SSブログ
同調(シンクロ)Ⅱ-恨みの色- ブログトップ
前の30件 | 次の30件

1-30 目撃者 [同調(シンクロ)Ⅱ-恨みの色-]

県道といっても、中山間地の市街地から離れた場所である。人通りなどあるわけもなく、一樹は周辺の民家を訪ねて回った。しかし、日中は留守ばかりで、これといった成果はなかった。
「人目がない事を判って、ここを選んだんだろうな・・・。」
200メートルほど上流には、赤い橋が架かっている。
対岸に民家が数軒建っているのが見える。一樹は対岸にも足を運んだ。河岸段丘になっている対岸の少し高い位置に上ると、牛洗いの滝が見える。
「ここからなら、あの川岸も見えるな。」
一樹はそう呟くと、民家を一軒ずつ訪問する。
3軒目で、ようやく、住人に会えた。
かなり高齢の女性、いわゆる老婆と呼べるほどの婦人だった。
「すみません。4日ほど前の事なんですが・・。」と一樹が切り出すと、その老婆は少し困った顔をした。
そして、俯きがちに言った。
「あの、自殺騒ぎの事だね。」
「ええ、そうです。・・豊城公園から身投げした事件で、少しお話をお聞きしたくて・・。」
「身投げねえ・・だが、ここからは、あの公園の展望台は見えないよ。」
老婆は、少しもったいぶった言い方をする。
「いえ・・そうじゃなくて、あそこに見える滝の近くの・・。」
と一樹が話し始めると、老婆は訊き終わる前に言った。
「ああ、黒い服を着た男二人がいるのを見たよ。あんなところに人がいるのは珍しいんで、何をしてるのか、ちょっと気になったくらいだがね。」
老婆は、川岸を指さしながら言った。
「確かに、男が二人いたんですね。」
一樹は確かめるように訊いた。
「ああ・・間違いない。二人とも、川岸に立っていた。何か話をしているようだった。」
「顔は判りませんか?」
「いや・・ここからじゃ、男かどうかやっとわかるくらいだね。あまり目も良い方じゃないしね。」
「その後、何か起きませんでしたか?」
「さあね・・気にはなったが・・畑に行かなくちゃならなかったから、ちらっと見た程度さ。」
「じゃあ、二人がその後どうしたかは?」
「さあねえ、ほら、その後、なんだか、豊城川辺りが騒がしくなって、ヘリコプターも飛んでいたから、まあ、川で何かあったんだろうなとは思ったんだがねえ。」
その日、捜索のためのヘリコプターが川近くを低空で飛び回っていたのを思い出して、迷惑だったという表情をあからさまにして言った。
「展望台から身投げしたんじゃなくて、あの川岸で殺されたんじゃないかと考えているんですが・・。」
「ほう・・あそこでねえ?・・」
老婆は頭をひねるようにして返答した。
「また、何か思い出したら、ここに連絡ください。」
一樹はそう言うと、名刺を差し出し、老婆の名を確認し別れた。

「一人はきっと上村氏だ。・・もう一人は、だれだ?。」
一樹はそう呟き、橋を渡りながら、老婆とあった場所と川岸とを確認した。
ゆうに100メートル以上の距離はあり、顔の判別は難しい事は判った。
そして、もう一度、県道の脇道から川岸へ降りてみた。
老婆の家が見える川岸は、レイが思念波を感じた場所だった。そこより滝に近い上流へ向かうと、木の陰になって老婆の家は見えない。
「ここに男二人が居たというのは、やはり不自然だな。きっと、上村氏と誰かが居たはずだ。」
一樹が橋川署に連絡して、1時間が過ぎていた。
県道に車両が停まるのが判った。しばらくして、鳥山課長と鑑識の川越、そして鑑識班数名が川岸に現れた。
「ここですか・・。」
川越は大きなカバンを肩から掛けて、ゆっくりと周囲を観察しながらやってきた。
「ああ・・ここだ。さっき、向こう岸の目撃者も発見できた。何があったかまでは見ていないようだが、男二人がここに居たのは確かだった。ここから、上村氏は激流に突き落とされたんじゃないかと思う。」
一樹が説明する。
「しかし、何を調べる?確か、あの日は豪雨の後で増水していたはずだ。痕跡を探すのは厳しいぞ。」
川越が戸惑っている。
「何でもいい。上村氏がここに居たという痕跡が見つかれば、自殺だと供述した秘書の証言が崩れる。遺書も誰かがでっち上げたものとなる。秘書の安永が殺人犯の可能性だってある。」
「わかった。とにかく、ここ数日の間に付いた、新しい痕跡や遺留品を探してみよう。」
川越はすぐに鑑識班に指示して、作業に入った。
「ここで上村氏が殺害されたとなると・・佐原氏の件とのつながりをどう考える?」
じっと話を聞いていた鳥山課長が一樹に訊いた。
「いや・・そこまでは・・ただ、佐原氏の件と上村氏の件は繋がっていると考えて捜査をしてきましたが、やはり、何かしっくりこなかったんです。」
「遺書の件はどうだ?」
「ええ・・関連はあるでしょうが、象徴的に同じ文面にしたのも、変に引っかかるんです。」
「模倣犯という事か?だが、あの文面はまだ公表されていないぞ。佐原氏を自殺に追い込んだ人物以外に知るものは限られているはずだ。」
「そうですね・・でも、病院関係者なら、知っている可能性はあります。」
「仮に、病院関係者が佐原氏の遺書の内容を模倣して、自殺に見せかけたとして、何かメリットはあるか?むしろ、そうしない方が、さっさと自殺で処理されるとは思うが・・。さっきお前が言ったように、秘書の安永氏が犯人だとすると、つじつまが合わなくなる。・・下川氏がここに居て、上村氏を殺害して、自殺に見せかけたというならつじつまは合うが・・あの日、下川医師は東京出張でアリバイがある。」
鳥山課長は腕組みをして、じっと川面を眺めながら考えている。
「もう一度、安永氏に話を聞くしかないでしょう。」
一樹は鳥山課長に言った。
「ああ・・・それなんだが・・・さっき、安永氏から連絡があって、上村氏の自殺の動機について話があると言ってきたんだ。ちょうど良かった、お前、これから話を聞いてこい。ただ、この川岸の事はまだ言うな。物的証拠が出て来てからだ。」
4/16

nice!(1)  コメント(0) 

1-31 秘書からの連絡 [同調(シンクロ)Ⅱ-恨みの色-]

「ここですか・・。」
川越は大きなカバンを肩から掛けて、ゆっくりと周囲を観察しながらやってきた。
「ああ・・ここだ。さっき、向こう岸の目撃者も発見できた。何があったかまでは見ていないようだが、男二人がここに居たのは確かだった。そして、上村氏の車が県道に留まっていたらしい。きっと、上村氏はここで安永氏と逢っていて、安永氏に激流に突き落とされたんじゃないかと思う。」
一樹が説明する。
「しかし、何を調べる?確か、あの日は豪雨の後で増水していたはずだ。痕跡を探すのは厳しいぞ。」
川越が戸惑っている。
「何でもいい。目撃証言を裏付けるものを見つけてくれ。」
「わかった。とにかく、ここ数日の間に付いた、新しい痕跡や遺留品を探してみよう。」
川越はすぐに鑑識課員に指示して、作業に入った。
「ここで上村氏が殺害されたとなると・・佐原氏の件とのつながりをどう考える?」
じっと話を聞いていた鳥山課長が一樹に訊いた。
「いや・・そこまでは・・ただ、佐原氏の件と上村氏の件は繋がっていると考えて捜査をしてきましたが、やはり、何かしっくりしないんです。」
「遺書の件はどうだ?」
「ええ・・関連はあるでしょうが、象徴的に同じ文面にしたのも、妙に引っかかるんです。」
「模倣犯という事か?だが、あの文面はまだ公表されていないんだぞ。佐原氏を自殺に追い込んだ人物以外に知るものは限られているはずだ。」
「そうですね・・でも、病院関係者なら、知っている可能性はあります。」
「仮に、病院関係者が佐原氏の遺書の内容を模倣して、自殺に見せかけたとして、何かメリットはあるか?むしろ、そうしない方が、さっさと自殺で処理されるとは思うが・・。さっきお前が言ったように、秘書の安永氏が犯人だとすると、動機は何だ?わざと模倣するような細工が必要か?」
「その点は判りません。」
「秘書以外という事は考えられないか?過去の秘密で脅して自殺に見せて殺すという佐原氏の件と同一犯と館あげるのが自然だろう。」
「ですが、レイさんは思念波を病院で感じていました。佐原氏を自殺へ追い込んだ奴は、病院に居たんです。」
「では、安永氏と病院に居た奴が協力してという筋か?」
「そうかもしれません。」
「だがな・・・。」
鳥山課長は腕組みをして、じっと川面を眺めながら考えている。
「もう一度、安永氏に話を聞くしかないでしょう。」
一樹は鳥山課長に言った。
「ああ・・・それなんだが・・・さっき、安永氏から連絡があって、上村氏の自殺の動機について話があると言ってきたんだ。ちょうど良かった、お前、これから話を聞いてこい。ただ、この川岸の事はまだ言うな。物的証拠が出て来てからだ。」
一樹が車に戻ると、レイは目覚めていて亜美と話をしていた。
「もう大丈夫なのか?」
一樹が訊くと、レイは笑顔を返した。
「今、鑑識が、あの周辺を、何か事件と繋がる痕跡がないか調べている。」
「ええ、さっき、鳥山課長がこれから調べるからって・・。」
亜美が答えた。
「これから、秘書の安永氏に会いに行く。上村氏の自殺につながる情報提供だそうだ。・・レイさんはどうする?病院へ戻るなら、誰かに送っていかせるが・・。」
「いえ、私も同行させてください。あの川岸に感じた思念波は、病院のものとは違っていましたから・・ひょっとしたら、その秘書の方から感じるかもしれません。」
「そうか・・判った。」
すぐに、上村氏の自宅へ向かった。
秘書の安永は、玄関前で一樹たちを待っていた。
「すみません。お手間を取らせまして。」
安永氏は、落ち着いた表情で一樹たちを迎えると、すぐに、上村氏の書斎を案内した。
レイは車内で待つことにした。
「これなんですが・・。」
そう言って、安永氏は、1冊のノートを取り出した。
「これは、上村先生の日記です。・・いや、議員活動を記録したものです。ほら、このページ。」
開いたページは、2か月ほど前の日付だった。
「下の方に、記号の様に書いてあるのが判りますか?」
指さした先には、小さな文字で、『S・ヴェルデ・PM10』と記されていた。
「やはり、刑事さんがお話された、2か月前の事が書いてありました。Sというイニシャルの方とヴェルデで会っていたようですね。」
「このSのイニシャルに心当たりは?」
「いえ・・先生は大抵、誰かと逢われるときには、その方の氏名はしっかり書かれるんです。ですから、何か知られたくない関係なのではないかと思います。」
「これまでにもそういう方が?」
亜美が訊いた。
「いえ・・ああ・・そう言えば、その少し後のところ・・ああ、ここです。ここにもあるんです。」
それは、2週間ほど前の日付だった。『D・S、TELあり』と書かれていた。
一樹は渡されたノートを少しづつ遡って、不自然な記述がないかを調べた。
その様子を見ながら、秘書の安永氏は言った。
「私はほとんど先生と行動を共にしてまいりました。そこに書かれている内容は全て知っているつもりでした。ですが、読み返してみると、その2か所だけは判らない。こんなことは今までありませんでした。」
「これが、上村氏の自殺の動機だと?」
亜美が訊く。一樹は引き続きノートの中身に集中している。
「いえ・・そうじゃありません。」

nice!(1)  コメント(0) 

1-32 紙切れ [同調(シンクロ)Ⅱ-恨みの色-]

安永秘書は、小さな紙きれを取り出した。
「これは、先生の机の中にあったんですが・・・。」
その紙きれには、短い文章が書かれていた。

『あの罪は償おうとして消えるものじゃない。世間に知られれば、家族も苦しむことになる。僕は命を絶つことで、秘密を守る。あいつには、君の事も教えた。もうすぐ君の前にも表れるだろう S』

「これは?」
亜美が安永に訊いた。
「ええ、先生に宛てたメモのようです。どこで手に入れたのかは判りません。」
「Sというのは佐原さんという事ですね。」
「おそらく。2か月前ヴェルデで会っていたのは佐原さんだったんですよね。・・これで、先生と佐原さんは同じ罪を犯し、秘密を守るために自殺したという事になるのではないでしょうか?」
一樹も、日記に一通り目を通していて、安永の話を聞いていた。
「2か月前、佐原氏と上村氏はヴェルデで会い、過去に犯した罪がばれそうだという事を知った。そして、佐原氏は病院で投身自殺し、その遺言ともいえるメモを受け取った上村氏は、豊城公園の展望台から投身自殺を図ったという事になるわけですね。」
一樹が言った。
「ええ、そうです。そうに違いありません。」
「この・・『あの罪』とは一体何でしょうか?」
一樹が安永に訊く。
「判りません。私が秘書に就く以前の事でしょうから・・。」
「最近、上村氏に何かおかしなことはなかったでしょうか?」
安永は少し考えてから答えた。
「特に・・思い詰めたような様子も感じられませんでしたが・・・ただ、あの日、病院から戻られた時は尋常ではありませんでした。すぐに部屋に入られてしまいましたし、・・そうです。少し苛立っていらっしゃった様な感じでした。きっと、病院で何かあったんじゃないでしょうか?急に、入院を取り止められましたし、きっとそうです。病院で何かあったに違いありません。」
安永は、何か焦りを感じているような口調で捲し立てた。
「そうですか・・まあ、佐原氏も病院で自殺されたわけですから、そこで何かあった・・安原氏からのメモもそこで受け取ったとも考えられますね。」
一樹が安永の言葉に応えるように言うと、
「そうです。きっとそうです。病院関係者の中に、ここにある『あいつ』がいるんじゃないでしょうか?」
一樹の推理を肯定するように安永が言った。
「では、一番怪しいのは、下川医師という事になりますね。」
一樹がさらに言うと、安永が応えるように言った。
「きっと、そうです。下川医師と何かあったはずです。下川医師も、きっと関係していると思います。」
「下川医師と上村氏の関係について、あなたはご存じだったんですか?」
亜美が驚いて訊いた。
安永は亜美の質問に対して答えに窮している様子だった。
「どういうことですか?」
一樹がさらに詰め寄るように訊く。
「いえ・・あの・・実は、先生のアドレス帳に、佐原さんと下川先生のお名前がありまして・・ちょっと調べてみたんです。高校時代の同級生で、大学時代にも交流があったようですが、あまり詳しくは判りません。」
安永は少し戸惑っているようだった。そして、アドレス帳を一樹に手渡した。
「佐原氏と上村氏と下川氏の3人に交流があったことは我々の調べでも判っています。ただ、具体的な内容が全く判らない。他に誰か、昔の三人の事を知る人物はいないでしょうか?」
「さあ・・判りません。・・昔の話は余り・・あの・・・御実家の・・量円寺はどうでしょうか?」
安永は答える。
量円寺については、松山刑事と森田刑事がすでに聞き込みに行っていた。
上村氏の兄が、跡を継いでいたが、弟とは不仲で、特に、大学時代にどのように過ごしていたのかは全く関心もなかった事は判っていた。
「そう言えば、弟さんが亡くなったというのに、こちらには来られていないんですね。」
亜美が尋ねると、安永は「一応連絡はしたのですが」と言葉を濁した。
「あの、もう一度確認しますが、上村氏は誰かに脅されていたことは本当になかったんでしょうか?小さなことでも良いんです。」
一樹が訊いた。
「先生は、市政を正しくすることに注力されていましたから・・それなりの嫌がらせはありました。でも、それは逆に、不正の存在を裏付けるものですから、先生にとっては何の脅しにもなりません。本気で命を狙らわれるようなことはなかったはずです。」
「最近は、どのような事に取り組まれていたんでしょう?」
「それは・・・刑事さんにお話しすべきことではないでしょう。」
安永の言葉は正当なものだった。不正や癒着といった類は、ともすれば重大な刑事事件でもある。確かな証拠がない限り口にすべきことではない。
「わかりますが・・上村氏がもし殺されたとなれば、話は変わってきます。いえ、自殺としても、誰かに脅されていたとすれば、恐喝、自殺強要といった立派な犯罪なのです。少しでも可能性があるのなら、それを一つ一つ調べるのが私たちの仕事ですから。」
「わかりました。少しお待ちください。」
安永はそう言うと、書斎の机の引き出しから、数冊のノートを取り出した。
「これまで先生が調べて来られた不正や癒着などの記録です。不確かなものも含めて、すべてが記載されているはずですから、慎重に扱ってください。」
一樹と亜美は、安永から書類を受けとり、合わせて、日記やアドレス帳も預かった。

nice!(3)  コメント(0) 

1-33 下川 発見 [同調(シンクロ)Ⅱ-恨みの色-]

車に戻ると、レイが厳しい表情を浮かべていた。
「どうだ?何か感じたか?」
一樹が、レイに訊く。
「いえ・・でも、何か違う・・恨みとも違う・・罪の意識のような・・そんな思念波を感じたわ。・・病院で感じたものとも違う。・・家の中に居た人ね。」
レイが答えた。
「じゃあ、安永秘書は上村議員の自殺には関係していないってこと?」
亜美が一樹に確認するように訊いた。
「いや・・どうだろう。・・。何だか、判らない事ばかりだな!」
一樹はそう言うと、運転席に座り、車を走らせた。
豊城署の手前まで来た時、レイの携帯電話が鳴った。
「病院からだわ。」
そう言ってレイが電話に出ると、ほぼ同時に、亜美の携帯電話もなった。

「下川先生が、病院内で発見されたわ。・・亡くなっていたって・・すぐに病院に戻らなくちゃ・・。」
レイの声が震えている。
亜美への電話も、紀藤署長から、同じ内容だった。
目の前に、パトカーが走っている。見ると、鳥山課長が乗っていた。

病院に着くと、すでに数台のパトカーが停まっていて、病院の玄関には規制線が張られていた。
一樹たちはすぐに病院内に入った。
「亜美、レイさんとここで待機だ。良いな。」
一樹は亜美に告げる。亜美も状況は理解していた。
ロビーで待機していた、若い巡査が、一樹と鳥山課長を発見場所へ案内しながら、状況を報告した。
「発見場所は、地下の薬品庫でした。発見者は、検査技師の遠藤氏。週1回の定期点検のため、薬品庫に入って発見したようです。下川氏は、すでに死亡しており、死後2日程度との事でした。」
「死因は?」
「頸動脈を鋭い刃物で切り裂いてあり、失血死だろうとの事でした。今、司法解剖に回しています。」
「遺書は?」
「ええ・・先日の佐原氏の遺書と全く同じものが、上着のポケットから見つかりました。」
説明を聞いているうちに現場に到着した。
現場には、葉山が待っていた。
「葉山、体は良いのか?」
一樹が声を掛けた。
「ああ・・これくらいなら大丈夫だ。現場はここだ。見るか?」
「ああ。」
薬品庫には、天井まで届く、棚や鍵付きの冷蔵庫などがいくつも据え付けられており、通路が3本あった。その一番奥には、薬品の仕訳や帳票記録のための作業台と椅子が置かれていた。
「発見者の遠藤氏によると、鍵は掛かっていたそうだ。おそらく、内側から施錠したのだろう。下川氏のポケットから鍵が見つかった。下川氏は、奥にある作業台の椅子に座った状態だった。首から大量に出血していて、すでに血は固まっていたところから、死後24時間以上は経っていると判断できた。頸動脈を切ったのは、手術用のメスだろう。床に転がっていた。指紋は下川氏本人のものだけだった。薬品庫にも予備品があるので、それを使ったんだろう。」
「ここに出入りした記録は?」
「いや、ここは、監視カメラはない。唯一、検査室のドア付近にあるんだが、そこには2日前の早朝に、下川医師の姿が映っていた。日付は、出張から戻ってきた翌日の早朝だった。」
「行方不明だと言って探し始める前だな。」
「ああ、その時すでにここで絶命していたと考えられるな。」
「これもやはり、自殺という事か・・。」
「ああ、状況からみるとそう判断できるな。」
薬品庫の外に出ると、鳥山課長が、発見者の遠藤技師から話を聞いているところだった。
「では、薬品庫の鍵は、遠藤さんと下川さんの二人が持っていたんですね。」
鳥山課長が念を押すように訊いた。
「ええ、ここの管理は私の仕事ですが、下川先生は内科部長ですし、検査部長も兼務されていましたから。」
遠藤が答える。
「発見した時は?」
「毎週1回、在庫点検を行うことになっていて、ちょうど、今日がその日でした。鍵は掛かっていましたし、普段通り、鍵を開けて中に入りました。でも、ちょっと異様な匂いがしていました。薬品が漏れたのかと思って奥の方まで点検しながら入ってきて、下川先生を見つけました。」
「そうですか・・。ちなみに、あなたは二日前の朝はどちらに?」
「検査準備で、いつもより早く出勤していましたが・・。」
「では、検査室に?」
「いえ・・検査室に居れば、下川先生の姿を見かけたはずですし、もっと早く発見できた。何度か、検査機器の点検で席を外していましたから、その間に入られたのではないかと思います。」
一樹と葉山は、少し離れた場所で、鳥山課長と遠藤技師の会話を聞いていた。
「不審な感じはないようだな。」
一樹は小さく呟くと、葉山も「ああ」と答えた。
一旦ロビーへ戻ると、亜美はレイとともにロビーの椅子に腰かけていた。
「思念波を感じるわ・・。でも、これまで感じたのとは違う・・・。」
レイが小さく呟く。
「別の人物ということなの?」
亜美がレイに訊く。
「ええ・・今まで3回感じた思念波とも、あの川岸で感じた思念波とも違う・・・。」
「どういう事かしら?」
亜美が呟く。
4/23

nice!(2)  コメント(0) 

1-34 松山刑事の報告 [同調(シンクロ)Ⅱ-恨みの色-]

