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母の祈り [LOVE&PEACE]

幼い少女の母親は、南に住む友人からの電話に震えていた。
友人は、南の海に近い、鉄鋼の町に住んでいる。数日前、突然、空襲を受け、町が破壊された。今は、製鉄所の地下に広がるシェルターに逃げ込んでいるという。余りに突然のことで、何故、空襲を受けたのか、理由が全くわからない。
ただ、人々は、隣国の軍隊が街を取り囲んでいる。外に出ると殺される。このまま、地下のシェルターで耐えるほかないという。友人の夫は、製鉄工場で働いていて、空襲があった時も工場にいた。今、どこにいるか判らないと泣いていた。
電話を切って、その母親は考えた。
ここも国境近くの町。本当に隣国の軍隊が攻めてくるのなら、一刻も早く逃げなければならない。ただ、彼女の夫は、隣国の兵士。明日は休暇でこの街へ戻ってくる予定だった。夫からは何も連絡はない。おそらく、予定通り戻れるに違いない。戻って来れるなら、友人の町を攻撃しているのは、隣国の軍隊ではないだろう。もっと、南の国、海を越えた先にある国かもしれない。そう、夫がこの街を攻撃するなどあり得ない。
少女の母親は、少女を寝かしつけてから、隣に横たわり目を閉じる。いつもなら、昼間、畑の仕事で疲れ切っていて、すっと眠りに落ちるはず。だが、今日は、友人の電話が気掛かりで眠れなかった。体は疲れ切っているはずなのに、うとうとするばかり。徐々に空が白み始めていた。
突然、ドーンという轟音が響き、ガラガラと何かが崩れる音が響いた。
母親は飛び起きて、窓の外を見た。自宅から数百メートル離れた場所にある立派な劇場辺りから、大きな黒煙が上がっていた。
母親は何が起きたのかすぐに判った。
轟音に目覚めたばかりの少女の様子を見て、すぐに、大きなカバンに身の回りのものを詰め始めた。何を詰めていけばよいのか、混乱していた。とにかく、少女の着替えと、家族の写真、それからわずかばかりのお金をカバンに詰める。それから、冷蔵庫からすぐに食べられそうなものを詰めた。
その様子を少女は見ていた。
少女は、父親から誕生日プレゼントに貰ったクマのぬいぐるみを大事そうに抱えている。
母親は、少女の手を強く握り、家を出た。
外の風景は、惨いものだった。幾つかの家屋が破壊され、黒煙を上げている。遠くの劇場は見る影もなかった。
隣人が出ていた。隣人は、隣国の軍隊が攻めてきた。近くの地下シェルターに逃げようと叫ぶ。母親は、少女の手を引き、地下シェルターへ向かった。

怖れていたことが起こった。
夫とは、隣国の町で知り合い、暫くはそこで暮らしていた。娘が生まれ、暫く穏やかな暮らしが続いたが、母親は、体調を崩したのを機に、故郷の実家へ娘とともに戻った。夫は、やむなく兵士になった身だった。だが、軍隊では訓練の後に少し長い休暇がとれる。夫はその度に、妻と娘の住む国境の町へ戻り、時間の限り、家族で過ごすことを楽しみにしていた。
だが、時折、テレビで紛争のニュースを見ると、顔をしかめていた。
多くの人の命が奪われる紛争や戦争を強く嫌っていた。国境近くの町だからこそ、そうした時、引き裂かれてしまうのは明らかだったからだ。
今、夫はどうしているのか。この街に砲弾を撃ち込むことがあるのだろうか。夫の事を考えると心が捩れる。
自分が体を壊していなければ、きっと、隣国のあの町で暮らしていた。そこで暮らしていたら、戦禍から逃れていたのかもしれない。そう思うと、わが身が憎らしかった。

シェルターには、既に、大勢の人が避難していた。
母親は、少女を連れシェルターの中を進むと、ようやく壁に寄りかかって座れる場所を見つけ、カバンを置いて座り込んだ。そして、少女を両腕で抱き締めた。
時々、遠くで爆発音が響き、壁伝いに振動を感じる。
母親はじっと娘を抱き、天に祈る。
やはり、友人の話は本当だった。そして、夫はどうしているのか、そればかりが頭を巡る。少し静かになると、母親は睡魔に襲われた。夕べ、ほとんど眠れなかった。もう体も限界になっていた。少女を抱きかかえていた両腕の力が抜けた。
どれくらい時が経っただろうか。
目が覚めると、少女の姿がなかった。立ち上がり、周囲を見回してみても、少女の姿を見つけられない。母親は、シェルターの中を歩き、少女を探した。どっちに行ったのかもわからない。だが、ただそこで待っている事が出来なかった。シェルターの一番奥まで行ってみたが少女の姿はなかった。
母親は、踵を返して、元居た場所に戻ることにした。遥か前方に、少女の姿を見つけた。母親は慌てて、少女の許へ向かう。そして、少女を強く強く抱きしめた。
不思議に涙が零れなかった。心の中には、ようやく見つけた安堵感で、涙を流すほどの思いがあるのに、体が反応しない。突然の恐怖に、感情を表す事ができなかった。
それから、暫く、母親は少女を抱いたまま、動けなかった。

しかし、そんな時間も長くは続かない。
直ぐ近くで大きな爆発音がして、シェルターが揺れた。ここは危ないと誰かが叫ぶ。皆、驚いて出口へ向かった。そして、人々が出口近くに達した時、もう一度、大きな爆発音がしてガラガラと天井が崩れた。シェルターに大きな穴が開いた。出口辺りのようだった。多くの人が巻き込まれ、命を落としたに違いない。
母親は少女の手を強く握り、ぽっかりと開いた穴から外に出た。それから、町から出ることを決めた。町の周囲には農地が広がっている。

真っすぐ隣町へ向かう道。難を逃れた人の列ができていた。母親と少女は列の中。
正面から土埃を巻き上げて、大きな戦車が列をなして向かってくるのが見えた。人々は、週の麦畑に逃げ込んだ。母親と少女も、麦畑に身を潜める。

母親と少女が身を潜めた傍を、戦車が進む。それに続く様に、トラックも進んできた。
今、逃げて来た町へ向かうのだろう。
母親は、横を通り過ぎるトラックの車体を見た。そこには、夫が所属する部隊の番号が大きく書かれていた。
不意に、トラックが脇に停まり、荷台から自動小銃を手にした兵士がバラバラと降りて来た。兵士たちは、周囲を注意深く探っている。おそらく、敵兵が潜んでいないかを確認しているのだろう。
身を潜めていた男がひとり、不意に立ち上がり、大声で言葉にならない言葉を叫びながら、兵士たちへ向かっていった。不意を突かれた兵士は驚いて、銃を乱射する。立ち上がった男は、何発もの銃弾を浴び、息絶えた。
その様子を見て、兵士たちが麦畑の中に入ってくる。先ほどとは様子が違う。真っ直ぐに自動小銃を構え、いつでも、引き金が引ける姿勢だ。
徐々に、兵士が母親と少女のところに近付いてくる。母親は、娘を強く抱きしめ、死を覚悟した。
少女の手から、クマのぬいぐるみが落ちて転がった。
近づいてくる兵士の足元に、ぬいぐるみが転がる。兵士がそれを拾い上げた。暫く、兵士はぬいぐるみを見つめ、汚れたところを払ったうえで、母親と少女の方へそっと投げ返し、踵を返してトラックへ戻って行った。

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