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クマのぬいぐるみ [LOVE&PEACE]

国境の、青い空が広がる麦畑に囲まれた小さな町。
少女は、茶色のクマのぬいぐるみを、両手に大事そうに抱きかかえていた。それは、父からもらった誕生日のプレゼント。
父は、仕事で国内外を飛び回り、家に居ることは少なかった。だが、休みが取れると、一日中、彼女の傍に居て、世界の様々な街や人々、食べ物や景色の話をしてくれる。少女は、父の話に目を輝かせて聞き入っていた。

だが、父は今、ここには居ない。

朝早く、突然、轟音と地響きで目を覚ました。
彼女の母親が、引き攣った顔で、カバンに荷物を詰めている。
すぐに逃げないと命がない。少女は、クマのぬいぐるみを抱え、母親とともに、地下シェルターに逃げ込んだ。
地下シェルターには、すでに、大勢の人が逃げ込んできていた。皆、じっと座り込んで不安げな表情を浮かべている。まるで、葬儀の最中の様に、口を噤んで、じっと耐えている。
少女は、母親の胸に抱かれる格好で、大人たちと同じように息を殺して動かずにいた。
爆音が響き、天井が揺れる。
少女は、ここで、何が起きているのか判らなかった。
外の光が差し込まない地下シェルターには、ところどころに、ランプが灯されている。
今、何時なのだろう。
朝早く、ここへ逃げ込んで、どれほど時が経ったのだろう。
ふっと母親の両腕の力が抜けた。疲れ切っているのか、母親は眠ってしまったようだった。
少女は、母親の腕から抜け出し、クマのぬいぐるみを抱えたまま、地下シェルターの中を歩いてみた。
地下シェルターには、随分、大勢の人が居た。皆、壁にもたれかかるようにして蹲っている。多くの人は、母親と同じように、ようやく訪れた静けさの中で眠っているようだった。
少女は、ところどころにあるランプの灯りを頼りに、シェルターの中を歩き回った。
少女と同じくらいの小さな男の子もいる。
母親の腕に抱かれた赤ちゃんもいる。
壁際には、疲れてしまって、毛布に横たわるおばあちゃんの姿もあった。
少女は、クマのぬいぐるみを抱えたまま、防空壕の中を歩いていく。
ふと、振り返ってみた。
母親はどこにいるのか、少し不安になり、振り返った。じっと動かない人々の中で、彼女は母親の姿を見失ってしまった。
歩いてきたとおりに戻れば、きっと母親の許へ帰ることができる。そう信じて、彼女は踵を返した。皆、俯き、沈黙している。
もう、母親の許へ着くはずだった。だが、母親の姿が見つけられない。このまま、会えなくなるのではないか。ふと、そんな考えが浮かぶ。同時に、大粒の涙が零れた。
恐ろしい沈黙の中、彼女は、声を出す事ができず、歯を食いしばり、母親の姿を探す。ここに居たはず。そう、あの赤い鞄は母が持ってきたもの。しかし、そこには母の姿はない。
彼女は、クマのぬいぐるみをぎゅっと強く抱きしめる。僅かだが、父の匂いを感じた。
少女は、母親が持ってきたはずの鞄の傍に立ち、クマのぬいぐるみを強く抱きしめ、母親が戻るのを待った。
暫くすると、母親が少女の歩いた方向とは反対側から慌てて戻ってきた。そして、少女を強く抱きしめた。母親も、目を覚まして少女の姿が見えないことに不安を感じ、探しに行っていたのだった。
再び、少女は母親の胸に抱かれ、安心して目を閉じる。少し、うとうととした時、大きなサイレンが地下シェルターの中に響く。
母親は、少女を強く抱きしめる。
ドーンという音が響き、天井の欠片が、ぱらぱらと落ちて来た。
誰かが、ここに居たら危ない、と叫ぶ。
シェルターに居た人々は、僅かな手荷物を抱え、出口へ走った。
少女と母親は、慌てて逃げる人々に圧されて、しばらく、身動きが取れなかった。
再び、轟音が響く。
地下シェルターのどこかが崩れたようだった。少女と母親のところを、砂埃の混ざった強い風が一気に吹き抜けていく。
砂埃がおさまると、何故か、陽の光が見えた。シェルターが壊れ、穴が開いたのだろう。その方角には、多くの人が逃げていた。きっと多くの人が命を落としたに違いないと、母親は思っていた。だが、このまま、ここに居てもおそらく助からないにちがいない。
母親は、少女を抱いて、光がさしている穴から外に出ることを決心した。鞄を抱え、少女の手を引いて、母親は光の射す方へ向かう。壊れた壁だろうか、大きなコンクリートの塊の下敷きになっている人影があった。辛うじて命を取り留めた人が立ち上がり、母親と少女のように、外に出ようと動く人もいる。
コンクリートの塊を幾つか乗り越え、何とか外に出る。
午後の日差しが照っている。
今朝まで、穏やかだった町が、ほんのわずかな間に、無残な姿に変わっている。
白い壁と赤茶色の屋根の家が、綺麗に並んでいた通りは、瓦礫の山となっていた。あちこちから煙が上がっている。近くにあった劇場も、大屋根が落ち、元の姿が判らぬほど破壊されていた。
母親は、とにかく、町から離れることを選んだ。
そして、郊外へ続く道を少女の手を引いて歩いた。同じように、街を逃れてきた人の列ができていた。
見上げると、青い空が広がっている。
少女は、母親の手を強く握り、ただ黙って歩いた。
しばらく行くと、隣町へ繋がる広い道路に出た。ここから、隣町までは広い広い畑が広がっていた。
青い空と金色に輝く麦畑。時折通り抜ける風に、麦の穂が揺れる。
穏やかな風景がどこまでも続いている。
少女はこの風景が好きだった。
あの轟音と地響き、無残に壊された家や劇場、あれはいったい何だったのだろう。
幼い少女には、なにが起きたのか理解できなかった。
不意に、母親の足が止まる。
まっすぐに延びた道路の先を見ると、大きな戦車が列をなして向かってきている。カーキ色の軍服に身を包み、手に自動小銃を持つ兵士の姿も見えた。
逃げて来た人々は、咄嗟に、麦畑に身を隠した。
少女も母親に手を引かれ、すぐに、身を隠した。
通り過ぎる戦車の上には、見覚えのある3色の旗が掲げてあった。
少女はふと、抱きかかえていたクマのぬいぐるみを見た。ぬいぐるみの右足にある、小さなタグにも、同じ色の3色のマークがついている。
父が誕生日にくれたクマのぬいぐるみと、戦車の上の旗がどうして同じ色なのか、少女には理解できなかった。
少女は、母親の手を引き寄せる。振り返る母親に、クマのぬいぐるみのタグを見せた。
母親は、何も答えず、少女を強く抱きしめ、声を殺して泣いた。

戦車の列は続いている。少女の父は、今、向こう側にいる。

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