現場検証が終わり、鳥山課長以下、橋川署の刑事課は皆、一旦、橋川署に引き上げた。
「一度、これまでの3件の事件を整理するぞ。」
鳥山課長がいつになく苛立った様子で言った。
一樹、亜美、葉山、川越、藤原女史は、椅子に座り、経緯が記されたホワイトボードを見つめている。ホワイトボードの脇には、紀藤署長も座っていた。
鳥山課長が話し始める。
「まず、最初は佐原氏の投身自殺だ。監視画像から、自らフェンスを乗り越え落下したのは事実だ。遺書もあり、目撃者もいる。遺体からは不審な点は見つかっていない。これらの状況証拠から、自殺と断定せざるを得ない。だが、自殺の動機が不明であり、司法解剖で胃の内容物に不自然な紙片が発見されている。それらを踏まえて、自殺教唆の可能性を考え、捜査を続けてきた。この件はいまだ決着はついていない。」
皆頷き、鳥山課長が話を続けた。
「次は、上村氏の自殺だ。安永秘書の供述だけが頼りだが、豊城公園の展望台からの投身自殺。遺書はあったが、目撃者は居ない。これも、自殺の動機が不明だ。したがって、自殺と結論付けることはできない。他殺の可能性が残っている。」
一樹は発言する。
「周辺の聞き込みで、自殺した場所の上流で、男二人が目撃されています。一人は上村氏と考えられますが、もう一人は特定できていません。あの場所で殺害されたか、川へ突き落された可能性があります。」
それを聞いて、鑑識の川越が発言する。
「川岸の調査を行いましたが、二人が居たことを特定できる証拠は見つかっていません。ただ、上村氏の遺体解剖の結果、後頭部に打撲痕がありました。水中での打撲の見方も出来ますが、溺死固有の肺内部の浸潤は少なく、ほとんど意識を失った状態で水中に入ったのではないかとの見方ができるようです。矢沢刑事が言うように、川岸で殴られ川に突き落とされたという可能性は排除できません。」
それを聞いて、鳥山課長が言った。
「では、上村氏は他殺と自殺の両面の可能性で捜査を続行する。次に、下川氏だが、薬品庫内で頸動脈を切って失血死。使用されたメスからは本人の指紋のみ。鍵も所持していたことから、自ら薬品庫に入り、そこで頸動脈を切って自殺したと考えられる。他殺の可能性は低いと思われるが・・・。」
一樹が発言する。
「確かに状況は全て自殺を物語っています。ただ、気になるのは、なぜ、薬品庫だったんでしょう?出張から戻った次の日の早朝、薬品庫に入るというのが引っ掛かります。研究室でも自宅でも良かったはずですが・・。」
「だが、他殺とするほどの根拠ではないな・・。」
鳥山課長が答える。それを聞いて、紀藤署長が発言した。
「高校時代から親交のある3人が、同じ遺書を残して、自殺。その遺書には『罪を償う』とある。・・全て、自殺で処理すれば、彼らの罪は暴かれることはない。だが、敢えて、意味深な遺書を残したのは何故だ?本当に秘密を守るためなら、こんな遺書など残さない方が良いはず。だからこそ、我々は自殺か他殺か疑い、過去を調べようとしている。」
「彼らの過去の大罪を明らかにし、罰を与えたいと思っている・・・被害者による復讐・・・か・・。」
一樹が言う。
「では、すでに3人を死に追いやったわけだから・・復讐は終わったということ?」と亜美。
「いや、まだ、彼らの罪が暴かれていない。」と一樹。
「彼らが死んだ今、その被害者が彼らの罪を公にすれば済むんじゃないのか?」
鳥山課長が一樹に訊く。
「それならば、回りくどい事をしなくて、訴えれば済むことでしょう?おそらく、確証がなかったじゃないでしょうか?昔の事件を立証する証拠がないのではないでしょうか?だから、一人ずつ、事実を確認する事が必要だった。被害者の記憶と3人の記憶を擦り合わせ、事実を明らかにする必要があったんでしょう。」
「最初が、佐原氏だったというわけか。」
と鳥山課長が言うと、一樹が続ける。
「ええ、そこで、被害者は何か確証を得た。そして、次に、上村氏、そして、下川氏へとつながったと考えられませんか?」
それを聞いて亜美が言った。
「でも、レイさんやルイさんが感じた思念波。・・病院内では二人の思念波、そして豊城でも一人。それぞれ3人の思念波を感じている。一人の犯行と考えるのはどうでしょうか?」
「犯人・・いや、それぞれの事件は、3人の被害者が共謀して起こしたものということか?」
鳥山が言った。
「少し無理があるでしょう。・・いや・・思念波の事を疑うわけじゃない。むしろ、そのことがあるからこそを単なる自殺と処理することはなくなったわけだから。ただ、佐原氏の自殺と、上村氏と下川氏は違うように感じるんです。」
一樹が言う。
「やはり、3人が抱える秘密、昔の罪が鍵という事になるわけか・・・。」
鳥山課長が呟く。

そこに、北海道に言っていた松山と森田が戻ってきた。
「遅くなりました。・・・ありましたよ、矢沢さん。」
森田がそう言って、大きなボストンバッグを机の上に乗せた。
「佐原氏のもとに、上村氏が現れた年に、札幌近辺で起きた事件を調べてみました。」
バッグを開くと、幾つもの調書が入っている。
「ええと・・未解決になっている事件は3件あったんですが・・・。」
松山がバッグの中の調書を探り出すように見ている。
「これが最も気になりました。」
松山が取り出したファイルには、『帯広一家無理心中事件』という表題がついていた。
「今から、25年前ですので、詳しい話を聞ける方がなくて・・ただ、発生日が、佐原氏を若い男が訪ねた日の2日後だったことと、事件自体は一旦一家心中で処理されていて、2年ほど後に、強盗殺人の疑いで再捜査になった事が、何だか、今回の連続自殺と関連があるように感じたんです。」
松山は少し憂鬱な表情を浮かべて説明した。
「2年ほどして再捜査というのは珍しいな・・・何か、新たな物証でも出たのか?」
鳥山課長が訊く。
「物証というか・・・、」
松山は、森田の顔を見ながら、どう説明したものかと問いかけている様子だった。
4/25

nice!(1)  コメント(0) 

2-1 北海道の事件 [同調(シンクロ)Ⅱ-恨みの色-]

「大まかに話しますと・・」と森田が前置きして、いくつかの写真をホワイトボードに貼りだした。
「事件は、帯広市郊外の牧場を営む一家で発生しました。世帯主は佐藤健一郎50歳、その妻、智子32歳、健一郎の父の源次郎と母親のつた、そして、健一郎の長男の一馬は10歳、長女、優香は5歳の6人家族でした。」
ホワイトボードに写真が次々に貼りだされる。
「1990年8月10日の深夜、佐藤牧場の納屋から出火。近隣には住宅はなく、火の手が大きくなった頃にようやく火災が発見され、消防が到着した時には手が付けられない状態だったようです。焼け跡から、世帯主の佐藤健一郎が焼死体で発見されました。消防の調べでは、灯油を被って焼死したという見解が出されています。そして、母屋からは、祖父・祖母・妻・長男の4人が斧のような凶器で斬殺された遺体が発見されました。状況から、健一郎が無理心中を図ったと判断されたようです。」
松山が説明した。
「おい・・それだけで、無理心中ってのはおかしいだろう?」
一樹が訊いた。
「ええ・・ですが、当時、佐藤牧場には多額の借金がありました。牧場経営の破たんによる借金を苦にしての自殺だろうとの事でした。・・この時期、酪農経営はどこも厳しい状態で、周辺でも倒産が続いていていたようです。自殺も少なくなかったようなんです。」
森田が補足する。
「だからって・・。」
一樹が再度訊く。
「僕たちも、余りに短絡的ではないかと考え、帯広まで行って、当時を知る人を訪ねてみました。・・しかし、佐藤牧場の借金は相当の額だったようです。ただ、高速道路の建設が始まっていて、牧場の一部が計画線上にかかっていたようで、土地売買の交渉も始まっていたそうなんです。」
「だったら、土地を売って借金を返せばいいんじゃないのか?」
森田の返答に一樹が訊くと、松山が答えた。
「ですが、佐藤は土地を売ろうとはしなかったようです。むしろ、反対運動の先鋒だったようで、周辺の住民からも、厄介者扱いを受けていたくらいでした。・・正確なところは判りませんが、少し偏屈だったようですね。それと、祖父も健一郎以上に偏屈だったらしく、どうも、祖父からも決して土地を売るなと言われていたようです。」
「土地は売らない、借金は返せない、・・思い余って自殺したという事か?」
鳥山が訊く。
「ええ・・道警はそう判断したようです。・・何しろ、他殺を示すような証拠や目撃情報が全くなかったわけですし、遺体の状況からもそれなら筋が通るようでした。」
森田と松山の説明に、鳥山課長以下、同席していた者は皆一応納得したようだった。
「ねえ、長女はどうしたの?」
亜美が気付いた。
「そうなんです。長女が再捜査のきっかけになったんです。」
森田が答えた。
「事件発見時には、長女の優香は行方不明でした。かなり広域に周辺捜査がされたようですが、発見できなかったんです。結局、当時は、行方不明のまま処理されました。・・周囲には家はありませんし、家のすぐ裏には深い原生林が広がっていて、一旦、迷い込めばとても発見できない。5歳の子どもですからね。・・野犬や熊に襲われることも想定されたんです。」
「でも、その長女がきっかけだったんでしょ?」
亜美が再び尋ねる。
「そうです。長女は静岡の児童養護施設に居たんです。」
「静岡?どうしてそんなところに?」
一樹が訊く。
「ですから、事件の再捜査に・・要するに、死んだと思われていた長女が、静岡に居たという事は、誰かが連れて行ったという事になる。第3者がそこにいたのは確実でした。ですから、殺人事件の可能性が高いと見て、道警も再捜査に踏み切ったわけです。」
森田が説明した。
「長女は5歳か・・それなら、ある程度、犯人像はつかめているんじゃないのか?」
と一樹が訊く。
「それが・・・少女は、足柄パーキングエリアで意識が朦朧とした状態で発見されました。かなりの精神的ショックを受けていたようで、失語症になっていました。それで、身元不明者として、三島にある養護施設で保護されたんです。身元が判明したのは、事件から2年後でした。偶然、身元不明者の照会を静岡県警が行っている時に判明しました。時間も経っている事と、失語症になっている事で、事件の概要さえもつかめないままでした。」
森田が説明すると、大筋を理解し、皆、沈黙した。
各々、今回の3件の連続自殺と帯広の事件を重ね合わせ、考えを巡らしている。
「状況は無理心中、だが、確実に事件へ関与している者が居る。しかし、まったく糸口がない。・・今回の、連続自殺事件と似ているな・・・。」
鳥山課長が呟いた。
「この帯広の事件を起こしたのが、佐原達3人という事はないでしょうか?一家惨殺は大罪です。その復讐という事になりませんか?」
葉山が皆に尋ねる。
「ということは、サービスエリアで発見された少女が父や母を殺した犯人を見つけて、復讐していると?」
一樹が、念を押すように言った。
「ああ、そう言うことになる。当時5歳なら、すでに30歳。立派な大人だ。記憶の中には惨い事件が深く刻まれているはずだろう。偶然、犯人を発見した。そして、恨みを晴らしている。」
葉山が答える。
「おい、その少女はどうしている?」
鳥山課長が森田たちに訊いた。
「北海道警察ではそこまでは掴んでいないようです。児童養護施設は判りましたが、10年前に閉鎖されていて、追跡できませんでした。」4/27

nice!(1)  コメント(0) 

2-2 容疑者の男 [同調(シンクロ)Ⅱ-恨みの色-]

「静岡?・・確か、下川医師は静岡の病院から神林病院へ来たんだったな。」
一樹は何か閃いたように言った。
「そうね・・そうよね・・。」
亜美も応える様に言った。
「佐藤優香は、児童養護施設に居たのは15歳までだろう?その後、例えば、看護学校へ入っていたとしたらどうだ?今は看護師。・・そして、静岡から・・ほら、14階のナースステーションにいた・・ええっと・・」
一樹はそう言いながら、手帳を取り出して名前を確認する。
「そうだ・・有田・・有田看護師は、下川医師の紹介で静岡の病院から神林病院へ来ていた。彼女が、佐藤優香だとしたらどうだ?」
一樹が皆に確認するように言った。
「ちょっと待って・・ええっと・・」
そう言いながら、藤原女史がタブレットを開いて名簿を確認し、言った。
「有田看護師・・・旧姓は加藤祐子・・佐藤優香ではないようですね・・。」
それを聞いた森田が驚いて立ち上がった。
「加藤祐子・・ですか?」
「どうしたの?」と藤原女史。
「佐藤優香は、失語症でコミュニケーションが取れず身元が判らなかったために、施設で新しく名前を与えられたんです。その名が・・加藤祐子なんです。」
「やはり・・帯広一家惨殺事件の生き証人が、あの・・有田看護師で・・その恨みを晴らすために、犯人である、佐原、上村、下川に近づき、死に追いやったと考えられることになるが・・・」
鳥山課長が纏める形で言った。
「間違いないでしょう。・・ただ・・どうやって自殺を迫ったのかは・・。」
葉山が残念そうに言った。
「有田看護師を任意聴取して・・。」と亜美が口を開いたが、途中でやめた。
自殺を強要した証拠がない。たとえ証拠があったとしても、復讐の対象となった三人はすでに亡くなり、強要の事実は本人にしか判らない事であり、立証するのは難しい。最初の佐原氏の自殺発生の段階で、そのことは充分に判っていたはずだった。だが、これだけの情報がある。それでも真相に辿り着けない。何か突破口は無いものか、この場に居る全員の思いだった。
「皆、もう一度、冷静に考えよう。これが、帯広の事件を起こした犯人への復讐であれば、これ以上の犠牲は出ないだろう。今まで集めた情報を見直してみよう。」
鳥山課長がまとめ、その日、捜査会議は終了となった。

外は、すっかり陽が落ち、夜の闇に包まれている。橋川署の前にある国道を、長距離トラックが何台も走り抜けていく。
「飯でも食って帰るか・・。」
一樹はそう呟くと車に乗った。しかし、しばらく、駐車場から動かなかった。
「そもそも、有田看護師は、帯広の犯人の一人がなぜ下川医師だと判ったんだろう。偶然か?それとも何か手掛かりがあったのか?」
一樹はそう呟いて、車を降りた。そして、橋川署に戻って行った。
「課長!」
「なんだ、まだ居たのか。」
「どうもスッキリしなくて・・すみません。もっと、有田看護師の事を調べなくちゃいけないんじゃないでしょうか?」
「ああ・・そうだな。有田看護師が加藤祐子だという確証、そして、下川医師のと関係、復讐までの経過、ここまで来たからには今更、自殺では処理できん。」
「明日一番で、三島に行ってきます。」
「ああ・・そうしてくれ。」

翌朝、一樹は亜美とともに、三島方面へ向かった。
東名高速道路を走っている途中で、「有田看護師が育った養護施設は廃止されたようだけど、当時の施設長の所在は判ったから、住所を送ります。」と藤原女史から連絡が入った。
「当時の施設長は、勝俣時子さん、現在85歳のご高齢らしいわ。」
亜美が携帯メールを見ながら一樹に言った。
勝俣施設長のお宅は、静岡市郊外の安部川を見おろす高台の住宅地の中にあった。
古い一戸建てで、現在一人暮らしだった。

「ええ・・覚えていますよ。保護された時は身元を示すものを全く所持していなかったんです。ですから、身体的な特徴から小学校入学前だろうと判断しました。名前は、園の名を名字に、下の名は私が付けました。」
勝俣時子は、温和で上品そうな表情を浮かべ、ゆっくりと思い出すように話した。
「身元が判明した後も、名前はそのままだったんですか?」
一樹が訊く。
「いえ、手続きは行ったのですが、ご家族が全員亡くなっていて、まだ小学生だった彼女を引き取ってもらえる縁者もなく、結局、こちらへ戻ってきたんです。名前は戻すかどうかも話し合ったんですが、悲しい事件を引きずることになるだろうと、そのまま、加藤祐子のままで、ここでは過ごしていました。」
一家全員惨殺されたことで精神的な影響を受けているのは確かで、彼女の将来を考えての措置だったことは理解できた。
「あの・・彼女は失語症だったと・・。」と亜美が訊く。
「ええ・・失語症というか・・いつもうつろな表情で、こちらからの働きかけにはまったく反応しないんです。泣いたり、怒ったりもしない。まるで、心を失くしたような状態でした。心療内科へは何度も受診し、治療も行ったんですが、なかなか改善しなくてね・・」
勝俣は悲しそうな表情浮かべていた。
「どれくらいまで・・」と亜美も同じような悲痛な表情で訊いた。
「その後の事は、判りません。私は、加藤さんが施設に来て2年目に、退任しましたから・・加藤さんの事なら、指導員で来られた、石黒先生なら、良くお分かりになるんじゃないかしら。子どもたちの事を最優先で考えておられたようですから・・・」
勝俣時子は何か含みを持たせるような言い方をした。
4/30

nice!(3)  コメント(0) 

2-3 過去の記憶 [同調(シンクロ)Ⅱ-恨みの色-]

 一樹と亜美は、勝俣時子の紹介を受けて、当時指導員だった石黒弘江に逢うことにした。
 石黒弘江は、大学を出てすぐに、施設の指導員に採用されていた。養護施設の中では、最も若い先生であり、おそらく、有田優香(加藤祐子)と、最も年が近かった事から、心が通じたのかもしれないと想像できた。
いくつかの施設の指導員を経て、現在は、御殿場市にある児童養護施設の施設長をしていた。
施設に着くと、すぐに施設長室に通された。
 石黒弘江は、すらっとした体形でショートカットの髪型をしていて、50代に入ったばかりだろうが、まだ随分と若い印象だった。一樹たちが部屋に入ると、面談テーブルには先に座って、手早く済ませて欲しいという態度が、ありありと感じられた。
「加藤祐子さん?・・ええと・・三島の養護施設にいらしたんですよね。」
石黒弘江はすぐには思い出せない様子だった。
「当時、小学生で失語症だったようで、石黒先生が指導員をされて、徐々に回復したと、勝俣さんからはお聞きしたんですが・・。」
亜美が経緯を説明した。
「すみません。よく覚えていません。私も就職したばかりで、とにかく右も左もわからない状態でしたから。」
「親身になっておられたと勝俣さんからは伺っていたのですが・・。」
「いえ、そんなことは・・・。子どもたちとは余り、深い関係にはならないよう注意しています。・・私たちは指導員であり、親ではありませんから。厳しい環境に居る子どもたちには同情しますが、甘えさせる事は本人のためになりません。施設にいる子どもたちはどこか心の傷を抱えているんです。おそらく、その子もそういう状態だったんでしょう。」
石黒の答えは予想外なものだった。
「実は先日、橋川市で加藤祐子さんが関係する事件が起きていまして、生い立ちを調べているんです。加藤祐子さんについてご存じことがありましたら教えていただきたいんです。」
「事件ですか・・。しかし、私が居たのは5年ほどでしたから・・勝俣施設長が何をお話したかは知りませんが、あの方は、現場の事など全く理解されていませんでした。問題が起きるとすぐに現場のせいにして、自分には責任はないと身の保全だけを考える様な方でした。ですから、あの頃の職員は、あの方を信じていませんでした。見た目には、温厚そうで上品に見えるんでしょうが・・。」
石黒弘江は当時を思い出して憤慨している様子だった。
一樹も亜美も、この話には驚いた。
確かに、さっき訪れた勝俣施設長は温厚で上品に見えた。子どもたちの事をよく見ているようにも思えた。だが、現場の職員の見方とは全く違ったのだった。
「では、加藤祐子さんではなく、当時、何か印象的な事はなかったでしょうか?」
一樹が尋ねた。石黒弘江は少し考えてから言った。
「そう言えば、子どもたちの脱走騒ぎが起きました。」
「脱走?」と亜美。
「ええ、当時、養護施設には15歳までの子どもが保護されていたのですが、・・子どもたちが10人ほど、いなくなっていたんです。」
「いなくなるというのは尋常じゃありませんね。頻繁にあったのですか?」と一樹が言う。
「施設長のせいです。日頃から子どもたちに対して、躾と言って厳しくしていた・・いまでは考えられませんが・・体罰もしょっちゅうでしたし、部屋に鍵をかけて監禁に近い状態でしたから。中学生くらいになると反抗的になってしまって・・指導員も施設長には逆らえませんでした。そんな、窮屈な暮らしから抜け出したかったんでしょう。」
石黒弘江は、その頃との事を思い出し、遣る瀬無い表情を浮かべている。
「詳しく教えてください。」と亜美。
「ええ、夕食後は、各自、部屋に戻り、消灯まで静かにしていることになっていたんです。それで、夜10時の消灯の見回りで、中学生や小学生が何人かいないことに気付きました。私たち職員はすぐに警察に届けようとしたのですが、施設長が強く反対して・・結局、職員だけで探すことになりました。」
「どうしてですか?」
亜美が訊いた。
「事件になれば、当然施設長の責任が問われることになります。それが嫌だったんでしょう。」
「それで見つかったんですか?」と亜美。
「ほとんどの子どもは、駅の近くで見つかりました。行く当てもなく、駅前に集まって座っていました。でも、一番年上の中学生の男の子と、小学生の女の子が見つかりませんでした。」
「それで?」と亜美。
「翌朝まで見つからず、私たち職員もさすがに命の危険を心配して、施設長には了解を得ないまま、警察に届けました。それで、結局、二人は、足柄サービスエリアに居るところを巡回中の警察官に発見されました。施設長は、その責任を取って定年前に退職することになりました。」
石黒弘江は、事件を思い出して少しにやりとしたようだった。そして、
「そうだ。その子が確か、加藤祐子ちゃんです。思い出しました。ちょっと待ってください。」
そう言うと、壁の書棚を何カ所か見回し、何かを探している様子だった。暫くして、1冊のノートを取り出してきた。
「これは、個人的な業務記録です。日記代わりに書き残してきたものです。確か、あの事件ことも・・・。」
そう言って、ノートを捲り始めた。
「ありました。そう、足柄サービスエリアに居たのは、加藤祐子さん。まだ小学生でした。一緒に居た中学生は、矢野健一君、中学3年生でした。」
「なぜ、足柄サービスエリアに居たんでしょう?」
亜美が訊いた。
「矢野君が連れて行ったようですね。そこからヒッチハイクでもっと遠くへ行こうとしたと言っています。」
「そうですか・・。」と亜美。
「でも‥おかしいわね。‥施設からはかなり遠いんです。ヒッチハイクをするなら、愛鷹山パーキングの方が近いし、施設からすぐなんです。・・今、思い返すと変ですね。何かほかに理由があったのかも・・」
それを聞いて、一樹が言った。
「加藤祐子さんは、足柄サービスエリアで保護された身元不明の子どもだったんですよね。」
「えっ?ああ・・ああ、そうですね。確かそうです。そうですか・・だから・・足柄サービスエリアに・・思い出しました。その後、加藤さんは失語症ではなくなった。普通に私たちにも接してくれるようになったんです。随分前の事で忘れていましたが、確かにそうです。」
石黒弘江は、記憶の断片が繋ぎ合わさったようだった。
「一緒に居た、矢野健一君には、小さな妹が居たんです。ただ、施設に入ってすぐに、母親方の祖父母が引き取りにいらして、淋しそうにしていました。直後に、加藤祐子さんが入所してきたので、妹のように可愛がっていました。きっと、二人で足柄サービスエリアに行ったのも、加藤祐子さんが行きたいと言ったのでしょう。」
5/2

nice!(0)  コメント(0) 

