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8-2.旅支度 [峠◇第1部]

幸一は、誰もいない玉林寺に戻ると、荷物をまとめ始めた。
荷物は多くなかった。この村へ来たときは、これまでの数年、あちこちを回って集めたメモやノートを、大事にカバンに詰めてきた。しかし、この村に来て、出生の秘密が解き明かされた今、これらの全てがゴミのように思えた。

幸一は、これらを持って、庭に出た。
境内の隅には、住職が落ち葉などを燃やすのに使った古い焼却炉があった。
幸一は、カバンの中に入っていたもの全てを、この中に押し込んで、火をつけた。
夜の闇に、赤く燃え上がる炎をぼんやり見ていると、ここへ来てからの日々が浮かんでくる。
立ち上る煙が目に沁みたのか、涙が出てきた。
焼却炉の火が落ちる頃には、幸一は身支度を終えていた。

幸一は、本尊の前に正座し、目を閉じた。ここへ来て過ごした日々を思い出しながら、そっと手を合わせた。
そして、軽くなったカバンを抱えて、寺の門から外へ出た。
村の通りは、月光で、意外と明るかった。玉之川には月の光が反射して美しかった。
ゆっくりとした足取りで峠へ向かう。峠道は真っ暗だった。それでも、しばらく歩くと目が慣れてきた。2つ目のカーブまで来ると、ようやく、幸一は振り返った。

ここからは、村中が見渡せた。ここに着いたばかりのころは、ただの田舎の風景にしか見えなかった。
今は、西の地に玉穂の家、東方には玉城のお屋敷、そして四方橋の袂にはヨシさんのタバコ屋、にしきやが見えた。短い日数だったのに、今では、この村の隅々までわかるようになっていた。
ひとつひとつに小さな灯りが灯っていて、確かにそこに自分の知っている人たちが暮らしている。
そして、遠くに波止場が見える。今日は、出漁しないのだろうか。いつもなら、漁の準備で、港には煌々とと水銀灯の明かりが点いているのだが・・。

波止場の西側には、ひときわ大きな白い建物がある。
玉水水産の加工場だ。その隣に、怜子の家がある。怜子はもう眠っているだろうか。短い時間だったが、確かに、幸一は怜子を愛してしまっていた。兄妹とわかるまでは、共に生きていきたいと強く願っていた。怜子の温もりが、今更ながら、恋しかった。

波止場の東には、玉付崎の小さな灯台が見える。あの下で、初めて会話を交わし、あそこで互いの温もりを確かめあい、あそこで、2人の悲しい生い立ちを知った。あの場所が2人の全てを運命付けた。
そんな思いを持ちながら、しばらく、幸一は村を眺めていた。

 ここを去る自分とこの村の人たち。自分がここに来た事で、悲しい過去を暴きだし、幾つもの大事な命が失われ、深い傷を残したままになってしまう事を幸一は悔いていた。そして、ここには、もう戻る事はないだろう。いや、戻ってきてはいけない場所なのだと心に決めた。

 幸一は、踵を返すと、一気に峠道を上っていった。
峠を越えると、町が見えた。東の空が徐々に白み始めていた。

8-3.未練 [峠◇第1部]


「お嬢さん。本当に、これで良かったんですか?」
 幸一と別れた後の車中で、史郎がつぶやいた。
「ええ。ちょっとだけ、早かったけどね。」
と怜子が答えた。

怜子は、警察署を出る時、幸一には内緒で、史郎に電話で、四方橋まで迎えに来るように言いつけていたのだった。きっと、二人きりになると、二度と離れられなくなりそうで、無理やりにでも引き離してもらわないといけないと考えていたのだった。だからこそ、一層無粋な調子で迎えに来るように言っておいたのだった。
怜子は、暗闇を走り抜ける車窓の外に視線をやりながら、また、涙が止まらなくなっていた。今度は、幸一との訣別の切ない涙だった。

家に着くと、玉水水産には従業員たちが集まっていた。社長の自殺を知って、皆心配で集まっていたのだ。
史郎が、怜子を連れて帰ると、皆、怜子を気遣う言葉を掛けてくれた。
怜子は、自分の気持ちを整理し、幸一への未練を断ち切るためにもと、皆を前にしてこう言った。
「父は罪を償って命を絶ちました。ですが、私は恨んでいません。ここまで育ててくれた父は、本当に優しくて何よりも私を大切にしてくれました。だから、私は、父の恩に報いるためにも、この会社を守っていきます。皆さんも、ぜひ、私と一緒にここで頑張って下さい。お願いします。」
集まっていた皆は、気丈に話す怜子の姿を見て、涙を堪えながら聞いていた。そして、皆口々に、頑張ろうと言い合っていた。そして、それぞれ、家に帰っていった。
「お嬢さん、本当にこれで良かったんですか?」と史郎が訊いたが、怜子の顔を見るなり、それ以上は訊いてはいけないと感じて、すごすごと帰って行った。

怜子は、父のいない家に一人きりだった。静まり返った部屋のベッドに横たわっていた。
きっと、幸一は、今晩の内に、この村を出て行くだろうと感じていた。もう会えない、会ってはいけないのだと自分に言い聞かせていた。そのために、史郎に四方橋まで迎えに来させたのだから。
会社のみんなの前で、自分に言い聞かせるように、決心して言った言葉も胸にある。
しかし、どうしても、このまま別れてしまう事が出来なかった。

怜子は、そっと、家を出て、車に乗り込んだ。
幸一はまだ、寺にいるだろうかと思いつつ、夜道を急いだ。真っ暗な田舎道に、怜子の車のヘッドライトが遠くまで照らしている。
会ってどうしようというのか、どうしようもない事なのに、でも、もう一度、あの温もりを感じたかった。

玉林寺はひっそりとしていた。明かりも点いていない。もう出て行ってしまったようだった。
ふと、峠道を見ると、月夜の明かりにぼんやりと人影が見えた。
こんな時間に峠を越える村人はいない。幸一に違いなかった。今追いかければ、間に合うはず。引き止める事も出来るかもしれない。そう思って、車のドアを開けた。
だが、それ以上はできなかった。
今、幸一の側に行ってどうしようというのだ。恋心を抱いても、所詮、それは許されぬ事。二人には期待すべき未来などないのだ。そう思うとそれ以上前へは進めなかった。

