SSブログ

第2章 難波津編 2-1 旅立ち [アスカケ外伝 第1部]

年儀の会は終わり、それぞれの国主たちは帰路に着く。
西国の人々は、アナト王タマソが操る大船に乗り込んだ。ヨシトもタマソの傍にいた。
「また会おう!」
その言葉が港のあちこちに響いている。タケルたちもヨシトを見送りに出ていた。
ヨシトを乗せた船は、風と潮を読み、ゆっくりと港を離れ、水路を通って内海へ出て行く。
次に、トキオが山背のムロヤと共に、山背の国を目指して出発した。
最後に、皇と摂政を乗せた船が大和川を上っていくのを見届けた後、モリヒト達は、生駒山越えの道で陸路を大和へ向けて帰って行った。
難波津に残ったタケル、ヤスキ、チハヤ、ヤチヨは、それぞれを見送った後、難波津宮に設えられた、離れの館に入った。
「今日から、ここがそなたらの家となる。」
摂津比古に案内された館はこじんまりとしたものだったが、一人に一つの小部屋が用意されていた。中央には、御厨と食堂もあった。
館には、侍女や使いが数人いて、その中に、ヤスとカズもいた。摂津比古が、宿主スミレに二人をタケルたちの世話役に着くよう依頼していたのだった。
大和を離れた時、こんなことになろうとは誰ひとり予想していなかった。だが、心の中ではいずれ大和を出てアスカケの旅をしたいという思いは秘めていた。それが、予想より早く来た。まだ、実感はないが、自分たちは大事な岐路に立っているのだと思い始めていた。
タケルたちはしばらくそのままそれぞれの部屋で過ごした。

ヨシトを乗せた大船は、明石、吉備、伊予を経由して、タマソの本拠地である佐波の港を目指すことになっていた。
「まずは、明石の港を目指す。」
冬間近だったが、中津海(瀬戸内海)は穏やかで、潮の流れに乗って順調に進んでいく。初めて見る中津海の風景、島々が点在し、光輝く海、空と海の青が目に染みる。ヨシトは、タマソの傍に立ち、これから向かう未知の国々に心が躍った。
「どうだ、中津海は?」
とタマソに訊かれたヨシトは、どう返答してよいか言葉が出て来ない。
「この中津海が、大和や難波津と、西国の国々をつなげているのだ。よく見ておけ。」
タマソはそう言い遠くを見た。
順調に船は進み、その日のうちに、明石に着いたヨシトたちは、一旦船を降り、オオヒコの館に入った。明石の港も、難波津に負けないほどの賑わいがあった。館には、船乗りや人夫が集まり、夕餉を摂っていた。
タマソは、オオヒコらと、これからの動きを相談した。
当面は、吉備や安芸の米の様子を調べ、不足をどこから調達するかを決めていくことにした。ヨシトは、佐波の港へ着くまで、タマソに随行して、風待ち港に着くたびに、周囲の郷を回り、米の出来を聞いた。それらを細かく記録し、港ごとの割り当てなど計算していく。年儀の会で、吉備や安芸の苦しい様子は想像していたが、郷ごとに想像を超えるほどのところもあった。
「タマソ様、これは想像以上に厳しいようですね。」
大船の船室で、吉備の様子をまとめながら、ヨシトはタマソに言った。
「ああ・・それほど猶予はなさそうだ。できれば、すぐにでも米を届けてやらねば・・。確か、伊予は余力があるはず。この先の、来島の衆に頼み、米を運んでもらおう。」
タマソの船は、来島海峡を越え、熱田津を目指した。

一方の、トキオは、ムロヤと共に、草香の江を船で渡り、山背川を上って、山崎津に向かう。その先には、山背の国の中心となる、乙訓の郷があった。
「出雲の事を知りたければ、しばらく、我が郷で暮らすと良いでしょう。」
ムロヤはそう言うと、息子であり、乙訓の郷の長をしているヒロヤを引き合わせた。ヒロヤはトキオより一回りほど年上で、数年前から、ムロヤに代わり、乙訓の郷を治めていた。
「父は、出雲国と大和国を繋げる重要なお役目に専念したいと申され、この郷は私が長をしております。この先、私がご案内いたします。」
まずは、ヒロヤに随行して、乙訓の郷を回った。
「我らは、出雲の大国主を敬うとともに、八百万の神を大事にしております。」
ヒロヤの言葉通り、乙訓の郷には、あちこちに祠が置かれている。山の神、水の神、火の神、土の神、木の神、米の神、ありとあらゆるものに神が宿る。家の中にも、幾つも棚があり神が祀られている。郷全体で、朝と夕にお祈りをしている。
ある日の夕餉の際、ヒロヤはトキオに言った。
「獣にも神は宿っておりますゆえ、むやみに殺生はしません。我らが必要な数だけとしております。ですから、大和の方には粗末と思われる食事かと思いますが、お許しください。」
「いえ・・大和でも同じでございます。春日の杜では、万物に命がありむやみな殺生は禁じられております。御心配には及びません。」とトキオは答えた。
しばらくして、ヒロヤは、トキオを連れて、山背の国を見て回った。
乙訓の郷から東には、大きな湖があった。皆、「巨椋池(巨椋池)」と呼んでいたが、池と呼ぶにははるかに大きかった。巨椋池へ注ぎ込む宇治川を上り、瀬田に入ると近江の国がある。山背の国は山に囲まれ、郷の多くは山間から流れ出る川沿いや谷あいに点在していて、米作りには向かず、麻や絹等の布作りが主な産物だった。
時折、南の山を越え、大和から、山背で作られる布を米と引き換えるための者がやってくる。また、近江の国からも、米を布と引き換えるための者が来ていた。山背の国は、大和や近江、難波と通じる重要な場所だと判った。
4-2船.jpg
nice!(0)  コメント(0) 

nice! 0

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

Facebook コメント