2-4 つながる糸 [同調(シンクロ)Ⅱ-恨みの色-]

石黒弘江との面談で、加藤祐子・・今は、有田優香の生い立ちが少しずつ明らかになってきた。
「加藤祐子さんの事で、他に思い出すことはありませんか?」
一樹が訊く。
「私は5年ほどで転勤になりましたから、中学生の頃の事は知りません。ただ、私が居た頃は、矢野君と本当の兄妹の様にしていたのは覚えています。ですから、矢野君が退所した後は、随分、寂しがっていました。矢野君も辛かったと思います。退所した年の夏に、一度、施設に顔を見せてくれたことがありました。その時は、加藤さんも嬉しそうでした。」
「あの、矢野健一君は、今、どうしているか判りますか?」
一樹が訊く。
「ええ・・中学校の卒業の時に、近くの工場への就職が決まり、会社の寮へ入って、そこから夜間の高校へ通ったはずです。」
石黒は、古い手帳を見ながら答えた。
 一樹と亜美は、石黒弘江に礼を言って、矢野が就職した工場へ向かう事にした。
 有田優香の子どもの頃を知る唯一の人物であり、兄弟の様に過ごしていたのであれば、北海道の事件も聞いているのではないかと推察されたからだった。
 
 矢野健一が就職した「NKU」という製造会社は、沼津港の近くの工場団地内にあり、敷地内に社員寮も持っていた。本社の事務所を訪ねると、すぐに人事部の担当と面会できた。
「随分前の事ですよね‥20年以上か・・。」
 黒メガネをかけ、白髪交じりの人事部の担当者は、分厚いファイルを抱えて、面談室に現れた。
「矢野・・矢野・・」そう呟きながら、名簿を確認している。
「すみません。今、現在、矢野健一という社員は居ませんね。」
 頭を掻きながら、人事部の担当は答える。
「93年前後に、中学校卒業してこの会社に入ったはずなんですが・・寮にもいたようです。」
と一樹が確認する。
「93年・・ねえ・・・。ああ、これか?」
そう言って、人事部の担当が名簿を見せる。
「確かに、93年3月に矢野健一を採用しています。20歳まではここで働いていたようです。・・ああ、そうか・・そうだ・・あいつだ。」
人事部の担当は、何かを思い出したようだった。
「矢野健一は、ここを辞めてから専門学校に入りました。ここに居た時から、随分、勉強熱心でね。夜間高校の先生からも大学進学を薦められるほど、成績が良かったんです。でも、経済的に厳しい事もあって、夜間も通える医療系の専門学校へ進んだはずです。それで、ここを辞めて、静岡市へ転居しました。母方の実家があるそうで、そこから通える学校に進んだはずです。」

工場を出ると、すでに日暮れが近づいていた。
「矢野の実家は明日一番で行ってみよう。とりあえず、課長に報告して、どこか、近くのビジネスホテルでも探そう。・・腹も減ったな・・・。」
一樹はそう言って、車に乗り込んだ。亜美も慌てて乗りこんだ。
沼津から静岡まで、国道1号線を走った。途中、ファミレスに寄り、夕食を済ませることにした。
平日の夜は、ファミレスは空いていた。二人が日替わりのディナーセットを注文すると、ほんの5分ほどでテーブルに運ばれてきた。二人は無言でそれを食べた。

「あの事件で人生が大きく狂ってしまったようね。」
食事を終えて、亜美が呟いた。
一樹も「ああ」と小さく呟いた。
「その上、施設に入ってからも厳しい環境だったみたいだし、孤独の中で、心を通わせた唯一の人間もすぐに離れて行ったなんて・・・。」
亜美は少し涙声になっていた。
「矢野健一の所在が判れば・・・。」
一樹が呟く。
「今は、遠藤健一でしょ?」
「ああ・・そうだった。いや、ちょっと待てよ。遠藤健一?・・どこかで聞いたことがある名だが・・。」
一樹が、ポケットから手帳を取り出す。パラパラと捲り、はっと手を止めた。
「遠藤健一・・あった。あの検査技師の名が、遠藤健一だ。」
「えっ?」
亜美が驚いた。
「まさか・・同姓同名ってことじゃない?」
「藤原さんに連絡してくれ。遠藤健一の出生を調べてもらうんだ。同一人物ならば、静岡の実家に行く必要はない。すぐに署に戻ろう。」
一樹はそう言うと、伝票を掴んでレジへ向かった。亜美も慌てて一樹の後を追った。

二人は、東名高速に乗り、真っすぐ橋川署を目指した。
車中で、藤原女史から亜美の携帯電話に連絡が入る。
「遠藤健一。本籍地は静岡市駿河区・・。確かに、NKUに就職、その後、静岡市にある医療専門学校を出て検査技師になっているわ。静岡市にある国立病院へ勤務した後、橋川市の市民病院へ転勤になっている。神林病院に来たのは、君原副院長の推薦だったようね。」
電話の中身は、運転している一樹も聞いていた。
「今回の事件は、有田看護師と遠藤技師の共謀の可能性が出てきた。確か、下川医師を発見したのは遠藤技師だったな。・・明日、朝にも、事情聴取できるように課長に伝えてくれ。」
「わかったわ。」
ようやく事件の構図が見えてきたような気がした。一樹は、アクセルを強めに踏んだ。5/4

nice!(1)  コメント(0) 

2-5 君原副院長 [同調(シンクロ)Ⅱ-恨みの色-]

二人が橋川署に着いたのは、夜11時を過ぎたころだったが、刑事課の部屋には煌煌と明かりが点いていた。
「遅くなりました。」
二人が部屋に入ると、署長、鳥山課長、森田、松山、葉山が居た。
皆、困惑したような表情を浮かべている。そして、神林レイと君原副院長の姿もあった。
「有田看護師と遠藤技師が行方不明だ。」
鳥山課長が苦々しい表情で言った。
それを聞いて、亜美はレイの顔を見た。レイは済まなそうな表情浮かべている。
「どういうことですか?」と一樹。
「昼頃、病院内で、あの思念波を強く感じたんです。すぐに、思念波の持ち主を探したんです。」
レイはそう言って、その時の様子を話した。

12時を少し回ったころだった。
神林レイは、院長室に居た時、不意に、強い思念波を感じた。恨みの色というより、悲しみの色に近い・・だが、その波長は以前に感じたものと同じだった。
レイは、すぐに持ち主を探そうと、院長室を出て、エレベーターで1階の玄関ロビーに出た。
午前の診療が少し伸びていて、ロビーにはまだ多くの患者が居た。じっと周囲に注意を向けてみたが、ロビー内には、思念波は感じられない。
病院の外にあるのではと考え、外へ出ることにし、事務室の裏口から、職員駐車場へ出てみた。
ちょうど、その時間帯は、病棟の看護師たちが、午後の交代に合わせて出勤してくる頃で、職員駐車場には、何台か車が出入りしていた。
そこで、じっと意識を集中すると、駐車場の一番奥で、先ほどの思念波を捉えることができた。
その方向へ、少しずつ近づいてみると、駐車場の一番奥の場所に、赤い小型車が止まっていた。
遠目だったが、運転席に遠藤技師が座っているのが判った。そして、助手席には、有田看護師が座っていた。
よく見ると、有田看護師が泣いて遠藤技師に縋り付いている。それを遠藤技師が宥めているように見えた。
先に、レイが近づいているのを見つけたのは、遠藤技師だった。
遠藤技師は、レイに向かって深々と頭を下げたように見えた。駆け寄ろうとした時、車は急発進して、レイの横を通り過ぎ、場外へ出て行ったのだった。

「すぐに、今回の事件に二人が関係しているのだと判りました。それで、事務課へ行き、二人に連絡を取ろうとしたんです。ですが、二人とも携帯電話の電源が切られているようで連絡が取れず、すぐに、それぞれの自宅にも行ってみたんですが、戻った様子は無くて・・結局、所在が判らなくなったんです。」
レイが言う。
「やっぱり、そうだったのね・・・・。」
亜美が言った。
「あの・・ちょっと、よろしいでしょうか。」
そう言ったのは君原副院長だった。
「これは、私の机に置かれていたものです。・・1通は、下川医師が書いたものです。そして、もう1通は、有田看護師が書いたもののようです。」
そう言うと、白い封筒2通を一樹に渡した。
「今日は朝から、市民病院で医師会の会議があり、夕刻近くになって戻ってきました。その時には、神林院長が、遠藤技師と有田看護師が行方不明だと・・・何か手掛かりはないかと、部屋に戻って、この封筒を発見したんです。もう少し、早く動いていたら・・こんな事には・・」
君原副院長は、厳しい表情で天井を見上げる。

「もう少し早くとはどういうことですか?」
君原の言葉に疑問を抱いた一樹が尋ねた。
「実は・・最初の事件が起きてから、皆さんとは別に、犯人探しをしていたんです。病院内で起きた事ですから、当然、私にも責任はある。警察の皆さんに全てお任せして良い訳はない。・・ただ、もう少し早く、皆さんにお知らせしておけば良かったと強く後悔しています。」
君原は神妙な表情でそう言った。
「犯人探しを?」
一樹が訊く。
「ええ・・佐原さんが自殺された時、もし、誰かが殺した・・あるいは、自殺に追いやるようなことをしたのなら、きっと、病院内の人間だと考えたんです。医師か看護師か・・いずれにしても、患者に近づけるのは限られていますから。私は、すぐに、皆さんと同じように、院内の監視カメラの映像を確認し、当日の医師や看護師の勤務体制もチェックしました。だが、そこからは何も掴めませんでした。」
君原が答える。
「ええ・・それはこちらも同様でした。」
と一樹も頷いた。
「その後、上村さんが自殺された。・・上村さんは、佐原さん同様、神林病院に検査入院する予定だった。・・検査入院する患者が続けて自殺するなど、偶然にもあり得ない。そこで、見方を変えて、二人の入院経緯について調べてみたんです。・・どちらも、下川医師の判断で入院要請されていました。」
「ええ、そうでした。それが何か?」と一樹。
「検査入院するには、それなりの理由が必要です。既往歴があり、病状が変化しているとか、より精密な検査が必要だとか・・そういう理由を明らかにしたうえで、入院申請の手続きが必要になります。ましてや、最上階の特別室への入院となれば、副院長か院長の事前承認が必要なのです。」
「どういうことですか?」
「例えば、下川医師が二人を意図的に入院させようとしても、合理的な理由を示す必要がある。佐原さんも上村さんもその手続きに瑕疵はなかった。いずれも、定期健診で、レントゲン写真と血液検査データに異常が見つかっていたんです。おそらく、癌ではないかと考えられる所見がありました。」
「二人とも?癌?」と亜美。
「ええ・・申請時期はずれていますが、よく似たケースの申請になっていた。そこで、院内のカルテデータベースで再度点検したところ、レントゲン写真と血液検査データが書き換えられている形跡が見つかったんです。」
「データが改ざんされていた?」と一樹。
「ええ・・そして、それが、いずれも同じ検査技師によるものだった。そうです、遠藤技師が検査に関わっていたんです。下川医師と遠藤技師が何らかの意図をもって、二人を入院させた・・そう考えました。」
君原副院長は残念そうな表情で続ける。
「まず、下川医師に経緯を確認すべきだと考えました。でも、その時には、すでに行方不明でした。」
5/7

nice!(1)  コメント(0) 

2-6 残された手紙 [同調(シンクロ)Ⅱ-恨みの色-]

君原副院長は、一樹たちとは違った視点で、今回の事件を捉え、解決しようとしていたのだった。
しかし、それは、病院の実質的な管理者として、強く反省していることによるものだった。
「下川医師と遠藤技師が何らかの意図をもって入院させた?・・何故でしょう。・・過去の事件への復讐であることは警察でも概ね想定していました。だが、そうなると、下川医師もその対象者のはずです。現に、下川医師は自殺か他殺かはっきりしない状態で死んでしまった。・・遠藤技師単独で検査データを改ざんし、下川医師はその結果を正しいものだと受け止めて、入院の判断をしたと考えるのが自然なんじゃないでしょうか?」
一樹が念を押すように訊く。
「ええ・・それも考えました。しかし、下川医師ほどの優秀な医者であれば、数値の異常やデータ改ざんを見抜けないはずはない・・これは、下川医師の考えによるもの、あるいは二人で共謀しているのではないかと考える方が、妥当なのです。」
君原副院長は、冷静に答えた。
「自分が、死を迫られることを理解したうえで、今回の事件を起こしたという事ですか?」
一樹が再び、君原に訊く。
「そこまでは判りません。ただ、深く関与している事は間違いないと思います。」
君原は残念そうに答えた。
一樹も納得したようだった。
「レイさんが感じた思念波の持ち主は有田看護師ですよね。」
亜美が口を開いた。
「ええ・・間違いないと思います。」
レイが答える。
「有田看護師は、帯広一家殺害事件の、唯一の生存者でした。そして、静岡、足柄サービスエリアで発見された。おそらく、犯人たちに連れて来られたはず。そして、その犯人が、佐原、上村、下川の3人だった。有田看護師は、3人の居場所を掴んで、終に復讐を果たしたという筋書きができる。」
一樹が説明する。
「有田看護師と遠藤技師は、静岡の児童養護施設で兄妹同然の仲だったこともわかっています。おそらく、有田看護師の復讐を遠藤技師が助けていたという事が考えられます。」
と亜美が続けた。
「ということは、有田看護師と遠藤技師が中心になって、下川医師も巻き込んで、佐原氏と上村氏の殺害・・いや・・自殺ほう助を行った。その上、最終的に下川医師も自殺に追い込んだということか。」
鳥山課長が纏めるように話す。
「それぞれの関係はよく解りました。ただ、それを裏付ける証拠はどうかという事になりますが・・」
紀藤署長が、皆の顔を見ながら、訊いた。
「その2通の手紙には、我々の疑問を解き明かす内容が書かれていると考えられます。ただ、注意しておきたいのは、今回の事件は、余りにも物証や目撃情報が足りない・・状況証拠ばかりです。そこへ、この手紙。」
紀藤署長は、目の前の机に置かれた手紙を取り上げ、じっと見つめてから、続けた。
「冷静になっておかないと、この手紙を鵜呑みにして、真実を見落としてしまうかもしれません。・・この手紙を開く前に、皆さんの疑問や引っかかっている点を整理しておきましょう。」
紀藤署長は、捜査本部が行き詰っている状態だからこそ、冷静に捜査を進める事を強調し、皆も、同意した。
暫く、沈黙があった後、切り出したのは、葉山だった。
「ひとつ、気になるのは・・有田看護師は、その犯人たちをどうやって探し出したのか。事件当時、有田看護師はまだ5歳だった。それから20年以上、おそらく、犯人たちの風貌も随分変わっているでしょうし、5歳の時の記憶だって、あいまいになるでしょう?それでも、犯人に辿り着くというのは奇跡としか思えない。」
それを聞いて、松山が立ちあがって言った。
「それでしたら・・何か、犯人だと決めるものがあったんじゃないでしょうか?・・名前とか…身体的な特徴とか‥子供でもはっきりと区別できるような何か・・・。それを偶然発見したというのはどうでしょう?」
それを聞いて、今度は森田が言った。
「その逆はどうでしょう?犯人側から、有田看護師・・当時5歳の女の子を偶然発見してしまった。事件の発覚を恐れ、自分が犯人だという事を記憶しているかを確かめるために接触したとは考えられませんか?」
「覚えていなければ、そのままほっておけばいい、もし覚えていたのなら、何らかの方法で口封じをするということか?」と一樹が言う。
「ええ・・そうです。リスクはありますが・・偶然、身近に事件を知る人物が現れたとしたら、疑心暗鬼でいるより、いっそ確認したいと思うんじゃないでしょうか?」と森田が加える。
「確か、下川医師が有田看護師を神林病院へ呼び寄せたんですよね?」
藤原女史が思い出したように言った。
「ええ、そうです。神林病院のスタッフを集めていた時、下川医師から紹介があり、採用しました。」
君原副院長が答えた。
「では、下川医師と有田看護師は静岡の病院時代に会い、北海道の事件をどちらかから切り出した・・そして、今回の事件へ繋がったということになりますよね。遠藤技師はどうです?」
藤原女史が訊くと、君原副院長が答える。
「静岡の国立病院の友人から紹介があって、私が、採用するよう推薦しました。」
それを聞いて、藤原女史が言う。
「私が調べたところでは、下川医師と遠藤技師は国立病院で同時期に働いていました。」
「そうか!」
と一樹が立ちあがった。そして続けた。
「有田看護師と遠藤技師は、子ども時代に同じ施設で過ごし、兄妹の様な仲だった。その頃、有田看護師から事件の事を聞いていた。そして、その犯人の特徴も遠藤技師は知っていて、国立病院でその特徴を持った人物・・下川医師を見つけた。そのことを、有田看護師に伝え、有田看護師が下川医師に近づいた。そういう経緯じゃないでしょうか?」
それを聞いて、葉山が続ける。
「そこから今回の事件の準備が始まった。おそらく、下川医師に近づいた有田看護師は、北海道の事件の事を下川医師に話して、脅迫した。共犯者を含めた今回の復讐計画を手伝わせたという流れなら、理解できる。」
それを聞いて紀藤署長が口を開いた。
「だいたい、今回の事件までの経過はそれでまとめましょう。きっと、その裏付けになることが、手紙に書かれているでしょうから。・・では、手紙を開けてみましょう。」
5/9

nice!(0)  コメント(0) 

2-7 90年夏 北海道 [同調(シンクロ)Ⅱ-恨みの色-]

初めに、下川医師の手紙が開封された。
『新道院長 様 君原副院長 様
病院に多大なるご迷惑をおかけした事を深くお詫び申し上げます。
すべては、私が学生時代に犯した罪を隠すために仕組んだ事であり、病院側には全く関係ない事であることをお伝えいたします。』
こんな書き出しで、下川医師の手紙は始まっていた。そして、それに続いて、北海道の事件の経緯が詳細に書かれていた。

1990年 初夏
 大学生だった、上村(当時は横井)は、同郷の下川を誘って、北海道までやってきていた。
上村は、学生の身でありながら、株取引の会社を興していた。
時代は、バブル景気に沸き、僅かな元手で会社を興し、成功を収めたケースがごろごろあった。上村もその一人だった。だが、バブル景気は一気に弾け、金融危機となり、上村の会社も損失が嵩んで倒産寸前となっていた。僅かな元手で始めた会社である。手の打ちようのない状態で、会社の仲間たちはすぐに離れてしまい、今は、上村一人がその損失を補てんせざるを得ない状況に追い込まれていた。
医学生だった下川とは、高校時代から交流があり、東京の大学に進学した後も、連絡を取っていた。上村は、自らの状況を下川には話していたが、もともと、苦学生だった下川が援助するほどの余裕はなかった。行き詰った上村は、下川を誘って、同郷の佐原を訪ねて、北海道にやってきたのだった。
佐原は、東京の大学へ進学したが、実家の繊維会社が倒産し、多額の負債の連帯保証人だったため、大学を退学し、返済のために働き始めたが、アルバイトの身分では到底返せるものではなく、結局、東北を転々して借金取りから逃げ回っていたのだった。居場所は、大学時代の恩人には知らせていたが、上村がそれを掴んで、追ってきたのだった。

