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アスカケ第4部瀬戸の大海 ブログトップ
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3節-1 友、現る [アスカケ第4部瀬戸の大海]

第3節 東国への道
1. 友、現る
カケルはアスカと伴に、熱田津の里へ戻った。
王やイクナヒコは、今しばらく勝山で過ごされよと勧めたが、カケルは、アスカとの約束を果たしたいと言い、東国へ向かうことを決意した。
カケルはもう迷いなど無かった。アスカと伴に生きる事こそが、自らのアスカケだと心に決め、東国に居るというアスカの父との対面を果たしたいと考えていた。
熱田津では、クニヒコをはじめ、里の者、東国の男たちが喜んで迎えてくれた。
春、咲き誇っていた桃の木には、見事に実が生っていた。
「カケル様、見てください、この畑を。我ら、里の者たちに教わり、手入れをしてきました。もはや、剣など持たずとも良い。私はここで畑を作り生きる事にしました。」
東国の兵だった男達は、借りた畑を見事に作り、もはや、里の者と伴に生きていた。
数日、熱田津の里で過ごし、いよいよ東国へ向かおうと決めた日、一艘の大船が浜に姿を現した。
また、兵が攻めてきたのかと男達は構えたが、舳先に立つ男の姿をカケルは見つけ、急いで浜へ駆け出した。
「ギョク様!」
「おお、カケル様!」
大船は、来島一族のものだった。大船から、小舟が降ろされ、砂浜へ乗り上げると、ギョクが一目散にカケルの許へ走ってきた。
「皆様はお元気ですか?」
カケルが訊く。
「はい、皆、息災です。兄者も、小舟で島を渡り、東国の兵の様子を探り、幾つかの船を手に入れました。・・どうやら、東国の兵たちは皆引き揚げ始めているようです。」
「何かあったのでしょうか?」
「どうやら、東国の皇君が亡くなったそうで、おそらく、今頃、東国は次の皇君が立たれているのではないでしょうか?・・西国を従える命令も消え、皆、それぞれの里に戻ったようです。我らも、来島を取り戻しました。・・屋代島も熊毛も皆、静かに暮らせているはずです。」
「そうですか・・それは良かった。無益な戦も無くなったのですね。」
ギョクからの知らせに、カケルは安堵した。
浜には、クニヒコも顔を見せた。カケルが、ギョク達をクニヒコに紹介すると、クニヒコは、すぐに宴の支度を始めた。

カケルの仮住まいの前には、俄か作りの宴会場が設えられ、里の者も東国の兵だった男たちも分け隔てなく、集まり、来島からの来客を温かく迎えた。
ギョクを前に、クニヒコは、カケルとアスカが伊予の国のために尽力した事を話して聞かせた。ギョクも、カケルがアナト国の再生のために、どれほど力を尽くしたのかを話した。その度に、カケルは、「私一人の力ではない、皆が力を合わせたことでできたことだ」と答えた。
「カケル様、これから如何なさるおつもりですか?」
ギョクが訊くと、クニヒコも興味深くカケルを見た。
「東国へ向かおうと思います。」
カケルはそういうと、横に座っていたアスカの顔を見た。
「東国?・・ああ・・アスカ様の父上が居られるというお話でしたな?ならば、我らが、途中までお送りしましょう。もはや、東国の兵も居らず、東へ向かうのは容易い事。」
ギョクが答えた。それを聞きつけて、東国の兵だった男達がカケルの元へやって来た。
「カケル様、東国へ向かわれるのなら、こいつを連れて行ってやって下さい。・・われらは、明石の里の者。・・皆、明石へ戻りたいと思っておりますが、ようやくここでの暮らしに慣れましたゆえ、今しばらくここで暮らしたいと思います。ただ、こいつだけは里へ戻してやりたい。」
そういう男の脇には、身を縮めて座っていた若者が居る。
「名は、何と言うのだ?」
「はい・・ユキと申します。」
その声にカケルは驚いた。
「そなた、娘ではないか?何故、ここに居るのだ?」
その問いに、先ほどの男が答えた。
「こいつは、兄と二人で大船に乗り込んでおりまして、・・われらの飯炊きの仕事をしておりました。兄者は、途中、病で命を落としました。まだ、二十歳(はたち)にもならぬ娘です。里も恋しいはず。こいつを一緒に連れて行って下され。」
男は頭を下げる。それを聞いて、ギョクが訊いた。
「そなた、明石までの案内は出来るか?」
娘はこくりと頷いた。
「よかろう。我が船に乗り、明石まで案内してくれ。・・宜しいでしょう?カケル様。」
ギョクの言葉に、カケルは頷いた。アスカが、その娘の手を取り、
「良かったわね。伴に参りましょう。・・里には、父様、母様はいらっしゃるの?」
娘はその問いに、急に里が恋しくなったのか、涙を浮かべて答えた。
「私が里を出た時、母様は病を患っておりました。食うに困り、食い扶持を減らせればと、兄者とともに大船に乗りました。」
「あら、それは心配ね。・・では、早く戻り、母様に元気な顔を見せてあげましょう。」

翌日には、ギョクの船に乗り、カケル、アスカ、ユキは熱田津の里を後にした。浜には大勢の見送りの者たちが出てきていた。船はゆっくりと東へ向かった。

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3節-2 鞆の浦 [アスカケ第4部瀬戸の大海]

2.鞆の浦
ギョクの船は、来島一族の里を経由して、小島に沿って、吉備へ向かった。
潮の流れを使い、二日ほどの航海で、鞆の浦に到着した。
「ここらは、投間一族が治めている地です。我ら、来島一族とは昔から懇意にしております。」
鞆の浦は、港と呼ぶにふさわしい桟橋が幾つも作られており、狭い地に寄り添うように家屋も立ち並んでいる。大船が桟橋に着くと、早速、出迎えの男や女が集まってきた。
「これは、ギョク様ではないか?どうされたのか?」
集まった人の中に、一際大柄な男が進み出て、ギョクに声を掛けた。
ギョクは急ぎ、船を下りると、その男にここまでの経緯をひとしきり説明した。男は、何度か頷き、ちらちらとカケル達のほうへ視線を送って、時々、手を叩き喜んだ様子を見せる。すると、港に集まった人たちを手招きで集めた。
「九重の賢者、カケル様がこれから東国へ向かわれるそうだ。九重の平定だけでなく、アナト国や伊予国の再興、ひいては東国の兵を追い払うほどのご活躍をされたお方じゃ。今宵は、我が里にお泊りいただくことにする。皆の衆、粗相の無い様、しっかりお迎えされるが良かろう!」
その言葉に、皆、歓声を上げて喜んだ。
鞆の浦の港には、大きな館は無かったが、軒が繋がる長屋のような家屋が海を正面にした格好で建っていた。その一つに、カケルたちは招かれ、宴が始まった。
さきほど、カケルたちを迎えたのは、この港の頭と呼ばれる、イノクマという男だった。イノクマは、カケルの横に座り、九重からここまでの日々の話を聞かせてくれと言った。しかし、カケルの口は重く、ぼつぼつと話した。見かねたアスカが、伴に過ごした日々の様子を話した。ヒムカの国でタロヒコを倒した話、ヒムカの村々を回った話、邪馬台国復興の為の大戦、アナトの新王タマソの事、皆、熱心にアスカの話を聞き入った。アナトの話では、ギョクも加わった。自分が生まれ変われ、来島一族の未来を繋げたのもカケル様のおかげだと褒め称えた。皆、酒を飲み、同じ話を何度も何度も聞いて、楽しんだ。
「カケル様、東国へ向かわれるそうですね。」
イノクマが訊いた。
「はい・・アスカの父様がいらっしゃると聞き、お会いせねばと向かうところです。」
カケルが答えた。
「ならば、ここからは、我が一族がお送りしましょう。ギョク様は、この先不案内。難波までの海路は我らなら大丈夫です。・・ちょうど、難波でハガネや布を手に入れるために船を出す予定です。それにお乗り下さい。」
「ありがとうございます。しかし、途中、明石にも寄らねばなりません。」
「なあに、明石は潮待ちする場所、心配など要りません。」
「では、お願いします。」
夜も更けて、少しずつ人も減り、宴の席も静かになった。カケルとアスカは、用意された部屋に入った。
「疲れただろう。ゆっくり休もう。」
カケルは、アスカを労わる言葉を残して、横になるとすぐに眠ってしまった。
アスカは、カケルの寝顔を見ながら、宴の席でのカケルの様子を思い出していた。話を聞きたがる里の者を前に、重い口ぶりで、笑顔も少なかった。まだ、カケルの心の傷は完全には癒えていないのだと感じていた。アスカは、カケルに寄り沿い眠った。

翌朝、東国へ荷物を運ぶ船の準備が終わると、カケルとアスカ、ユキも乗り込んだ。
男達が二十人ほど乗り込んでいて、干物や米、稗、黍などを積んでいる。東国へ運び、ハガネや布地などと交換する為だった。
港には、鞆の浦の者やギョクたちが並び、船を見送った。
「難波まで向かいます。途中、明石にも寄りましょう。」
船の頭は、イノクマが務めている。

船は、港を出ると、目の前にある五色島と女島を一回りした。
「ここは我ら鞆の浦の守り神なのです。ほら、あそこに見えるのが有難き、五色の岩です。外海がどれほど荒れても、鞆の浦が穏やかなのは、あの御岩のお力によるものです。」
イノクマはそう言うと、島に向けて、酒の入った樽を投げ込み、深く頭を下げた。
「さあ、潮目が良いうちに進むぞ!さあ、漕ぎ出せ!」
男達は、船縁から櫂を伸ばし、力強く漕ぎ出した。
鏡のように光る海原。その先には点々と小さな島が並んでいた。順調に船は進んでいく。
カケルは、船尾で舵を切るイノクマの横に立ち、舟の行く先を見ていた。
アスカは、積まれた荷物に寄りかかって座り、頬を撫でる風の心地良さに酔っていた。時折、カモメが頭上を横切る。穏やかに船は進んでいく。

日が傾き始めると、船は岸辺に向かい、小さな浜に船を停めて夜を過ごした。
「ここは、津井の浜です。何とか、ここまでは、予定通りに参りました。この調子なら、あと二日も行けば明石に着けましょう。」
イノクマはカケルたちに言った。
男たちは船を降り、浜に上がると、焚き火を作り、夕餉を取る支度をした。支度ができると、カケルやアスカも浜に上がった。
浜には、小さな集落があり、イノクマが話をつけて、皆、浜にある小屋に分かれて休む事になった。

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3節-3 人身御供 [アスカケ第4部瀬戸の大海]

3.人身御供
ユキは、船の積荷の中にひと際大きな木箱が置かれているのが気になっていた。
航海の途中、人目を忍んでmそっと耳を当てると何か中で動いているような音がした。
浜での夕餉の後、一人の男が握り飯を持って船に乗りこんだのを見つけ、後をつけてみると、男は箱を開けて、握り飯を差し入れていた。そして、男が立ち去った後、そっと蓋を開けて驚いた。箱の中には、ユキと同じくらいの年恰好の娘が入っていた。手械・足枷をされ、動けないようだった。箱の中に居た娘は、暗闇の中、獣のような格好で握り飯を食べていたのだった。突然、蓋が開けられ、中の娘も驚いた様子だった。ユキは周りに人影が無い事を確認して、そっと、箱の中に入った。
「あなた、どうしてこんな所に閉じ込められているの?」
その娘は、今にも泣き出しそうな表情でユキを見た。
ユキはそっと肩を抱き、娘の話を聞いた。

ユキは、娘の手械を切り、足枷を外すと、外へ連れ出した。
「どこへ行くの?」
「大丈夫、私に任せて。」
ユキは娘を連れ、カケル達が休んでいる小屋へ向かった。小屋の前で、そっと声を掛ける。
「アスカ様・・話を聞いてもらいたい人がいるのです・・。」
アスカがそっと戸板を開けると、暗闇にユキが立っていた。
ユキは、切羽詰った表情だった。アスカは、こくりと頷くと、中に入れた。ユキの後ろから、木箱に閉じ込められていた娘も入ってきた。ユキは、部屋の中を見回し、カケルの姿を探した。カケルは囲炉裏端で横になっている。
「カケル様はもうお休みになられているのですね。」
ユキは、少し落胆した表情で、囁くように言った。アスカは、カケルを起こさぬよう、二人を部屋の隅に連れて行き、小さな声で話をした。
「どうしたの?」
「・・この娘は、ナダと云います。」
娘はぺこりと頭を下げた。
「私と同じように、東国から連れて来られたんです。さあ、アスカ様にお話して!」
ナダは、じっとアスカの顔を見つめ、思い詰めたように口を開く。
「私、・・私、生け贄にされるんです。」
生贄とは尋常ではない。神に命を奉げる儀式は、九重の村でも遥か昔に無くなり、昔語りの中で聞いたことはあったが、まだ、残っていたと知り、アスカは驚いた。
「そんな酷い!・・どういうことなの?・・それに東国からつれてこられたなんて・・。」
ナダは、アスカの言葉に、堪えていた涙が溢れてきて、何も言えなくなってしまった。
その様子を見たユキが代わりに答えた。
「この船が、無事に東国へ向かうには、この先の播磨の沖で、アヤカシに生け贄を奉げなければならないというのです。・・この先で、ナダ様は海へ投げ込まれるんです。」
「何と言う事。そんな馬鹿な話・・それに、何故、東国から?」
「ナダ様は、私同様、東国の兵の船に、飯炊き女として乗せられたのです。でも、東国の船は、この先で沈んでしまい、流れていたところを鞆の浦の漁師に拾われたんだそうです。」
「せっかく命を繋ぐ事が出来たというのに・・・生贄なんて・・・。」
アスカも娘の境遇に同情し、涙を零した。
「生贄など、止めさせなくてはいけない。」
囲炉裏端で眠っていたはずのカケルが、身を起こしてから、アスカたちの方を見て言った。
「カケル様!」
「凡その話は聞いていたよ。生贄など、九重の里でさえ、遠い昔に止めている。物の怪や荒神は、人身御供など欲しがらぬ。我らが勝手に考えたに過ぎないのだ。!」

