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4-3.祐介の兄 [峠◇第1部]

怜子は、一旦家に戻る事にした。着替えもしたいし、何より、剛一郎が心配してこれ以上騒ぎを大きくするのも困ると考えて、ケンに送ってもらった。
港近くでケンの車を降りて、自宅まで駆けていった。幸い、剛一郎は家にいなかった。

リビングにはいつものように史郎がソファで横になっていたが、あいさつもせず、駆け足で階段を上がった。
部屋に入ると気が抜けてベッドに倒れこむように横になった。
怜子は、昨夜の事を思い出していた。幸一に後から抱きかかえられ、耳元で幸一の声を聞き、まどろむような時間を過ごしたこと。外は闇と豪雨と強風で、2人きりしかこの世にいない、そんな中で過ごした時間。いままで感じた事の無い温かな溶けてしまいそうな柔らかい時間。
怜子は、同じように自分の腕で自分を抱きしめてみた。やはり幸一の太い腕とは違う。大きな水瓶になみなみと満たされるワインのように、心が満たされる想いをもう一度味わいたい。思い出すと、体の芯の深いところが熱くなるような気がした。

しばらくして、下から父の声がした。
「どこ行っとったんじゃ!」
ドカドカと階段を上がってくる足音。夢のような時間が途切れた。
怜子はベッドから飛び上がり、ドアの前に立った。そして、ドアも開けずに、
「明君の葬式のあと、友達の家に行ったの。そしたら台風で帰れなくなって。停電もしたから、電話もできなく、ごめんなさい。疲れてるから。」
そうまくし立てた。剛一郎は階段の中ほどで、その声を聞き、何も言わず、階段を下りていった。

怜子は、祐介の事故の後、玉城家の事を奥様に頼まれていたことを思い出し、着替えて出かけることにした。

玉城家には、怜子は殆ど毎日通っていた。祐介に会うためではなかった。
実は、玉城家には、祐介の兄がいた。
祐介の兄は、玉城家の先妻の子どもであった。先妻は病弱で、祐介の兄を出産した時に亡くなっていた。そして、生まれた時の事故が原因で、脳性小児麻痺の障害をもっていた。年は、祐介より一回り以上、上だった。
怜子は小さい時に祐介とよく遊んでいた。物心ついた時、祐介の兄の存在を知った。
玉城家の人々は、祐介の兄の存在を余り表にしたくないようで、家から一歩も出した事がなかった。後妻に入った婦人も、可愛がってはいたが、どこか距離を置いていた。その事を怜子は感じ、中学生の頃から、食事の手伝いや話し相手になる為に、毎日のように通っていたのだった。

怜子は、二日ぶりに玉城家を訪れた。
祐介の父は在宅だった。
「祐介さんのお加減はいかがですか?」
「怜子さん、ありがとう。まだ、意識は戻っていないんだよ。幸い、処置が早かったので、身体の方は随分回復しているんだが、意識が戻らない事には・・・」
「あの、奥様は?」
「あれからずっと付き添っているよ。私も今着替えとかを取りに帰ったところだ。」
「じゃあ、お兄さんは?」
「そうなんじゃ、気がかりでのう。昨日は、となりのばあさんに食事と用足しはお願いしたんじゃが・・」
「すみません。昨日はちょっと用事ができてしまったので・・今日はこれからお世話させていただきますので。」
「すまないね。アイツは怜子さんを何より頼りにしているから。」

そこまで話をすると、祐介の兄の部屋で物音がした。
怜子は、殆ど反射に近い反応で部屋に入っていった。

「ごめんなさいね。昨日はいろいろあったものだから。」
そう詫びると、祐介の兄の身の回りを整え、食事を作り、隣に座って、食事の介助をしながら、昨日までの出来事を独り言のように話していた。
祐介の兄、祐一の体の障害はかなり重かった。話す言葉もゆっくりゆっくり一言ずつ。それでも、慣れない者には聞き分けられないような発声であった。ただ、意識はしっかりしていて、こちらの話は全て理解していたし、記憶力も凄かった。何より、表情が豊かで、悲しい時は大きな声を出して泣いた。可笑しい時も口から泡を飛ばして大笑いする。そんな何の思惑のない表情を見ているだけで怜子は癒される思いだったのだ。
この日も同じように祐介の兄は反応した。事故の話には眉を顰め、幸一との事には嬉しい表情を返してくれた。そして、一言、こんな言葉を怜子にくれた。
「お兄(にい)は殺された。お姉(ねえ)も死んだ。赤子は何処じゃ。」
今まで聞いた事のないような言葉を、ゆっくりと、しかも、確かに口にした事に怜子は驚いた。そして、
「それ、どういうことなの?」と聞き返したが、祐介の兄は、それ以上は何も言わず、ただ涙を流しているだけだった。その涙は、悲しみというよりも、苦しみ・悔しさという類に感じられた。

怜子は、玉城家を出てからも、呪文のような言葉を繰り返していた。
「お兄は殺された。お姉も死んだ。赤子は何処じゃ。」

昭や祐介の事故だけじゃなく、他にも何か、祐介の兄を苦しめている事があるのは明白であった。
怜子は推理した。お兄さんとは誰?お姉さんとは誰?そして赤ちゃんとは?

4-4.駐在 [峠◇第1部]

駐在は、本署の資料室にいた。朝の役割分担に沿って、祭の事故の資料を探していた。
何十と設置された資料棚。だいたい30年位前というだけでは探しようもなかった。それでも一つ一つ調べていた。昼頃までかけて探したが、見つからなかった。諦めかけた時、後ろから声をかけられた。
「そこで何をしてるんだい。」
別にやましい事をしているわけではなかったが、駐在はちょっとびくっとして振り返った。そこには、資料室長の武井が紙コップに入ったコーヒーを持って立っていた。署のみんなからは、タケさんと呼ばれていた。もう定年間近で、数年前から資料室にいる。
「すみません。ちょっと調べたい事があって・・・」
「なんだ。ええと君は、玉浦村の駐在所にいる・・ええっと・・」
「はい。山本と言います。」
「おお、そうだった。確か、お父さんも警察官で、今は教官をされていたんじゃなかったかね。」
武井は、少しずつ思い出しながら続けた。
「はい。あと3年ほどで退官になる予定ですが・・」
「そうか、私の2つほど後輩だったな。元気かね。」
昔を懐かしむような言い方だった。
「ええ、でも、最近はほとんど顔をあわせていないのでわかりませんが・・」
「ところで、ここで何を調べようとしていたんだい。」
「はい。30年位前に玉浦で起きた事故の事です。」
「ああ、あの事件か・・」
そう言って、何か奥歯に物が挟まったような言い方をした。
「え?今、事件って。事故じゃないんですか?」
「ああ、すまんすまん。一応、事故判断されているが、私はそうは思えないんだ。実は、あれは、私が玉浦の駐在所に勤務していたときに起きた事件で、結局、関係者や目撃者から聞き取った話だけで、物証がなく、祭りの最中に起きた不幸な事故と判断されたんだ。」
「そうだったんですか。」
「そうか。ここ数日に起きた、玉穂昭、玉城祐介、須藤啓二の3人の事故との関連を調べているんだな。」
山本は、いきなり、目的を言い当てられて少しあわてた。
「武井さん、なぜ、そんなに詳しくご存知なんですか?」
「いやいや、実は、玉浦で起きた事件と今回の事、気になっていたんだよ。あの時の復讐のように思えてね。」
「実はまったく同じ事を言ってる人がいるんです。」
「ほう、村の外の人かい?」
「ええ、なぜわかったんですか?」
「いやね。あの事件も村の外から来た男が被害者だったし、事件と当事者が玉穂、玉城、須藤の3人だったからね。偶然にしては出来過ぎている。その人は、なんていう名前だい?」
「ええと・・幸一・・福谷幸一と言ってました。」
「ふーん。」
「あのう。被害者の方の名前は?」
「佐藤健一といっていた。亡くなった方は、東京に住んでいてね、まだご家族は存命のはずだ。それに、玉浦に来たのは、玉谷の息子の友達だとかで、夏休み中、遊びに来ていただけだった。」
「え?玉谷?今、そんな家ありませんよね。」
「ああそうか。君は知らなくてもしょうがない。玉谷家は、あの事件から1年くらい後に、全焼の火事を起こしてね。皆、亡くなってしまったんだよ。いや、正しくは、息子は火事ではなく、行方不明だったかな。娘は火事の後、投身自殺した事になっている。」
「ええ!!祭りの事故だけじゃなく、その後、火事や自殺もあったんですか。知らなかった。」
「まあ、村の人はそういう話はしたがらないからね。」
「それも祭りの事故と何か関係あるんですか?」
「いや、それはわからない。火事自体に不自然なところは無かった。娘は1年くらい前から、心を患っていたらしくて・・ただ、自殺かどうかは・・・遺体が見つからなかったので、行方不明といったほうが良いだろう。」

怜子たちとの約束は一通り判ったと山本は思い、資料室を出ようと
「ありがとうございました。大筋、わかりました。それでは・・」
というと、武井室長が、
「すまないが、君。今度、その、福谷さんだっけ?ここに連れてきて貰えないか?」と返した。
「え?良いですけど。まさか、容疑者としてではないですよね。」
「馬鹿言うなよ。ちょっと知りたい事があるだけだよ。それに、今回の事件、まだ何かあるように思うからね。村の人間じゃない方が判る事もあるんだよ。」
「え?まだ事件は続くと言う事ですか?」
「それはわからないが、すべてが関連したものだとすれば、もっと悲劇は起きると思う。それに、3人の事故には不審な点が無いわけでもないから・・」
「そうですか。判りました。それじゃあ。」
とドアを開けた時、武井氏はもう一言、
「玉水さんの娘は無事なのか?」と質問してきた。
山本は迷いながらも、この人なら良いだろうと思い、
「実は、昨日、崖から突き落とされたんです。福谷さんが見つけて無事でしたが。」
「そうか、やはりな。無事で良かった。でも気をつけたほうがいい。無事と判れば、次はどんな方法で狙ってくるか判らないからな。当分は、玉水の娘さんから目を離さないようにな。」
そう言った武井氏の目は、鋭い刑事の目になっていた。

4-5.老紳士 [峠◇第1部]

怜子たちの相談の後、ケンは、怜子を港まで送り、開店の準備のために、喫茶店の近くにあるスーパーへ、パンや野菜等を買いに寄った。昨夜の荒天で、買い物を控えていた主婦で、スーパーはいつもより混んでいた。
 駐車スペースを探して駐車場内を一回りしていると、玉林寺の住職を見かけた。おそらく、食事の材料でも買いに来たのであろう。
車を止め、店内に入ろうとしたところで、また、住職を見かけて、挨拶を仕掛けた時、店の奥から、老紳士と思しき人物が、住職を追いかけるように出てきた。
そして、「おい、順平じゃないか!」と呼んでいるようだった。
住職は振り返る事もなくスタスタと出て行き、愛用のスクーターに、乗り村のほうへ向かっていった。
その老紳士は「おかしいなあ、人違いか。」とつぶやきながら、店の中へ戻っていった。

ケンは買い物を済ませ、店に戻った。
怜子たちとの約束で、店の客から情報を集めろと言われたものの、それほどの客が来るわけもなく、常連も若い連中ばかりで、古い話を知っているはずもなかった。
どうしたものかとぼんやり窓の外を眺めていた。
カランカランとドアに吊り下げたカウベルが鳴って、一人の客が入ってきた。
常連ではない。常連なら、入るなり、「暇そうだなあ」と憎まれ口のひとつでも叩いてくる。

その客には見覚えがあった。さっき、スーパーで見かけた老紳士だった。
コーヒーとトーストの注文を訊き、手早くこしらえ始めた。
コーヒーを煎れる時も、トーストを焼く時も、ケンは、どう切り出したものか迷っていた。何だか変な状況を見て、どういうことかを尋ねるのもおかしいよなと思いつつ、それでも、怜子たちとの約束を思い出し切り出した。

「あのすみません。おかしなことをお尋ねするのですが・・」
ケンは自分が普段使わないような言葉を口にしているのが半ば不自然に思いながらも、老紳士の様子から失礼のないよう細心の注意を払いながら切り出した。
「先ほど、そこのスーパーにいらっしゃいましたよね。誰かを呼んでいらしたように見えたのですが・・」
老紳士は少し怪訝そうな顔をしながらも、
「これは、これは。恥ずかしいところをお見せしました。いや、実は私は中学生までこの町に住んでいたのですが、親の転勤で遠くへ引っ越しました。そのころ、仲の良かった同級生に良く似ていた人にあったものですから、つい、声をかけてしまった次第です。どうやら人違いのようで、無視されましたが・・」
その老紳士は、ばつが悪そうに頭をかきながら、丁寧に答えた。

「声をかけた方は、玉浦村のご住職ですよ。10年位前にどちらかからこられたようですね。」
「そうでしたか。やはり人違いですね。でも、奇遇です。その同級生、順平というんですが、彼も玉浦村でした。一度だけ遊びに行きましたが、大きなお宅で、可愛い妹さんがいらしたのを覚えています。」
「へー。そんな家があったんだ。」
「今はどうされているでしょうね。」
「今は、そんな家も人もいませんよ。」
「そうですか・・」
老紳士は少し落胆したような表情を浮かべた。ケンもそれ以上の会話が出来ず、「ごゆっくり」と一言かけてカウンターの向こうに消えた。

4-6.相談 [峠◇第1部]

翌日には、みな、ケンの喫茶店に集まっていた。
店の一番奥にある丸机を取り囲むように座り、それぞれの得た情報を報告した。
30年近く前の事故の内容は、駐在がほぼ整理した。そして、一連の事故は、その時の事故の復讐だろうとほぼ皆一致した。
ただ、判らない事は、犯人がいない事だった。村の人間には復讐する動機がない。

「やはり犯人は、幸一さんしか当てはまらないよ!」と和夫がふざける様に言った。そして、
「何か隠してる事はないですか?」と駐在も続けた。
「お前ら、も少し真剣に考えろよ!」とケンがみんなの頭を叩いた。

「じゃあ、怜子ちゃんが突き落とされそうになったのはどうしてだろう?」駐在が言い出した。
「そうだな。怜子ちゃんの家は、事故の加害者には入っていないからな。」ケンが答える。
「祭の事故を調べようと言い出したのは誰なんだい?」と幸一。
「誰だって言われても。怜子じゃないの?」和夫が怜子に振った。
「ううん。最初に調べようと言ったのは、実は、啓二なの。」怜子は意外な答えを返した。
「へ?あの無口で自分の事しか考えていない啓二が、何故?」
ケンは啓二をあまり快く思っていないようだった。
「ほら、私たちがまだ中学生だった頃、啓二のお父さんが漁に出て行方不明になったでしょ?何だか、その数日前くらいから、酒を飲むたびに同じ事をわめいていたらしく、どうも祭の事故の事と関連があるんじゃないかって啓二が思ったようなの。」怜子が啓二のいきさつを話した。
「え?須藤のおじさんの事故も祭りの事故と関係があるのかよ。」
和夫はもう何だかわからなくなってきたような声をだした。
「いえ、それがよくわからないから調べてみたいって・・・」

ケンが「和夫、お前からの情報は?」と続ける。
「いや・・・何も聞き出せなかった・・というか・・・お袋は何も知らないんじゃないかな。」
「お前、お袋さんが怖くて何も聞いてないんじゃ・・」ケンが突っかかった。
「いや、話はしたんだよ。でも、剛一郎さんが来て、お袋が機嫌を悪くしてね・・・昔の一族の話は聞いたんだけど・・」和夫は、玉元の家の事は触れずに、村の4つの家は一族だった事を報告した。
「そんなの、みんな知ってるさ。もともと、一族で、にしきやはこの村の一番古い一族の末裔ってね。でも、その跡継ぎがおまえじゃあな!」ケンが茶化すような言い方をしてきた。
和夫は、自分の家が玉元家の名前を勝手に名乗った事を知っているだけに、何もいえずに居た。

「ねえ。祐介さんのお兄さんの言葉、どういう意味だと思う?」
怜子が思い出すように、その言葉を繰り返す。
《お兄は殺された、お姉は死んだ、赤子は何処じゃ》

「怜子。」そう、幸一が話し出したとき、和夫やケン、駐在は顔を見合わせた。
「おい!怜子って呼び捨てはまずいだろ?どういうことだよ!」
和夫が食って掛かった。
怜子は、和夫の反応を見るなり、
「もう!いいじゃない。小さい事は気にしないで、ね?」
そう言いながら、幸一に目配せをするので、和夫は更にすねてしまった。
「怜子さん。その、祐一さんの世話はいつからしてるんだい?」
幸一は、改めて言い直した。
「そうね。私は、中学生になってから。その前は、タバコ屋のおばあちゃんだったと思う。まだ足腰しっかりしていたんで、玉城の奥様が頼んでいたそうよ。」
「そうか。祐一さんには兄も姉もいない。ひょっとしたら、お世話をしてくれる人のことかなって思ったんだが、タバコ屋のおばあちゃんがお姉さんと言うのは無理があるよな。」
幸一はつぶやくように考えこんでしまった。
「もう、悩むよりも、直接、おばあちゃんに訊いてみましょう。」
相談は一旦終了して、タバコ屋に行く事になったが、ケンは喫茶店、和夫は店の手伝い、駐在は仕事に戻るというので、幸一と怜子で行く事になった。

4-7.タバコ屋のヨシさん [峠◇第1部]

四方橋から東方へ上がる道の途中に、タバコ屋はある。幸一がここに来て最初に立ち寄った店だ。
店の座敷に置物のように座って、おばあちゃんは居た。名は、ヨシさんというらしい。

怜子が先に店頭から挨拶した。
「こんにちは!ヨシさん。」
「おや、怜子ちゃん、元気そうじゃないか。台風の晩に姿が見えんから、みんな心配しとったよ。」
遅れて、幸一が挨拶した。
「先日はすみませんでした。」
そういうとヨシさんは、
「すみませんが、タバコなら自動販売機で買ってください。」
とおかしな返事をした。お客と間違えたのだろう。怜子が、
「ごめんね。この人は、福谷幸一さん。私の知り合いなの。」とゆっくりした口調で紹介した。
そして、怜子は、ヨシさんに、最近起こった事故と昔の祭りの事故を調べようとしている事を説明し、ヨシさんに訊ねたい事があることを簡潔に判りやすく伝えた。