上村たちは、札幌郊外にある建設会社の社員寮に佐原が居ることを知り、連絡なしに佐原を訪ねた。
「こちらに佐原という男が働いていませんか?」
建設会社の受付で、上村は大きな声で尋ねた。その声に驚いて、事務員が飛んできた。
「あの・・どちら様でしょう?」
「ああ、佐原の高校時代の友人です。こっちにいるって聞いたものだから、ちょっと顔を見に来ました。」
事務員の女性は、少し生意気そうに話す若者を怪訝な顔で睨んだ。
「・・借金取りじゃないですよ。・・」
不信がる事務員に対して、上村はわざと陽気に答えた。
事務員は、事務所の扉の外に視線を遣る。ちょうど事務所の扉のガラス越しに、真っ赤なスポーツカーが停まっているのが見えた。助手席には下川が座っていた。下川は、地味な服装で髪を七三に分けていて、真面目で上品そうに見える。事務員はそれを確認したうえで、上村が、借金取りの類ではないだろうと判断して、佐原を呼んだ。
「今、作業場に居ますから、しばらくお待ちください。もうすぐ昼休みになりますから・・。」
事務員はそう言うと、自分の席に戻った。
上村はそう聞いて、車に戻ることにした。
「ここに居たよ。もうじき昼になるから戻るそうだ。」
運転席に座りながら、上村は言った。下川は気乗りしない様子で、「ああ」と曖昧に答えた。
30分ほど待っていると、作業着に身を包み、汗を拭きながら、佐原が事務所に戻ってきた。事務員から、面会者がいることを告げられ、外の赤いスポーツカーを指さしている様子が、上村たちからも見えた。
「どうしたんだ?こんなところまで・・。」
佐原は、運転席に近づくと、周囲を警戒しながら言った。借金取りに追われる日々の中で、周囲に気を遣うのが癖になっていた。
「いや・・ちょっと相談があって・・時間、あるか?」
上村は何か含みを持たせるような言い方をした。
それを聞いて、佐原は明らかに拒絶するような表情を浮かべる。上村とは高校時代からの友人だが、信用できないのだった。特に、こんなふうにやってくるのは、良い話ではない。高校時代にも、上村に乗せられて、犯罪に近い事をやらされてきている。その時の記憶が呼び戻されるようだった。
「いや・・君には申し訳ないんだが・・実は、横井が困っていてね。手助けしてやろうと思って・・」
助手席から下川が助け舟を出した。
佐原と下川は、高校の頃一時期、同じクラスで、ともに勉学ではトップクラスの成績だったこともあり、何かと行動を共にした仲だった。上村(横井)とは、腐れ縁という感じだが、下川とはむしろ親友に近い関係と言えた。その下川の言葉は、佐原も素直に聞けた。
「わかった・・だが、仕事を休むわけにはいかない。夕方、また来てくれないか。そうだ・・6時にここで待ってるから。」
佐原はそう言うと、事務所に戻って行った。上村と下川は、昼食を取るために、帯広方面へ向かう国道沿いの小さな喫茶店に入った。
「おい、横井。一体どうするつもりだ?・・佐原だって、借金に追われているんだ。金を借りるなんてこと無理だぞ。そもそも、お前の借金はとても返せる額じゃないだろ。自己破産して、やり直すほかないだろう?」
下川は、食事の最中も、同じような話を何度も繰り返した。東京から北海道までの道中も、何度も下川は上村を説得してきた。だが、上村は受け入れようとはしなかった。
上村は、下川の言葉を聞き流し、ぼんやりと外の景色を眺めていた。
5/11

nice!(1)  コメント(0) 

2-8 喫茶店にて [同調(シンクロ)Ⅱ-恨みの色-]

駐車場に置いていた赤いシボレーの横に、高級外車が停まった。
すぐに、助手席から黒づくめの若い男が現れ、後ろのドアを開く。すると、中から、三つ揃えのスーツに身を包み、黒いアタッシュケースを抱えた男がゆっくりと現れた。見た目で、その男がただのサラリーマンではない事はすぐに判った。
そして、その後を、作業着を着た中年の男がいやいや乍らついている。何か、脅されているようでもあった。
若い男が二人、先に喫茶店の中に入ってきて、店内を見渡したあと、アタッシュケースを持った男を奥の席に案内している。作業着の男もその後をついて入ってきた。
店内の観葉植物の陰の席に上村たちは座っていたため、例の若い男たちは、上村たちが居ることに気付かないようだった。
「おい。・・何だか面白そうな話が聞けそうだ。」
上村は、声を潜めて下川に言うと、身を縮めるようなしぐさをした。下川もつられて同じ姿勢を取った。
店主が、水をもって男たちの席に近づくと、若い男が遮り、「注文は良いんだよ!」と言って、店主を追いうようにした。よほど聞かれたくない話のようだった。
奥の席から話し声が漏れる。上村たちはそっと聞き耳を立てた。
「さあ、これで良いでしょう。お互い、損をしない話だ。牧場は提示した通りの価格で買い取る。そして、それとは別に、お礼を差し上げようというんです。これは、まったく表に出ないお金だ。これだけあれば、一生不自由しないでしょう。・・あなたが承諾してくれれば、全てが丸く収まるんですよ。」
三つ揃いのスーツを着た男の声に違いなかった。言葉は柔らかいが、野太い声で威圧感がある。ほとんど脅しているのと変わらなかった。
「しかし・・・・」
返答しているのは作業着の男のようだった。か細く弱々しい。今にも消え入りそうだった。
「工事は随分遅れているんですよ。あの土地が手に入れば、大きな道路がすぐにも開通する。そうなれば、市民の皆さんはたいそう喜ぶんです。いわば、あなたは地域の功労者になれる。その上、これだけの金を手に入れることができる。どこに問題があるんだ。」
三つ揃えのスーツの男は少し苛立ち言葉が悪くなった。
「先祖から引き継いだ土地なんだ。・・親父が生きている間は・・。」
作業着の男は、何とか絞り出すように話す。
「親父?・・じゃあ、すぐにも死んでもらえばいい。・・それくらい、お手伝いしますよ。」
三つ揃えのスーツの男は、不敵な笑みを浮かべて、そう言うと、煙草をくわえる。すると、若い男がすぐさま火をつける。
「そんな・・・。」
作業着の男が叫び声にも似た声を出した。
「冗談ですよ・・だが、私の一声で、簡単にやってしまうような男を知っているということです。そんなことはしませんよ。・・だが、身の安全を考えるなら、そろそろ決断した方が良い。そうだ、確か、あなたには、奥さんも、小さなお子さんもいらっしゃる。無事に毎日暮らせると良いんですがねえ・・」
男はそう言うとたばこの煙をふーっと吐き出した。
傍で聞いていても、もう、承諾する寄り道は無いのは明らかだった。
「じゃあ、こうしましょう。承諾していただけるなら、アタッシュケースをもう一つ用意しましょう。ざっと2億円になる。これだけあれば、本土へ転居して、新しい土地へ新築の家を建て、さらに、お子さんたちも大学までやれるでしょう。土地の代金と併せて、ざっと3億円になる。それで手を打ちましょう。」
一方的だった。
「おい、どうなんだ!」
脇に居た若い男が、乱暴な言葉を浴びせる。
「おい、黙ってろ!私がこの方と話をしているんだ!」
スーツの男は、若い男の胸座を掴んだ。そして、タバコの火を若い男の額に押し付ける。ジューと音がする。若い男は脂汗を流して耐えている。
「わ・・わかりました・・。」
作業着の男は机に突っ伏して承諾する。
「わかっていただければ良いんです。では、この書類に署名と捺印をお願いします。」
スーツの男は涼しい顔で、書類を差し出し、作業着の男にサインをさせた。
「では、今日はこれで。・・今夜にも、お宅に権利書を受け取りに参ります・・。」
スーツの男はすっと立ちあがると、作業着の男を連れて、店を出て行った。上村と下川は、気づかれないようにそっと窓の外を見る。ゆっくりと高級外車が動き始め、出て行くのが見えた。
「おい、下川!追うぞ!」
上村はそう言うと、食事代も払わずに店を出る、下川は慌てて代金を払って、上村の後を追う。
国道は車の通行はほとんどなかった。いったん見失ったが、上村は自慢の車を飛ばして、すぐに高級外車に追いついた。高級外車は、そのまま、国道274号線を帯広方面へ走っていく。前後の車は居ない。上村は高級外車に気付かれないよう、少し距離を置いて走る。人家が亡くなり、山間に入る。目の前に、ダムが見える場所までくると、高級外車が停まった。
道路わきには、白いトラックが停まっていた。そこで、作業着の男が、アタッシュケースを二つ抱えて、車を降りた。高級外車はそこでUターンすると、来た道を戻って行く。
上村は気付かれないよう、そのまま、高級外車とすれ違うと、ダムの近くまで来て車を停める。
しばらくすると、作業着の男が白い車に乗り込むのが見えた。作業着の男は、乗り込んだものの、すぐには発進せず、ハンドルに伏せるようにしている。おそらく、鐘を受け取ったことを後悔しているに違いなかった。しばらくすると、顔を上げて、車を急発進させ、ダムの方面へ向かって走って行った。
「佐藤牧場・・か・・。帯広郊外にあるようだな・・。」
上村は、白いトラックに書かれた名前と住所を瞬時に読み取っていた。
「よおし。」
その言葉は、何か、良からぬことを思いついたことを感じさせるものだった。
「おい、佐原のところへ戻るぞ。」
5/14

nice!(1)  コメント(0) 

2-9 悪魔の誘い [同調(シンクロ)Ⅱ-恨みの色-]

国道をひたすら札幌方面へ走りながら、上村の顔は、徐々に紅潮していくのが判った。途轍もない事を思いついている事は下川にも十分に理解できた。
「おい、一体、何を考えているんだ!」
下川は、異常と思えるような形相の上村を見て、堪らず言った。
「一挙に問題は解決するんだよ!まあ、任せておけ。」
「まさか。お前、あの金を・・。」
「ああ、そうだ。どうせ、裏の世界の金なんだ。表に出ることはない。」
「犯罪だぞ!」
「俺の借金は、これからまじめに働いても到底返せる金じゃない。多少のリスクは避けられないさ。少しばかり、分けて戴くだけだ。」
「お前は、それに、佐原を巻き込もうって言うのか?」
「ああ、あいつだって、親の借金に困っているんだ。すぐに乗るさ。」
「馬鹿な事はやめるんだ!」
「いいさ。・・お前はここで降りても構わないよ。だが、他言無用だ。」
もはや、上村を止める事などできなかった。

佐原の務める建設会社に到着した時には、辺りは夕日に染まっていた。
上村は、佐原を車に乗せると、すぐに、今来た国道を取って返した。
「いい話がある。お前は親の借金で苦労しているんだろう?・・俺も借金に追われている。このままじゃ、二人とも一生浮かばれない。・・どうだ、これから一緒に、仕事をしないか?」
上村は、そう言うと、昼間、喫茶店で見たことを詳細に佐原に説明した。
「それは犯罪だろう。・・それより、今の話を警察に話した方が良い。その・・佐藤牧場の人は、きっと無事には済まされないだろう。いったんは、金を受け取れたとしても、その後、もっとひどい目に遭うかもしれない。」
佐原の言葉は正しかった。
「じゃあ、お前は、このまま一生借金取りから逃げ回って生きていくつもりなのか?」
上村が、吐き出すように言うと、佐原は答えに窮した。大学を辞め、アルバイトをしながら、借金取りから逃げ回り、実のところ、もう気力も体力も限界に来ていた。正直なところ、この仕事を最後に命を絶つことさえ考えた事もあった。
上村はその様子を見て囁くように言った。
「盗むんじゃない、少しの間、借りるんだ。目の前の借金を返して、真面目に働いて、コツコツ返すんだ。もともと、悪銭なんだ。それを借りて、俺たちは更生する。そう考えようじゃないか。」
身勝手な理屈だった。そもそも、借りる事などできるものではないはずだった。しかし、佐原にとって、その言葉は、充分すぎるものだった。
「ああ・・判った。だが、命を奪ったり、傷つけたりしない。見つかったら、正直に捕まろう。それならば、おれはやるよ。どうせ、このままじゃ、野垂れ死ぬだけだ。」
佐原の言葉に、下川は驚いて訊いた。
「君は、本当にやるつもりか?」
佐原は、じっと下川の目を見て言った。
「下川君、君は、何も知らなかったことにするんだ。これは、僕と奴だけがやることだ。君はまっとうに生きるんだ。」
「いや・・ここまで、横井を連れてきたのは僕だ。こうなったのは僕の責任でもある。こうなったら、君と横井だけの事にはできない。最後まで見届ける。そして、横井が約束を守るよう監視する。」
下川は佐原の肩を強く掴んだ。
「よし・・じゃあ、行くか。」
3人の乗った赤いシボレーは、国道を帯広方面へ走り出した。

途中、行違う車はほとんどなかった。
車内の3人は、じっと無言で、暗い国道の先を見ている。
幾つかの峠道を超えると、目指す「佐藤牧場」が見えてきた。周囲には、民家はなかった。背後に原生林を抱えた牧場が山麓にポツンとあった。開拓以降、代々の男たちが山を切り開き、開墾し、農地にしたのだろう。土地に対する執念は、いわば、佐藤一家にとってはここに生きた証に違いなかった。

赤いシボレーは、牧場の手前の森の中に隠すようにして停めた。万一にも誰かに目撃されてはならない。暗闇に紛れて、3人は佐藤牧場へ向かう。夜8時を回ったころだった。

牧場の入り口には、外灯が一つあった。入口には、佐藤と書かれた表札と、牧場主「佐藤健一郎」の名が書かれていた。
3人は、身を隠すようにして、牧場の周りを囲むように立っている柵伝いに、大きく回り込んで、佐藤一家が住んでいる母屋からは、最も離れた辺りから、敷地内に入った。
そして、いくつかの建物や農機具の陰を使って、背の高いサイロのある建物の中へ一旦身を隠した。
その中には、牛の飼料が山の様に積まれていて、そのための器具が置かれている。
その陰から、建物の窓越しに、母屋の様子を探る。オレンジ色の灯りにぼんやりと、食事をしている家族の姿が見えた。
3人はしばらくその様子を見ていた。祖父と祖母、父と母、そして幼い子供が二人、静かな夕食を摂っているようだった。
3人もふと自分たちの幼かった頃の事を思い出していた。幼い頃、佐原も上村も比較的裕福な家だった。下川は、母が病弱で、夕食は一人で摂ることが多かったが、それでも、年に何度か、家族で楽しい食事をしたことは記憶にあった。
「なあ・・本当にやるのか?」
下川が呟く。上村と佐原は、その問いにすぐには答えなかった。暫くして、上村が「ここまで来たんだ、やるしかない」とつぶやいた。
5/16

nice!(0)  コメント(0) 

2-10 招かれざる客 [同調(シンクロ)Ⅱ-恨みの色-]

三人がサイロの建物に潜んでから、1時間ほどが過ぎた時だった。
夕食を終え、家族はそれぞれ自分の部屋に戻ったようで、先ほどまでオレンジ色の灯りが点っていた食堂と思しき部屋の明かりが消えた。
しばらくすると、母屋の裏口から、誰かが出てくるのが見えた。
黒い影は、何か大きなものを抱えて、足音を忍ばせるようにして、サイロのある建物へ近づいてくる。そして、灯りもつけずに、建物の中に入ると、丸く固められた牛用の飼料の中に手を突っ込んでいるようだった。ごそごそとしばらくその動きが続いた。そして、抱えてきた大きなものをその中へ入れている。薄暗い中でどれだけ目を凝らしても、はっきりとした様子は判らなかった。
その間、三人はじっと息を潜めていた。
作業が終わると、その人影は再び、母屋へ戻って行った。そして、母屋の灯りが消えた。

三人は、静まった様子を確認して、先ほどの作業をしていた場所へ出てみた。
薄暗い中だが、随分と目が慣れてきて、間近の様子は判別できるほどになっていた。
「おい、これ・・。」
そう言ったのは、上村だった。飼料の中には、昼間見たアタッシュケースが押し込まれていた。
「ここに隠したんだ。」
上村は、そのアタッシュケースを取り出して、確認する。
「ああ、きっと家族にはまだ、話してないんだろう。」
下川が言った。
後ろめたい「金」であるのは間違いなかった。
上村は、アタッシュケース2個を地面に置く。そして、そっと開いてみる。中には、100万円の束が綺麗に並んでいる。まだ手を付けていない様子だった。
「おい、袋を出せ!」
上村が指示をする。
「本当に盗むのか?」
佐原が確認する。
「ここまで来て、手ぶらで帰るのか?・・言っただろう。ちょっと借りるだけだ。真面目に働いて返しに来るんだよ。」
勝手な理屈だった。
佐原が、仕方なく、服のポケットから、黒いごみ袋を取り出すと、上村は、それをふんだくるように受け取り、アタッシュケースから札束を袋に移す。
アタッシュケース2つ分の札束は、黒いごみ袋4袋に分けた。そして、空になったアタッシュケースには、散在している飼料の干し草を詰め込んで、元の場所に戻した。それから、三人は物音を立てないよう、サイロのある建物から外に出ようとした。
その時、牧場の前の国道から、車のエンジン音が響いてきた。
「おい、まずい、隠れろ!」
三人は、慌てて、元の場所に身を潜めた。
国道を走ってきた車は、ライトを消して、ゆっくりと佐藤牧場へ入ってくる。
よく見ると、それは、昼間に喫茶店で、見た黒い高級外車で、運転席と助手席に、あの若い男二人が乗っていた。
「あいつら・・。」
予想がついていたように、上村が呟く。
母屋の玄関で、男たちは、家の中の様子を伺っている。そして、裏手に回り、裏口から入って行った。
「権利書をいただきに来たぜ!」
少し乱暴な言葉で若い男が言った。
薄暗い部屋に男の声が響く。すぐに、牧場の主人、佐藤健一郎が飛び出してきた。
「静かに!」
「ああ・・悪かった。・さあ、約束の権利書・・出してもらおうか?」
「わかりました。すぐに用意します。ちょっと待ってください。」
そう言うと、佐藤健一郎は一旦奥へ入り、すぐに、権利書をもって戻ってきた。
若い男の兄貴分と思しき方が、それを開いて内容を確認する。
「よし、これで社長との取引は完了だな。・・じゃあ、明日にでも出て行くんだ。良いな。」
兄貴分の男は、にやにやしながら言った。
「いや・・明日というのは・・・まだ、親父にも話していないんだ。・・工事もまだすぐには入らないはずだ。せめて、1ヶ月は待ってくれ!」
佐藤健一郎は、至極、当たり前な事を要望した。
「おいおい・・あれだけの大金を手にしただろうが、・・家も家財道具もキャッシュで手にできるだろ?」
「そんな‥、無茶な!・・。」
「ほう、そうか・・なら、あの金は返してもらおうか。借金だけは帳消しにできるがな・・その先はどうなることかな?」
意地悪そうに、兄貴分が言う。
「そんな・約束が違う・・・おい、その権利書を返せ!・・・金も返してやる。さあ!すべてなかった事にする。返せ!」
佐藤健一郎は、兄貴分の手にある権利書を取り返そうとするが、あっという間に、弟分の男に、腕を羽交い絞めにされた。
「おい、俺たちに逆らおうってのか?・・身の程知らずだな。」
弟分の男は、羽交い絞めにした腕をさらに強く締め上げる。
「もともと、あんな大金、お前にはもったいないんだよ!・・こんな土地にこだわって、儲かりもしない牧場なんかにしがみついてるから、こんなことになるんだ!・・お前には、借金を苦に一家心中って筋書きがピッタリなんだよ!」
そう言うと、兄貴分の男が、佐藤健一郎の顔を殴りつける。
「おい、金はどこだ?金だけでも返せば、命は助けてやろう。どうだ?」
「わ・・わかった・・・。」
佐藤健一郎は、もはや観念した。これ以上逆らっても話が通じる相手ではない。
5/18

nice!(1)  コメント(0) 

2-11 惨劇 [同調(シンクロ)Ⅱ-恨みの色-]

佐藤健一郎は、若い男たちに小突かれながら、母屋を出て、サイロのある建物に入った。
「おい、金はどこだ!早く出せ!」
強面の兄貴分の男が太い声で脅すように言った。その様子から、昼間のやり取りを聞いていた、上村と下川は何が起きているのかすぐに判った。男たちが金を取り返しに来たのだった。
「命が惜しけりゃ、全部出せ!」
その言葉に、佐藤健一郎は、先ほど自分が隠した場所を指さした。
「持って来い!」
すぐに、弟分の男が佐藤健一郎と一緒に、飼料の山の中から、アタッシュケースを引っ張り出して、兄貴分のところまで運び出した。アタッシュケースがゆっくりと開けられた。しかし、中は、飼料屑が詰まっているだけだった。
「おい、これはどういう事だ!金は、金はどうした!」
兄貴分の男が強い口調で佐藤を問い詰める。問われた本人もどういうことか理解できない。兄貴分の男は顔を紅潮させ、佐藤を殴りつける。
「ふざけてないで、金を出せ!」
そう言いながら、何度も殴りつける。そのうち、佐藤は気を失ってしまった。
「おい、金を探すぞ!」
兄貴分の男はそう言うと、佐藤を放置して、母屋に戻る。
家人たちは、物音に気付いて起きだしていた。最初に、男たちに出くわしたのは、佐藤の父親だった。男たちの様子から、尋常ではない事はすぐに察知した。そして、土間に置かれていた鉈を手にした。
「出ていけ!」
高齢ながらも気丈な父親は、若い男たちに向かって、鉈を振り上げて威嚇する。しかし、若い男たちは、ひるむことはなかった。弟分の男が、父親を蹴りつけると、転んだ隙に、父親から鉈を取り上げた。
「おい、金はどこだ?・・昼間、息子に渡した大金はどこだ?」
凄んで問い詰める。しかし、父親は意味が解らない。
「ちっ!」
弟分の男は舌打ちすると、無表情に、鉈を振り下ろす。それは、父親の首筋を直撃し、真っ赤な血が噴き出した。それを見た弟分の男は、正常さを失った。訳の判らない言葉をつぶやき、凶器に満ちた表情を浮かべて、奥の部屋に向かう。
そこには、佐藤の母親と妻が立っていた。弟分の男は躊躇することなく、鉈を振り下ろす。二人とも、叫び声さえも上げる間もなく、絶命した。さらに、奥の部屋に踏み込んだ。そこには、小学生の男の子が立ちすくんでいた。
「ワー、ワーッ!」
男の子は、恐怖のあまり、叫び声をあげる。それでも、若い男は容赦なく、鉈を振り下ろす。
もはや、家の中は血の海になっていた。
後を追って、母屋に入った兄貴分の男は、余りの光景に驚いた。金を手にする事が目的だったはずが、一家皆殺しとなってしまっていた。
「おい!おい!やめろ!」
兄貴分の男の声で、弟分はようやく正気に戻った。全身、返り血を浴びていた。
「兄貴、どうしよう・・・。」
「この馬鹿が!」
兄貴分の男はそう言うと、弟分が手にしていた血塗れの鉈を取り上げて、手近にあったタオルで持ち手を丁寧に拭きとった。
「・・しかたない、・・一家心中に見えるよう細工するしかない・・・。」
そう言うと、鉈を持ったまま、サイロのある建物に戻って行った。
佐藤健一郎はまだ気を失ったままだった。
兄貴分の男は、鉈を佐藤健一郎の右手に握らせる。そして、弟分と佐藤の靴を取り換え、一度、母屋に戻らせた。そして、血に染まった床をひとしきり歩かせると、再び、サイロのある建物に戻り、佐藤にもう一度靴を履かせた。それから、建物の隅にあったトラクター用のガソリンタンクを運び、佐藤の全身に浴びせた。
「これで良いだろう。」
兄貴分の男は、そう言うと、藁に火をつけ、横たわる佐藤に投げつける。ガソリンに塗れた佐藤の全身を劫火が覆った。叫び声さえもなかった。
「おい、逃げるぞ!」
二人の若い男は、急いで車に飛び乗ると、峠の方角へ走り去っていった。
一部始終を、佐原、上村、下川の三人は、息を潜めて見ていた。
予想外の出来事だった。だが、確かに目の前で、一家皆殺しが行われた。そして、その発端は自ら招いたことだという事は明白だった。そのうち、佐藤健一郎の全身を包んでいた炎が、サイロの中の飼料にも燃え移る。三人は慌てて、建物を飛び出した。
「逃げよう!・・このままじゃ。俺たちが殺人犯になる。」
勝手な言い分だったが、上村の言葉に、佐原も下川も頷いた。
大きな袋を抱え、母屋の前を通り過ぎた時、佐原の目に人影が見えた。いや、そんな感じがした。
「ちょっと待ってくれ。」
佐原はそう言うと、抱えていた袋を地面に置き、母屋の裏口から、中を覗いた。
食卓の置かれた部屋の灯りで見える光景は、言葉にできないほど惨いものだった。佐原は蹲った。そんな様子を見ていた下川が、佐原の横に立ち、同じように中の様子を確認する。下川は医学生だった。実習の中で、手術の見学があり、真っ赤な血液が流れ出る光景はある程度見慣れていた。だが、そんな下川さえもその場に蹲ってしまった。
「おい、急げ。」
既に、出口付近まで逃げ出していた上村が声を掛ける。
「ああ・・すぐ行く。」
下川が答える。
「佐原、行こう。」
「ちょっと・・待ってくれ・・ほら・・あそこ。」
佐原が指差した先には幼子が立っていて、こちらを見ていた。

nice!(1)  コメント(0) 