「娘が逃げたぞ!探せ!まだ遠くには行っていないはずだ!」
小屋の外で、男達が走り回る足音が響いている。
「カケル様!」
外で、イノクマの声が響いた。カケルが戸を開けて外に出る。
「どうしたのですか?」
イノクマは、立っているカケルの肩越しに小屋の中を覗きこむようにしてから、ちらっとカケルの顔を見て、少し言いにくそうに訊いた。
「いや・・・その・・娘が一人、紛れ込んでいないかと思いまして・・。」
「娘?」
「いや・・東国まで送り届けるために連れて来たのですが・・逃げちまったようでね。・・」
イノクマはそう言いながら、さらに肩越しに小屋の中を覗いた。そして、部屋の隅で隠れるようにして座っている娘を見つけた。
「おお、いた!おい、ここに居たぞ!・・・さあ、出て来い。お前には大事なお役が待っているんだ。さあ、出て来い!」
イノクマは、カケルを押しのけ小屋に入ろうとした。しかし、カケルは手を広げ遮った。
「いや、ならぬ。娘は渡さぬ。」
カケルは厳しい目つきで、イノクマを睨んだ。

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3節-4 アヤカシ [アスカケ第4部瀬戸の大海]

4.アヤカシ
「あの娘を生け贄にするというのは本当か?」
カケルはイノクマを睨みつけたまま強い口調で問い質した。イノクマはカケルを睨み返したまま、
「ならば、何とする?娘一人の命で無事東国へ行けるのだ。留め立てするな!」
と反論した。二人はぐっと睨みあったまま動かない。
間に、アスカが入った。
「イノクマ様、事の次第をお聞かせ下さい。我らは何も聞いておりません。うら若き娘を海に投げ込むとは余りに非道ではありませぬか・・心が痛みます。どうか訳をお聞かせ下さい。」
アスカの必死の言葉に、イノクマはふうと息を吐き、
「ならば、お聞かせいたそう。」
そう言って、カケルたちの小屋へ入った。先ほどのイノクマの声に数人の男達が集まってきたが、イノクマが大丈夫だという手振りをして、皆を帰らせた。
イノクマは、囲炉裏端にどっかと腰を下ろした。カケルも向かい合って座った。
「我らとて、人身御供は忍びない。だが、皆を生かすためだ。判ってくだされ。」
イノクマがカケルの目を見て言った。
「アヤカシとは一体何なのです?」
アスカが横に座り訊いた。
「アヤカシとは・・海に棲む魔物。行き交う船を沈め、人を食うという。この先の播磨の海深くに潜み、霧が立ち昇ると、海の底から、娘を遣せという声が聞こえる。娘を差し出さず、逃げようとすると、大波と供に現れ、大きな腕で船を掴み、粉々にして乗っている者すべてを飲み込んでしまうというのだ。」
イノクマは、静かに話した。
「見た者は居るのですか?」
カケルが訊いた。イノクマは少し考えてから言った。
「長く、東国への船は出しておらぬ。だが、東国からやってきた船に乗っていた者が、目の前でアヤカシに飲み込まれる船を見たと申しておったのだ。あっという間に、跡形なく飲み込み深く潜って行ったという。」
イノクマは答えた。
「娘を遣せというのは?」
「別の船の者が言っておった。飯炊き女を船縁から突き落としたら、アヤカシは女を追って深く潜りそれで難を逃れたのだと・・・。」
「しかし・・・人身御供というのは人として許されざること。何としても避けねばなりません。」
「我らとて、アヤカシさえ現れなければ、そのような非道をしたいなどとは思わぬ。・・明日、空が晴れ上がればそのような事をせずとも良いはず。万一のために連れて来たのだ。」
イノクマはちらりとナダを見た。
「ナダは、俺があの五色岩の磯で見つけ、助け上げた。東国の船がどこかで沈み、流れてきたらしい。何とか息をしておったので、介抱した。俺とて、ナダを生け贄にするのは・・。」
イノクマは唇を噛み締めそう言うと、再びナダを見た。その目は、先ほどとは違い、憂いを湛えていて、苦渋の決断だった事を伺わせた。
「里の娘を人身御供にする事は里の者が赦さぬ事・・だから、ナダにその役を・・・俺も迷ったのだ。できれば、俺がアヤカシに命を取られても・・だが、それでは船は無事には通れぬだろう。許してくれ、ナダ。そなたを粗末に考えたわけではないのだ。・・」
イノクマは、そう言うと大粒の涙を零した。カケルは、全てを悟ったように答えた。
「判りました。・・明日、アヤカシが現れたなら、私が戦います。魔物は退治せねばなりません。」
「それはいかん。あなた方を無事、東国までお連れするのがギョクとの約束。万一の事があれば来島一族へ顔向けができぬ。」
「いや・・・アヤカシと戦わず、ナダ様の命を奉げ、我らだけ生き残ることこそ許されぬ事です。それに、命を落とすとは限りません。」
「しかし・・・。」
「イノクマ様、アヤカシの話、他に何か聞いていませんか?」
カケルの問いにイノクマは頭をかしげ、考え込んだ。
部屋の隅で怯えて蹲っていたナダが、口を開いた。
「私の・・・私の乗っていた東国の船も・・アヤカシに沈められたのです。」
アスカやユキは驚いてナダを見た。
「アヤカシは、海を命を落とした者の御霊が、天に昇れず、海の底に沈み、長い年月の間に、魔物に姿を変えたと聞きました。夜な夜な、兵たちが話しておりました。・・・それと・・・アヤカシが現れる前には、妖しげな灯りが海の上に並ぶそうです。・・・私の乗っていた船も、その灯りを見つけて、大騒ぎとなり、急に動けなくなってしまいました。それから、しばらくして、船底が割れて、あっという間にアヤカシに沈められました。・・・でも・・娘を遣せという声は聞こえませんでした。」
カケルは、ナダの話を聞いて、何か考えが浮かんだようだった。
「イノクマ様、これはおそらく、アヤカシだけではなさそうです。」
「どういう事です?」
「はっきりとは判りませんが、腑に落ちぬ事ばかりです。それほど怖れる事はないのかもしれません。・・イノクマ様、私にお任せ下さい。アヤカシを退治せねば、この先、ナダ様のような悲しい娘をたくさん作ってしまいます。何とか、我らで退治いたしましょう。」
カケルの言葉をイノクマは半信半疑で聞いていたが、退治せねばならぬというカケルの強い思いは自分とて同じだと感じ、一縷の望みを託そうと考えた。

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3節-5 魔物の正体 [アスカケ第4部瀬戸の大海]

5.魔物の正体
 翌日、東へ向かう強い潮の流れに乗って、船は出発した。空は晴れ上がり、アヤカシが現れるような気配は無く、東へ舟は進んで行った。
「このまま小豆島(あずきしま)まで辿りつければ、アヤカシも現れぬはずだ。」
イノクマは行く手の島々の様子を眺めながら船を進める。この辺りには小さな島があちこちにあり、無人島も幾つかある。潮を読み違えると、岩礁に乗り上げる難所であった。
目の前に、二つ並んだ島が見えた。
「あれは、オギ、メギと呼ばれる島だ。あそこを越えれば、小豆島まで僅か。もう安心だろう。」
イノクマがそう言ったところで、空模様が怪しくなってきた。西の方から黒雲が広がり始め、あっという間に、辺りが薄暗くなってきた。ぽつぽつと雨粒が落ち始めた。
船の男達は、アヤカシの話は承知しており、異変を感じて身構えた。イノクマも、周囲に目を配り、怪しげな灯りが無い事を確認していた。急に北からの風が強くなり始めた。
「風に流されるぞ!しっかり漕げ!」
イノクマは声を掛けた。だが、徐々に波が高くなり始め、潮の流れも変わり、一気に流され始めた。目の前に見えた二つの島ももはやどこに行ったのか判らなくなった。そのうち、船の周りに渦が捲き始めて、いくら濃いでも前に進めなくなり、同じところをぐるぐると回り始めた。
「アヤカシが出るのか?」
カケルは、船縁でじっと海の様子を伺う。アスカやユキ、ナダは積荷の間にじっと息を潜めて隠れている。そのうちに、波が船縁を越えて船の中へ入るほどに高くなってきた。
「あれは!」
イノクマが指差した。前方に、ぼんやりと灯りが浮かんでいる。カケルは灯りを睨んだ。四つほど並んでいる。船の中では漕ぎ手の男達が騒ぎ始めた。
「アヤカシだ!アヤカシが来るぞ!」「娘だ!娘を海へ放り出せ!」
アスカは、ナダとユキを必死に抱きしめている。
ぼこぼこぼこっと海面に大きな泡が上がった。次に、どす黒くぬるぬるとした太い塊が飛び出してきて、船の脇を掠めた。海面から大きな波飛沫が上がった。
カケルはすっくと立ち上がり、剣を抜いた。剣は、これまでに見たこともないような強い光を発し、辺りを照らした。再び、海面から太い塊が伸びてきた。カケルはその塊をえいっとばかり、切りつける。どさっとその一部が船の中に落ちてきた。それを見てイノクマが叫んだ。
「オオダコだ、アヤカシの正体はオオダコだぞ!」
船の中に切り落とされたものは、顔ほどの吸盤を持ったオオダコの足だった。まだうねうねと動いている。カケルは、一気に帆柱へ登った。見下ろすと、船の真下あたりに黒い塊が居るのが見えた。
「いかん、このままでは船ごと引きずり込まれる!」
カケルはそういうと、帆柱から一気に飛び上がり、海面に飛び込んだ。
「カケル様!」
イノクマが叫ぶ。
海中に飛び込んだカケルの目の前には、どす黒いオオダコが蠢いていた。
カケルは、オオダコに取り付くと、剣を突き刺す。痛みのせいか、オオダコは海面に顔を出した。そして、取り付いているカケルの体に足を伸ばす。カケルは、迫るオオダコの足を剣で斬る。しかし、蛸の足は次々にカケルに襲い掛かる。
「船を進めよ!・・オオダコから逃れるのだ!」
カケルは、剣でオオダコと格闘しながら、イノクマに叫ぶ。
「しかし・・・」
「時が無い。急げ!船を進めるのだ!私に構うな!」
「カケル様!・・・・よし、者共、一気に漕げ!オオダコから離れるのだ!」
イノクマは、男達に号令した。
カケルとオオダコが戦う様を見ながら、船はオオダコから離れて行く。
アスカが船縁からカケルの姿を追う。アスカはぐっと首飾りを握り締めた。すると、カケルの剣に呼応したように、強い光を発し始めた。そして、アスカの体を包み込む。
アスカはふわりと宙に浮き、船から離れ、カケルとオオダコの居る場所近くまで進む。すぐ脇に、小さな岩礁が海面から顔を見せていて、アスカはそこに降り立った。
アスカは、首飾りを高く掲げ、一心に祈った。すると、辺りの海面から白くぼんやりとした光の塊がふわりふわりと浮かび上がってくる。そして、その光の塊が、格闘しているカケルとオオダコを取り包み始める。アスカは必死に祈る。首飾りの光もオオダコを捕える。よく見ると、光の塊がオオダコを締め付け、足の動きを止めようとしている。
「カケル様!足の真ん中に急所があります!」
遠ざかったはずの船から、ナダの声が聞こえた。
光の塊がナダの必死の叫びを運んできたのだった。
カケルは、大きく息を吸い込むと、海面に潜り、海中にあるオオダコの足を手繰りながら、その真ん中を目指した。吸盤が襲い掛かるたびに、剣で突き刺し、足の付け根にたどり着くと、オオダコの口が見えた。黒い牙が交互にかみ合い、飲まれれば一瞬で命を絶たれる凶暴なものだった。
カケルは力を振り絞り、剣を構え、その口、めがけて飛び込んだ。一瞬、オオダコの体が縮んだ。そして次の瞬間、口から内臓やスミを吐き出した。
カケルは、その勢いに推され、一気に海面に吹き上げられ、近くにあった岩礁に打ち付けられ、気を失ってしまった。
アスカはまだ必死に祈っている。白い塊は徐々にオオダコから離れ、ゆっくりとアスカの頭上を旋回した。そこへ、雲の割れ目から日の光が差し込み、白い光は光の筋に導かれるように、空高く昇っていった。