「ほう、祐一の世話の事かい。ああ、しばらくやっとったなあ。あの子は本当に良い子じゃ。あの子のそばにおるだけで幸せになれる。・・・」
ヨシさんはしばらくの間、祐一の事を思い出しながら、遠くを見ているような表情をしていた。
「ねえ、ヨシさんの前に祐一さんのお世話をしていた人って知ってる?」
「ああ、玉谷の娘がやっとった。ちょうどお前さんくらいの年でな。何しろ、玉城の家に後妻に入ったあの奥さんは、祐一の事をどうしても好きになれんかったようでの。うまく世話が出来んかったからのう。」
「え??玉谷家の娘って?あの、火事になったお宅の・・・」
「おや、怜子ちゃん、玉谷の家の火事の話を知っとるのかい。」
「ええ、駐在さんが、本署の武井さんという方から聞いてきて・・」
「そうかい、そうかい。タケさんは元気にしとるんかいな。」
「え?武井さんの事も知ってるの?」
「ああ、ああ。ちょうど、あの祭の事故や火事、自殺と相次いで不幸な事が起こった時、タケさんはこの村の駐在でなあ。朝から晩まで、村の中でいろいろ走り回っておったよ。それでなあ。タケさんだけが最後までこれは事件だって言い切っておった。」
「ねえ、ヨシさん。ヨシさんの知ってる事、全部わたしに話してくれない?」
「そうじゃのう。そろそろ、若い人に伝えたほうがよさそうじゃのう。まあ、外に立っとらんと、中にお入り。」
そういって二人を座敷に迎えた。

ヨシさんは、話をする前にと、お茶を煎れた。そして、ゆっくりと飲みながら、話し始めた。
「あの祭が不幸の始まりじゃった・・・」

ヨシさんの話は、祭の事故の事を克明に伝えた。武井さんもきっとヨシさんと話していたに違いなく、寸分も違っていなかった。

祭の終いの儀式で若者4人が橋から飛び込んだ。前日の豪雨で水量が増えていたため、3人は無事に上がってきたが、一人溺れてしまった。そして、死んだのは東京から遊びに来ていた大学生。無事だったのは、玉穂忠之(昭の父)、玉城祐志(祐介の父)そして、須藤司(啓二の父)。

前夜から酒盛りをしていたそうで、4人とも酔ってはいたが、死んだ大学生だけはかなり泥酔状態だったという証言もあり、溺死の原因とされたそうだった。ただ、亡くなった大学生は玉谷家の娘と恋仲になっていて、相当なショックを受けて、事故の後からは家に篭ってしまっていたという。

それからほぼ1年後に火事は起きた。ただ、火事の件は、少し様子が違った。
あれは失火によるものではなく、放火ではないかとヨシさんは言った。
燃え盛る火の中から、玉谷家の娘が、半身やけどを負いながら、赤ちゃんを抱いて飛び出してきて、何やらわからん事を半狂乱で叫んでいたそうだ。
消火作業で、辺りはたいそう混乱していた。気が付くと、娘の姿がなく、村人総出で探したがとうとう見つからなかった。そして、翌日、玉付岬で娘の履物が見つかり、投身自殺を図ったのではないかと言う事になった。娘の遺体は結局見つからなかった。

そこまでヨシさんの話を聴いていた怜子が、ふと横を見ると、幸一の表情がこわばり、全身が震えているのがわかった。
「どうしたの?幸一さん?」
「・・・・いや・・・何でもない・・・大丈夫だよ。」
「ねえ、ヨシさん。その娘さんの名前は?」
「ええとな・・なんといったかのう。・・・確か、和・・・・和美・・そうじゃ、和美ちゃんじゃ。祐一が、和美ちゃんがなかなか言えなくて、<かみちゃん>と言っとった。じゃが、ほとんどは、<おねえ>と呼んどったがの。」

そこまで聞くと、幸一は急に、「すみません。」とだけ言って、立ち上がり、タバコ屋から飛び出していった。
「幸一さん!どうしたの!幸一さん!」
幸一は振り返りもせず、薬師堂のほうへ歩いていった。

「ヨシさん、ごめんなさい。何だかおかしな人で・・」
「いや、怜子ちゃんが気にする事じゃあない。恐ろしい事件じゃ、聞きたくもないじゃろう・・」
「ねえ、その、和美さんが抱いていた赤ちゃんは?」
「いや・・そうじゃのう・・・見つからんままじゃったから・・たぶん、母親と一緒に死んでしまったのじゃないかのう。」

怜子は、ヨシさんの話を聞き、祐一の「お兄は殺された、お姉は死んだ、赤子はどこじゃ」の意味がようやくわかった。きっと世話をしてくれていたお姉ちゃんを亡くしたことが、今でも深く胸の中にあるのだとわかった。
ただまだ釈然としなかった。昭たちの一連の事故が祭りの事故と関連があり、復讐と考える事は無理のない事であったが、復讐を遂げるべき犯人がやはり存在しないのだ。

怜子は、ヨシさんに礼を言い、タバコ屋を後にして、幸一を追いかけた。
それにしても、幸一さんは、何故、急に席を立ったのだろうか、そう言えば、娘の名前を聞く前から様子が変だったし、名前を聞いてびっくりした様子だった。火事と何か関係のある事を知っているのだろうか。

そんな事が頭の中を巡りながら、薬師堂の角を曲がり、岬へ続く道を歩いていった。
幸一は、岬の入り口に立っていた。


4-8.困惑 [峠◇第1部]

8.困惑
「ねえ、幸一さん。どうしたの?」
怜子が幸一の顔を覗き込むように声を掛けた。
幸一は、眉間にしわを寄せ、ぐっと歯を食いしばり、こらえきれない悲しみと怒りを浮かべているように見えた。
「ねえ、どうしたの?ヨシさんの話を聴いてる途中から変よ。どうしたの?教えて。」
怜子はとにかく幸一の様子が心配だった。
幸一は、何から話してよいのか戸惑いながらも、今、自分の中に抱えている事を吐き出さなければと感じて、ようやく、口を開いた。

「さっきのヨシさんの話・・」
幸一はもう一度確かめるように言った。
「祭りの事故と、火事そして投身自殺。祐一さんがつぶやいたた<お兄は殺された、お姉は死んだ、>と言う言葉。きっと、あれは祭りの時に死んだ青年とその後を追うように自殺した和美さんの事よね。」
「ああ、間違いないだろう。殺されたって祐一さんが言うのにはきっと確かな理由があるのだろう。」
「そうね。お世話をしていた和美さんが、事故以来家に篭ったことで、祐一さんも寂しかったはず。誰からか、祭りの事故の話を聞かされたんでしょうね。」
「ああ、きっと今でも祐一さんはその悲しみを胸に抱いている・・」
二人は祭りの事故が意図的に起こされたものだと確信した。そして和美の悔しさや悲しみを、祐一が受け取ったに違いないと思っていた。
「和美さんの悲しみを考えると胸が痛くなる。私だって、恋する人と会えないと思うだけで辛いのに、殺されたとなれば・・・・、きっと私ならすぐに復讐しようとするかもしれない・・」
そういう怜子の目は、じっと幸一を見つめていた。

しばらくして、幸一が口を開いた。
「その、和美さんはきっと僕の母親だと思う。」
「え・・・・・でも、名前だけでは・・・」
「いや、僕の小さいときの記憶だが、母の背中から肩にかけて火傷のあとがあった。間違いない。」
「そんな事って・・・。でも、投身自殺をしたって・・」
「いや、遺体は見つかっていないんだろう。何とか一命を取りとめ、どういう経緯かわからないが父と暮らすようになったんだろう。きっと、投身自殺した時のショックで記憶を失ったんだろう。」
怜子は、幸一が吐き出すように口にする言葉が痛くて、何も答えられなくなった。
「母が、亡くなる直前に僕に残した言葉、<玉は守り神>。きっと、あれは、この村の事。そして、自分が受けた悲しい境遇に恨んで、僕に伝えたかったんじゃないだろうか・・。」
「じゃあ、<赤子はどこじゃ>という最後の言葉にある、赤子が幸一さんということなの?」
「きっとそうだろう。生まれながらに因果な運命を背負っていたんだ。」とついに告白した。

自分が何者なのか知りたくて、あちこち歩き回り、ついに辿り着いたこの村で、ようやく手にした真実は、母のあまりにも悲しい過去であった。そして、自分がこの村に来た事で、3人もの青年が不幸な事件に遭ったことを悔いた。この村に来なければ、自分が過去を調べようとしなければ、こんな不幸な事件は起きなかったと自分を責めた。幸一は、大粒の涙を流し、力なく、その場に座り込んだ。
そんな幸一を目の当たりにして、怜子は言葉を失った。
そして、怜子は、幸一を後ろから抱きしめた。まるで、母親が子どもをかばう様に。
しばらくの間、二人はそのままに時間をすごした。

ようやく、気持ちが落ちついた幸一を見て、怜子は耳元で優しく囁いた。
「幸一さんのせいではないわ。すべては26年前の出来事が発端。貴方も、貴方のお母様も被害者なのよ。このまま沈黙していてはダメ。最後まで真相を確かめなくっちゃ。そうしないと、みんなの中に、悲しみと恨みだけが残ってしまう。」
幸一は小さくうなずいた。

4-9.救命胴衣 [峠◇第1部]

どれくらい時間が経ったのだろう。
二人並んで座り、これからの事を何となく考えていた時だった。
怜子が、岬の下に広がる岩場の影に、赤い漂流物を見つけた。

「幸一さん、あれ何?ひょっとして・・」
「ああ、救命胴衣のように見えるね。」
「ひょっとしたら、啓二の船のものかも知れない。」
そういうと、岬の西にある細い崖道を急いで降りていった。
二人は、啓二がそこにいるかもしれないと心の中に思いながら、しかし、遺体となっているかもしれないと不安を拭えず、口にはしなかった。

岩場に着くと、赤い救命胴衣が岩に隠すようにあった。
救命胴衣には確かに「第2玉啓丸」の名前が書かれていた。
「啓二の船の救命胴衣に間違いないわ!」
二人は、岩場の間をくまなく調べた。他に何か啓二の消息につながるものはないか、目を皿のようにして調べた。漂着物はいくつかあったが、第2玉啓丸のものと判別できるものは無かった。
二人は、落胆した表情で、海岸に腰を下ろした。

「事故の様子の詳細はわからないんだよな。」幸一が口を開く。
「ええ、大きな火柱と沈没だけ。」怜子が力なく答えた。
「確かに、前の日に逢った時、エンジンの調子が悪いとは言っていたが・・爆発するような事ってあるのかな?」
「昔、お父さんが言ってたけど、船のエンジンは大事に使えば10年とは言わず使えるって。それに、啓二の船は古い船で、今の船のようなプラスチックじゃなく、木造船だから、例え燃えても、沈む事は少ないらしいの。」
「そうか。じゃあ、啓二の船は特別な何かがあったはず。火柱が上がるくらいの燃えやすいものが積んであったとか・・」
「やはり、事故じゃなくて誰かが何かを仕掛けたと考えたほうがよさそうね。」
幸一は立ち上がり、また、海岸を見回した。
「ここは、漂着物が多いね。」
「そうね。潮の流れの具合かしら。瀬戸の海は、上げ潮と下げ潮で海流が反対に向くから、この海岸と、家の前の、そう玉水水産のある海岸にたくさん漂着物が集まるみたい。沖に出ると、向こうに見える姫島っていう無人島の方角へ潮が出て行くみたいだけど。」

ふと顔を上げた幸一が、岬の西側を見て気づいた。海岸の向こうに小さな煙が昇っていた。
「この海岸の先はどうなっているんだい?」
「この先は、大久保海岸という小さな入り江。昔は人が住んでいたらしいんだけど、15年位前の台風と豪雨で、山の道が崩れて通れなくなったのと、海岸にあった小さな船着場も壊れてしまってからは、誰も行かなくなってしまったらしいの。」
「そうか。でも、ほら、小さな煙が上がっている。きっと誰かいるんだよ。行ってみよう。」
「でも、道は通れないから、海岸伝いに行くしか方法がないわよ。」
「行けないのかい?」
怜子はちょっと考えてから
「私は行った事がないから良くわからないんだけど、昔、啓二に聞いた話では、途中までは海岸を歩いていけるけど、立岩と呼んでいる岩場を過ぎた後に、浜の人は、みんな「ダボ」と呼んでいる大きな深みがあって、干潮でも泳がなくては渡れないところがあるらしいの。」
「そうか、何とかいけないかな。ひょっとしたら、啓二がそこにいるんじゃないかって・・・」
「そうね。とにかく行ける所まで行きましょう。」

幸一と怜子は海岸伝いに大久保海岸を目指した。
しばらくは岩場が続いていて、岩の上を歩けたが、途中はやはり大きな深みが広がっていた。幸一と怜子は、腰まで水に浸かりながら進んだ。途中、波に足をすくわれそうになりながら、幸一が手を引き、時には、怜子をだき抱えるようにして前へ進んだ。
しかしその先には、さらに深みが続いていて、もう泳ぐしかなかった。その深みは、渦を巻くように潮が底へ向かって流れていた。怜子はあまり泳ぎは得意なほうでは無く、流れに巻かれて、気が遠のいていく。幸一が、怜子の腕をしっかりと掴んで力強く引っ張っていく。怜子が気がつくと、大久保海岸の岸辺に横たわっていた。幸一も海岸に寝そべり、空を見ていた。
怜子の目が覚めたのに気づき、幸一が言った。
「こうしていると、忌まわしい過去なんて忘れたほうが幸せになれる気がするよ。」
「そうね。すべて忘れたほうが良いわね。」
「君と二人、この青空みたいにまっさらな気持ちで、生きていきたいなあ。」
怜子は返事をせず、深呼吸をした。

4-10.大久保海岸 [峠◇第1部]

ようやく、大久保海岸の入り口に着いた。
さっき幸一が言ったとおり、海岸から50メートルほど山に入ったところに小さな煙が上っているのが見えた。
近づいてみると、伸びた萱の中に、隠れるように小さな小屋が建っていた。
小屋と言うより、漂着した木材やビニール等を組み合わせたような、辛うじて雨露を凌げるようなものだった。入り口には、海岸の漂着物でこしらえた扉のようなものがあった。

幸一はそっと扉を引いてみた。中には誰もいないようだった。
怜子と幸一は、中を見て驚いた。
手作りの小さな釜戸や鍋ややかん,お椀があり、確かに誰かが生活しているようだった。
更に驚いたのは、壁には、小さな絵画がいくつも掛けられている事だった。どれも、海や草木を描いたものだったが、1枚だけ、玉浦の港と古い船が描かれたものがあった。

いきなり、後ろから声がした。太い威嚇するような声だった。
「誰だ、お前ら!何してる!」
振り返ると、髪もひげも伸び放題の、一見、浮浪者のようなイデタチの男が、手に鉈を持って立っていた。
二人はその様子に驚いて、小屋から飛び出した。
その男はじっと怜子を見つめていた。その目は意外と優しそうに感じた。
怜子が何か言おうとしたが、男は遮るように
「ここへは二度と来るな!わかったな!」
男はそういうと小屋の中へ入っていった。

あまりの驚きと恐怖に、立ちすくんだ二人は、これ以上ここにいても無駄だと考えた。
先ほど来た海岸を戻ろうとしたが、徐々に潮が満ち始めている。帰るのは難しいようだった。
どこかに道はないかと、山を上がってみる事にした。
小屋からわずかに人が通る道のようなものがあった。しばらく歩くと怜子が
「この道は昔の通路ね。でも確か途中で途切れているはずだけど・・」
「そうか・・でも、あそこには戻れないよね。」
幸一はそう言いながら、立ち止まって、辺りを注意深く見回した。
古い道の脇に、獣道のような分かれ道があった。
山の上のほうへ向かっているので、行ってみることにした。途中はかなり狭く、木々が枝を伸ばしており、跨いだり、潜ったりしなら、進むしかなかった。
少し、その道が広がってきた。そして、いきなり、樹に塞がれてしまった。
「これは、どうしたものだろう。」
立ち塞がる樹を押してみると、何なく動く。そして視界がぱっと開けると、みかん畑につながっていた。
そこは、祐介のみかん畑だった。
「こんなところに出るんだ。」
あの仙人のような男が、時々村のほうへ出てくるために作ったものなのか、定かではないが、意外に早く村に辿り着く事ができた。

みかん畑から倉庫のあるところまで二人は歩いていた。
ふと玲子が口を開いて
「ねえ、あの男の人が一連の事故の犯人じゃないかしら・・・」
幸一も同じ事を考えていた。確かに怪しすぎる風体だった。
怜子が続けた。
「雄介さんの畑まで、あの道を通れば誰にも見られないわけだし、やる事はできたはずよね。それに、昭の事故は真夜中の事で誰にも気づかれず村に出てくる事もできる。岬で私を突き落とした後も、海岸伝いに行けば、幸一さんにも見られず逃げる事ができる・・・」
「ああ、3つの事件はつじつまがあう。だけど、啓二の件はどうなんだい?まさか、海の中で待ち構えていたわけじゃないだろう。」
「そうね。じゃあ、あれは偶然の事故だったと考えればどうかしら・・・」
「そんな偶然があるかな・・・」
「そうね。・・私、あの男の人、どこかであった事があるようなの。何だかよく知っている人みたい・・」
「そうかい。状況から見ると犯人みたいだけど、僕には、あの人が犯人とは思えないんだ。」
「どうしてなの?」
「あの小屋を見ただろう。随分、昔からあそこにいるはずだ。それに、絵画。あれだけの画材をどうやって手に入れたのかも不思議なんだよ。誰かが、あそこに住んでいるのを知っていて定期的に届けているように思うんだ。それと、風景の絵の中に1枚だけ港を描いたものがあったよね。かなり鮮明に、船もすごく丁寧に書いてあった。港や船の事を良く知っている人じゃないと描けないくらい正確に書いてあったんだ。」
「じゃあ、村の人がわざわざあそこにいるって事?」
「何か、わけがあって隠れ住んでいるんじゃないかってね。そんな人が事件を起こすとは思えないんだが・・」