2-12 救いの情け [同調(シンクロ)Ⅱ-恨みの色-]

「あの子、連れて行こう。」
佐原が言った。
「何、言ってるんだ?連れて行ってどうする?」
下川は、余りに突飛な佐原の言葉に、驚いて訊いた。
「だが、このままじゃ、可哀そうだ。皆、死んでしまって・・あのままじゃ、あの子も死んじまう。」
「そう言っても・・連れて行って、どうするんだ?」
「わからない。だが、このままじゃ・・・。」
佐原は涙を流している。
二人が話している間に、その幼子は、血の海の中をぼんやりとした表情で歩いて、裏口まで出てきていた。
「仕方ない!」
下川はそう言うと、目の前に立っている幼子に、自分の上着を掛け、まるで目隠しをするようにして、脇に抱え込んだ。幼子は抵抗しなかった。
「行くぞ!」
下川はそう言うと、佐原の背を叩き、車に向かって走り出した。佐原は、大きな袋を二つ抱えて、下川に続いて暗闇の中に走り出した。
周囲に気を配りながら、林の中に隠しておいた自分たちの車まで、一目散に駆けた。すでに、上村は車に乗っていた。下川は後部座席に座り、上着で隠すように連れてきた幼子を横たえる。佐原が乗り込むと、上村は車を急発進させた。
先ほどの男たちの向かった道と同じ方向へ走り続けた。幸い、行違う車は一台もなかった。
峠道は、幾重にもカーブが続く。上村の運転する車は、タイヤを鳴らしながら、とにかく、忌まわしい現場から少しでも遠ざかりたい、その思いだけで、走り続ける。どこに向かっているかなど、どうでも良かった。峠を幾つも越えた。3時間近く走り続けたが、その間、三人は無言だった。先ほどの光景は、映画かドラマの一場面で、現実に起きた事ではないと思い込みたかった。
気づくと、空が白み始めている。
国道をひたすら西へ向かって走ったようだった。左手に広がる海、太平洋だろう。水平線から朝日が顔を見せると、長いトンネルを抜け出したような、悪夢から解き放たれたような感覚を覚えた。
上村は、国道沿いの小さなパーキングスペースに入ると、駐車場の一番隅に駐車した。
「少し、休もう。」
運転し続けてきた上村は、随分と疲れていた。体力と精神力の両方を奪われ、そのまま、シートを横たえて眠ってしまったようだった。下川は、自分の上着で隠すようにして連れてきた幼子の様子を見た。静かに寝息を立てているようだった。その寝顔を見て、下川も一気に緊張が解けて、眠気が襲ってきた。佐原は、札束が詰まった袋を両脇に抱えたまま、すでに眠っていた。
初めに目を覚ましたのは、下川だった。脇に居た幼子が目を覚まし、下川の腕を揺すり起こしたのだった。
「なんだ?」
幼子は、苦しそうな顔をしている。
「なんだよ、言ってみろ!」
しかし、幼子は何も言わず、一層苦しそうな表情を浮かべて、下腹辺りを押えているようだった。
「トイレか?」
下川が訊くと、幼子は頷く。
下川は、幼子の口に手を当て、声を立てさせないようにして、佐原を起こす。佐原は、下川の合図に気付き、そっとドアを開けて外に出た。そして、助手席のシートを倒して、幼子を外に出した。早朝のパーキングスペースには、人影はなかった。佐原は、幼子を抱えると、小走りにトイレへ向かった。
「一人で行けるか?」
佐原が訊くと、幼子はこくりと頷いた。
「行って来い。ここで待っててやるから。」
幼子はすたすたとトイレの中へ入っていく。待っている間、周囲に気を配りながら、ふと考えていた。
『あいつ、昨夜の事は覚えていないのかな?・・いや、そんなはずはない。・・あの中に居たんだ。何が起きたかくらいわかっているだろう。・・だが、どうして、泣かない?・・』
そこへ、下川がやってきた。
「トイレだ。お前は?」
「ああ・・俺も・・、先に行け。」
短い会話を交わし、下川がトイレに入る。残った佐原は、遠くに見える山々に視線を遣る。あの山の向こうで、あの惨劇は確実に起きた。おそらく、まだ、誰にも発見されていないに違いなかった。自らの罪を今になって思い知っているのだった。
ふいに、右手を掴まれ、佐原は驚いて飛びのいた。幼子がトイレから戻ってきて、佐原の手を握ったのだった。撥ねつけられるような形で、握った手を離された幼子も、驚いている。その表情は怯え切っていた。
そこに、下川が戻ってきた。二人のただならぬ様子を見た下川は、咄嗟に幼子を抱き締めた。
「どうしたんだ、佐原君。」
下川は、佐原を落ち着かせようと、わざと静かな口調で訊いた。
「いや・・何でもない。急に手を握られてびっくりしただけだ。済まない。」
佐原も冷静になって答えた。
「大丈夫だよ。心配ない。」
下川は抱きしめている幼子に言った。罪の意識からか、下川は幼子を庇うように優しく言った。
「お前、名前は?年はいくつだ?」
佐原が訊く。
幼子は、口を動かそうとするが、声は出ていない。そのうち、泣き出しそうな表情になった。
「良いんだ・・大丈夫だ。もう良い。答えなくていいよ。」
下川が庇うように言った。そして、下川は佐原に向かって、小さな声でこう言った。
「目の前の惨劇で、失語症になっているのかもしれない。無理に訊かない方が良い。」
下川は医学生だった。精神科の領域も学んでいて、幼子の表情や仕草から、そう推測した。
「だが・・どうする?名前が判らないんじゃ・・。」
佐原が訊く。
「この子の名は、優香だ。・・家に入った時、表札を見た。間違いない。・・年は判らないが、体格から推察すると、おそらくまだ学校に入っていないんだろう。」
下川はあっさりと答えた。

nice!(1)  コメント(0) 

2-13 飴 [同調(シンクロ)Ⅱ-恨みの色-]

 下川と佐原が、優香を連れて車に戻ると、上村が目を覚ましていた。
「おい、どういう事だ?」
上村は驚いた表情で言った。
「いや・・あの家から連れてきたんだ。」
佐原が答える。
「そんなことは判ってる。どうして連れてきたのかって訊いているんだ!」
上村はかなり苛立った様子で訊く。当然である。あの現場から何とか逃げ出し、この先、如何に怪しまれず逃げおおせるかが最大の問題である。そんな状況で、幼子を連れて来るなど、到底理解できなかった。
「あそこに、この子一人、残して置けるか?」
下川が言う。
「だからって、連れて来てどうする?警察に連れて行けば、俺たちの罪もすべて露見するんだぞ。」
上村は怒りが収まらない。
「わかってる。だが・・」と佐原が言う。
「ここに置いていこう。そのうち、誰かが見つけて保護してくれるさ。」
と上村は冷たい表情で言う。
「いや、駄目だ。この子は、きっと・・失語症になっている。精神的にかなり不安定だ。あの惨劇を見て、心が壊れてしまっているんだろう。ここで、置き去りにすれば、きっと一生治らなくなる。もう少し、精神的に落ち着くまでは一緒に居た方が良い。」
下川が言うと、上村は反論した。
「そんな・・お前は馬鹿か!事件の証人なんだぞ。このまま、口がきけないなら、俺たちの事だって話しようもないだろう?好都合じゃないか。ここに置いていく。」
夜明け直後のパーキングスペースには、人影などない。前の国道を通り過ぎる車さえなかった。
「せめてもう少し先まで連れて行こう。ここじゃ、可哀そうだ。そうだ。札幌まで連れて行こう。人通りが多い所で解放すれば、何とかなるんじゃないか?」
佐原が問題を先延ばしする提案をした。
「わかった。じゃあ、こうしよう。」
呆れ顔で上村は、そう言うと、これからの逃避行の方法を提案した。
「いいか、ここからは3人で一緒に動くのは止める。どこかで、大きめのスーツケースを買って、金を詰めて、3人で分けて持つ。そして、一番近くの駅で、まず、佐原を降ろす。そして、札幌で下川を降ろす。それぞれ、別々のルートで東京へ向かうんだ。・・落ちあうのは、下川のアパートが良いだろう。・・下川は、仙台から新幹線で一番先に東京へ帰るんだ。佐原は、日本海側から列車で東京へ。俺は、苫小牧へ向かってフェリーで東京へ向かう。できるだけ、バラバラに動いた方が良いだろう。」
「判ったが・・この子は?」と佐原。
「それは、お前たちで何とかしろ。札幌で解放するとしても、怪しまれないようにするんだ。良いな。」
上村はそう言うと、車に乗り込んだ。
下川と佐原は顔を見合わせる。
「優香の事は俺に任せろ。」と下川が言った。
すぐに車は札幌に向かって国道を走り出した。
途中の小さな町で、大型のスーツケースを買い、袋に入っていた札束を移し替えた。そして、上村の提案通り、まず、佐原が最寄りの駅で車を降りた。
佐原が車を降りる時、優香が佐原の手を強く握った。そして、自分のポケットに入っていた、一粒の小袋に入ったバター飴を一つ、佐原に差し出した。
「これは?」
佐原は驚いて優香の顔を見た。
優香は何も言わない。ただ、涙を一粒溢した。
下川はそんな優香を見て、「きっと、君にお礼をしているんだろう。」と言った。
佐原は複雑な気持ちだった。彼女を不幸のどん底に落としたのは、紛れもなく、自分たちなのだ。だが、その幼子には理解できていないに違いない。
「済まなかった。」
佐原はその言葉しか出て来なかった。
そして、踵を返すと、駅に向かって走り出した。優香は走り去る佐原の姿をじっと見つめたままだった。
暫く車を進め、札幌駅の手前で、優香を連れて下川が車を降りた。
「いいな!その子は置いてくるんだぞ。」
上村はそう言うと、二人を駅前の通りに置き去りにして、走り去っていった。
上村の車を見送った後、下川は、優香に訊いた。
「お腹は空いてないか?何か食べるか?」
優香は小さく頷く。二人は、駅前の小さな喫茶店に入った。
二人は一番隅の席に座り、優香はサンドイットとオレンジジュース、下川はトーストとコーヒーを注文した。早朝とあって、客はほとんどない。喫茶店の店主も、客が少ないせいなのか、奥の厨房に入ったままだった。
暫くして、注文の品が運ばれてくると、二人は黙々と食べた。不思議と食欲だけはあった。優香もぺろりと平らげていた。喫茶店のカウンター席の隅、天井との間に設えられた棚には小さな赤いボディのテレビが置かれていて、NHKのニュースが流れている。
全国のニュースに続いて、北海道地方のニュースに切り替わったが、昨夜の事件はまだ報道されていなかった。下川は、それを確認すると、不道徳ながらも安堵の感情が湧いてくるのだった。
通勤時間が近づいてきたのだろう。徐々に、通行人が増えているようだった。
「そろそろ行くか。」
下川は、右手で優香の手を強く握り、左手で大きなスーツケースを押しながら、店を出るとまっすぐに、駅に向かった。上村には、優香を札幌駅で解放すると約束したが、下川にはできるはずはなかった。佐原もそれは承知しているはずだった。
下川は、窓口で、一旦、青森駅までのチケットを買った。大学生と幼子の二人連れは、少し不思議な関係に見えるはずだった。あとで、事件が発覚し捜査が始まった時、幼子の行方を追う中で、二人の存在は必ず発見されるだろう。足取りを追われた時、行先が東京と判るのではないかと不安になり、途中駅まで購入することにしたのだった。
上村は、チケットを受け取ると、優香の手を握り、ホームに向かった。

nice!(1)  コメント(0) 

2-14 逃避行 [同調(シンクロ)Ⅱ-恨みの色-]

佐原は、函館本線から青函トンネルを経て、青森に出ると、日本海側を東京まで向かうルートを取った。
佐原も、下川同様、万一の事を考え、新潟駅までのチケットを購入した。東京には、乗り継ぎが悪くて、函館を出て2日は掛かる見込みだった。それなら、特急を使用せず、できるだけ在来線の鈍行列車を選んでいくことにした。
途中で購入した帽子を深く被り、俯きがちに席に座り、目立たないように注意した。日本海側の列車は、それほど混んでいない。佐原の席の周りに他の客が座る事も少なく、少し気持ちに余裕が出きた。窓の外には、豊かな自然の風景が見える。ぼんやりと眺めていると、数日前に大罪を犯し、大金をもって逃げている事を忘れられるようだった。
ふとポケットに手を入れると、あの幼子がくれた「飴」が入っていた。透明の小袋に入っているのは、黄色のバター飴だった。佐原はしばらく、その飴を見つめた後、ゆっくりとポケットにしまい込んだ。胸の奥から、じわじわと得体のしれない感情が湧きあがり、強く歯を食いしばった。ただ、瞳からは止め処なく涙が溢れてくる。
数日前まで、工事現場で黙々と働いていた。そこには、自分がただその日を生き延びる、それだけの日々があった。寂しい生き方なのかもしれない。だが、誰も傷つけず、世間の片隅で息を潜めて静かに生きていた。今は、それと似ているが、重大な罪を犯し、生きる事さえも憚られる存在に違いない。救われることなどない、そんな道を進んでいるようだった。

上村は、フェリーで苫小牧から東京まで向かうルートを取ることにした。
苫小牧港に到着し、フェリーの運航を確認すると、すぐに出航する便が確保できた。上村は、船に乗り込むとすぐに客室へ入ると、できるだけ目立たない席に座り、大きく深呼吸をした。
罪の意識を感じないわけではない。だが、殺人を犯したのは、あの二人組だ。自分たちは、現金を盗んだだけだ。罪を問うのならば、あの二人組の男にこそ、厳罰が下るべきだ。こんなことになったのは、只々、運が悪かったんだと勝手な言い訳を考えていた。
それに、あの幼子だ。置き去りにしたほうが良かったはずだ。いずれ発見され保護されるに違いない。佐原と下川は余計な荷物を背負いこんだだけだ。置いておくわけにはいかなかった?そうじゃないだろ?むしろ、見も知らぬ男に、否応なく連れて来られただけだ。拉致したのと同じだろう?なぜそれが判らない。上村は、フェリーの席で、一つ一つ思い出しながら、佐原と下川への不信感を募らせていた。
船窓からは、太平洋の海原が見えている。
視線の先にかすかに水平線が見えるようだが、空との境目ははっきりしない。現実なのか、夢なのか、今の自分の状況さえもはっきりしないようで、ただ、ぼんやりと、眺めていた。

下川は、優香を連れ、仙台へ向かっていた。
奥羽本線の車内は、乗客も少なく、車掌もほとんど回って来なかった。優香も疲れてしまったのか、青森駅で乗車して、すぐに眠ってしまった。
下川は、この先を考えていた。東京に着いた後、手元のある大金と優香をどうすれば良いのだろう。あの場に置いておくことは出来ず、連れてきたものの、やはり、大学生の自分には、幼子をどう扱えばよいのか判らない。やはり、どこかで置き去りにするほかないのだろうという考えに行きつく。しかし、失語症の幼子を本当に置き去りにできるのか、罪を重ねることになるのではないか、ぐるぐると頭を巡り、頭痛がしてくるのだった。
ふと、脇の席の優香の寝顔を見ると、あどけない表情を浮かべていた。
親兄弟を目の前で斬殺された光景はきっと一生忘れることはないだろう。それに、見も知らぬ男に、見知らぬ土地へ散れていかれる身の上を、この先、どう受け入れるのだろうか。そして、そうした精神的ストレスが引き起こした「失語症」はいつか感知するのだろうか。幼子の将来を想像すると、自らの罪の重さを再認識するのだった。
仙台駅に到着しても、優香は目を覚まさなかった。よほど疲れていたのだろう。下川は優香をおんぶして、新幹線のチケット窓口へ向かう。
大きなスーツケースと優香、佐原に会いに行く時には、こんな自分は想像もできなかった。どちらも、自ら望んで手にしたものではない。いや、むしろ、手放したい気持ちの方が強いかもしれない。あの惨い現場が何もかも変えてしまった。
下川は、新幹線チケットを購入するとすぐにホームに向かう。乗客が多くなっていて、座る場所などなかった。下川は、ひとつ大きな溜息をついた。
それがきっかけだったかどうか、背中の優香が目を覚ました。周囲を見回すと見たことのない大きな場所、たくさんの人が並んでいる。時折大きなアナウンスが流れる。優香は急に怖くなり、下川に強くしがみついた。
「ん?起きたのか?」
下川が少し頭を後ろに回そうとした。その時、優香の目に赤い模様が映った。下川の首筋から肩にかけて、赤い痣のようなものがあった。それは、斜めに一筋、傷痕のようにも見えた。優香はそっと指先でその赤い痣のようなものに触れる。
「止めろよ!」
下川が少し声を荒げるように言った。その声に、優香は身を縮める。
「すまない。・・ちょっと冷たくて・・それは小さい時の怪我の跡なんだ。・・ブランコから落ちて、肩から背中に深い傷を負ったんだ。もう少しで死ぬところだった。」
優香は、下川の言葉をしっかり聞いている。
「さあ・・目が覚めたんなら降りてくれ。」
下川はそう言うと、優香を降ろした。優香は、眉をひそめて下川を見ている。
「ああ・・傷の事か?もうすっかり治っているから、心配ない。」
下川はそう言うと優香の頭を撫でた。
俺の心配をしている場合じゃないだろう。これから彼女はどう生きていくのだろうか、このまま東京へ連れて行ってどうすればいいのか、下川は、再び、あの問が頭の中を巡る。
ちょうど、上野駅行きの新幹線がホームに入ってきたところだった。

nice!(1)  コメント(0) 

2-15 置き去りの理由 [同調(シンクロ)Ⅱ-恨みの色-]

(15) 置き去りの理由
下川は、その日の夜には東京に着いた。
下川のアパートは、東京郊外の町で、周囲にはまだ田園風景が残っていて、アパート周辺も静かな住宅街だった。下川の実家は、病院を経営していて、裕福な家庭だったため、下川は、2DKの間取りの広い部屋を借りていた。上村は、そのことを知っていて、三人の落ちあう場所を、下川のアパートにしたのだった。学生一人住むには広すぎる部屋で、一部屋は全く使っていなかった。優香には、その部屋を使わせることにした。アパートは、家族住まいも多く、子どもが出入りしていても不信感は抱かれない。それ以前に、アパートにどんな住人がいるのか、まったく関わりのない環境だったため、下川は優香を連れている事に神経質にならずに済んだ。
二人が戻ってくるまでの間に、下川は、優香のために必要なものを買い揃えることにした。
衣服だけは、優香を連れて行かないと難しかったので、大型量販店で購入し、それ以外は、アパート近くの商店街で購入した。優香は、変わらず、話せなかった。衣服を選ぶ時、店員に不審がられないよう、下川が幾つか選び、優香の反応を見て決めた。幼子のものを買うなど初めてで、とりあえず、今着ているものに似たものをいくつか選んで購入した。
食事は、それまでほとんど外食だったので、冷蔵庫はあるものの、調理器具などほとんどない。万一あったとしても、料理などやったこともない。朝食用にパンと牛乳程度は購入したが、結局、近くのファミレスに行くことにした。優香は、おそらく、北海道では外食などしたことがなかったに違いない。ファミレスに入ると、優香は物珍しそうな表情で店内を見ている。席に着き、メニューを広げる。少し誇張気味のメニューの写真を食い入るように見て、ハンバーグを指さした。まだ、午後6時を回ったくらいの時間だったため、比較的店内は空いている。家族連れの姿もほとんどなかった。
二日ほど、下川と優香、二人で過ごした。
依然として会話は一方通行なのだが、意思疎通は出来るようになっていて、時々、優香が笑顔を見せるようになっていた。
その笑顔を見るたびに、下川は、考え込んでしまう。彼女は、父や母の事を思い出さないのだろうか?見知らぬ他人と過ごす事に何の抵抗もないのだろうか?あの惨い光景を目の当たりにして、無意識に、記憶を封印してしまったのだろうか?あまりにも、普通に、接してくれる優香を見ていると、失語症以上にもっともっと深刻な状態にあるのではないだろうかと考えてしまうのだった。
上村と佐原は、二日後のほぼ同じ時間に、下川のアパートに現れた。
佐原は、この3日間、ほとんど食事がのどを通らず、見るからに憔悴しきった表情を浮かべて現れた。下川のアパートに入るなり、座り込んでしまった。それを見た優香は、佐原の体に寄り添うようにして、背中を摩った。まるで、母親が子供を慈しむようなしぐさを見せた。