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3節-6 妖火の船 [アスカケ第4部瀬戸の大海]

6.妖火の船
辺りは鎮まり、薄日が差し始めると、先ほど船を襲ったオオダコが静かに海面に浮かび、動かなくなっているのが見えた。もう大丈夫だと判り、船は、岩礁に横たわっているカケルの元へ急いだ。すっかり気を失っていたが、岩礁の隙間に、袖が引っかかり何とか潮に流されずに浮いていた。イノクマたちは、櫂を伸ばしてカケルの体を引き寄せ、船に引っ張り上げた。
そして、海面に浮かび動かなくなっているオオダコを櫂で突いてみた。すっかり死んでしまったのか、全く反応はなかった。船を襲ってきた時は山ほどの大きさだったはずだが、死んだ姿はわずか人の背丈ほどの大きさでしかなかった。
「アスカ様、今、参ります。」
岩礁の上で座り込んでいるアスカに声を掛けた。
アスカは必死に祈り、力を使い果たしてしまったのか、朦朧としているようだった。
「急げ!アスカ様をお助けするのだ!」
船は、カケルを乗せて、アスカの許へ向かった。先ほど少し差し込んできた日の光は、再び、黒い雲で隠れてしまった。風は無いが、何か湿った、ねっとりと体にまとわり付くような空気を感じる。船の男たちも何か嫌な感じがして、辺りを見回している。
「あ、あそこ!」
ナダが指さした先には、先ほど見えた妖火だった。
海の上にゆらりゆらりと浮かんで燃えているようにも見える。その火が徐々に近づいてくる。すると、岩礁に座り込んでいたアスカの体が、ふわりと浮かんだ。そして、船べりに立つ男たちの目の前をすーっと通り過ぎ、妖火のほうへ近づいていく。妖火がアスカを呼び寄せているように見えた。
「アスカ様!」
アスカの目からは、妖火と同じ色の光を発し、何かに取り憑かれているかのようだった。
カケルが目を覚ました。オオダコに吹き飛ばされた拍子に、岩礁に強く打ち付けられ、背中からは血が流れている。男たちに抱き起こされたカケルは、尋常ではない様子で目の前を通り過ぎるアスカを見た。
「アスカ!」
カケルは、妖火をぐっと睨む。妖火の中に何か動いているのが見えた。
『娘は貰った』
海の中なのか、空からなのか、何処から響いてくるのか判らぬ方向から、低い声が聞こえる。
カケルは、肩を借りて立ち上がる。
「船だ!あそこに怪しき船がいる!」
カケルが指さす。イノクマたちも妖火の揺れる場所をじっと見つめる。わずかに、その陰がわかる程度だが、確かに船だった。船の周りを青白い炎がゆらゆらと漂っている。
「妖術を使う者が居るに違いない。」
イノクマたちは、怪しげな光に震え上がった。
「剣はどこだ?」
カケルは海を見て、剣を探している。
「その体で、どうしようって言うんです?」
とイノクマが慌ててカケルを支えた。
「アスカを取り戻す。剣を・・剣を探してくれ!」
男たちはカケルの声に我に戻り、辺りの海を一緒に探した。
「あれ!・・あそこに!」
ナダが、オオダコに突き刺さっている剣を見つけた。カケルの剣はオオダコを突き刺したままだった。すぐに船が向かう。オオダコから剣を抜こうとするが、男たちの力では抜けない。イノクマに支えられたカケルが、「どいてくれ」と言い、剣に手を伸ばす。すると、剣から緑の光が溢れ出した。まるで自ら意志を持っているように、剣はゆっくりとオオダコの体から抜け落ち、カケルの手に収まった。
カケルは剣を構える。そして、静かに目を閉じると、
「我に力を!天の神、地の神、海の神、我に力を!」
と唱えた。黒雲が蠢き、雷鳴が轟く。次第に、光は強くなり、一気に天に昇った。それに呼応するように、更に大きく雷鳴が轟くと、どーんという轟音と供に稲妻が落ち、辺りは一瞬真っ白になった。
「グルルルルーッ、グワーッ!」
皆が目を開くと、目の前には獣人に変化したカケルの姿があった。初めて見る異様な姿に、皆、声が出なかった。
獣人カケルは、剣を構えると、妖火をぐっと睨む。そして、空高く雄叫びを上げると、強く船を蹴り飛び上がった。すると、カケルもアスカ同様、宙に浮かび、まっすぐに妖火に向かって進んでいく。カケルは、剣を真っ直ぐ妖火に向けた。何か、妖火から黒い影が飛んでくる。口を大きく開き牙を向いた髑髏が、黒い襤褸布のような衣服に身を包み、カケルに襲い掛かってくる。しかし、真っ直ぐ翳した剣から出る緑の光に、黒い髑髏は一瞬にして消えてしまうのだった。
カケルは、真っ直ぐ真っ直ぐ、妖火が揺れる船に向かい飛んでいくと、すっくと船の上に降り立った。
船は、幽霊船である。朽ち果てた甲板、あちこちに穴が開き、藤壺のような貝があちこちに渦高く張り付いている。まるで海底から浮かび上がってきたようだった。
「アスカ!アスカ!・・アスカ、何処だ?」
カケルは、甲板の上に立ち、アスカの姿を探した。

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3節-7 魔物 [アスカケ第4部瀬戸の大海]

7.魔物
妖しい火がゆらりゆらりと揺れる。まだ昼間のはずだが、辺りはまるで真夜中のように暗い。
イノクマたちの船のほうを見ても、真っ暗で何も見えない。
「ここは・・結界の中か!・・・黄泉への道を開いたのか!」
カケルは、剣を大きく振り払う。その度に、緑の光が辺りに広がり、朽ち果てた船体が一瞬姿を現した。足元には、かすかに波が寄せているが、音も無く、ただそこに見えるだけである。
船を取り巻いていた妖火が徐々にカケルを取り囲むように迫ってくる。
その中に、真っ赤な光を放つ目を持った、腕が八本も伸びた、蟹のようなおどろおどろしい魔物がうごめいているのが見えた。
体には、幾つもの海藻を生やしている。頭だけはかろうじて人のようであった。
「お前がこの結界を作っているのか!」
『おのれは人か?獣か?・・物の怪の類か?』
口など無いその怪しげな魔物は、目の光でカケルの頭の中に語りかける。その言葉は、カケルの頭の中を突き刺すような痛みを発し、体を縛る。
「アスカを・・アスカを返せ!」
『わしを倒そうとでもいうのか??』
再び襲う痛みにカケルは転がりまわった。剣から徐々に緑の光が弱くなっていく。
獣人に変化したカケルでさえ、蟹のような魔物には歯が立たない。
カケルは頭を抱えながら、朽ちた船の中を転げまわった。

イノクマたちの乗った船は、妖火の揺れる幽霊船の近くまでどうにか漕ぎ着いた。外から見ると、怪しげに揺れる火の中で、カケルがのた打ち回っているのが見えるが、魔物の姿など見えない。
「カケル様はどうされたのだ!?」
イノクマ達はじっと目を凝らし、様子を伺っている。
「きっと・・魔物と戦っておられるのでしょう。・・何とかお助けできないでしょうか。」
ユキが言う。船に乗っていた男達は顔を見合わせた。何か出来る事はないのか。皆、船の中を見回した。
「矢を放て!銛を突け!・・そこいらにあるものを何でも良いから投げつけろ!」
イノクマはそう叫ぶと、弓を取り矢を放つ。だが、矢は妖火に燃やされ、届く前に海に落ちた。数本在った銛を投げたが、届きはしない。
「もっと、船を寄せろ!」
男達は必死に舟を漕ぐ。イノクマ達の船の上を黒い髑髏が揺れ動き、時折、船に襲い掛かってくる。必死に、剣を振り回し、防ぐ。

幽霊船の中では、カケルが必死に魔物と格闘していた。
「アスカは、アスカはどこだ!」
『ふん・・娘はすでにわしの腹の中だ。もはや、この世に戻る事はできぬぞ!』
魔物は、そう言うと、蟹の胴体のような部分をカケルの前に突き出し、ばあっと開いて見せた。そこには、漆黒の闇が広がる大きな穴が開いていた。その奥深くにキラリと光るものが見えた。
<あ・・あれはアスカの首飾り!>
カケルは、力を振り絞り立ち上がると、剣を構え、魔物の腹を目掛けて飛び込んだ。
『馬鹿な奴・・自ら飛び込むとは愚かな!』
魔物は、カケルを腹の中に飲み込むと大きく開いた腹を閉じる。

「あっ!カケル様のお姿が見えませぬ!」
じっと幽霊船の様子を見ていたナダが叫ぶ。襲い掛かる髑髏を避けながら、イノクマ達も幽霊船を見た。
「何とした事か!」
イノクマは、弓を投げ捨てた。

魔物の腹の中に飛び込んだカケルは、不思議な暗闇の中を落ちていた。時折、閃光が走る。その度に、これまで過ごしてきた日々の様子が目の前に広がっていた。時を遡るような感覚だった。
<これが、黄泉の国への道なのか?>
カケルは、そう考えながら、じっと落ちる先を見ると、キラリと光るものが目に入った。
「アスカ!アスカ!」
カケルが叫ぶと、声が響いた。
「カケル様!・・・カケル様!」
その声に応えるように、カケルの剣が再び緑の光を放ち始めた。暗闇の中を剣の光が照らし出すと、僅か先に、漂うようにアスカの姿が見えた。アスカが腕を伸ばす。カケルも腕を伸ばす。徐々に二人は近づき、ついに、その手が繋がった時だった。カケルの剣とアスカの首飾りが、これまでと違う真っ赤な光を発した。
『・・・う・・うぐ・・うううう・・おおおおーーーーー。』
蟹のような魔物が急に苦しみ始めた。すると、辺りを包んでいた暗闇から日の光が差し込み始め、徐々に明るさが戻ってきた。そして、幽霊船を取り巻いていた妖火がふっと消え、幽霊船の中の魔物の姿が見えた。
「あれは?!」
ナダが叫ぶと同時に、蟹の魔物はドーンという音とともに、一気に弾けて砕け散った。
中から光に包まれたカケルとアスカの姿が現れた。

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3節-8 小豆島(あずきしま) [アスカケ第4部瀬戸の大海]

8.小豆島(あずきしま)
晴れ上がった空から、燦燦と日の光が注いでいる。
幽霊船と思っていたものは、小さな岩礁が集まった島のようなところだった。
魔物が砕け散ったあとには、小さな蟹の死骸が散積していて、いずれも真っ黒に焼け、辺りには腐敗臭が漂っていた。
カケルとアスカは、その岩礁に抱き合うように倒れていた。カケルは元の姿に戻っていた。
「カケル様ー!アスカ様ー!」
イノクマがすぐに船を横付けし、男達が協力して、岩礁から二人を船に運んだ。力を使い果たしたのか、二人とも昏睡状態だった。
「一刻も早く陸へ行かねばならん!」
イノクマの声に男達も周囲に島は無いか目を皿にして探した。
「あ!あそこに島が!」
ナダが叫ぶ。なだらかな低い山が連なる大きな島影が見える。
「あれは、小豆島(あずきしま)に違いない。こんなところまで流されてきていたのか!よし、すぐに小豆島へ向かう。皆の者、力を込め漕ぐのだ!」
男達は必死に漕いだ。ユキは、カケルとアスカの脇で、声を掛け続ける。
「カケル様!アスカ様!しっかりしてください!」

小豆島は、船の往来には欠かせぬ島である。吉備から讃岐へ渡る航路上にあり、児嶋崎の激しい流れを避けて渡るには格好の場所にあった。東国と西海との航路上でも、明石を出た船が一息つく港にもなっていた。また、温暖な気候から、多くの作物が作られ、特に豆類の栽培も盛んで、多くの船がやってきて、荷を積んでいく。島には、四つの港が開け、それぞれが大きな里を作っていた。