そんな会話をしていると、東方の通りに着いた。
海岸を通ったため、ずぶぬれになっていたので、怜子は一旦家に戻って着替えてくると言った。
幸一も、住職に、もう少し聞きたいことがあるからと寺に戻る事にした。
二人は、夕方にはもう一度、ケンの喫茶店で会う事にして別れた。

4-11.知らせ [峠◇第1部]

幸一が、玉林寺の前まで来ると、門の前に、和夫とケンが待っていた。
そして、幸一を見つけると、大声で叫んだ。
「祐介の意識が戻ったぞ!」
和夫の声は弾んでいた。
「どこ行ってたんだよ。さっき、祐介の親父さんから、祐介の意識が回復したって連絡があった。これからすぐ病院へ行こう。」
ケンは、さっさと自分の乗用車のドアを開けて乗り込んだ。
「ちょっと待ってくれ。すぐ着替えてくる。」
幸一はそう言って、寺へ入った。

寺の玄関に住職が立っていた。
「さっきから、和夫とケンがお待ちかねじゃったが・・何かあったのかい?」
「ええ。祐介さんの意識が回復したらしいんです。これから着替えてすぐに病院に行きます。」
「おお、それは良かった。すぐに様子を見てくるがええ。」
幸一は、一礼して部屋へ行き、着替えを済まして玄関先に戻った。
住職もどこかへ出かけるようだった。
「ご住職もお出かけですか?」
「おお、ちょっとな、東方の薬師堂近くの家で、年季供養の相談じゃ・・」
「そうですか。それじゃあ、行ってきます。」
そう挨拶すると、幸一はケンの車に乗り込んだ。

「怜子は?」
幸一はケンに尋ねた。
「ああ、さっき電話したんだけど、留守だったから、史郎に伝言を頼んどいた。その内に来るんじゃないか。」

そう話していると、ケンの車の後ろからクラクション。怜子の白い乗用車がくっついて走っていた。
「ちっ、まずいな。」
ケンがバックミラーを見ながら、舌打ちする。
「どうした?」
幸一が尋ねる。
「いや、怜子は、自分の前に車がいるのが大嫌いなんだ。ひどく煽るんだよな。」
ケンがこぼすように言う。
「運転する時は、親父さん以上に怖いからな。」
和夫が大げさに答える。
「いや、運転する時だけじゃないと思うよ。」
幸一の言葉で、車の中は笑いがこぼれた。

祐介の回復の知らせは、みんなの凍えた心を溶かしたようだった。
峠道を2台は連なって、病院へ向かった。

病院に着いた4人は、急いで病室に向かった。途中、看護師に、『静かに』と注意されたが、逸る気持ちが抑えきれない。ケンは、エレベーターがなかなか来ないので、痺れを切らして階段を駆け上がった。
4階の病室前に着いたとき、4人とも息を切らしていた。病室の前には、祐介の父と駐在が居た。
駐在に声を掛けようとした時、病室のドアが開いて、刑事らしき男が二人出てきた。そして、祐介の父に何やら一言いうと帰って行った。祐介の父はそのまま病室に入っていった。駐在が直立不動・敬礼して見送った。

「おい!駐在!」ケンが声をかけた。
「やあ、みんな。早かったね。」と駐在は応えた。
「どうなんですか?」幸一が尋ねる。
「いや、一時的に意識は回復したようです。ですが、まだ、意識混濁の状態らしくて・・」
「さっきのは刑事さん?」怜子が尋ねる。
「ええ、一応、意識が回復したので事件の状況を聞き取れないかと本署からいらしたんですが、まだ、そういう状態ではないので・・」
「そう、それで、面会は出来るの?」怜子は中の様子を知りたかった。
「ダメなんです。今、面会謝絶。何だか、意識が回復したのは良い傾向らしいんですが、その分、全身打撲のショック反応が強くて、不安定な状態らしいんです。今、医者が付きっ切りで容体を診ているところです。」
皆、意識回復という知らせで元気になっているのかと期待した分、落胆した様子を隠せなかった。

幸一がふとさっきの駐在の言葉を思い出して
「さっき、事件っていったよね。事故じゃなくて事件という事になっているのかい?」
駐在はちょっと慌てた。職務上の秘密にすべき事かもしれないと思い、返事に困っていると、
「おい、どういうことだよ。俺たちにも秘密にする事か?」
と、ケンがやや脅すような口調で詰め寄った。
「いや、ここではちょっと・・」と駐在は応えた。
「それなら、ケンの喫茶店に行きましょう。」と怜子が提案し、皆、承諾した。
ちょうど、そこへ、祐介の父が病室から出てきた。
「あら、おじ様、雄介さん、意識が回復してよかったですね。」
と怜子が挨拶した。
祐介の父は少し難しい顔をして、「ああ」とだけ返事をした。
「どちらへ?」と聞くと、
「ああ、ちょっと剛一郎と相談があってな。村へ戻る事にする。」
そういうと、すたすたと廊下を歩いて立ち去った。
皆も、駐在を引っ張って、ケンの喫茶店に行く事にした。

4-12.タケさん [峠◇第1部]

ケンの喫茶店は病院から、それほど遠く無いところにあり、店に入るといつもの奥のテーブルに陣取った。
駐在を真ん中に、警察で、今、何が進められているのかを詳細に聞くことになった。
駐在は、自分だけでは困る、無理だといい、本署にいる武井さんを呼ぶからと言い、電話した。
待つ間、ケンがみんなにコーヒーを煎れた。
ここ数日、とにかく、いろんな事がありすぎた。平穏だった村が恐ろしい村へ変わり、楽しく夜の市場で飲み明かした日々が遠い日のように思われた。コーヒーの香りに包まれて、皆、同じ思いをしていた。

15分ほどして、武井さんがやってきた。
Tシャツにジーンズ姿、とても警察官とは思えない服装で、薄くなった頭の汗を拭いながら登場した。
駐在だけが、テーブルから立ち上がり、敬礼した。武井はその姿を見て、『止せ、止せ』というようなジェスチャーをしてみせた。
「こんにちは、武井です。皆、タケさんと呼んでくれています。よろしく。」と皆に挨拶した。
そして、皆を見回した後、
「ああ、君が幸一君だね。山本君から話は聞いている。」と幸一に向かって挨拶した。
「どうも初めまして。福谷幸一です。今回、この村に来て次々にいろんな事が起きて・・」
「まあ、そう慌てなくても。まあ座ろう。」
武井はそう言ってから、ケンに「コーヒー、砂糖とミルクたっぷりでな」と注文した。

武井が状況を説明した。

これまでの3件は事故と判断されたが、怜子の事故を聞き、やはり単純な事故ではなく誰かが意図的に起こしている事を確信したこと。そして、事故の再捜査と26年前の事故の因果関係を調べるように、署長に直談判したことを話した。
「いやあ、実は、今の署長は、26年前の事故の捜査の一員だったんだよ。当時、物証が無く、責任者が事故と最終判断したが、署長も納得できていなかったそうだ。それで、今回の事故についても、疑問をもっていたらしい。まあ、山本君が玲子さんの件を教えてくれなかったら、そのままだったかも知れないがね。」
と説明した。
ちょっと、駐在は得意そうな顔をしていたが、誰も気づかなかった。

「それで、どうなんです?犯人はわかりそうなんですか?」幸一が尋ねた。
「いや、今のところ、新しい情報はない。若い刑事たちは署長命令なんで、何とか進展させたいと躍起になっているようだが・・・」と武井。
「武井さんは何か掴んでいるんでしょう。」幸一が再度尋ねた。
「やはり、君は鋭いね。今回の件でも山本君が動いていたのも、君からの提案だったらしいね。」
駐在はさっきの得意顔が皆に見られなくてよかったと心の隅で思って、コーヒーを飲み干した。
「いや、あれから、事故調査書を見返してみたらいくつか不審な点が見つかった。・・」と武井は続けた。

昭の事故では、シートベルトをしていなかった事と足元に握り拳ほどの石があった事。他にも、突っ込んだはずなのに後頭部に打撲の跡があったこと等、単なる事故にしては疑問を持たざるを得ない点があることだった。
そして、祐介の事故では、運搬機はまだ動かす時期ではない事と、土手を落ちていく前に飛び降りる事が可能にもかかわらず、そのまま落下している事だった。意識を失った状態で落下したものと考えるほうが自然だという点だった。
さらに、啓二の火災事故は、幸一たちが推理したとおり、船の炎上の仕方が尋常でない事と、泳ぎの達者な啓二が行方不明という点はやはり不自然だという事だった。
そして、何よりも、26年前の事故の当事者3人の息子が都合よく事故に遭っている事が、祭りの事故かそれに関する恨みを持つ者の復讐だと考えるのが自然だという事だった。

「じゃあ、昭も祐介も啓二も、事故を起こす前に意識が無かったか、すでに殺害されていた可能性があるという事ですか?」
幸一の発言で、皆、息を呑んだ。
しばらく間があって、
「そうなんだ。そう考えるのが自然だろう。」武井が確定した。
「でも、犯人は?村の人なの?不審者といっても・・・」と怜子が質問しかけた時、はっと気づいた。
「ねえ、大久保海岸の不審な男の事は?」と怜子が言った。
武井は、すでに知っているかのように
「ああ、あの男か。もう10年位前からあそこに住み着いている。今回の事件では、不審な事はない。」
「え?武井さんは知ってらしたんですか?」と幸一が驚いた。
「ああ、訳有って、あそこに隠れ住んでいるらしい。理由はどうしても言えないと口を割ろうとしないが・・」
「じゃあ、あそこにいろんなものを届けていたのは武井さんですか?」
「いや、私は、時々顔を見に行く程度だ。抱えている理由を何とか聞き出したいと思ってね。」
「では、誰が?」と幸一が質問しかけた時、喫茶店の電話が鳴った。

5-1.玉祖神社 [峠◇第1部]

玉城祐志は、祐介の病院から、タクシーを拾った。
「玉浦まで・・」
無愛想にそう言うと目を閉じた。祐介の意識が戻りつつある事に安堵しているというよりも、何か気がかりな事があるように、時折、眉間にしわを寄せる表情をしていた。
峠道を抜けたところでタクシーを停めた。そして、ひとり、神社の参道を登っていった。
晩夏の参道は、鬱蒼とした森になっていて、まだ、午後を回ったところだというのに薄暗い。蜩の声だけが響いている。中の鳥居をくぐり、本殿の前で祐志は声をかけた。

「おい、剛一郎、どこだ?こんなところに呼び出して、相談って何だ。」
返事は無かった。祐志は、剛一郎から相談があるからと呼び出しの伝言を受け取っていた。
「おい、いないのか?」
祐志が辺りを見回し、鳥居のほうへ身を向けた時、本殿の柱の影から、男が出てきて、背後から、祐志の口を塞ぎ、交い絞めにして、そのまま、本殿に入っていった。
そして、用意したロープで祐志を後ろ手に縛り上げると、床に転がした。
本殿の中は薄暗く、顔は良く見えない。
「どういうことだ?一体誰だ!こんな事をして!」
祐志は床にうつぶせに転がったまま抵抗しようとした。
「祐志!俺だ、覚えてないか?」
男はそういうと祐志の腹を蹴るようにして、転がし、仰向けにさせた。
祐志には、聞き覚えのある声だが、転がされたショックで、よく判らずにいると、
さらに男は、
「順平だよ。お前たちのせいで、家も両親も妹もすべて失った順平さ。ようやく復讐のときが来た。お前たちが26年前に仕出かした恨み、晴らさせて貰う。」
祐志は、順平が生きていた事に驚くと同時に、一連の事件の犯人とその理由が理解できた。そして、
「待て!順平。まさか順平だったとは・・。気づかなかった・・。」
「そうさ。この村を出て26年。お前たちのせいで俺の人生は狂ってしまった。人相だって変わるさ!」
「あれは、事故だった。俺じゃない、あれは事故だ。」
祐志は罪を逃れようとした。
「うそを言うな!お前たちが寄って集って、健一を嬲り殺しにしたようなもんだろう。」
「いや、そうだ。確かにここで酒を飲んで殴ったかも知れん。だが、やりたくてやったわけじゃない。」
観念したかのように祐志が話す。
「嘘だ!」
「ああ、確かに、ここで、健一君をみんなで酒を飲ませては殴りつけた。だが、それは、和美ちゃんと別れさせるため、剛一郎がやれと言ったんだ。」
「何故、止めようとしなかった。」順平は責める。
「最初は嫌だと言ったんだ。だが、あいつには、逆らえなかった。逆らえば、俺がまたやられる。」
「そんな・・・」
「それに、あいつ、健一君は、滅法酒が強かった。俺たちのほうがのびそうだったんだ。それに、死んだのは川で溺れたからで、事故だったじゃないか。」
この期に及んで、まだ、罪を認めようとしない祐志に逆上して、順平が叫ぶ。
「まだ言うか!お前たちのせいだ。誰だって、泥酔状態で川に放り込まれれば溺れちまう。お前たちが殺したのと同じだ。」
順平の怒りを静めようと、祐志は、
「いや違うんだ。なあ、順平、俺の話を聞いてくれ。確かに、前日の夜、ここで酒を飲み、散々殴り倒した。でも、あいつは強かった。本当に、それ位じゃなんともなかったんだ。それに、川に飛び込んだ時、健一君は真っ先に水面に顔を出そうとしたんだ。」
「じゃあ、なぜ,溺れた?」
「司だ。あいつは村一番潜水が達者だった。だから、上がろうとする健一君の足を掴んで引っ張ったんだ。それで、急に慌てたのか、バタついたと思ったら、そのまま流れに飲みこまれたんだ。」
「じゃあ、司が溺れさせたと言うわけか。」
「そうだ。だから、俺は無実だ。・・・・」
「だめだ。司はもう死んでいる。死人に口無し。お前の話は信用できない。」
「いや、司は生きてる。罪を悔いて隠れ住んでいるんだ。」
「なんだと・・・」
「大久保海岸に行ってみろ!男が隠れて住んでいる。あいつが司だ。
「そうか・・・あいつが・・・」

そこまで話を聞くと、
「わかった。あいつはこの後じっくり復讐する。まずはお前からだ。」
と言い、本殿の棚に向かっていった。

棚には、近く始まる祭に向けて、村の衆が寄贈した清酒の樽や瓶が並べられていた。
そこから数本を手にとって、栓を抜いた。それから、祐志に馬乗りになった。
頬を鷲摑みにして、無理やり、口を開けさせると、そこに酒を流し込んだ。
ほとんど吐き出しそうになるが、鼻をつまみ、飲み込ませた。
何本も酒瓶を開け、飲ませ続けた。床一面に酒が零れていった。
それでも構わず続けた。祐志の意識が遠のくと、顔を殴り、目を覚まさせ、また続けた。
3度ほど意識が遠のいては戻された。そして、もはや、自分がどういう状態なのかわからないくらい、酒に塗れたところで、男-順平-は、懐から錆びた五寸釘を取り出した。
この釘は、焼け落ちた玉谷家の屋敷から、順平が拾い上げ隠し持っていたものだった。
それを、祐志の心臓の真上に立てた。
祐志は、何度かばたばたと抵抗するしぐさを見せたが、全身酒まみれで正気を失っている状態では、抗う事などできなかった。
それから、順平は、持っていた酒瓶を金槌代わりにして、五寸釘の頭を思い切り打ち付けた。
1度目ではそれほど入らない。祐志は前身を走る激痛で飛び上がるほど海老ぞりになるが、馬乗りになった順平が強く抑える。
2度目に打ち付けた時、心臓に到達したのか、祐志はぐうと言ったきり、動かなくなった。
それでも、順平は、釘の頭が肋骨の中にめり込むほど強く打ち続けた。26年間の恨みを全てぶつけるかのように打ち付けた。

5-2.遺体発見 [峠◇第1部]

ケンが電話を取ると、武井を呼んだ。
「武井さん、何とかっていう刑事から。」と、なんともぞんざいな取次ぎをした。
武井は受話器を取ると、
「そうか、わかった。すぐに向かう。いや大丈夫だ。そのまま現状保存しておいてくれ。」と切った。

皆のほうを向くと、武井は鋭い表情に変わっていた。そして、
「悪いが、玉祖神社まで送ってくれないか。」
怜子が立ち上がって、「また、何かあったんですか?」と訊いた。
「そうだ。最悪の事態だ。もっと早く動いていれば・・・」と言った。

怜子の車で、武井と駐在と幸一が現場に向かった。和夫とケンは後で行く事にした。

制限速度など無いかのように、怜子の車はスピードを上げる。
峠道のヘアピンカーブもタイヤを鳴らしながら駆け上がる。そして、神社の大鳥居の前に車を止め、そこから3人は境内へ急いだ。

本殿にはすでに立ち入り禁止のテープが張られていて、そこに、刑事が二人立っていた。
「この中です」と指差し、武井と駐在が入っていった。幸一と怜子も続こうとしたが、刑事に制止されてしまった。しばらく待っていると、駐在が、怜子と幸一を中に入れるように促した。

怜子と幸一が言われるまま入ると、そこには、横たわった祐介の父-祐志-の姿があった。
そして、その遺体の周りには、何本かの日本酒の瓶が転がっていて、本殿の中は酒のにおいが充満していた。
死因は、心臓を貫いた釘によるもので、ほぼ即死だった。
刑事の話によると、午後、武井の指示で祐志を病院から尾行していた。タクシーで帰宅中に、神社の前で降りた。後をつけようとしたが、静まり返っている中、気づかれる危険があったので車中で待機していた。1時間以上出て来ないので、不審に思い、神社の中へ入ったが姿が見えなかった。ただ、本殿から酒のにおいがしたので、中に入ってみるとすでに息絶えた状態だったという。この間、参道では誰にも会っておらず、犯人につながる遺留品は殺害に使われた五寸釘以外にはないという。
「この殺害方法を見ると、そうとう恨みが濃いとしか思えないな。」
武井が言う。
五寸釘は心臓を貫いて、背中にまで達していたという。息絶えてからも何度も何度も打ち付けた後があり、祐志のあばら骨は何本か粉砕しているくらいの折れ方をしているらしい。