人影は急に向きを変え、峠の暗闇へ消えてしまった。怜子はしばらくその場から動けないでいた。

8-4.居酒屋『峠(たお)』 [峠◇第1部]

名古屋の町は、欅の葉もすっかり茶色になり、冷たい西風が吹く季節になっていた。

玉浦から戻った幸一は、母がやっていた居酒屋をもう一度始めようとしていた。
しばらく使っていなかった事もあり、まずは、大掃除をし、皿や茶碗、鍋等も丁寧に洗い直した。
品書きも綺麗に書き換えた。ただ一つ、母の得意料理だった、『太刀魚の塩焼き』だけはそのままにしておいた。

夕方、店先に暖簾を出した。しばらく閉めていた事もあり、お客は来なかった。
昔の常連さん達も、母がなくなってからは足が遠のいていた。幸一には、お客が来なくても一向に構わなかった。カウンターの中にいるだけで、母と共に生きた時間を共有できると感じていたからだった。

夜10時を回った頃だった。扉が開いて、お客がやってきた。
サラリーマンだろうか、数人連れ立って、入ってきた。
近所で宴会でもあったのか、既にかなり飲んできた様子で、椅子に座るなり、ビールを注文した。
付出しを並べ、おでんの注文を受けた。皿に取り分けていると、また一人客が来た。不慣れなせいで、客の顔もまともに確認できず、「いらっしゃい」とだけ言って迎えた。

こんなに客が来るなんて予想もしていなかったせいで、幸一は焦った。母の仕事を手伝う事はあったが、一人でやるとなるとこれだけ大変なのかと、改めて、母の苦労がわかる。
母は、体調を崩してからも、常連さんが来るからと店を開け、てきぱきとこなし、助平な客のからかいにも笑顔を受け流し、実に幸せそうに毎日を過ごしていた母を思い出して、つい、涙がこぼれそうになった。

ばたばたとしているうちに、数人連れのサラリーマン達は勘定を済ませて帰っていった。
先ほど、顔も見ずに迎えた客は、店の隅のほうに後向きに座って、ビールを飲んでいるようだった。
その客が、ふと顔を上げて
「珍しい。こんな時期に太刀魚なんてあるのかい?」と訊いた。
「ああ、すみません。今日は入っていませんから・・」と幸一が答えた。
その客は振り返ってから、
「そうだろうな。こんな時期に美味い太刀魚なんて手に入らないだろう。」と笑顔で言った。
その顔は見覚えがあった。そう、玉浦の港で、啓二を探していた時、厳しく言った老練の漁師だった。
「おぼえちょるかね?」と幸一に訊いた。
「ええ、確か、玉浦の港で・・啓二の船を探していた時にお会いしましたよね。」と幸一。
「おお、そうだ。そこでも会ったな。あの時は、お前さんが、あの幸一とは思わなかったが・・・」と漁師は答える。
「そこでも?って、もっと以前にお会いしましたっけ?」と幸一は不思議顔で返す。
「ふーん。わからんか。それなら、これではどうだ?」
と漁師は言いながら、腕まくりをして、左の二の腕の力こぶを見せる。
日ごろの漁で、鍛えられ、盛り上がった筋肉、その表面に、青緑色の小さな刺青がある。刺青は、碇のマークになっていた。
幸一は、徐々に思い出してきた。あの碇のマークは確か・・・と思い出し始めた時、
「まだ思い出してくれんか?ほら、ぎ・・」と言いかけた時、幸一の古い記憶が、頭の中で弾けた。
「銀ちゃん!銀ちゃんだ。」と言葉が出た。
「やっと思い出してくれたか。そうだな、年を取って、顔つきも変わったかな。いや、このはげ頭のせいかな?」と頭をなでながら苦笑いをしている。

8-5.銀ちゃん [峠◇第1部]

幸一の頭の中で、幼かった頃の楽しい記憶が、堰を切ったように流れ出している。
父と母と3人で暮らしていた頃、寒い季節になると、突然やってきて1週間くらい滞在していた銀ちゃん。
本名は知らない、ただ、父や母は、銀ちゃんのことを『兄さん』と呼んでいた。
幸一も、叔父さんと呼ぼうとしたら、『銀ちゃん』と呼んでくれと言われたので、それ以来、ずっと『銀ちゃん』と呼んでいた。
父が亡くなった後はぱったりと現れなくなって、いつしか、記憶の片隅に追いやられていたのだった。

父と母が居酒屋を営んでいるせいで、幼い時の幸一は、夜、一人でいる事が多かった。
だが、銀ちゃんが現れた1週間は、朝から晩までくっついていて、楽しかった。
銀ちゃんは少し乱暴者で、知らない町でも揉め事を起こしていた。そのたびに、父が謝りに行ったが、少しも反省しているようではなかった。銀ちゃんの事ではっきり覚えている事が二つあった。

ひとつは、銭湯での事。
銀ちゃんは広い風呂が好きで、近くの銭湯に連れて行ってくれた。ただ、困る事があった。それは、一緒に湯船に浸かっていると必ず大きな屁をするのである。ぼわっという音とともに大きな泡がそこらじゅうに湧いてくる。ぽかんと泡が弾けると、途轍もなく臭かった。周りに居る人はとても迷惑しているのに、銀ちゃんは『出るものは仕方ない』とそ知らぬ顔をしているのだった。

もうひとつは、朝ご飯。
銀ちゃんは何故か朝ごはんはパンと牛乳じゃなきゃダメだった。わざわざ買いに行かせる。大抵は、幸一が買いに行く当番だった。そして、朝起きると、牛乳をコップに入れ、食パンを取り出し、白砂糖を目いっぱい乗せる。そして、それを半折りにして頬張るのだった。隙間から、砂糖がこぼれて、母はいつも『蟻が来るから止めて』と怒っていたのだった。