カケルが魔物と戦った岩礁から、最も近くの港は、『土の庄』と呼ばれる南に開けた浜にあった。内海の庄には、多くの人々が暮らしている。イノクマは船が岸に着くと同時に、真っ直ぐ、家並みに向かって掛けた。そして、そこにいた者に取り急ぎ事情を話し、カケルたちを寝かせる家を提供してくれるよう頼み込んだ。すぐに、一軒の家が用意され、男達は急いでカケルとアスカを運び入れ、囲炉裏に火を起こした。
「どうすれば良いのだ!」
イノクマは、二人をどう介抱すべきか判らずにいた。ユキが言った。
「たくさん、お湯を沸かしましょう。お二人とも身体が冷え切っておいでです。たくさんのお湯に入れ温めましょう。」
「そうか・・よし。」
イノクマは慌てて表に飛び出して、男達に、薪を集めるように入った。そして、里の者に頼んで、大きな甕を手配した。そして、里の池から水を運び、大きな甕に入れ、湯を沸かしはじめた。そこへ、土の庄の頭がやってきた。
「あの魔物を倒したというのはまことか?」
イノヒコは、海で起きた一部始終を話した。
「我が里の漁師も、アヤカシに恐れ、近頃は漁にも出られず難儀をしていたのだ。それがまことなら、カケル様とアスカ様は我が里の救い主。必ず、お元気になってもらわねばならぬ。」
土の庄の頭は、里の者にも命じて、たくさんの湯を作らせた。
そして、巫女も呼び、祈祷もさせた。
カケルとアスカが横たわる家の前には、幾つもの火が焚かれ、湯が沸かされた。
船と里の男達が協力して、カケルを湯の中へ入れる。里の女たちとナダがアスカを湯に入れる。徐々に身体が温まり、二人とも確かに息を吹き返したようだった。しかし、目を覚まさない。

三日ほどで、カケルが先に目を覚ました。
「ここはどこだ?」
カケルの声に、傍にいたユキが気付き、そっと手を握り言った。
「ここは、小豆島、土の庄でございます。・・良かった、ようやく気が付かれましたね。」
ナダはすぐに表に出て、様子を見守っていた者たちにカケルが目覚めた事を告げた。家の周りには、歓声が広がり、中には涙を流し喜ぶ者も居た。
イノクマもすぐに家に入って、カケルの回復を確認した。
「アスカは?」
「隣で眠っておられます。まだ、目覚められませぬ。」
ナダが、アスカの顔をそっと拭き様子を伝えた。カケルは、イノクマに身体を起こしてもらい、アスカの様子を確認した。そして、ふっと溜息をついて言った。
「アスカは、黄泉の国に一度足を踏み入れた。あの魔物の腹には黄泉の国への道が開いていたのだ。何とか身体は取り戻す事はできたが・・まだ、御霊が戻れぬのかも知れぬ。」
カケルは祈るような想いでアスカの顔を見つめた。
「呼び戻す策はないのか?」
イノクマが訊ねる。カケルにも判らなかった。土の庄の頭もカケルの元へやって来た。
「おお・・良かった、気が付かれましたな・・・あの魔物を退治くださったとは・・貴方様は、我が庄の守り神じゃ。・・礼を申します。」
頭はそう言って、深く頭を下げ、魔物退治の様子を聞きたいと言った。カケルは魔物の様子を思い出しながらゆっくりと話した。一通り話を聞いたあと、頭はじっと眼を閉じ、深く溜息をついて、目覚める気配の無いアスカを詫びるような視線で見つめた。

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3節-9 黄泉の国 [アスカケ第4部瀬戸の大海]

9.黄泉の国
アスカの御霊は、黄泉の国の入口を漂っていた。足元には漆黒の闇が広がり、底は見えない。遥か上方がぼんやりと明るく、そちらへ向かうと出られるのだとは判るのだが、自らの意思では、どうにもならない状態だった。ただ、ふわふわと漂うだけ。次第にアスカの御霊自身も闇に染まり、自分が何者かわからなくなりそうだった。

頭は、カケルの話を聞き、決心したような表情で口を開いた。
「一昔前に起きた事がきっと魔物と関係があるはずです。庄の恥として、皆、口を噤むようにしておりますが、きっとアスカ様をお救いするお役に立てるでしょう。」
頭はそう前置きして、庄に伝わる悲しい話を始めた。

それは、まだ、東国と韓の国が行き来していた時代の事。
土の庄に、アミヒコという青年が居た。体も大きく力もあり、庄一番の働き者で、賢く、庄の者からも頼りにされていた。ある日、大きな韓船が、土の庄の港へ立ち寄った。韓船には、韓の国の将とその一族が乗っていて、東国の皇君へ挨拶に向かう途中、嵐に遭い、船を傷めて修理のために、立ち寄ったのだった。
船の修理には、アミヒコが庄の若い衆を率いて協力した。船の痛みは大きく、修理にはひと月近く掛かった。毎日のようにアミヒコは船の修理に励んだ。
船には、韓の将の娘も乗っていた。毎日顔を合わせるうちに、アミヒコと娘は仲良くなった。ある月夜の晩、娘はアミヒコを船に呼び、娘の部屋で懇ろとなってしまった。韓の将は、二人の仲を知ると、大いに怒り、アミヒコを捕え縛り上げると、土の庄の頭の前に突き出した。
「我が娘は、東国の皇君の皇子と婚礼のために連れて参った。だが、こやつが娘を誑かし、あろうことか、辱めた。皇君へどう詫びればよいか判らぬほどの罪である。この男は土の庄の者。ここに住む一族の罪でもある。さあ、どうやって罪を償うつもりだ!」
韓の庄は、強い口調で頭に迫った。
頭や若い衆は、アミヒコだけが一方的に責められるのは筋違いだと反論したが、当の娘が『アミヒコに無理やり、辱められた』と真っ赤な嘘を言ったために、終に、アミヒコが罪人とされた。
アミヒコは覚悟した。だが、韓国の将は、ただ殺すのでは気が済まぬと言い、アミヒコを縄で縛り、沖に浮かぶ小さな岩礁へ置き去りにし、飢えと乾きに苦しみながら殺す事を思いついた。
韓国の将は、土の庄の者を使い、沖にアミヒコを連れて行き、岩礁に縛り付けた。そして、アミヒコが息絶える様子を、土の庄の者に毎日、見に行かせたのである。
七日の後、飢えと乾きに苦しみながら、アミヒコは息絶えた。すると、大嵐とともに土の庄には大波が押し寄せ、庄の家々を飲み込み、多くの命が失われた。
修理を終えたばかりの韓国の船も、大波とともに浚われ、沈んでしまった。もちろん、船にいた韓国の将も、娘も、すべて暗い海の中に引きずり込まれ命を落としたのだった。

「おそらく、その魔物は、アミヒコの怨念が作り出したものに違いないだろう。」
土の庄の頭は、話の最後に溜息をつくように言った。
「しかし、なぜ、今になって現れたのでしょう。」
カケルは訊いた。
「わからぬ。我らはアミヒコの御霊を鎮めるため、あの岩礁には、祠を作り、毎年、酒と水、米を運び備えてきた。そして、巫女にも祈祷をさせておる。怨念が魔物を作らぬ様、縄を張り、結界も作っている。庄の者もたくさん死んだのだ。忘れることなく、弔う儀式をやって来たのだが・・・。」
カケルとイノクマは顔を見合わせた。そして、イノクマが言った。
「いや、あそこにはそのような祠も縄も無かったぞ。」
「では、祠が無くなってしまったというのか?」
頭は困った顔で言った。
「祠を作ったとしても、アミヒコ様の御霊はその場に留まったままだったのでしょう。おそらく、供養が足りぬのです。海に彷徨い、同じように彷徨う御霊を集め、あのような魔物になったに違いありません。今一度、その場に行き、御霊を天に帰さねば、再び魔物となって災いをもたらすに違いありません。」
「カケル様が退治されたのではなかったのか?」
イノクマが尋ねる。
カケルは首を横に振り、アスカを見つめて言った。
「アスカは、黄泉の入り口で彷徨える御霊を天に帰すために留まっているはずです。」
「では・・アスカ様は、まだ戦っておられるという事か!」
カケルはこくりと頷いた。
ユキがはっと思いついたように顔を上げた。
「・・昔、婆様に聞いたことがあります。・・黄泉の口で彷徨う御霊は、戻る場所が見つからないのだと・・・アミヒコ様は亡くなられた時、その亡骸は如何されたのでしょう?」
頭が悲しげに言う。
「アミヒコの亡骸は見つからなかった。大波に浚われ、海深く沈んでしまったのだろう。今更、見つけるなど出来ぬ事だ。」
カケルが急に思いついたように言った。
「あの場所に参りましょう。アスカも黄泉の口に居るなら、戻る場所・・アスカの身体が近くにあればきっと、無事に戻れるはずです。」

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3節-10 現世への道 [アスカケ第4部瀬戸の大海]

10. 現世への道
 頭はすぐに小船を用意し、漕ぎ手の男と、巫女を連れてきた。カケルとアスカは、戸板に乗せられて、庄の者たちが船へ運んだ。カケルは、アスカの体を包むように抱き、船の真ん中に座った。米と酒、水も積み込みすぐに沖の岩礁へ向かった。
 波は穏やかだった。目指す岩礁は、大岩が三つほど連なり、周囲に小さな岩が並んでいる。真ん中の大岩は、一畳ほどの平らな場所があった。おそらく、そこにアミヒコは縄で縛られたまま放置されたのだろうと想像できた。船を着けると、すぐに、頭が岩に乗り移った。巫女も岩に乗ると、真ん中に座り、すぐに祈祷を始めた。
「おお、あった。祠があったぞ。・・・おや?あれは何だ?」
頭が、岩と岩の間に挟まっていた祠を見つけ、取り上げた時、その下に白い塊が見えたのだ。茂る海藻の間に、ほんの少しだけ白い塊が顔を見せている。手を伸ばしたが届かない。それを見ていた漕ぎ手の男が、ざぶんと海に潜った。と、すぐに顔を海面に上げて叫んだ。
「髑髏・・髑髏が挟まっているぞ!」
それは、アミヒコの骨に違いなかった。
絶命し、大波と供に海中に運ばれたが、再び、岩礁に戻ってきたのだろう。祠が崩れたのをきっかけに、怨念が増幅したに違いなかった。
頭はそれを聞いて、すぐに海中に潜った。そして、男と二人で、拾えるだけの骨を集め、海面に顔を出した。
巫女は、その骨を受け取り、アミヒコが横たわっていた状態を思い浮かべ、きれいに並べた。
そして、その周りを水で清め、酒を撒き、米を備えた。巫女はいにしえの言葉で祈祷を始めた。頭と男は、後ろに控えてじっと祈りを聞いていた。カケルは船に乗ったまま、アスカの身体を抱きかかえてじっと様子を見ていた。

黄泉の口で漂っていた、アスカの御霊にも、巫女の祈祷の言葉が聞こえてきた。アスカの周りには深い闇が広がっていたが、それは、海で命を落とし彷徨う者の御霊が、怨念に変わった姿であった。アスカの御霊はその怨念にすっかり取り囲まれ、アスカ自身も染まりかけていたのだ。
巫女の声は、徐々に大きくなる。遥か、上の方にかすかに光が感じられた。アスカはその光に向かって必死に近づこうとあがいた。しかし、取り囲む怨念の闇が妨げる。

船の上でアスカの体を抱いていたカケルが、アスカの微かな変化に気付いた。アスカの白い指が微かに動き、眉間に皺を寄せ苦しんでいるようだった。
「頭様、アスカをその岩へ運んでください。」
カケルの頼みで、アスカの体を岩の上に運び、巫女の傍に横たえた。
「巫女様、アスカはきっと出口を探しております。祈祷の言葉をもっと強くお叫び下さい。」
カケルの言葉に、巫女は、声が枯れるほど大きな声で、一心不乱に祈祷を続けた。
アスカの体がぴくぴくと動いている。かけられた首飾りが僅かに光を放つも、弱弱しく感じられる。カケルは、力を振り絞り立ち上がり、アスカの脇に立つと、剣を抜いた。
そして、剣を天高く翳し、アスカの名を叫ぶ。剣から白い光が発した。すると、アスカの首飾りが呼応するように強い光を放った。

黄泉の口のアスカの御霊は、はるか上から強い光が降り注ぐのを確かに見た。
そしてカケルの呼ぶ声を聞いた。
降り注ぐ光は、黄泉の口の下に広がる闇へ差し込んでいく。
アスカの周りを取り巻いていた闇が、一瞬に色を変え、青白い光に変わった。重く取り巻いていた闇が白く変わると、急に、アスカの御霊は高く高く昇りはじめた。降り注ぐ光に向け、真っ直ぐ突き進んでいく。そして、目の前には眩い光の塊が・・・。

岩に横たわるアスカが、ハッと目を開けた。そして、ゆっくりと起き上がり、そのまま立ち上がった。巫女も頭も、カケルも驚き、様子を見つめた。
アスカは、かっと目と見開き、首飾りを高く掲げる。すると、首飾りから強い光が発し、空高く伸びていく。辺りの海面から、青白い光がぼつりぼつりと現れて、ふわふわと宙に浮く。そして、アスカの首飾りが発する光を辿るように、ぐるぐると渦になり、高く高く舞い上がっていく。
「これはどうしたことか!」
巫女が驚いた声を出した。
足元にきれいに並べたはずの、アミヒコの骨がさらさらと砂のように散っていく。そして、その白い砂はきらきらと光を浮かべている。そこへ、一陣の強い風が吹きつけて、全ての砂を高く舞い上げ、先ほどの青白い光と同じように、アスカの首飾りから発する光に導かれるように高く舞い上がって消えていった。
全てが終わると、アスカがその場に座り込んだ。すぐに、カケルが肩を抱くように庇う。
「アスカ、よく戻った。よく戻った。良かった・・良かった。・・」
カケルは涙を流し、アスカの体を強く抱きしめた。アスカも、細い腕をカケルの背に回し、強く抱きしめ、泣いた。