「きっと、祐介君の意識が回復した事を犯人は聞いて、復讐を急ぎ始めたに違いない。」と武井が言う。
「え、それじゃあ、まだこれから続くと言う事なの?」と怜子。
「そうだ。祭りの事故に関わる人が狙われる。」武井が答える。
「ですが、武井さん、当事者は、玉穂忠之氏、玉城祐志氏、須藤司氏の3人でしょう。祐志さん以外は随分前に亡くなっているわけですから、もう誰も居ないんじゃないですか?」と幸一が武井に訊いた。
「いや・・・それはどうかな。・・祭の事故の当事者はそうだが、そこまでの経過やその後の事を考えると、村全体に深い恨みや悲しみを持っているとも考えられる。それに、犯人らしき人物はまだ隠れているわけだし、何をたくらんでいるのは確かだ。誰が狙われるのか、見当もつかないが・・・」
「そうですか。」
「そうだ、幸一君の身も危ない。」
「どうしてです?」
「犯人は、誰かに罪を着せる事を考えるかもしれない。君を殺して犯人に仕立てる事も考えるだろう。くれぐれも気をつけてくれ。私はもう少し現場検証に付き合うから、もう帰ったほうが良い。」
と、武井は言った。現場検証が終わるまで時間がかかるからと、武井は、怜子と幸一を先に帰らせた。
遺体が運び出された。司法解剖のため、運ばれて行った。

幸一は、とりあえず寺に戻る事にした。
怜子は、玉城の家の事が心配だし、祐一の世話もあると言って玉城家へ向かった。
幸一は、寺に着くと住職は不在だった。ほどなくして、ケンと和夫がやってきた。

「なんだい、あれは?」
開口一番、ケンが不平そうに言った。
「関係者だって言っても、中に入れてくれないんだぜ。」和夫も続いた。
幸一が、玉城祐志の殺害の状況等、見てきた事を二人に話した。
話を聞きながら、和夫の顔色が青ざめていったのがわかった。
「いやあ。見ないほうが良かったかもな。今晩眠れないや。」
和夫がほっとした表情で言いながら、続ける。
「結局、祐介が命を取り留めたら、親父が死んじまうなんて・・・」
「なんか、よっぽどの恨みでもあるんじゃねえか?和夫、お前は大丈夫かよ?」
ケンがほろっと言った。
和夫は、祖父の記録にあった忌まわしき先祖の事を思い出して、口をつぐんだ。
そんなやり取りをしていると、住職が帰ってきた。
「おや、3人集まってなんじゃ?」住職は少しほろ酔い加減だった。
「みな、すまん。すまん。夕方、香林寺のご住職に呼ばれてな、葬式が続くので相談がてら、つい一杯やっておった。不謹慎と思うじゃろうが、坊主は死人には慣れておる。はっはっは。」と軽口を叩いて、部屋に入ってしまった。
皆、呆気にとられていた。
「じゃあ、俺、帰るよ。」「何かあったら連絡くれよな」そう言って、ケンと和夫が引き上げた。


5-3.二人目の殺人 [峠◇第1部]

夜が明けたばかりの大久保海岸に、その男の姿があった。
祐介のみかん畑から、隠れ道を抜けてきたのだった。
その男は、仙人小屋の前に来ると、「おい、出て来い!」と声をかけた。
中からゆっくりと、浮浪者のような『大久保仙人』と呼ばれる男がぬっと顔を出した。

「俺が誰だかわかるか!」
仙人は答えに困った。よく知っている顔であり、時々、ここへも来た男だからである。
「何言ってるんだよ、お前は・・」と言いかけたところで、その男はナイフを見せた。
「何するんだ!」
「俺は、順平。玉谷順平だ!」と叫んで、仙人に飛び掛った。ナイフはとっさに仙人が蹴り飛ばした。
二人はしばらくもつれ合ったまま、小屋の前から海岸に転がり出た。
最後には、男が仙人に馬乗りになった。
そして、
「お前は、司だな!こんなところに隠れてやがって。」と顔を殴りつけた。さらに、
「祐志から全て聞いた!お前があの祭りのとき、健一を殺したんだろ!」と胸座を掴んだまま、叫ぶ。
抵抗しようとしていた仙人、いや、須藤司の動きがぴたりと止まった。

「そうか、祐志の奴、話したのか。」と、もう全て観念したようだった。
「お前があんな事をしなければ・・こんな事には・・・。祐志の奴は昨日神社で殺してやった。お前にも同じ痛みを与えてやる。」
順平は鬼のような形相で司の顔を見た。一方、司は穏やかな表情だった。そして、
「やっと死ねる。この10年、ここに隠れ住んでもう限界だ。今でもあの時の光景が浮かんできては消えない。さあ殺してくれ。」
そう言って、手足の力を抜いた。

順平は、ナイフを拾い上げ、司を脅すように立たせ、大久保海岸の西側へ向かって歩かせた。
そして、通称『ダボ』と呼ばれる深みの淵にある高い岩の上に立たせた。
そして、隠し持っていたロープで、司の両腕と両足をきつく縛った。
司は身動きできない状態にされた。そして、ロープの先は、ダボは岩場の1メートルもあろうかと思える大きな岩を結びつけられた。
司には、この先の運命がすぐにわかった。
司が口を開く。
「命乞いをするつもりは無い。やっと死ねるんだから。だが、最後に、ひとつだけ聞いて欲しい。」
順平は、そういう司の顔をしばらく見て、「話してみろ。」と言った。
「今更だがな・・・俺には、あの大学生に何の恨みも無かったし、いたずら半分でやったことでもない。全て、剛一郎に言われてやったんだ。」
「なんだと、この期に及んで、剛一郎のせいにするつもりか!」
「まあ聞け。実は、あの頃、俺には、漁協へ船を新造した借金があった。だが、不漁続きで、思うように借金が返せなかった。このままでは船を売らなくちゃいけない状態だった。そんな時、剛一郎が金を全て立て替えてくれたんだ。ありがたかった。結婚し、子どももでき、これからという時だったから、剛一郎には感謝していた。そして、あの祭の日、神社で控えていた俺のところに、あいつが来て、その金を棒引きにする代わり、健一を溺れさせろと耳打ちしたんだ。俺は、剛一郎の言葉に逆らえなかった。本当に、すまなかった。」
そう告白して涙を流した。
「お前たちのした事で俺は家も妹も全てをなくしたんだぞ。この悔しさがわかるか!」
「本当にすまない。」司は心から詫びた。

そして、海のほうへ向き直ると、そっと目を閉じ、岩の先をすり足で前に進んだかと思うと、そのまま海へ飛び込んでいった。
繋がれたロープがするすると伸びた。伸び切った時、結んであった大岩がバランスを崩して、ドブンと水しぶきを上げ海中へ沈んでいった。
しばらく、海中から泡が浮かんできたが、徐々に小さくなり、静かになった。


5-4.翌朝 [峠◇第1部]

4.翌朝
「幸一君はいるかい?」
寺の境内で、武井が声をかけた。
本堂の障子が開いて、幸一が出てきた。
「おや、武井さん。おはようございます。朝早くから。何かわかりましたか?」
「いや、現場検証では特に何も出なかった。あれから、署に帰って、いろいろと考えたんだがね。そこで、君の意見が聞きたくてね。」
昨日の玉城祐志殺害の現場検証を終え、武井は深夜近くに署に戻ったようだった。
「僕も、昨夜はなかなか寝付けなくて・・・やはり、大久保海岸にいる男は今回の件で何か知ってるんじゃないかって・・・」
「君もそう思うかね。私も前から気になって聞き出そうとはしたが口を開かなかった。これから、行ってみようと思うがどうだい?」と誘った。
「行きましょう。ここへは来るな!と言われましたが、来て欲しくない理由があるはずです。一緒に行きましょう。」
そういうと、寺を出て、四方橋へ向かって歩いた。
四方橋まで来ると、港から怜子がやってきた。
「おはよう。どうしたんだい?」と幸一が怜子に言った。
「おはよう。今、幸一さんのところへ行こうと思って・・。武井さんと二人でどこかに行くの?」
武井が、大久保仙人のところへ行く事を説明した。
「私も行きます。あの人、私の知っている人に違いない。確かめたいの。」
そう言って、武井の目も憚らず、幸一の腕に自分の腕を回した。武井は二人の関係を察したが、口にはしないほうがよさそうだとシカトした。
タバコ屋の前に来ると、「ヨシさん!元気かい?」と武井は声をかけた。
ヨシさんが、座敷から「おや、珍しい。タケさんかい?ほら、ハイライト!」と言って、武井に一箱放った。武井は「ありがと様。また来るよ。」と言って受け取り、そのまま通り過ぎる。
「いいんですか?」
「いつもの事だから・・」と何食わぬ顔でハイライトの封を切り1本吸った。

みかん畑に向かう分岐点に差し掛かった時、浜から駐在が制服姿で駆けてきた。そして、武井に敬礼すると、
「おはようございます。武井室長!これから捜査ですか?」と堅苦しい挨拶をした。
武井は苦笑いしながら、「そんなに意気込むなよ」と言わんばかりに、ゆっくりした口調で「何か、わかったかい?山本巡査?」と言い返した。
駐在は、「ハイ!」と直立して、手帳を取り出した。
「昨日、玉水怜子さんから通報いただいた、海岸の漂着物の件で報告いたします。」と続けたので、武井が、
「おいおい。普通にいこう。私は君の上司じゃないんだから。」と気を抜くように言った。
そして、大久保海岸へ行きながら駐在の報告を聞く事にした。

駐在の話では、海岸にあったのは確かに啓二の船の救命胴衣だが、予備のものだという。啓二は、常々、赤い救命胴衣は大きくて不恰好で作業がし辛いからと言って、シャツの下に着る薄い救命胴衣をいつも身につけていたという。
そこまで聞いて、怜子が
「じゃあ、啓二は海に放り出されて、どこかに生きているかも知れないということ?」と訊いた。
「その可能性はあります。ですから、また捜索を再開しました。それから・・」と続ける。

見つかった救命胴衣は、空気を補充して使うタイプで、見つかった時、空気が入っていた事から誰かが直前まで着用していたと考えられるという事だった。
「やはり、事故の時は啓二以外に誰かが船に乗っていたんだ。」
幸一が言うと、武井が
「啓二が船に他人を乗せる事は滅多に無い。ひょっとしたら、隠れていたか、無理やり乗り込んだんだろう。」と続け、事故を起こした犯人が使ったものだろうと思われた。

「それから・・・」と駐在が続ける。
浜辺一体、他に船と関連する漂着物が無いか、警官数人で捜索したところ、救命胴衣の近くから、ガソリンを入れる容器が見つかった。明らかに新しく、中に僅かだがガソリンが残っていたのだった。
「漁船の燃料か何かなんじゃ。」と幸一が言うと、
「港の船はほとんどA重油が燃料で、港にあるタンクから漁協の許可をもらって入れるルールだから・・」と、怜子が否定した。
「ひょっとしたら、啓二の船にはガソリンが積まれていたんじゃないかな?何かの熱で引火すれば・・」
「でも、沈没したから、調べようが無いわね・・。せめて,啓二が生きていてくれたら・・・」

5-5.仙人小屋 [峠◇第1部]

5.仙人小屋
やがて、祐介のみかん畑に着いた。朝の光に瀬戸の海が光っている。
幸一は、先日通った、あの隠れ道の入り口を探したが、出てきた時と様子が違ってなかなか見つからなかった。
「ここじゃないかね。」
武井が入り口を見つけた。
「へえ、こんな風になっていたんじゃ、判らないな。」
駐在が感心して、入り口の木を持ち上げて入っていった。
途中、隠れ道が二手に分かれていた。大久保海岸から戻るときは一目散に出口を探していたため、途中に分かれ道があるとは気づかなかった。一方は、谷を降りていた。薄暗い森の中を通じて、岬の方ににつながっているようだった。

ようやく、大久保海岸に着いた。大久保仙人の小屋が茂みの中に見える。あたりには、仙人の姿はなかった。
4人は、小屋へ急いだ。小屋の前で武井が声を掛ける。
「おい、私だ、武井だ。居ないのか?」
何度か呼びかけたが、返事はなかった。
「入るぞ。」そういって小屋の入り口を開けた。
小屋の中には、小さな釜戸に鍋が掛けられ、湯が沸かされているようだが、釜戸の火は消えかかっている。
「おかしいなあ・・・外を出歩く事はほとんどないはずなんだが・・・」
武井は首をかしげた。
「ちょっと海岸を探してみましょう。」そういって、駐在と幸一は外に出た。
怜子が、小屋の中に入ってみた。
先日はちらとしか見なかったが、何枚かの絵が掛かっている。
一つ一つ、実に美しかった。何度も何度も書き直したのだろう。風景画だが、細部まで細かく描かれている。まるで、写経修行をするように、丁寧に、丁寧に書かれていた。
その中でも、港を描いた1枚はさらに見事だった。じっと怜子がその絵を見ていて、はっと気づいた。
「ここに描かれている船、よく見て!これって啓二の船。ほら、舳先に竜の頭の飾りがある。」
怜子の言葉に、武井が近づき、その絵をじっと見て言った。
「よく描けてる。だが、これは啓二の船じゃない。」
「いいえ、この舳先を持っているのは啓二の船だけよ。」
「よく見てごらん。船の胴体の色が違うだろ。それに、船の周りの衝撃避けのタイヤが黒い。啓二の船は、白く塗ってあった。これは、司の船だな。親父が行方不明になって、そのまま譲り受けたんだ。・・・」
「ということは、これを描いた人は・・・」怜子が返す。
「そう、きっと司自身だろう。やはり、あの男は行方不明になっていた司だったんだ。」
武井が結んだ。

啓二の父、司は、10年ほど前、漁に出たきり行方不明だったのだ。立て網漁のアンカーにつながれていた船だけが見つかったのだった。漁作業の途中で船から落下して潮に流されたのではと言われていた。

それならば、行方不明になって隠れ住むだけの理由があった事になる。
「こんなところに隠れ住んでいたなんて、よほどの理由があったに違いない。」武井が言った。
「啓二さんから聞いたんですが、啓二さんのお父様は、行方不明になる前、『俺がやったんじゃない』とつぶやいていたそうです。何か、罪を犯して逃れるように酒を煽っていたとも聞いています。」怜子が啓二から聞いたことを話した。
「そうか・・そういうことか。祭りの事故で青年が亡くなった。きっとそうなったのは司が何かをしたと言う事だろう。それを悔いて、自殺をしようとしたんだろう。でも死に切れず、ここで、隠れるように生きてきたんだろう。」
武井は、仙人に何度か話しを聞こうとここへきていたが、気づかなかったとも言った。


幸一は、小屋の裏手に回って、仙人の姿を探してた。
誰も出入りしていない小屋の裏側は夏草が大きく茂っていて、足元もおぼつかない。ゆっくり一歩ずつ入っていく。すると、草むらで何か硬いものを踏んだ。拾い上げてみると、薄手の救命胴衣だった。海岸で見つけたものとは違い、黒色で薄手のジャケットのような形状だった。内側には、「第2玉啓丸・須藤啓二」の名前が記されていた。

「怜子!」
そう言って、幸一は小屋の中に入った。そして、今拾った救命胴衣を見せた。
「これって・・啓二の?じゃあ、啓二はここにいるんじゃない?」と怜子は喜んだ。
急いで小屋の中を見る。
小屋の奥には、青いビニールシートで仕切られたところがあった。
そこを捲ると、一段高く寝床のように設えた場所があった。
うす汚れた布団の上に、啓二が横たわっていた。

「啓二さん!啓二さん!無事だったのね!」
怜子が揺り起こすように呼びかける。外傷はなさそうだったが、随分衰弱しており、反応はなかった。
「事故の後、偶然、ここに流れ着いたんだろう。運良く、父親に発見されて助かったんだ。」
幸一が言うと、
「きっと、司自身も、10年前、船を残して消えた時、死にきれず潮の流れでここに着いたんだろう。死んだつもりでじっとここで生きて来た。そこに、同じように息子が・・・・なんていう皮肉な運命なんだ。」
と武井が嘆くようにつぶやいた。

「武井さん!来て下さい!」
外から甲高い駐在の声がする。

3人が出てみると、浜辺で駐在が何かを光るものを持って、こちらに見せている。
「武井さん!ここにナイフが落ちていました。まだ新しいもののようです。」
一連の事件の犯人のものだと直感した。とすると、犯人と司がここで顔を合わせたことになる。祐志を殺し、更に司にも刃を向けたのだと想像できた。
「山本巡査!小屋の中に啓二君がいる。すぐ本署に連絡をして、救急隊を要請してくれ!それから、玉水水産に、至急警官を向かわせてくれ!」
「はい、わかりました。」
そういうと無線で連絡をし始めた。
「え!私の家?武井さん、どうしてですか?」
「いや、祭の事故の恨みを晴らすのが犯人の目的なのは明白だ。祐志を殺害した後、すぐにここに来て、司を襲ったに違いない。すると、最後に残るのは剛一郎だけだ。きっと、玉水に行くはずだ。」と武井が言う。
「でも、祭の事故の時、お父さまは川には飛び込んでいないはずです。なのに・・」
怜子が、繰り返し尋ねる。
「その理由は、剛一郎に聞いた方が早い。とにかく今は須藤司を探そう。」

3人は、大久保海岸一体を探した。海岸の端から端まで探したが人影すら見えなかった。
怜子は、昨日、幸一と渡ってきた海岸の風景がどこか違っているような気がしたが、何が変わっているのかわからなかった。幸一に尋ねるまでもないとやり過ごして、周囲を探し続けた。

しばらくして、救急のヘリコプターがやって来た。
啓二を吊り上げ、駐在が付き添って病院へ向かった。

3人は隠れ道から村へ戻る事にした。怜子は父親の事が心配だった。理由はわからないが武井の言葉に父がこの事件に深く関係している事はわかった。
みかん畑を抜け、倉庫まで着いた時、刑事らしき男が待っていた。
「タケさん!」その刑事のなかで年配の男が呼んだ。
「おお、なんだ。署長様までお出ましか?」
「茶化すんじゃないよ。連絡を受けて、すぐ、玉水水産に急行させたんだが、玉水剛一郎は留守だった。それで今、行方を探させているところだ。」
「そうか。」
「なあ、タケさん。俺はお前さんに謝らなくてはならん。祭の事故の時、お前さんの言うとおり、事件と見てもっとじっくり調べていれば・・・すまん。」
署長が神妙に頭を下げた。
「いや、いいんだ。これで全て終わりにしよう。早く犯人を捕らえ、すべて、終わりにしよう。」
武井と署長の2人は、祭の事故の捜査チームだった。事故か事件かで対立したのだった。武井は、これは故意に溺れさせた殺人事件だと主張していたが、チーム長が、物証もなく現場の証言では、事故と判断するのが妥当だと言い、捜査を打ち切ったのだった。署長もその時は事件か事故かで迷っていた。そして、上司の判断を認め、捜査から手を引いた。