「でも、どうして、ここへ?もう10年以上、来てなかったでしょう。」と幸一が尋ねる。
「ああ、鉄三が死んでからはな。ほら、和美だけの家に押しかけるのは、いくら義兄と言ってもな。」
と銀二は、来辛かった言い訳をした。
「随分離れていたんで、港でお前の名前を聞いた時、すぐには、あの幸一とはわからなかった。いろんな事件が起きたから、なかなか、お前をつかまえられなくてなあ。」
銀ちゃんは、ビールを飲んだ。
「一件落着してから、お前に会いに行こうと思っていたら、挨拶もなしに居なくなって・・・」
「すみません。なんだか、皆さんに面と向かってお別れをいうのが恥ずかしくて。」
「それだけかい?」とちょっと意地悪そうに銀ちゃんは訊いて来た。
「いや、それは・・・」と幸一は答えに困った。
「まあいいさ。その後、玉水の娘から、お前さんが、自分の生い立ちを調べるために玉浦に来ていたと聞いたんでな。そろそろ、きちんと教えといたほうが良いだろうと思ってな。」と銀ちゃん。
「ええ、でも、それなら、母の悲しい人生や玉谷家の事はわかったし、そのせいで、あの村に悲しい事件が起きたんですから・・」
と、幸一は、消そうとしていた記憶を思い出してしまったという表情で答えた。
「そうか。ふーん。」
と銀ちゃんは考え込んでしまった。
「幸一、ビールをくれ。」とコップを差し出した。
いっぱいに注ぐと、銀ちゃんは一気に飲み干してから、
「これから言う事をよく聞け。良いな。」
と決心したかのような口ぶりで続けた。
「俺の名前は、福谷銀二。そう、お前の父親の兄貴だ。」
「・・それで、兄さんと呼んでいたんだね。」
「そうだ。長男の金一は早くに死んじまったが・・いや、そんな話はいいんだ。えーと、どこから話せば・・」
と、銀ちゃんは禿げ頭を撫でながら考えた。
そして、25年前の母のその後を話し始めた。

8-6.生い立ち [峠◇第1部]

「まず、お前の母親の事からだ。火事の日、岬から和美は飛び込んだのは確かだ。普通、あそこから飛び込むと潮の流れに巻かれて、大久保海岸に流れつくか、沖の姫島へ引っ張られるか、いずれにしてもほとんど助からん。だが、飛び込んだ時、偶然、潮が止まっておった。だから、岬の少し先あたりに和美は浮いていた。」
「そんな偶然が・・」と幸一。
「そんな事で驚くんじゃない。そこへ、俺の船が通りかかった。太刀魚漁の水揚げに玉浦港に行くところだった。白いものが浮いているのが見えて近づくと、和美だった。意識は失っていたが、無傷だった。すぐに救い上げて船に乗せた。そして、村へは行かず、向島(むこうしま)の俺の家に、一時匿うことにしたんだ。」

幸一は、銀ちゃんの話を固唾を呑んで聞いていた。
玉浦では掴めなかった母の消息が一つ一つ明かされている。

「玉浦から向島までは遠いし、めったな事では見つからないだろう。しばらく、俺の家に隠れて、体が良くなったらどこかの町へ行くのもいいだろうとも考えたんだ。」
「銀ちゃんは、玉浦に住んでいたんじゃ・・」と幸一。
「俺は、そのころは、向島の漁師だったが、お袋が玉浦の人間なんで、向島と玉浦を行き来しておっただけだ。それよりも、和美を連れて、家に戻った数日は意識が戻らなかった。意識が戻って和美は、生きる気力がなくなっていた。忌まわしい記憶を抱えて生きる事は辛いだろうと俺も思ったよ。」
銀ちゃんはその日のことを思い出しながら、静かに話し続けた。

「母は、記憶が無かったんじゃ・・」と幸一が訊く。
「ああ、それは、俺が和美に言ったんだ。玉浦の記憶は全て消したほうが良い。そのためには、記憶を無くしたと言い続ければ、誰からも尋ねられることも無くなると思ってな。」
「じゃあ、母はちゃんと玉浦の事は覚えていたんですか?悲しい出来事全てを背負って生きてきたということですか?」
銀ちゃんは、こくりと頷いた。
「父とはどうして?」と幸一は尋ねた。
「そのことなんだがな。」
と銀ちゃんは少し躊躇いがちに話した。

「実はな、弟は前の年に結婚した。相手は、向島の釣り船屋の娘だ。いや、子どもができたので籍を入れたと言うほうが正しいかも知れん。だが、この娘、病気がちで、医者からは子どもを産むのは無理だと言われた。だが、娘はどうしても産みたいと言ったんだ。弟も反対したが譲らなかった。臨月より早く陣痛が来て、病院に入った時にはもう娘の体力は無かった。医者は、母体か赤ちゃんかと弟に聞いたが選べるわけも無い。結局、赤ちゃんは取り出したが娘はダメだった。」
幸一は、銀ちゃんの話で、大体の事は判ってきた。

「その事を知った和美は、自分が世話をすると言い出した。赤子を産んだ体は乳が張る、弟の赤子に飲ませる事で自分も楽になるからと言ってな。」
銀ちゃんはそういうと、ビールを一気に飲み干した。
「釣り船屋の親御さんも、乳母代わりならと認め、店の手伝いもしながら、しばらく赤子の世話をする事になった。弟もずいぶん感謝していたんだ。ただ、赤子を世話する和美を見ているうちに、弟は和美を好きになったらしい。傍目から見ても、夫婦に見えるほどだった。向島は田舎町だ。そういう事は、恥じゃと親御さんが言い始めた。弟たちも、居づらくなったと感じたのだろう。ある晩、俺のところに来て、二人で遠くの町に行って暮らすと言い出し、朝にはもう居なくなっていた。」
「それで、名古屋に?」と幸一。
「ああ、何でも知り合いの料亭の人が、親切にしてくれて、名古屋で暮らすからと言ってきた。様子を見に行ったが、弟は板場の仕事、和美は仲居の仕事をやっていた。きつい仕事だが、幸せそうだった。それからちょくちょく様子を見に行ったが、3年ほどしたら、居酒屋を始めることになったと言い出してな。それから後は、お前も知っているとおりだ。」