少し遅れて、上村が現れた。大罪の事などすっかり忘れてしまったかのように、アパートの前に車を停めると、軽快な足取りで階段を駆け上がり、玄関を叩いた。
「戻ってるか?」
上村は、旅行先から戻ったような上機嫌の声だった。下川は相反するように沈んだ表情でドアを開ける。バタンとドアを閉めると、急に、上村の態度が変わった。
「いい加減にしろ!そんなんじゃあ、周囲に怪しまれるだろう!」
罵声ともとれるような声を浴びせ、部屋の入ると、隣りの部屋に優香が居るのを確認した。
「ちっ!まだ居るのか!」
吐き出すように言うと、下川を睨み付ける。それを見て、優香は佐原の背中に隠れた。
「さあ、これからどうする?」
部屋の壁に背をつけて置かれた古びたソファにどかりと座ると、上村は、下川と佐原に訊いた。
下川も佐原も、すぐには答えられなかった。とにかく、あの場所から遠ざかりたい、忘れたい、その一心だったようで、東京に戻り、少しばかりの安堵を感じているところだったからだ。
「佐原、お前は、金を持って実家へ戻れ。・・ああ、そうだった、実家は無くなったんだったな。まあ、いいさ。その金で借金を返して自由の身になればいい。とにかく、大学を辞めアルバイトをして借金を返し宝といって、郷里に戻るのが自然だ。良いな。」
佐原は頷いた。
「下川はどうする?そのまま、大学に残るか?・・まあ、そうだな。お前は頭が良いんだ。そのまま、医者になればいい。そして開業するとき、その金を使え。今は、金に困ってるわけじゃないだろ?むやみに使うな。」
上村は、東京に戻ってくるまでに、二人今後の事をじっくり考えてきた様子だった。
「君はどうする?」
下川が、上村に訊いた。
「俺は、もともと、寺の次男坊。とっくに親からも見放されてるんだ。暫く、こっちで自由にやるさ。まあ、一度、親に顔を見せてこようとは思うが・・・しばらく、あの金には手を付けないようにするさ。」
「そうか・・・。」
「それより、お前、その子、どうするつもりだ?このまま、お前が面倒みるつもりか?」
上村の問いに、下川は答えられなかった。
「悩んでる問題じゃないだろう?学生のアパートに幼子が居るなんて、不自然だし、おそらく、そこから足がつくに決まってる。」
「だが・・」
「だが・・じゃないぞ。もういいさ。俺が連れて行く。あそこで話した通り、どこかで置き去りにしてやるさ。どうせ、お前たちにはできないだろう?」
そこまで言うと、上村はすっくと立ちあがり、佐原を押しのけて、優香の前にしゃがみこんだ。
「まだ、話は出来ないんだろ?」
試すように上村が訊く。優香は、歯を食いしばり、涙が零れそうになっている。
「泣いたって駄目だ!俺は、こいつらとは違う。お前はもう天涯孤独なんだ・・親兄弟は誰もいない。命があること自体、不幸ってもんだよ。・・心配するな、殺したりはしない。・・・親のいない子は、施設に入るんだ。・・俺は、良い処を知っているんだ。そこへ連れて行ってやる。そこなら、大丈夫さ。」
何か意味深な笑みを浮かべている上村を、優香は、睨みつけている。
「まあ、いいさ。お前に好かれようとは思っていない。さあ、行くぞ。」
上村はそう言うと、優香の腕を強く握り引っ張った。思わず佐原が止めようと手を出したが、上村は、もう片方の手で佐原を殴りつける。
「お前は馬鹿か!お前たちができないから、俺がやってやるんだろう?感謝しろよ。」
上村は吐き捨てるように言うと、そのまま、優香を引っ張って、玄関を出て行った。佐原は、慌てて、カバンを掴み、上村の跡を追い、玄関を出た。上村は、階段下に停めた車に、優香を押し込んで、出発しようとしていた。佐原は、階段を転げ落ちそうになる勢いで降りると、上村の車の前に立ちはだかった。
「待て、俺も行く!」
そう言うと、佐原は、助手席のドアを開け乗り込んだ。そのまま、上村はクルマを発車させた。

nice!(1)  コメント(0) 

2-16 別れの夜の出来事 [同調(シンクロ)Ⅱ-恨みの色-]

上村は、まっすぐに首都高速に乗り、東京料金所から、東名高速を西へ向かった。下川のアパートを出発してから、上村も佐原も口を開いていない。
 車窓から、富士山が近くに見えるようになった。御殿場の足柄サービスエリアの看板が見えたところで、ようやく、上村が呟いた。
「ガソリンがないな。」
上村の車は、できるだけ静かにパーキングに入り、給油スタンドに立ち寄った。ガソリンスタンドの店員が近づいてくると、上村は唇に指を当て、静かにしろというジェスチャアをした。
「満タンにしてくれ。できるだけ静かにな。ああ、釣銭は要らない。」
上村は、静かに言うと、ポケットから1万円札を取り出して店員に渡した。
店員は、助手席に座って眠りこけている佐原の姿を見つけて、事態を把握し、静かに作業を進めた。
給油中、上村は押し黙って何か考えているようだった。
満タンになると、一旦車を駐車場の一番はずれに停めた。
「トイレに行って来よう。おい、お前も行くぞ。」
そういうと、優香を無理やり連れだした。
「さあ、行って来い!」
上村は、優香の背を小突くようにして、トイレに向かわせる。優香は、幼いながらも、ここで置き去りにされるのだと判って、動こうとはしなかった。
「わかった。そうだ、ここでお前を置いていく。そのうち、誰かが声を掛けてくれる。その人について行けば良い。良いな。」
上村は勝手な言い草で、ポケットから一万円札を取り出し、優香に握らせながら続ける。
「腹が減ったら、これで何か買って食え。さあ、行け!」
上村はそう言うと、優香を置き去りにして、一目散に車に駆けだした。
そして、振り返ることなく、車に乗り込むとすぐに発車させた。
タイヤがスリップして甲高い音を上げるほどの猛スピードで、車は足柄サービスエリアを飛び出していった。

沼津インターを超えた辺りで、ようやく、佐原が目を覚ました。そして、後部座席に優香の姿がないことに気付いた。
「おい、あの子は?」
答えは判っていたが、まさか、こんなに早く実行するとは思ってもみなかった。
「ああ・・足柄のサービスエリアで置いてきた。」
「お前、なんてことを!」
「大丈夫だ。あそこは真夜中でもトラックが入っている。24時間、誰かが居る。そのうち、どこかの善人が声を掛けるさ。」
「おい、戻れ!」
「ふざけるな!戻ってどうするんだ?連れて行くのか?」
「何でもいい!とにかく戻れ!」
逆上した佐原が、運転している上村のシャツを掴む。
「止めろ!」
車は高速道路を時速100KMを超える速度で走行している。
急にシャツを掴まれた上村は慌ててハンドルを取られそうになる。しばらく、車は右左と蛇行して走った。
「止めろ、佐原!危ない!」
「うるさい!俺たちは大悪人だ。死んだほうがましだ!」
佐原は、抵抗する上村の腕を強く掴んだ。上村が力任せにその腕を離そうとした時、急ハンドルを切ってしまった。
「あっ!」
どちらが叫んだのか判らない。
だが、確実に車は常軌を逸した動きをし、何度かスピンして、中央分離帯にぶつかり、1回転した後で、道路の外壁に激突した。後続のトラックがいたが、少し前から異常な動きをしているのを発見して、車間距離を取っていたため、単独事故で済んだ。
 しばらく、意識が朦朧としていたが、佐原が先に動いた。幸い、出血はしていないようだった。運転席の上村は、ハンドルと座席に挟まっていて動けないようだった。
「おい、大丈夫か?」
佐原が声を掛けると、歪んだ表情を浮かべながら、上村が何とか返答した。
「すぐに助けを呼ぶから。」
佐原がドアを開けようとした時と、上村が手を伸ばして引き留め、苦しそうな声で「後ろのカバンを・・。」と言った。億単位の現金が詰まったカバンが乗っているのをすっかり忘れていた。
「あれを見られないように・・・」
上村はそう言うと、意識を失った。
佐原は、助手席を出ると、すぐに、後部席にあるカバンを引っ張り出した。そして、車の脇の安全な場所に運んだ。それから、非常電話まで歩いていき、連絡した。
10分ほどが過ぎた頃、救急車と道路公団の車両がやってきた。
道路公団の隊員は、発煙筒を点け、後続車の衝突を避けるための作業を手早く進める。そして、救急隊員は、運転席の上村の様子を確認すると、手早く席から上村の体を引き出し、担架に乗せる。そのうちに、遠くからパトカーのサイレンが聞こえてきた。
サイレンの音を聞いて、佐原は、ふっと自分たちの置かれている状況を思い出した。大金を持っている事に気付かれれば一巻の終わりだ。心臓がドクドクと音を立てる。
咄嗟に、佐原が「すみません。このかばんも一緒に持って行ってもらえませんか?彼の貴重品がたくさん入っているんです。僕が持っているわけにはいかないので・・すぐに、病院には行きますので。」と救急隊員に懇願した。救急隊員は、一旦は断ったが、佐原の状態も考慮したのか、渋々受け入れてくれた。大きなバッグが、上村とともに救急車で消えていった。佐原は少し安堵した。
救急車と入れ替わりに、パトカーがやってきた。警官が二人降りて来て、厳しい表情で佐原に事故の状況を確認した。佐原は、できるだけ平静を装い、救急車で運ばれた上村が運転していたのだが、おそらく、東京から長距離運転でかなり疲れていたので、ハンドル操作を誤ったのだと答えた。警官は、佐原の供述をメモし、ブレーキ跡や衝突の状況を確認し、さらに、佐原が飲酒していないかも確認した。警官の動きを目で追いながらも、佐原は次第に頭痛がしてくるのが判った。やはり、衝突の衝撃でどこか痛めているようだ。あらかた、警官からの事情聴取が終わったころには、佐原は立っていられないほどの頭痛を感じて、その場に座り込んでしまった。そこに居合わせた警官がすぐに救急へ連絡し、ほどなく救急車が到着して佐原も病院へ搬送された。

nice!(1)  コメント(0) 

2-17 出会い [同調(シンクロ)Ⅱ-恨みの色-]

上村が事故を起こしたことを、下川は知ることはなかった。その後、三人は連絡を取り合う事もなく、それぞれの道を歩き始めた。北海道の一家惨殺事件も報道されず、何もなかったかのように10年以上の時が流れた。

佐原は、上村より早く退院し、一足先に橋川市へ戻ると、借金を返し、上村の実家である量円寺にも多額の寄付をして、一家の墓の永代供養の了解を得たあと、しばらくは、大阪で働いた。
大学をやめ、東北を転々としながら働いてきた経験が生きて、いろいろな会社や商店とのネットワークを広げ、人材派遣の仲介の様な仕事をするようになっていた。そのころ、妻とも出逢い、身を固める決心をしたと同時に、橋川市へ戻った。そして、弱い立場にある労働者が少しでも優遇されるよう、会社への折衝を第一とした人材派遣会社を立ち上げたのだった。

上村は、その後、再び東京に戻ると、普段通りの生活に戻り、何とか大学を卒業して地元に戻っていた。そして、高校時代の仲間と何やら怪しい事業を立ち上げては、幾度も失敗を繰り返した後、上村議員の娘に見初められ、婿入りした。そして、「上村議員」の地盤を引き継ぎ、2世市議へと転身したのだった。
その頃には、土建業者や議員連中の、談合や癒着などといった、田舎町固有の悪習慣に対して、正義を貫く姿勢を前面に出し、時には、過激なパフォーマンスで市民からは「正義の味方」というイメージを定着させていた。
上村と佐原は、橋川市と豊城市と隣町にくらしていたのだが、敢えて連絡を取らなかった。

下川は、あれから、一心不乱に勉強し、素晴らしい成績で医学部を卒業した後、インターンを経て、しばらくは、僻地医療に身を置いていた。医師の使命というものとは程遠く、とにかく、世の中の隅っこで息を殺して生きたいと考えていたからに過ぎなかった。できればこのまま、年老いて朽ちるまで潜むような生き方が出来ればいいのだと考えていた。だが、僻地医療で奮闘する若き医師として、ローカル放送局に取り上げられたせいで、そういうくらいを続けるわけにはいかなくなった。
大学時代の恩師から、先進医療を学び直すよう勧められ、静岡にある国立病院へ転勤することになった。大病院の外科の医師として迎えられた下川は、できるだけ大人しく、目立たないように注意した。それが逆に、同年代や若い医師から尊敬を集めることになり、若くして医局長となった。傍から見れば、大出世であり輝かしい前途を感じさせるものだったし、下川もその運命を少しずつ受け止めるようになっていた。しかし、下川には、あの日、上村が強引に連れて行った優香の悲しそうな表情が心の底にこびりついていて、思い出すたびに、胃袋を掴まれるようなキリキリとした痛みが襲ってきて、叫びだしたくなる衝動に駆られるときがあった。いや、実際、過酷な業務によるストレスからか、胃潰瘍や十二指腸潰瘍を患い、入院することになってしまった。体調が回復すると、国立病院を辞め、県立病院へと転職した。
運命的な出会いは、そんな時だった。
県立病院では、内科医として勤務した。ただ、国立病院から転職してきた事が周囲からの期待を集める結果となってしまい、医局員の立場ながら、医師だけでなく看護師や技師たちからも相談に乗る事が前にもまして多くなっていたのだった。
そんな時、ちょっとしたトラブルが発生した。若い医師と検査技師が、検査手順を巡って言い争いになった。通常は、技師側が引き下がるのだが、その時は技師が執拗に食い下がったため、つい、若い医師が手を出してしまったのだった。
殴られた技師は、遠藤健一だった。
正義感が強いというのが表向きの評価だが、意固地な部分が強く、同僚の中でもぶつかりやすい性格として、少し、周囲から距離を置かれていた。
言い争いの種は、単純な事だった。客観的にみれば、医師の主張は明らかに間違っていて、検査科内では遠藤に同調する声が強かった。その上、暴力を振るわれたのだから、医師側が全面的に非を認めざるを得ない。しかし、当該の医師は譲らなかった。仕方なく、下川が仲裁に入ることになった。
下川は、すぐに検査科の部屋へ向かった。数人の技師が憮然とした表情を浮かべている。周囲を見回し、当該の技師を見つけると、まっすぐ、遠藤の前に進んだ。
「遠藤さん、君の主張が正しい事は、私も認める。それに、怪我までさせてしまって、大変申し訳ない。」
下川は、遠藤を前に率直に詫びた。医師のプライドなど微塵も感じられない。医師とは、簡単に非を認める様な人種ではないと考えていた技師たちは、下川の態度に驚いた。
当の遠藤は、そんな下川を見て、驚いたものの、素直に受け入れることができなかった。
「あの医師には、しばらく休んでもらう事になった。いや・・君を殴ったことだけじゃない。日常的にストレスが溜まっていて、少し、精神的に不安もあったようだ。だから、休養を取るべきだと話していたところだった。・・こうなる前に、医局長に進言して、手を打つべきだったのだが・・・私の責任だ。申し訳なかった。」
そこまで言われて、遠藤も受け入れざるを得なかった。
そんなことがあって、遠藤は下川医師を病院内で誰よりも信頼できる医師だと信じるようになった。時折、昼食も共にとるようになり、医師と技師とが協力することが大切なのだという事を何度となく聞かされていた。
数年が立った時、病院の慰安旅行が催され、遠藤は偶然、下川と同じ日の参加となった。行先は、伊豆長岡温泉への一泊旅行だった。
先に声を掛けたのは、下川だった。
「やあ、遠藤君。一緒だったんだな。」
旅館のロビーで、部屋の鍵を受け取る場面だった。
「あの・・下川先生、同室はいかがですか?」
遠藤は鍵を見せて訊いた。
「ああ・・僕は構わないが・・君こそいいのか?」
「ええ・・御存じの通り・・技師の連中からは距離を置かれていて、同室になる奴なんかいませんから。」
「そうか・・それは良い。実は僕も、立場がな・・医局長というのはやはり、煙たがられるようでね。」
「じゃあ・・行きますか。」
遠藤と下川は、旅館で同室となり、そのまま、夕食も隣同士で摂った。
「風呂、行きますか?」
夕食を終えて、遠藤が声を掛けた。
「ああ・・いや・・僕は遠慮しとくよ。・・」
「え?温泉に来て風呂に入らないんですか?」
「ああ・・実は、体に大きな傷があるんだ。あまり、見られたくなくてね・・。」
「何言ってるんですか・・女の子じゃあるまいし・・良いじゃないですか・・それに、ほら。みんな、カラオケで盛り上がってますから、今ならきっと誰もいませんよ。」
遠藤は少し強引に下川を誘った。下川も、宴会場の様子を見て、大丈夫だろうと判断し、遠藤に誘われるまま、大浴場へ向かった。

nice!(1)  コメント(0) 

2-18 背中の傷 [同調(シンクロ)Ⅱ-恨みの色-]

温泉旅館の大浴場には、誰もいなかった。下川も安心したように浴衣を脱ぎ、湯舟へ入った。
「下川先生、その傷はかなり古いようですね。」
遠藤は遠慮なく傷の事を聞いた。
「ああ・・子どもの時の傷だ。もうすっかり治っているんだが・・ほら、斜めに・・切られたような傷だろ?任侠映画にでも出てきそうな見た目だからね。知らない人はその筋の人間かと・・。」
「あれは、映画の話でしょう。実際、これだけの刀傷なら、とっくに絶命していますよ。」
「まあ・・それはそうなんだが・・・。」
「そんなに気になさらなくていいんじゃないですか?それに、人はそれほど他人の事を見ていないって言いますから・・。」
遠藤はそう言うと、屋内の大浴場から、露天風呂へ向かった。
ドアを開けた時、遠藤は急に、何か同じような話をしたことを思い出した。
遠藤は、露天風呂に浸かり、ぼんやりと考えていた。
どこで訊いた話だったか、何か、随分昔に訊いたような・・それも、何かとても寒い場所で・・・はっと、遠藤は思い出した。そうだ、祐子が話していた「背中に赤い傷がある男」だ。
確か、刀傷のように見えると・・まさか、祐子を拉致した犯人の一人には赤い傷があったと・・、では、下川先生が、祐子を拉致したということなのか?
大浴場の扉が開き、湯気の向こうから下川が入ってきた。
遠藤は、ゆっくりと湯船につかる下川の背中を見た。やはり、肩から背中にかけて赤い傷が見える。間違いない。ただ、そういう傷の持ち主は他に居ても不思議ではない。そう、子どもの頃の傷と言っていたが、やはり、交通事故に遭えば同じような傷は残るだろう。偶然にしては出来すぎている。遠藤には、下川医師が祐子を拉致した犯人の一人とはどうしても信じられなかった。
「君は何故、検査技師になったんだ?」
唐突に、下川が訊いた。
全く予想しないタイミングで質問され、遠藤は答えに窮していた。
それを見て、下川は笑顔を浮かべて続ける。
「いや・・良いんだ。・・この間の件では、君の指摘が正しかった。あれは、技師の知識を遥かに超えるものだった。だから、ひょっとしたら、君は、医者を目指したことがあったんじゃないかと思ったんだ。」
下川はそう言いながら、岩風呂の座った位置が落ち着かないのか、くるりと向きを変え、遠藤に対面するように座り直した。
「いえ・・僕は、施設で育ったものですから、中学を出て、すぐに就職しました。ただ、中卒というのはどうもバカにされやすくって・・だから、働きながら、夜間の高校にも通い、専門学校に行ったんです。検査技師養成科に、授業料が免除されるコースがあったんで、すぐに選びました。それで、検査技師になったんです。」
遠藤は、赤い傷の事が気がかりで、いつもなら胡麻化してしまうような質問なのに、なぜか正直に答えてしまった。
「随分と、苦労したんだろうな。」
「いえ・・苦労とは思いませんでした。とにかく、一人で生きていくためには資格を取るのが一番だと施設に居た時、教え込まれましたから。」
下川は、遠藤の言葉を聞き、何か心を抉られるような思いをしていた。そして、溜息の様に、「一人・・か」と呟いた。
「施設にはいろんな子どもがいます。実は、一時的に両親と住めない子どもも多いんです。五日、親が迎えに来てくれる。それが、救いでした。僕も初めはそうでした。ただ、中学に入ってから親とは音信不通になってしまって・・・・・。」
「そうか・・。」
「親に捨てられたんだと気付いたのは、中学2年でした。絶望したという感覚はあの時が初めてでした。」
「絶望か・・・。」
遠藤は自分の話をしながら、下川が犯人かどうか手掛かりを掴めないかと考えていた。
「下川先生は・・やはり、裕福なご家庭だったんでしょうね?」
遠藤が訊く。
下川は少し困った表情を浮かべている。
「まあ・・そう言うことになるのだろうね。・・お金に不自由する事はあまりなかったし、将来医者になるという目的が決まっていたし、・・あまり苦労したという感覚はないかもしれない。」
ごくごく世間話の範囲で、下川は答えた。
「施設は、たくさんの子どもがいます。生活品は全て施設から与えられるものです。だから、余分なものなどありません。それでも、一時的に両親と離れているのなら、我慢もできるでしょう。僕の様に、ある程度覚悟を決められる年になっていればまだ自分次第だと割り切れる。」
遠藤は、露天風呂に半身だけ浸けた状態になり、少し、遠くに視線を遣りながら続けた。
「もっと、惨いケースもあります。・・自分が誰なのか、何処から来たのか、どうなるのか、全くわからない。・・・その子が施設に来たのは、まだ5歳くらいだったと思います。」
遠藤の話を聞き、下川の顔色が変わった。
「その子は、口がきけなかった・・失語症っていうんです。何か、途轍もないひどい目に遭ったんでしょう。それに、大人を信じようとしなかった。いや、施設の同じ境遇の子どもたちさえ、近づけないという雰囲気があった。・・」
遠藤は少し涙ぐんでいた。下川は明らかに動揺している。じっと目を閉じて遠藤の話を聞いている。
「まあ・・下川先生には想像もつかないでしょうが・・。」
そう言って、遠藤が風呂からあがろうとした。
「その子は・・その後・・どうなったんだ?」
下川の唇は明らかに震えているのが判った。
「さあ・・幸せになっていればいいんですが・・・。」
遠藤はそう言って、風呂を出た。