幸一が、2人の会話に割り込むように、
「あの、ひょっとして、玉付崎じゃないでしょうか?」と言った。
怜子もタケさんも署長も、幸一の顔を見た。
「一連の事件が、祭の事故の恨みを晴らすものだとすれば、26年前の悲劇の最後、そう、娘が投身自殺した場所に行くんじゃないでしょうか?」と説明した。
皆、玉付崎へ急いだ。

5-6.玉付崎の復讐 [峠◇第1部]

玉付崎には、海風が吹いていた。穏やかな瀬戸の海が広がっていて、遠く、姫島が霞んで見える。
玉水剛一郎は、海を眺めて立っていた。これまでの事故や事件を想い帰していた。

そこへ男が現れた。
「こんなところへ呼び出して、何の用だ!」と、剛一郎は不満げに言った。
「俺が、誰だか、わかるか?」と質問した。
「何を言っておる。」と馬鹿げた質問をするなと言う口調で答えた。
「俺は、この時を待っていた。ようやく復讐の時が来た。」
「何だって?復讐とはどういうことだ。」
「俺の本当の名は、玉谷順平。最後の復讐にお前を呼んだんだ!」
剛一郎はその名前を聞いて、顔色が変わった。
「ふ・・復讐とはどういうことだ!」と剛一郎は言った。

「俺は、お前たちに人生のずべてを奪われた。」
「何のことだ!」
「俺は、火事で、両親と妹を失い、大学も辞めた。生きる目的を無くしてあちこち放浪した。何度か自殺もしようとした。だが,死に切れなかった。そんな時、ある町で、托鉢の修行僧と仲良くなった。それから仏門に入って修行した。この村に恨みはあったが、復讐なんて考えもしなかった。」
「なら、何故この村に戻ってきた!」剛一郎は強気になって言った。
「坊主になってしばらくして、偶然だが、香林寺の住職と会い、久しぶりに故郷の近くに行くのも良かろうと思って、短い手伝いのつもりだった。そんな時、玉林寺の住職が亡くなった。香林寺の住職から、玉林寺へ行くよう頼まれ、祖先の供養のつもりでやってきたんだ。」
「それなら、大人しく、供養していれば良かろうが・・・」まだ、強気に言う。
「だがな、ここへきて愕然とした。あろうことか、玉谷の墓が壊され、何も無くなっていた。この村に玉谷家があったことのすべてが消されていたんだ。村の人は誰も話したがらなかった。」吐き捨てるように言った。
「にしきやの主人がようやく教えてくれた。忌まわしい記憶を消すためにと、剛一郎が指図したと。」
「馬鹿な!それは違う。にしきやは玉元家、玉一族の本家筋だからと、強引に壊したんじゃ。玉谷の墓のあとを玉元家が譲り受けると言って勝手に壊したんだ!」剛一郎が弁明した。
「そんな事はどうでもいい。とにかく、これを見て、健一、親父、お袋、和美を亡くした恨みが湧いてきた。だが、何も証拠も無い。だから時間が来るのを待った。10年待った。そこに、あの男が現れた。やっと復讐の機会がやってきたんだ。祐志や司から、祭の事故の真相のすべて聞いた。やはり、お前が糸を引いていたんだな!」
順平、いや、住職は確認するように訊いた。剛一郎は弁解がましく答える。
「おれが悪いんじゃない。あいつが、そう、あいつが和美にちょっかいを出さなければ、俺と和美は一緒になるはずだったんだ。だから・・」
「健一は俺の親友だった。和美が東京に遊びにきた時、俺があいつと和美を引き合わせた。お前なんかよりずと和美を幸せにしてくれるはずだった。それなのに・・」と言うと、じりじりと剛一郎に近づいていく。
「待て。和美は俺との結婚を承諾していたんだ。」
「嘘だ!和美は、親の決めた結婚は嫌だと言って、東京に来たんだぞ。」
「そう・・そうだ。判った。本当の事を話そう。まあ、聞いてくれ。」
そういうと、どっかりとそこに座り込んだ。

「俺と和美の結婚は、お前の親父が持ってきた話だ。俺は昔から和美が好きだった。だから二つ返事で承諾した。当然、和美も承諾していたんだと思っていた。」
「俺の親父から和美の縁談を?そんなはずは・・」
順平は不思議だった。あんなに妹の事を大事にしていた両親が和美の気持ちを考えもせず、縁談を進めるとは思えなかった。
「そうだ。俺は和美が承諾したものだと思って、ある日、和美に結婚の話をした。すると、和美は嫌だと言った。好きでもない人と結婚できないと冷たく言われたんだ。」
「それなのに・・・」
「そうさ。俺だって面食らった。それで親父達に訊いたんだ。すると、順平、お前のためだったんだ。」
「なんだって?おい、言い加減な話はするんじゃない!」
「まあ聞け。お前は頭が良かった。だから、東京の大学に行かせた。しかし、それには、相当な金が掛かる。玉谷家も玉元一族だから、屋敷、田畑はもちろんあったが、何しろ、親父さんは体が良くない。現金収入は少なかった。だから、俺の家からまとまった金を借りてお前を大学に行かせたんだ。」
「ああ、それは親父から教えられた。だから、俺が学校を卒業したら全部返す約束だった。」
「そうだろう。だが、そんな金、すぐに底が尽きる。毎月仕送りをしているうちに、また、お金が必要になった。何度か、親父がお金を工面したようだ。そのうち、お前の両親から、妹の縁談の話を持ち込んだ。おそらく、借金をどれだけしても足りないので嫁に出して支度金でも欲しかったのじゃないか。」
「そんな馬鹿な!じゃあ、俺のために和美は身売りするのと同じじゃないか!」
順平は真っ赤になって怒った。
「そうだ。だから、その話を聞いて俺も頭にきた。両親に向かって縁談を断れと言ったんだ。そんな結婚をしても誰も幸せにはなれないとな。」
「だったら何故?」順平は尋ねる。
「縁談の話はなかったことにしたが、俺は昔から和美が好きだった。お金のこととは関係なく、嫁にしたかった。そう考えていた夏に、あいつは突然現れた。そして、俺の目の前を、和美と2人楽しそうに・・・俺の村の中で・・・なんで・・・」
剛一郎は、今思い出しても、悔しさをこらえられない表情になった。
「だからと言って、健一をなぶり殺しにし、親父やお袋を死なせ、妹まで自殺に追い込んだ。・・・お前だけは・・決して許せない!ここから突き落としてやる!」
順平が剛一郎に掴みかかった。狭い岬で二人はもみ合い、何度か海へ落ちそうになった。

そこに、武井や幸一、怜子が現れた。剛一郎と住職がもみ合っているのが見えた。
「お父さま!」怜子が叫ぶ。
「やめろ!止めるんだ!」武井が叫ぶ。
「来るな!これで終わるんだ!来るな!」順平が叫ぶ。
「止めてください、ご住職。まだわかっていない事があるはずです。真実を突き止めましょう。」
幸一の言葉で、順平、いや住職が動きを止めた。
幸一は続ける。
「自殺した和美さんは、僕の母なんです。生きていたんです。僕も知りたい。火事の事、自殺の事。剛一郎さんはまだ隠している事があるはずです。」
「どういうことだ。和美は生きていた?いや、そんなはずはない。ここから飛び込んで赤子と二人、死んだはずだ。」
住職が言う。
「いえ、生きていたんです。どういうわけかは判りませんが、ここから飛び込んだ後、一命を取り留めました。そして、名古屋で生きていたんです。間違いありません。」
「出任せを言うな!」
「本当です。母は、ほとんど記憶を失っていましたが、玉谷和美と言う名前と、「玉は村の守り神」と僕に伝えたんです。僕も知りたいんです。さあ、手を離して・・・剛一郎さん、知っている事を話してください。」
住職の手が、掴みかかっていた剛一郎から一瞬離れた。
その隙に武井と幸一が、住職に飛びつき、その場で取り押さえた。

怜子が剛一郎に駆け寄った。
「お父さま、大丈夫?」
労わるように、背中を擦りながら、涙ぐんでいる。
「さあ、剛一郎さん、話してください。まだ、隠している事があるんじゃないですか?」幸一が迫った。
「幸一君、何があると言うんだい?」と武井も訊いた。

「タバコ屋のヨシさんの話では、玉谷家の火事は失火ではなく、放火ではないかと言う事でした。誰かが火をつけたんじゃないかと。それと、火事から飛び出してきた母、いえ、和美さんが、半狂乱になっていた事、赤ちゃんを抱いて火事場から飛び出してきて、自殺をするというのも、あまりにも不自然なんです。」
と幸一が話した。
「じゃあ、君は、玉谷家の火事も、和美さんの自殺も、事故ではなく、誰かがやったんじゃないかと言うのかい?」
「ええ、その真実を知っているのは、剛一郎さんだけなんです。」
武井は、幸一の言葉を受け止めて、
「さあ、話してくれ。真実を全て。これで終わりにしようじゃないか。」と剛一郎に諭すように言った。
剛一郎はすっかり観念したように、26年前の出来事を語りだした。

6-1.不幸の始まり [峠◇第1部]

「26年前のあの日が全てを狂わせた。」
最初にそうつぶやいて、剛一郎は重い口を開いた。

「26年前の夏の日、一人の男が峠を越えてやってきた。その男は、玉谷家の兄、順平の友達で、健一と言った。順平はクラブ合宿で不在だったが、あいつの目的は和美に逢うことだった。」と剛一郎。

妹の和美が嬉しそうに出迎えた。
1年ほど前、兄の居る東京に行った際に出会い、一目ぼれだったようだ。
このとき、すでに和美は剛一郎との縁談がまとまっていた。だがこの縁談は玉谷家の家計を助けるため、玉水家へ支援を求めてのものだった。

「和美は拒否した。俺も金目的の結婚と知って、一旦は破談にしたんだ。だが、俺は昔から和美の事が好きだった。」
剛一郎は何とか自分のものにしたいと考えていた。そんなところに東京からの男。

「俺の目の前で、二人は仲良くしていた。腕を組んで村の中を歩き回った。見るも耐え難い状況だった。」

そんな時、祭りの準備が始まった。村の若者は、健一も祭に出るように誘った。和美も勧めた。
そして、祭りの前日。慣例で、祭に出る若者は、神社の本殿で夜通し篭る事になっている。
その年は、玉穂忠之(昭の父)、玉城祐志(祐介の父)、須藤司(啓二の父)が、顔役で終いの儀式に臨む青年達を見張る役だった。そして総顔役が剛一郎だった。

「祭り前夜は、村の差し入れの酒を本殿に篭る青年たちで飲み回す習慣があった。飲めないと殴られた。それを利用して、忠之、祐志、司に、そいつを殴らせた。他の奴らは、早く寝ろと言って本殿の脇の小屋へ入れておいた。その後も、3人がかりで押えつけ、飲ませ殴り・・夜通し続けた。健一は最初こそ抗っていたが、力尽きたのかほとんど無抵抗だった。」
剛一郎は前夜の様子を告白した。

朝になって、まだ朦朧としている健一を3人で担いで川へ向かった。
前日に、大雨が降り、増水していて、他の奴らは飛び込むのを尻込みした。

忠之と祐志と司は、剛一郎の命令なので、仕方なしに、健一を担いだまま川へ飛び込んだ。
「そこで、お前は司に命じて、健一を溺れさせたんだ!」
順平が、祐介と司から聞いた事を確認した。
「ああ、そうだ。司には借金があった。俺が肩代わりしたから、あいつは俺に逆らえなかった。」
「司は随分悔いていた。だから、あの海岸に身を隠していたんだね。」
剛一郎の言葉を聞いて、武井が言った。
「ああ、司はそう言っていた。祐介も悔いていた。」
順平の言葉に皆驚いた。

「そうさ、昨日の夕方、俺は祐介を神社に誘いだした。そこで祭りの一部始終を聞いたんだ。そしてあの時のように酒に塗れて殺してやった。」
「何故、あんなむごい殺し方を?」と武井。
「健一が受けた屈辱を思い出すと抑えられなかった。健一が受けたと同じように、酒に塗れさせ、殴り倒した。だが、それだけでは足りなかった。それに、本当に償うべき人間はまだいたからな。」
惨い殺し方をした事よりも、それだけでは長年の恨みが消えなかった事がまだ抑えきれない口調だった。そして、
「祐志は、健一を直接溺れさせたのは司だと言った。だから、今朝、司の居る海岸に行った。あいつは悔いていた。そして、もう殺してくれと言った。長く隠れ住んでいた事に疲れたんだろう。健一が死んだ時のように、海に沈めてやった。」と順平が言った。
「何てむごい事を。さんざん探したが見つからなかったはずだ。間に合わなかったのか。」武井は残念がった。


6-2.火事の夜 [峠◇第1部]

「火事の件はどうなんですか?剛一郎さん。」幸一は訊いた。
「あの夜の事は・・・」と剛一郎が口ごもる。
今まで黙って父の背中を擦りながら、話を聞いていた怜子が、
「お父様、全て話して。償いのためにも真実を教えて!」と父の背中を叩きながら迫った。
剛一郎は少し考えていたが話す決心をしたように口を開いた。

「火事は放火ではない。」剛一郎はゆっくり確認するかのように言った。
「じゃあ、なぜ、ヨシさんはそんな事を言ったの?」怜子が訊いた。
「そうだな・・どこから話せば良いのか・・」と順序立てて話した。

「この村の人間は、にしきやでほとんど“付け買い”をしていた。玉谷家もそうじゃった。月末には、その集金をにしきやの主人がやっていた。ああ、今の女主人ではなく、あいつの亡くなった父親じゃ。あの頃の玉谷家は、順平の大学費用だけではなく、生活費にも事欠くような状況で、金払いは良いほうではなかった。」
「あの頃はみんなそうだった。俺の家だけ、特別な事じゃない。」住職は言った。

「そうじゃ。じゃが、あの、にしきやの主人は玉元一族にこだわりがあった。」
「玉元一族って何?」怜子が訊く。
「もともと、玉水、玉穂、玉谷、玉城の4家は、玉元家の分家。元を言えば、にしきや自身が本家という事になる。じゃが、あの主人、郷土史家を名乗っていろいろ調べていた時、今の玉元家は本筋じゃなく、勝手に名乗っている事を知ったんじゃ。」剛一郎が話す。
「じゃから、本当の玉元一族になりたかったんじゃろう。玉谷家の借金のかたに、田畑や屋敷を取ろうとした。」
「そんな話聞いたことも無い。それにそんな事をしても玉元が玉谷になれるわけも無い・・」
武井が憤慨して言った。

「あの日、そう、火事が起きたあの日。俺は、玉水家に呼ばれたんじゃ。夕方じゃった。行ってみると、玉谷のお袋さんが泣いておった。それを脇目に、親父さんは、俺に向かって、和美を貰ってくれといったんじゃ。」
「まさか、にしきやの借金の肩代わりにまた縁談を?」怜子が訊く。
「そうじゃ。確かにまだ俺は和美を嫁にする事を諦めてはいなかった。健一の子どもを身ごもり、内緒で生んだ事も知っていたが、それを全て受け入れるつもりでいたから、その申し出を断る事はできなかった。」
剛一郎はうつむいて言った。
「健一を殺しておいて、よく、ぬけぬけとそんな事が・・」
順平が悔し涙を流しながら詰る。
「そうだ、どう思われても良い。俺は和美を嫁にしたかった・・・」剛一郎は返す。

「でもどうして?」怜子が訊く。
「その会話を和美が隣の部屋で聞いておった。襖を開け飛び出してきて、親父さんと俺に、絶対に嫌だと言った。健一を殺した人の嫁にはならない、どうしても嫁になれというならと、台所の包丁を持ってきて、死んでやると言いながら、自分の首に付き立てて泣いたんだ。」
「それから?」怜子は和美の心情がわかり泣きながら訊いた。
「俺はその場から退散した。その後、にしきやへ行ったんじゃ。縁談とは別に借金を肩代わりするから、玉谷家の田畑・屋敷を取るのは勘弁してもらうためにな。じゃが、にしきやの主人は承諾しなかった。それならばと、俺は一旦、家に戻り、現金を持って、また、にしきやに行った。じゃが、にしきやの主人は不在じゃった。訊くと、玉谷家へ行ったというので、心配になって俺も向かったんじゃ。」

「にしきやの主人が火事と関連があるというの?」と怜子。
「それはわからん。向かう途中、にしきやの主人と四方橋で会った時、借金の事はもう良いとこちらの話も聞かず、急ぎ足で店に戻っていったのは確かじゃ。」
「何か、玉谷の方と、お話をしたのかしら。」と怜子。
「俺は、玉谷家へ向かった。そして何度も玄関先で呼んだ。じゃが、何の返事も無い。留守のはずは無い。何度か玄関を叩いた。それでも返答は無かった。仕方なしに、帰ろうとした時、中から火の手が上がった。和美の身が心配で、玄関を蹴破って中に入ったんじゃ。すると、玄関の脇の客間に、親父さんとお袋さんが倒れておった。障子や襖、床の間、そこらじゅう火が点いておった。助けようと近寄ったが、お袋さんは胸に包丁が突き立っていた。わしはそれを抜こうとしたんじゃ。そこに和美が赤子を抱いてきた。そうじゃ、わしが、親父さんとお袋さんを殺し、火とかけた様に見えたんじゃろう。殺されると叫びながら赤子を抱いて家から飛び出して行った。」
剛一郎は、両手で顔を覆って、その時の光景を今でも忘れられないように、悔しそうに話した。
「親父さんとお袋さんを助け出そうとしたが、火の回りが速かった。俺も何とか逃げ出した。外に出たら、村の衆がたくさんおった。和美の姿を探した。見つけて近づこうとすると、和美は気がついて逃げ出した。」
「もう、気が動転して、お父さんに殺されると思い込んでいたのね・・なんてこと・・・・」
と怜子は父の話を聞き、大粒の涙を流している。
「じゃあ、それで、火事は、親父が自分で火を点けたと・・・お袋は?」
と順平がすっかり憔悴した様子で訊いた。
「わからん。おそらく、にしきやの主人が何か知っているだろうと思って、火事の後、話を聞こうと行ったが、具合が悪い、寝込んでいると言って会ってもらえなかった。それから、しばらくして、亡くなってしまったから確かな事はわからん。」と剛一郎。
「玉谷家が経済的に困窮していたのは事実だった。火事の検証では、親父さんもお袋さんの遺体も損傷がひどくて、焼死としか判断できなかったようだ。最も燃えていた部屋の隅にストーブと灯油缶があったので、これに何かの火が引火したものと考えられたんだ。・・こんな事実があったとは・・すまない。」
武井が火事の状況を付け加え、当時の検証では事故としか判断できなかった事を、誰とはなしに詫びた。


