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1-2 自由 [マニピュレーター(シンクロ:同調)]

収容所のゲートを出た後のことを、マリアは考えていなかった。
あの忌まわしき収容所から脱出した事で目的は達したからだった。だが、早晩、自分が居なくなったことに気付いた収容所は、追いかけて来るに違いない。今度、捕まればもっと厳しい生活になるはずだ。何としても、逃げなければならない。だが、どこへ行けばいい?幼い時ここへ連れて来られ、ここがどこなのかも判らない。
陽が落ち周囲は暗闇が広がり始めた。
マリアは暫く、施設のゲート前に接続している道路を歩いた。遠くに明かりが見える。その道はあの明かりに続いているように思えた。
10歳の少女が、暗闇の道をとぼとぼと歩いている。
ゲートのあった方角から車が来ると、追手ではないかと茂みに身を隠す。そうやって、マリアは明かりの灯る街まで辿り着いた。
街の入り口には、大きなガソリンスタンドがあり、煌煌と明りを灯していた。マリアは柱の陰に隠れてしばらく様子を見ている。
施設からの追手ではなさそうな人物が居ないか、用心深く様子を探る。暫くすると、古いセダンに乗った老夫婦がやってきて、ガソリンを入れた。あの二人は施設の人間ではない。そう確信したマリアは、身を隠しながら、古いセダンに近付き、目を盗んで後部座席に入り込んだ。
やがて、老紳士がガソリンを入れ終えて戻って来た。そして、何も言わず、ゆっくりと発車させた。白髪の老紳士、助手席には奥さんらしい老婦人。二人の間にこれといった会話もなく、夜の道を走っていく。
街の灯りを抜けて、1時間ほど走ると、郊外の農場に着いた。
老紳士がゆっくりと車をガレージに入れる。何も言わず、老婦人はドアを開けて車を降り、家に入っていった。
老紳士は、トランクを開け、何個かの紙袋を抱える。そして、後部のドアを開けた。
「おや?君は誰かな?」
老紳士は穏やかな口調だった。
驚いているはずだが、全くそうは聞こえない。
ただ、目の前にいる少女の正体を知りたいという感情しかないように感じた。マリアはどう答えてよいか判らず、身構えたまま黙っている。
老紳士は、マリアの全身を隈なく見て言った。
「お嬢ちゃん、裸足で歩いてきたのかい?痛くはなかったか。さあ、おいで。」
老紳士はそう言うと、マリアに手を伸ばした。老紳士の手がマリアの肩に触れる。その瞬間、マリアは、老紳士の意識の中へ入り込んだ。
マリアは、悪意を全く感じない意識空間に居た。温かい空間だった。施設に居た時、そういう意識空間を持った人間には遭遇したことはなかった。皆、どこか冷たく、何か意図をもってマリアを見つめている。まるで、実験のために集められた動物を見るような、そんな意識ばかりに触れて来た。中には、蔑むような、忌み嫌うような感情さえ感じていた。だが、この老紳士からはそんな感情は微塵も感じられない。
「あなた?何してるの?」
不意に声が聞こえた。老婦人が、家の窓から老紳士に声を掛けたのだった。
マリアは、老紳士の意識から抜け出した。
「ああ、今行く。」
意識が戻った老紳士は、そう返事をすると、荷物を持って、マリアを連れて家に入った。
リビングに入ると、老婦人がマリアを見て少し驚いた表情を見せた。
「あら、その子は?」と聞かれ、老紳士は「マリアだ。遊びに来たようだ。」と答えた。
マリアは、老紳士の意識に入った時、マリアという名前と、近所に住んでいる子どもだという事を植え付けていた。
「え?マリア?」
老婦人は初めて聞く名前に少し戸惑っている。
マリアは、ゆっくりと老婦人の前に行く。
「マリアです。」
マリアはそう言うと、老婦人の手をそっと握った。
そして、老婦人の意識の中に入り込む。