幸一は、銀ちゃんの話を聞きながら、これまで途切れていた自分の生い立ちが真っ直ぐつながっていくのを感じていた。そして、改めて銀ちゃんに確認するように言った。

「じゃあ、僕は、お父さんと向島の娘さんとの間にできた子どもで、育ててくれた母とは血がつながっていないという事ですか?」
「そうだ。そのとおりだ。だからといって、和美はな、わが子同様、大事に育ててくれたのは事実だろ。いや、玉浦で離れたわが子を思って、罪滅ぼしでもあったかも知れん。どっちにしても、和美はお前の母親にまちがいないだろ。」と強く銀ちゃんは言った。


8-7.食パン [峠◇第1部]

「銀ちゃん、今日の宿はどこかに決めているんですか?」と幸一は訊いた。
「いや、それがその・・恥ずかしい事に、もう金が無くってさ。」と銀二。
「ひょっとして、何日か前から名古屋にいたんですか?」と幸一。
「ああ、実はな、1週間ほど前からな。この店しか知らないから、だが、開いてなくてなあ。」
と銀二が苦笑いをしながら話した。
「それじゃあ、銀ちゃん、ここに泊まっていってください。2階は昔のままだし。さあ、今日はお終いにします。先に、2階に行ってて下さい。」
「俺も手伝おうか?」
「いえ、大丈夫です。片付けたら、すぐに行きますから・・」と幸一は答えて、銀二を2階に上がらせた。

店の2階も昔のままだった。
贅沢はしなかった親に育てられたせいか、幸一も必要最低限のものしか持っていない。
銀二は、久しぶりの訪れたこの家を、ゆっくりと見回した。そして、鉄三と和美の位牌が置かれている小さな仏壇の前に正座し、手を合わせた。
そして、自分の首から下げていた、紐を引っ張ると、小さなお守り袋を取り出した。
和美が、銀二に作ったものだった。
表の布は、和美が身投げした時に来ていた洋服の端切れを使っていた。
和美は嫌な思い出だからと銀二にどこかに捨ててくれと頼んでいたが、銀二は隠しておいた。
ある日、和美が部屋の掃除にやってきて見つかった。捨てようとするのを、銀二は「それなら、端切れを使ってお守り袋を作ってくれ」とと頼んだのだった。中には、和美の感謝の気持ちをこめた手紙と、和美の頭髪が一握り入っていた。
和美を助けて、別の人生を生きるよう説得した時、和美は、「それなら、この長い髪を切って欲しい」と銀二に頼んだのだった。和美の髪は、艶やかで美しく、腰近くまであった。銀二は、網の修理に使う手鋏でざっくりと切った。その髪の一部をそっと隠しておいたのだった。

「なあ、これで良かったんだよな。ずっと秘密にしておいても良かったんだが、幸一には幸せになってもらいたいからな。・・・おい、鉄三、そっちでも和美を大事にしてるか?」
銀二は、お守り袋を優しく撫でながら、安堵の涙を流した。

幸一が、ビールとコップ、それに店の残り物をいくつかお盆に載せて、階段を上がってきた。
その夜は、銀二と幸一は、思い出話で大いに語り明かした。
銀二は、和美の思い出話をする時は、少年のような目になるのを、幸一は感じていた。

翌朝、銀二が目を覚ますと、幸一は居なかった。店の仕込みかと思って、店に下りたが居なかった。

しばらくすると、幸一が袋を抱えて帰ってきた。
「おはようございます。もう起きたんですか。」と幸一。
「朝から、店の仕込みかい?」と銀二。
「いえ、朝食をと思って・・・」
「朝飯なら、その辺にあるものでいいのに」
「いや。銀ちゃんの朝飯と言えば、これでしょう?」
と幸一は言いながら、袋の中から、食パンと牛乳と砂糖を取り出した。
銀二は、目を細め、
「よく覚えてたなあ。和美にはしょっちゅう怒られたけどな。」と笑った。
「ねえ、銀ちゃん。どうして、食パンと砂糖と牛乳なんですか?あんまり美味しいとは思わないけど・・」と幸一が訊いて見た。
「うるさいよ、俺が美味きゃいいんだよ。」と銀二。
「いや、絶対、何かある。教えてください。」と幸一がしつこく尋ねた。
「うるさいなあ、何でも無い。美味いからだよ。」とだけ銀二は答えた。
食パンを食べながら銀二は思い出していた。

和美を助けたあと、二人はしばらく一緒に暮らしていた。それまで、銀二は、パンを食べた事がなかった。なんだか頼りない、やっぱり白いご飯じゃなくちゃと決めていたからだ。
しかし、和美が元気になり、一緒に買い物に行った時、和美がパン売り場で立ち止まって、「たまにはパンを食べましょう。」と銀二にねだったのだった。だが、バターやジャムは高くて買えなかった。家に帰ってから、パンだけじゃと思って、和美が砂糖を挟んで銀二に食べさせたのだった。そんなに美味しいとは思わなかったが、その時の和美の笑顔が飛び切り素敵に見えた。その日から、銀二は、食パンに砂糖に牛乳の朝ごはんを食べる事にしているのだった。

朝食を済まして、銀二は帰り支度を始めた。
「そろそろ玉浦に帰るよ。漁に出ないとな。もう金欠も適わんからな。」と言って、名古屋駅に向かった。
幸一は、駅まで見送りにいった。駅までの道を歩きながら、幸一が尋ねた。
「父や母が名古屋に来た時、お世話になった方ってどこにお住まいですか?僕は赤ん坊でほとんど覚えていないので、一度、その頃の様子もお聞きしたいなあと思うんです。」
「そうか。それなら、ここから近いぞ。名古屋駅の新幹線口の前をまっすぐ歩いて10分くらいだ。松屋っていう名の料亭だ。多分、今もやってるはずだ。大女将ならよく憶えているだろう。」と銀二は答えた。

銀二はお金が無いのはわかっていたので、幸一が新幹線の切符を買った。これまでのお礼にと、グリーン席を買おうとしたら、もったいない、そんなお金があるなら他に使え、おれは自由席でいい、と銀二は承諾しなかった。
銀二は、またいつでも会えるんだから、ここで良いと言い、新幹線の改札口で別れることにした。