6-3.自殺の真相 [峠◇第1部]

「ねえ、その後、和美さんがどうなったのか、知ってる事を教えて。」
怜子がようやく気を持ち直して、剛一郎に訊いた。

「和美は、和美は・・・岬から身を投げたんじゃ!」
剛一郎は、そう言って口を閉ざした。
その話だけは、どうしても言いたくないという風に口を閉ざした。
「何か知ってるはずだ。まさか、剛一郎、貴様が岬から突き落としたんじゃないだろうな!」
取り押さえられたまま、順平が剛一郎に食い下がる。
「知っている事があるなら教えてください。僕の母の様子を教えてください。」
幸一がさらに訊く。
「お父様、大事な事なの。幸一さんが和美さんの子どもなのは間違いないこと。そのために、この村に来たのだし、もう全て話して!」
怜子は懇願するように父の顔を見た。
そんな怜子を見て、剛一郎は、
「わかった。」と言い、大きくため息をついてから話しはじめた。


「俺は、火事場で和美の姿を追った。俺を見て怯える和美がいた。近づくと、赤子を抱いたまま、そこから逃げ出した。」剛一郎は言った。
「ヨシさんは、その時の様子を見て、失火ではなく放火ではないかと言ったんだろう。」と幸一。
「和美は俺から逃げるために、下の地区へ向かって走っていった。暗闇の中、ようやく追いついたのは、玉付崎じゃった。」

真っ暗な岬の先端、和美は追い詰められた気持ちだったに違いない。
目の前で、父母が業火に焼かれていく様を見て、そこに結婚を強要しようとする剛一郎が迫ってくれば、恐怖に慄き、正気を失っていたに違いない。
「和美は俺に、”殺さないで。殺さないで“と繰り返し叫んでいた。よほど、火事の光景が怖かったのだろう。もちろん俺にはそんな気持ちはさらさら無い。それよりも後ずさりする和美がいつ落ちてしまわないか心配だった。」
「ちょうど、この辺りなんだね。」と武井。
岬の先端の幅は細く、夜ともなれば、山風が強く立って居るのも大変だったろうと思われた。

「止めろ、何もしない、と俺は何度叫んだかわからない。じゃが、正気の失った和美は、聞き入れようとはしなかった。一歩、一歩、後ずさりをしていった。そして、いきなり身を翻すと、暗い海の中へ飛び込んでいったんじゃ。」
剛一郎の目から涙があふれている。

何も出来ず、大事な人を目の前で失う辛さはそこにいる誰もが理解できた。
「俺はすぐに岬の先端から身を乗り出して和美の姿を探したんだ。だが真っ暗な海だ、何も見えなかった。」
悲しみで打ちひしがれ、力なくその場に蹲る剛一郎の姿が、今の剛一郎と重なって見えた。


6-4.忘れ形見 [峠◇第1部]


「どれくらい経ったころか、風の音にまぎれて、下のほうから赤ん坊の泣き声が聞こえてきたんだ。目を凝らしてみると、岬の崖の下に僅かな窪みに、赤ん坊を包んだ白い布のようなものが見えた。俺は、一縷の望みを託して、暗闇の中、ゆっくり崖を降り、その布を抱えた。中には赤子が居た。真っ赤になって泣いておった。そして、また、ゆっくり崖を上った。上ったところを見ると、和美の履物があった。自殺した者がするように、きれいに並べておいた。」

崖の窪みは確かにあった。
怜子が突き落とされた時、運よく助かった場所、そして、幸一と一夜を過ごした場所である。
同じようにそこに赤ん坊がいた事は偶然なのだろうか。
それとも、和美が落ちていく時に投げ入れたのだろうか・・。

「その後、その赤ん坊はどうなったの?」と怜子が訊いた。
「その赤ん坊は僕じゃないんですか?」と幸一。
剛一郎は、ゆっくりと首を横に振った。
「その赤ん坊は、俺がそのまま抱えて家まで連れて帰った。だが、生まれて間もない乳飲み子が俺に育てられるわけも無い。」
「じゃあ、どこかへ預けたの?」と怜子。
「いや、そのまま家に置いた。もちろん、すぐに、忠之や祐志、司たちにも相談した。みんなの罪滅ぼしに、いや、和美の忘れ形見として育てる事にした。もちろん、爺様たちは反対した。玉谷の忌まわしき子どもを何故育てるのかと反対じゃった。ちゃんと育てる、迷惑は掛けないと懇願し、了解を得た。そして、皆の秘密にする事にした。」
「無茶な事を・・・」武井がつぶやく。
「無茶は承知じゃ。俺は独り身。自分のことさえ満足に始末できないのにと、婆様も反対しておった。じゃが、乳飲み子を前にして、やはり、放っておくことは出来ん。ちょうど、にしきやの娘、ああ、女主人が和夫を産んだばかりだったのを思い出して、無理を承知で、乳をやってくれるように婆様が頼みこんだんじゃ。最初は快く世話をしてくれた。じゃが、にしきやの主人がこの話を聞いて、怒鳴り込んできた。そして、代わりに金をよこせと言い出した。乳飲み子の命綱じゃ、安くはないぞと脅してきた。随分の大金を渡したんじゃ。忠之も祐志も協力してくれた。みんなで、和美の忘れ形見を大事に大事に育てたんじゃ。」
「それじゃあ・・」と怜子は言いかけたが、言葉が出なかった。
幸一が怜子の代わりに言った。
「それじゃあ、和美さんの赤ちゃんは、怜子さんなんですか?」
剛一郎は、怜子の眼を見てゆっくりと首を縦に振った。そして、
「すまなかった。せめてもの罪滅ぼしになればと・・本当にすまなかった・・・」

怜子は父の言葉にどう答えてよいのか戸惑った。
養女とは聞いていたがまさか自分が和美さんの子どもだとは考えもしなかった。
それに、父、いや玉水剛一郎が犯した罪の重さと今まで育ててくれた事、そして、悲運な母を考えると、どう受け止めてよいのか判らなくなった。
全てが嘘だと思いたかった。ぶっきらぼうで自分勝手で、干渉ばかりする父だが、何不自由なくこれまで育ててくれた。皆、優しく見守ってくれた。これまでの20数年が走馬灯のように浮かんできた。しかし、母の恋人・・父を殺し、母を死に追いやった張本人である。
怜子はその場に蹲り、声を上げて泣いた。子どものようにわあわあ言って泣いた。幸一が肩を抱く。

そんな怜子を見て、順平が嗚咽しながら、
「まさか、そんな事が・・・。和美の忘れ形見・・・生きていたとは・・・なんと皮肉な事だ・・」と呟いた。
そんな順平を見て、幸一がズボンのポケットに入っていた黒い手帳を開き、1枚の写真を取り出した。
「これが母です。昔の写真ですが、どうですか?」と順平に見せた。
「おお、これは・・和美・・笑顔で写っとる。・・和美・・」、更に泣き崩れた。
怜子も、その写真を順平から奪うように手に取り、
「これが、お母様?お母様なの?」と幸一に詰め寄る。
「そう、名古屋に来たばかりのときはもっとやつれていたらしい。父と一緒に暮らし、徐々に元気になって。」と幸一がその頃の様子を話した。
剛一郎もその写真を見て、「すまなかった。本当にすまなかった。」と心から詫びた。
武井が、「すまないが、私にも見せてくれるかい?」と催促した。
武井は写真を手に取ると、しばらくじっと見つめてから、
「こんな可愛い人を皆で不幸の奈落へ突き落として!しっかり罪は償ってもらうぞ!」と言って、順平を後ろ手で、手錠をかけた。一段落したようだった。
さっきまで吹いていた海風が急に止んで、夕凪になった。もう、夕日が沈みかけ、周囲がぼんやりとしてきていた。
「怜子、許してくれ!」
そう短く叫んだかと思うと、剛一郎は、岬の先端へ駆けて行った。声をかける事も止めることもできない一瞬の出来事だった。
剛一郎の姿が先端から消えた。そして、大きな水飛沫が上がった。
夕闇が辺りと包み込み、白い泡も薄れていった。
「お父様!」怜子が叫ぶ。
崖下を覗き込もうとして落ちそうになる怜子を必至に抑え、幸一は言った。
「なんて事を!」
「全てを話す決心をした時から、こうする事を決めていたのだろう。罪を償うつもりだったんだろう。」と武井は言って、すぐに捜索するように手配した。
すっかり日も暮れ、暗い海が広がっている。


6-5.連行 [峠◇第1部]

剛一郎が岬から飛び込んで、しばらくして、武井の通報で、捜索隊がやってきた。

すっかり日が落ち、暗闇が広がっている。捜索隊は、煌々と照明灯を点け、岬から漆黒の海を照らしている。捜索艇も出て、沖合いにまで範囲を広げて捜索したが、何の手がかりもつかめないまま時間だけが過ぎていく。
怜子はその場に蹲ったまま、必至に父親の無事を祈っていた。
幸一は、そっと怜子に寄り添って、肩を抱いた。

夜10時を回ったころだった。
「すまないが、先に、順平を本署に連行しなくちゃいけない。本署に戻るよ。」
武井はそう言って、順平の手錠に縄をつけ、連行した。
漁港近くに、駐在の乗ってきたパトカーが待っていた。
武井と順平を乗せ、サイレンが響き、徐々に遠ざかって行った。

パトカーが四方橋を過ぎたあたりで、武井が順平に声をかけた。
「少しだけ寺に寄っていこうか?」
「え?」と、予想外の武井の問いかけに、順平は戸惑った。
「復讐は、全て終わったんだろ。最後に、両親と妹に経を上げて詫びたらどうだ?」と武井が続けた。
「それはありがたい。剛一郎の話を聞いて、両親と妹に詫びねばと考えていた。寺に寄れるなら・・」
順平は、胸の痞えをおろせる思いで答えた。

武井は「そうか。」と言って、運転している駐在の山本に寺に寄るように指示した。

パトカーは、玉林寺の門の前に着いた。
武井は、
「山本巡査長、この後は、自分が署に連れて行くよ。車は置いていってくれないか。それと、君には、剛一郎の捜索を手伝ってもらいながら、怜子たちの様子を見ておくようにお願いしたいんだが・・」と言った。
駐在は、
「そうですか。僕も怜子さんの様子が気になって、仕方なかったんです。申し訳ありませんが、そうさせていただきます。」
と言って、車を寺の前に残して、走って港に戻っていった。
その様子を見送ってから、武井と順平は寺に入っていった。

「もう復讐も終わったんだから、逃げる事はないだろう。手錠をかけたままというのもなあ。」
武井は、そう言うと、縄を解き一旦手錠を外してやった。
住職は、武井に頭を下げ、本堂に入っていった。
そして、本尊の経机の引き出しから、紫布の包みを取り出した。広げると、3体の位牌が大事に包まれていた。両親と妹の位牌だった。じっと眺め、優しく布で拭い、机上に置いた。そして、香炉に火を入れた。柔らかな香が漂い始めた。
順平は、鈴(りん)を鳴らして経を唱え始めた。静かに経の声が本堂に響いた。住職の顔になっていた。

武井は、その姿を確認し、本堂を出た。隣にある住居へまっすぐ向かい、住職の部屋に入った。
部屋の中は、簡素だった。座卓と座布団、寝具一式、必要最低限のものが綺麗に置かれていた。
武井は、いきなり、押入れを開けて何かを探し始めた。1間ほどの小さな押入れの上段に、小さな箱がひとつあった。蓋を開けて中を見ると、玉谷家の写真。ずいぶん昔のものらしく、モノクロ写真だった。そこには、まだ中学生くらいの和美と高校生の順平と両親が写っていた。
そして、もうひとつ、ノートがあった。中を開くと、祭りの事故を報道した小さな新聞記事、そして、順平が村の人間から聞き出したであろう、書き殴る様な記述があった。一通り、目を通して箱に戻した。ほかにないか、押入れの中を見回したり、座卓の下や寝具なども丁寧に見て廻った。何か、証拠物件を探っているようだった。しかし、思いのものはなかったようで、部屋を出て、本堂に向かっていった。

本堂の脇の小部屋には、幸一が荷物を置いていた。荷物といっても、カバン1つと着替えが掛かっている程度だった。武井は、さっきと同じように、一通り見回したあと、幸一のカバンを開け、中身を見ている。見ているというより物色しているように、一つ一つ手で取り上げ、点検し、またカバンに戻した。掛かっている上着のポケットも探っている。
それでも、目当てのものは見つからなかったようで、ひとつため息をついて、本堂の広間へ入っていった。

6-6.苦悩 [峠◇第1部]

武井が引き上げたあとも、怜子と幸一は、剛一郎の捜索をしている岬にいた。
もう3時間近く、捜索が続いていたが、真っ暗な海岸での作業は容易ではなく、手がかりはつかめないままだった。
深夜0時を回ったあたりで、捜索隊から、一旦捜索の打ち切りの決定がされた。
怜子は承知しようとしなかったが、幸一と駐在が怜子を説得して、明朝から再開する事になった。

「怜子、疲れただろう。一度、家に帰って休もう。また、朝から捜索が始まるまで、少し休んだ方がいい。」
幸一はそう言って怜子を家に帰らせる事にした。
怜子の目は空ろだった。父-剛一郎-が告白した全ての話が、今ごろになって心の底深くで蹲ったままで、自分ではどうにもならない程に重たかった。
「さあ、家まで送るから、帰ろう。」
促す幸一に怜子は、
「大丈夫。一人で帰れるわ。」
何とか一言発するのが精一杯だった。
そして、幸一の目も見ず、一人、海岸沿いに、歩いて帰っていった。
怜子の後姿を見ながら、幸一はそれ以上、声をかけることができなかった。
怜子の心の中にある、悲しみ・痛みは、幸一の中にも確かにある。
兄妹とわかった今、自分の中にある「恋心」をどうすればよいのか、答えが見つからない。
ただ、怜子の姿が見えなくなるまでじっと見送る事しかできなかった。

怜子は、真っ暗な港の道を、玉水水産を目指して歩いた。何度か、振り返って幸一の顔を見たい衝動に駆られたが、一度振り返ってしまうと、そこから動けなくなる思いがして、留まった。とにかく、まっすぐ玄関先に着いた。
剛一郎はいない。真っ暗な玄関を開けても、やはり、静寂だけが広がっていて、無性に淋しさがこみ上げる。
怜子は電気もつけず、そのまま2階の自分の部屋に駆け上がって、ベッドに突っ伏した。

父の告白を聞いてしまった。養女とは知っていたが、父の口から告げられた内容はあまりにも過酷だった。
今まで、平和なこの村で、みんなに愛しまれた幸せな日々。ここで生きて来た全ての時間が幻のように感じられた。あまりにも悲しい運命を辿った肉親と今まで自分を育ててくれた人の深い罪、全て、何かの間違いであってほしいと何度も思い、忘れてしまいたかった。
そして、何よりも、自分の母が、幸一の母だった事実。そう、2人が血の繋がった兄妹であるという事実を知ってしまった。
岬で風に吹かれていた幸一と出会い、大平山へ行き、彼の秘密を聞き、興味を持った。それから、市場で楽しく話した夜、岬の転落事故で辛うじて助かった時、やさしく包み込まれながら過ごした夜、・・・出会ってからまだ僅かな日々ではあるが、怜子の中には確かな愛が芽生えていた。そして、これからも共に生きていきたいと願うようになってしまったのだ。
兄妹と言われて、この強い恋心を、これから、どうすれば良いのか戸惑っていた。
忘れなければと思うほど、余計に愛しさが募り、悲しみは痛みとなって、怜子の胸に突き刺さってくる。

今ほど、幸一とともに居たいと思った事はなかった。幸一の胸に顔を埋め、思い切り泣きたかった。幸一の腕に抱かれて深い眠りにつきたかった。ああ、会いたい・・でも・・いけない、淋しさ・悲しみと苦しみが、胸を押しつぶしそうになっていた。


6-7.住職の死 [峠◇第1部]

怜子を見送った後、幸一も一旦、寺に戻る事にした。
主を失った寺だが、とりあえず、明日の朝まで体を休めなければと思ったのだった。

寺に着いた時には、真夜中1時を廻っていた。
誰もいないはずの寺の本堂に明かりがついている。
不審に思い、幸一は、荷物置きにしている本堂の脇の小部屋にそっと入っていった。それから本堂に通じる襖を静かに開けた。
そこには、血の海のなかに横たわった住職の姿があった。そして、すぐ脇には武井が倒れていた。
「ご住職!ご住職!」
幸一は、大声で呼びながら、住職の身体を抱えあげた。すでに息絶えていた。
住職は、鋭い刃物で首を掻き切られ、おびただしい血が流れ出ていた。脇に倒れている武井を揺り動かした。
「う・・うう・・」と呻くような声をだして、武井が目を覚ました。
「おお、幸一君。」
「どうしたんですか?」幸一の声に、
「いや、ここで順平に殴られて・・気を失ったようだ。順平は?」と武井。
顔を上げた武井は、脇に横たわった住職を見て、
「いや、しまった!自殺するとは!不覚だった。」と叫んだ。
それから、畳に座り込むと、何度か膝を叩き、悔しそうにこう言った。
「父・母、妹を弔いたいと言うので、短い時間ならと、寺へ寄ったんだ。位牌を出し、経を唱えるので私も脇に座っていた。すると、いきなり、何かで頭を殴られた。気絶してしまったようだ。・・・油断した。」

「どうして自殺なんか・・・」幸一は訊いた。

「そうだな・・・おそらく、全ての復讐が終わって安堵したのか、それとも人を殺してしまった事を悔いたのか・・こうなってしまっては、順平の心の中はわからないな。」
武井がつぶやいた。