遠藤は、風呂を出て部屋に戻る間、会話で見せた下川の様子から、犯人の一人だと確信した。部屋に戻ると、冷蔵庫から、ビールを取り出し、一気に飲み干した。そして、運命のいたずらを嘆き、沈黙した。
少し遅れて、部屋に戻ってきた下川は明らかに動揺をしているようだった。そして、「少し湯当たりしたようで気分が優れない」と言って、早くに就寝してしまった。

nice!(3)  コメント(0) 

2-19 遠藤の苦悩 [同調(シンクロ)Ⅱ-恨みの色-]

旅行から戻ると、遠藤は、このことを祐子に伝えるべきかどうか悩んでいた。
遠藤は、施設を出た後も、祐子の事が気がかりで、施設を通じ,祐子の状況を掴もうとしていた。そして、結婚して、人並みの幸せを手に入れているようだという事だけは知っていた。
それならば、このまま、知らせない方が良いのではないか、半ば、強引にそう結論付けて、依然と同様に下川医師ともつき合えればよいのではないか、そう考えていた。
だが、祐子と二人、施設を脱走し、足柄サービスエリアまで逃げた、あの夜の事は、今も鮮烈な思い出となっていて、祐子が膝を抱え大粒の涙を溢しながら話した身の上話が忘れられない。いつか3人組の男を見つけ出して復讐すると言った、あの眼差しを忘れることができなかった。

一方、祐子は、養護施設を出た後、全寮制の看護学校に入学し、必死に勉強して、看護師の資格を取った。そして、小さな病院へ就職でき、人並みの暮らしを手に入れた。
その頃には、あの忌まわしい事件は記憶の片隅に追いやって、このまま、平凡な人生を送る事だけを考えるようになっていた。そして、病院に出入りしていた薬品メーカーの営業だった、有田昭という男性と結婚し、慎ましく暮らしていた。
有田昭は、祐子の過去について余り詮索するタイプではなかった。幼い頃、両親を失い施設に入り、努力して看護師になった程度の認識で、それ以上の興味を示すことはなく、これは、祐子にとってはありがたい事でもあった。
祐子はほとんど過去の事を思い出すことはなかったのだが、時折、道端で「赤い車」を見ると動けなくなるほどの恐怖心が湧きあがってくることがあった。そして、その度に、引き攣った表情を浮かべた男たちを思い出した。同時に、施設に居た頃、自分を守ってくれるように寄り添ってくれていた、遠藤健一も思い出していた。

しかし、悲しい運命は、ゆっくりと動き出していた。

祐子は結婚し、平凡な幸せの日々を送っていたはずだった。だが、少し年上の夫が、定期健診で胃にポリープが見つかった。再検査で、それは悪性腫瘍で、急いで治療を始める事が必要となった。かかりつけの医者では治療は無理だったため、県立病院を紹介された。
結局、県立病院での検査では、胃だけでなく他の臓器にも転移していることが判り、切除手術と抗がん剤治療をすることになった。もはや、長期医療になるのは確実だった。
当時、祐子が住んでいた町から県立病院はとても通えるような距離ではなかったし、経済的にも許される状態でもなかった。結局、祐子は看護師を止め、夫の入院する県立病院近くにアパートを借りて住むことにして、看護師の仕事を探した。
県立病院には、看護学校の友人が何人か働いていて、入院準備に訪れた時、声を掛けられた。
事情を聴いた友人が、看護師として働きながら夫の看病ができる様に病院へ働き掛けてくれたのだった。看護師は不足していて、事情を全て受け入れて、祐子は県立病院で働くことになった。
昼間は、看護師として、そして仕事が終わると夫の病室で看護をするくらしを始めてひと月ほどが経った頃だった。
「祐子?・・祐子じゃないか。」
病棟の中庭で短い休憩時間で昼食を取ろうとしていた時、遠藤が祐子を見つけて声を掛けた。
懐かしい声に祐子は驚いて振り返る。
「え?・・健一さん?」
「覚えていてくれたんだね。・・・風の便りで、結婚したって聞いていたんだが・・・確か、三島の方に居たんじゃなかったっけ?・・。」
祐子は、これまでの経緯を説明した。
「そうか・・御主人が入院か・・心配だな・・。」
「もう全身に転移が広がっているみたいだから・・そんなに長くは・・。」
祐子はそこまで言うと、急に涙が零れてきた。
手に入れた幸せな日々が崩れていく、だが、夫のためにも気丈に振舞ってきた。だが、遠藤に会い、あの頃の幼かった自分に戻ってしまったようで、張り詰めていた心の糸が切れたようだった。
遠藤は近くにあったベンチに祐子を座らせた。そして、ベンチの横に座り、そっと言った。
「・・辛いね・・。」
遠藤は、それ以上の言葉を失っていた。
辛い運命を乗り越えて、ようやく人並みの幸せを掴んだ事がどれほどの喜びだったか、遠藤も同じような境遇にあったため、彼女の気持ちは痛いほど判った。
「私は大丈夫。一番つらいのはあの人だから・・。」
祐子はそう言って、何とか笑顔を作って見せた。
その笑顔は、あの施設では見たことのなかった様な、気丈さを感じ、祐子がこれまでどれだけの苦労をしてきたのかをかえって強く感じさせるものだった。

その時、中庭の向こうの通路から、一人の医師が手を振っているのが見えた。
「あっ・・下川先生。」
そう言うと、祐子は立ちあがり、深々と頭を下げる。
「下川先生?」
驚いて、遠藤も立ちあがった。
「ええ・・主人の主治医の先生なの。良くしていただいているわ。」
祐子の言葉には、信頼の気持ちが滲み出ていた。
なんてことなんだろうと遠藤は、空を見上げた。運命のいたずらとしてもあまりにも惨い。あの秘密を話すべきか悩んでいたが、祐子の表情を見て、とても話せるものではないと感じていた。

nice!(0)  コメント(0) 

2-20 確信 [同調(シンクロ)Ⅱ-恨みの色-]

下川医師は、そこで待っていてくれというジェスチャを見せて、通路をやや速足で、遠藤と祐子のところへやってきた。
「二人は知り合い?兄妹という事じゃなさそうだが・・・」
下川医師にしてみれば、二人のかかわりなど想像もつかないのは当然だった。
「ええ・・昔の・・知りあいです。」
遠藤が少しぼかす様な言い方をした。
「昔の知り合い?」
下川医師はぎくりとしたような表情を見せた。
「ええ・・暫くあっていなかったんですが・・偶然、病院で再会というところです。」
「そ・・そうか・・・。」
下川医師の態度は明らかに動揺している。祐子はそんな下川医師の様子を不思議に感じていた。
「先生、いつもありがとうございます。」
祐子が深々と頭を下げる。それを見て、下川は我に返った。
「ご主人の状態は・・今のところ、安定しているようですね。少し、抗がん剤の効果が出ているようで、しばらく、続けてみましょう。ただ、それほど安心していられません。痛みが強くなる気配を感じたら、すぐに知らせてください。」
「はい・・わかりました。」
「有田さん、仕事の方はどうですか?ご主人の看病と看護師の仕事の両立は大変じゃありませんか?」
「いえ、大丈夫です。師長さんも気遣っていただいて、日勤シフトにしてもらっているので・・。」
「そうですか。・・主治医としては今が一番厳しい所だとしか言えませんが、奥様の存在が生きる気力になっているはずですから・・元気な笑顔を見せてあげられるようにしてください。」
「わかりました。」
遠藤は二人の会話を聞きながら、なぜこんな巡り合わせになるのか、運命を呪いたくなる気持ちだった。
「じゃあ」と言って、下川医師は去っていった。
「とても良い先生よね。」
祐子はそう言うと、深々と頭を下げた。
下川は、二人と別れて、医局へ向かった。
通路を歩きながら、旅行の時の遠藤から聞いた話と、有田裕子の存在が、まぎれもなく、あの北海道の事件の記憶が鮮明に呼び起こされ、この先に訪れる悲劇をある程度想像していた。

祐子の夫は、それからしばらくして亡くなった。
夫を失ってから、しばらく、気力が出ず、休職した。3ヶ月ほど休職して、復帰した日の事だった。
「もう大丈夫なのか?」
病院の中庭で、遠藤と祐子はベンチに座り話していた。
「ええ・・随分、落ち着いたわ。」
祐子は以前よりも痩せて見えたが、声はしっかりしていた。
「まあ、無理はしない方が良い。何かあったらいつでも相談に乗るから。」
遠藤はそう言いながら、ずっと隠してきた事を話すべきかどうか悩んでいた。しかし、ようやく仕事に復帰し日常を取り戻そうとしている彼女を見ていると、今は、そっとしておいた方が良いのだと確信した。

祐子は復帰してしばらくは、外来の看護師だったが、独り身の身軽さとこれまでの師長たちの気遣いへの恩返しにと、病棟の看護師への異動を願い出た。そして、下川がいる内科病棟へ異動となった。
祐子は、夫の主治医だった下川医師には大きな信頼を置いていた。そして、下川医師も、熱心に働く祐子を見ていて、あの忌まわしい出来事についてできるだけ考えないように努めてきた。下川は、東京のアパートで上村がさらうように連れて行った少女がどうなったのか、何も知らなかったし、それを改めて上村に確認する事も避けてきた。万一、上村があの少女を殺している等と知れば、おのれの罪の重さを今以上に強く感じ、日常を失う事を恐れていたからだった。
下川医師の思いとは裏腹に、祐子は次第に、下川に対して医師としての信頼以上のものを抱き始めていた。勤務中でも、無意識のうちに、下川医師の姿を追う事が多くなっていた。夫を亡くし、心の拠り所を失った彼女にとって、下川医師はそれに代わる存在になりつつある。いけないと考えれば考えるほどに、心は裏腹だった。
そして、その様子は、遠藤にも判った。
ある日、遠藤は、下川医師に「相談がある」と持ち掛けて、小さなスナックへ誘いだした。
下川医師は遠藤からの誘いが、おそらく、祐子の事だろうとは勘づいていた。
二人は、病院からは少し離れた駅裏の小さなスナックの奥の席のカウンターに座っていた。彼ら二人以外には客は居らず、スナックのママもカウンターの奥の厨房に引っ込んでいた。
「相談っていうのは?」
話を切り出したのは、下川だった。遠藤は下川の顔も見ずに、口を開く。
「祐子の事なんですが・・・。」
下川には遠藤の初めの事が単刀直入だったことに少し驚いた。
「彼女がどうしたのかな?」
下川は敢えてぼんやりと答えてみせた。
「彼女とは、深く関わらないでほしいんです。」
「深くとは、尋常な言葉じゃないね。・・医師と看護師以上の関係ではないと思っているんだが・・。」
「先生、彼女は、以前に話した失語症で施設に入ってきた女の子なんですよ。」
核心に迫る告白だった。だが、下川は敢えて冷静に言った。
「そうか・・彼女が・・辛い人生を送ったという事なんだな。・・」
遠藤はグラスを手に取ると、水割りを一気に飲み干して言った。
「先生、僕は彼女から、彼女のご家族が惨殺され、彼女一人拉致された一部始終を聞いているんです。そして、それは3人組の男の仕業で・・その一人には、肩から背中に赤い大きな傷跡があるということを・・・」
遠藤は吐き出すように一気に言って、俯いた。
下川はそれを聞いて、目を閉じ、少し考えてから「そうか・・」と答えた。
「まだ、彼女は何も知りません。いや、知らない方が良いのだと思ってきました。ご主人を亡くした痛手からようやく立ち直り、日常を取り戻したところです。このまま、過去の忌まわしい出来事を忘れて、平凡な幸せを掴んでほしいんです。だから、僕は彼女には先生の事は話していません。」
遠藤は苦渋に満ちた表情で言う。
「いつ、気づいたんだ?」と下川は訊いた。
「あの旅行の日に・・祐子の話した男の特徴と名前が一致した。だけど、確証はありませんでした。ですから、今日、こうしてお話したんです。僕は信じたくなかった。下川先生は、信頼に値する医師だと今でも思っています。だから、何かの間違いであってほしかった。」

nice!(1)  コメント(0) 

2-21 暴露 [同調(シンクロ)Ⅱ-恨みの色-]

「遠藤君、君にはつらい思いをさせたようだね。」
下川は、遠藤の思いを受け止め、涙を溢していた。
「・・だが、真実から・・いや、自らの罪から逃げ続けるべきじゃないね。僕もずっと心の奥底で、贖罪の思いを抱えてきたんだ。だが、あの少女がどうなったのか・・僕自身、何も知らなかった。だが、あの少女が、有田さんであるなら、これは償うチャンスというべきなんだろう。・・僕から彼女に告白する。そして、彼女の気が済むまで、償うつもりだ。だから、少し時間をくれないか。」
下川は、遠藤から施設での話を聞いて、ずっと考えていたようだった。

遠藤と下川が話をしてから2週間後のある日、夜勤明けの祐子に、下川が声を掛けた。
「ちょっと折り入って、相談があるんだが・・。これから時間はないかい?」
「えっ?」
祐子は戸惑っていた。自分の気持ちを見透かされたのか、あるいは、下川医師も自分と同じ気持ちを抱いているのか・・そんな思いが一瞬で頭を巡った。
「ええ・・大丈夫です。」
祐子は心臓の鼓動が高鳴るのが判った。
二人は病院を出て、近くの喫茶店へ向かうと、店の一番奥の席に座った。祐子に気付かれないように、遠藤も二人の後を追っていき、二人が見える席に座った。
「もうすっかり落ち着いたようだね・・。」
下川がホットコーヒーを口にしながら切り出した。
「ええ・・。」
祐子もコーヒー飲みながら答えたが、まだ、鼓動の高鳴りを押えられずにいた。
「今度、故郷へ戻ろうと思うんだ。・・ああ、橋川市なんだが・・そこの市民病院の先生からお誘いを受けてね。何でも、病院を立て直すために新しい医療スタッフを募集しているというんだ。」
下川の言葉は、祐子の予想とは違った、意外なものだった。
「それは・・?」
「ああ、唐突に申し訳ない。君もどうかと思ってね。・・そうだ、技師の遠藤君も一緒に行くことになっているんだ。とにかく、新しい病院でそれなりの待遇で受け入れてくれるらしい。・・すぐじゃないんだが、・・そうだね。僕と遠藤君は来月には行くことにしている。君が了解してくれるなら、先方にも照会して確認を取ろうと思うから。」
「あの・・下川先生・・何故、私なんですか?」
祐子の疑問は当然だった。いや、それは自分のパートナーとして一緒に行こうという事なのか、ただ、医療スタッフのヘッドハンティングだけなのか、図りかねていたからだった。
「うむ・・。」
下川医師は少し考えた。
どう伝えればよいか、できるだけ彼女を傷つけずにと考え、言葉に詰まった。その表情と僅かな沈黙が祐子をいっそう不安にした。
遠藤は少し離れた席から二人の様子を伺っている。核心に触れた話になれば、祐子は驚き嘆き、声を出して泣いてしまうかもしれない。そう思うと、僅かに聞こえる二人の会話がもどかしかった。
下川は、やはり、真実をきちんと話すべきだと覚悟を決めた。
「君にきちんと話しておかなくてはいけないことがある。落ち着いて聞いてほしい。」
下川は、そう言って、祐子の目をじっと見た。いつも以上に真剣な表情に祐子は戸惑った。
「君は、遠藤君と同じ、施設で育ったんだったね。」
祐子は小さく頷く。
「どうして施設に入ったかは分かっているだろう?」
再び、祐子は小さく頷く。
「北海道、君がまだ幼かった時、惨い事件が起きた。君はどれくらい覚えているだろうか・・・。あの時、君はショックで言葉が話せなくなった。」
祐子はその言葉に驚いた。
なぜ、そんなことを知っているのか、遠藤が下川に話したのか、戸惑いを隠せない。
「これを見て欲しい。」
下川はそう言うと、ネクタイを緩め、シャツの首周りのボタンをはずし、肩が見えるほどに開いて見せた。そこには、僅かだが、赤い痣のような傷痕が見える。
「覚えているだろう?」
祐子は思い出した。東京へ連れて来られた時、男に背負われて、ふと見つけた赤い痣。目の前に見ているものは紛れもなく、あの赤い痣のような傷だった。
「・・そう、君を北海道のあの家から・・あの惨い場所から連れ去ったのは僕なんだ。」
祐子は絶句した。
目の前にいる、ほんの数秒前まで、尊敬と信頼、いやそれ以上の感情を抱いていた相手が、あの忌まわしい記憶の中の男だと告白している。すぐには信じられなかった。
「・・どうして・・。」
祐子は混乱して、それしか言葉が出ない。
「本当に済まなかった・・いや、言葉でどれだけ謝ったところで許される事ではないのは判っている。・・言い訳など意味がないだろうが・・あの場所に君を一人残して置くことができなかった。だから、君を連れて来てしまった。だが・・・君を守り切れなかった。本当に済まなかった。許してほしいとは言わない。いや、許されるべきではない。これからは、罪を償う事が今は自分のすべきことだと覚悟している。」
下川はテーブルに頭をこすりつけるようにして詫び、涙が流れている。それは、後悔とも空しさとも判らぬ、過去を憂う涙だった。
目の前がぐらぐらと揺れている様な感覚だった。大事なものを一瞬で壊してしまったような、心の中が壊れていくような、息をするのも辛い、そんな感情が胸の中に広がる。祐子の全身が震えている。そして、あの時の惨状がフラッシュバックする。祐子は椅子を飛ばすほどの勢いで立ち上がり、俯き、両手で頭を抱えて、店から走り出た。
その様子を見ていた、遠藤も慌てて祐子を追いかけて出て行った。
遠藤は裕子を追い掛け、店からわずかのところで追いつき、祐子の肩を抱く。祐子は大粒の涙を流しながら、遠藤の腕を掴み、胸に顔を埋め、声が漏れないように泣いた。幸い、周囲に人影もなく、しばらく、二人はそのまま立ち尽くしていた。

nice!(1)  コメント(0) 

2-21 実行 [同調(シンクロ)Ⅱ-恨みの色-]