「そう言えば、来年には、玉祖神社の祭をまたやるそうだ。祐介や和夫、それに、怜子がまとめ役になってな。何でも、ふんどしで飛び込む終いの儀式を、村の子どもたちにやらせるって言ってた。皆、元気だぞ。」
別れ際に、そう言いながら、銀二は、エスカレーターに乗り、ホームへ上がっていった。


8-8.松屋 [峠◇第1部]

幸一は、銀二と別れてから、すぐに、松屋に向かうことにした。老舗の料亭ですぐに場所はわかった。
まだ、店を開く時間ではないので、脇にある通用門でインターホンを押した。すぐに、返事があった。
「朝からすみません。私、福谷幸一と申します。以前に、父や母がこちらでお世話になりまして・・」
と切り出したら、「少しお待ちください。」と返答があった。
しばらくして、通用門の木戸が開いて、中から、若女将らしき人が出てきた。
「福谷さんって、あの銀二さんのお子さん?」と尋ねる。
「え?銀二さんをご存知なんですか。あ、すみません。私は、鉄三の息子です。」と答えた。
「鉄三さん?・・ああ、うちで働いていた人ね。どうぞ、どうぞ、お入りください。」と中へ案内された。

中に入ると、奥の座敷部屋に案内された。
しばらくして、先ほどの若女将と一緒に、すいぶん高齢のおばあさんが出てこられた。
若女将らしき人は
「福谷さんがみえたよと言ったら、おばあ様、ああ、大女将が是非会いたいというので・・」と言った。
大女将は、幸一の顔を見るなり
「おお・・おお・・大きくなって・・幸ちゃんだね。」と涙ぐんでいる。
「すみません。まだ赤ん坊だったので、ここの事をほとんど覚えていなくって・・銀二さんに聞いて、一度尋ねてみようと思ったんです。」
大女将は、「銀ちゃんと一緒にだったの?会いたかったわ。」と言った。
「銀二さんの事、ご存知なんですか?」と幸一。
「ええ、ご存知なんてもんじゃないわよ。あの人が居なかったら、今の私も、この料亭も無かったんだから。もう大恩人なんですよ。会いたかったわねえ。」と大女将が言う。
「どういうことなんですか?」
「銀二さんに会ったのは随分昔のことなのよ。30年位前かしらね。実は、ここの店も一頃は閑古鳥で、借金ばかりが大きくなって、いよいよ閉めなくちゃいけないって時があったんです。その時、主人と二人、いっそ遠くの誰も知らないところで心中しようと決心してね。それで、向島までいったんです。片田舎で誰も住んでいないようなところでひっそり死ねたらいいねと考えて。そこで銀ちゃんに会ったんです。」
「その頃、銀二さんはどんな人でした?」と幸一。
「そうね。30歳くらいだったかしら。見るからに、漁師って感じでね。」
「へえ。」
「主人と二人で、浜辺に居たら、銀ちゃんが近くに来て、『あんたら、死ぬ気だろ。もったいないから、止めときな。死んだと思って別の人生、生きてみちゃあ、どうだい』なんて、妙に気取って言うのよ。きっと、映画か何かで憶えた台詞だと思うんだけどね。」
「へえ、銀ちゃんらしいですね。」
「その言葉を聞いたら、私、なんか死ぬのが馬鹿らしくなってね。主人も、若い漁師から諭された事がなんだか癪に障ったのか、急に、『おい、帰るぞ』って。」
「銀ちゃんって、時々、まともな事を言うんですね。」
「そうね。私たちは、それから、名古屋に帰ってきてね。死ぬ気になって働いたわ。でもなかなか良くならなくて。」
「それでどうなったんですか?」
「それからしばらくして、銀二さんが一度遊びに来てくれたわ。そうそう、太刀魚の良いのが取れたからってお土産にもってきたのよ。」
「名古屋だって、良い魚は手に入るでしょうに。」
「いいえ、銀二さん、取れた魚をすぐに箱に入れて、持ってきてくれたの。主人が見て感動していたわ。何だか、二人で、太刀魚の料理をいろいろと話していたのを覚えているわ。」
「魚にはうるさかったですからね。」
「その翌日だったかしら、主人たら、別人になったみたいだったわ。借金していた銀行へ乗り込んでいってね。担当者をつかまえて、『金は返せそうに無い。だから、最後に、俺の料理を食ってくれ。できたら、頭取にも食べてもらいたい』って頼み込んだのよ。」
「へえ、そうなんですか。」
「何日かしたら、突然、銀行の頭取と支店長と担当者がお見えになってね。主人は、腕によりをかけて料理を作ったわ。一通り食事が終わったらね、頭取さんが、『こんな美味い料理が食べられなくなるのはいかん。』と言ってね。借金を頭取自ら引き受けてくれて、その上、この店の事を宣伝してくれて、お店が持ち直したのよ。」
「その頭取の方も太っ腹ですね。でも、銀ちゃんは、心中を止めようとしただけで、ご主人や女将さんの頑張りじゃないですか。」
「それが、違うのよ。後で、担当の方から聞いたんだけど。田舎の漁師みたいなのが銀行に乗り込んできて騒いだんだって。取り押さえてよく話を聞いたら、名古屋の誇りになる料理屋をつぶさないでくれ、せめて、一度料理を食べてみてくれっていうんですって。たまたま、その騒ぎが頭取の耳に入ってね。それで、店に来ていただいたってわけ。だから、銀ちゃんには2度も助けられたのよ。」
「そんな事があったなんて、一言も言ってなかったんだけどなあ。」幸一はつぶやいた。
「ようやく、お店が持ち直した頃、主人と二人でお礼に伺ったんです。そしたら、銀ちゃんはね、別に礼はいらないって言うんです。それじゃ気が済まないって言ったら、じゃあ、いつか困った時に助けて欲しいからって言うのよ。」
「銀ちゃんは、自分のことはあまり構わないっていうか、欲が無い人ですよね。」

8-9.頼み [峠◇第1部]


