SSブログ

3-3 須藤夫妻 [マニピュレーター(シンクロ:同調)]

「ねえ、覚えてない?須藤よ。須藤栄子。」
そう名乗る女性の声は優しかった。それでもマリアは返事をしない。
「憶えてないか・そうよね。あなたにあったのは、まだ、あなたが三才だったから・・。」
マリアはゆっくりと振り返り、その女性を見た。その瞬間、マリアの脳裏には、日本にいた頃の思い出が沸き上がってきた。
この女性は確か、施設の保母さんだった。いえ、お母さんの代わりだった人。
明るい笑顔でいつもマリアの傍に居て面倒を見てくれた。手作りのおやつが何より好きだった。十年ほどの短い人生ではあるが、この女性と過ごした時間は、なににも代えがたい幸せな時間だった。
「栄子ママ?」
マリアの口から思いがけない言葉が出た。自分でも驚いている。
「あら、覚えていてくれたの?良かった。人違いだったらどうしようって思っていたのよ。」
あの頃と同じ笑顔を見せて、須藤栄子は答えた。
須藤栄子は、両隣りに座る老夫婦を見て、訝し気な表情に変わった。
「その人たちは誰?」
マリアは何と答えてよいか判らず黙っていた。
「あなた、確か、アメリカの親戚に引き取られたはずだけど‥。その人たちじゃなさそうね。」
マリアは何も答えなかった。栄子は、マリアがアメリカに行き、幸せに暮らしているのだと思っているに違いない。マリアはそう考えた。
須藤栄子は、マリアの耳元で囁くように言った。
「もしよかったら、私と一緒に来ない?」
マリアは、この先どうすればよいか判らずにいた。
須藤栄子の許なら、暫くはゆっくり過ごせるかもしれない。いや、しかし、施設が自分の居場所を探しているとしたら、真っ先に、須藤の許に来るかもしれない。肯定と否定の両方が頭の中を這いまわる。
「どうする?」
須藤栄子は、もう一度訊いた。迷っている場合ではない。このまま、この老夫婦を操ることは出来ない。それなら、須藤について行った方が良いに違いない。
マリアは小さく頷いた。
バスが、静岡駅に到着した。前方の席から順に客が降りていく。老夫婦もゆっくりと立ち上がり、通路を進む。そのまま、バスを降りると、真っすぐ、コインロッカーに向かった。
入口辺りに着いた時、マリアは思念波を解除した。
老夫婦は、暫くぼんやりとしていた。自分たちが今どこにいるのかさえ判らない様子で、立ち尽くしている。
その様子を見ながら、マリアは老夫婦の許を離れる。直ぐ、後ろには須藤栄子が歩いてきた。マリアに近づくと、そっと、駅の前方を指さした。
「あそこに迎えが来ているから。」
マリアと須藤栄子は、タクシー乗り場を横切り、送迎用の駐車スペースに向かう。
送迎用の駐車スペースには、1台の古いセダンが止まっていた。栄子が近づくと、ヘッドライトを二度ほど光らせて合図した。
須藤栄子は、手を上げて答え、少し早歩きで車に向かう。運転席のドアが開いて、男性が降りてきた。そして、栄子から荷物を受け取り、トランクにしまい込む。
ふと振り返った時、マリアの姿を見た。
「おや?この子・・まさか・・。」
「そう、思い出した?真理亜ちゃんよ。」
「えっ?真理亜?・・でも、どうして?」
その男性は、驚きを隠せない。
「私もびっくりしたのよ。さっきのバスで偶然・・でも、初めは信じられず、ずっと迷っていたの。でも、やっぱり、真理亜ちゃんだと思って、声を掛けたのよ。」
須藤栄子は、嬉々として話す。
「いや・・奇跡だな・・まあ、いい。家までの道中、ゆっくり話しながら行こう。さあ、どうぞ。」
マリアは何も言わずに、ずっと二人のやり取りを聞いていた。
この男性は、須藤栄子の夫、須藤英治だった。
この二人にマリアは三歳から五歳までの三年間育てられた。