武井の連絡ですぐに救急車がきたが、既に絶命しており、役には立たなかった。
やや遅れて、刑事が数人来た。住職の遺体の写真を撮り、検分し、運びだした。そして、遺書らしきものはないか、寺の中を探し回った。

幸一も使っていた小部屋に戻ってみた。誰も入ってはいない部屋のはずなのに、異変があった。
これまで、転転とする日々の中で、自分の荷物と着替えは、すぐに持ち運べるようきちんと置く習慣がついていた。ここに来てからも、カバンにはしっかりベルトを締め、取っ手の端を掛けて置くのだが、ベルトが緩み、取っ手も反対方向に引き出されている。さらに、掛けていた上着は、襟が立ち、ポケットカバーが中に押し込まれていた。誰かが、この部屋に入り、カバンや上着を物色したのがすぐにわかった。泥棒だろうか、それとも住職がだろうか、疑問が沸きあがった。
幸一のかばんや、上着のポケットが物色されている事から、犯人は、メモや手紙等のようなものを探していたのではと考えた。
本堂に戻った幸一は、本尊の前の住職が倒れていたあたりを見てみた。畳にはまだ住職の体から流れ出た血溜まりが少し残っていた。机上にあったはずの位牌や紫布等は証拠品として持ち帰られていた。
「そう言えば・・」と幸一は思い出した。

ここへ来た時に一度だけ、本尊の掃除を手伝った事がある。本尊の裏手を掃除していた時、鎮座している台の下には人が入れるほどの小さな扉があり、興味本位に入ろうとしたが、住職に見咎められたのだった。

「ひょっとしたら、隠し部屋かもしれない。」と直感し、本尊の裏手に廻ってみた。
警察もこの存在には気づかなかったようで、そのままになっていた。
扉を開くと一畳ほどの部屋になっていた。机代わりになっていた葛篭(つづら)を開けてみると、一部が焼け焦げている写真や衣類、折れ曲がった万年筆等が収められている。
幸一は、これらが、あの玉谷家の焼け跡から住職が拾い集めた思い出の品である事は容易に想像できた。きっと、住職はこれらを眺めては、幸せだった時代を思い出し、悲運に陥れた人々への復讐を誓っていたのだろう。
その中に、3通の新しい封筒があった。いずれも封は切られている。
その中の一つを開いてみて幸一は驚いた。
便箋には、「復讐の時は来たれり。穂の若き命の果てる時、長き怨みを解き放つべし」と書かれていた。
もう1枚も開いてみた。「城崩れるも、まだ怨み消えず。古き船、海の藻屑へならしめん。」とあった。
最後の1通には、「君が使命。古き穂は身を朽ちて、船の錨は海底へ、濁りし水は泡と帰すべし。」とあった。
3通とも、肉筆ではなく、すべて新聞の切り抜き文字が貼り付けられ。作られていた。
一連の事故と事件を、すべて例えた短文であり、住職へ向けて作られたものではないかと思われた。

「部屋を荒らした人物はきっとこれを探していたのだろう。」
幸一はそう考え、その手紙を持って、小部屋に戻った。

本当に主を失った寺に、幸一は独りだった。
多くの命が奪われ、悲しい運命を知り、そしてまた事件の真相が暴かれていない事を思い返した。身体は疲れていたが、安らかに眠る事など、到底出来そうになかった。

7-1.港 [峠◇第1部]

翌朝、日の出とともに、剛一郎の捜索が再開された。
幸一は、怜子の様子が気がかりで、玉水水産に向かっていった。四方橋を過ぎたところで、タバコ屋のヨシさんに呼び止められた。
「あんた、和美ちゃんの息子だって?」
誰に聞いたのだろう、昨日初めて明かした事であるが既にヨシさんは知っていた。
幸一が、「ええ」と小さく返事をすると、ヨシさんは、
「和美ちゃんはまっすぐな良い娘じゃったよ。まさか、生きていたとは・・良かった。良かった。」と一人、納得して話した。
「ありがとうございます。」と短く礼を言って立ち去ろうとしたが、ヨシさんは、
「と言う事は、怜子と兄妹になるのかのう。まあ、これからは仲良く暮らすとええ。」と言った。兄妹という言葉が幸一の胸に痛かった。

港に着いたとき、怜子はすでに来ていて、捜索隊の本部になっている漁協の事務所の前に、力なく座っていた。その様子から、まだ、新しい発見の情報などは入っていないのは明らかだった。
幸一が来たのを見つけ、怜子は、少し戸惑った表情をしながら、
「ご住職、いや、玉谷順平が自殺したって聞いたけど・・」
と、父の捜索の話より先に、昨晩の住職自殺の件を訊いてきた。
「ああ、帰ったときにはすでに亡くなっていたんだ。」と幸一は答えた。
「そう。」とだけ怜子は答え、次の言葉が出なかった。
幸一が、「捜索の状況は?」と訊いたが「まだ何も」と怜子は短く答えるだけだった。
二人は、その後は、黙ったまま、捜索の様子を伺うだけだった。

一方で、昨日、住職が司の殺害を話した事を受けて、大久保海岸でも、遺体捜索が行われていた。隠れ道を知っている駐在が案内役となり、大久保海岸に向かっていた。
捜索本部に「捜索中の、須藤司と見られる遺体を発見。現在、引き上げ作業中。」との無線連絡があった。しばらくして、「引き揚げ作業中、新たな遺体発見。玉水剛一郎と思われる。」と再度無線交信があった。

港から捜索艇が現場に向かうことになり、警察官が怜子のところにやってきた。
「これからご遺体の収容を行います。ご家族の確認をお願いしたい。」と怜子に要請した。
怜子は卒倒しそうになった。幸一が支え、現場には自分も同行したいと告げ、怜子とともに捜索艇に乗り込んだ。怜子は、昨夜から泣き通しているのだろう。すっかり憔悴してしまっていた。揺れる船の中で、幸一は怜子の肩を抱いていた。

大久保海岸には船着場がない為、現場近くまでは行けなかった。
発見したのは地元の漁師で、ダボと呼ばれる深みに、司は縄で縛られ重石が結ばれ溺死した事と、剛一郎の遺体は、重石から伸びた縄に絡みついた状態だったという。
船に遺体が上げられた。二人とも溺死だというのに、表情は柔らかかった。まるで、死ぬことで自分の犯した罪を償い、安堵したかのようだった。
怜子は、遺体を父だと確認すると、力なくその場に座り込み、幸一の腕にしがみつき、泣き崩れた。
二人の遺体は、死因特定のために司法解剖される事となり、警察が運んで行った。
捜索の喧騒が去り、また、静かな玉浦の海に戻った。

怜子と幸一は、波止場の先端のコンクリート段に並んで腰掛け、遠くの海を眺めていた。
怜子がようやく正気を取り戻したように、
「これで全て終わったのね。」と言った。ここ数日の悪夢のような出来事の終焉を迎えたと安堵したようだった。深い悲しみを抱えたままではあるが、もうこれ以上の悲しみは生まれない。そう思っていた。
しかし、幸一は、「本当にこれで終わりだろうか?」と口にした。

7-2.操り糸 [峠◇第1部]

幸一の一言に、怜子は背筋が寒くなる思いがした。
もうすべて終わってほしいと願い、これまで起こった事はすべて夢物語にしてしまいたかった。

「どうして?こんな事がまだ続くって言うの?」と怜子。
「ああ、そんな気がするんだ。」
と幸一はそう言って、昨夜、寺へ帰ったときの様子を怜子に話した。
「僕が、寺には着いた時、まだ、明かりが灯っていたんだ。不思議に思って、本堂に入ってみると、血まみれで住職が横たわっていた。咽喉を切られ出血がひどかった。そして、すぐ脇には、武井さんが気絶していた。武井さんはいきなり殴られ気を失ったと言っていた。住職が肉親の弔いがしたいから寺に寄ってくれと頼んだのを聞き入れてたらしいんだ。」
「じゃあ、やっぱり、住職は自殺したということになるんじゃないの?」
「うん、武井さんの話ではそういうことになるんだ。」と幸一は答え、更に続けた。
「でもね、僕の部屋が物色された痕があったんだ。確かに誰かが寺の中で何かを探していたようなんだ。」と幸一。
「警察が、遺書とかを探して散らかしたわけじゃないの?」
「いや、警察が来る前に、そうなっていたんだよ。それに・・」
と幸一は、ジーンズのポケットから、3通の封筒を取り出して怜子に渡した。
「これは、昨夜、本尊の裏手の隠し部屋で見つけたんだ。中を見てごらん。」と幸一が促した。
封をあけ、中の便箋を取り出し、怜子が目を通した。

【復讐の時は来たれり。穂の若き命の果てる時、長き怨みを解き放つべし】

怜子の顔色が青くなった。そして震えながら、
「これって、昭の事故のことを指しているのよね。」と怜子は幸一に確認した。
「そうなんだ。そして、昭の事故をきっかけにして復讐を始めようという意味にとれるよね。」

2通目を開いて
【城崩れるも、まだ怨み消えず。古き船、海の藻屑へならしめん】
「これは、祐介の転落事故と、啓二の船の沈没事故のことなのね。」「そうだね。」

3通目を開いて
【君が使命。古き穂は身を朽ちて、船の錨は海底へ、濁りし水は泡と帰すべし】
「これが、玉城の叔父様と啓二のお父さん、そして私のお父さんの事なのね。」
「そうなんだ。それも、事故が起きてからじゃなく、その前に住職に暗示・・いや、指令を出すような意味合いを持っているように感じるんだ」と、昨晩、いろいろと考えた挙句の答えを話した。

「そう考えると、一連の事故や事件の引き金を引いた人物が別に居ると言う事になるんだ。」と幸一。さらに、
「そして、その人物が住職を殺害したと言う可能性も・・」と続けた。
幸一の話を聞いていた怜子が、
「ねえ、おかしいわ。ここには私の事が出ていない」と言った。
「そうなんだ。怜子のことが出ていない。きっと、怜子だけはもともと殺すつもりはなかったんだ。だから、怜子を崖から突き落としたのは偶発的な事だったと思う。」と幸一が言った。
「あの時、幸一さんが見つけてくれなかったらどうなっていたか。それに・・・」と怜子は、あの夜の事を思い出し口に仕掛けたが、急に口を閉ざした。

その様子を察して幸一が
「きっと、この手紙の主は、怜子が玉谷家の和美さんの娘だと知っていたと言う事かもしれない。だからね。昭くんや祐介、啓二を襲ったのは、住職ではないと思うんだ。」と推理した。
「でも、祭りの事故に関わった人たちは皆亡くなったわけだし、火事の事だって・・・」と怜子が否定した。
「そうなんだ。でも、確かにこの手紙は存在する。これまでの復讐劇を操ってきた人物が居るはずなんだ・・」と幸一は苦悩しながら言う。
怜子もしばらくその手紙を開いたまま、考え込んでいた。
そして、何かひらめいたように
「ねえ、にしきやのおかあさんは何か知らないかしら?皆、もともと、玉元一族だったわけだし、あのお母さん、この村の生まれで何でも知ってるから・・」と言った。
二人はにしきやへ向かうことにした。

7-3.古い手帳 [峠◇第1部]

3.古い手帳
あいにく、にしきやの女主人は不在らしく、和夫が店番をしていた。事故や事件が立て続けに起きたせいで、村の人たちはひっそりとしていて、店番といっても、ただそこに居るだけだった。

「おお、怜子ちゃん・・」と言ったきり、和夫は言葉が出なかった。
昨日までの話の中身を母親から聞いていたのである。
そんな様子を見た怜子は、
「私は大丈夫よ。」と心配をかけないよう、気丈に振舞って見せ、「ねえ、おば様は?」と訊いた。
「ああ、今、タバコ屋に行ってるみたい。じきに帰ってくるんじゃないかな。」と和夫が答えた。そして、
「なあ、ちょっと見せたいものがあるんだけど・・・」と言って、自分の部屋へ案内した。

部屋に入ると、和夫は机の引き出しから、1冊の古い手帳を取り出して、幸一に渡した。
「じいちゃんの手帳なんだ。この前、お袋には話を聞けなかったから、その代わりに、昔、じいちゃんがいろいろ調べ物をしていたのを思い出して、何か無いかと探していた時に見つけたんだ。」
和夫は、あまり嬉しくない口調で説明した。
「お爺様って、確か、郷土史家でいらして、この村の歴史とか、遺跡とか、探してらしたわね。」と怜子。
「郷土史家なんて自分で名乗っていただけさ。それよりもこの手帳さ。」
と言って、幸一に古い手帳を渡した。
「中は見たのかい?」と幸一が尋ねると、和夫は、
「途中まではね。玉祖神社の由来とか、玉城、玉穂、玉水、玉谷が元は玉元一族だったこととかが書いてある。」と答えた。
「剛一郎さんも、岬で確かそういう話をしていたね。」
と幸一は、怜子に訊いた。
怜子は急に思い出したように悲しい表情になり、こくりとうなずいただけだった。
「だけどさ、その後に、今、俺んちが玉元を名乗っていて、4つの家の本家だとわかったところまでは良かったんだけどさ。・・・実は、祖先が、本家の名前を勝手に名乗って、本家づらをしていた事も書いてあるんだ。それが判って、何だか、恥ずかしくてさ。なかなか言えなかったんだ。」
「そんなの昔話でしょ。」と怜子が和夫の様子を察して慰めるように言った。
「たしか、・・剛一郎さん・・・の話では、にしきやが本家だから、絶えてしまった玉谷家の墓を貰い受けるという理由をつけて、勝手に墓を壊したと言う事も言ってたね。」と幸一。剛一郎の話を極力しないようにしていたが、やむを得ない。怜子はそういう幸一の態度を感じて
「お父様の事は気にしないで。元は全てお父様の罪なんだから・・」と言った。

幸一は手帳を捲りながら、急に、
「確かに、ところどころ読み取れないところはあるけれど、そう書いてある。」と言った。
そして、何ページかの白紙の後に、また、走り書きのような文字が並んでいた。幸一は、これを読みながら、
「これはなんだい?後ろのほうは日記みたいになっているじゃないか。」と言った。
にしきやの先代の主人が残した手帳は、当時の様子を断片的に記していた。
何枚かページを捲ると、「玉谷家火事」という走り書きがあった。そこには、こう記してあった。

『玉谷家、火事。一家死亡。当日、剛一郎が玉谷家借金、肩代わりの申し出あり。事の次第を改めるべく、玉谷家へ行く。当主は玉水との縁組を強く否定。予てからのとおり、玉谷家娘を、わが養女とし、玉元家が一族の本筋となる事、改めて了解する。然るに、村駐在が突然立ち入り、横槍を入れる。彼は正気を失い、暴挙に及び、当主と妻を危める。吾も、命危なき様、逃げ帰る。出火は、村駐在によるものと推察する。』

ゆっくりと読み終わると、3人は顔を見合わせた。
岬で剛一郎が話した事にはなかった、新たな事実だった。
これが本当なら、一連の事故と事件を操ってきたのは、当時の村駐在、武井という事になる。そして、住職は自殺ではなく、武井に殺害された事にもなる。

しばらく沈黙のあと、怜子が切り出した。
「これって、あの武井さんのことよね・・」
「まさか、あの人が・・・」 和夫はつぶやく。
「いや、武井さんなら、住職を殺す事はできたはず。村駐在だった事は確かだし、祭の事故や火事の件にこだわっていた事も理解できる。きっと、一連の事故と事件は、武井さんの復讐劇だったんだ。」と幸一が整理した。
「ねえ、そうすると、幸一さんが言うように、まだ終わっていないって言う事なの?」と怜子。
「そうだ。一連の事件は、すべて住職の罪になっているわけだが、万一、何処からか別の証拠が出てこないとも限らない。武井さんは証拠になるものをすべてなくさないといけないと考えているはず。」と幸一。
「残った証拠って、手帳や手紙はここにあるわけだし、証拠といえるかどうかも判らないじゃない。」と怜子。
和夫は小さくつぶやく。
「なあ、祐介や啓二は、事故の時、犯人の顔を見てないかな?」
そう聞いた幸一は
「祐介や啓二が危ない!」と立ち上がった。

3人は病院へ急いだ。
武井は警察官だ。祐介や啓二の意識が回復して、一連の事故の聞き取りだと称して、病室に入り込むことは可能である。これまでの事件を見ても、巧妙に事故に見せかける方法くらい思いつくだろう。せっかく取り留めた命、間に合って欲しいと願い、病院へ急いだ。

7-4.間一髪 [峠◇第1部]

「こんにちは、容体はいかがですか?」
祐介の母が、病棟の洗面所に向かう廊下で声をかけられた。
「あら、武井さん。ええ、少し良くなってきているようで、今朝も目を開けている時間が長くなっていて・・・」
「それは良かった。ご主人の件では、我々の捜査が後手に廻ってしまって、申し訳ないと思っています。もう少し、注意していれば・・」
武井がそこまで言うと、祐介の母は、
「あの人が犯した罪を聞き、当然の報いを受けたと考えようと思っています。」と気丈に答えた。そして、
「祐介は、あと少しで回復します。そうなれば、玉城の家を守る事もできますから・・」と続けた。
「申しわけないんですが、祐介さんに事故の状況をお伺いしたいんですが・・これも仕事で・」
と武井は頭を下げながら訊いた。
「朝方は良かったんですが、今は、また意識がはっきりしないようで、お話はできないと思います。」
「そうですか。お話できるようになったら、ご連絡ください。」と言い残して立ち去った。