「それがね、4.5年経った頃だったかしら。突然、この店に来てね。『女将さん、助けて欲しい』って頭を下げるのよ。」
「どうしたって言うんですか?」
「実はね、俺の弟を助けてくれないかって。何でも、まだ半人前だが、料理人を目指しているから、仕事を教えてやってほしいってね。そんなのお安い御用だから、すぐによこしてくださいって返事をしたの。」
「父がお願いしたんじゃなかったんですね。」
「そうなの。それとね、銀ちゃんが、『女将さん、訳は聞かないで欲しいんだが、弟は嫁さんと子どももいる。一緒に面倒見てやって欲しい』って言うのよ。」
「いくらなんでも、夫婦でお世話になるなんて・・・」
「私もそう思ったんだけど・・・主人が出てきてね。・・銀ちゃんのたっての願いなんだからって引き受けたの。」
「それで、父と母がこちらでお世話になったんですね・・・」と父母の様子を聞いた。
「何日かして、若いご夫婦がいらっしゃたわ。小さなカバンを持って、赤ちゃんを抱っこして。鉄三さんは熱心に仕事を憶えて、和美さんもよく気の付く良い人でした。主人も随分気に入ってたみたい。ただ、赤ちゃんが全てでね。自分たちはどんなに体が疲れていても、熱を出しても、仕事を休むような事はなかったのに、赤ちゃんが風邪を引いた、熱を出した、なんていうと夫婦でおろおろして、仕事にならなかったのよね。ああ、その赤ちゃんが幸一さん、あなただものね。」
と大女将は笑顔で話してくれた。
「居酒屋を開いた時の事はどうでしたか?せっかくここでお世話になったのだから、独立なんて勝手な事をと思っていらっしゃるんじゃありませんか?」と幸一。
「ああ、数年ここで働いてもらってね。一人前の料理人になった頃よね。」
と大女将が思い出しながら、でもちょっと躊躇いながら、
「この話、銀ちゃんからは内緒にしてくれって言われてたけど・・・実はね、お店を出したのも、銀ちゃんの頼みなのよ。」
「えっ?父や母がやりたいって思ったんじゃなくって?」と幸一は驚いた。
「もちろん、二人はいつか自分たちの店が持ちたいって言ってたわ。でも、ここで働いている程度じゃ、お金の工面はそんなに簡単じゃないわ。」
「そうですよね。」
「でもね、ある日、銀ちゃんがここへ来て、言うのよ。『いつまでもここにいると甘えてしまう。自分たちの店を持ってもらいたい。』ってね。」
「でも、お店を開くって大変でしょう。お金のことだってあるだろうし・・」
「そう。最初は反対したの。うちの仕事も覚えて貰ったことだし、板場でも頼りになるし、奥さんだって、仲居の中では本当に頼れる人だったからね。」
「それでも・・」
「そう。銀ちゃんが『女将さん、最後の頼みと聞いて欲しい。店を持たせるために、俺も金を貯めてきた。だが、少し足りない。残りは、弟の借金という事で、店を出す手伝いをしてもらえまいか』ってね。あたしはびっくりしたんです。持ってきたお金、足りないどころじゃなくて、随分沢山あったの。どうやって貯めたんだか。だから、鉄三さんは借金なんて必要ないくらい。だから、あたしは銀ちゃんに訊いたの。なんで、そこまで弟の面倒を見るんだってね。」
「そうですよね。それに、自分で父に勧めることだってできるのに・・」
「そしたら、銀ちゃんはね、『いや、弟のためじゃない。和美のためなんだ。あの娘は、あの年で、言葉にできないくらい悲しい目にたくさんあってきた。だから、少しでも幸せになってもらいたいんだ。弟の足りない分を俺ができる事をしてやりたいんだ』ってね。」
「そうですか。そうなんです。生まれた村で悲しい事があったんです。僕も、最近知ったんですけど。それで、身投げをした事があって、そこを銀二さんが救ったとは聞きました。」
「そんな事があったの。ここではとても明るかったし、幸せそうだったんですけどね。そうそう、その頃の写真があるわよ。」
と言い、席を立って、部屋を出て行った。


8-10.アルバム [峠◇第1部]

幸一は、父と母がここへ来た理由やお店をだした様子を聞いているうちに、銀二は和美の事をどう思っていたのだろうと考えていた。
偶然、夜の海で救った娘に、そこまで世話をする、いや尽くすといった方が良いかもしれないような関わり方をもっていたのはどうしてだろうかと。

しばらくして、大女将は、古いアルバムを持って入ってきた。
「たくさんはないんだけどね・・・ええと・・・ああ、これね」と言って1枚の写真を見せた。
「ここを辞める日にみんなで撮ったの。これが私の主人、これが私、そして、これが鉄三さん。あら、あなたとそっくりじゃない。やっぱり親子ね。そして、赤ちゃんを抱っこしてるのが和美さんね。ほら、笑ってる。確か、銀ちゃんもいたはずだけどね・・」
と大女将は一人ずつ指差して教えてくれた。

セピア色に変色した集合写真には、懐かしい父や母の若い時の笑顔が写っていた。

「写ってないみたいね。・・ああ、そうそう、この写真を撮ったのが銀ちゃんだったわ。主人のカメラを取り上げてね、『俺が撮るからみんな並べ。とびきりの笑顔じゃないと許さないぞ』って言ってたわ。」

父の顔は少し緊張しているようだった。そして、母の笑顔は、とても輝いていた。きっと、銀ちゃんへ向けたとびきりの笑顔だんだと幸一は感じた。

「ありがとうございました。父や母がいろんな方にお世話になって、そして僕もいろんな人に守ってもらったんだって改めて分かりました。本当にありがとうございました。」
幸一はそう言って、帰りの挨拶をした。
「そうね。人の縁って不思議。いろんな人のお陰で生かされてるみたいね。あなたも、縁のある人を大事にしてね。」
と笑顔で返してくれた。そして
「また、いつでも寄ってね。それと、銀二さんに会ったら、私が元気なうちにまた顔を見せてねと伝えて。」
と大女将は、送り出してくれた。

幸一を見送りながら、大女将は「銀二さん、約束を破ってごめんなさいね。」と呟いた。

銀二は、幸一の居酒屋に行く前に、松屋にしばらく滞在していたのだった。
そして、『そのうちに、幸一をよこすから、鉄三や和美の様子を話してやって欲しい。俺がしたことは秘密にして、二人が苦労してきた話をしてやってくれ』と頼んでいたのだった。

