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6-4.忘れ形見 [峠◇第1部]


「どれくらい経ったころか、風の音にまぎれて、下のほうから赤ん坊の泣き声が聞こえてきたんだ。目を凝らしてみると、岬の崖の下に僅かな窪みに、赤ん坊を包んだ白い布のようなものが見えた。俺は、一縷の望みを託して、暗闇の中、ゆっくり崖を降り、その布を抱えた。中には赤子が居た。真っ赤になって泣いておった。そして、また、ゆっくり崖を上った。上ったところを見ると、和美の履物があった。自殺した者がするように、きれいに並べておいた。」

崖の窪みは確かにあった。
怜子が突き落とされた時、運よく助かった場所、そして、幸一と一夜を過ごした場所である。
同じようにそこに赤ん坊がいた事は偶然なのだろうか。
それとも、和美が落ちていく時に投げ入れたのだろうか・・。

「その後、その赤ん坊はどうなったの?」と怜子が訊いた。
「その赤ん坊は僕じゃないんですか?」と幸一。
剛一郎は、ゆっくりと首を横に振った。
「その赤ん坊は、俺がそのまま抱えて家まで連れて帰った。だが、生まれて間もない乳飲み子が俺に育てられるわけも無い。」
「じゃあ、どこかへ預けたの?」と怜子。
「いや、そのまま家に置いた。もちろん、すぐに、忠之や祐志、司たちにも相談した。みんなの罪滅ぼしに、いや、和美の忘れ形見として育てる事にした。もちろん、爺様たちは反対した。玉谷の忌まわしき子どもを何故育てるのかと反対じゃった。ちゃんと育てる、迷惑は掛けないと懇願し、了解を得た。そして、皆の秘密にする事にした。」
「無茶な事を・・・」武井がつぶやく。
「無茶は承知じゃ。俺は独り身。自分のことさえ満足に始末できないのにと、婆様も反対しておった。じゃが、乳飲み子を前にして、やはり、放っておくことは出来ん。ちょうど、にしきやの娘、ああ、女主人が和夫を産んだばかりだったのを思い出して、無理を承知で、乳をやってくれるように婆様が頼みこんだんじゃ。最初は快く世話をしてくれた。じゃが、にしきやの主人がこの話を聞いて、怒鳴り込んできた。そして、代わりに金をよこせと言い出した。乳飲み子の命綱じゃ、安くはないぞと脅してきた。随分の大金を渡したんじゃ。忠之も祐志も協力してくれた。みんなで、和美の忘れ形見を大事に大事に育てたんじゃ。」
「それじゃあ・・」と怜子は言いかけたが、言葉が出なかった。
幸一が怜子の代わりに言った。
「それじゃあ、和美さんの赤ちゃんは、怜子さんなんですか?」
剛一郎は、怜子の眼を見てゆっくりと首を縦に振った。そして、
「すまなかった。せめてもの罪滅ぼしになればと・・本当にすまなかった・・・」

怜子は父の言葉にどう答えてよいのか戸惑った。
養女とは聞いていたがまさか自分が和美さんの子どもだとは考えもしなかった。
それに、父、いや玉水剛一郎が犯した罪の重さと今まで育ててくれた事、そして、悲運な母を考えると、どう受け止めてよいのか判らなくなった。
全てが嘘だと思いたかった。ぶっきらぼうで自分勝手で、干渉ばかりする父だが、何不自由なくこれまで育ててくれた。皆、優しく見守ってくれた。これまでの20数年が走馬灯のように浮かんできた。しかし、母の恋人・・父を殺し、母を死に追いやった張本人である。
怜子はその場に蹲り、声を上げて泣いた。子どものようにわあわあ言って泣いた。幸一が肩を抱く。

そんな怜子を見て、順平が嗚咽しながら、
「まさか、そんな事が・・・。和美の忘れ形見・・・生きていたとは・・・なんと皮肉な事だ・・」と呟いた。
そんな順平を見て、幸一がズボンのポケットに入っていた黒い手帳を開き、1枚の写真を取り出した。
「これが母です。昔の写真ですが、どうですか?」と順平に見せた。
「おお、これは・・和美・・笑顔で写っとる。・・和美・・」、更に泣き崩れた。
怜子も、その写真を順平から奪うように手に取り、
「これが、お母様?お母様なの?」と幸一に詰め寄る。
「そう、名古屋に来たばかりのときはもっとやつれていたらしい。父と一緒に暮らし、徐々に元気になって。」と幸一がその頃の様子を話した。
剛一郎もその写真を見て、「すまなかった。本当にすまなかった。」と心から詫びた。
武井が、「すまないが、私にも見せてくれるかい?」と催促した。
武井は写真を手に取ると、しばらくじっと見つめてから、
「こんな可愛い人を皆で不幸の奈落へ突き落として!しっかり罪は償ってもらうぞ!」と言って、順平を後ろ手で、手錠をかけた。一段落したようだった。
さっきまで吹いていた海風が急に止んで、夕凪になった。もう、夕日が沈みかけ、周囲がぼんやりとしてきていた。
「怜子、許してくれ!」
そう短く叫んだかと思うと、剛一郎は、岬の先端へ駆けて行った。声をかける事も止めることもできない一瞬の出来事だった。
剛一郎の姿が先端から消えた。そして、大きな水飛沫が上がった。
夕闇が辺りと包み込み、白い泡も薄れていった。
「お父様!」怜子が叫ぶ。
崖下を覗き込もうとして落ちそうになる怜子を必至に抑え、幸一は言った。
「なんて事を!」
「全てを話す決心をした時から、こうする事を決めていたのだろう。罪を償うつもりだったんだろう。」と武井は言って、すぐに捜索するように手配した。
すっかり日も暮れ、暗い海が広がっている。


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