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11日目⑨48体石仏 [琵琶湖てくてく物語]

白髭神社を出てちょっと不思議に思ったことがあったので調べてみた。神社の周辺に、国道161号線とは別に、細い道があり、小さな集落になっていた。
ちょうど神社を取り巻く形になっていて、もしかしたらこれが古い街道ではないか。調べてみると案の定。大正時代までは、湖岸を走るような道はなく、幅1間程度(2m)の細い「西近江路」があっただけで、神社を鈎型で取り囲む路がそれである。さらに、神社前は、すぐに湖岸になっていて、ここまでの道のりで幾度も見てきた堰(石垣)があったようだ。今よりもずいぶん水位が高かったようだった。
そこから再び、161号線を歩いていくと、「いにしえ西近江路」の石碑があった。山へ上がっていく道だ。看板に「四十八体石仏群」とある。(ここはこれまでにも幾度も来たことがある)
緩い登り坂を歩き、木々の合間から琵琶湖を眺め、鬱蒼と茂る森になったあたりで「四十八体石仏群」が姿を見せる。周囲には墓地が広がっている。説明文を読むと、「室町時代後期、観音寺城城主の佐々木六角義賢が亡き母の菩提を弔うために、対岸にあたるこの地へ是器物を建立した」とあった。ただ、この記録は、のちの調査で、さらに100年以上さかのぼった時代の記録にもあったとのことで、建立の本当のところは不明になっているようだ。
いずれにしても長い年月の間に、48体あった石仏は、2体が行方知れずになっていて、13体は大津坂本の慈眼堂に安置され、この地に残っているのは33体。風雨にさらされ、損傷が進んでいるものが少なくないが、石仏にしては顔かたちが変わっている。笑顔ばかりではなく、神妙な顔、口を尖らせているもの、ユーモラスなものが多い。皆さんも一度足を運んでみられると良い。何か癒されるものがある。
石仏と言えば、西近江七福神巡りをした時に、安曇川町田中にある「玉泉寺」でも同様のものを見た。こちらは「五智如来石仏」で、「四十八体石仏」と同じ石仏石工集団が作ったものとされている。確かに作りは似ていた。表情も豊かだった。その奥には、六観音菩薩と六地蔵菩薩の石像もあった。こちらは小ぶりで造形も細かかった。この「玉泉寺」は聖武天皇の時、行基が開いた古刹だそうだ。ただ、火災にあって一時は廃寺となるほど荒廃したものを、田中城城主が再興したと伝わっていた。そのためか、寺の外観は、石垣が組まれていてちょっと城のようにも見える。
「四十八体石仏群」では、春になると蕨が一面に芽吹く。ここ数年、時期を見てはここを訪れて、新芽の蕨摘みをしているのだが、先般、サルの軍団に遭遇してしまった。墓地の一番高いところに、ボス猿が座っていて、墓地を取り巻く椿の花をサルたちが無心に食べていた。私たちが近づいても、一向に動く気配はなく、気づくと、周囲にかなりのサルがいたので早々に立ち去った。特に危害を加えることはないだろうが、それでも野生動物である。何かの拍子に襲い掛かってくるかもしれないという恐怖を感じた。
「四十八体石仏群」を過ぎると下り坂になり、再び、161号線に合流する。そこから先、勝野に入る道に分岐しているので、そちらへ向かう。近江路である。
しばらく、古くからの町並みを歩く。道路沿いに、大きな石組があるので、かつてはここまでが琵琶湖岸だったことが分かる。すぐに、左手に「乙女が池」が広がっている。乙女池は、もともと内湖の一つである。
万葉集でもこの地は謳われていて、そのころは「香取の海」と呼ばれていたそうだ。さきほどの「四十八体石仏群」があったあたりは「三尾が崎」と呼ばれ琵琶湖に突き出していて、その北側に「香取の海(湾)」があり、その外れに「勝野津(港)」があったそうだ。やはり、万葉の時代には、船が重用されていたようで、おそらくこの辺りは大いに賑わっていたのだろう。
今、乙女池は静寂の中にある。そして、その北側には「大溝城跡」がわずかに残っている。

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