祐子は遠藤から改めて、これまで経過を聞き、下川医師の提案の意図を理解した。
あの惨い出来事に関わった男たちすべてに贖罪させるには、橋川市の病院へ移り、祐子自身が彼らの前に現れ、全ての経緯を語らせること、そして、きちんと自らの意思で罪を認め、自ら命を絶つ事だった。
それからは、祐子は本名である「優香」に名前を戻し、下川医師の紹介で神林病院へ就職した。一足先に、神林病院へ勤務していた、下川医師と遠藤技師が、上村と佐原への働きかけを始めていた。
最初に、遠藤が、週刊誌の記者だと名乗って、上村と佐原に近づいた。そして、「北海道の事件について話がしたい」と接触する。すると、佐原も上村も、すぐに、下川へ連絡を取ってきた。二人とも予想通りの反応だった。そして、過日、二人は週刊誌の記者を名乗る遠藤と、夜遅く会うことになった。下川はそこには同席しなかった。それが、あのレストラン・ヴェルデで目撃されたのだった。佐原は半ば観念したような態度だったが、上村は頑なに否定した。何の証拠もない事だと、遠藤の話を聞こうともしなかった。
次に、二人に当てて、ねつ造した健康診断結果を通知した。検査技師の遠藤と下川医師が、健康診断結果の数値を修正し、二人とも再検査が必要だという結果を作り出したのだった。
佐原は、素直に再検査に応じた。そして、再建のために入院した日に、下川医師が面会に訪れた。すでに、佐原は、新聞記者を名乗る男から北海道の事件の事を問われ、覚悟を決めていた様子だった。
「あの少女が今この病院の看護師として働いているんだ。」
下川は静かに佐原に告げる。
「そうか・・生きていたのか・・」
佐原は、不思議に安堵の表情を浮かべている。
「下川、お前は知らないだろうが・・・あの子は、足柄サービスエリアに置き去りになった。僕じゃない。上村だ。あいつが彼女を置き去りにしたんだ。・・僕はあの日からずっと、あの少女の表情が忘れられない。・・今でも時々夢でうなされる。引き攣った表情を浮かべ、真っ赤な血を浴びて立っている少女が、小さな手で僕に飴をくれるんだ。恨みのこもった瞳が・・いつもいつも、つき纏って・・・」
「そうか・・。」
「詫びたい。あの子に会って詫びたい。そうしなければ、いつまでも苦しみから解放されない・・。」
佐原は言った。
「解放?・・そんな都合の良い話・・通じないだろう。詫びることで許される事じゃない。」
「わかってる。だが・・。」
佐原は頭を抱える。
下川医師は、紙片をテーブルに置いた。紙片には、『罪を清算するために、死を選びます』と書かれている。
「罪を償うには命を絶つ事以外にない。僕は、佐原君と上村に罪を償わせた後、命を絶つつもりだ。僕たちは、生きる価値のない人間なんだよ。それほどの事をしてしまったんだ。」
下川医師は、そう言うと特別室を出て行った。
佐原は、検査入院の意味がようやく分かった。そして、持ってきた鞄の中から、1枚のレポート用紙を取り出した。そこには、北海道で起きた一家無理心中事件の概要が書かれていた。新聞記者を名乗る男、遠藤技師が佐原と上村に送り付けたものだった。レストラン・ヴェルデでは、新聞記者は多くを語らなかった。二人が関与しているかを確認する範囲だった。しかし、そのレポート用紙には事件の様子が詳細に描かれている。初めて見た時、そこに居合わせたかのような記述で、恐ろしくなった。だが、下川医師との先ほどの会話ですべてが理解できた。あの少女が復讐に現れ、下川を脅迫し、全ての手はずを整えたに違いない。下川も命を絶つ覚悟でいるに違いない。上村はどうするだろうか、ふと、佐原は考える。
あの事件の発端は、上村だった。あいつが北海道に現れなければ、あんな事件に関わる事もなかった。だが、今更・・と佐原は思った。どう言い訳してみても、あの事件は自分たち3人が起こしたものだ。あの日、いくらでも止めることはできたはず。だが、あの極貧の暮らしから抜け出したいという思いは確かにあった。だから、実行したのだ。罪は同じだ。妻や子は悲しむだろう。恨むだろう。だが、それも自分の罪なのだ。やはり、自分はもっと早く罪を償うべきだったのだ。
そんな思いを抱えて、ふと、外の空気を吸いたくなった。特別室から出て、コミュニティルームへ足を運んでみた。数人の患者や家族が談笑している。長椅子を見ると、ひとりの患者が座っている。よく見ると、その患者の膝には、見覚えのあるマークの入ったタオルが置いてあった。
「あの・・それ・・確か、修練館のタオルじゃありませんか?」
佐原は、懐かしさのあまり、つい声を掛けてしまった。
「ええ・・そうですが・・・」
答えたのは、吉岡という患者だった。
「実は、修練館のOBなんですよ。・・懐かしいなあ・・。」
佐原は、高校時代の事を思い出していた。
まだ、実家の商売は順調で、何不自由のない暮らしだった。仲間も多く、毎日が充実していた。自分の未来は何も恐れるものはないと思うくらい、明るいものだった。そんな高校時代を思い出し、つい、溜息をついてしまった。ふと我に返り、隣にいた、吉岡という患者に会釈をして、特別室に戻った。
次の日、看護師が朝食を運んできた。ふと気になって、ナース服の名札を、有田と書かれていた。北海道のあの家は、確か、佐藤・・佐藤だった。彼女ではないんだ・・・・。そう考えた時、看護師が口を開いた。
「あの飴は美味しかったですか?」
一瞬、何の事か判らなかった。
飴?・・考えて、急に血の気が引いた。・・まさか、この看護師が、あの時、僕に飴をくれた少女なのか?佐原は、驚いて、看護師の顔を見る。大人になっていて、すぐには判らなかった。だが、彼女の目元に、あのころの面影を感じた。
「君が・・あの・・。」
佐原はそう言うと、有田看護師が小さく頷いた。
佐原はベッドから飛び降り、有田看護師の足元にひれ伏すようにし、頭を床にこすりつけた。
「済まなかった・・本当に済まなかった…許される事ではない事も判っている・・。」
有田看護師は、何も言わず、目を背ける。
「待ってくれ。・・一つだけ・・ひとつだけ聞いてほしいことがあるんだ。・・君を置き去りにする事に僕は反対したんだ。言い訳にもならないが、僕が君をそのまま引き取って育てるつもりでいた。だが・・直後に事故を起こしてしまって・・。嘘じゃない。・・それに、下川君も君を、あの悲惨な現場に残して置くことはできなかった。だから、君を連れてきた。あのままなら、君はきっと命を落としていたはずだ・・。」
佐原は、頭を床にこすりつけたまま、話した。
「それに・・・君の家族を殺したのは僕たちじゃない。・・・地上げ屋の類だ。君のお父さんが、立ち退きのための裏金を受け取るのを偶然見てしまった。そして、あの晩、僕たちは納屋に忍んで、その金を盗もうとしたんだ。そこに二人組の男たちがやってきた・・そして、あんなことに・・・・いや、それで自分たちの罪を免れようとは思っていない。だが、本当に許されないのは、そいつらなんだ。判ってくれ。」
佐原は、その時の様子を必死に伝えようとした。優香・・有田看護師は、まだ幼く、事件の全容を知っていたわけではない。佐原の話をにわかに信じることはできなかった。

nice!(1)  コメント(0) 

2-23 上村の場合 [同調(シンクロ)Ⅱ-恨みの色-]

「信じられない・・・。」
 有田看護師は小さく呟くと、部屋を出て行った。
佐原は、有田看護師の去っていく姿を見ながら、覚悟を決めた。
ついに時が来たのだ。あの日から、長く罪の意識に苛まれてきた。そして、自分を律して、とにかく必死に働いてきた。それでも、あの日、小さな飴をくれた少女の眼差しが、黒い棘の様に心の奥底に突き刺さったままだった。そして、長い時間が過ぎ、今、再び目の前に現れた。ポケットには、下川がくれた小さな紙が入っている。『罪を清算するために死を選ぶ』・・そうだ、やはり、命で償うほかないのか・・。だが、そうなれば、自分だけではなく、上村や下川にも迷惑が掛かる。あの罪は秘密にしなければならない。佐原は、以前に受け取った事件の一部始終が掛かれた「レポート」を小さく千切って、飲み込んだ。何度もえづきながら、それでもすべてを飲み込むと、ふらりと病室を出た。
長い廊下の先には、ナースステーションがある。前を通ると、看護師に気付かれるに違いない。ふと見ると、反対側の非常用階段のドアが開いている。まるで誘われるように、佐原は階段を昇り、屋上に出た。そして、まっすぐ金網に向かう。
有田看護師は、佐原の動向を知っていた。そして、病室を抜け出したのを見計らって、一旦病室に向かい、佐原の所在が不明だと報告すると、院内を探すよう、他の看護師に告げる。
「コミュニティルームや外来、他の病棟かもしれないから、手分けして探してください。」
数人いた看護師たちは、皆、階下へ探しに行った。それを確認し、有田看護師は、屋上へ向かった。
佐原が、金網に手を伸ばしたところだった。ふと、屋上のドアの下には小さな紙きれが落ちていた。『罪を清算するために死を選ぶ』と書かれたあの紙片だった。有田看護師は、その場で佐原の動きをじっと見つめる。
佐原は、ゆっくりと金網を昇ると、振り返る事もなく、ふわりと宙に舞い、そのまま落ちて行った。まもなく、下の方から悲鳴が響いてきた。
有田看護師はすぐにナースステーションに戻り、転落事故が起きたという知らせを受けたのだった。

次のターゲットは、足柄サービスエリアで優香を置き去りにした上村だった。
佐原と同様に、病院からの通知で、検査入院に来たのだった。だが、それは、予定した日より2日も早く、下川医師が面会するチャンスがなかった。
上村は、特別室に入るなり、いらいらした態度なのが判った。同行してきた秘書が何とか説得して、ここまで連れてきたというところだった。
上村は、ベッドに座り、パソコンやスマホを見ながら、何かをチェックしている。そして、時折、ぶつぶつとつぶやいている。
「検温です。」
そう言って、有田看護師が病室へ入ってきた。それを聞いて、部屋に居た秘書は席を外した。
有田看護師は、ベッドの脇で検温の支度を整える。
「まだ、自分勝手なところは変わっていないようですね。」
そう、上村の耳元で囁いた。
「何?」
上村は、驚きの様な、怒りの様な、何とも言えない返答をした。
「覚えていないでしょうね・・・あの、足柄サービスエリアの事など・・・。」
体温計を差し出しながら、有田看護師が小声で言う。
「足柄・・サービスエリア・・・?」
上村はまだ判らない様な顔をしている。
「5歳の幼子を置き去りにするなんて・・どんな気分だったの?」
それを聞いて、上村は確信した。
「お前は・・あの時の・・・・まさか・・・本当に・・」
上無はそう言いながら、全身に震えを感じている。
有田看護師は、無表情のまま、体温計を取り出し、記録する。そして、上村の前に、小さな紙片を置いて病室を出て行った。上村はその紙きれを取り上げて、開いてみる。
『罪を清算するために死を選ぶ』
そう書かれていた。
復讐に来たのか・・やはり、あの記者の言っていたことは本当だったのだ。どうすればいい?やはり、佐原も、あいつに殺されたのか?・・どうやって殺すつもりだ?薬か?注射か?なぜ、殺されなければならない。俺はあいつが生き残れるために、あそこに置いて言ったんだ。礼を言われるくらいの事をしたんだ。逆恨みも甚だしい。
上村の頭の中には、自らの罪の意識など全く浮かんでいなかった。むしろ、そこからどうやって逃げ出すかを必死で考えていた。
そこに、秘書が入ってきた。
「検査は明日という事です。今日は、ゆっくりされると良いですね。」
秘書の言葉は少し間抜けな感じだった。それが上村の気に障った。
「こんなところに居られるか!」
上村は顔を真っ赤にして、秘書に厳しい口調で言う。
「しかし・・・・」
秘書が返そうとしたが、それを遮って、秘書に怒鳴りつける。
「今、ゆっくりできる状態か?こんなことになったのは誰のせいだ!・・お前のせいだろうが!・・。」
上村は、秘書が何か重大な失敗を起こしたことを責めているようだった。
「しかし・・それは・・。」
秘書が言い訳めいたことを言おうとする。
「言い訳なんか聞く気はない!・・俺がこれまでどんな思いでやってきたのか。判ってるのか?」
怒りが収まらないようだった。
看護師たちも、なんとか上村の気持ちを落ち着かせようとするが、手に負えない状態だった。
有田看護師も、その騒ぎを聞いて病室にやってきた。
「相変わらず・・自分本位・・なんていう人なの・・・」
他の人に聞こえないほどの小さな声で、有田看護師が呟く。
あの態度、あの表情、間違いなく、自分を足柄サービスエリアに置き去りにし、何の罪の意識も持っていない、呆れた男だと確信した。
そうしているうちに、上村は、秘書や看護師の制止も聞かず、エレベーターに向かって歩き出す。
「こんなところに居られるか!すぐ帰るぞ!さあ!!」
「いえ・・せっかくですから、きちんと検査をお受けください。」
「うるさい!安永!すぐ、車を回せ!」
さっさとエレベーターに乗り込んでドアを閉めてしまった。あわてて、秘書が階段を駆け下りていく。

nice!(2)  コメント(0) 

2-24 手紙の終わりに [同調(シンクロ)Ⅱ-恨みの色-]

北海道の事件から、佐原の自殺までの経緯は、下川医師の手紙に極めて克明に描かれていた。それは、優香や遠藤から聞き取った話も織り交ぜてあり、一連の事件を裏付ける確たる証拠になるものだった。
そして、手紙の最後には、自らの罪を認め、自ら命を絶つ事を許してほしいという文章が添えられていた。

「これが下川医師の手紙の内容です。」
読み終わると、刑事課の部屋に居たものは皆、大きな溜息をついた。
事件の全容が判明した事で、一つの区切りになるはずなのだが、何か、遣る瀬無い気持ちが渦巻いている。佐藤優香の身に起きた痛ましい事件、そして、関係した人たちのその後の人生、巡り合わなければどうだったのだろうかという思い、いろんな感情が皆の中にあった。
「佐原氏も下川氏も、自ら命を絶った・・自殺だな。」
沈黙を破るように口を開いたのは、鳥山課長だった。
「示達教唆の疑いで、これまで捜査をしてきたが・・この手紙が事実ならば、有田優香も遠藤健一もその罪を問う事は出来ないだろう。」
署長が課長に同意するように言う。それは、一樹と亜美への言葉でもあった。
「もう少し早く真実にたどり着いていたら、下川先生は・・。」
亜美がそこまで口にしたところで、一樹が制止して言った。
「過ぎたことを悔いても仕方ないだろう・・それより、有田さんと遠藤さんはどこにいるんでしょうか。一通りの目的は遂げたわけですし、この手紙からすると、罪を問うわけにはいかないでしょう。ならば、逃げ隠れする事もないはずですよね。」
「もう1通、有田さんの手紙がありますから、開けてみましょう。」
君原副院長が手紙を開く。中には、便せんが一枚だけ入っていた。

『新道院長、君原副院長 様
 ご迷惑をおかけして申し訳ありませんでした。
一連の騒動は全て、私が企てたものです。これまでのいきさつは、下川先生の手紙にある通りです。父や母、祖父や祖母、そして兄の無念を晴らすため、事件の真相を突き止め、罪を償わせるために、こちらの病院へ来ました。その目的は果たすことができました。でもそれは、私自身も罪を犯すことになるわけです。佐原さんや上村さん、下川さんに求めたように、命を奪う罪を犯した者は、自らの命をもって償うべきだと思います。病院関係者の皆さまには、大変お世話になりました。ありがとうございました。 有田優香  』

下川医師の自殺の直後に書かれたものなのだろうか。走り書きの様な手紙だった。思いだけが綴ってあるものだった。
「二人は、いったい、どこに行ったんでしょうか?」
葉山が言った。
「なあ、目的は果たしたとあるが・・本当にそうだろうか?」
一樹が言うと、亜美が答えるように言った。
「復讐は終わったんでしょう・・そう書いてあるでしょ?」
「いや・・たしかに、3人への復讐は終わったのかもしれないが・・事件の真相は違う。家族を殺したのは彼らじゃない。若い男二人組だっただろう?そいつらはどうなった?」
一樹が言うと、森田が答える。
「そうですね・・だいたい、佐藤一家の事件は、無理心中として片づけられたわけだから、おそらく、その若い男の事は、捜査はされていない。・・時間は経っているけれど、そいつらはまだのうのうと生きているんじゃないでしょうか?」
「とすれば、二人は、北海道へ向かったんじゃないか?」と一樹。
「北海道?・・そうか・・下川医師から二人組の男の事は訊いているはずですからね。ずいぶん昔の事だとは思いますが、あのころの建設会社の線から、関係者を探れば、二人組の男の手がかりくらいは手に入るかもしれません。手紙の中身からすれば、きっと当時は下っ端の使い走りか、チンピラの類でしょう。今は、暴力団幹部にでもなっているかもしれませんね。」
葉山の推理に、皆、考える事は一緒だった。
「一刻も早く、二人の行方を掴まなければ・・今度は二人の命が危ない・・。」
一樹が言うと、森田が立ち上がった。
「北海道の事情なら、私が一番わかっています。現地の警察署にも照会しやすいと思います。私がすぐに向かいましょう。」
それを聞いて、鳥山課長が同意するように言った。
「ああ、それが良いだろう。それと・・」
そう言い掛けた時、刑事課の部屋に居た、レイが立ち上がった。
「私も行かせてください。・・彼女の居場所を見つけるためにお役に立てるはずです。」
「いや・・それは・・」
森田は戸惑って、鳥山の顔を見る。
「ああ・・民間人の人を捜査に加えるわけには・・・。」
鳥山が言うと、亜美が言った。
「私がレイさんと一緒に行きます。・・彼女の力はきっと必要になるはずです。大丈夫です。何かあれば私が彼女を守ります。署長、良いですね?」
厳しい表情で亜美は、父である紀藤署長を見る。過去、彼女の力で凶悪な事件を解決できたことは、署長を始め、刑事課の皆が知っているところだった。だが、それは、彼女自身も事件の当事者であったからこそ、当然、関わることになっただけである。今回は、彼女の病院で発生した事案であるが、彼女自身が直接関与しているわけではない。紀藤は迷った。彼女の母、ルイからも彼女を守ってほしいと言われている。敢えて危険にさらすことはできない。
「署長、亜美が一緒ならば大丈夫でしょう。それに、二人組の男の事ですが・・事件として扱われていないわけですから、意外に、始末されているという事も考えられます。それほどの危険はないかもしれません。」
そう言ったのは、一樹だった。
「私の病院のスタッフが起こした事件です。それに、遠藤さんも有田さんも、まだ私の病院のスタッフなんです。彼女たちを何としても見つけて連れ戻したいんです。」
レイは紀藤署長に懇願する。
「わかりました。では、森田君と松山君が先行して、北海道の事件情報から、関与したと思われる人物を特定してください。亜美とレイさんはその後で北海道へ向かってください。良いですね。」
森田と松山は、翌朝に出発した。
レイと亜美は、2日置いて、北海道へ向かうことになった。

nice!(1)  コメント(0) 

3-1 不可解な事 [同調(シンクロ)Ⅱ-恨みの色-]

森田と松山が出発した日、改めて今回の事件の整理をすることになった。
「やはり、不可解だよな・・。」
誰よりも早く、刑事課に姿を見せたのは一樹だった。そして、昨夜の下川医師の手紙を読み返していた。
「どうした、一樹、こんな早く?」
少し遅れて、葉山が顔を見せた。
「いや・・昨日の手紙の中身なんだが・・やはり・・抜けてるんだ。」
「何の事だ?」
「佐原氏と下川氏は自殺だという事は手紙からも判った。だが、もう一人、上村氏の件はどこにも触れられていないんだ。おそらく、下川医師は上村氏の死を知らずに自殺したんじゃないかな。」
「ああ、そうだな。俺もそれが気になった。彼は、自殺の様な死に方だったが、お前が調べて来たように、他殺の可能性が極めて濃い。そこに、有田看護師や遠藤技師が関わっていたのかと考えていたが、手紙には何も書かれていなかった。やはり、上村氏の死には、何か別の事があるように思う。」
「そうだろ?・・豊城川の目撃情報から、男と揉めていたのは確実なんだ。あそこで殺されたはずだ。それに、政治家の立場上、恨みを買う事もあるだろう。・・だが、あの遺書のような紙きれ、秘書の供述、やはり、佐原氏や下川医師の死との関連の方が強く感じられて・・どうにも・・不可解なんだ。」
「・・北海度の件を利用して、誰かが自殺したように見せかけているというのが正しい筋読みなんだろうが・・じゃあ、誰が・・となると・・。」
「判らない・・・。」
一樹はそう言うと事件の経緯を記したホワイトボードを睨み付けた。ほどなくして、鳥山課長や紀藤署長も顔を見せた。
「さあ、昨日の整理をするぞ。」
鳥山課長が呼びかける。みな席に着いた。
「では・・」と鳥山が言い掛けた時、ドアがノックされた。
「遅くなってすみません。」
刑事課のドアが開いて、一人の男が入ってきた。
よれよれのスーツ、白髪交じりのぼさぼさの頭で猫背、見たところ卯辰の上がらない、出世とは無縁のような中年男だった。
皆、ドアの方に視線を向けていたが、どう受け止めてよいのか判らず、挨拶も出来ないでいた。
「県警から・・参りました・・富田です。あの・・こちらで良いんですよね?」
それを聞いて、紀藤署長が思い出したように言った。
「ああ、そうだった。先ほど、県警の部長から連絡を貰っていたんだった。・・ええっと・・」
紀藤署長はそこまで言って、要件を説明するのに困ってしまった。
「すみません。私からお話ししましょう。私は、2年前から内定調査を行っておりまして、今回、豊城署管内で起きた事件との関わりが深いものですから、お話を伺いに来たというわけです。」
富田刑事の口調は、途轍もなくゆっくりで、とても刑事とは思えないものだった。
「豊城署管内の事件というと、上村氏の自殺の事ですか?」
鳥山課長が訊いた。
「ええ、そうです。合同捜査本部になったそうで、事件の概要はだいたい把握しております。」
「内定調査と言われましたが・・・。」
鳥山が訊く。
「あの・・かなり重要なお話なので秘密厳守でお願いします。なにせ、政治がらみの厄介な案件なんです。まだ、立件するには情報が足りないので、くれぐれも内密に願います。もし、漏れれば、私の首が飛ぶだけじゃなくて、紀藤署長にもご迷惑が掛かると思いますので・・・。」
前置きが長かった。鳥山課長が少し苛立って訊いた。
「わかりました。ここにいる者は皆、秘密厳守は判り切っています。それで?」
鳥山の言葉を聞いてもなお、富田は不信そうな表情だった。
「そうですか・・・では。」
富田刑事はそう言うと、胸ポケットから老眼鏡を取り出し、手帳を広げて確認するように話し始めた。
「豊城市長と地元大手の岩田建設の癒着について調べているところなんです。贈収賄がらみの案件でね、どうも、その情報を、上村議員が入手し、次の議会で追及する動きがあって、こちらも動向を探っていたんですが、自殺されてしまった。」
「豊城署では、贈収賄に関して捜査はしているんでしょうか?」
一樹が訊いた。富田刑事はニヤリとして言った。
「・・それが問題でね・・・・豊城署長には県警刑事部長から情報の照会をしたようなんですが・・一向に動かない。それどころか、こちらの動きが市長や建設業者にも知られてしまっているようなんです。・・それで、私が内定調査をしているという事なんです。」
富田刑事の口調はどうにも要点をぼかすようで、聞いている方が苛立ってしまう。
「あの・・内定調査って・・警察内部の調査の事でしょう?」
葉山が口を開いた。
「おや・・ようやく、気付きましたか・・。」
富田は、刑事ならば気づいて当然だろうというように、少しバカにしたような笑みを浮かべて言う。
一樹が訊く。
「豊城署内に、市長や建設業者に通じている者が居るということですか?」
「ご名答。さすが、矢沢刑事は勘が鋭い。一体誰なんでしょうねえ?」
富田刑事は、不敵な笑みを浮かべた。
「あなたはそれを調べていらっしゃるんでしょう?・・ここまでお話されるという事はほぼ特定できているという事でしょう。」
葉山が口を開いた。
「そうですね。まあ、今回の事件の推移から見ても、だいたい特定できるんですがね?どうです、葉山刑事?」
「いや・・僕には・・。」
「では、鳥山課長、どうですか?合同捜査本部にいらしたんでしょう?」
富田は鳥山課長に訊く。
鳥山は厳しい表情を浮かべていたが、こう答えた。
「確信はないが・・・それは・・八木ではないかと・・。」
「なるほど、鳥山課長はしっかり見ておられるようですね。・・そうです。我々は、八木刑事の内定調査をしておりました。橋川署から豊城署へ異動になって、すぐに刑事課配属となり、今、彼は豊城署の刑事課を取り仕切っている。あらゆる情報が彼の耳に入るようになった。今回の件でも、安永氏から通報を受け、真っ先に現場に駆け付け、自殺と断定して捜査を終えようとしている。何か、段取りが良すぎるとは思いませんか?」

nice!(1)  コメント(0) 
前の30件 | 次の30件 同調(シンクロ)Ⅱ-恨みの色- ブログトップ