老紳士と同様に、悪意を全く感じない意識空間。老紳士と同じだった。ただ、何か深い”悲しみ”のようなものを抱えているように感じた。その理由までは判らなかった。マリアは、老紳士と同じように、近所に住んでいる子どもだという事を植え付けた。
マリアは手を放す。
「あら、そう・・もう遅いから、今日は泊っていきなさい。お腹空いていない?」
老婦人はそう言うとキッチンに向かった。
暫くすると、大きな皿を抱えてダイニングに現れた。
おそらく、老夫婦が夕食に食べたものの残りだろう。大きな皿にラザニアが半分ほど残っていて、テーブルについたマリアの前に、老婦人が取り分けて並べた。
「お口に合うかしら?」
初めて見る料理だった。だが、温かくいい香りがする。マリアは無心で食べた。その様子を、老夫婦は見守っていた。
その日は、食事のあと、シャワーを浴びて、老夫婦の家の2階の部屋にある小さなベッドでゆっくり休んだ。
翌朝、リビングに行くと、ソファの上に何着かの洋服と何足かの靴が並んでいた。
「孫娘のために買ってあったんだけど、もう要らなくなったの。マリアちゃんにちょうどいいんじゃないかって引っ張り出してきたんだけど・・どう?」
マリアは、施設に居た時、収容所の囚人が来ているような白い衣服しか身につけた事がなかった。施設の職員たちはほぼ白衣であったため、目の前にある色とりどりの衣服は初めて見た。マリアは、今まで感じた事の無い感情を感じていた。それは、子どもとして当然感じるべき”喜び”の感情だった。
「さあ、朝ご飯にしましょう。その後でね。」
老夫婦は、温かい眼差しでマリアを見ている。
朝食をとっている時、壁にかかっている写真に目が留まった。
「あの写真は?」
マリアが、老夫婦に訊く。
二人は、少しだけ目を合わせ小さく頷いた。そして、老婦人が少し寂しげな表情を浮かべて答えた。
「娘夫婦と孫のジェニファーよ。」
リビングに並んでいた洋服はおそらく、ジェニファーのために用意されたのだということは明らかだった。
「事故でね・・。」
夫人はそれ以上は口にしなかった。
老婦人が言葉に詰まったのを見て、老紳士が口を開いた。
「運が悪かったんだよ。二月ほど前、ここへ遊びに来る途中、フリーウェイで事故に巻き込まれたんだ。三人とも亡くなった。ジェニファーはちょうどマリアと同じくらいの歳だった。あの服や靴は、ジェニファーへのプレゼントで用意したものだ。目にするのが辛くてしまっておいたんだが、マリアちゃんが着てくれれば、嬉しんだが・・。」
人の死がそれほど悲しいものだという事をマリアは初めて知った。いや、そうではない。まだ物心ついたばかりの頃、自分の中にも同じような悲しみの感情があったことを思い出した。あの”悲しみ”は何だったのか。記憶はぼんやりとしていてはっきり思い出せない。だが、強烈な”悲しみ”の感情を持ったのは間違いなかった。
ふいに、老婦人がマリアの手を握った。マリアは意図せず、老婦人の意識の中へ入ってしまった。
そこは悲しみで満ちていた。そして、ジェニファーの笑顔があちこちに浮かんでいた。封じ込めていた想い出が溢れているようだった。
老婦人が涙を流している。それを見て、老紳士がマリアの手を握っていた夫人の手を握った。マリアは一気に二人の意識と繋がってしまった。二人は同じ”悲しみ”を抱いている。そして、二人は、マリアに救いを求めていた。ジェニファーを亡くした後、ようやく、封じ込めていた”悲しみ”がマリアによって開かれてしまった。
「マリア、しばらく家にいてくれないか?」
老紳士が穏やかな口調で言う。だが、意識の中では、それは紛れもなく叫びの感情だった。


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