幸一は、店に戻る道すがら、銀二と母の事を考えていた。

きっと銀二さんは母を心から愛していたんだろう。
母もきっと銀二さんの気持ちを分かっていたに違いない。
二人が寄り添っていきる道もあったに違いない。
だが、敢えて、母は父鉄三と生きる道を選び、銀二はそれを受け入れて、自分のできる事を精一杯やってきた。そういう愛を貫いたのだと思ったのだった。
ふと、怜子の顔が浮かんできた。

9-1.あれから [峠◇第1部]


 忌まわしい怨念に血塗られた事件からもうすぐ2年が経とうとしていた。

 あの事件のあと、しばらくは、警察の事情聴取や現場検証等で村の中が騒がしかったが、それもじきに納まり、また、以前のような平穏が村に戻りつつあった。

啓二は、あれから間もなく体力も回復し、玉浦へ戻った。玉水水産と漁協からの援助もあって、新しい船を手に入れて、漁師を続けることにした。その後は、人が変わったように、皆の中で働くようになり、漁協青年部の役員までやるようになった。港の漁師仲間も、啓二の漁の腕前には感服していたが、実は、銀二がこっそり教えていたのだった。

祐介も、半年近く危ない状態だったが、母親の熱心な看護のおかげで、無事回復することができた。少し、足に麻痺が出ていたが、一生懸命リハビリに励み、今年の春には、みかん畑の作業もできるようになった。それまで、畑仕事をしたことがなかった母親も、祐介の体を心配して、一緒にみかん畑に行くようになり、親子で、剪定や摘果作業をするようになっていた。

和夫は、相変わらず、にしきやの店番だったが、女主人はもう隠居するといってほとんど店におらず、和夫が店を仕切っていた。秋には改装して、流行の『コンビニエスストア』みたいにしたいと言って、村の人からひんしゅくをかっていた。実は、女主人は、地元の若者と町の若者の橋渡し、結婚相談の仕事を始めたのだった。まあ、和夫がこのままでは結婚できないという不安が一番だったようだが。

驚いたのは、玉穂家であった。昭が亡くなり、跡継ぎを失ってしばらくは落胆していたが、49日の法要の際に、母親が師匠をしている生け花教室の生徒の一人が突然、昭の妻だと言い出した。昭は、皆に内緒で、町に家を借りており、その娘と結婚していたらしい。最初、母親は聞き入れようとしなかったが、戸籍抄本のコピーを持ってきて、承服させ、玉穂家に住むようになった。娘はすでに妊娠していて、去年無事に男の子を出産した。孫が出来て、昭の母親はすっかり人が変わったように、優しくなったそうだ。

ケンは相変わらず喫茶店のマスターを呑気にやっていたが、事件の事が新聞で報道されてから、有名になり新しい客が増えて忙しそうだった。事件を解決したテーブルとか言って、地元の高校生が時々グループで占拠して騒ぐので追い払うのに苦労していたが、人の噂も・・の例えの通り、徐々に常連のくつろげる喫茶店になりつつあった。

駐在の山本は、一連の事件の後始末で随分忙しそうだったが、春には異動になり、本署の刑事課勤務になっている。しかし、田舎町では大きな事件もなく、結局、玉浦駐在勤務の時と変わらず、日中には、玉浦のパトロールと称して、にしきやや玉水水産に出入りしては、みんなに苛められていた。

玉水水産は、しばらくは怜子が社長として引っ張ってきたが、やはり素人。経営が厳しくなり、社長を退いた。後は、営業部長だった史郎が社長になり、啓二たち、漁協青年部と地元の魚介を使った商品開発を進めて、それなりに盛り返していた。ただ、社長と言っても、工場の従業員からは、シロ!シロ!と犬のような呼び方をされ、小間使いのように働いている。

怜子は、社長を退いた後、一応、会長という肩書きを貰った。会長といっても、名前だけで、実質、水産会社での仕事はなかった。以前と同じように、玉城家に毎日出かけ、祐一のお世話をしていた。あの後からは、家の外へ祐一と一緒に散歩に出るようになって、タバコ屋のヨシさんのところで、昼間一緒に過ごす事が増えていた。困った事に、ヨシさんの家に祐一が行くと、タバコを買いにくるお客に、祐一が、『タバコは体に悪い。死んじゃうぞ。』と必ず言うものだから、ちっとも売れなくなった。最近では、ヨシさんまで、祐一と一緒に同じフレーズを繰り返すようになっていた。

皆それぞれ少しずつ変わろうとしていた。そして、あの時の事件の痛みや悲しみを深く深く胸の中に終い込んでいるようだった。


9-2.祭りの準備 [峠◇第1部]


「おい!和夫!もっとしっかり持ちあげろよ。」
祐介の声が響いている。
「ちゃんと持ってるじゃないか。祐介こそ、この高さでいいのか?」
和夫が、はしごの中段でへっぴり腰になり、柱を支えながら、言った。
ケンも駐在も啓二も、そこに居た。皆で、玉祖神社の祭りの準備をするために、玉林寺の境内にいた。
怜子も、皆と一緒に、祭りの飾り付けをしていた。

「なあ、怜子。本当にやるのか?」と和夫が訊いた。
怜子は振り返って、何の事?というような顔をした。すると、祐介も
「なあ、本当に終いの儀式をやるつもりか?」
と訊いてきた。怜子は、くすっと笑いながら、
「ええ、やるわよ。だって、もう子どもたちを集めて、褌をつけて飛び込むんだよって話したんだから。子どもたち、頑張るよって言ってたわよ。」
「いいんじゃないの?子どもたちの姿は可愛いし、昔とは違うんだしな。」とケンが言った。
「あら?子どもたちも参加するけど、メインは、あなたたちよ?みんなの褌もちゃんと準備してあるんだから。」
と箱の中から、白い布切れを出してきた。
「ええー、僕は止めとくよ。一応、みんなの警護をしなきゃね。」
と駐在の山本が逃げようとした。
「ダメだよ。駐在もやんないと!」と祐介が引き止めに掛かる。
「そうだ、そうだ。ちゃんとやれ!」とケン。
和夫がそのやり取りを聞いて、
「ごめん。ちょっと俺、体調が優れないし、泳げないから・・そうそう、お袋からも止めてと言われたし・・」
と言い始めた。それを聞いた啓二が、
「ほう。そんな仮病を使おうと言うなら、和夫の秘密をばらそうかな。」と苛める。
「なんだよ、秘密なんてないし、仮病なんかじゃないんだぞ。ちゃんと病院にも・・」
と言いかけて、啓二が言おうとしている事を直感して、慌てたが遅かった。
「和夫はさ。いつも店番で椅子に座ってばかりだろ。だから、何、痔になってるんだってさ。白い褌をしたら、ほら、お尻のところが、真っ赤になるんじゃないかって心配してんだよ。」
と、啓二は言ってしまった。
皆、顔を見合わせて、大笑い。和夫は真っ赤になって怒り、啓二を追い回していた。祐介とケンは、お尻を突き出してからかった。