土の庄の浜には、イノクマ達が遠く沖を見て、成り行きを見守っていた。
岩礁がある辺りから、空高く一筋の光が伸び、その周りを多くの青白い光が昇っていくのが見えた。そして、最後につむじ風のように渦を巻き、きらきらと光る塊が昇っていくのを見た。

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3節-11 明石大門 [アスカケ第4部瀬戸の大海]

11.明石大門
 カケルとアスカの体力が回復するのを待って、七日ほど小豆島に滞在した後、イノクマは船を明石に向けて走らせた。
 丸一日の航海で、明石に到達した。
明石の港は、明石川の河口に開けた、これまで立ち寄った港の中でも最も大きかった。
ここから先には、明石大門と呼ばれる海峡があり、それを抜けると難波の国に入る。明石大門は、瀬戸の大海の中でも、もっとも潮流の激しいところで、満潮を迎えると難波に向けて強い流れが起こる。時にはその流れが大きな渦を起こし、小さな船は渦に捲かれて身動き取れなくなる場合も少なくなかった。したがって、ほとんど船は、この証の港に一旦停泊し、潮を流れを待つ事になるのだった。
港には幾つもの桟橋が伸びていて、港の周りにはたくさんの蔵も立てられている。西海の国から運ばれる、米や粟、黍、稗、干し肉は魚、あらゆる自然の産物がここにはあった。ここから、明石大門を抜けて、難波に運ばれ、東国の産物と取引される。東国では、綿や絹の織物、ハガネでできた鋤や鍬、鎌などが作られ、難波に運ばれる。難波は、そう下産物の取引を行なうための大きな市場であった。イノクマ達もここから難波に向け、そうした品々を手に入れるために、鞆の浦から船を出したのであった。
「ここまで来れば、難波はすぐ先。潮さえ良ければ明日にも難波に向かいましょう。」
イノクマは、桟橋に着けた船に立って、鳴門大門の方をを眺めながらそう言った。
「ユキ様ともここでお別れね。」
アスカはユキの髪を撫でながら、名残惜しそうにそう言った。ユキは、アスカの顔を見ながら、
「ここまで本当にありがとうございました。アスカ様、東国へ無事にお着きになれる事をお祈りしています。私の家は、港の外れのフチベというところです。ここからは一人で参ります。それでは・・」
ユキはそう言うと、船を降り、船の皆に深々と頭を下げると、踵を帰しで、一目散に里を目指して掛けて行った。ユキの姿は、すぐに、賑わう人に紛れ、見えなくなってしまった。
「ここは大きな里ですね。それにとても賑やかだ。皆、生き生きとしていて・・・」
カケルは、明石の里の様子を見ながら言った。
「ここを治める、オオヒコ様の人徳だな。・・ここを訪れる者を大事になさる。・・おそらく、すぐにも使者が参るだろう。」
イノクマがそう言うと、確かに、オオヒコの使者が桟橋に顔を見せた。そして、イノクマ達に、館へ顔を見せるように告げた。カケルとアスカも同行し、オオヒコの館へ向かった。
オオヒコの館は、港を見下ろせる高台にあり、石段を登りつめると、広い庭と大屋根を持つ建物が三つ建ち並んでいた。そして、その周囲には、居所となる長屋のような建物がぐるりと建っていた。オオヒコの館は、さらにその周囲にもあるようだった。
イノクマ達は、大屋根の建物の中へ案内された。そこには幾つもの柱が立ち並ぶ大広間があり、すでに、多くの者が座り、目の前に並んだ食事を食べていた。西海のあちこちから集まってきたのか、居並ぶものは皆、服装や髪型も違う。
「こうやって、港に着いた者に食事や酒を振舞い、労うのが、オオヒコ様の役目だそうです。」
イノクマも空いているところを見つけて座った。
カケルは不思議だった。つい先ごろには、西海は東国の兵達に怯え、ひもじい暮らしをしていたはずである。東国の兵が引き揚げたと聞いたが、この賑わいが俄かに生まれるはずもない。
「東国の兵たちは、ここを通らなかったのでしょうか?」
カケルの質問の意味は、イノクマには良く判っていた。
「東国の兵も、明石大門を通るしかありません。ここでは乱暴を働くと立ち寄れなくなります。そうなれば、海では生きていけない。戦が起きても、ここでは何も起きません。西海に住む者も、ここに辿りつけば、安堵できるのです。」
イノクマは目の前の酒をすでに随分飲んだようで、上機嫌で話した。そして、集まっている男達を見ていて、「おっ、あいつは!」というと目の前の酒の入った壷を抱えて、席を立った。
イノクマは知り合いを見つけたようで、男達の輪の中に座りこむと、酒を注ぎあい、談笑している。時折、カケルのほうを指差すと、周りの男達も振り返り、また歓声をあげ、騒いだ。
カケルは目の前に積み上げられるように並んだ様々な食べ物を見て、ふと疑問に思った。
『ユキは、喰うものに困り、船に乗ったと言っていたが、ここにはこれほど溢れている。港だけが潤い、周囲の者達はひもじい思いをしているのだろうか?』
宴の様相が活気を帯びてきた頃、広間の奥の扉がゆっくりと開いて、数人の男が、剣を手に現れると、列を成して道を作った。その間を、着飾った男が、姫を連れてゆっくりと現れた。
凛々しい風格で、煌びやかな衣装を身につけている。手にしている剣は、一際大きく、黄金の輝きを見せていた。ゆっくりと男は皆の前を歩いていく。そして、広間の一段高いところにある玉座に座った。隣の席には、ともに現れた姫も座った。姫は、男に負けぬほど煌びやかな衣装を身につけ、頭を高く高く結い上げている。目の周りには紅を塗り、強い眼差しで広間に集まっている男達を見つめた。
「あれが、ここを治めるオオヒコ様か?」
カケルが呟くと、いつ戻ってきたのか、隣の席にいたイノクマが言った。
「ああ、そうだ。数年前まではここは小さな入り江があるだけの寂しいところだったそうだ。・・だが、オオヒコ様が現れて、港を作り、このような賑わいにしたのだ。凄いお方よ。」
「現れた?」
「ああ、まだ、大陸と東国の船が盛んに行き来していた頃に、韓から来られたと聞いたがな。」
そこまで言うと、イノクマは酔いつぶれて、眠ってしまった。

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3節-12 オオヒコと奥方 [アスカケ第4部瀬戸の大海]

12. オオヒコと奥方
玉座に座っていたオオヒコに近寄り、何者かが耳打ちした。すると、オオヒコはその男に、何かを告げ、立ち上がると、奥の部屋に引き上げて行った。しばらくすると、カケルのもとへ、先ほどの男がやってきて、オオヒコの時と同じように、耳元で囁いた。
「我が主が、カケル様とお話したいと申しております。アスカ様とお二人で、どうか、主の部屋へおいで下さい。」
カケルは躊躇った。オオヒコと言う男がどういう人物か、判らない。もしも何か企みを持っているとすれば身が危ういかも知れぬ。すぐに返答できずにいた。その様子に気付いたのか、その男は、再び言った。
「ご心配には及びません。・・実は、主(あるじ)よりも奥方様が、興味をお持ちなのです。奥方様は、九重のお生まれ。長く戻られておらず、九重の様子を伺いたいと申しておられるのです。」
そう聞いて、カケルも承諾し、その男の後をついて、広間に繋がった廊下から、別棟にある主の館へ足を運んだ。
入口には屈強な男が二人、門番のごとく立っていた。案内した男が目で合図を送ると、門番が戸を開く。中には、小さな囲炉裏が設えらていて、その前に、オオヒコと奥方が座っていた。
先ほどの煌びやかな衣装を着替え、粗末な服装をしている。
「おお・・よく参られた。九重の賢者がお越しだと聞いて、何とかお話を伺いたくて・・かようなところにお呼び立てして申し訳ない。」
オオヒコはカケルの姿を見るとすぐに立ち上がり、手を広げて歓迎の挨拶をした。
「そちらが、アスカ様ですね?・・お美しいお方・・・東国へ向かわれるとか・・ご苦労な事です。さあ、こちらへ。」
奥方も立ち上がり、二人を迎えた。囲炉裏端に座ったカケルとアスカは、部屋の中を見回して違和感を覚えた。宴の席は、あらゆる贅を尽くした様相であったが、この部屋はかなり質素であった。その様子に、オオヒコが少し笑みを浮かべて言った。
「・・カケル様は、この部屋の侘しさに驚かれているようですな。」
「はい。先ほどの宴の席とは程遠く・・・主の部屋とは思えぬほど質素で・・・。」
「これが、明石の港の本来の姿なのです。」
「どういうことですか?」
オオヒコはカケルに酒を注ぎながら、続けた。
「遠くから旅をしてくる者にとっては、この港は安堵の場所。一夜でも疲れを癒せるよう、ああした宴を催しているのです。しかし、我が里は、貧しい。目の前を流れる明石川は度々氾濫し、農作物など僅かしか取れぬところ。周囲の里は皆ひもじい思いをしています。私は、少しでも里を豊かにしようと港を作り、物が集まる場所も作り、ようやく、形になったところなのです。まだまだ、周囲の民は苦しい暮らしをしているのです。」
ナダが喰うに困って東国の船に乗ったという事情がつながった。
「九重の様子をお聞かせ下さい。」
オオヒコの脇にいた奥方が、アスカに酒を勧めながら言った。
「奥方様は、九重の生まれとか・・・どちらですか?」
奥方は少し考えてから言った。
「那の津の生まれです。・・オオヒコ様が、韓船で東へ向かわれる時にお供したのです。」
懐かしい地名だった。
「那の津とは・・では、ハクタヒコ様をご存知ですか?」
「ええ・・・幼き頃、遊んでもらいました。・・ハクタヒコ様はお元気でしょうか?」
奥方は、嬉々とした表情でカケルに訊いた。
カケルは、ハクタヒコたちとともに葦野の里での事や邪馬台国の話をした。奥方は、カケルの話に一つ一つ頷き、時には涙を流し、聞いていた。

「小豆島の沖で、アヤカシを倒されたと聞きましたが・・まことですか?」
一通りカケルの話が終わったところで、オオヒコが訊いた。
「私一人で倒したのではありません。・・イノクマ様たちも力を合わせてやり遂げたのです。」
「そうですか・・これで、もっと多くの船が行き交う事ができましょう。我が港にも多くの船が集まるようになる。まこと、カケル様は救い主様じゃ。・・・何か、お礼をせねばなりませんな。」
オオヒコは上機嫌で、カケルに酒を注いだ。カケルは、ナダの事を思い出し、切り出した。
「オオヒコ様、この近くのフチベという里をご存知ですか?」
オオヒコは酒を注ぐ手を止め、カケルを見た。
「フチベ・・ですか・・・それが何か?」
「いえ・・伊予の国で東国の船に乗せられていた娘をここまで送り届けました。その娘は、食い扶持を減らす為に兵の船に乗ったと言っておりました。それほどに苦しい暮らしをしている里があると聞いて、私に何か出来る事はないものかと思案していたのです。」
オオヒコは、酒の壷を置くと、腕組みをして少し考えてから答えた。
「カケル様たちにはお話ししておいたほうが良いでしょう。」
そう言うと、ちらりと奥方の顔を見た。奥方もこくりと頷いた。
「元々、この里は、イワノミコトというお方が治めて居られました。長閑な小さな里が海辺にはたくさんありました。だが、先ほど言ったように、度重なる川の氾濫で、満足に作物が取れず難儀をしていたのです。私は、韓船でここまで参った折、ここの厳しい暮らしを見て、何とかせねばと思いました。それで、里の若者たちとともに、港を作る事を考えました。しかし、イワノミコトは、反対され、我らを捕え追放しようとされたのです。」
オオヒコは、そう言うと立ち上がり、着衣を肌蹴て見せた。

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3節-13 イワノミコト [アスカケ第4部瀬戸の大海]

