろうと思っていた。まさか本当にカケルという賢者が居たと知り、驚いていた。
「ええ・・もうすっかり傷みも無くなり・・いや・・本当に・・これは驚いた。あれほどの火傷がもうすっかり消えている。」
「良かった。随分、良くなられたようだ。・・アスカは、私の伴。ヒムカの国より伴に参りました。お役に立ててよかった。」
「しかし、大王は酷い事をする。里の周りを火で包むなど、正気の沙汰ではない。もはや、民の事など考えておらぬようだ。」
タンが、まだ燻り煙を上げる草原の向こうに見える葦野の里を睨みつけながら言った。
「いや・・我らも早計だった。キバの軍を破り、今なら容易く葦野を落とせると過信した。・・そのせいで、多くの民を死なせてしまいました。」
ハクタヒコは、焼け野原を見つめて、わが身を憂いた。
ところどころ燻っている場所はあるものの、火も落ち着いてきた。タンは、仲間たちに言って、命を落とした者や怪我をして動けなくなっている者は居ないか、焼け野原を探させた。
しばらくすると、多くの亡骸が砦の近くに運ばれてきた。そして、皆で、協力して、小さな穴をたくさん掘って、懇ろに弔ってやった。
日暮れが来た。アスカは一人、亡骸を埋めた処に跪き、周囲で摘んできた花を手向けながら、涙を流していた。
翌日には、女山からハツリヒコが兵を率いて、砦に到着した。
ハクタヒコは、女山の主ハツリヒコの名を聞き、耳を疑った。大王が国を乱すものと決め、村々から征伐の兵を出すよう命令を下していたのを知っていたからだった。
「大王は、九重全てを手中にせんが為、そのような命令を発したのです。私は、女山で静かに暮らしていたかった。・・しかし、カブラヒコが兵を率いて我が地に参りました。ここにいる方々は、その時、御尽力いただいた方たちなのです。いわば、我が里の恩人。・・大王イツナヒコは邪な考えに捉われ、もはや王の資格などありません。そう決意し、ここへ参りました。」
小さな砦の広場に集まり、皆、カケルを囲むようにして座り、これからの事を相談した。
「あそこを攻めるのは容易ではありません。」
ハクタヒコは、葦野の様子を皆に話して聞かせた。それを聞いて、ハツリヒコが言う。
「幼き頃、あそこに居ました。大王は、弩という武具を持っています。大矢を飛ばすものです。」
「あの威力は怖ろしい。一つの矢で数人・・いや数十人が命を落としました。」
ハクタヒコが続ける。
「たとえ、大矢を凌いだとしても、深い堀が待ち構えています。水を満々と湛え、底すら見えなかった。渡るのは容易ではありません。」
タンが痺れを切らしたように言った。
「では、攻め手が無いというのか?砦の中に居る兵の数は僅かなのだろう?」
「タン、そんなに焦らずとも・・きっと手はある。」
タツルは、そう言ったものの、良い考えなど出るはずもなく、皆、沈黙した。
そこへ知らせが来た。
「西の日の隈山から使者が来られました。」
住人ほどの屈強な男達が砦の前に立っていた。
「あれは・・イクマヒコ?・・小城のイクマヒコでは無いか!」
ハツリヒコが砦の門から、男たちを迎えに出た。砦のまで、ハツリヒコとイクマヒコはがっちりと手を組んで挨拶をした。
「ハツリヒコ、何故、ここに?」
「それはこちらの台詞だ、何故小城一族がここへ?まあ、良い。中へ入れ。皆に紹介しよう。」

焼け野原2.jpg

3-5-9 カケルの迷い [アスカケ第3部遥かなる邪馬台国]