そこへ、銀二が現れた。
「おお、楽しそうじゃないか。俺も入れてくれよ。」と入ってきた。
「あら、銀ちゃん。」
怜子が気づいて挨拶をしたら、皆も気づいて、銀二に頭を下げる。
「ほら、差し入れ。冷えたビールだぞ!良いだろう。」
と、一箱差し出した。そして、いきなり、箱を開けて、自分からビールを飲み始めた。
「銀ちゃん、差し入れって言いながら、自分が飲みたかったんでしょ。それに、これってにしきやから貰ったんでしょ。ずるいわ。」
と言いながら、怜子も缶ビールを取り出して、ごくごく飲んだ。

「なあ、みんな、聞いてくれ。」
と銀二が神妙な顔で言い出した。
皆、真面目に聞いていなかった。銀二が神妙な顔をする時は、大抵、大事な話ではないことがわかってきたからだった。それでも、銀二は勝手に話し始めた。
「俺、昨日、夢を見たんだ。船で岬の先に向かっているんだ。すると、突然、海の中から天女が現れたんだ。」
「おかしいよ。天女は空から舞い降りるんだよ。海の中から出てくるのは、銀ちゃんみたいな海坊主!」
と和夫がちゃちゃを入れた。
「うるさいぞ。まあ聞けって。その天女がな、怜子にそっくりで、不細工なんだわ。」と銀二。
「誰が不細工だって?失礼しちゃうわ。」と怜子がふくれっ面になった。
「そうそう、そんな顔。それでな・・・」と言いかけたら、
「あなたが落としたのは、この金の碇ですか?それとも普通の碇ですかって訊いたんだろ?」とケン。
「そうそう、俺の落としたのは、金のた・・・・おいおい、ちがうって。」と銀二。

「お前ら、真面目に聞けってば。その天女は、何も言わずに、笑顔でじっと俺の顔を見るんだ。それから、腕を伸ばし、まっすぐ、峠道を指差すんだよ。俺が、峠道のほうを見ると、さっと天女は消えちまった。」
「ふーん。それで?」と啓二。
「ふーんって、お前なあ、師匠に向かってなんだ、その態度は?」と銀二は啓二に怒った。
「師匠ったって、俺よりも下手じゃないか!」と啓二は悪態をついた。
このやろうと殴りかかりそうになった時、ふと、怜子の様子に気がついた。

怜子は、じっと峠道のほうを見つめていたのだった。
その様子にみんなも気づいて、じっと峠道を見つめた。

「あいつ、どうしてるんだろうな?」と誰かが呟いた。

9-3.エピローグ [峠◇第1部]


祭りの日の朝。
町からのバスが、峠道を越えてやってきた。
峠のバス停でバスは停まった。そして一人の客が降りる。
バスが通り過ぎると、その客は、大きなカバンを脇に置き、今にも朽ち果てそうな長椅子に腰を下ろして、タバコに火をつけた。
そして、古めいた黒い手帳を開いて、花柄模様の封筒に入った1通の手紙と写真を1枚取り出した。
その写真には、白いシャツにジーンズ姿の、笑顔の怜子が写っていた。

終わり

:長い間、お付き合いいただきありがとうございました。突然、思いついたように書き始め、こんなに長くなるとは思ってもみませんでした。最初はもっと辛辣なストーリーを展開できないかと苦心しましたが、そこは素人の限界。なんだか、ありきたりの話になってしまいました。

実は、このストーリーの途中から出てくる、「銀二」は、途中までまったく想定していなかったキャラクターです。ただ、幸一や母和美を救う人間がいるはずじゃないかと考え始めて、生まれたのですが、実は、『銀二』に自分自身が惚れてしまって、第2部は銀二と和美の関係を書こうと思っています。そして、第1部でもっとも鍵を握ったタケさんにも、そこまで突き進む強烈な心情をもっと深めてみたくて、第3部では35年前まで遡ってお話を進めていこうと思っています。

峠(たお)は、第1部が1985年の瀬戸内のある村を舞台にしていました。第2部は、1960年から70年が舞台になります。そして第3部はさらに遡って1950年からの話になります。2009年の今とは、随分、社会事情も違っています。もっとも違うのは、携帯電話でしょうか。85年時分には、携帯電話が無く、すぐに連絡を取り合う事もできませんでした。だからこそ、人と会い話をし、物事は動いていくのです。今の時代、何かあればすぐに携帯電話で話が出来、とても便利ですが、人と人が直接であって、協力して動いていくことが少なくなったように思います。
若い人には理解できないかもで知れませんが、そこからドラマが生まれる事もあるのではないでしょうか?

それから、ここに出てくる玉浦という村は実在しません。ただ、山口県防府市に、この村に良く似た場所は存在します。私の故郷です。話に出てくるような大きな川はありませんが、四方橋=四本橋、にしきや=ゑびすや、等にて居る所はたくさんあります。もう10年以上帰っていません。

それから、題にした「峠(たお)」は、おそらく山口県の方言だと思います。山口には、あまり高い山はありません。ですが、低い山があちこちにあり、町と町をつなぐ峠道を、みな、「たお」と呼んでいます。
人生にも、峠(たお)を超える時ってありますよね。そこを超えると新しい世界が広がっている、そこを超えると時分の居場所に帰れる、また、むやみに越えてはいけない峠もあるんじゃないかって思います。

もしよろしければ、第2部もお読みいただけると幸いです。

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