それから、武井は、エレベーターの方に向かっていった。

しばらくして、幸一たちが病院に到着した。急いで、祐介の病室に向かう。
「おば様、祐介さんは大丈夫?」
と怜子は病室のドアを開くなり、言った。
「どうしたの、血相を変えて。祐介はまだ眠っているわよ。今朝は一度目を開けたんだけど・・」
安らかな寝顔の祐介を見て、3人とも安心した。
「ねえ、おば様。武井さんは来なかった?」と怜子が訊いた。
「ええ、今しがた、お見えになって祐介の様子を聞かれたわ。話せるようになったら連絡をと言ってらしたわ。」
「それから?」幸一が矢継ぎ早に訊く。
「え?その後はすぐに帰られたんじゃないかしら?・・エレベーターホールの方へ行かれたから・・」
「しまった!啓二の部屋だ。」と幸一。
それを聞いて、ドアの外にいた和夫が廊下を走り出した。
祐介の病室は2階にあり、帰るならエスカレーターの方が便利なのだ。啓二の部屋は6階にある。そこへ向かったに違いなかった。
「間に合ってくれ!」
和夫は心の中で叫びながら、部屋へ急いだ。エレベーターを待っている余裕はなかった。
階段を一気に駆け上がった。
啓二には、身寄りのものがなかった。
病室には誰もいないが、念のために、警察官が1人ドアの外に待機している。だが、武井なら簡単に病室に入れるはずである。
6階についた。階段口で、和夫は、「えーと、右だっけ左だっけ・・。」と迷いながら、右へ駆けた。突き当たりに警察官が立っている。
一目散に向かったが、警察官に制止され、入れてくれと問答していると、幸一と怜子が追いついた。
隙を突いて、怜子が部屋の中に飛び込んだ。

武井が、抵抗する啓二を押さえつけていた。口には塗れタオルが詰め込まれていた。
「やめて!武井さん!もうやめて!」
怜子が大声で叫んだ。
その声に驚いて、武井の動きが一瞬と止まった。そこへ、幸一が飛び込んできて、武井ともみ合いになった。
和夫と警察官もほぼ同時に部屋に入ってきた。もみ合っている二人を、警察官が取り押さえる。和夫も上から圧し掛かった。
「一体、どうしたんですか?武井さん。」
息を切らしながら、警察官が問う。
「いや・・・なんでもない。大丈夫だ。君は外に出ていてくれ。」
と武井が言うと、不承知の顔ながら、廊下に出て行った。
怜子は、啓二の口からタオルを引き抜き、様子を見た。
啓二は、救助されてから日が浅く、まだ体力が回復していないが、意識ははっきりしていた。
小さな声で「大丈夫だ」と言った。
無事な様子を見て、3人はほっとした。そして
「武井さん、もう全て話してくださいますね。」
と幸一が言うと、武井はこくりと頷いた。
「ここではなんだから、ケンの喫茶店にいきましょう。」と怜子が提案し、4人は向かった。

7-5.自供 [峠◇第1部]

ケンの喫茶店に着くと、いつもの奥のテーブルに座った。
怜子がケンに、簡単に事情を話すと、ケンは、店先の看板に『本日貸切』の札をかけ、ドアの鍵を閉めた。
「コーヒーでも入れるか。」とケンが言い、店内にコーヒー豆の香りが漂った。

「武井さん、一連の事故と事件、全貌を話してくださいますね。」と幸一が切り出した。
武井は大きなため息を一つついて、
「すまなかった。きっと、君なら気づくだろうとは思っていたが・・本当にすまなかった。」と言った。
その言葉を聞いて、怜子が、
「どうしてこんな事を・・・」と尋ねた。
「見知らぬ青年が村に来た事を、タバコ屋のヨシさんから聞いた。あの夏のようにね。そして、娘と仲良くなりそうだとも聞いた。まるで、26年前の不幸な出来事と同じだと感じてね。今こそ、復讐する時だと思ったんだ。」

幸一は、3通の手紙を取り出した。
「この手紙は、武井さんが作ったものですね。そして、住職に届けたんですね。」
「ああ、1通目は、昭の事故の後に、長年の恨みを晴らす時が来たと知らせるために、私が作って、届けた。」

「昭君の事故も、武井さんが仕組んだ事ですか?」と幸一が尋ねる。
「あれは偶然の事故だった。市場を偶然通りかかった時、楽しそうに話している君達の姿を見た。私もしばらく、市場の隅のほうで飲んでいたんだよ。」
「あそこに居たんだ。」
和夫が少し驚いた様子で反応した。
「夜中近くになって、皆、帰り始めた。昭が君を送って行くからと言っているのを聞いたんだ。私は、幸一君に興味があって、あの後、玉林寺に歩いて向かったんだ。四方橋のところまで来たら、ちょうど、幸一君を寺の前で下ろしたところだった。少し酔っていたからなのか、昭は、私が歩いているのを見つけて驚いたんだろう。急ハンドルを切って、川へ転落したんだ。」
「それで?」とケンがコーヒーを運びながら訊いた。
「川の流れは緩かったから、昭は、すぐに、運転席を開けて飛び出してきた。そして土手を上がろうとしていた。その様子をみて悪魔がささやいた。この事故をきっかけに、復讐を始めようとね。川から上がろうとするところを近くの石で頭を殴りつけたら、そのまま、気絶した。私は昭を抱えて、運転席に座らせた。徐々に社内には水が入ってきて、川の中に沈んでいった。沈んで行く昭を見て、すまない事をしたと思った。でもこれで後には戻れないと決心した。」
「その後、この手紙を住職に?」と幸一。
「そうだ。だが、あいつは動かなかった。」と武井。
「住職が玉谷家の息子だといつ知ったんですか?」と幸一。
「私は、祭の事故は殺人事件だと思って調べつづけていた。そして、順平が生きている事を掴んだ。足取りを探しつづけて、ようやく、香林寺の宿坊にいる事がわかった。そこで、玉林寺の住職をお願いできないかと相談したんだ。」
「じゃあ、玉林寺に住職で来るのも武井さんが・・・」、和夫が割り込んだ。
「そうだ。以前から、香林寺の住職とは懇意にしていたから、雑作ないことだった。」
「祐介さんの事故も、あなたなんですね。」と幸一が話を事故に戻す。
「ああ、あの日、大久保海岸に朝早く出掛けた。司に話を聞くためにね。その足で、祐介の畑に行った。隠れ道のことは、祐介は知らなかった。入口に隠れ、祐介を待った。毎日畑に来る事は判っていた。草刈作業をしていると、音がうるさくて廻りには気づかない。そこを後から襲った。気を失ったので、運搬機に乗せ、エンジンをかけて谷底へ突き落とした。」と武井は説明した。
「そこへ僕が現れたと言う事でしたか・・」
「そうだ。私は慌てて、隠れ道の中へ身を潜めてまったんだ。」
「そう言えば、住職が倉庫のところで祐介君のお父さんと話をしていたのですが・・」
「多分、住職も復讐をはじめるために動き始めたところだったんだろう。ひょっとしたら、あの日、祐志を殺すつもりだったかもしれない。」
「啓二さんの船の事故は?」と怜子が訊いた。
「君達が、大久保海岸に向かう途中推理したとおりだ。前の日に、夜のうちに、船に忍び込んで、ガソリン缶を隠しておいた。」
「でもどうやって?」怜子が続けて訊いた。
「住職と会った時、幸一君の様子をそれとなく聞いた。そして、夕食を作っていると言ったので、それなら、ここの名物の太刀魚を出したらどうだ、啓二の獲ってくる太刀魚なら絶品だと勧めた。案の定、住職は啓二に頼んだ。啓二は翌朝には出漁するはずで、夜中の内に船に忍び込んでおいた。」
「そこまでして啓二に・・・」話を聞いていた和夫が悔しげに言った。
「ガソリン缶を持って船に潜んで、波止場を出たところで、啓二を縄で縛って、沖合いまで連れて行った。船中に、ガソリンを撒いて火をつけた。思いのほか火が強くてね。あっという間に船は燃えてしまったよ。」
「祭の事故は、親父達がやった事じゃないか。昭や啓二や祐介には関係ない!なのに、何故?」
と和夫が悔しさが納まらずに詰め寄った。
「そうだ。関係ない。だが、あいつらは、私の大事なものを奪ったんだ。だから、私もあいつらの大事なものを奪う事で復讐しようと考えた。」
冷徹な目をして武井は話した。
「まさか、玉穂忠之氏も武井さんが?」と幸一が思い出したように尋ねる。昭の父、忠之も数年前交通事故で亡くなっている。
「そうだ。祭の事故の真相を聞き出そうと、酒が好きな忠之を誘っては飲みに行って、少しずつ話を聞いた。剛一郎が全ての首謀者だとわかった時、忠之を殺す事を考えた。泥酔させて事故を起させたんだ。」
「すでに、復讐は始まっていたと言うわけですか・・」幸一は残念そうに言った。

「ねえ、私を突き落としたのも、武井さんなの?」と思い出したように怜子が尋ねる。
「ああ、ちょうど、啓二を殺った後、救命胴衣のおかげで岸まで辿り付けた。そして、見つからないよう崖伝いに登っていって、何とか、岬の上に着いた。濡れたまま村の中を歩けないので、しばらく、岬の隠れ道に身を潜めていた。そうしているうちに、君が岬に現れた。急に、剛一郎への復讐の思いが高まって、これはチャンスだと思った。気づかれないよう近づいて、後から突き落とした。だが、すぐに幸一君がやってきた。海に落ちた事を確認できなかったと言うわけだ。」
武井の言葉を聞いて、怜子は、身震いするほど、あの時の恐怖が沸いてきた。あの窪地がなかったら、今ごろ、どうなっていたか、考えるだけでも怖くなった。

「ご住職を殺したのもあなたですね。」幸一は尋ねた。
「ああ、剛一郎への復讐が終われば、あいつの役割は終わる。昭たちの事故は自分じゃないと自白されたときのことを考えて、予め、殺すつもりだった。なにしろ、あいつが東京の大学へ行ったことが全ての不幸の始まりだったんだからな。」
と、住職-順平-に対して、最も強い憎しみを持っているのがよくわかった。

そこまで話したところで、山本巡査長-駐在-がケンの喫茶店に到着した。怜子が、病院から連絡をしており、数人の刑事らしき人物と一緒だった。

7-6.恋慕 [峠◇第1部]


「武井さん、本当なんですか?」
山本巡査長は、狐につままれたような顔をして、喫茶店に入るなり、訊いてきた。
その後に、2人の刑事が立っている。いずれも、武井の後輩で、戸惑いの表情を見せている。

「今、ひととおり、この一連の事件の経緯を話してもらったところなんです。間違いありません。」
と幸一は、駐在の方に向かって伝えた。そして、武井に向かい直って、
「武井さん、まだ、疑問があるんです。話してもらえますね。」と言った。
武井は、幸一の疑問が何かわかっているような顔で、こくりと頷いた。そして、冷めてしまったコーヒーを一気に飲んだ。

「火事の事だろう。そうだ。玉谷家の火事は、私が火をつけた。」
皆、武井の言葉に唖然としていた。
「あの日、玉谷家には剛一郎が来て縁談の話をしていた。そして、すぐ後に、にしきやが来て借金の取り立てをしたり、養子縁組の話をしたり、和美を弄ぶようなことばかりだった。当時は、駐在所が玉谷家の近くにあったから、すべてわかっていた。」
当時、村の駐在署は、峠道を少し村に入ったあたりにあって、村を出入する人を察知したり、村を様子を一望できる場所に建っていた。関所のような感じであったらしい。元々、古くは玉谷家の仕事であったが、近代になり、警官が置かれたのだった。
「二度目に、にしきやの主人が来た時、もう私は怒りを抑えきれなくて、玉谷家へ飛んで行ったんだ。予想通り、にしきやの主人は、和美と養子縁組するという話を両親としていた。かーっと頭に来て、にしきやの主人を殺してやろうという衝動が湧いた。・・・・・気が付くと、包丁を手にしていた。玉谷の奥さんが、やめなさいと止めに入った時、持っていた包丁が胸に突き刺さった。にしきやの主人は、それを見て、慌てて逃げていったよ。その後、玉谷のご主人も刺した。殆ど抵抗しなかった。それから、土間にあった灯油を撒いたところで、剛一郎がやってきた。私は、とっさに火をつけて隠れた。後は、剛一郎が話したとおりだよ。」
「なんて酷いことを。どうしてそこまであなたがしなければならなかったんですか。」
幸一は訊いた。
「それは、和美への想いだよ。私は、警官になって、村の駐在でやってきたばかりの頃、当時、まだ中学生になったばかりの和美を見た。暗い峠道が怖くて困っていた。家まで送ってやった。それから、学校帰りには必ず駐在所に立ち寄っては、学校の事、友だちの事、いろんな話をしてくれるようになった。中学校を卒業し、高校に入り、どんどん大人になっていく和美を見ていると、いつしか、自分の嫁にしたいと思うようになったんだ。」
武井は、昔を懐かしむように、思い出話をした。

「そうだよ。和美を嫁にしたいと思っていたのは、剛一郎だけじゃない。私だって、いや、私のほうがずっと和美を守ってきたんだ。なのに、剛一郎達は・・・。それに、順平も、自分勝手に東京に出て行って、・・・健一なんて奴を紹介しやがって・・・みんなで、和美の人生を踏みにじって・・・だから、全て、許せなかった。平和で何もない村なのに、皆、口を閉ざして、都合の悪い事には目をつぶって・・・だから・・・だから・・」
武井は、長年積み重なってきた、和美への想いと同じくらい、いやそれ以上の深い恨みを一気に吐き出した。そして、うなだれたまま、動こうとはしなかった。
皆、一通りの話を聞き、武井の抱えていた和美への恋心と村への憎しみの深さを理解し、それ以上、何もいえなかった。
しばらく沈黙が続いたが、
「武井さん、あとは詳しく署の方で伺います。ご同行願います。」
1人の刑事がそう言って立ち上がった。山本巡査長が促すように武井の肩に触れると、武井は、そのまま椅子から崩れ落ちた。
「武井さん!武井さん!」呼んでも返事がなかった。
武井は、喫茶店に入ってから、何か毒物を飲んでいたらしく、すでに絶命していた。


8-1.温もり [峠◇第1部]


ケンの喫茶店は、武井の自殺によって、しばらく封鎖されてしまった。
幸一や怜子たちは一通りの事情聴取を受け、夜には解放された。
「なあ、せっかく、町に居るんだから、どこかで飲んでいかないか?」とケンが誘った。
和夫はすぐに同調したが、幸一と怜子はそんな気分ではなかった。
幸一は、疲れているからと誘いを断り、寺に戻ると言った。怜子も、家に帰りたいと言った。
大通りでタクシーを拾って、玉浦へ戻る事にした。

タクシーに乗り込んでも、しばらくは、無言だった。
過ぎ行く町の明かりが途切れ、暗い田舎道になり、やがて峠が見えてきた。
そこでようやく怜子が口を開いた。
「幸一さん、これからどうするの?」
幸一はすぐには答えられず、少し考えてから、
「村に来た目的も果たせたし、寺に留まることもできない。近いうちに名古屋へ戻ろうと思う。」
怜子は、夜の予定を訊いたつもりだったが、幸一から、村を離れるという答えが返ってきて戸惑った。
「そう」とだけ答えて、車の外へ視線を向けた。
峠道に入った。怜子はもう少し幸一と一緒に居たいと思い、峠を下りきったところで、急に
「運転手さん、すみません。停めてください。」と言った。

二人は、タクシーを降りた。夜風が涼しく感じられる季節になってきていた。真夏の蝉のシャワーから、草むらからの涼しげな音色に変わっている。
「ねえ、少し歩きましょう。」と怜子が切り出した。
「そうだね。夜風も気持ちいいし・・」と幸一は返した。
二人は四方橋に向かっていた。
「ねえ、お母さんの事、おしえて?」と、怜子が出来るだけ明るく訊いた。
「そうだね。君のお母さんなんだからね。」と幸一は、返してから続けた。
「すごく働き者だったよ。僕が、朝、目覚めるともう仕事をしていた。父が始めた居酒屋を一緒にやっていたからね。朝から仕込み、店を開けるのは夕方、常連も多くって、夜中までやっていたよ。母は、美人だったから、もててたみたいだね。特に、父が亡くなってからは、未亡人って事で、ほとんど男性客だった。でも、どんなに言い寄られても、すぐ「お父ちゃんに怒られるよー」って逃げてた。とにかく、働き者で明るくてね。」
「そう。ここでの悲しい境遇とは正反対みたいね。」と怜子。
「でもないさ。時々、夜中にうなされてたんだ。記憶を失っているはずなんだが、うなされた日の朝は、別人みたいになっていた。何も出来ず、ただ、蹲って動けないんだ。時々、うなされている時にね、『私の赤ちゃん・・私の赤ちゃん・・』てうわ言で言ってたのを聞いたことがある。僕の事だと思って、『僕ならここだよ』って言ってたけどね。今思うと、きっと、怜子の事を探してたんだね。」と幸一。
ふと、怜子の顔を見ると、はらはらと涙を流している。
母を知らずに生きてきた怜子にとって、幸一の話は,自分の存在がより確かに、玉谷家の人間にしていくのだった。
幸一は急に立ち止まった。そして、怜子の後ろに回って、やさしく包み込むように抱きしめた。
怜子は、少し驚いたが、温かい幸一の腕に身を任せた。幸一が怜子の耳元で、
「僕が辛い時、母はいつもこうやって抱きしめてくれたんだ。そして、こう言った。『顔を上げなさい。下を向いてちゃ、先は見えない。どんなに、泣いていても顔を上げて前を見るんだ。』ってね。」
幸一は精一杯の想いで怜子を抱きしめた。そして、母の言葉を伝える事で、二人が兄妹であり、お互い抱いている恋心は、兄妹愛に変えていかなければならない事を伝えたかった。
怜子は、幸一に抱かれながらも、まるで、母に抱かれているように心の中が溶けていくように感じていた。そしてまた、はらはらと涙が零れてきた。ただ、悲しいのではない。今まで味わった事のない、安らかな感触に、ここ数日積もっていた悲しみや辛さが全て溶けていくように感じていた。
二人は、月の光に照らされながら、四方橋の袂でしばらく動かなかった。

浜から、車が1台走ってきた。ライトに照らされた二人は、そっと離れた。
二人の前で車が止まった。
「お嬢さん!心配しましたよ。」
運転していたのは、玉水水産の営業部長の史郎だった。一連の事故の最中でも、彼は忠実に仕事をやっていたようだった。
「さあ、帰りましょう。会社の人間は、皆、心配してます。さあ、乗って下さい。」
と怜子を連れ帰ろうとした。あまりの無粋さに、怜子も仕方なく、帰ることにした。
「それじゃあ、幸一さん。・・」と怜子。
明日の約束をしたいと思ったが、言い出せず、史郎に、車の後席に押し込まれたようになった。
史郎は、幸一には目もくれず、運転席に座ったかと思うとさっさと車を出してしまった。
走り去る車の後姿を見ながら、幸一は、「これでよかったんだ」と思っていた。