9.カケルの迷い
「小城一族のイクマヒコ様です。」
車座に座った男たちの中に、イクマヒコも入った。皆、それぞれに自己紹介をした。
「那津一族が東から葦野を攻めたと知り、我らは西から攻めようと近づいたのだが・・堀に阻まれてしまって。・・一旦、南へ出たところで、あの炎を見ました。こちらの様子はどうなっているか気になって・・それで、この砦を見つけた次第です。しかし、ここにハツリヒコ様がいるとは・・カブラヒコを倒したというのはまことの話ですか。」
ハツリヒコは、少し悲しげな表情を浮かべて頷いた。
「今しがた、葦野の攻め手を皆で思案していたところです。」
タンが口を開いた。
「ハツリヒコ様も、私も、幼き頃、あの里に居りましたが、とにかく広く大きく、宮殿も迷路のごとく作られていた。高い石組みの塀。深い堀。入り込むのは到底無理でしょう。・・私も、西側なら手薄かと考えておりましたが・・昔よりさらに大きな堀が作られ、近寄る事もできませんでした。」
イクマヒコは嘆くように応えた。
カケルはじっと、考えていた。外からの攻撃に対して必要以上の守りの仕掛け。すでに、兵の大半を失っているはずの大王。おそらく、あの中にじっと篭り、一歩も出てくる事は無いだろう。どうしたものか。
「しかし・・あの弩という武具は怖ろしい・・。」
ハクタヒコが呟いた。それを聞いて、イクマヒコが訊いた。
「弩を使ったのですか?」
「ええ・・大矢に火をつけ放ち、この辺りを火の海に・・多くの命を失いました。」
ハクタヒコが悲しげな表情で応えた。
「あの矢を止める手立てはないものか・・・。」
タンがぼそっと呟いた。それを聞いてタツルが閃くように言った。
「そうだ!盾・・あの矢を防ぐほどの盾を作ろう。。大矢に負けぬほどの盾・・丸太を重ね、高い盾を作り、少しずつ前に押し出していきましょう。」
「良い考えだが・・・その先はどうしますか?深い壕があります。」
イクマヒコが言った。ハクタヒコが、応えるように言った。
「壕には水が張られています。底さえわからない・・」
「水か・・・。」
タンが吐き出すように言う。
「壕には、朝日山からの小川の水が引かれているはずです。その口を閉じてやればよい。」
ハツリヒコが言う。イクマヒコも、
「そうだ。朝日山の麓から水を引き、壕に貯めているはずだ。水口を閉じ、吐き出させれば、壕は我らを隠してくれる場所になる。」
「丸太を使うなら、朝日山の砦に行けば良い。キバとの戦で集めた丸太がある。それを使いましょう。」
「おお。それは、好都合だ。我ら小城一族は、反対側から攻め込みましょう。壕の水を吐き出させる水路を作ります。・三日もあればできるでしょう。」
イクマヒコもそう応えた。カケルは、皆の話をじっと聞いていた。
「どうしました?カケル様。何か不安があるようですね。」
タツルがカケルの様子に気付いて尋ねる。
「いや・・。」
楯を作り、堀を空にして一気に攻め入る策にまとまった。
皆が寝静まった砦の中で、カケルは焚き火の前に座り、じっと火を見つめていた。
「眠れないのですか?」
アスカが、カケルの隣に座り、薪を放り込んだ。
「ああ・・」
「まだまだ、多くの人の命が奪われるのでしょうか?」
アスカは、火の加減を見ながら、小さく呟くようにカケルに訊いた。カケルは何も言わず、じっと火を見つめていた。
「葦野の里には、多くの民も暮らしているのでしょうね。皆、どうされているのでしょう。」
「ああ・・里の皆が心配だな・・・。」