13.イワノミコト
オオヒコの背中には、大きな傷があった。
「これは、その時に付けられたものです。牢に入れられ、幾度も幾度も鞭に打たれました。そして、その様子を里の者に見せるのです。惨い仕打ちを目の当たりにして、多くの者が離れていきました。」
奥方がそっと立ち上がり、オオヒコの背に着物をかけ、傷を隠した。
そして、その時の光景を思い出したように、涙ぐみながら、オオヒコの言葉を続けた。
「オオヒコ様は、それでも港を作る事を諦めようとはされませんでした。私も同様に鞭に打たれ、生死の境を彷徨いました。・・・それでも何とか生き長らえ、一旦、明石を離れて、機会を待ちました。」
奥方は、そう言うと、その場に泣き崩れてしまったのだった。
「・・その・・イワノミコト様は、何ゆえ、それほどまでに港を作る事を拒まれたのですか?」
カケルが問う。オオヒコは、奥方を支え起こしながら、答えた。
「私が、韓より参った者だからでしょう。この地を我が物にしようと企んでいるとでも思われたに違いありません。」
「その後に・・イワノミコト様はどうされたのですか?」
アスカが訊ねる。オオヒコは、ゆっくりと思い出すように答える。
「しばらくは、この地を治めておられましたが・・・。里の者達は、次第にイワノミコトを怖れるようになり、この一帯の里から人が居なくなり、廃墟同然となってしまいました。結局、この地を捨て、僅かな手勢とともに、川向の淵辺へ移り、亡くなったと聞いております。」
「では、その後に、オオヒコ様が港を?」
カケルが訊いた。
「はい。この地に残った僅かな者と力を合わせ、港作りに取り組みました。次第に、賑やかになり、多くの者が住む里となりました。しかし、淵辺に住む者達は、イワノミコトへの忠義からか、我らとは断絶したまま。おそらく、ここよりも貧しい暮らしをしているに違いないでしょう。」
「イワノミコト様が亡くなられたのなら、もう、良いのではないですか?」
カケルは、ナダの苦労を聞いているだけに、何とかできないかと思い訊いた。
「我らは、何も拒んではいません。何度か、使者を立てたこともあります。しかし、淵辺の一族は頑なに拒み、使者の話さえ聞こうとはせず・・・・我らもさほど余裕があるわけでもありません故、未だに手を携えることもままならぬのです。」
「オオヒコ様は、受けた傷を恨まれているわけではないのですね?」
「・・何を恨むことなど・・私こそ、もっとイワノミコト様と分かり合うべきであったと悔いておるのです。性急に事を進めようとせねば、もっと早く、豊かな里が作れたはずだと思っておるのです。」
カケルはじっと考え込み、意を決したように言った。
「私が使者として、淵辺へ行ってみます。何かのお役に立てるかもしれません。」
「しかし・・東国へ向かわれると・・・明日朝には船を出さねば、またしばらく動けません。・・それに、誰が使者となっても、おそらく淵辺の一族は拒むだけでしょう。」
オオヒコは反対した。
「いえ・・淵辺には、ユキと言う娘がおります。伊予からここまで伴に参りました。まずは、ユキに話を聞き、何か策が無いのか相談してきます。・・・アスカ、良いな?今しばらく、東国へ付くのが遅くなるが・・。」
アスカはそっと頷いた。

翌朝、イノクマは出立の支度をしていた。カケルはオオヒコと伴に、昨夜の話の一部始終を伝えた。イノクマは、困惑した。
「我らは、カケル様たちを難波にお送りする使命を果たしたい。だが、我が里へも、難波で品々を手に入れて戻らねばならぬ。これ以上、時が掛かれば、里の者達も困る。・・・」
「イノクマ様、ここまで本当にありがとうございました。ここからは、私とアスカの二人で参ります。陸路で行っても、難波まではもう僅かでしょう。大丈夫です。・・それに、ユキの里の様子が気がかりなのです。」
カケルはそう言うと、イノクマ達と、明石で別れる事にした。
日が昇ると、イノクマ達の船は、明石大門へ向けて出航していった。
「ご無事で東国へ到着できる事、祈っております!」
イノクマは、船縁から手を振りながら大きな声で言った。船縁には、ナダの姿もあった。笑顔で手を振っている。
「イノクマ様たちもご無事で!」
アスカが笑顔で見送った。

イノクマ達を明石の港で見送ると、オオヒコが小舟を用意していた。淵辺までの案内にと,翁が一人、櫓を持って待っていた。すぐに、カケルとアスカは、小舟に乗り、対岸に向かった。
「カケル様、何か考えがお在りなのですか?」
アスカが訊いた。
「いや・・今は何も・・・ただ、このままでは、再び、ユキのように身を捨てようと考える者が出るに違いない。・・いや、それよりも、明石と淵辺に諍いが起きるかも知れぬ。とにかく、ユキを見つけ、何か策が無いか考えたい。」
カケルはじっと対岸を見つめながら、自分に言い聞かせるように言った。
葦原が続く岸が近づく。その向こうに、小さな家屋が立ち並ぶ集落が見えた。

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3節-14 淵辺の里 [アスカケ第4部瀬戸の大海]

14.淵辺の里
「あれは、我が里、ハヤシと呼ばれる里じゃ。」
舟を漕ぐ翁が口を開いた。
「港におった人夫の多くは、この里から来ておる。ここは度重なる水害で、ほとんど畑作はできぬ。港が出来て、働き口も出来て、なんとか暮らせるようになったのじゃ。」
翁は岸に船を着けると、二人を降ろし、先を歩いて里まで案内した。背の低い松林を抜け、小さな家屋が立ち並ぶ集落に入ったが、閑散としていて人の姿は見えなかった。
「皆、港に出ておるのじゃ。さあ、淵辺まではすぐじゃ。」
集落を抜けると、一本道が西に延びていた。周囲は、葦の原と低い松がところどころに生えている。足元がぬかるむ。
「ここら一帯は、毎年のように水害にあう。ほとんどが湿地じゃ。そうそう、あそこに見える丘を越えると、見渡す限り、湿地と小さな池が広がる場所がある。確か、淵辺の衆は、そこで猟をしていると聞いたことがある。」
「猟?」
アスカが訊いた。
「ああ、水鳥を捕まえるのじゃ。腰まで泥に塗れて、湿地を這いずり回り、鳥を獲る。我らには真似の出来ぬ事じゃがな。」
そう会話しながら進んでいくと、家屋が見えてきた。
「あれが淵辺の里じゃ。ここからは二人で行きなされ。・・わしはここより先には行けぬ。」
カケルとアスカは、翁に礼を言うと、まっすぐ道を進んだ。一つ、小さな川を渡り、集落らしきところに入った。集落らしきというのも、遠くから見えた家屋はどれも屋根だけになり倒壊していたのだ。明らかに水害によって押し流されたものと判った。二人は様子を見ながらゆっくり歩みを進めた。何処にも、人が暮らしている様子は見られなかった。次第に、カケルとアスカは、ユキの事が心配になってきた。十数軒の家屋は何処にも人影は無く、いや、住める状態ではなかったのだった。
「淵辺の皆様は何処へ行かれたのでしょうか?・・ご無事なのでしょうか・・」
アスカが口を開いた。カケルは、崩れた家の屋根に上り、周囲を見渡した。どこかにユキがいるはずだ。カケルはそう願って、辺りをくまなく見た。遥か先、丘の上に一筋の煙が立ち上っているのが見えた。
「アスカ、丘の上に誰かいるようだ。」
二人は、煙の立ち上る先を目指し、湿地の中を何とか歩ける場所を探りながら急いだ。湿地を抜けると、僅かに畑らしき跡があり、細い道が丘の上に続いていた。
「誰だ!」
カケルとアスカが、道を上りかけた時、全身泥に塗れた男が数人、目の前に立ちはだかった。手には弓を構えている。
「怪しいものでは在りません。・・・ユキと言う娘を探しております。」
カケルは咄嗟に答えた。
「ユキ?・・ユキ姫の事か?・・お前ら、何処から来た?」
「・・先ほど、明石からハヤシの里の者に案内していただき参りました。」
「明石の港の者か?」
「いえ・・灘姫様を伊予から明石までお送りしたのです。カケルと申します。・・ユキ様はお元気でしょうか?」
その問答が聞こえたのか、丘の上から他にも数人の男が現れた。次第を聞き、すぐに取って返した。しばらくすると、ユキが驚いた表情で駆けてきた。
「カケル様!アスカ様!」
「お元気でしたか?良かった。下の集落・・家々がみな潰れておりましたので、心配しました。」
アスカが答えると、ユキはアスカの胸に縋りつき、溜まっていたものが溢れるように涙を流した。その様子を見ながら、カケルは周りにいた男達に訊いた。
「あの家屋があったところが、淵辺の里でしょう。一体、何があったのです。」
「・・一年ほど前だったか・・川が溢れ、一帯が水に浸かった。・・昔から度々そういうことはあったが、此度は酷かった。里の者も半分近くが命を落とした。もう、あそこには住めない。」
答えたのは、先ほど、弓を構えて立ちはだかった男の一人だった。どうやら、今、一族を束ねている者らしかった。
「俺の名は、アタル。長は、その大水で亡くなったから、已む無く俺が束ねている。僅かに残った者で、この丘に暮らしている。・・ここには何もない。・・早く、明石へ戻れ!」
ぶっきらぼうに言ったが、その表情には、やりきれぬ思いが浮かんでいた。
「アタル!もう少し優しく話しなさい!・・・ごめんなさい。昔から乱暴者だったから・・。」
ユキが取り成すように言った。その口ぶりから、幼馴染だったことがわかった。
「さっき、ユキ姫と呼ばれていたようだが・・。」
カケルがユキに訊いた。すると、アタルが再びぶっきらぼうに口を開いた。
「ユキは、長様の姫だ。東国の船に乗れば、兵から里へ米を分けてくれると聞き、兄者とともに舟に乗られたのだ。兄者は病で亡くなったと聞いたが・・無事に戻られてみな喜んでいる。だが・・里が、この有様では・・・。」
アタルは唇を噛み締めている。大水で為すすべなく多くの命を奪われ、再興しようにも余りに犠牲が多すぎ、どうにもならぬと諦めていたところに、姫が戻り、この有様を見られて、悔しさを隠しきれないという様子だった。

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3節‐15 丘の上 [アスカケ第4部瀬戸の大海]

15.丘の上
カケルとアスカは、ユキに案内されて丘の上に登った。そこには、葦の束をいくつか重ね、屋根の形に積み上げた、家のようなものがいくつか建っていた。
「アタルが作りました。この辺りは大きな木もなく、葦を集めて雨を凌げるようにしたのです。」
アタルと供に数人の男たちも、丘の上に上がってきた。腰には一羽の鳥をぶら下げている。丘を反対側に下ったところに広がる、湿地を這いずり回り、何とか捕えたものだった。
アスカがユキに案内され、葦の家の中を覗いて驚いた。薄暗い中に、何人かが横たわっていた。そっと近寄り、横たわる人の顔を見て、アスカは更に驚いた。ユキと同じくらいの娘のようだが、痩せこけて、目がくぼみ、うつらな表情を浮かべていた。その横にも同じような娘が居る。
「どうしたの?病にかかってしまったの?」
アスカはユキに尋ねると、悲しげな表情を浮かべて言った。
「私も驚きました。この子たちは、私の幼馴染ばかり。・・アタルの話では、他にも婆様や爺様も居たようですが、皆、食べ物が足りず、こうして衰え死んだと言うのです。・・・この子達もこのままでは長くないでしょう。・・。」
「なんてこと!・・・食べ物が無いなんて・・・明石の港には溢れるほどの食べ物が並べられていたのに・・・すぐに、明石へ行きましょう。」
アスカが葦の家を出て、カケルに様子を話した。カケルは、座り込んでいるアタルに言った。
「すぐに、明石へ行き、食べ物を運んできましょう。・・オオヒコ様ならきっと分けて下さるはずです。さあ!」
しかし、アタルは動かなかった。ユキも家から出てきて、アタルに言う。
「見殺しにするわけにはいきません。頭を下げてでも、食べ物を・・ねえ、急いで行きましょう。」
それでもアタルは動こうとしなかった。
「我らは、イワノミコト様をお守りした一族だ。ミコト様を追い出した憎きオオヒコの施しを受けるわけにはいかない。」
アタルはそう言うと、周囲の男たちに「おい、獲物を獲りに行くぞ!」と言うと立ち上がった。
「待ってください!」
カケルがアタルの前に立ちはだかった。
「何故、そこまで頑なに拒絶せねばならないのです。・・今は、一族の者を救うのが大事。どんな事をしてでも、生き延びねばならないはずです。」
「ふん、余所者にわかりようも無い事。どけ!そこをどかぬと怪我をするぞ!」
アタルは腰の剣を抜き、カケルの目の前に突き出した。
「仕方ない。それほどまでとは・・・。」
カケルはそう言うと、腰の剣を抜いた。周りに居た男たちは、おろおろと様子を見ているだけだった。
アタルの剣は古い銅剣、カケルの鋼の剣に敵うはずもない。
一振りでカケルは、アタルの剣を砕き、そこにアタルを座らせた。
「アタル様、貴方が一族の誇りを守らねばという思いはわかります。だが、その為に、一族の者が命を落としていくのは間違っている。そのような事を、イワノミコト様がお望みだと思いますか?」
胡坐をかいて座り込んだアタルは、ぐっと俯いたまま返事をしない。
「水害で全てを失い、一族を率いて何とかここへ逃れたのでしょう。そして、出来る事をやってきた。たとえ、みすぼらしくても、この家は一族の者を守りたい一心で作ったのでしょう。ならば、今、すべき事はわかっているはずです。」
カケルの言葉に、周囲に居た男達が思い余ったように、啜り泣きを始めた。
「アタル、もうこれ以上は無理だ。俺は、あの子を死なせたくない、子どものころから供に遊んだ子ばかりだ。なあ、アタル、良いじゃないか。ミコト様もきっと許してくださる。」
アタルと同い年くらいの男が、アタルの肩に手を置いて言った。
「しかし・・オオヒコ様はすんなりと助けてくださるのか?」
アタルは俯いたまま、搾り出すような声で言った。
「大丈夫です。私は、昨夜、オオヒコ様と話をしました。もはや、オオヒコ様には何のわだかまりも無い。いや、これまでも何度か使者を送ったそうです。きっと援けてくださいます。」
カケルは剣を収め、アタルの肩を抱くようにして言った。
アタルは、顔を上げると、カケルを見て、頷いた。

