SSブログ

序 ヤマトの国 [アスカケ外伝 第1部]

ヤマトの国は穏やかで豊かな国となっていた。
カケルが、ヤマトの争乱を鎮め、終にはアスカが葛城王の後に皇位を継承したことで、ヤマトの国だけでなく、西国も東国も安定した。
西は、難波津を起点に大きく発展し、瀬戸内海の水運を力に、吉備国、アナト国、九州の邪馬台の諸国や、四国の伊予国まで広く交易も進んでいた。東は、伊勢国や濃の国、尾の国、穂の国までも交流が進んでいた。
いずれの国も、ヤマト国の皇を敬いつつ、その支配下にあるわけではなく、それぞれの国が小さな村ごとに自治を進め、緩やかでありながらもしっかりとしたつながりを持って、助け合う共同社会を作り上げていた。奪い合うことではなく、分け合うこと。力ではなく知恵を出すこと。当たり前の事が当たり前にできる。そうした社会が作られていた。
カケルは摂政として、必要があれば諸国を巡り、多くの人の話を聞き、為すべき事を見つけ、人々の力を集めることに腐心していた。ヤマトに居る時も、ヤマトの村々を回り、時にはともに農作業や土木作業を行い、人々と共に過ごしていた。その姿は、遠くナレの村を旅立った時と少しも変わらなかった。もう、剣を抜くことはなく、獣人になる事もなくなった。
アスカも皇となったものの、カケルとともに、村々を訪れ、田畑の作業を手伝い、自ら薬草を摘み、人々のその知識を惜しみなく与え、病をいやすためにできる限りの力を注いだ。
カケルとアスカには、3人の子どもができていた。
第1子は皇子タケル。ヤマトを平定する前に生まれ、難波津の葛城王のもとで、2歳になるまで育った。
第2子は、皇女ヒカル。平城の里でアスカが即位後に生まれ、タケルとは3つ違いだった。
第3子は、皇子マナブ。タケルとは10歳も離れていた。
みな、落ち着いた暮らしの中で伸び伸びと育っている。
カケルと共に、ヤマト平定に尽力した忍海部の男、モリヒコは、畝傍の砦に子らを集め、弓や剣の鍛錬、薬草や土木・治水・家づくりなど様々な事を教えていた。
アスカが即位からしばらくして、ハルカを嫁に貰い、すぐに子をなしていた。いつしか、畝傍のミコトと呼ばれるようになっていた。
ヤマト国が豊かになり、西国や東国との交流も増えるに従い、様々な国造(くにのみやつこ)や連(むらじ)から、推挙された子らが、この「畝傍の砦」に学びに来るようにもなった。その人数は次第に膨れ、かなり手狭になってしまった。
そこで、モリヒコは、カケルに相談し、平城の郷からやや東方にある、森を開いて、子らが学び暮らす場所を作った。ここを「春日の杜」と呼ぶこととした。
ヤマトの再興のために、カケルがそれぞれの里に置いた連(むらじ)たちは、力を合わせて懸命に働き、いずれも大きな里になり、連を助ける若者たちも大きく成長していた。もはや、ヤマト国は何の不安もない理想の国へと発展していたのだった。tobuhino2.jpg

nice!(3)  コメント(0) 

nice! 3

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

Facebook コメント