翌朝、イクマヒコとハクタヒコは、それぞれの砦に一旦引き揚げる事になった。怪我をして動けない者も多く、ハクタヒコには、タツルが男たちを連れて同行することにした。
カケルは、出発しようとするところを引き止めて言う。
「葦野の里にはまだ多くの民が暮らしています。一気に攻め入ると多くの者が傷つくでしょう。まず、濠を空にするところまでにして下さい。・・できれば、攻め入る前に、一人でも多くの民を里から逃がしておきたいのです。」
カケルの提案に、皆、戸惑った。タツルが訊いた。
「どうやって、民を逃がす?」
「これから考えます。何か良い手があるはずです。・・できれば、この戦で、これ以上、命を失うことの無いようにしたいのです。」
「判りました。まずは、濠を空にしましょう。では、七日後を約束の日としましょう。」
皆、それぞれの役割を持って砦を離れた。
その日の夕方、見張台から「船が見えます」と叫ぶ声が聞こえた。
日がすっかり落ちた頃、バンがムサシを伴って砦に現れた。
「遅くなりました。川を少し上ってきたところで砦が見えましたので、皆を連れて上がってきました。・・隼人のムサシ様も一緒です。・・そうそう、アマリもその辺りにいるはずですが・・」
バンは、そう言って、皆を見た。
「エンの怪我の事は、ハツリヒコ様からお聞きしていました。エンの具合はどうです?」
カケルが訊いた。
「まだ、弓は引けないようですが・・・大事をとって、伊津姫様と供に船に居られます。」
タンが、バンとムサシに、これまでの経緯を話した。
「那津一族や、小城一族も居るのなら心強い。」
「楯を作るのなら、大船の戸板を使えば良いだろう。濠に掛ける橋にも使えるはずだ。すぐに持って来させよう。」
バンが言うと、すぐに何人かの男が立ち上がって、船に戻って行った。
「里の民を逃がす手立ては見つかりましたか?」
ムサシがカケルに訊いた。カケルは首を振った。
アスカは、アマリとともに、砦近くに作られた墓地に居た。
「たくさんの人が死にました。もう、これ以上、亡骸を見たくありません。」
アスカが、ポツリと言った。アマリも頷いた。

古墳.jpg

3‐5‐10 潜入 [アスカケ第3部遥かなる邪馬台国]