「アスカ、お前の力で少しでも元気にしてやれぬか?」
カケルはアスカに言った。アスカは、こくりと頷き、葦の家の中へ入って行った。
「さあ、すぐにも明石へ参りましょう。」
カケルはアタルや数人の男を連れて、明石へ向かった。

アスカは、薄暗い家の中で、弱り切って横たわる娘達を見回し、それぞれの手を取った。骨と皮だけになり今にも命が消えそうな状態だった。
「ユキ様、きれいなお水を持ってきてください。そして、この子達に飲ませてください。」
ユキはすぐに、丘を下り、清水の湧き出ている泉に向かった。
アスカは、最も命の火が消えそうな娘の傍に座り、首飾りを握り締めて祈った。ぼんやりと黄色く暖かい光が漏れ始めた。しばらくすると、娘の肌がほんのりと色を見せる。そして、その隣の娘にも同じように光の力を与えた。
ユキが、水を汲んで戻ってみると、三人の横たわっていた娘が、アスカを取り巻くように座っていた。真ん中には、色を失い目を閉じて、アスカが横たわっていた。

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3節‐16 融和 [アスカケ第4部瀬戸の大海]

16. 融和
 カケルとアタルたちは、一心不乱に、明石に向けて駆けた。岸辺には、案内役をしてくれた翁が船に座っていた。
「おお、カケル様、淵辺はいかがでした?」
カケルは、淵辺の様子をかいつまんで翁に話すと、翁は慌てて櫓を握った。
「すぐに参りましょう。さあ、乗ってくれ!」
アタルたちもすぐに小船に乗り込み、翁から櫓を受け取り、必死で漕いだ。港に着くと、翁に礼を言い、すぐに、オオヒコの館へ向かった。
「オオヒコ様!オオヒコ様!」
カケルの呼ぶ声に、オオヒコが驚いた様子で館から出てきた。
アタルたちは、その姿を見て、頭を地面に擦り付けるようにして蹲った。
「オオヒコ様、淵辺の一族を束ねているアタル様です。・・淵辺では先ごろ水害がおき、一族の中に死に掛けている者が居ります。・・すぐにも、食べ物を届けてやりたいのです。どうか、お助けください。」
カケルもアタルたち同様に、地面に平伏して懇願した。
「何とした事か!・・それほどに困窮しているとは知らなかった。・・判った、すぐに船を出し、食べ物を届けよう。・・誰か、米や稗、粟、干し肉、魚を用意せよ!船を出すぞ!」
オオヒコの号令に、何人かのものがすぐに蔵に行き、食べ物を運び出し始めた。
明石の港に居た他の国から来た船も、話を聞きつけて、協力を申し出てくれた。すぐに支度が整い、港を出ることになった。
「男手ばかりでは、何かと足りぬ事もあるでしょう。」
そう言って、オオヒコの奥方も船に乗って、淵辺へ向かった。淵辺には、その日の夕刻には皆到着した。

「戻ったぞ!」
アタルの声が丘に響く。ナダが飛び出してきた。
「カケル様!カケル様!・・アスカ様が・・・アスカ様が・・・。」
ユキが何が言いたいのか、カケルにはすぐに判った。力を使い、昏睡状態に陥いる事は覚悟していたのだ。アスカも、承知していた。しかし、あのままでは、明石から食べ物が届く前に娘達は死んでしまうかも知れない、カケルは考え、アスカに無理を承知で力を使う事を頼んだのだった。
「大丈夫だ・・・きっと大丈夫だ。」
カケルは、すぐにアスカの元へ向かった。アスカは薄暗い葦の家の中央に横たわっていた。周りには、元気を取り戻した娘が心配そうにアスカを見つめて座っている。
「アスカ、無理をさせたな。済まぬ。」
カケルはアスカの脇に座ると、ぐっとアスカの手を握った。アスカの手は冷たくなっている。

外では、皆で手分けして、運ばれた荷物を開いたり、釜戸を作ったり、とにかく、温かい食べ物を作り始めた。大きな篝火も作られた。そして、皆、火の周りに集まり、明石の者も、淵辺の者も混ざり合い、無心に食べた。葦の家の中にいる娘達にも雑炊が運ばれた。
カケルはアスカの傍に居た。ぐっとアスカの手を握ったまま、アスカを見つめている。

一通り、食事も終わったところで、アタルは、オオヒコや奥方、そして明石から来た者達の前で、平伏して礼を言った。
「オオヒコ様、本当にありがとうございました。我ら一族、もはや死を覚悟しておりました。どうお礼をすれば良いのか判りません。本当にありがとうございました。」
ユキ、そして、淵辺の一族、皆がアタルと同様に、平伏して礼を言った。
「顔を上げてくだされ。・・・我らは、もっと早くこうせねばならなかったと悔いております。・・それに、もはや、明石も淵辺もありませぬ。皆、この海の傍で生きる者ではありませんか。これからは、供に手を携え、生きて参りましょう。さあ、顔を上げてください。」
オオヒコは、アタルの手を握った。奥方もユキの手を握った。
「それに・・・礼を申されるならば、私ではありません。カケル様とアスカ様にこそ礼を申されるべきでしょう。・・あの方が居られなければ、此度の事はなかったはず。・・・」
オオヒコはそう言うと、アスカとカケルがいる葦の家のほうを見た。
「しかし・・アスカ様のお力には驚きました。・・一体、どうした事か・・。」
アタルが言うと、ユキが答えた。
「アスカ様は、女神様に違いありません。伊予でも、小豆島の沖の魔物退治の時も、あのお力があったからこその事。しかし、その度に、生死の境を彷徨われ、痛々しい限りです。わが身を削り、命を救う事が・・定めとは・・・辛い事でしょう。」
「何か、出来る事はないのでしょうか?」
オオヒコの奥方も心配そうに葦の家を見つめて呟いた。

夜が明ける頃、アスカが目を覚ました。脇には、カケルが手を握り、座ったまま眠っていた。
「・・アスカ・・目が覚めたか?・・身体はどうだ?」
カケルはアスカの手の動きに気付き目を覚まし、すぐにアスカの顔を覗きこむようにして言った。
アスカは、そっと微笑んで見せた。まだ、言葉を発するほどには回復していないようだった。
「また、無理をさせたな・・済まぬ。・・」
カケルは、強くアスカの手を握り締めた。アスカの瞳から一筋の涙が流れた。

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3節‐17 再興 [アスカケ第4部瀬戸の大海]

17. 再興
朝日が射し始める頃、葦の家の周りで眠っていた者が目覚め始めた。
少し前に、ユキは起きて、朝餉の支度を始めていた。明石から持ち込まれた米や雑穀を大事そうに取り出して、鍋に入れ、周囲で摘んだ草を入れた雑炊を作っていた。男達は、その匂いに誘われるように、集まってきた。
オオヒコとアタルは、朝餉の後、丘の一番高いところまで足を運んだ。
丘の西側には、沼や池、湿地が広がり、水鳥がたくさん羽を休めているのが見えた。東を向くと、遠くに明石の港や家々が微かに見えた。足元には、大海原に沿うように、葦の原が広がっている。
「あの辺りに、淵辺の里はあったのか?」
オオヒコが指差した。アタルは頷いて言った。
「小さな里でしたが・・・イワノミコト様が葦原を開き作られたのです。度々の水害で住み良いところではありませんが、我ら一族には大事な場所です。」
オオヒコは、東に向き指差しながら言った。
「水害の原因は、あの川だ。ハヤシの里の北側には小高い場所があるのが見えるだろう。あのおかげで、ハヤシの里は水害から免れているのだ。しかし、淵辺は低い場所しかない。あの川が溢れれば一気に淵辺へ水が寄せてくる。・・・どうだ、アタル。あの川を宥め、ここを住み良い場所にせぬか?」
「川を宥める?」
「そうだ。私は、明石の浜に港を作った。岩を切り出し、浜を埋め、桟橋を作った。だが、それは波との戦いだった。波は陸地を削り取る力を持っている。油断すれば、せっかく埋めた地が翌日には海に変わっていた。潮を読み、流れを変える。波を宥めながら進めたのだ。」
「では・・川を宥めるとは・・川の流れを変えよと言われるのですか?」
「川は、海よりも激しい。ほんの少し、流れを変えるのも苦労だろう。だが、その為にできることはある。どうだ?私も力を貸そう。この川を宥め、豊かな里を作らぬか?」
オオヒコの考えに、アタルは驚きながらも、何か、大きな希望を感じた。
「私に出来るでしょうか?」
「出来るかどうかは、誰にもわからぬ事。だが、やろうと考えねば、何も始まらないだろう。」
オオヒコの言葉は、強くアタルの心を打った。
イワノミコトとの確執を超え、命を失いかけるほどの苦渋を味わいながらも、この海で生きる人々の為に、明石の港を作り上げた事が、どれほど大きな事だったのか。
僅かな誇りのために、一族を危うい目にあわせた自らを悔い、オオヒコの進言どおり、この地を豊かな里にしたいと、アタルは強く思った。
「やりましょう。命を懸けてこの地を豊かな里へ変えましょう。」
「よし、明石の者もきっと力を貸してくれるはずだ。」
「よおし!やるぞー!」
アタルは両手を天に突き上げ、高らかに宣言した。
アタルとオオヒコが、皆の所に戻ると、葦の家の中から笑い声が聞こえてきた。
アスカが目を覚まし、少しずつだが話が出来るようになっていた。どうやら、ユキが、アタルの幼少期の思い出話をしているようだった。
「アタルの怖いものは何だかわかりますか?」
カケルとアスカは、頭をひねった。周りにいた娘にはわかったようだった。
「さあ・・何だろう?」
とカケルが言うと、ユキがケラケラと笑い出した。
「アタルは、幼い時、川遊びをしていて、大きな蛙に飛び付かれた事があって、蛙が怖いんです。」
「ええ・・それじゃあ、水鳥の狩りは大変でしょう。あちこちに蛙がいるでしょうから。」
オオヒコの奥方が、呆れた顔をして言った。
「ええ・・でも、みんなの手前、そんな姿が見せられないらしく、どうにか我慢しているようなんだけど・・・大事なところで声を出して、何度か、水鳥に逃げられたみたい。」
皆、その時のアタルの姿を想像し笑い転げた。オオヒコの奥方もふと思い出したように言った。
「そういえば、オオヒコ様にも怖いものがあるのよ。」
皆、意外な顔をして奥方を見た。
「何だと思う?・・・それはね・・・蛇なの。」
「蛇は私も嫌い!突然、足元にいたりして・・」
ユキも、身を縮めるような仕草をして言った。
アタルとオオヒコは、葦の家の外で、会話を耳にして、顔を見合わせた。今、顔を見せるのはどうやら得策ではなさそうだと二人とも感じて、そっと家を離れた。
「ねえ、アスカ様。カケル様は本当に怖いものは無いのですか?」
ユキが少し意地悪な表情で訊いた。アスカは、じっとカケルの顔を見ながら、考えた。そう言えば、カケルの怖がる姿を見たことが無い。どんなに危険な場面に遭遇しようとも動じることなく、立ち向かう姿しか浮かんでこなかった。
「カケル様が怖がる姿を見たことが無いんです。」
アスカは残念そうな顔をして答えた。カケルが、アスカを見てちょっと微笑んでから言った。
「私にだって怖いものはある。」
皆、驚き、興味深い顔をしてカケルを見た。
「それは・・・アスカだよ。幼い頃のアスカは男の子の様に、止めるのも聞かず、高楼の天辺に登ったり、戦場にも行きたいといったり、とにかく危なっかしい事ばかりしていたんだ。今でも、そういう事をするんじゃないかっていつも心配なんだよ。だから、私が怖いのはアスカだ。」

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3節‐18 川を宥める [アスカケ第4部瀬戸の大海]

18. 川を宥める
アスカの体力が戻るまではしばらく時が必要だった。だが、葦の家は決して過ごしやすい場所ではなく、オオヒコや奥方は、明石で養生したほうが良いのではないかと勧めたが、アスカを明石まで運ぶのも苦労な事だった。
オオヒコはすぐに、明石に使いを走らせ、翌朝には、明石からたくさんの者が、やって来た。
「オオヒコ様、皆を連れて参りました。」
「おお、よく来てくれた。早速だが、この丘に、アスカ様が養生できるよう、家を作ってくれ。」
オオヒコの指図で、近くの山から木が切り出され、男達が手分けして、たった一日で立派な家を建てた。
「これなら、ゆっくり養生できる。ありがとうございます。」
カケルはアスカを抱き上げて、家の中に入った。高い床を持った風の抜ける明るい家であった。開いた窓からは、海がきれいに見えた。