実の父や母の記憶は全くなかった。だから、この二人が自分の父母であると信じていた時期もある。三年間、彼らは優しく、何不自由なく暮らしていた。父役である英治は、手先が器用で、いろんなおもちゃを作ってくれた。母役の栄子は、料理が上手く、とにかく明るかった。この二人とともに過ごした時間は、マリアには、かけがえのないものだった。
栄子とマリアは、後部座席に座る。
小さくて古いセダン。シートに座るとどこからかギシギシという音が聞こえる。
「さあ、家に帰ろう。」
そう言って、須藤英治は車を走らせる。
「アメリカの暮らしはどうだった?」
須藤英治がルームミラーをちらちら見ながら、マリアに質問する。マリアは答えられない。その様子を見て、栄子が話題を変える。
「実はね、あなたがあそこを出て行ってから、あの家は閉鎖したの。次に来る子供も居なかったし、私たちも歳を取ったから、もう、子どもを預かるのは止めようって決めてね。今は、山の中の別荘地に住んでいるのよ。静かで良いところよ。」
「ああ、良い所だよ。真理亜もきっと気に入るよ。」
運転席の英治が応えるように言った。
車は、流通センター通りを北上し、新東名・新静岡インターに入る。そこから東へ向かう。深夜遅い時間で、前後を走るのは大型トラックばかりだった。須藤の古いセダンは、法定速度を大幅に下回るゆっくりした速度で走る。時折、大型トラックが「危ないぞ!」と言わんばかりに、パッシングやクラクションで警告して追い抜いていく。
「なあに、1時間ほどで着くから、心配いらんさ。」
須藤英治は、ハンドルを固く握り、前方を凝視しながら運転している。高速道路には慣れていないのが明らかに判る様子だった。
「真理亜ちゃんは、どこか行きたいところはある?」
栄子に訊ねられ、マリアは答えに困った。
アメリカの施設から逃げ出したかった。ただそれだけだったが、トンプソン夫妻の許にいた時、施設からの捜索の手が伸びてきた。咄嗟に、日本に行こうと決めた。そして、僅かに記憶に残っていた富士山が見える場所、そこに行きたいと思ってきた。目指していたところは、この須藤夫婦と過ごした施設なのだった。だが、それが閉鎖されたと知った今、どこか行きたいところと訊かれても、答えはない。唯一言える事は、この夫婦の許に居たい、そういうことに尽きる。
マリアは小さく首を振る。
「まあ、それはゆっくり考えればいいだろう?」
ハンドルを握っている英治がルームミラー越しに言う。
「そうね・・今日はもう遅いし、家に着いたらゆっくりと休むと良いわ。私も少し眠るわ。真理亜ちゃんも、少し眠るといいわ。英治さん、着いたら起こしてね。」
栄子はそう言うと、少し、体を傾け目を閉じた。マリアも栄子に少し体を預ける形で目を閉じた。
久しぶりに、周囲に神経をとがらせず、眠れた。
車は、新東名を降りて、山中の幹線道路を進み、十里木高原の別荘地に入る。
深夜で、周囲は漆黒の暗闇が広がっていて、須藤英治の運転する車のライトだけが、別荘地の中を進んでいく。
「着いたよ。」
英治は、優しく声をかける。
「あら・・早かったわね。」
すぐに、栄子は目を覚ますと、熟睡しているマリアを見た。
「疲れていたのね・・・。」
「そうだろう。たった一人、アメリカからの逃避行。僅か十歳の子どもにできることじゃない。」
「大丈夫でしょうか?」
「まあ、すぐに連絡をしておこう。それほど日数は掛からないだろう。それまでは昔のようにしていればいいだろう。」
二人はそんな会話をして、マリアを抱き上げて家の中に入った。

nice!(7)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー

nice! 7

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

Facebook コメント