10. 潜入
「アスカ様、あそこに誰かいるようです。」
焼け野原の中に、確かに人の動く気配がした。アマリがゆっくりと近づいていくと、その人影は、幼子だった。
「カケル様!カケル様!」
アスカが、大急ぎで砦に戻り、カケルを探した。カケルは物見台の上で、葦野の様子を伺いながら思案していた。カケルはアスカの声を耳にして、物見台から飛び降りた。
「どうした?アスカ、敵か?」
少し遅れて、アマリが幼子二人を連れて、砦に戻ってきた。姉妹のようだった。小さな妹は、ぶるぶると震えている。姉のほうは、真っ直ぐかけるを睨みつけていた。カケルはその幼子の強い眼差しに、昔、モシオの里で初めて見たアスカと重ねた。
「葦野の里から逃れてきたようです。サチとユキ。姉のサチが言うには、母御らが、我が子だけでも救おうと逃したようです。ですが、昨日の炎の中でどうにも動けず、一夜を焼け野原で過ごしていたというのです。」
「辛かったか?」
カケルがそっと頭を撫でようとすると、姉サチがキッとカケルを睨みつけて言った。
「母様を殺さないで。・・いえ、里の者を殺さないでください。」
その言葉には、強い意志があった。大王の邪な意思から始まった戦だが、子らにとっては、大王もカケル達も、平穏な暮らしを砕き、悲しみや恐ろしさをもたらす悪人なのだ。カケルは、返答が出来なかった。
アスカは、サチの前に跪いた。
「大丈夫。誰も殺したりしない。今、里の人を救うために思案しているところなのよ。それより、ユキさんが震えてるわ。火で体を温めましょう。温かい御粥を持ってきてあげるからね。」
アマリは、砦の炊事場に向かった。二人は、砦の中の焚き火の前に座った。
「二人だけで逃げてきたの?」
アスカが優しく問う。サチは首を横に振った。そして、里から逃げてきた様子を話し始めた。
「母様たちが、里の子どもを集めて、里の日の出門の脇にある水路から逃げなさいって。冷たかったけど、母様たちの言うとおり、皆、水の中を泳いで外にでました。男の子達は、すぐに岸に上がって、御山へ掛けて行った。私も泳いだけど・・ユキが溺れそうになって・・必死でユキの手を握って・・そしたら、壕の中へ流されて・・。」
サチは、その時の光景を思い出して、大声で泣き始めた。まだ、小さな女の子だ。妹を守るため、姉としてしっかりしなければと自分に言い聞かせてきたのだろう。ここへ来て温かい火の傍で一気に気持ちが緩んだのだった。
「大丈夫よ、もう大丈夫。そう・・頑張ったわね、もう良いのよ。」
アスカは、そっとサチを抱きしめてやった。それを見ていたユキも、母を思い出したのか、アスカに抱きついて泣いた。
アマリが粥を持ってくると、二人は大層空腹だったのか、脇目も振らず、貪るように食べた。そして、そのうちに眠ってしまった。
カケルはそんな二人を見て、今一度、戦を回避する方法を探す決意を固めていた。
「カケル様、子らが逃げて来れたという事は、入れる場所があるという事ですよね。」
アスカが言った。
「ああ、おそらく水路が里の中に繋がっている。そこを使えば里へ入れるはずだ。」
「中に入れれば、何か戦を止める事もできるのではないでしょうか?」
「しかし、見つかれば命の保障は無い。中には多数の兵もいるだろう。」
「壕の水を止める策が上手くいけば、壕伝いに水路を使って中に入れるでしょう。」
「だが、里の中で戦となれば、おそらく里のものも多く命を落とすだろう。まずは、中に入り、里の者を外へ逃がさなければならない。」
その会話を聞いていた、アマリが口を挟んだ。
「私に行かせてください。きっと、女であれば怪しまれる事もないでしょう。そう、サチさんの母御を探し、この子達の無事も伝えます。中の母様たちと相談し、里を出る方法を見つけます。」
アマリは、バンたちが生まれた島を襲った時、母に言われて洞窟に隠れて、命を繋いだ事を思い出して、サチと自分を重ねていた。自分の母は、命を懸けて自分を守ってくれた。今度は自分が命を救う役を果たしたい、そう願っていた。
「しかし・・・」
カケルは難色を示した。アマリ一人、里へ入らせるのはカケルにはできない事だった。
「私も一緒に行きましょう。一人より二人のほうが心強いはず。大丈夫です。サチさんの母御に会えれば上手くいきます。」
アスカの言葉に、カケルは二人の顔をじっと見た。二人の強い覚悟がわかった。
「わかった。だが、それほど時はない。ハクタヒコ様もイクマヒコ様も、大王を倒す一心で全てを進めておられる。もはや、止める事は無理だろう。」
「判りました。」
カケルはすぐに、バン達を呼び、アマリとアスカを里へ送り込む計画を話した。
「止めた方が良い。無事に澄むはずがない。」
バンは真っ先に反対した。タンも横で強く頷いた。
「では、里の人々をお救いする手立てはあるのですか?」
アスカは食い下がった。
「このまま、戦になれば、必ず里の者も命を落とす事になるでしょう。その前に、一人でも多く里から抜け出せれば・・その為なら、私の命なの惜しくはありません。」
アマリは、涙ながらに訴えた。それを聞いていた隼人の長、ムサシが言った。
「自分の命を投げ出す事を考えてはいけない。自らも生きる道を考え、事を為すべきなのだ。・・カケル様、大丈夫です。我らが、水路の脇に控えておりましょう。何か起きた時、すぐに二人の後を追えるようにしておけば良いでしょう。・・私も、戦で多くの民が死ぬのを見たくはありません。おそらく、ハクタヒコ様も、イクマヒコ様も同じ思い。きっとうまく行きます。」
ムサシの言葉に皆、納得した。すぐに、アマリとアスカを連れ、ハクタヒコの許へ向かった。
「それなら、水口を止めるのは、緩やかにしよう。里の中に気付かれないようにせねば。」
作戦を聞いたハクタヒコが言った。東側への攻撃の手は少し緩くなっていた。
夕暮れになるのを待って、タツルが先頭に立ち、楯を頼りに、前進し、濠まで到達した。そこから、アマリとアスカを日の出門の脇にある水路まで、カケルとムサシが送っていく。
日の出門のすぐ下に、水路が掘られていた。アマリとアスカは、腰ほどまで水に浸かり、水路の中に身を屈めて里へ入っていった。ムサシとカケルは、日の出門の脇に身を潜めた。都合の良いことに、門の上には見張台はあるが、足元は見えなかった。葦野の里は夜の帳に包まれた。

濠A.jpg
前の30件 | 次の30件 アスカケ第3部遥かなる邪馬台国 ブログトップ