「カケル様、アタルがこの地を豊かな地に変える決心をしました。水害に遭わないよう、堤を作る仕事を始めます。アスカ様が回復されるまでの間、お手伝い願えませんか?」
オオヒコの願いを、カケルは快く承諾し、オオヒコと伴に、川の土手で策を練っているアタルのところへ向かった。

アタルは、明石から来た男達と、川の様子を見ながら、如何すれば良いか思案していた。
北の山からの行く筋もの細い流れが、ちょうど、淵辺の北あたりで合流し、大きな川となり、蛇行して明石の港の方へ流れている。オオヒコの言うとおり、隣のハヤシの里の北には自然に出来た丘が堤の代わりになって、流れを遮っているが、淵辺の北側には低い岸辺になっていて、普段でも水が越えそうな状態だった。これでは、少しの大雨でも、岸を越えて水が流れ込む。かと言って、ここに高い堤を築くには、遠くから大量の土砂を運ばねばならない。
アタルは、思ったより大仕事である事を知った。やるからには、淵辺の北側だけでなく、東西に長く高い堤を作らねばならない。途方も無く時間のかかる仕事のように思えた。
「アタル様、こちらにいらしたのですか。」
カケルが声を掛けた。
「淵辺の再興のために、奮闘なさると聞き、お手伝いできればと参りました。」
アタルは浮かぬ顔をしている。途方も無い大仕事を前に、憂鬱になっている事がすぐに判った。
「思っていたよりも難しい仕事になりそうです。」
アタルはそういうと、ここに長く高い堤を作る事を説明した。カケルとオオヒコは、川の様子を見ながら、アタルの話を聞いた。
「それは大変な仕事だ。これだけの人数では、どれほどの時間が掛かるか・・」
オオヒコも、難しい表情で答えた。カケルは、岸辺から川を見ながら、反対側の淵辺の里のあった方向を見比べていた。そして、アタルとオオヒコに言った。
「昔、幼き頃、ナレの村でミコト様から聞いたのですが・・・川が暴れるのは、流れる水が行き先を失うからなのだと・・・だから、行き先を作ってやれば、川は鎮まるはず。」
「行き先を作る?」
アタルが不思議な顔をして訊いた。
「ええ、淵辺あたりが毎年のように水害に遭うのは、きっとそこに水の行くべき先があるからなのです。・・ほら、ここから淵辺を見ると判ります。」
カケルは、指差しながら続けた。
「ここから西には、家を建てた丘があり、東にはハヤシの里を守る丘があります。ちょうど淵辺あたりが、両方の丘の真ん中、最も低き場所です。」
オオヒコも、カケルの説明を聞きながら、言わんとする事を考えていた。そして、
「そうか!カケル様は、ここから海まで水の通る道を作ろうと言われるのですね。」
「ええ、そうです。おそらく、大昔にはここから真っ直ぐ、淵辺のほうへこの川は流れていたのでしょう。それがいつの間にか明石へ流れるように変わった。川は昔の記憶を頼りに、流れようとしているのでしょう。」
アタルもカケルの言う事は理解できた。
「では、ここから真っ直ぐに水路を掘れば良いというのですか。・・・だが、そうなれば、淵辺の里はなくなってしまいます。それでは意味が無い。」
アタルは首を横に振り、他の方法が無いのかと言いたげだった。
「いえ、大丈夫です。・・掘り出した土を盛り、高くして、そこに里を作れば良いのです。田んぼも作ると良いでしょう。水が脇を流れていれば、日照りにも安心でしょう。」
アタルは、カケルの話を聞きながら、目の前に豊かな里が広がっていく風景が浮かんできた。
オオヒコも、カケルの話を聞き、言った。
「水路を里の中に張り巡らせると良い。そこに船を浮かべ、田んぼで取れた米を船に積み、明石の港まで運べば、難波へ持っていくのだ。きっと、すぐに豊かな暮らしが出来る。」
三人は、目の前に広がる風景に、遠い未来を見ていた。
「よし、明日からでも取り掛かりましょう。・・まずは、どこに水路を引けば良いか、調べます。」
アタルが言うと、オオヒコが応えるように言った。
「では、私は明石に戻り、この大仕事を手伝う男達を集めよう。次の大雨が来る前には、水路を作り上げねばならぬからな。きっと、皆も喜んで手伝ってくれるはずだ。」

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3節‐19 大仕事 [アスカケ第4部瀬戸の大海]

19. 大仕事
次の日から、水路を作る為の大仕事が始まった。アタルは、淵辺の男達を連れ、カケルと伴に淵辺の里があった辺りに向かった。
泥濘が広がる場所を見つけては、長い竹の先に目印の布を付けたものを立てていった。同時に、竹を高く組んで、辺りを見渡せる見晴台も作った。
赤い目印のついた竹を辿ると、淵辺の里のあった辺りは、はすっかり、その中にあった。
「・・前から、気になっていたのですが・・淵辺という名からも、このあたりに昔、大きな淵があったのではないでしょうか。それが、大水の度に、土が流れ込み、埋まってしまい、見えなくなった。水を溜めるべき淵がないから、辺りにあふれ出すのです。」
「では、その淵も昔のように作るべきだと?」
「はい、淵には魚が育ちます。大水の時にも一旦水を蓄えます。淵を蘇らせ、海へ繋ぐ水路を作り、掘り出した土を積み上げ、高台にし、その上に、新しき里を開くのです。」
カケルとアタルは見晴台から、水路を作る場所の目星をつけ、水路の幅や段取りを相談した。
「判りました。すぐに取り掛かりましょう。冬の間に掘り上げねばなりません。」
アタルは、すっかり自信を得て、てきぱきと男達に指示を出した。
水路と決めた場所の葦は、切り払われ、淵辺の男達は、すぐに掘り掛かった。アタルもカケルも、男達に混じり、賢明に掘り進めた。泥濘んだ土地に足を取られながらも賢明に掘ったが、思うようには進まない。三日も掘ると、皆、疲れ果ててしまった。
「こんなんじゃ、冬の間に作り上げるなんて無理でしょう。」
手も足も顔も、泥だらけになった男達が不満の声を上げ始めた頃、明石から驚くほどたくさんの男達がやって来た。
「オオヒコ様から聞いたのだ!さあ、我らも手伝うぞ!」
力自慢の男達が、鍬を手に声を掛けあい、掘り、泥を運び、朝から晩まで仕事を続ける。女達も、集まってきて手伝った。
皆、毎日毎日、賢明に働いた。寒風が吹きすさび、身を切るほどの寒さの中でも、誰一人、不満を言わず、諍いも起きず、賢明に彫り続けた。アタルは毎日、誰よりも早く起き、身支度を済ませると、難儀をしている場所へ行っては伴に仕事をした。

アスカはひと月ほどで、元のように動けるまで回復した。その頃には、ユキに付き添われ、丘の上の家から出て、水路を作っている場所まで行き、皆に声を掛けて回るようになった。
男達は、ユキとアスカが顔を見せると、たいそう喜んだ。

川の土手に土筆が顔を見せる頃には、予定していた水路がほとんど出来上がった。
いよいよ、川と水路を繋ぐ段階になった。水路とあわせて、川には堰も作られていた。
「さあ、ユキ姫様、堰を切ってください。」
アタルはすっかり逞しい男に変わっていた。太い縄を縛りつけた堰の口まで、ユキを連れて行くと、斧を取り出して、ユキに荒縄を切るように勧めた。
オオヒコと奥方、カケルとアスカも傍に並んで、微笑んで見ている。
ユキは、アタルから斧を受け取ると、荒縄に強く振り下ろす。堰の口に積み上げた丸太がごろごろと転がり落ち、一気に川の水が流れ込んだ。
仕事に携わった男達は皆、水路の脇に立ち、無事に水が流れる事を祈るような思いで見つめた。ざあざあと音を立て、川の水が水路を進んでいく。水路から一旦、池の中へ水は流れ込む。そして、その池が一杯になると、海へ続く水路に流れ始めた。
男達は、水が進むのに合わせてどんどんと海のほうへ進んでいく。海に注ぐ辺りは、すでに海水が入り込んでいる。川から流れてきた水がついに、河口まで達した。
「やったー!やったぞ!水路がつながった!」
男達は小躍りしながら歓声を上げる。女達も一緒になって喜んでいる。
「よくやり遂げたな、アタル!」
オオヒコが、アタルの背を叩き褒めた。アタルは涙ぐんでいる。
「これで、淵辺の里は蘇える。・・・きっと、イワノミコト様も喜んでおられるでしょう。」
カケルも、アタルの肩に手を置いて笑顔で褒めた。
「はい。・・・オオヒコ様やカケル様のお力があったからこそ。本当にありがとうございました。」
「いや、我らの力ではない。ほら、あそこにいる多くの人の協力の賜物なのだ。そして、その力を集める事ができた、アタルの強い思いがあったからなのだ。」
オオヒコが言う。カケルも頷いた。
「ですが・・これからです。あの土地を田畑にして、細い水路を巡らせ、前以上の大きな里を作らねばなりません。」
アタルは涙ぐみながら、そう決意を語った。それを聞いていたユキが言った。
「大丈夫よ。アタルになら出来ない事はないわ。・・ねえ、アタル、あなたがこれから淵辺一族の長になりなさい。そして、皆を束ねていくのです。」
「いや・・それは・・ユキ姫様こそ、長様亡き後、一族を束ねるべき人ではないですか。」
アタルが返すと、ユキが言う。
「私は姫。一族を率いていくには、強く働き者の男が傍にいなければ無理。」
アタルは、ユキの言葉の意味が判らず、ぼんやりしていた。
「もう・・鈍感なんだから!」
ユキが拗ねる様子を見て、アスカが言う。
「では、今宵は、契りの宴ですね?」
「ああ、それが良い。淵辺の若き長と奥方の誕生だ。そうだな、アタル?」
オオヒコの言葉に、アタルはようやくユキの言葉を理解し、真っ赤になっている。

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3節‐20 難波津へ [アスカケ第4部瀬戸の大海]

20. 難波津へ
淵辺の里作りは、アタルとユキが夫婦となり、周囲の里の者も手伝う形で、本格的に始まった。
水路を掘り出した土は、周囲に積み上げられ、そこには田畑が作られた。家屋も徐々に作られ始めた。

アタルは一族の長として、若いながらも立派に勤める事ができるはずだとカケルも確信し、淵辺の里を離れる事にした。
「我らは、難波に向け、出発いたします。」
カケルとアスカは、明石の港に居て、オオヒコたちに挨拶をした。

「難波から戻った船に聞いたのですが、どうやら東国では、皇君の座を得ようと、大和の豪族たちの間で戦が起きたようです。難波津も、東国からの荷が滞るようになっているようです。くれぐれもお気をつけて参らますように。」
カケルはオオヒコの話を聞き、とりあえず、難波まで向かい、そこからの道程は様子を確認して進むことにした。
オオヒコが船の手配をしてくれて、難波へ向かった。

「この先、ゆっくり行っても、夕刻には難波津へ着けましょう。」
カケル達が乗ったのは,讃の国から難波へ向かう荷船だった。船の頭は、穏やかな海を眺めながら、カケルに言った。
「難波津とはどのようなところなのですか?」
カケルは、船縁に立ち行く先に視線をやって聞いた。
「・・難波津は、大きな港です。・・北に広がる河内の海とこの瀬戸の大海を繋いでいます。都へ荷を運ぶ為には、そこへ着けるしかないのです。」
船の頭は、舵を切りながら答える。
「河内の海とは・・初めて聞きました。」
「・・なあに、海と言ったって、真水が溜まった大きな池みたいなものです。大和から流れ出る川の水が溜まり、浅く広い大きな池です。ですから、播磨から来た船は、そこには入れません。」
「では、そこからは、船で大和へ行けるのですね。」
「ええ・・しかし、大和はあちこちで戦がおきているようです。そう容易く大和に入れるかどうか・・。だれか、大和まで案内する者がおれば良いのですが・・・」

順調に船は進み、難波津が見えてきた。
「あれが、難波津です。・・ここを治めている統領は、摂津比古様と申されます。大和にもお詳しいはず。どうにか、お会いできれば良いのでしょうが・・なにぶん、高貴なお方ゆえ、なかなかお顔を見ることもありません。」
船の頭は、空いている桟橋に船を近づけながらそう言った。
カケルとアスカは、船の頭に礼を言うと、船を降り、港へ入った。


ーーーーアスカケ第4部「瀬戸の大海」はここで終了です。
      この先、難波津から大和まで・・・最終部になる予定です。ーーーーーーー

ーーーー最終部「大和の国」は、4月1日から掲載の予定です。ご愛読ありがとうございました。---------

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